文化・芸術

2019年7月26日 (金)

神代植物公園 日本固有のユリ

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/7-other-flowers-plants/

7月23日(火)

再び神代植物公園へ。午後からところどころ強い雨になるという予報だったので10時半くらいに到着。予報ははずれ、またも蒸し暑い日となった。

山野草園では先日よりも百合が開花していた。

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細長い林の中、点々と数十本のヤマユリ。まだ蕾もあるので、あと一週間は見頃。深大寺門近くの林の中にも数本咲いていた。

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一面緑の夏草の中に、うつむいた大きな白い花が見えるのがたまらない。

ユリの花を描いた絵で、私が子供の頃に最初に心惹かれたのは酒井抱一の「夏秋草図屏風」(風神雷神図の裏に描かれた絵)だった。その理由はススキの緑の葉の隙間から実に微妙な分量の白が見えていて、しかもうつむいているからだ。

子供の頃、山で、実際に何度かその状態のヤマユリを見て感動したことがあるので、抱一の描いたのはヤマユリだと思い込んでいたが、今見ると「夏秋草図屏風」のユリはテッポウユリだ。

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日本に自生するユリは15種で、そのうち日本固有種はヤマユリ、ササユリ、オトメユリ、サクユリ、カノコユリ、テッポウユリ、タモトユリ、ウケユリの8種。

・・・

最近、大好きなヤマユリとカノコユリについて調べていたら、ちょうど植物会館で、今日から「世界のなかで日本の植物が果たした役割と影響」という特別企画展をやっていた。

メモ。

17世紀に西欧諸国による貿易航路が整うと、まずイギリスからプラントハンターが各大陸へとやって来た。

トラデスカント親子(1570-1638と1608-1662)はプラントハンターのパイオニア。

フランシス・マッソン(1741-1805)はキューガーデンから最初に派遣されたプラントハンターで南アフリカからイギリスへ植物を送った。

日本は北半球の温帯地域の中でも植物の多様性がもっとも高い地域と言われる。

日本と北アメリカ東部はよく似た植物が多くみられる。これは「第三紀周極要素(第三紀周北極植物相)」と呼ばれ、6500万年~200万年前に広く北半球に分布していた植物が南下し、各大陸の中緯度地域に残存することになったもの。ヨーロッパではその多くが(寒冷化に伴う南下が阻まれたために)すでに絶滅。

長崎の出島にケンペル、トゥンベリィ(ツンベルク)、シーボルトの三学者に先立って日本の植物を研究していたクライエル(1634-1698)がいた。

クライエルは1682~83年、1685~86年の2回、来日。日本の画家に描かせた植物画1360枚をドイツ・ブランデンブルクに住むメンツェル(1622-1701)に送った。

当時のドイツの学術雑誌にクライエルが送った植物画をもとにしたメンツェルが執筆した日本植物レポートが掲載されている。そこにはヤマユリとカノコユリの図(「ヤマユリ」と「カノコユリ」とカタカナが添えられている)がある。

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三学者の一人、ケンペル(1651-1716)は自ら描いた植物画(日本語による植物名が添えられている)とともに1695年にヨーロッパへ帰還。『廻国奇観』を1712年に出版。これはカール・フォン・リンネ(1707-1778)が1753年に『植物の種』を出版するより40年余り前。

イギリスの医師ハンス・スローンがケンペルの遺品・遺稿を買い取り、『日本誌』を1727年に出版。

トゥンベリィ(1743-1828)はリンネの愛弟子で、出島に滞在後1784年に『日本植物誌』を完成。

シーボルト(1796-1866)は1823年に来日。1830年7月に現ベルギーのアントワープに到着した時、積載した485種の植物のうち約260種が生き残っていた。それらをヘントの植物園に運び、2ヶ月滞在。

ベルギー独立戦争のさなか、ヘントのカノコユリは1832年に開花し、現地の人々はその美しさに驚嘆したという。

その後ベルギー独立戦争の余波を受けてシーボルトはオランダのライデンへ避難。戦争中、ヘントの植物園に残された日本の植物は、現地の園芸商に持ち出されて増殖・販売され、大部分が散逸してしまっていた。シーボルトは1839年の戦争終了後に返還を求め、80種を取り戻した。

シーボルトはドイツの植物学者ゲアハルト・ツッカリーニ(1797-1848)の協力を得、『日本植物誌』(二人の共著)の刊行は1835年にはじまった。(この中に素晴らしいカノコユリの図版がある。

