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2020年9月 3日 (木)

『イメージの奥底で』 ジャン=リュック・ナンシー / 絵画

9月3日(木)

イメージ・判明なるもの

イメージとは聖なるものである――

(略)

「聖なるもの」は「宗教的なもの」とたえずその語義を混同されている。

ところが宗教とは、結びつき(他者ないし自己自身との結びつき、自然ないし超自然なものとの結びつき)を形成しそれを維持する祭式の遵守なのであって、それ自体としては、聖なるものへと収斂されるべきものではない(宗教はまた信仰へと収斂されるべきものでもない。そもそも信仰はまた別のカテゴリーである)。

聖なるものは、これに対して、分離されたもの、距離をおかれたもの、切り取られたものを意味する。

(略)

聖なるものが聖なるものであるのは分離によってのみであり、それに関しては結びつきなどないとも言える。それゆえ、厳密に言えば、聖なるものの宗教はないことになる。

聖なるものは、おのずから遠ざかったまま隔たりを保持しつづけるものであって、それとの結びつきをもつことができないものである(あるいは極めて逆説的な結びつきのみをもちうるものである)。

したがってそれは触れることのできない(接触しない触れ方によってのみ触れうる、と言ってもよい)ものである。

語義の混乱から抜け出すために、私はそれを判明なるもの〔le distinct〕と名づけたい。

(略)

判明なるものとは、その語源を遡れば、様々な標徴(マーク)によって分離されたもののことである(この語は、刻跡(スティグマ)、鉄ごてによる烙印、刺傷、切り込み、入墨へと送り返される)。

それは、ある描線(トレ)が引き抜き、隔てておきつつ、この退隠(ルトレ)の描線によって標記もするところのものである。

また判明なるものとは触れることのできないものである。というのも我々がそれに触れる権利をもたないからではなく、それに触れる手段を欠くからでもなく、弁別的な特徴線(トレ・ディスタンクティフ)が、もはや触れることの次元にはないものを分離するからである。

したがって、触れてはならないものを分離するというのは正確ではなく、むしろ蝕知しえないものを分離するのである。

しかしこの蝕知しえないものは、みずからを隔ておく描線(トレ)のもとで、またみずからの描線によって、あるいはみずからを隔てるこの散逸の描線(ディストラクシオン)によって姿を現す(したがってこのような弁別的(ディスタンティフ)な描線が、つねに芸術にかかわる事柄なのではないだろうか、というのがここでの最初にして最後の問いであるだろう。)

(略)

判明なるものは、不分明なものに対して跳びかかり、不分明なもののうちへと跳び込みながら、そこに繫ぎ止められることがない。

(略)

あるがままの姿で、だがその弛緩した力ではなく緊迫した力をもって、また、拡散した力ではなく溜められた力をもって、その内奥は露呈される。

(略)

判明なるものは、つねに異質なものであり、連鎖を解かれたもの――繫ぎ止めることができないもの――である。

判明なるものが我々のもとに運んでくるのは、したがってそれが連鎖を解かれてあることという猛威そのものであり、この猛威は近接性によって鎮めることもできずそのようにして距離をおかれたままでありつづける。

それはまさしく触れるか触れないかの距離におかれ、肌に触れんばかりの緊迫した距離を保っている(à fleur de peau)。

(略)

(精華〔fleir〕とは、もっとも繊細な部分、表面であり、前方に残り続けるもの、ただそっと触れる〔efflrurer〕しかないものである。すべてのイメージはすれすれの状態〔à fleur]、あるいはひとつの花〔fleur〕である)。

――――『イメージの奥底で』 ジャン=リュック・ナンシー(西山達也・大道寺玲央 訳 以文社)より

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鬱金香(チューリップ 膠絵 部分)

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