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2025年1月

2025年1月30日 (木)

浮腫をとる努力

 

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(鉛筆、水彩)

レットヴィモの副作用で一番辛いのが顔の浮腫。次に倦怠感と全身の筋肉痛。

レットヴィモ服用を始めたのが昨年の3月。レットヴィモを始めてから初めての冬は、浮腫が酷くてとても辛かった。

気温が低いと顔が冷えて覿面に浮腫が酷くなる。むくみで眼の奥が圧迫され、頭重で鬱になる。

寒い日は顔だけでなく、手足も明らかにむくんで痛む感覚があり、全身の循環が悪いのだと思う。

朝、熱めの風呂に入ってふくらはぎや首などをマッサージしているが、なかなか浮腫みがとれない。

1月24日(金)14℃

2時過ぎから荻窪へ。

太田黒公園に初めて入ってみた。植物の種類は淋しい。

そのあと杉並中央図書館へ。

頭が冴えなくて、難しい本はあまり集中して読めなかった。

昔、大好きだった雑誌の内容がものすごくつまらなくなっていてショック。これは私の頭のせいではなくて時代のせいだと思う。

歩けるときに歩いておこうと思い、外に出る。

荻外荘通りを、かつて幼稚園だった庭を右に、鉢植えを売っている園芸の店を左に見ながら川の方へと歩く。

ものすごい豪邸の塀の中の巨樹を仰ぎながら、ぐるっと左にまわって右手に公団住宅のような建物。

荻外荘公園の横の坂を上る。このあたりは古い建物が多い。

角川庭園には小さな水仙が咲いていた。

暗渠を通り、枯れ蔓に浸食された窓を見つけ、太田黒公園の脇の樹木に添った細い道を通って駅に戻る。

古いグレーの木枠の窓の歯科医院。

タウンセブンの西友で毛糸の帽子を見、ふらふらしていたらアエナという不思議な店に入った。この店は90%オフなど、破格の商品がいっぱい。

そのあと久しぶりに荻窪のブックオフへ。立ち読みしだすとけっこう読んでしまう。

新高円寺のブックオフが潰れてしまったのがとても淋しい。

1月25日(土)9℃

浮腫が酷く、だるくて午後まで寝ていた。

顔がもう限界なくらいパンパン。

3時過ぎに、一念発起して外に走りに行った。

息が切れたらだらだら歩く、を5回くらい繰り返しただけ。走ったのは正味5分くらいだが、からだには汗をかいた。

顔が冷え、耳が痛くなったので帰宅してすぐに風呂。

そのあとyoutubeで顔のリンパを流す動画を見ながら耳の下、胸鎖乳突筋、鎖骨の下、頸の後ろ、こめかみなどをマッサージしたら少し効果があった。

1、2分でもまずは全身運動をし、心臓がドキドキして息がきれる状態にならないと、座ったままでマッサージしてもあまり浮腫に効果がないみたい。

ハーバード大学式野菜スープ(ファイトケミカルで活性酸素を除去し、免疫細胞を増やす)を試してみる。

とりあえず玉ネギ、にんじん、かぼちゃ、長ネギ、菜の花などを煮てみた。

味付け無しで結構甘い。

1月26日(日)

昨日の夜、減塩したのだが、まだ顔の浮腫がひどい。

4時くらいからまた荻窪に出かけて、暖かい建物の中を歩き回っていたら少し顔の浮腫に効果があった。

もう本はあまり買わないつもりだが『わたしは真悟』(楳図かずお)の持っていなかった部分、まりんの子供時代が終わるひとつのクライマックスの刊がブックオフにあったので買った。

真悟がまりんを苦しめているロビンを消すために放った衛星のかけらが、まりんの立ち位置がずれたためにまりんを直撃することを知った真悟が、身を挺してまりんを守る。

しかしロビンによって苦しめ続けられていたために、まりんの子ども時代が終わるのが早まってしまい、真悟がまりんに伝えようとしていた言葉がまりんに伝わらなくなる。

機械である真悟がすべての遺伝子に助けを求めて、一瞬だけ人間の赤んぼうの姿になり、まりんの頭の上に抱きついて泣きながら「お か あ さ」と言った瞬間に燃える衛星のかけらによって打ち砕かれ、

機械の姿に戻った真悟を見ても大人になったまりんにはなにも思い出せない。

楳図かずおは、子どもの心を失うまでのカウントダウンをカチ、カチ、カチというドミノ倒しのような音で表現している。

この作品が82~86年にかかれていたことが奇跡だと思う。

1月27日(月)

