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2019年5月27日 (月)

ワイエス展 Andrew Wyeth / モロー展 Gustave Moreau

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/japanese-style-paintings-1-膠絵/

5月16日

PCが修理から戻って来た(早い)。今回はスイッチボードを交換したそうだ。

1度めの修理は液晶画面。2度めはメインボード。3度めはスイッチボード。ほとんど全部交換されている。

・・・

午後から「アンドリュー・ワイエス展」(四谷3丁目の愛住館)へ。

私が展覧会を見に行くことは、もうほとんどないが、オルソン・ハウス・シリーズのデッサン(スケッチ)、習作を見るため。

私がワイエスを最初に好きになったのは中学生の時。見学に行った小さな美術研究所の階段の壁に貼ってあったポスター。いきなり強烈に痺れさせられた枯草の絵がワイエスだった。

枯れた植物を描きたい、と激しく思った。

今思えば、単なる枯草ではなく、あるなまめかしい数本の枯れた草が描かれていることに感応したのだろう。

日常の片隅にあって、誰にも見つめられることのない、異様で、静謐で、儚い、不思議な、捉えがたいもの。

そういうなにかをかいてみたい、と私も思った。

前回、ワイエスを見たのは1995年の東急文化村。そうとう大規模な展覧会だった。

その時の図録の高橋秀治「ワイエス――その内なる世界」のなかに、ワイエスの「正直私は自分を抽象画家だと思っているのです」という印象的な言葉がある。「別の核がある――明らかに抽象的な、気持ちの高まりという核。」

また高橋秀治が1993年11月にチャッズ・フォードを訪問した際に、ワイエス自身から、彼が評価しているのはマーク・ロスコである、と聞いた、という記述がとても興味深い。

そしてさらに、1945年の父親の不慮の死から、「悲哀の仕事」、「喪の仕事」がワイエスの大きな「核」を成していたとする。

「さらされた場所」(1965年 テンペラ)について、ワイエスは、「このもろく、からからに乾燥した骨のような家が、この世から消えていくのもそう遠いことではないと感じていた。私はこの世のはかなさというものに人一倍敏感である。すべては移り変わる。決して立ち止まりはしない。父の死が私にそう教えてくれたのである。」と述べている。

今回の展示にあった「納屋のツバメ」(「さらされた場所」の習作)のほうが、私にははるかに本画よりもいいと感じられた。

ツバメも、数本の草も、本画よりもずっとなまめかしく束の間の生を震えていて、白く光る木の壁の眩しさが哀しい。

私は「悲哀の仕事」、「喪の仕事」しか絵に求めていないのだと思う。

つねにすでに失われている儚い生命と交わす、ある幅をもった一瞬。

世の中に溢れるうるさくてはしゃいだアートが眼に入ってくると、そうした大切な時間が、そのなかにある追悼の静けさをふくめてまるごと蹂躙され収奪されるようなストレスを感じる。

会場の隅で上映されている映像で、ワイエスの生涯と、丸山芸術の森の須崎勝茂代表がワイエスのこれらの習作を買い入れた経緯などを見ることができた。

それによると、欧米では習作、スケッチ(デッサン)の価値はすごく低いそうだ。

私は現代美術として、習作、スケッチ(デッサン)と本画を分けることはするべきでないと思っている。

そしてむしろ私がいつも惹かれてしまうのは、スケッチ(デッサン)、習作そのもののほうだ。

5月23日

「ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち」(パナソニック汐留美術館)へ。

爛熟したもの、暗い中で煌めく謎や、強烈さ、重さと、繊細さの共存を見たかった。

私がパリのモロー美術館に行ったのはもう20年以上も前。癌の手術をして、少し回復してきた頃だ。

回転式に収蔵されている夥しい素描や水彩、その密度に激しく感動して興奮した思い出がある。

モローが住んでいた家の暗く妖しい雰囲気と、部屋にびっしり詰め込まれている、到底自分の身体で受け止めきれるはずもない巨大な重量の絵を一気に見ている奇妙な眩暈があり、何とも言えない強烈な美術館だった。(その強烈さは、邸内にしつらえられた階段の螺旋形をメタファーとしていた。)

今回の「刺青のサロメ」のエジプト、インド、そのほかの装飾からの文様の習作が面白かった。中にバッタがいた。

この絵は、あとから描き加えられた白と黒の細い線が、下の暗い色の輪郭とずれて宙に浮いているのがすごく斬新だ。すべてが亡霊のように輪郭をブレさせて見せる。残酷さ、重苦しさと同時に浮遊する感覚。

「一角獣」は、絶賛されたとおり、きらきらと透ける繊細な絵の具の使い方がすごかった。一角獣の無垢な愛らしさのせいなのだろうか、この絵には人を慰める力がある。

この絵はクリュニー中世美術館の「一角獣を連れた貴婦人」に影響を受けているそうだが、私が去年見て来た大好きな絵、ヴェローナのサンタナスタシア教会のピサネロの「聖ゲオルギウスと王女」の王女の服装とも関係があるらしい。

今回の展示は描きかけのままの油彩がけっこうあった。が、それは途中なのであって、端的にとらえるためにほかの部分は描かれていないスケッチ(デッサン)とは違う。途中であっても繊細で生き生きした幻想が動き出しているものと、そうでないものの差がけっこうあった。

モローの水彩をもっと見たかった。

 

 

 

 

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