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2025年2月13日 (木)

村上昭夫『動物哀歌』、抒情と思想、死(生)、アートと動物

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初雁 数寄屋侘助椿(水彩) 

2月12日(水)

村上昭夫の詩集『動物哀歌』を読んでいる。

この詩集は1967年に上梓され、第8回土井晩翠賞を受賞し、1968年に第18回H氏賞を受賞。

その年の10月に村上昭夫は亡くなっている。

最初に私に村上昭夫の名前を教えてくれたのは丹羽文夫さんだ。

丹羽文夫さんは私とメールで文通している人で、横浜市立大学でフランス文学を、京都大学で昆虫生態学を学んだ。

横浜市立大学では奥浩平(私の大好きだった『青春の墓標』を残した人)と同級でサークルも一緒(史学研究部)。

京都では高野悦子(『二十歳の原点』)と同時代の青春を過ごし、『日本的自然観の方法』、『メーサイ夜話』、『ミャンマー行脚』の著者でもある。

 

『村上昭夫詩集』詩人論・作品論より

「村上昭夫の詩がわかりやすく思われるのはその透明性によってであり、平易だからではない。」

「詩は喩によって難解になるのではない。思想の曖昧さが詩を難解にするのである。」

「鮮やかな分析の手口によって読者を魅了するが、読み終わって事態が解明されたようにも、認識が進んだようにも思えない評論が多いのはなぜか、それはおそらく歴史的な社会、あるいは今日的な社会に対峙すべき作品、詩人の思想の眼が曇っているからだ。」

「そこには、弱々しいもの、滅びゆくものに対するシンパシィが溢れている。」・・・辻井喬

「嘘の自分への反逆、嘘の世間への反逆、自己脱却のための闘争の情緒、それが私にとっての詩だとつづる村上昭夫」・・・高橋昭八郎

・・・・

   雁の声

雁の声を聞いた

雁の渡ってゆく声は

あの涯のない宇宙の涯の深さと

おんなじだ

 

私は治らない病気を持っているから

それで

雁の声が聞こえるのだ

治らない人の病いは

あの涯のない宇宙の深さと

おんなじだ

 

雁の渡ってゆく姿を

私なら見れると思う

雁のゆきつく先のところを

私なら知れると思う

雁をそこまで行って抱けるのは

私よりほかないのだと思う

 

雁の声を聞いたのだ

雁の一心に渡ってゆくあの声を

私は聞いたのだ

 

   ねずみ

ねずみを苦しめてごらん

そのために世界の半分は苦しむ

 

ねずみに血を吐かしてごらん

そのために世界の半分は血を吐く

 

そのようにして

一切のいきものをいじめてごらん

そのために

世界全体はふたつにさける

 

ふたつにさける世界のために

私はせめて億年のちの人々に向って話そう

ねずみは苦しむものだと

ねずみは血を吐くものなのだと

一匹のねずみが愛されない限り

世界の半分は

愛されないのだと

 

・・・・

辻井喬の詩論によっていろんなことが明確になった気がした。

戦後、現代詩は三好達治の四季派の抒情性を激しく批判してきたわけだが、

三好達治の「村落共同体の拡がり、そういった時空に包まれている自分という存在への甘い容認の姿勢」、「伝統的な感性とそこに忍びこんだように横たわっている保守的、そして浪漫主義的心情」、その大衆性、「社会的制度をも一つの自然とみなして、それに自己を融合させ、偏在へと自己を拡散させる」抒情性と、

村上昭夫の「死を見詰めて生きようとする意志そのもの」は全く異なる。

村上昭夫の詩は「日本的美意識」とかかわるが、それは三好達治の「自然との一体感、四季の移り変わりと無常観の混同」とは異質である。

三好達治の受容の形態は、「体制によって公認され、いわゆる欧米にはないアジア的なものを日本に発見しようと試みた欧米の審美家によって称揚されることによって、逆に日本人のあいだにも固定観念を植え付けた」ところの「日本的なもの」で語られることが多い。

村上昭夫の詩は「現代の詩人としては例外的なほど思想詩人の骨格を持っている」。

村上昭夫の詩を語る時に「ひたすら抒情性に焦点を当てることは、村上昭夫を平板な抒情詩人に引下してしまう」ことである。

そして村上昭夫の詩は、村野四郎の詩のように「生き物との共感」が「理性的で骨っぽい社会批評によってつくられている」のでもない。

「影のような存在としての生命は理性と言う光にさらされることを嫌うのだと主張しているように思える」。

 

「不治の病」で時間が限られてくると、本当に上っ面のものや浅はかで饒舌なおしゃべりが耐えられなくなってくるのだ。

だから寂寥のなかで動物や植物とともにいるしかないのだ。

どんな優れた作品であっても、結局は鑑賞する側に思想性(と言えるほどの思考力)や、「不治の病」で死(つまりは生)を見つめる感覚を想像する力(深み)がなければ、安易な「抒情」でしか語られることはない。

それどころか、彼らは「自分は抒情でなく高度な理論でやっている」とか「自分はそういう古いやりかたでなく最先端を行っている」と傲慢にもマウントしてくるのだ。

私がある種の現代アートや現代詩に拒絶感があるのは、今の社会状況への対峙ではなく流行り(どんな流れも相対化され主流をなさないが、複数の流行り、あるいは流儀があるようだ)にのっかっているようなものに気持ち悪さを感じるからなのだが、

さらに言えば「体制」によって公認されてるような感性、いかにもありがちなコンテキスト、最初にアートがあって、アートのために自分でないもの(特に動物や他者の苦しみ)から収奪しているものには激しい嫌悪感を抱いてしまう。

 

少し前のことだが、一緒に暮らしていたわけではないが私が愛していてずっと見守っていたある動物の子が若くして急死したことを知って、私がショックで号泣してしまったことがある。(ブログにも、その子に何度も会いに行っている時のことを書いていて、あまりにも悲しすぎて辛すぎて今は名前を書けません)

そのことを友人が、ある動物を世話している人を取材してアートをつくっているKという女性に話してしまい、それを聞いたKは私のことを笑ったそうだ。

どういう意味で笑ったのか、ぜひとも本人に(私が生きているうちに)会える機会があったら、直接聞いてみたいものだ。

動物を「ネタ」にしてアートをやっているくせに、動物の死に大きなショックを受けて泣く人間を笑うとはどういうことなのだろう。

つまり最初にアート(を作るのが当然という前提)があり、アートのための取材であって、動物のための行動からではないのだろう。

問いかけをつくるのもアートのため、つまりは人間の社会の「文化的処方」のため。これを「収奪」という。

私は動物が死んだことに泣いている人間を笑う人間が嫌いだ。私の痛みの激しさは私のものだ。

そのことを思い出すと、癌に悪いとわかっていても胸がむかむかしてくる。

 

 

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