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2024年12月

2024年12月31日 (火)

『燃ゆる女の肖像』

『燃ゆる女の肖像』(2018)

これは「見ること」「記憶すること」が愛することと同義であること、まさに画家の身体を描いた作品だと思った。

綿密に計算された色彩、線、質感、古色、陰影、選び抜かれた古城とすべて手作りの衣裳、
冷たい海、薄茶色の草原、靄の中の落ち葉、マリアンヌの代赭(赤茶)色のドレスと響き合うエロイーズの深い緑色のドレス、
BGMのない演出が、静かで生々しく感覚に触れてくる(昔の)生活をリアルに感じさせ、
呪文のように同じ言葉が繰り返されて高揚する原始的な劇中歌が、強烈に心臓に迫った。

セリーヌ・シアマ監督がアデル・エネルの役の幅を広げるために書いた脚本だという。
セリーヌ・シアマとアデル・エネルはこの作品の直前まで一緒に暮らしていたそうだ。

18世紀、フランスの孤島。「女性画家」というものが歴史から抹殺されていた時代の女性画家マリアンヌと、望まぬ結婚を控え、肖像のモデルになったエロイーズ(アデル・エネル)との恋。

マリアンヌの眼であり、セリーヌ・シアマの眼でもあるカメラは、海へと急ぐ濃紺色のマントのアデル・エネルの後ろ姿を追いかける。
マントのフードが落ち、風に乱れる金髪と白いうなじ、柔らかい耳があらわれる。
海ぎりぎりの断崖でアデル・エネルが振り向く。青い眼に息をのむ。
画家は愛するのと同じように見つめ、耳の軟骨の形、色、皮膚の質、指の表情、ひとつひとつを眼で記憶していく。

しかし見られていたエロイーズもまた見つめていたマリアンヌの仕草を、表情を、感情をつぶさに見ていたし、
自分が見ていたものを言葉にして相手に返した。
そこにふたりで作っていくものが生まれる。
伯爵夫人が留守にするあいだの、なんのしがらみも制約もない、たった五日間の恋。

令嬢と召使と画家と、身分も立場もないただの女どうしになって遊び、笑い合い、
オルフェウスとエウリディケの物語について語り合う。
なぜオルフェウスは、エウリディケを永遠に失うと知っていて振り返ったのか。

島の夜祭、女だけが焚火の周りに集まり、誰ともなく地の底から湧き上がるようなハミング、繰り返される呪文のようなハーモニーと手拍子。
ニーチェの言葉から発想を得てつくったというこの劇中歌が、情動の高まりに火をつけるその頂点で、エロイーズのドレスの裾に火がつく。

エロイーズは恐怖するでもなく、静かに微笑した顔で焚火をはさんだマリアンヌを見つめ、マリアンヌも見つめ返し、一瞬、時が止まる。
スカートで力強く火を叩いて消してくれた島の女と一緒にエロイーズは砂の上に崩れる。
ふたりの恋に火がついた時の記憶を、別れてからマリアンヌは絵に封じ込める。しかしそれはとても寂しげな絵だ。

残された時間がない激しい恋。
すべてを心にに焼き付け、記憶しようとするふたり。

「思い出してください」というマリアンヌ。
オルフェウスの本の「28ページ」に裸で横たわるエロイーズの身体を小さく写生し、そこに自分の顔をつなげ、エロイーズに残すマリアンヌ。

結婚のための肖像画が完成し、思いを断ち切るように城を出ていくマリアンヌに「振り返って!」と叫ぶエロイーズ。
私は冥府に戻る、あなたは画家として生きて、と思いを込めた純白のローブに包まれたエロイーズ。

必ずマリアンヌは見つけてくれると信じて、結婚してからも、オルフェウスの物語の本の「28ページ」に指を挟んだ肖像をほかの画家に描かせていたエロイーズ。
父の名でしか出品できない展覧会で、絵のなかのエロイーズと再会するマリアンヌ。
マリアンヌの出品していた絵は、冥府に吸い込まれる白い服のエウリディケと、手を伸ばして慟哭するオルフェウスだった。

演奏会で、離れた席にたったひとりで座るエロイーズを見つけるマリアンヌ。
初めて会った時にマリアンヌがエロイーズに好きな曲を教えようと、拙い指でチェンバロを弾いた思い出の曲、ヴィヴァルディの「春」。

