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2024年8月

2024年8月26日 (月)

国立がん研究センター中央病院 検査結果

8月20日(火)
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東銀座駅前の萬年橋の上にある築地川銀座公園の植え込み。雑草が素敵。

紫の花はヤナギハナガサ(サンジャクバーベナ、バーベナボナリエンシス)。白い花は姫女苑。ギンヤンマが飛んでいた。

国立がん研究センター中央病院へ。まず採尿と採血。

採血で途中で針が抜けてしまい、差しなおすことになった。

若い看護師さんに何度も謝られ、かわいそうなので「だいじょうぶです。ぜんぜん平気です」と励ます。

検査結果が出る前に、先にY本先生に呼ばれて体調を聞かれた。

「体調はいいです」

「それはよかったです。浅井先生のところには行っていますか?」

「行っていますが次の予約は9月だったと思います」

「浅井先生は希望されればまだまだ定年退職されずに診察を続けられると思う」と言われた。そうだといいけれど。

1時間くらい待たされて内科のH先生に呼ばれる。

今日の血液検査の結果も良好。

ビルビリンとクレアチニンの値が少し高いが、肝臓は正常。

アルブミンが基準値より低い。ここ1か月くらい胃酸が逆流気味であまり食欲がないのでやや栄養不足。

そして1か月前に採血したサイログロブリンの値は880まで下がっていたのでほっとした。

今は検査のある火曜日の朝までレットヴィモ(1回120g)を飲み、火曜の夜、水曜の朝、水曜の夜、木曜の朝と丸2日休薬してまた5日飲む、を繰り返している。

今日まで市販薬を買わないで我慢していたので、とにかく胃薬をもらいたくて

「塩酸テプレノンをお願いします。それと胃酸を抑える薬でH2ブロッカー系ではないものをお願いします」と言うと、

「はいはい。ほかには?嗽薬は?」

「この前の甘いのではなくて、最初の青いアズレンの甘くない方のを。それと口内炎用のアフタッチをお願いします」

そして会計の受付をして椅子で処方箋を確認すると、なんと嗽薬とアフタッチしか記載がなくて、肝心の胃薬が抜けている。

もう一度2階のF外来の受付に申し出て、H先生に処方箋を書いてもらう。

帰る前に気づいてよかった。

今、飲んでいるレットヴィモに耐性がついた時に、残るはレンビマしかなく、それを拒否するか、と考えてしまうのだが、

とにかく今はレットヴィモが効いていて副作用も(顔の浮腫みはあるが)そんなに酷くなく仕事できているので、先のことは考えず今の時間を大切にして今の幸せを十分に感じたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2024年8月24日 (土)

学生時代の大きな絵、絶望と抑圧 

8月18日(日)

西新宿の生家へ。

M・Mさんはきのうから彼の実家に工具などを取りに帰り、今日は重いスーツケースを下げたままホームセンターに買い物に行ったそうで、夕方に西新宿に戻ってきた。

私はそれまで整理しなければならないものを見ながら待っていた。

やっと戻ってきたばかりでお疲れのところ、「大きな絵をパネルから剥がして丸めましょう」と言われる(これは前々から相談していた)。

まずはパネルからはがれ落ちてだらしなく皺になったままの100号程度の雲肌麻紙の絵を、玄関の壁にぴったりあてて、霧吹きで裏に水を吹きかけて埃汚れを洗い流し、ティッシュで拭きながら伸ばした。