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しかし刊行は1844年に中断。シーボルトとツッカリーニの死後、オランダの植物学者ミクェルによって第2巻の後半が刊行された。

ヤマユリ(Lilium auratum)が1862年にイギリスにもたらされると「驚嘆すべき美しさ」と大評判になった。auratumは「金色の」の意味。

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シーボルトらによる日本の植物の普及活動が欧米ではじまると、まずユリの評判が高まり、その需要に応えるため、1867年ごろには横浜を拠点としてユリ根の貿易を行う在留外国人があらわれた。

ボーマー(1843-1896)は北海道開拓使として来日したが横浜に転居し、ユリ根などを扱う貿易商を始めた。

鈴木卯兵衛(1839-1910)は横浜植木商会を設立。ユリ根の輸出を始め、1893年に園芸植物全般を扱う株式会社に発展。横浜植木商会の『LILLIES OF JAPAN』(1899年)の図版は素晴らしく魅力的。(左:表紙、中:サクユリ、右:丸葉カノコユリ。)

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ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)のぼうっと光り輝くヤマユリと提灯のを見た時、衝撃を受けたが、この絵が描かれたのは1886年。日本から入って来たばかりの金の帯と赤い斑のあるヤマユリは、さぞかし輝いて見えたことだろう。

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(この企画展では、ほかにも世界に渡った日本のサクラ、アジサイ、バラ、キク、ハナショウブについての展示があった。)

・・・

私の一番好きなユリの絵といえば、やはり1900年頃に描かれたモンドリアンのヤマユリとカノコユリの水彩だ。たっぷりと涙を湛えたようなカノコユリの絵はすごいと思う。

モンドリアンはオランダで20代の頃に、日本から来たヤマユリやカノコユリを生まれて初めて見て、とても神秘的な美しさを感じたのかもしれないと思うと、感無量だ。

形骸的ではなく、張りつめたようでいてとても傷つきやすい百合の美しさを描くことができたら、と思う。百合を描くのはとても難しい。

植物センター内に貼ってあったサクユリの場所を職員さんに尋ね、植物多様性センターへ。サクユリは伊豆諸島に自生する伊豆諸島固有のユリで、世界最大のユリ。絶滅危惧種。

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植物多様性センターの中にもヤマユリが何本か生えていた。芝生の近くにとても背の高いヤマユリが。

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植物公園に戻り、再び職員さんにカノコユリはないか尋ねたら、なんと山野草園の入り口付近に、ほんとうに小さなつぼみがついたのが一本。カノコユリも絶滅危惧種。どうか無事に咲いて、増えてくださいますよう。

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このあと花蓮園できょう咲いている蓮の花を撮影、その後、野生種とオールドローズ園の薔薇をひとつひとつ丁寧に見て歩き、たまだ開花しないショクダイオオコンニャク(燭台大蒟蒻)を見に温室を訪ね、さらに薔薇園を歩き回ったのでクタクタ。

深大寺通りで9割蕎麦を食べた。3時頃から盆踊りの曲(三波春夫の「大東京音頭」)が流れ、太鼓の音が鳴り響いてきた。蕎麦屋に貼ってあるポスターには6時からと書いてあるが、太鼓の練習なのだろうか?

 

 

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2019年4月26日 (金)

水沢勉さんにお会いしに神奈川県立美術館葉山へ行く

記録しておくべきことがたまってしまった。だいぶ過去のことになるが、一冊の本をつくるための長く曲がりくねった道のりの途中。

4月9日

次に出す本のことで、水沢勉さんに相談しに神奈川県立美術館葉山へ。

だいぶ前に9日午後2時に約束をいただいていた。

地下鉄を使い、新宿3丁目で副都心線に乗り換え、直通で横浜まで。横浜から京急で新逗子へ。(最近は新宿から湘南ラインに乗るより便利。)

金沢八景で乗り換えが初めてだったので、違うホームに行ってしまったりして階段を引き返した。途中、神武寺のあたりで見えた萌出たばかりの薄銀黄緑色の新芽の点描の樹々、倒木のある山の様子が素敵だった。新逗子からバス。途中の岩場で遊びたくてたまらなかった。

1時20分くらいに着いて受付に取り次いでいただく。約束は2時だが、急な来客が2時にあることになったそうで、「早く来てくれてよかった」と、先に館長室に通してくださった。

ISBNがつくことは重要なこと、国会図書館に入ることは文化遺産になるということだから、と言われた。

また英訳者さんを選ぶのがとても重要だと。水沢さんは偶然(美術館に来て)出会われたPさんを推していらした。水沢さんは知らなかったが、最近大きな賞をとったかた。

私はS社のNさんしか頭になかった(全然存じ上げないが、S社の仕事をいつもされているかただということで。)