エロイーズはマリアンヌを振り返らない。たったひとりで涙を流し、激しく曲に感応しながら、微笑みもする。
それはセリーヌ・シアマの思いに応えるアデル・エネルそのものだ。
ここでしきたりに従順ですべての感情を押し殺していたエロイーズと、奔放に自分の道を突き進むマリアンヌの情動が逆転する。

アデル・エネルは今年、映画界を引退することを発表。「政治的な理由です。映画産業は、絶対的に保守的で、人種差別的で、家父長制的であるから。内側から変えたいと思っていたけれど、MeToo運動や女性の問題、人種差別に関して、映画界は非常に問題がある。もうその一員になりたくない」と語ったという。

 

 

 

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2024年12月30日 (月)

『アデル、ブルーは熱い色』(2013)、『水のなかのつぼみ』(2007)

12月に見た映画のメモ

女性同士の愛の映画を3本見た。
『アデル、ブルーは熱い色』(2013)
『水のなかのつぼみ』(2007)
『燃ゆる女の肖像』(2018)

『アデル、ブルーは熱い色』(2013)

高校の授業でマリヴォーの1700年代の小説『マリアンヌの生涯』を読む少女。
一目惚れとはどういうことなのか。
街なかで短い髪を青く染めた女性(レア・セドゥ)に眼を奪われる。

レズビアンバーでの再会。
袖無しのGジャン、むきだしの腕。
「おごるよ。これ飲んでみて」と差し出されたグラスに口をつけ「酷い味」と言う少女。

高校に迎えに来た女性に吸い寄せられる少女。
レズビアンに対して口汚く非難する女友達。

公園で薄い日差しを浴びて「気持ちいい・・」と微笑むレア・セドゥ。
陽に透ける白い皮膚、思いっきり気だるい、うっとりとした眼、
柔らかく血色のいい唇を少しゆがめて笑うと、きれいな小さい歯の真ん中が少しだけすいている。

レア・セドゥはそのたたずまいが「超自然体」とも称されるフランスの女優で、
『MI4』などのハリウッド映画の中や、ゴージャスなドレスをまとった写真には私は心動かされなかったのに、
化粧なしでさり気ない服装をした時の彼女の引力は凄まじい。
眼の下の隈、眠たげなふた重で空(くう)を見つめる表情、仏頂面、
ちょっとした仕草の何もかもが詩的で官能的。

この映画は、監督だけでなく二人の主演女優が異例のパルムドールを獲ったほど、彼女たちの演技は真に迫っている。
が、レア・セドゥが「あの監督は頭がおかしい」と、のちに批判した事実があり、男性監督(アブデラティフ・ケシシュ)が女優二人を蹂躙した(7分間の過激なベッドシーンを撮るのに10日間もかけた)ことで話題にもなっていたらしい。

それを知ってからベッドシーンや暴力的な諍いのシーンを見ると、女優が気の毒で気持ちが悪くなる。

美大卒業でエマが描きためていたアデルの絵、という設定の劇中画は凡庸だった。画廊に展示された絵、すべてひどいのに人が集まるのがリアル。

『水のなかのつぼみ』(2007)

女性監督セリーヌ・シアマ、27歳でのデビュー作。
水の反射そのもののように鋭利で繊細でキラキラしている。

セリーヌ・シアマはレズビアンであることを公言しているが、この映画は彼女の少女時代の経験を踏まえながらも、創作物として普遍的であるように、時代設定も限定せず、
見る者が誰も身に覚えがあるような痛みに胸が苦しくなるように作られている。

15歳の少女が17歳の華やかな少女に恋をする。
やせっぽちで少年のような主人公のマリー役のポーリーヌ・アキュアールは、街なかで声をかけて抜擢したという。
マリーの真っすぐな思いが、もう少しで成就しそうで何度も裏切られる残酷さ。

シンクロナイズドスイミングをする年上の美少女フロリアーヌ(アデル・エネル)は常に男性たちから性の対象に見られ、同級生の女の子たちからは嫌われている。
フロリアーヌが男の子とキスするのを見るとマリーはこわばった表情で眼をそむける。