しっとりして絵が伸びたらゆったりと丸める。

次に一番大きな絵(150号くらい)のパネルを仮縁からはずし、パネルの側面を水で濡らし、糊をふやかして雲肌麻紙をゆっくり剥がしていく。

何十年ぶりかに絵と対面。「明るい絵だから幼稚園に寄付したらいいんじゃないですか?」とM・Mさんに言われ、若描きが恥ずかしくて

「もう忘れていて一部分だけ覚えてた。捨ててもいいんだけど・・この絵について何も聞かないで。恥ずかしくて死んだらどうするの?」

などと言いながらくるくると絵を丸める。

きれいに丸まり「すごくうまく剥がせた!」とM・Mさん。

この絵のことを何十年も私は考えないように、思い出さないようにしてきた。

二十歳の頃になぜこんなに明るく「構成した」絵を描いていたのか、その頃の私の内面は地獄だったはずなのに。

私の性質の特徴である「過剰さ」が微塵も出ていない。

歳をとった今、思うことは、おそらく相当な抑圧があったということ。

どんなに心の中が真っ暗、真っ黒でもその暗さを絵に滲ませることができなかった。

暗さをそのまま絵に出すという凡庸な「自然な発想」が思いつかないほど抑圧されていた。

内面の表現(捌け口)にならないとしたらなんのために絵を描いていたのだろう。

いや、私は、絵とは自分の内面を表現することからむしろ遠いものと知っている。

他人に絵を見せられて「この作品には作者の内面の暗さが表現されています」などと説明されたところで、そのために感心することはまずない。

内面を「表現する」のではなく、その時、その瞬間の自分の身体(それは「物」「物体」であってももはや「内面」などと指呼できるものではない)を通って(「表現」ではなく)「分泌」されたものでなければ、逆説的だが「自分の絵」と言えないのではないかと思う。

この絵はあらゆる意味で思考停止し、自分で自分の身体、生命力を放棄している感じがある。

その当時の日本画科のやりかたで、小下図を教授に見せてOKが出たら、大下図を見せてOKをもらい、大下図を本紙に写してから絵の具を使っていくという方法だったこともある。このやりかたは私にはまったく合わない。

ついでに言えば公募展のために大きな絵を描かなくてはならないことも、団体やグループに属することも、私には合わない。

今の私はなんの下図も下描きもなく思いついたままにその瞬間、瞬間の手作業を重ねて、一つの絵の中にいくつもの時間層ができるように描いている。

その大作は、おそらく描いている時にも恥と苦痛を嫌というほど感じていたのに、居心地の悪いまま続けられた。

自己防衛するためにやったのではなくて、まるで自虐のために明るい絵を描いていたようだ。それくらい頭がおかしい。

今、思い起こせば、もう絵をやめたいと思っていた。自分とは関係ない世界とも。自分(の大切なもの)を大切にすることができなかった。

自分の中にしかない記憶をたどれば、二十歳の冬に父の大きな借金が発覚し、それを負わされた。

だからこの大きな絵の仕上げ時期は人生最悪の地獄の始まりの時期だ(いろいろなバイトをがんばっていた)。

それ以前の美大時代を振り返っても、私はとても楽しかったとは言えない。

予備校のほうが一心に努力すればそれだけ報われる感覚があってむしろ楽しかった。

美大の日本画科に現役合格した直後に、とんでもないところに来てしまったと思った。

正直、多感で希求の強い18歳の私には、そこは自由な才能を伸ばす活気のある場所には見えなかった。

血縁もコネも金も自己アピール能力もない自分は最初からはじかれていて関係ない世界だったのに、気づかずにのこのこやってきてしまった、としか思えなかった。

まわりの楽しそうな同級生には言えなかった。この苦しみを相談できる人がいなかった。

18歳の初夏、何にも喜びを感じなくなり、死にたいと思ったことがあった。

鬱だったのだろうがいくつかのバイトはちゃんと続けていた。

その場所の外の世界には私を理解してくれる人や、本を読んでいて話が通じる人がいたのかもしれないが、そうした人たちに巡り会える前に狭い場所での絶望が強すぎた。

さんざん苦しんで大学に通えなくなりバイトに打ち込んだりしていた。母を悲しませたくなかったので課題はちゃんと提出し、稼いだお金は母に渡していた。

 

自分の心にわりと正直に絵を描けるようになったのは、父の借金を背負ったままなんとか美大を卒業して就職し、正社員としての仕事とバイト2つを掛け持ちして肉体を酷使し、地獄本番を味わってからだ。

そして私の甲状腺癌が発症したのはこの頃(癌が発見されたのは10年後で、その時はステージⅣ)。


しかし私は絵をやめることができなかったし、今は若い頃に比べてはるかに絵との向き合い方も、ものの見かたもはっきりしている。

私にとって大切なもの、それは「内面」とはいえない、あらゆる説明の「外」にある「過剰さ」。

観念や夢想の世界ではなく「外」に「在る」ものと強烈に出会える身体だ。

・・

M・Mさんは2階の部屋に子供の頃の本だけきれいに残してくれていた。

広辞苑や国語辞典などの辞書たちも残っていて「しのびなくて捨てられませんでした」と言われた。

汚くて危険でたいへんな天井裏の掃除をしてもらうことになってしまったことがすごく申し訳ない、と言ったら

「僕、掃除が好きなんですよ」

「え!・・・??」

汚くて危険な掃除が好きな人なんているの?すごく汚いところをきれいにすることに充実感があるということ?