夜、卓球に行く前にまともに食べられなくて、しかたなくカカオの濃いチョコレートを齧り、ホットミルクを飲んだ。

耳が冷えるので毛糸の帽子を被って行き、被ったままやっていた。

少しでも耳周り、顔周りの体温を上げて汗をかかないと浮腫が治らない。

今日も先生を入れて8人。練習の時、初めて会う男性Iさんに相手していただいて、できるかぎり強打した。

7勝で1番になり「たいしたもんだ」とM先生に言われた。

以前は運動後はすごくお腹がすいたのに、今はどうしても胃の調子がよくならなくて、たくさん食べられない。

あまり食べないで運動すると筋肉がやせてしまってかえって体に悪いのはわかっているのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2025年1月23日 (木)

次の本の編集 / 詩人のTさん / 少し気持ちが落ち着く

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ちゅびのまだ小さい頃(鉛筆、水彩)。

22日(水)

次の本のための編集作業。

掲載したい絵の画像の順番をざっくり決め、タイトルと英訳をつける。けっこう時間がかかった。

途中、並べてみると少し色味がおかしい画像があり、連作として並べた時に地の色がおかしくないように再度調整。

1月21日(火)

Wさんに2週間ぶりにマッサージしてもらう。

左肩が痺れるほど凝っていた。

やはり腫瘍マーカー6400超のショックが大きくて、過緊張が半端なかったのだろう。

浅井先生にお話を伺ったおかげで、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。

今も浅井先生とご縁が切れていないことを心底ありがたいと思った。

過緊張が少しずつほぐれてくると、だるくて眠くて布団から立ち上がれなくなった。

1月20日(月)

筋肉の疲れがどっと出た。全身に乳酸が溜まっている感じ。

夜は2週間ぶりに卓球に行った。今日は全部で7人だった。

Aさんに「顔が腫れてる」と言われた。寝てばかりいるせいか顔の浮腫が酷い。

左足の捻挫はまだ完全には治っていない(少し腫れているし、足首を動かす方向によっては少し痛む)が、ほぼ自由に動けた。

5勝で1番だった。

6時半頃に雷の音がして、激しい雨となり、7時半になっても止まなかった。

受付にいたかたが優しくて、忘れ物の傘を貸してくださったので助かった。以前に別の人が受付の時に、やはり雨で「忘れ物の傘を貸していただけませんか」とお願いしたら「忘れ物なので貸せません」と言われたことがある。

1月19日(日)

昨年の「二匹展」に来てくださった詩人のTさんにメールしたら、もう20年も前から私を知ってくださっていたとのこと、また「鬱金香をはじめとする絵に惹かれている」と伺ってたいへん感激した。

腫瘍マーカーが急上昇して、ネガティヴで絶望しやすい私は、過去の生き生きした瞬間のことを忘れてしまって、どうしようもない厭世観や無力感に襲われたりもしていたのだが・・

メールのやりとりをするうちに、昔のことが鮮やかによみがえって来て、とてもありがたく思った。

過去の、死の恐怖にすくんだりせずに精一杯燃焼していた時のことを思い出すと、自分の人生は空虚ではないと思えてきた。

その頃は、今よりもっと絵を描くことに緊張していて、どんなに懸命にやってもまだ足りないと思いこみ、焦燥でいっぱいで・・・激しく求める性格はあまり変わっていないので絵を描くことを楽しんだりはできていなかったのだが・・今、思えば、ありがたいこともたくさんあった。

絵を描くことを思いつめすぎて、辛くてもうやめたいと思った時期も長くあったが、結局は細々とでも発表を続けて来たおかげで、いろんな素敵な人たちと巡り合うことができた。

私に絵と文章が無かったら、死を前にして、もっと力なく、途方に暮れていただろう。

そして不安で張りつめていた私を支えてくれた、もう会うことのできない人たちのことを思い出して涙が出た。

今日は少しずつ気持ちが落ち着き、やっと何枚かのスケッチを描くことができた。

 

 

 

 

 

 

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2025年1月18日 (土)

乳頭癌と低分化癌、レットヴィモの効果

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ちゅび生後5か月。チョッピーとプフ2か月の頃。とっても仲良しだった3匹。

