8月18日(日)
西新宿の生家へ。
M・Mさんはきのうから彼の実家に工具などを取りに帰り、今日は重いスーツケースを下げたままホームセンターに買い物に行ったそうで、夕方に西新宿に戻ってきた。
私はそれまで整理しなければならないものを見ながら待っていた。
やっと戻ってきたばかりでお疲れのところ、「大きな絵をパネルから剥がして丸めましょう」と言われる(これは前々から相談していた)。
まずはパネルからはがれ落ちてだらしなく皺になったままの100号程度の雲肌麻紙の絵を、玄関の壁にぴったりあてて、霧吹きで裏に水を吹きかけて埃汚れを洗い流し、ティッシュで拭きながら伸ばした。
しっとりして絵が伸びたらゆったりと丸める。
次に一番大きな絵(150号くらい)のパネルを仮縁からはずし、パネルの側面を水で濡らし、糊をふやかして雲肌麻紙をゆっくり剥がしていく。
何十年ぶりかに絵と対面。「明るい絵だから幼稚園に寄付したらいいんじゃないですか?」とM・Mさんに言われ、若描きが恥ずかしくて
「もう忘れていて一部分だけ覚えてた。捨ててもいいんだけど・・この絵について何も聞かないで。恥ずかしくて死んだらどうするの?」
などと言いながらくるくると絵を丸める。
きれいに丸まり「すごくうまく剥がせた!」とM・Mさん。
この絵のことを何十年も私は考えないように、思い出さないようにしてきた。
二十歳の頃になぜこんなに明るく「構成した」絵を描いていたのか、その頃の私の内面は地獄だったはずなのに。
私の性質の特徴である「過剰さ」が微塵も出ていない。
歳をとった今、思うことは、おそらく相当な抑圧があったということ。
どんなに心の中が真っ暗、真っ黒でもその暗さを絵に滲ませることができなかった。
暗さをそのまま絵に出すという凡庸な「自然な発想」が思いつかないほど抑圧されていた。
内面の表現(捌け口)にならないとしたらなんのために絵を描いていたのだろう。
いや、私は、絵とは自分の内面を表現することからむしろ遠いものと知っている。
他人に絵を見せられて「この作品には作者の内面の暗さが表現されています」などと説明されたところで、そのために感心することはまずない。
内面を「表現する」のではなく、その時、その瞬間の自分の身体(それは「物」「物体」であってももはや「内面」などと指呼できるものではない)を通って(「表現」ではなく)「分泌」されたものでなければ、逆説的だが「自分の絵」と言えないのではないかと思う。
この絵はあらゆる意味で思考停止し、自分で自分の身体、生命力を放棄している感じがある。
その当時の日本画科のやりかたで、小下図を教授に見せてOKが出たら、大下図を見せてOKをもらい、大下図を本紙に写してから絵の具を使っていくという方法だったこともある。このやりかたは私にはまったく合わない。
ついでに言えば公募展のために大きな絵を描かなくてはならないことも、団体やグループに属することも、私には合わない。
今の私はなんの下図も下描きもなく思いついたままにその瞬間、瞬間の手作業を重ねて、一つの絵の中にいくつもの時間層ができるように描いている。
その大作は、おそらく描いている時にも恥と苦痛を嫌というほど感じていたのに、居心地の悪いまま続けられた。
自己防衛するためにやったのではなくて、まるで自虐のために明るい絵を描いていたようだ。それくらい頭がおかしい。
今、思い起こせば、もう絵をやめたいと思っていた。自分とは関係ない世界とも。自分(の大切なもの)を大切にすることができなかった。
自分の中にしかない記憶をたどれば、二十歳の冬に父の大きな借金が発覚し、それを負わされた。
だからこの大きな絵の仕上げ時期は人生最悪の地獄の始まりの時期だ(いろいろなバイトをがんばっていた)。
それ以前の美大時代を振り返っても、私はとても楽しかったとは言えない。
予備校のほうが一心に努力すればそれだけ報われる感覚があってむしろ楽しかった。
美大の日本画科に現役合格した直後に、とんでもないところに来てしまったと思った。
正直、多感で希求の強い18歳の私には、そこは自由な才能を伸ばす活気のある場所には見えなかった。
血縁もコネも金も自己アピール能力もない自分は最初からはじかれていて関係ない世界だったのに、気づかずにのこのこやってきてしまった、としか思えなかった。
まわりの楽しそうな同級生には言えなかった。この苦しみを相談できる人がいなかった。
18歳の初夏、何にも喜びを感じなくなり、死にたいと思ったことがあった。
鬱だったのだろうがいくつかのバイトはちゃんと続けていた。
その場所の外の世界には私を理解してくれる人や、本を読んでいて話が通じる人がいたのかもしれないが、そうした人たちに巡り会える前に狭い場所での絶望が強すぎた。
さんざん苦しんで大学に通えなくなりバイトに打ち込んだりしていた。母を悲しませたくなかったので課題はちゃんと提出し、稼いだお金は母に渡していた。
自分の心にわりと正直に絵を描けるようになったのは、父の借金を背負ったままなんとか美大を卒業して就職し、正社員としての仕事とバイト2つを掛け持ちして肉体を酷使し、地獄本番を味わってからだ。
そして私の甲状腺癌が発症したのはこの頃(癌が発見されたのは10年後で、その時はステージⅣ)。
しかし私は絵をやめることができなかったし、今は若い頃に比べてはるかに絵との向き合い方も、ものの見かたもはっきりしている。
私にとって大切なもの、それは「内面」とはいえない、あらゆる説明の「外」にある「過剰さ」。
観念や夢想の世界ではなく「外」に「在る」ものと強烈に出会える身体だ。
・・
M・Mさんは2階の部屋に子供の頃の本だけきれいに残してくれていた。
広辞苑や国語辞典などの辞書たちも残っていて「しのびなくて捨てられませんでした」と言われた。
汚くて危険でたいへんな天井裏の掃除をしてもらうことになってしまったことがすごく申し訳ない、と言ったら
「僕、掃除が好きなんですよ」
「え!・・・??」
汚くて危険な掃除が好きな人なんているの?すごく汚いところをきれいにすることに充実感があるということ?
そして彼自身は建築資材が置いてあった埃だらけの古畳の上に何年もほってあった古い布団を敷いて寝ている。我が身が汚れることは厭わない。
他人の何十年もほったらかしにしていた汚い場所のゴミの整理や掃除をしてくれたら、そのたいへんさに見合う代金を要求するのが当然だと思うが、そういう感じでもない(代金はあとでまとめて請求すると言われていて、まだ粗大ごみ料金などの必要経費しかもらってくれていない)。
彼も何かと闘っているのだと思う。