そして彼自身は建築資材が置いてあった埃だらけの古畳の上に何年もほってあった古い布団を敷いて寝ている。我が身が汚れることは厭わない。

他人の何十年もほったらかしにしていた汚い場所のゴミの整理や掃除をしてくれたら、そのたいへんさに見合う代金を要求するのが当然だと思うが、そういう感じでもない(代金はあとでまとめて請求すると言われていて、まだ粗大ごみ料金などの必要経費しかもらってくれていない)。

彼も何かと闘っているのだと思う。

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2024年8月21日 (水)

伊藤ゲンさんの個展

8月14日(水)
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高円寺駅近くの伊藤ゲンさんの個展へ。

伊藤ゲンさんは日常の身の回りの小さなものたちを内側から光り輝くように描く画家だ。

M・Mさんも一応お誘いしたら来てくれるそうで、ギャラリーで待ち合わせ。私は自転車で行く。

ゲンさんは私の顔を見たら「ああ!」と笑顔で出迎えてくれた。

前回のゲンさんの個展の時、ちょうど抗がん剤の副作用が酷くて出かけられなかったことを詫び、お土産を渡す。

一昨日、生家で見つけた私の幼稚園の頃に使っていた鈴とカスタネットと、うちにあった古いキューピー人形。

「モチーフに使ってください」と言ったら「うわ、よくまだ残ってましたね。描きますよ!」と喜んでくれた。

「最近やっと『実録連合赤軍』(若松孝二監督)を見ることができました。とてもよかった。思ってたよりすごくいい映画だった。ゲンさんも山のシーンで出てたでしょ。すぐにわかった」と言うと

「ちょこっとね。あれは僕が関わった若松さんの映画の中でも一番の映画です」と。

ゲンさんは山岳キャンプの別荘を作ったそうで「実際は仙台で撮影したんですよ。本物の建物を設計図通りに再現して」と。

「台詞もすごくリアルで、ほとんど本当の台詞なんでしょ?」

「全部ほとんど実際の人の証言記録から再現した台詞です」

「最後のあさま山荘でのあの若い子の台詞だけは・・・」

「あれだけはフィクションです」

「やっぱりね。そうだと思った」

それから唐十郎さんが亡くなってとても残念でした、と言う話など。

ゲンさんは元唐組の役者さんで、唐十郎さんをとても大切に思ってらっしゃる。

最後に「今、私の生まれた西新宿の築78年の家を彼が修繕してくれているんです。」

「西新宿?すごいですね。どの辺ですか?」

「ただの住宅街なんですけど。新宿中央公園の北西の端っこのあたりで、西新宿5丁目駅から4分くらいです。昔、十二社という花街だったところです。

それで、まだできるかわからないんですけど、1階の一部屋をギャラリーにできたら・・ゲンさんそこで個展やってくれませんか?」

と尋ねると

「やりますよ!福山さんの家がギャラリーになるならやりますよ!オープニングでやらせてください!お客1000人呼んでやりますよ!」

と言われて感激。

「(ゲンさんにお伺いを立ててみるというアイディアが)思ってたよりうまくいったね。あなたにはたいへんだろうけど・・」とM・Mさんに笑う。

しかし想像してくれているより辺鄙な場所で、ゲンさんにがっかりされるかもしれないし。本当に人が呼べるようなものにできるのかまだわからないし・・。

ギャラリーにできるのかどうかはまだ夢物語だが、ときめきによって免疫を上げるために、自分の理想のかたちのいろいろを想像してみる。

できれば廃屋のレトロな感じを生かして、私の大好きな古色、錆、ペンキのひび割れと剥落などが響き合う空間にできたら嬉しいのだけど。

M・Mさんはもうひとつのほうの仕事ですごくお疲れの様子。

M・Mさんには果物ゼリーとうちにあった缶詰などを渡した。

 

 

 

 

 

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2024年8月19日 (月)

西新宿の生家 天井裏の煤とネズミの糞の掃除

8月12日(月)山の日の振り替え休日

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(天井が無くなって穴から太陽が差し込んでいる屋根の内側)