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1月17日(金)すごく寒い日

鎌ヶ谷総合病院へ。12時前に家を出、JR駅の方へ8分くらい歩いただけで、耳が冷えて頭が痛くて吐きそうになった。

JR、東西線、JR、東武線と電車を乗り継ぎ、新鎌ヶ谷駅へ。

昔、国立がんセンターで私の甲状腺癌と副甲状腺を摘出し、リンパ郭清をしてくださった浅井先生に、この前のPETMRIの画像を診ていただく。

2時に予約だったが1時間以上呼ばれなくて、とても緊張した。CD画像を丁寧に見ていただいているらしかった。

浅井昌大先生のお話は少し難しかったが

サイログロブリンの数値が急上昇している癌は、最初の乳頭癌(高分化癌)の性質を持っている癌で、大人しくて転移が遅い性質の癌。

だから数値が爆上がりしても、いますぐに危険ということは無い。

いずれPETに移るくらいに大きくなってくるだろうが・・・

私の甲状腺癌は乳頭癌だが、脳や骨に転移したのは低分化癌の性質(乳頭癌よりは活発)で、サイログロブリンの数値に顕われにくい。

分子標的薬は活発な癌ほど効く。そのやや活発な脳と骨の転移は今、形はあるが光っていない、つまりレットヴィモが効いている可能性が高い。

ちなみに未分化癌が一番増殖が速く、質が悪いが、低分化癌と未分化癌はまったく性質が異なる。

癌のことを考えて緊張すると、甲状腺ホルモンを消費し、甲状腺刺激ホルモンが上昇する。

つまり癌を大きくするホルモンが上昇する、なのでなるべく癌のことを忘れて気を散らすこと。リラックスすること。

運動も仕事もいいが、くれぐれも疲れ果てるまではやらないこと。適当にやること。

レンビマについては、レットヴィモが効かなくなった時にやるかやらないか考えればよい。それまでは考えなくてよい。

新しい分子標的薬に関しては、いつになるかわからないが、以前より開発は盛んになっている。

甲状腺癌に適合する薬を検査するよりも、自分の遺伝子に適合する薬を探した方が可能性がある・・というようなお話。

「一週間くらい前から左目の下瞼に尖ったおできのようなものが出来、最初、ものもらい用抗菌眼薬を差していたけれど治らず、眼用の古いプレドニン軟膏がうちに残っていたので、4日くらい塗っていたら治りました」とお伝えすると

「えっ!ものもらいだったらプレドニン軟膏を塗ったら逆に酷くなりますよ。どういう種類のできものなのか眼科で診てもらわないと。」と言われた。

「眼のふちが化膿するのはすべてものもらいだと思ってました。違うんですね。」

「サイログロブリンの数値をものすごく気にしてる割には、眼のほうは大胆なことしますね」

「眼に関しては無知で雑でした」

何も知らないことに関しては恐怖もない。だから昔の医師は「見なければいい」というようなことも言っていたそうだ。

細かくて明確な転移の画像を見せられたり、腫瘍マーカーの数値が爆上がりしたのを知らされれば、今現在の身体に不調がなくても精神的にやられてしまう。

浅井先生はあと半年くらいで引退されると伺った。とても淋しい。

私が、浅井先生が手術した時点で遠隔転移があった患者(最初からステージ4)の中で一番長く生きているとも。

つまり私が浅井先生と一番長くお付き合いさせていただいている患者だ。

1月11日(土)

昼から夜8時過ぎまで次の本(昨年に沢渡朔さんが撮って下さった写真と選抜した私の絵をまとめた本)の編集をやっていた。

絵の写真の中から載せたいものを厳選し、実物に近いように色調整する仕事。

私はイラストレーターなどの使い方を知らないのに、あてずっぽで色調整していくのでたいへんだ。

実物の印象とは違う茶色っぽすぎる画像と、青っぽすぎる画像があり、どちらを基にしてどう調整するか。

ある程度明確に線を出し、渋く暗くなり過ぎないように、軽くもならないように、深みや余韻の印象を感覚的に合わせていく。

時間がかかって肩が凝ったが、どんどん集中していくと面白くなってきて、癌のことを忘れられた。

沢渡さんの写真は、レットヴィモを始める前日に撮影してくださったものなので、レットヴィモをやってからとは顔は全然違う。

レットヴィモを始めると顕著に浮腫が出る。

1年も経っていないのに、今は身体はやつれていて顔はぶよぶよしているので悲しい。

撮影した日は3月だが21℃もあった。私は全く疲れを感じず、すごく元気に走り回り、両の素足は茨のひっかき傷で血だらけになったけれど楽しくてたまらなかった。

今は寒くて身体が冷えるので循環が悪く、余計に浮腫が酷くなる。暖かくなって運動出来たら、身体も顔も今より調子よくなると信じたい。

この日、PCの光を見過ぎて眼が疲れたのだろうか?左目の奥がつーんと痛くなり、瞬きをするたびにズキッと痛みが走った。

左頬までズキズキして、少し紫色っぽくなっていた。

嫌~な感じで、何なのだろうと思っていたら翌日の朝、左目の下まつ毛のところに痛いできものが出現。

 