フロリアーヌはマリーに少しずつ心を開き、「本当は誰とも寝ていない」と言う。
「これ、あげる」とフロリアーヌに渡された派手なラメの水着を服の上から着て笑いあった日、
ベッドで並んで仰向けに寝て「ほとんどの人が最期に見るのは天井だね」とぽつりと言うマリー。

フロリアーヌが外のゴミ箱に捨てたゴミを素早く拾って持ち帰るマリー。
机の上にフロリアーヌのゴミを広げ、フロリアーヌの齧った青い林檎の芯を齧ってみる。

音と光の喧騒の中でフロリアーヌに誘われて踊り、フロリアーヌの唇が自分の唇に触れる直前に眼を閉じると、
フロリアーヌは消えて、眼を開けるとほかの男と踊っている。
男の車の中でキスされているフロリアーヌを救い出そうと、車の窓を強く叩くマリー。
夜の中を手をつないで走りながら笑い転げ、「たすけてくれてありがとう」とマリーを抱きしめるフロリアーヌ。

フロリアーヌに「あなたに頼みがあるの。普通じゃないことよ。あなたにしてほしいの、私のバージンを男の人がするように」と言われ、「無理よ。できない」と一度は断ったマリーだが、結局、
白地にブルーの花柄の掛け布団をかけて仰向けに横たわったフロリアーヌに寄り添い、布団の奥に手を入れるマリー。
ただ静かに。
フロリアーヌは天井を見つめたまま、少しだけ痛そうに眉をしかめ、すーっと涙を流す。
マリーの表情は動かないまま。このシーンがとても切なかった。

フロリアーヌはまだ愛を知らないし、マリーがどんなに自分を愛しているかもわからない。
「ね、簡単でしょ?」と言われ、自分の唇のまわりにねっとりとついたフロリアーヌの赤い口紅を指で拭うマリー。
高慢なようで壊れやすく、危うく、ひとりぼっちで踊っているフロリアーヌ。
服を着たまま水の上に浮いて天井を見つめ「私にも好きな人がいたの」とつぶやくマリー。

女性監督セリーヌ・シアマの現場はとてもソフトで、やりやすかったとアデル・エネルはインタビューで話している。
男性監督だったら仕事を受けなかったと。

彼女はのち(2019年)に、12歳で演じたデビュー作『クロエの見る夢』での監督クリストフ・ルッジアから3年に渡りセクハラを受けていたことを告発した。

 

 

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2024年12月28日 (土)

GALLERY JUNI-SO HEIDE (ギャラリー十二社ハイデ)のホームぺージができました

12月27日(金)

GALLERY JUNI-SO HEIDE (ギャラリー十二社ハイデ)のホームぺージができました。

https://gallery-junisoheide.jimdofree.com/

私、福山知佐子の生家です。

ハイデと言うのは、ドイツ語で原野、荒野という意味で、英語でヒース、ロシア語でエリカという荒れ野に咲く小さな花の名前でもあり、また、異教徒という意味もあります。

ヤンセン美術館を見にオルデンブルグに滞在した時、「ハイデを見たい」と観光インフォメーションに尋ねて、小さなバスに乗った。

広大なリューネブルガーハイデまでは行けなかったが、そこここに小さなハイデがあるようで、アメリングハウゼンという小さな町までバスに揺られ、途中、小学生たちがわいわいと乗ってきたり、野生のリンゴの木に感動したり、

そして枯れた小さな花々(ハイデ)に埋もれたハイデ(荒野)を歩いた。

ハイデには素朴な蜜蜂の小屋があった。針葉樹の森は湿っていて鮮やかなきのこが生き生きとつやめいていた。

 

劇的に変化した西新宿にポツンととり残されていた築80年近い廃墟の、廃墟感を生かしたままギャラリーにしました。

暖かくなって体調を整えられたら、私も絵の展示をしようと思っています。

興味のあるかたは見に来ていただけたら幸いです。

・・

咽喉が痛くなり、うっかりヨード系の嗽薬を使って失敗。咽喉の傷にしみて激しくむせる。

今日は大切な約束があったのだが、咳が出る限り感染の危険があるので恐縮ながらキャンセルさせていただいた。

年始にいらしてくださると優しいお返事(涙)。

蜂蜜とショウガ入りのカフェインレスアールグレイミルクティ。

以前に病院で出してもらったトラネキサム酸とカロナール。

そして最近はずっと卵を入れたおかゆ。料理を作る気が起きなくて。

前回のがんセンターの診察でサイログロブリンの数値が上がってから、どうしても暗い気持ちがぬぐえなくて、時々心臓がズキンズキン痛くなる。

考えてはいけないとわかってはいても、すごく悪いイメージに囚われて、追い詰められてしまうことがある。

なにかしないと虚無が襲ってくるので、西新宿のギャラリーのホームページ作りを試みようとした。

jimdoではAIビルダー(目的に合わせたテンプレ―トから選んでいく)とクリエイター(すべて自分でやる)があるのだが、AIビルダーは私には最悪に使いづらい。まったく不自由。