西新宿の生家に行くと、M・Mさんは防塵マスクをして屋根裏に上って掃除機をかけていて、私が階段を上りきるあたりで

「2階に来ちゃだめですよ!今危険だから!」と叫んだ。

78年間蓄積した恐ろしいほど大量の埃とネズミの糞の粉が、大きく破られた天井から2階の床にもたくさん落下して、あたりは真っ黒になっていた。

私は2階の遺物を整理しようと思っていたのだが無理そうなので、1階で古いギターの錆びた弦を全部ナイロン弦に張り替えていた。

チューニングしようとしたが、ナイロン弦がどんどん伸びてなかなかチューニングが合わない。

1時間以上してからそっと2階の様子を見に行ったら、M・Mさんはほっかぶりをして奥の部屋の天井に掃除機のホースをあてて、板の隙間から埃を吸っていた。

今日も36℃。2階や天井裏は息が詰まるほど暑い。

紺色のTシャツが隅から隅までぐっしょり濡れていて、振り返った顔には玉の汗がびっしり。

その姿は神々しいとしか言いようがなく、「お疲れ様」とか「ごめんなさい」とか私が言うのもとんでもなく失礼な気がして、言葉に詰まった。

「同じ人間とは思えない・・・」と正直な言葉が出た。

誰も見ていないところで、ひとりでなぜそんなにたいへんな仕事を一心にやってくれているの?

当初は屋根の上から修繕すればいいと思っていたのが、屋根の内側の腐った木の部分を剥がして修繕しないとだめだとわかり、それをやるには78年間、誰も手を付けたことがない(もちろん私はそんなところに考えが及んだこともない)屋根裏の煤の徹底的な掃除が必要になったということらしい。

「全部掃除したら下に行きます」と言われ、そのあとM・Mさんは2階の床から階段の煤を雑巾で拭いていた。

全身煤と汗まみれになったM・Mさんは(ガスが通っていないので)水風呂を浴びて髪の毛を洗い、カセットコンロで炊いた土鍋ご飯を食べていた。

昨日は5時間、今日は3時間、天井裏の煤の掃除をしたという。

「これで難所は越えました」と。つまり天井裏の煤の掃除がほかのどんな作業よりもたいへんだということ。

今まで建築関係の仕事はいろいろやってきたそうだが、「天井裏の煤の掃除は?」と尋ねると「初めて」と言われて、もう申し訳なさ過ぎて私はどういう態度をとったらいいのかわからない。

食べた後、M・Mさんは玄関のベニヤの壁を手でバリバリと剥がし始めた。

ベニヤを剥がすと黒いふかふかした断熱シートが貼ってあり、その中ほどに「うわ!汚いゴミがある!・・・ネズミの巣みたい!」と言われて「キャーー!」と思わず恐怖の叫びが出てしまった。

(私は衛生(の知識)上、ネズミが怖いだけで、ネズミという生き物自体は殺したくない。)

ちぎれたビニールのふわふわしたカスのようなものと大量の埃を、彼は手で掴み取ってゴミ袋に入れているので、私は埃が空気に散らないようにゴミ袋の口を広げて壁の穴に押さえつけるように掲げて両手で持っていた。

今週は私の生家の仕事ではないもう一つ通っている仕事のほうが忙しくて「からだが持つかわからない」と彼は言った。

辞めた人がいるのでその分、出勤しなければならないと。

私の生家のほうはいつまでにやってほしいという期限があるわけでもなく、ほっておいて休んでくれていいのだけど、彼には彼のやりかたと予定というものがあるらしいので私はあまり深くは詮索しない。

本当に私はただあいた穴の部分に上から板で接ぎあてするくらいだと想像していて、こんなに大がかりな作業になるとは夢にも思っていなかったので、何が起こっているのかいまだに把握できていない。

なぜ、ここまでたいへんな作業をしてくれているのだろう?という不思議さに胸が痛んで仕方ないのだが、おそらく彼は上っ面でなく、根本からやりたい人だということ。

自分が納得できるように仕事することが彼にとって大切なのだろう。

「天井裏に上って、この家は最近の家とは違う、「ほぞ」の組みかたに微妙な隙間があって家が揺れながら振動を吸収するようにできていて、昔のすご腕の大工さんだから作れた、もう今の職人ではこういう家は建てられないと思う」と言われた。