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2025年1月14日 (火)

PETMRIの結果 光っていない

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うちに来て1週間過ぎた頃のちゅび。やっと目が開いた頃。

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うちに来て1か月くらいのチョッピーと、チョッピーと再会して3日目のプフ。

1月9日(木)

朝、8:30から4時間絶食なので7時過ぎからちょこちょこ食べた。人参とジャガイモをオリーブオイルで焼いたもの。ミルクティ。

12:10に地下2階の核医学科。12:30に問診票を書いてから検査着に着替える。身長体重測定(放射性物質の量を確定する)161.5cm。43㎏。

人差し指の先にパチンと針を刺し、血糖値を計る。地味に痛い。

次に左腕の静脈に、ブドウ糖にフッ素の放射性核種のフッ素18を合成した18F-FDGを注射し、管を刺したままにする。

1年前の3月にこの検査をやり、今日が2回目。

1年前も急に数値が上がり、造影剤CTを撮っても悪いところが映らなくて不安で眠れなかったのを覚えている。

その後、遺伝子検査をして2月にレット融合遺伝子陽性とわかった。

Y本先生は確か「造影剤CTに写らないものはPETMRIにも写らないと思う」と言われた。

しかしPETMRIを撮ったら骨転移のいくつかが活発化しているのがわかり、すぐにレットヴィモを開始したのだった。

今回は最初からPETMRI。

1年前に、手術後なのに急にサイログロブリンが上がり、もうあまり生きられないのかと悲観的になった時は2000ちょっとの数値。

今は6000超。

初めてやった時は左腕手首の甲側に刺さった針が痛くて、検査が終わるまで2時間近くずっと苦しかったのを思い出した。

今回はそんなに痛くなかった。今回は痛点に当たらなくてラッキーなのかな、とぼんやり考える。

テレビのあるカーテンで仕切られた小さな部屋で薬が効くまで1時間休む。

1年前にはNHKのチバニアン特集を見ていた。内容まで覚えている。今回はスイッチを入れたらBSTBSのとても古いドラマ「それぞれの秋」(木下惠介プロ制作のドラマシリーズ)をやっていた。

小倉一郎、火野正平、林隆三の若い頃の役者ぶりがかっこよくて、完全に画面に集中して現実逃避できた。

ドラマが終わった瞬間に眠ってしまったらしく、すぐに「時間です」と呼ばれて目が覚めた。

13:30からMRI。おしりのの筋肉が落ちていて仰向けだと痛いので、下にタオルを入れていただいたり、ガガガガという音で不安になるので耳栓をいただいたりしていたので、検査自体は苦しくなく、精神的には落ち着いていた。

というより、精神的に疲弊して眠かったのかもしれない。

45分くらいで終わり、診断結果を待つ間、急にすごく悲しくなってきて、下を向いて両手で頭を支えていると、すーっと涙が落ちて来た。

いつもの診察室ではない臨時の部屋で、H先生に呼ばれて入室した瞬間はすごく怖かった。

「画像診断専門の先生と一緒に見たんだけどね・・・特に光ってない」

「え?・・・」

画像をスライドしながら一緒に画面を見る。

「前にできていた右脳の浮腫している転移、変わらないか薄くなってる。右肋骨の転移、特に光ってない。恥骨部分も特に光ってない。甲状腺のあたり、光ってるけど、ここは唾を飲んだり振動などでも光る場所なので・・ここに再発したとは考えられない」

「・・・本当ですか?」

「うん。どこも今すぐ危ないところはない。レットヴィモが効いているということだと思う。とりあえず今のままで様子見ということになります。きょうは厳しいことを言わなければならないのかと思っていたんだけど・・・実際は違ってた」

「でも数値が・・」

「そこがもやもやするんだけどねえ。もしかしたら画像に移らないほど小さいのが出来て来てるのかもしれないけど、いますぐにどう、ということではないので。2月にまた採血して3月にサイログロブリンの結果を診ましょう」