二人に同じ短文を訳してもらって比較したほうがいいと言われた。ちょっと私にはそんなことはできそうもないが、お二人に振り分けてやっていただくことはありうると思った。

 

2時から3時半くらいまで、水沢さんが急な来客に対応しているあいだ、私は浜へ出たり、庭でぼーっとしたり。

富士山が大きく見えた。

 

水沢先生が私を待たせていることを気にして、2階からロビーの私に向かって手を振ってくださったりされていることに、たいへん申し訳なく思った。すごくお忙しいかたで、今回の2時の急な来客も、なにかトラブルで急用だったらしい。

文章を書く人が遅れてずるずるしないために、まず本の刊行日を今、ここで決めて、と言われる。なにかの記念日はないのか、と聞かれて困る。そこから逆算してすべてのスケジュールをはっきり決めないとだめだと。

本日、私が話したかった用件、文章の内容について、なかなか私の考えていることは言葉にできなかった。なぜ話せなかったか、その理由も、言語化すること自体が困難だし、そのことについてブログに公開できることはない。

帯になる文について、G先生にいただいた、ということを言ったら「ええ?!Gにもらったの?あなたの人生変わるよ。」とすごく驚かれていた。「どんな文章?暗唱してる?」と言われて困った。

私自身は、今回、私が水沢さんを訪問した理由を言語化できなかった理由も、毎回、私が自分の仕事について人になにかを話す時に苦しんでいる理由も、G先生にはすべて伝わって、文章をいただけたのだと信じている。

5時に美術館が終わってからもお話ししていた。7時過ぎに外に出ると空が藍色に澄んでいた。東京とは明らかに違う空気。潮の匂い。

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2019年1月26日 (土)

鵜飼哲さんと打ち合わせ、現代の美術について

1月15日

次の本の打ち合わせで鵜飼哲さんと会う。

9月にイタリアに行って来た話をした。

オルヴィエトで、古代の井戸を訪れたときの話。入場料を払って、暗く深い井戸の底へと続く螺旋階段を降りていくのだが、階段の壁には、その町の画家とおぼしき現代作家の油絵が飾られていた。古い井戸の古色の肌合いを見るために中に入ったのに、すごく嫌だった、と言ったら、

鵜飼さんは「ヨーロッパのパブリックアートは日本よりもっとやりかたがまずいかもしれない。林の中に李禹煥(リ・ウーファン)があるとかならいいけど。」と言った。

こういう時に咄嗟に言葉が出なくて、私は帰宅してから悶々としてしまう。

私は林の中で李禹煥なんか見たくない。私は、林であれば、たぶんどんな林でも、細部まで一日中飽きずに楽しむことができる。しかし、だからこそ、せっかくの林の中で李禹煥の作品と鉢合わせしてしまったら、それが邪魔で、そうとうイライラするだろう。

どんな主体にとっての存在の無意味や意味なのか。

小難しい理論がなければ自然や、そこにある様々なものの細部に触れられないと思っている人にとってだけ、「もの派」は意味があるのだろうか。私には逆に、ただ自分の感覚の伸びやかな運動の邪魔になるだけだ。

古代の井戸だろうが、林だろうが、街中だろうが、私は見たくもないアートに出くわすのが嫌いだ。それらを見たいと思う人といっしょに、その「表現の自由」に似つかわしい、どこか狭い空間に閉じ込めておいてほしいと思う。

イタリアでは丘の上の廃墟を見た。あまりにも魅惑的な空間だった。私は廃墟でない人工物、アートが嫌いなのだ。

話の流れで、鵜飼さんの口にのぼった地方の女性画家の名を、帰宅してから検索した。某美大の学長にまでのぼりつめたというその画家の絵を見て、また嫌悪感で気持ち悪くなった。

美術史の中に組み込まれているものの中にも、好きな作家と、そうでない作家がいるが、なにも考えないでただ乏しい感性と惰性でやっていて、なぜか現在、権力を得ている人もさらに気持ち悪い。

私は嫌悪感を感じる作品を見ると、強い抑圧を受ける。その作品の向こうから襲いかかってくる鈍いもの、それを作った作家の病的な自己顕示欲に、窒息させられるような感覚に陥るのだ。