また、あえて微妙な隙間を作ることによって風通しがよく考えて作られていて、だから台所の床板など腐っていないのだという。

ボロボロの木の外壁も杉だと言われた。新しいものの見かたを授けられて感激してしまう。

昔、有名な芸者町だったという十二社(じゅうにそう)の黒塀や料亭はなにひとつ残っていない。

旅館一直もだいぶ外見が変わってしまった。ホテルニュー寿も無くなっていた。大好きだった十二社の乳銀杏(十二社の池があった頃から見守ってくれていた巨樹)まで切られて無くなっていた。

民家より料亭のほうが多いくらいだったこの辺りの古い家はすべて新しい建物に変わり、懐かしい友達も知り合いも皆、いなくなってしまった。

ぽつんと取り残された廃屋の福山家が、なぜか今外見を変えずに甦ろうとしている。

ここまでなんとかつながっている命と出会いのおかげで、私は今、思いもつかなかった不思議な体験をさせてもらっている。

 

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2024年8月16日 (金)

西新宿の生家 リサイクル訪問買い取り経験(怖かった)

8月8日(木)

M・Mさんが高知で会って来た友達の写真を見せてくれた。短髪で日焼けして、ものすごい上腕筋と厚い胸をした人。

「すごい筋肉。彼、こんな体形でマッチョじゃないの?」と聞くと「マッチョじゃないですよ。彼はムサ美の油科出てるんです」と。

その人も農業をしているそうで、やはりM・Mさんのまわりは私が今まで知っている美大卒の人とは全く違う人たちが集まっているみたい。

それととても古い石橋と小さい紅色のカニがいる写真。私は地味な色のサワガニしか見たことがなかったので驚いたが、高知では特にサワガニが赤いらしい。

「あなたは個人主義的アナキストなの?」と聞くと「え・・と・・」と首をかしげて考えていて、定義はよくわからないようだった。「でもそういう生き方をしている人同士で助け合えたらいいと思ってます」

・・

古い小説などの本を探しているというリサイクル買い取りの勧誘の電話が昨日、ちょうどあったので、今日2時半に西新宿の生家のほうに来てもらうことにした。

ネットなどでそういうリサイクル買い取りの怖い評判(強引に貴金属を漁られる)は知っていたけど、実際、どんなものが経験してみるのもいいと思った。

2時半に鑑定のIさんという男の人が一人で来た。「玄関の外ではなく玄関の中で」と何度も言われる。

「店舗はどこにあるんですか?」と尋ねると「銀座」と言われてびっくり。最初の勧誘の電話の女性は確かもっと郊外にあると言っていた。

紐でくくってある本の山の写真をスマホで撮って、どの山を持って帰れるか本部に問い合わせている。

その間「今キャンペーン中で」と言われ、こういうものを3点出せば1万円渡せるというプリントをくれた。

しかし結局、メッキでもいいから金のついたネックレスがないかとしつこく聞かれる。重い金色の黒蝶貝のぶら下がったネックレスがひとつあって、それが金メッキで金を分離できるそうで、その場で計って30gくらいだった。

「あと5gあれば5000円出します」と何度も言われたけど無い。結局、これは取っていかなかった。

黒い箱に入っていたご贈答品の古いお酒(ブランデー?)があったので見せたら、それは1000円と言われた。

2階の天井裏に上がって掃除してくれていたM・Mさんに「あのお酒、1000円だって。どう思う?」と聞いたら「渡しちゃだめですよ。あれネットで1万円以上の値がついてたんだから。」と言われて

「渡したくないって。だからやめます」と言ったら「そのお酒は2000円出します」と言われたけど断った。

「貴金属は売りたくないものはもう自宅に持って帰ったんでここには無いです」と言ったら「いつですか?」「きのう」「最近じゃないですか!今日、どんなに遅い時間でもいいですからご自宅のほうに行っていいですか?」とギラギラした目で言われた。

「この後も仕事なんで、無理です」とお断りしたが、何度も「今日、行っちゃだめですか?」と聞かれる。

結局、昔、母が持っていた象牙のネックレス2本で100円(「象牙は売れないから」という)、淡水パールのネックレス100円、古い腕時計(「部品を取り出すしかない」という)4個で300円。