「でもこのままだと3月の検査結果では1万、2万とかの数値になるかも・・」

とても信じ難くて喜ぶのが怖い気がして、手放しで喜べなかったが、予測した中での最悪の事態は免れた。

たくさんの薬を処方薬局で購入し、帰宅。18時にWさんのマッサージを受けた。

Wさんは「検査の時間を教えてくれてよかった。その時間に光が降りて来てがん細胞を消滅させるイメージをして祈った」と言う。

私が「ありがとう」と笑うと、Wさんは「信じてないでしょ」と私の肩をぺちっと叩く。

祈ってくれる気持ち、私が死んだら悲しいと思ってくれる気持ちが、心底嬉しいし、ありがたい。

スピリチュアル系のことは私は信じていないのだけれど、なんらかの想像や自己暗示でもいいから恐怖から逃れること、少しでもリラックスすることは、本当に重要なことだと思う。

常に緊張していたら免疫が落ちてしまう。

Wさんは「サイログロブリンの高い数値をマジックで消して、かわりに30などの正常値を書いて見えるところに貼って、毎日それを眺めていたら、いつかは自分の数値が正常だと思うことができるよ」と言う。

私の絵を見て、「私は絵はわからないよ、だけど並大抵のエネルギーではないことがわかる。普通の人にはこんな絵は絶対描けない。こんな絵を描くのはすごく難しい。そのものすごいエネルギーを、自分が治る、と信じることに使うほうがよっぽど簡単だと思う」とも。

とりあえずは予想もしていなかった命拾い。今はたすかったのだ。

心配して祈ってくれた人たちに本当に感謝。

 

 

 

 

 

 

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2025年1月12日 (日)

サイログロブリンの上昇

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プフをなめるチョッピー

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チョッピ―とちゅび

1月7日(火)

国立がん研究センター中央病院。

今日は採血が無かった。いきなり内科(抗癌剤専門)のH先生の診察。

12月17日に採血した分のサイログロブリンの結果、

「また上がっちゃってるんですよ」

6,000を超えていた。

11月に採取した分(12月17日に結果を聞いた)が3,000を超えていた時、全身の転移が一気に動き出すイメージにとらわれ、頭からそれを拭い去ることがなかなかできなかったのだが、今回はさらに決定的に感じられた。

「すぐにPETMRIを撮りましょう。来週の火曜日がいいですか?それとも明後日?」

「明後日でお願いします」

そして今日もらおうと思っていた薬の一覧のメモを渡すと

「レットヴィモ、まだあるよね?明後日でいい?検査結果によっては・・・」と言われ、

そうか。耐性がついたのかもしれないんだ。これでレットヴィモ治療が終わりかもしれないんだ、と気づいた。

治験から初めて3年も安定して効いている人もいると伺っていて、自分も2、3年は使えるだろうと思っていたのに、たった9か月で耐性?と思うと大きな絶望感に襲われた。

これからは活発になっている転移に放射線をかけるか、前回、浮腫のようになっていた右脳転移が大きくなっていた場合はそこだけ開頭手術か・・・。

涙が出なかった。

次に外科のY本先生の診察。

「レットヴィモがだめだとなるとレンビマ(レンバチニブ)しかないんですよね?浅井先生からレンバチニブは脳の血管が切れたり詰まったりする危険が高いと伺っていて、浅井先生はレンビマをやってもやらなくても延命期間はそんなに変わらないと言われていたんですけど・・」と言うと

「それは少し偏った考え方ですね」

私のがんが大人しくしていた時はレンビマをやる必要がなかったが、今はもうがんの進行が速くなっている、今はレンビマをやる意味がある、というような話。

あとはどんな話をされたのかはっきり覚えていない。このサイログロブリンの値では、まずもうレットヴィモには戻れない、というようなことを言われたように思うのだが、記憶がはっきりしない。

とにかく明後日の検査結果を診て、どういう治療になるか決まるということ。

1月8日(水)

眠れなかった。

花輪さんに電話して、明日の検査の時に祈ってもらうようにお願いした。

マッサージのWさんにも、明日がんセンターから帰宅してからの施術のお願いと、検査の時間に祈っていてもらうお願い。

Wさんはよくなるイメージ(映像でリアルに想像する)を持ってお祈りするのが好きな人だ(気分がよくなるらしい)。

 

 

 




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2025年1月 6日 (月)