とりあえず仮に、一応(気力ないし無理だと思ったのに、意外にも数時間で)できたのだが、「GALLERY JUNI-SO HEIDE 」「ギャラリー十二社ハイデ」で検索しても出て来ない。

そうだった、以前にもやったGoogle Seach ConsoleにログインしてHPのURLを入れ、HTML タグをクリックしてメタタグをコピー・・ヘッダー編集を開いてメタタグを貼る・・ここまではできた。

だけどDNSレコードの所有権の確認がされなくて、TXTレコードをgallery-junisoheide.jimdofree.comのDNS設定にコピーする・・

DNS設定ってどこ?サポートの人は来年の5日までお休み。

とりあえずこのブログからのリンクを何度かクリックしていれば、いつかはクロールが認識してくれるのだろうか。

・・

足利市立美術館の篠原さんからお電話があった。2月まで超忙しいのでメールに返事ができず、電話で、と。来年、コレクション展は無いと聞いてショック。再来年、私は生きて足利に行けるのだろうか?

彦坂尚嘉さんと糸崎公朗さんからもお電話があった。

なんだかんだお気遣いいただいている。とにかく風邪を治さないと。

 

 

 

 

 

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2024年12月24日 (火)

次の本のための絵の撮影

12月23日(月)

カメラマンの糸井さんが私の(次の本のための)絵を撮影していただくのに立ち会う。

大きな絵から順に撮影。

一番大きな50号の撮影には、2つの大きなライトを天井に向けて照らし、天井の反射で撮る。

目視と画像の色が違ったり、線が暗く潰れて見えなくなっている箇所がないかを私がチェック。

一枚撮って、暗いところには近くにレフ板を置いたりしながら調整していく。

銀箔を使っていない作品は一発でうまく撮れた。

銀箔を使っている作品は平均に光が当たってのっぺりしないように、きらきらした質感を出すためにあえて一部だけ強く光らせる場所を決めて、私がモニターを見ながら指示を出す。

50号2枚一組の作品は、1枚ずつ撮影して2枚つなげた時に光が不自然にならないように考えて何度も撮影していただいた。

次に30号の作品。

きのう急に仕上げた銀箔を腐食した作品は、どこの色を一番大切にするかを決めて色の深みや重厚感を出すのが微妙だった。

光を吸収する黒い服を着ている人はエアバブル(プッチンプッチン)を体の前に広げて反射するようにした。

10号の作品は、セッティングをかえ、背景紙に作品を立てて2つのライトを両脇の傘に向けて照らし、その反射で撮る。

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少し暗すぎた部分に白いレフ板を添える。

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最後に一番小さい作品は下に置いて、真上から撮る。この時の照明2つはまた天井に向ける。

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光らせたい部分に使うレフ板には白、金色、銀色があり、かたちもいくつかあった。

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糸井さんにカメラマンの仕事についていろいろ聞いたのだが、大学を出てから大手出版社の下請けでたくさんのカメラマンのアシスタントをし、いろんな撮影のやり方を学んだそうだ。

旅のムックの仕事、結婚式の撮影などでの苦労話も。

片付けの後、すべての機材を台車に載せて駐車場まで運ぶのだが、機材が100アイテム近くあり、とても覚えきれないし、やたらに重いし、ものすごい体力がいる仕事だ。

帰りは糸井さんの車で新高円寺まで送っていただいた。

今日は充実していたので、なんとか死の恐怖から逃れ、虚無を感じずにすんだ。

12月22日(日)