あとは汚れていない文庫本(バーコードがついていない古いもの)を鞄一杯持って帰って500円、合計1000円くれた。

これは値がつかない、これも値がつかない、とガンガン言われてぎらぎらした眼でたかられて、その人が帰った後、すごく嫌な気分になって胸がざわざわした。

まあ、値がつかないと思っていた黒蝶貝のネックレスが実は金メッキだったことがわかってよかった。それも合わせて貴金属は高円寺の査定してくれるところに持って行こう、と思った。

・・

M・Mさんは、「天井裏のネズミの糞を吸い取るのに昔の掃除機の共通で使えるゴミパックやフィルターを買わなければいけない、それと水道の蛇口の緩みを直す部品がいるので中野のホームセンターまで行って来ます」と言って自転車で出かけて行った。

私はそのあいだせっせと写真や書類の整理とゴミ分類をやった。

M・Mさんが1時間ちょっとで帰宅し、その頃、私はやっとこさ大きな箱いっぱい溜まっていた思い出の遺物を空にすることができた。

M・Mさんは、1階の水道の蛇口は中が壊れているようでうまく直らなくて、もう一度ホームセンターに行かないといけないという。

買い取りのせいですっかり精神が疲れてしまい、ぼんやり見ていたら「そんな心細そうな顔で見ないでください」と言われた。

彼は19日から22日まで伊豆に伐採の仕事に行ってくるという。「お土産になんかいいものを・・木材を持ってこられると思います」と。

8月10日(土)

訪問買い取りが来る前にしっかり自宅に持ち帰っていた貴金属類(昔、母が私にくれたもの)を高円寺のジュエリーヤマモトさんに持って行って見てもらった。

山本さんは以前にデザインのバイトをさせていただいたり、委託していただいたり、たまにおしゃべりしたり、親しくしていただいているかた。

金やプラチナの今の値段を調べて、きちんとひとつひとつ計って値段を出してくださった。

なんのデザインもない地味な指輪が数万円。自分の予想をはるかに超えている。

「象牙のネックレス1本50円とかひどすぎる。1000円でも2000円でも欲しいっていう人はいるはずだよ。今は売れないって言ってるけど売れるから取って行ってるんでしょ。」と言われ、

本当に本だけしか出さないでよかったのに、私は古いネックレスや腕時計などなんで出してしまったんだろう、ばかだったと今更思った。

出したくないのに出してしまったこと、これがすごい精神疲労の原因。自分が圧迫に負けたということ。

最初に電話が来た時に「本を求めている」と言われて「本ならあります」と言って約束したのに、そのほかのものを持って行かれるのは、もし売るほうが嫌がっているのならば確か違法だったと思う・・・

「取り戻せるなら取り戻したらいいよ」と山本さんに言われて、クーリングオフの電話を掛けた。

今日からお盆休みに入っていると言われたが、受け付けてくれた。

 

 

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2024年8月11日 (日)

西新宿 紫雲荘、青雲荘、緑荘、成子天神

8月7日(水)

M・Mさんは1日から4日まで地方に行っていて、帰京してからは私のボロボロの生家に住み込んで作業してくれている。

まだ畳は汚い(粗大ゴミに出す予定)し、どこもかしこも埃っぽいのに「すごく静かでよく眠れた」という。

彼がいま読んでいる本『HAPAX II-1 脱構成 (HAPAXシリーズ)』と『現代思想2021年5月臨時増刊号 総特集=陰陽道・修験道を考える』が置いてあって度肝を抜かれる。

全然アガンベンの話なんかしないのに・・。普段、本を読んでいるそぶりを見せない、本当に不思議な人。

父の持っていた山ほどの本の中で、昔の箱入りの文学全集だけは「これは捨てない方がいいですよ」と言って2階にとっておいてくれた。

1冊1冊埃を拭いて陽に虫干しして、本当に仕事が丁寧。

今日も私はちまちまとしたものをどんどんゴミ袋に詰めたが、脳に負担がかかって相変わらずハイスピードではできない。

やっと開通したばかりの水道で彼はいろんなものを洗濯し、私が昔履いていたらしい(忘れていた)ズタズタに敗れたビッグジョンのジーンズまで洗って「これは補修すれば3500円くらいで売れる」と言う。