『僕は死なない』(刀根健)を読んだメモ。

1月5日(日)

図書館で友人が借りてきてくれた『僕は死なない』(刀根健)を読んでみた。

私は癌から生還した人の本を読んだのは初めてだ。あまり参考にはならないだろうと思ったが、どうやったら1冊分の(長い)原稿を書くことができるのか興味があった。

著者は2016年9月1日に最初の大学病院で肺癌4期を宣告された。
その大学病院で勧められた抗癌剤治療を拒否(定期検査も無し)。
セカンドオピニオンのがん研有明病院でも同じ治療を勧められる。埼玉県の帯津三敬病院では呼吸器科が無いと言われる。
自分で選んだ代替医療(この記事の最後のほうにまとめました)を実施。
2017年6月、東大病院でCT検査の結果、肺癌はかなり進行。多発肺転移、頸部、肝臓、腎臓、脳転移、骨転移。
その時になって自分なりのやり方を手放し、「すべてお任せする気持ち」になり解放される(「サレンダー」「明け渡し」)。
東大病院で脳へ放射線。
遺伝子検査の結果、肺腺癌の4%しかいないALK遺伝子が見つかり、分子標的薬アレセンサが使えることがわかる。
7月20日 アレセンサにより寛解。
11月、腫瘍マーカーが基準値に入る。

これを読んだ私の感想としては、東大病院でアレセンサに適合したおかげで助かった、としか思えないのだが。
そして最初の大学病院とがん研有明で遺伝子検査をちゃんとしてくれなかったことがおかしい、と思ってしまうのだが。

著者はいわゆるスピリチュアルの力を非常に信じているので、「神、大いなる存在、ハイアーセルフ、サムシング・グレート、空(くう)、TAO、そういうものに委ねる」こと、つまり「サレンダー」「明け渡し」のおかげで運気がよくなり、ALK遺伝子に適合したと言っている。
「前世」が見えるという友人に見てもらった話、スピリチュアルの「マスターレべル」の話、「本物のヒーラー」河野修一さんに会いに行く話、ここらへんが私にはすごく苦手。
「目の前に展開する「体験」は「自分の魂が決めて、自分の人生の出来事として起こしている」」といった考え方は、私には受け入れがたい。

〇著者による病気の原因の分類
1身体・・・身体に負担をかける。緊張、低体温、活性酸素、交感神経中心
2心・・・完璧を目指すストレスフルな状態
3エネルギー・・・悲しみのエネルギーが強すぎる
4魂の計画
1,2,3はまさに自分のことでよく理解できるが、4に関しては私は理解不能。

〇著者の言う「明け渡し、サレンダー」の要点
ポジティブ・シンキングでは越えられない壁がある。
思考で感情をコントロールするのは無理がある。
ポジティブ・シンキングはネガティブを大きく育て、潜在意識に押し込み、振り子の振れ幅が大きくなるので逆に危険。
ネガティブ・エネルギーを放出(排出)する。
世界と戦わない。目の前の状況、環境を抵抗せずに受け入れ、外側の流れに身をゆだねる。
自分の中から湧いてくる内側からの流れ、直感やエネルギーに身をゆだねる。

〇著者の言う「引き寄せ」の要点
感情と思考の方向性を一致させる。
DoingでなくBeing。
結果だけ意図してあとは考えない(思考では想定外のことは「想定」できないから)。
「為無為」の生き方。

つまり「死にたくない」「自分はたすかる」と必死に念じるのではだめで、
「自分はたすかる」というのが当たり前の気持ちになれれば感情と思考が一致し、量子の海は最適な状況や結果を連れてくるということ?これは実行するのはかなり難しい。
私がもし「明け渡し」の心境になれるとしたら、それは「神、大いなる存在、ハイアーセルフ、サムシング・グレート、空(くう)、TAO、そういうものに委ねる」のではなく・・・そうなれば、それを「明け渡し」というのだろうか。
「明け渡し」というよりは「能動的ニヒリズム」?

「地球で体験するどんな困難や試練やトラブルも問題ではなく」「私たちの愛を成長させるための課題、挑戦、冒険」「ここに遊びに来ると決めたのは自分です」(河野修一の言葉)だと他人が言うとしたら、それは不幸な者、虐げられたものへの恐ろしいくらい反動的な暴力ではないのか?