1月19日

2年ほど受けていなかった健康診断を受ける。

血液検査の結果は4週後。機器で測る骨年齢はC (平均)。血管年齢と肌年齢はA(平均マイナス13歳)だった。

思ったより良い結果だったのは、イタリアのチナミさんからいただいた早摘みオリーブオイルのおかげかな、と感謝。

終わってから中野に出て、ひとり天ぷらを食べた。検査のために絶食していて、とてもおなかがすいて寒かったので少々熱燗を飲んだ。

その後、肌触りがよくて余計な柄や飾りのない手袋をさがして街を歩いた。

グレーの無地のお気に入りの手袋を片方失くしたようなので、チクチクしないで温かい手袋が欲しかったが、見つからなかった。

ブロードウェイの地下は昔からほとんど変わらない闇市風というのか、アメ横みたいだ。もう松の内が過ぎてだいぶ経つのに、「初売り」という呼び込みで魚屋が賑わっていた。

8色ソフトクリームの店は1966年のブロードウェイ開業当時からやっているらしい。

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帰宅してから疲れて眠ってしまい、夜、起きたら鈴木創士さんから原稿が送られて来ていた。

『あんちりおん3』の時にも、締め切りにぴたりと合わせて原稿を送ってくださったのは鈴木創士さんだけだ。胸が痛くなる。

鈴木創士さんも「現代美術にはうんざり」と言う。彼にそう言われることで励まされる。

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2018年6月12日 (火)

「岡本神草の時代展」、風太一族、動物からの収奪について

6月10日

台風で昼頃から雨の予想。陽射しがなく、人出が少ないこんな日こそ、私は出かけたくなる。

あの風太一族を、一度、見てみたいと思ってたので、千葉市動物公園へ。そのあと「岡本神草の時代展」を見に千葉市美術館へ。

羽村のかわいいソラは、風太の3番目の子、風美の子だ。

岡本神草は、今回は17歳くらいの時の素描(デッサン)着彩など、写生がたくさん見られるということで期待して行った。

9時頃家を出、約2時間で目的地へ。千葉市動物公園は初めて来たが、かなり広い。

レッサーパンダは暑さにとても弱いらしい。きょうは涼しいので、雨の中、樹の高い枝の上で寝ている子が多かった。

樹の上で寝るメイメイ(♀2007年生。風太の子、クウタのお嫁さんでユウのお母さん)のところに登るユウ。

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りんごを手で持って食べるメイメイ。手で持てないユウ。手で持てる子は左利きが多いそうだ。
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今年15歳になる風太。小屋の中で眠っていたが、「風太、お仕事だよ~」と起こされてりんごを食べるところを見せてくれた。ごめんね、風太。ありがとう。

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風太はチィチィ(♀2003年~2012年)とのあいだに8頭の子を生んだ。2017年12月現在で風太の子、孫、ひ孫、やしゃごは43名(?)。

今年、風太の15歳(人間で言うと70歳くらい)を祝う大きな記念イベントがあるそうだ。風太が疲れないようなイベントであることを祈るばかりだ。

動物園のイベントは興行であり、私はイベントのように人が集まる場所に行くことはまずないが、動物園、動物の「展示」というもののあり方、こうして見に来ている自分が「動物からの収奪」に加担しているのか、と内心はいろいろ考えて複雑だ。

私は一匹でも動物を殺すのが嫌なので、動物の肉を一切食べない。

大きな肉食獣を展示するために、人間が他の動物を殺して与えるのは、私個人は嫌なので、チーターなどは、わざわざ連れて来なくていいのに、と思う。

レッサーパンダには、今の飼育では動物は与えていないそうだ(スズメなどを食べてしまったことはあったそうだが)。

彼らを見たくて、動物園に来てしまう私も動物虐待に加担しているのかもしれない。この問いには、簡単に答えが出ることはない。

風太の立ち姿が一大ブームになっていた頃、日に3000人もの来園者があったらしい。

その頃、私にはちゃびがいた。ちゃびほど可愛い相手はいなかったので、ちゃびと暮らしているあいだ、私は動物園に行くことが一度もなかった。

ちゃびを失った今、人間的な倨傲と収奪そのものの「アート」界の瘴気に耐えられなくて、動植物に会わないと自分の生命的な活力が死んでしまいそうになるので、毎週遠出している。

リンゴを立って食べるみい(♀2013年生。クウタとメイメイの第4仔)。みいは長崎からお婿に来たライムと一緒にいるが、ライムはおとなしく、逆にみいはぴょんぴょん跳ねまわり、、木にじゃれついて転げウ~ッと木に怒ったりして、元気に遊んでいた。