なんやかんや作業して疲れたので休憩。

昔、税務署に行く細道に、古い素晴らしい木造アパートが並んでいるところがあったはず。紫雲荘とか瑞雲層とか、名前も素敵だった。そこに行ってみたいと言って、夕方、散歩に出る。

十二社通りを北へ。この通りは昔、藤子不二雄A(我孫子素雄)先生がよく「パーマンの日々」に書いていらした何軒も中華屋があった通り。

今は昔の商店たちはほとんど残っていないが、私が子供の頃からあった「むつみや」という味噌専門店と、小さな布団屋さんが残っていた。

成子坂のほうは不気味なほどピカピカの高層ビルの群れになっていて、どこを歩てるのかわからない。

西新宿7丁目、8丁目、ここらへんは20年近く前に、私がよく古い木造アパートの写真を夢中で撮っていた散歩コース。

高校生の頃からよく見ていた大きな胡桃の樹が健在だったのにびっくりした。トタン屋根を丸くぶちぬいて胡桃の樹を伸ばしてくれている。
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青い大きな果実が生っているのに感動して見ていたら、向かいのビルの警備員さんから「胡桃?まだ青いよ。9月か10月になると落ちてくるよ。」と声をかけられる。

税務署通りに続く細いまっすぐな道は並行して何本かあり、古いアパートのあった道はどれだか思い出せなくて、ぐるぐると周る。

道を3本くらい周ったところにあった!紫雲荘が・・!潰されていなかった!すごく感動。

このアパートは数年前、「べしゃりぐらし」(間宮祥朗と渡辺大知が主演したお笑いコンビの話)というドラマの中に出てきたのを見て、まだあったんだ、と感激して以来だ。

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紫雲荘のほうはまだ住んでいる人がいるみたいで嬉しい。

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青雲荘のほうはもう廃屋ぽい。ここが崩されてしまうのが残念。
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植え込みにぽつんと1本、可憐な夏水仙が咲いているのにも泣けてきてしまう・・・。
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私の記憶では、ほかにも「瑞雲荘」と「東雲荘」が平行に並んでいた。その部分は新しい建物になってしまっていた。

そしてその斜め向かいに見えるのは・・・これも私が昔、大好きでよく撮っていた「緑荘」ではないか!まだあったんだ・・・

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もう人は住んでないようだが、思いもかけず懐かしい友達に会えたような気持ちで嬉しくてじーんとしてしまった。

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それから成子天神がどこにあったか、また迷って、やっと見つけた。

大きな銀杏の御神木。青い実がいっぱい落ちていた。柑橘の樹の若葉を一枚ちぎって爪で潰すと胸の奥までしみいる甘酸っぱい蜜柑の匂い。

成子天神の中にある富士山信仰の小山(溶岩がカラスウリやノブドウ、ススキ、あらゆる夏草で覆われている)にのぼる。

意外と高い。頂上に座って北の空のカオス雲がピカッ、ピカッと光るのをぼんやり見ていた。

ポツッ、ポツッと雨が来て、それから本降りになった。日傘を雨傘にして生家に戻る。

荷物を持って地下鉄で帰ったら、駅で耳をつんざく土砂降りになっていて、傘を差しても太腿のあたりまでずぶ濡れ。

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2024年8月 6日 (火)

西新宿の生家 / 自由な生き方

8月1日(木)35℃

本などの遺品整理のために西新宿の生家へ。

二階の天井の板がさらにМ・Мさんによってはずされていた。

長年積もったネズミの糞が酷かったのを片手で持った掃除機で吸いながら、片手で板を剥がしたそうだ。
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屋根の下についている板など白く腐っている部分を剥がして補強するらしい。もろに穴が空いている下に雨漏りを受ける盥を置いていた。

Sさんが彼女の生家の庭の樹を伐って使っていいと言ってくださったことについて、M・Mさんから、樹は考えて伐らないと土砂崩れなども引き起こしかねないので、自伐を考えるグループのようなところに相談してやったほうがいい、と助言があった。本当に何でもよく知っている。

父の残した大量の本を分類。捨てるものをどんどんゴミ袋に詰めた。

途中、疲れてしまい、休憩をかねて散歩へ。今日は少し風があった。

久しぶりに神田川へと続く暗渠を歩く。イチジク、ナツメ、カンナ、セージ、ローズゼラニウム。

古い建物はほとんど無くなっていたが、ひとつだけ中学校の同級生が住んでいた小さなアパートがまだ残っていた。私はその同級生にちっちゃなアマガエルを捕まえてプレゼントしたことがある。