私はデッサンの画家であり、動物への搾取に反対する人間なので、こういう言い方は受け入れがたい。

・・・・

(東大病院で検査を受ける以前に)著者が自分で選んで試したもの。この中で私が興味を持てるのは生野菜、酵素玄米、陶板浴。

「自強法」・・・「トキさん」による指導。徹底的に力を抜いて、身体の持つ自然のリズムと動きに身を任せる。自然治癒力として自動運動を行う。
「奇門遁甲」(きもんとんこう)・・・方位、占術。願いを書いた杭を遠く(運気と方位による)に打つ。

スマイル・ワークショップ・・・「寺山心一翁(てらやましんいちろう)先生」による。

立川のクリニックでの食事指導と鍼治療・・・野菜を生で食べる。肉類、動物性たんぱく禁止。砂糖、塩、嗜好品、糖類、小麦粉、パン、麺類禁止。免疫神経への鍼。

がん専門ヒーラー・・・「山中さん」による「手当」と指導。痛む場所に触れて痛みを無くす。有機ゲルマニウム、クエン酸は良い。気功はよくない。ハイパーサーミアはよくない(悪化した人がいる)

漢方クリニック・・・「サラ先生」による「氣診」。「抑肝散陳皮半夏」「苓甘姜味辛夏仁湯」。緊張を緩め、身体を温める。肺に湯気を吸う。

カラーブリージング・・・きれいな色をイメージして肺に吸い込み、肺を癒していくイメージをする。

梯谷幸司メソッド」のカウンセリングを学んだ友人の教え・・・感情と臓器のつながり。悲しみは肺とつながる。自分の怒り(悲しみ)の原因をさぐり、その原因をつくった人に自分の気持ちを全部伝える。

書籍『引き寄せの法則』・・・意図を明確に持つ。素粒子には隙間があり、観察する人の意志を反映する。
書籍『喜びから人生を生きる』アニータ・ムジャーニ
書籍『癒しへの旅』ブランドン・ベイズ
書籍『がんが自然に治る生き方』

「陶板浴」・・・湯舟にゆっくり浸かり、「僕は治る」「僕の免疫力は最高だ」と呪文のように繰り返す。
爪もみ・・・爪の根っこのところに免疫力を上げるツボ
日光浴
10時間睡眠
アロマ
手づくり野菜ジュース(毎日1リットル以上)・・・フィトケミカル
キノコサプリ
ビタミンC
古代水
ノニ
LPS・・・マクロファージ強化。
フコイダン
酵素玄米
亜麻仁油
ジェイソン・ウィンターズ・ティー

 

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ベジタリアンレストラン ミルクランドの思い出

1月4日

鼻の中の傷が痛いのを2日くらい我慢していたら、左の鼻の穴から出血。

内側のカサブタが取れたようで、圧迫してもなかなか止まらず、ティッシュが何枚も真っ赤になった。

鼻血なんて何十年ぶりだろう、とちょっと驚いた。

1月3日

朝、顔の浮腫が酷い。

昨日、うっかり蕎麦を食べて汁を全部飲んで塩分過多のせいかと思う。

のどの痛みは治まったが鼻の中の傷がなかなか治らない。

午前中に食べられたのは柿ひとつ。年末になにも買いだめしておかなかったのだが、特になにも食べたくない。

少しでも浮腫を改善するためには塩分を制御して水分とカリウム(野菜、果物など)を摂ることなのだが、買い物もめんどう。

USBメモリの中の昔の写真を見ていたら、代々木のミルクランドが恋しくなる。

動物の肉を食べたくない私のようなベジタリアンにとっては天国の食堂、ほっとする場所だった。

無農薬、無化学肥料のとれたて野菜のおかずが6品と味噌汁、ご飯は玄米、白米、ミックスの中から選べて、味噌汁とご飯はお変わり自由。

これで900円。さらに黒ゴマ有機納豆100円。生乳90%のオリジナルコーヒー牛乳100円もあった。

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先代の小寺ときさんは「10,000坪の農場「青空農園」を開き、無農薬・無化学肥料の農産物自給。消費者団体「グループ青空」代表。「みんなの牛乳勉強会」創設代表者。」(著書掲載のプロフィールより)