明日、絵の撮影なので、急だが新しく仕上げられる絵は仕上げようとした。

昔の50号の銀箔を貼った上にチューリップを描いていた絵、端のほうが破れてしまったために剥がして30号のパネルに貼り直し、

その上に銀箔を貼り足し少しずつ腐蝕して、ずっと何か月も放置していたものに一気に筆を入れて一日で仕上げた。

さらに銀箔だけ貼って何年も置いていた絵に手を入れて、数時間で2点仕上げた。

夜の12時過ぎまでかかり、気がつけばけっこう疲れていた。

こういう過集中の過労が癌にいけないと浅井先生に言われそうだが、夢中になっている時は癌のことから気がそれている。

絵が描けない時はいくらがんばっても描けない。閃きや衝動は努力でどうにかなるものではない。

だから描ける時は描いたほうがいい。

 

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2024年12月22日 (日)

サイログロブリンの上昇

12月17日(火)

国立がん研究センター中央病院。採血、採尿。

内科のH先生に11月19日採血分のサイログロブリン(甲状腺腫瘍マーカー)結果が出、上がっていると言われる。

10月末から展示があり、その前もずっと展示の絵の準備にのめりこんで過労気味ではあったが、そこまで上がるとは予測していなかった。

2023年3月に肺の中葉摘出をし、4月に脳転移にサイバーナイフ。

2023年7月にはサイログロブリンが554まで下がった。これはほぼ10年前の数値と同じ。

その時は泣くほど嬉しかった。筆舌に尽くしがたいほどの手術の激痛と引き換えに、10年の命をもらったような気がした。

しかし11月には1102に上昇し、2024年1月には1627。この時は死を意識してほとんどすべてのことが空虚になった。

2024年3月に2324。

幸運にもレットヴィモに適合することがわかり、すぐに投薬開始。

4月に702まで下がる。

5月に北海道の花輪さん宅に行く時に一週間休薬したら1380まで上昇。

7月、880。9月、1377。

そして今回11月19日の分が3075。

今まで見たこともない高い数値に涙も出なかった。

1月7日に、今日採血した分の結果が出る。

そのあとPETかMRI(もう造影剤は使えないと言われた)をし、活発な癌の部分に放射線をかける。

次に外科のY本先生の診察。

「考えてもしかたないんですよね。絶望したり悩んだりすればするほど癌にはよくないんですよね」とぼそっと言うと

「そのとおりです。闘病というのは治療中のことではなくて、いかに癌のことを忘れて生活できるかが闘病です」と。

それはわかっているが最悪のことが頭に浮かぶ。

まだ全部の癌にレットヴィモの耐性がついたわけではないと思う、一部だけ効いてないことはあり得る、とY本先生。

「脳の放射線の時、ものすごく怖かったけれど、実際は痛くもなんともなくて。身体の放射線はやけどが怖いです」と言うと

「脳のほうが怖いですよ」と(たぶん障害が残る可能性のこと)。

サイバーナイフを2か所しても、右手の運動能力に全く支障もなく、脳浮腫で吐いたりもなかったのは奇跡の幸運なのかもしれない。これには感謝しなければならない。

しかしただでさえ、母とちゃびが死んだ時のことを思い出してしまう年末、私にとって一番辛く淋しい季節なのに、今年は特に地獄。

そのなかでいかに死の恐怖から逃避して生を充実させることができるかの闘争。

嫌悪感を抱く(人間的な)こと、傷つくことに遭遇しても、そこに感情を留めないこと。

自分が美しさや愛情を感じるもののほうに集中すること。

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2024年12月18日 (水)

平田星司さんと南雄介さんの対談(GALLERY KTO 新宿)

12月14日(土)

西新宿のGALLERY KTOにて平田星司さんと美術批評家の南雄介さんの対談。

私は松葉杖で時間がかかるので早めに家を出、新宿からバスで17時半に到着したら、一番乗りだった。

平田さんの作品がどういうふうにできてくるのかを知るよい機会だった。

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以下はその場でのメモ。

前期「静物と伝道者」

「静物」シリーズ 
1994年、イギリスの美大で、具象絵画が煮詰まった時、紙コップの影をデッサンしてみたのが始まり。
ビニルエマルジョン(木工用ボンド)に黒鉛を混ぜて(瓶などに)塗ったり、グラファイトの粒の密度によってできる光景