映画『あゝ、荒野』(寺山修司原作、菅田将暉/ヤン・イクチュン主演)のロケに使われた八百屋は閉まっていた。

何本かイチジクの樹があって、「イチジクの葉を干してお茶にしたらすごくいい甘い香りがしておいしかった。実と同じ香りがするんですよ」とM・Mさんが言った。

羽衣湯の後ろにある小山にのぼった。真夏の真昼間でも緑の陰になっている細い細い坂道。頂上にはタケニグサ、斜面にはカナムグラ、桑。

小山のすぐ前にはうちと同じくらい古い木の家がまだあった。

それから角筈方面へ。

私の出た小学校のすぐ裏側。ひとりぼっちでサッカーボールを操る子ども。前方左に都庁、右にパークタワー。
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かつてここには雑多な植物に埋もれた素晴らしい都営角筈団地(昭和28年建設)があった。

M・Mさんは極力お金やものを持たない生活、効率よくお金を稼ぐのではなく意志的に肉体労働をする生き方を追及していること、それが私が彼に感じた直観以上に真剣であることを最近知った。

好きなところに行き、好きな仕事をやって、他人に支配されない、つきあいたくない人とはつきあわない、余計なもののない中で生きる喜びを感じること。

私がピエロ・デルラ・フランチェスカの絵のある教会やフランチェスカの生家に、イタリアの友人に連れて行ってもらって感動したという話をした時に、彼は「自分は画家にはそんなに感動しない。それよりもアッシジのフランチェスコに興味がある」と言った。

それどころか昔「池袋の帝王」と言われていた髪の毛が大きな粘土のように固まった野宿者がいたという話から「それくらいにならないとだめですよね。それくらいになってみたい」と。

彼は古い文学からインド系の思想、神智学、ニーチェやシモーヌ・ヴェイユや、とにかくいろんな本を読んでいる。画家や彫刻家や批評家もよく知っている。

そのすべてがお金や権力や自己顕示などとは反対の方向の生き方へと収斂していっているようだ。

私はこの何十年も、表現の世界で権力欲ではち切れそうな人たち、どうでもいいこけおどしや、技巧だけは卓越している空虚で無感覚な身体を山ほど見てきて、彼のような人に生まれて初めて会うのだ。

ごく狭いジャンルの中で得意げに破壊と創造のポーズをとる人、欺瞞的なパフォーマンスをする人に私は嫌悪と不快を感じていた。

けれど彼は実際に自分の身体で破壊と創造を日々生きているのだ。

彼は私に黙って私の生家の内部とほとんどの家具を大胆に破壊してしまった。私は出自や耐えがたい過去の一部を破壊された気がした。

それはどんなアートよりも私に衝撃を与えた。

同時に彼のように何もかも捨てて生きようとしている人に、私は過去の積もり積もった夾雑物を見られ、身が縮むような恥ずかしさと恐怖を覚えた。

私は自分の生の最後に究極の問いを突き付けられて体験しているようだ。

 

 

 

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2024年8月 3日 (土)

「鬱金香」、Sさんが来られる

Sminako
「鬱金香」(SM 銀箔、膠、岩絵具)

7月25日(木)35℃

私の絵「鬱金香」をご購入くださったSさんが高円寺の私の仕事場に来られた。

Sさんは話し方がとても丁寧な編集者の鑑のようなかた。

久しぶりにゆっくりお話しできてとても楽しかった。

私の西新宿の実家の内部を再構築してくれているM・Mさんについて話すと、Sさんは感動して、Sさんの新潟の生家の敷地に植わっている樹をなんでも切って使ってくださいと言ってくれた。(のちにM・Mさんから、木材は半年以上乾燥させなければならず、いろいろとハイリスクすぎると言われ、でこれは実現不可能とわかった。)

Sさんは高円寺にあまり来たことがなく、帰りに北口の「素人の乱」を見て帰りたいと言われたので、一緒に出掛けた。

古着屋が軒を連ねる商店街を通って高円寺の駅を越え、北中通りへ。

蒸し暑い中、ぽつ、ぽつと雨が降って来た。

今日もとても濃い一日。

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