ドイツにパスチャライズド(低温殺菌)牛乳の勉強に行った時の写真が壁に貼ってあった記憶がある。

最初、ときさんが切り盛りしていた時は一つ一つの小鉢が料亭のように上品すぎて、少し物足りなかったのを覚えている。

息子さん(?)の代になって、盛りだくさんの田舎料理になり、大繁盛していたように思う。

芋の揚げ団子の味噌仕立てに大根おろしをのせたおかずがおいしかった。

そのほかもボリュームがあって、よくこんなにヴァリエーションがあると感心してしまうような、毎日いろんな種類の野菜のおかず。

たまに卵がのっている時は「卵を食べたくない人は申し出てください」とに書いてあったり、とにかく丁寧だった。

店の棚では栃木の農園で収穫した野菜なども売られていた。

1995年から25年間もあんなに素晴らしく贅沢な内容で営業していてくれたことは、あり得ないことだったんだなと思う。

コロナ渦の2020年に感染予防のために休業して、そのまま閉店になってしまった時は、ショックすぎてなかなか受け入れられなかった。

本当に随分お世話になった。

私がベジタリアンの食べ物屋で満足したのはミルクランドだけだ。

厳格なヴィーガンの人には、牛乳搾取は牛への虐待であり、不満だということはわかっているけれど。

とりあえず動物を殺した肉を使っていないという点で安心できて、とにかくおいしかった。

 

 

 

 

 

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2025年1月 4日 (土)

ちゃびとプフ

1月2日

喉の痛みが和らいできたと思ったら、鼻の奥に傷がついたらしく、鼻をかむと血の塊がでてくる。
鼻の奥から眼の奥のほうに、つんと痛みが走るとこめかみまで痛くなる。

生まれて初めて買った加湿器(小さめの水筒のようなポータブルタイプ)が届いたが、ミストがなかなかでてこず調子が悪い。

USBメモリに入れたままの昔の写真を見ていた。

16歳越えた頃のちゃび。

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やっぱり普通ではない。眼の大きさとかたち。

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ちゃびは20年近く、ずっと私と一緒にいてくれて、いつも私の枕の左端に頭を載せて眠ってくれた。

最期は介護となり、ちゃびのことが心配過ぎていろいろ苦しかった。あまりに好きすぎて、ちゃびを失ったことがショック過ぎて、今もうまく思い出せなくなっている。

今は夜寝る時、必ずプフが来てくれて、私の体の上で足踏みしてから、枕の左端に頭を載せて眠ってくれる。

3匹一緒にいるせいか、ちゃびほど私を常に追いかけてきたりしないけれど、寝ている時は思いっきり赤ちゃんになって甘えている。

ちゃびとタイプは違うが、やっぱりとびきりの美少女プフ。
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ちゃびも、ちゅびおやチョッピーも、まだ乳離れできていないヨチヨチの時から私が哺乳瓶でミルクを飲ませて育てた。

プフだけはミルクをあげていない。

外で生まれて、秋の雨の日に泥だらけで必死で泣いているところを保護されるまで、プフはひと月近くも過酷なサバイバルをしていた。かわいそうに。

同じ日に同じ親から生まれたチョッピーがミルクをいやいやしている赤ちゃんだった時に、プフはもう自立してカリカリを食べていた。

だからほかの3匹より少し警戒心が強いのかと思う。プフはあまり抱っこされない。寝ている時だけはべったり。

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(うちに来て2週間目くらいのプフ)

眠っているプフの額に頬をつけると、プフはそのまま動かない。くーっ、くーっと息の声がする。

眼を閉じたままゴロゴロ言い出し、腕を伸ばして私のからだに爪を立て、ふみふみとお乳をもむような仕草をする。

ちゃびはパイルヘアゴムをジャンプしてキャッチするのが好きだった。

パイルヘアゴムを咥えて私のところまで持って来て、私の前にポトリと落とし、「これやって」と催促した。
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プフもパイルヘアゴムキャッチが好き。これも不思議だ。

1月1日 雲一つない晴天

昼前から少し歩いてみようとJR駅の方へ。

古着屋が何軒か開いていた。さすが高円寺。

もう何十年も、自分にとって年末と正月ほど憂鬱な季節はないが、とにかく生きて歳を越せた。

家族団欒とか年中行事、目出度いとか、そういう雰囲気が苦手(自分とかけ離れていて)で具合悪くなってしまうのだが、季節の変化だけは生で感じる。

12月より明るくなった陽射し。

今、盛りの花は山茶花ばかり。花弁が白く長くてひねりのある種類が一番好きだ。

母を支えながら散歩していた時、山茶花を見ていたら、通りすがりの人に「これなんていう花なんですか?」と声をかけられたことを思い出す。

あれは谷川俊太郎さん宅の近くの塀だった。あの山茶花の木立ももう無い。

 

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