ものと絵画の往還 絵画とオブジェどちらでもない両方

「伝道者」
海底を転がって放浪した瓶 石灰藻 フレスコを塗ったような質
この作品は、私が最高に好きな作品。

後期 「絵画の相転移」(フェーズが変わる)
 
点字の絵画 
塗料の注意書きから言葉を抜粋して点字にしている

「ダークマター」 
「もの」ではなく「こと」 木工用ボンドと黒鉛を混ぜてローラーで一気呵成に
光を隠して見えないことによって存在が確信される
見える、見えない。
見えないことが作品のモチーフになっている 絵画に接近しつつ回避する

界面 
油性の塗料を皮膜にし、はぎとる。支持体が無い。

「転落」(カミュ) 
アクリル絵の具のウスバカゲロウのような透明感。
つるつるしたところで筆触を作り、固まったらはがし、アレンジする。
絵具をものとして扱う。
筆触を作るのと絵画画面を作るのと時間的にずれる。

「海のプロセス」
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海岸で拾ったガラスのかけらで、それぞれのカーブを生かして、想像上のボトルを組み上げた
光や風を通すためにきつきつではだめなので、かけらを抜く 
とりあえずついている フラジャイル 壊れやすいもの
修復は同じようにできない 違う形で立ち上がる ものにゆだねる

root
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ランダムに拾って来た枝を使って、サンドペーパーの上にこすりつけて、木の下部を描いた
白い部分は木の粉、黒い部分は木の枝を焼いて木炭にして描いた
自己言及性 トートロジック 

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デッサン好きな私はこの「root」に魅力を感じた。
濃く群青色の粗くキラキラしたサンドペーパーの固く痛いような質感と、木の粉で描かれた脆い線の触感、
あるいはベージュのサンドペーパーに生々しく焦げた枝の端で描かれた線の触感が素晴らしかった。

何の枝なのか平田さんはわからないと言ったが、私にはまだ幼い芽をつけた桜の小枝のように見える。

全体的に、コンセプチュアルなテーマによってメディアは使われているが、それ以上に、ものそのものから生まれ出て来た表現である。

・・・

この日も昨日に引き続きすごく寒くて、お腹と腰に使い捨てカイロを貼って厚着しているのに、帰りのバス停で震えが止まらなかった。

熱を出さないようにしなければ。

新宿駅の地下は、工事している箇所が多すぎて、慣れ親しんだ私のふるさとではないように変わってしまった。

新宿の雑踏は嫌いではないはずなのだが、足を怪我していると突き飛ばされそうで恐怖を感じる。

とりあえず熱いお茶を飲んでからだを温め、少し休んでから電車で帰宅。

 

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西新宿の家に彦坂尚嘉さんと糸崎公朗さんが来られる

12月13日(金)すごく寒い

西新宿の生家の展示できるスペースを彦坂尚嘉さんと糸崎公朗さんが見に来てくださった。

私は松葉杖を片方ついて、すごく久しぶりに電車に乗って出かけた。

西新宿の家の中は予想よりも寒く、エアコンが効かなくて、ダウンと厚いマフラーをしたまま、カーボンヒーターをつけていても凍えてしまった。

彦坂さんは周りの高層ビルとの落差が面白いと言われた。

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手前の部屋と奥の廊下側の襖ひとつ分空いているところを襖かベニヤで塞がないと、とにかく私には耐えられない寒さ。

熱いお茶(ザクロとラズベリーのフルーツティー)を2回淹れる。

少ししてから3人でバスに新宿に出て西口のサイゼリヤで食事。

彦坂さんは、私が『反絵、触れる、けだもののフラボン』の中に書いた

「絵画のために世界を再構築するのではなくて、世界の予想不可能性によって、絶えず自分が再構築されるのだ」という言葉に、

「この主張は、現在の多くの現代アートに対する批判として、私も共感するものです。

現実を見て、写生することが、重要なのです。」と言ってくださった。

私の師、毛利武彦は、苦しくても見えるものを見えるがままにどこまでも追って写生(素描、デッサン)することをほめてくれた。

ちゃんとものを見る努力をしないで、最初から勝手に略したり歪めたりすることはなんにもならないと。

私の素描を見て「もっと崩して描かなきゃだめ」と毛利先生もよく知っている日本画の人に言われたんです、とその場でお伝えすると

「いや、これでいいんだ。すみずみまで神経が行き届いたデッサンです」と言ってくださった。

最初から崩して描け、と言う人は「そこに在るもの」に対して自分が寄り添い、受容する側になることの重要さがわからないのだし、ぎりぎりまで見ること、突き詰めて描くことができないのだと思う。

