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2019年4月28日 (日)

吉田文憲、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の授業

4月17日

吉田文憲さんから久しぶりに、急な電話でのお誘いががあり、一ツ橋の大学院の『銀河鉄道の夜』の授業におじゃました。

いきなりだったので『銀河鉄道の夜』の本も準備できなかった(うちの本棚のどこに入っているのか、すぐに捜せない)。ばたばたと出かける。

会ってすぐ、なぜ今までずっと音沙汰なく急な連絡になったのか、昨年の今頃のパラボリカの森島章人『アネモネ・雨滴』展では森島さんが吉田さんをずっと待っていたのになぜ来てくれなかったのか聞いてしまった。すごく体調が悪かったという。

国立の大学通りの花壇にはチューリップが大きく開いていた。大学の庭の普賢象の八重桜も、もう開き過ぎてぽしゃぽしゃしていた。

大きな教室の端っこにひっそり座っていればいいのかと思っていたら、大学院のゼミで、13人しかいない、とこの時に聞いた。うち10人は中国と韓国からの留学生さんだという。

扉を開けたら狭い部屋のひとつしかない長机に学生さんたちが集合していたので、すごく緊張して恥ずかしかった。吉田さんの詩集の装丁を何度かやっている画家だと紹介されて頭を下げる。

私は学生時代に「ゼミ」という(膝を突き合わせて意見を言い合うような)経験がない。あったとしたら緘黙気質の私は(頭の中では言いたいことがあっても)絶対に自分の意見を言えなかったし、たいへんな苦痛だったと思う。

ゼミのメモ。

『銀河鉄道の夜』、二章の「活版所」と三章の「家」を読んだ。

物語の舞台状況をなす構成要素の一つひとつに象徴的意味を読み解いていくといった内容だった。

坂道が物語の重要なトポス。

川・・・天の川と地上の川が一体化、互いに映し合う。宮沢賢治の故郷、花巻には北上川がある。北上川は北から南に流れる。

橋・・・境界領域

牛乳・・・ミルキーウェイ。ジョバンニが病気の母親のために牛乳(ミルキーウェイ)をとりに行く。牛乳を手に入れるところで物語が終わる。

空からの雨、雪・・・浄化。『永訣の朝』では、死んでいく妹を見送る儀式となる。

星祭、青い灯・・・死のイメージ。誰が死ぬのか。青と白。黒い服。

活版所・・・昼なのに電燈がついている。薄暗い。

「うたう」「よむ」(近代的「よむ」は黙読。それ以前は「うたう」と同義)「かさねる」・・・呪術を帯びた動詞を3つ。(活版所では「輪転器」が回っているので)ものすごい音がしているはずなのに音が消えた世界。

「活版印刷で本をつくるとすごく字が締まるんですよ」というような吉田さんの説明。

吉田文憲さんの詩集『原子野』の装丁を私がした時、板橋区の活版印刷所に行った。当時、活版印刷の会社は日本で2か所しかない、と社長さんに言われたような記憶がある。「いつまでたってもグーテンベルグ」というような標語が掲げてあったような。その時に私が撮った活版の活字の写真がある。

Skappan-2

Skappan

Skappan4

粟粒ほどの活字・・・貧困、愛しさのイメージ。

ジョバンニの家・・・母親は布をかぶって休んでいた。アニメでも母親の顔が出て来ない。母親はすでに死んでいる、と解釈する人もいるとのこと。

姉・・・母親との会話の中に出てくるだけ。

父親・・・会話の中にしか出て来ない存在。しかし物語の核心。お父さんがいないために苛められている。

ラッコの上着・・・当時、ワシントン条約で禁止されている。小さなラッコで上着をつくるのも不自然。

カムパネルラ・・・女性的な名前。釣鐘。鎮魂的。セリフが無い。声を与えない。銀河鉄道が走りだすまで空白(何を考えているかわからない)。

ザウエルという名の犬・・・犬とは距離がない。(物語上の今、カムパネルラとは距離がある。「あのころはよかったなあ」と推定小5くらいの子どもが言うところが残酷。)

天気輪の柱の丘・・・泣きながら街を見下ろす。遠くてはっきり見えないところで、カムパネルラがおぼれた子(しかもそれはいじめっ子のザネリ)を助け、自分は力尽きて沈んだ。

ボートに乗れる人の数は限られている。タイタニック号と同じ。究極の選択。

「ほんとう」・・・平仮名。「ほんとうは何かご承知ですか。」何がほんとうなのか、わからない。「分ける」ことができない。不可知論。

吉田さんはこの授業で『風の又三郎』をやりたかったそうだが、『銀河鉄道の夜』のほうが世界的に多くの人に読まれているということで、『銀河鉄道の夜』になったらしい。

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私は久しぶりに聴講したので、聞き漏らさないように集中することですごく疲れた。

5時にゼミが終わった。三鷹で食事。

私の次の本についての話をざっくりとした。

「誰に文章をいただいたと思う?」と尋ねて「まったく見当がつかない」と言われ、「G先生。」と言ったら「ええ?!」とやはりものすごく驚いてくれた。びっくりしすぎて言葉が出ない、と。

とりあえず、そのことを喜んでくれたことがとても嬉しかった。お祝いということで、私は新潟産のお酒を飲んだ。

文学というものはすべてが「収奪」なのかもしれないが、私は政治的主張に絡めたこじつけや物言えぬ当事者から「収奪」したアートは嫌い、それなら言葉による概要書で充分だし、そこにアートはいらない、と言ったら、「あなたはほんとうに昔から変わってないね。いや、悪い意味じゃなくて、いい意味で。」と言われた。

 

 

 

 

 

 

 

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