(その人の絵を彦坂さんは6400次元だったか、そうとうな低いレヴェルに位置付けていた)

彦坂さんは「いつから画家はものを見て写生しなくなったのだろう」とおっしゃった。

彦坂さんのように現代アートをよく知っている人が、私の枯れていく植物の運動を追って何年も描き続けた素描の画集をほめてくれるとは、私は全く予想していなかった。

彦坂さんは、私が「日本画」の世界の人に「こんなのは絵じゃない!絵の世界から出ていけ!」と脅迫された話をたいへん面白い、実名で書いて残しておいたほうがいい、と言われた。

その後、糸崎さんが見たいと言ってニコンサロンに皆で行った。

本のコーナーにあったアンリ・カルティエ=ブレッソンのカタログのような本が面白かった。

彦坂さんはまだまだしゃべり足りないようだったが、駅でお別れした。

そのあと新宿のどこかで、今日見てくださった西新宿の展示スペースについてひとりでお話してくださったようで、

動画をYoutubeにあげてくださっていました。

https://www.youtube.com/watch?v=wSYp8QqYi6w=

「画家・福山知佐子さんのあたらしいスペースが準備中です」という動画です。


 

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転倒による左足首の捻挫

左足首の捻挫がようやく治って来た。

まだやっと松葉杖を手放して左足をひきずっている状態。

11月29日

夜、自転車で転倒して左足を捻挫。
私の甲状腺癌を最初に切除した浅井先生は自転車に乗ることさえ反対していたのに大大失敗。

11月30日

一晩寝たら出血が酷くなり信じられないほど左足が赤黒く腫れていた。
近くの外科にやっとこさ行ってレントゲンを撮ってもらう。
左足も左肘もいちおう骨は無事だった。
皮膚の表面に指で微かに触れても痛い。
一週間以上経っても左足がよくならなかったら大きい病院でMRIを撮った方がいいと言われる。
西新宿の大工仕事が見たかったので無理やり出かけた。
踵が地に着くたびに激痛。

12月1日

昨日よりさらに酷くなった。
左足は靴下の丈から下が内出血していて、踵の少し上の両側と指が真っ黒。
腫れはもうこれ以上腫れたら皮膚が裂けるという限界まで腫れて、実際に皮膚表面に細かいひび割れができた。
友人に画像を見せると、怖すぎるのでブログには載せないほうがいい、と言われた。

12月2日

昨日とほぼ同じ。
シャワーのお湯があたった時にまだ皮膚が火傷のようにピリピリする。
外に出ずにおかゆに卵と鮭と三つ葉を入れたものだけを食べて寝てばかりいる。

12月3日

かすかに治癒に向かった?
朝起きたばかりの時より、起きて時間が経つと足に血が下がって赤黒く腫れる。
今日も一歩も外に出なかった。
食べたもの・・卵、鮭、おかゆ、三つ葉、魚河岸揚げ、かぼちゃ少々。
体重は42kg~43kg。

12月4日

午前中に風呂に入ってみた。
皮膚全体のピリピリ感は無くなったが、一部まだやけどのように痛む。
かすかに腫れが引いてきた。

夕方、松葉杖で歩いてみた。
自分の全体重をのせると脇の下が痛い。内出血しそう。
脇で松葉杖にのらないで腕で漕ごうとすると、腕立て伏せ(私は一度もできない)のように上腕がきつい。
左足先だけ外に開いて普段しないアンバランスな歩き方。

普段使わない筋肉を使っているのがわかる。

12月5日

腫れは少し引いてきたがまだ酷い。左足の指、甲から足首まで黄色と黒の内出血。

これでもずいぶん見た目が戻ってきたのでやっと画像を載せられる(と自分で判断した)状態。
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まだ靴を履くのがたいへん。左足だけで立つのが痛くて怖い。
右だけ松葉杖を使う。左足をつく時痛い。
階段は1段ずつしか上がり下りできない。
上るより降りる時が痛くて怖い。

12月11日

高円寺駅のほうまで歩いてみるがずいぶん時間がかかる。
寒いのにてきぱき動けなくて、特に顔と耳が冷えるのが辛い。

 

 

 

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2024年12月 4日 (水)

西新宿 柳橋跡 廃屋

11月27日(金)

西新宿の家への荷物の配達を待つ間に、大好きな柳橋跡と羽衣湯の裏の丘を散歩。

柳橋は1世紀近くも前の橋で、西新宿5丁目駅から神田川に注ぐ古い暗渠の途中に残っている。

中学生の頃は、この暗渠の周りに何人もの同級生が住んでいた。

まだ奇跡的に残っているボロボロのアパート、なぜか溶岩がのっている塀の写真を撮るのを忘れた。

はっぴいえんどの「ゆでめん」のイラストが描かれた麺工場跡の貼り紙が無くなっていた。

『ああ荒野』でロケに使われた八百屋は閉まっていた。

羽衣湯の裏の丘へのぼるセメントで固めた急な坂。たくさんの輪っかの型押しがある坂はそうとう古い。

8月1日にこの坂を上った時にむせかえるように繁っていたカナムグラ(金葎)は3分の1ほどの量になったがまだ元気だった。

頂上の塀の中で煌いていた銀色の花穂と茎を持つタケニグサも、だいぶ枯れたがまだなまめかしく存在していた。

2つめのうんと狭くて魅力的な坂の手前、福山家よりもさらに古そうな廃屋は、屋根にブルーシートをかけられていたがまだ残っていた。

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この看板に驚嘆。電話番号が6ケタしかない。淀橋警察は1875年(明治8年)に設置され、今の新宿警察に名前が変わったのは1969年らしい。
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このガラスの擦れて曇った質感が、間近で見るとすごく美しくて、私はずっと見ていられるのだ。
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丘の上から下を覗くと懐かしい細い道。四角い飛び石。秘密の階段。私の友達は皆、こういう細い道の奥に住んでいた。
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枯れて細くなったヨウシュヤマゴボウの黒紫の実と黒猫。ラインステッチの白い刺繍はエノコログサ(ネコジャラシ)。
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どんな季節にも私はなまめかしさを見る。

広々とした自然よりも都会の猥雑な街の端っこの、わずかな土に展開される生命にたまらない愛おしさを感じる。

知られぬ風景、誰も見ようとしないもの。

私は新宿の、ほとんど息の根を止められそうでもまだしぶとく残っている古いものが本当に好き。武蔵野が好きだ。

もうほとんど伝説の中にしか残っていない「十二社(じゅうにそう)」の名前を私の生家の玄関に残そうと思う。

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2024年12月 3日 (火)

吉祥寺 立ち退き裁判の家

11月24日(日)

アンティークのペンダントライトの部品を探しに吉祥寺に行ったのだが、結局どこにもなかった。

井之頭通りを三鷹方面に歩いて行った時、そこだけ鬱蒼とした不思議な家に眼が釘付けになった。

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思わず道路を渡って近寄ってみるとぼろぼろになった貼り紙があった。

「お教えください 母が残した樹木を守って来ましたが、三栄不動産から立ち退きを要求されて裁判になりました。

敗訴との事で、立ち退きを要求して来ると思われます。

近年著しく変わって来た吉祥寺の、昭和30年代が偲ばれるこの家を保存したく思います。

どうしたら良いか(・・不明・・)良い考えがあればお教えください」

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立ち退き裁判で負けてこの家の人は随分追い詰められて苦しんだのだろうと思うと胸が痛むが、

どんなに周りが変わろうと昔の武蔵野の面影を本気で残して来た人がいることに衝撃を受けた。

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井之頭自然文化園の裏道にも不思議な家があった。

枯れ蔦の蔓の壁面の真ん中にヤマノイモの黄色い葉が刺繍のように浮き出ている。ちょうどヤマノイモの下に縦にふたつの瞳のような窓が並んでこちらを凝視している。

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散歩は楽しいが、この日、冷たい風にあたって歩きすぎたせいで、翌日猛烈に胃が痛くなり吐いてしまった。

11月22日(金)

所用で新宿へ。

私の故郷、新宿の駅の周りがすごい勢いで破壊され変化しようとしている。それはただ悲しい。

西口の高層ビルと欅並木の風景。このあたりは70年代を感じさせる私にとってとても懐かしい故郷。
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