土をどどどどっと掘って、虫を食べている(?)みいの姿も新鮮だった。
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クウタ(♂2008年生。風太の第6仔)は風太一家の跡取りで、メイメイとのあいだに8頭の子をもうけた。
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すごく愛嬌のあるメイタ(♀クウタとメイメイの第6仔)。お婿さん捜し中だそうだ。

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メイタという名前なのは、生まれた時にはオスと間違えられていたからだ。

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メイタは跳ぶのが得意で、1m20cmくらい上にあるリンゴをジャンプして取ることができる。

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3時半頃、動物公園を出る。

ずっとカメラ(望遠レンズと標準を使い分ける)を持って、少しの休憩もなく歩き回っていたので、かなり疲労し、肩と腰と足の裏が攣りそうになった。

私は動物や植物を見る時も、好きな絵を見る時も、のんびりおっとり見ることはまずなく、いつもぎりぎりまで体力を使い果たしてのめりこんで見るので、重労働になるのだ。

私は絵描きだけれど、人間の虚妄が集約されている「アート」を見るのが嫌いだ。嫌なものが身体になだれ込んで来てイライラする。

私にとって貴重な時間と心身ともにエネルギーを使ってまで見たい価値があるものは、すごく限られる。

「絵の範疇にはいらないもの」を得意気にやっている人を見ると、誰にも想像がつかないほどの激しい不快感、嫌悪感で、私は心身ともに損傷を受けるのだ。

その汚らわしさは、ずっと何年も身体損傷として残り、消えることはない。

・・・

「岡本神草の時代展」。

私は、いわゆる「大正デカダンス」の時代の画家の絵にはすごく惹かれるので、本物を見られる機会があれば、たいてい行っている(情報通ではないので、気がつかないうちに終わっている展覧会もあるが)。

岡本神草の10代の絵を見ることができたのが良かった。

17歳の時の「手鞠と追羽根」という絵に衝撃を受けた。手鞠と羽子板と羽根を写生し、紙を切り張りしつつ構成したものだ。

茶色い紙の上に描いた羽根の、ほとんど透明な胡粉の薄塗り、ところどころ細い線で起こしている筆跡。

小さな玩具から、ここまで弱弱しさ、柔らかさ、可憐さ、精妙さを見出すことのできる眼。それを「絵」に昇華させる力量に打ちのめされた。

羽根で隠されていて、隙間から見える羽子板の絶妙な量。朱と青の透明感と分量。

なぜ、この位置で紙が継がれているのか、なぜ、継ぎ目がずれているのか、作者の感性の謎に引き込まれる。

さりげないようでいて、すごく高度で、凡庸な人間にできるようなものでない、と感じさせる絵だ。

私は公募展に出すような大作よりも、むしろこういう小さくて個人の才能が迸るものに興味がある。

あとから年譜を見て知ったことだが、この「手鞠と追羽根」は、彼が美工絵専両校製作品競技展(校友会展)で銀牌を受けたものだった。

もう一つ、私がすごいと感じたのは21~23歳頃の「秋の野」の植物写生だ。ススキの葉の曲線のなまめかしさ、どこに向かって流れる線を選ぶか、これは私の感性が求めるもの、そのものだ。

人物の素描には、私の予想よりも幼いものも多くあった。夢二の模写、浮世絵の影響、マンガ的なデフォルメの研究。

「口紅」はたしかにすごく完成されていた。

美と醜、デザイン的なセンスとグロテスクのバランス。

か細くすんなりした幼い腕。焼けて黒く変色した銀箔の桜の簪。華美でありながら気品のある古典柄の衣装。

すっきりとしたフォルムの中に、びしっと緩みなく、濃密で冷たいような装飾的要素が詰まっている。

周到に着飾り、最後に「口紅」を塗る女の、陶酔したような、これから何をしでかそうをしているのかわからないほてった表情へと、画面のすべてがデモニッシュなものへと、渦を巻くように収斂していく。

そこには強烈な「わかり得ないもの」がある。

大きな下図を写して「塗って」いく「日本画」と呼ばれるものに、今の私はほとんど興味がないが、神草の「口紅」という作品には、「塗って」いるのにも関わらず、発散する妖気の「運動」があった。

神草は、下図よりもいわゆる「本画」と呼ばれているもののほうが、遥かに生気があること(これは逆になってしまうことも多い)、その落差に感嘆した。

大正デカダンスそのものの神草の若い頃の日記が展示されていたが、サタンを愛する者は・・のくだりが図録には載っていないようで残念だ。

この時代は、岡本神草や甲斐荘楠音が命を賭けた絵画の革新や、芸術運動というものが、まだ生きていた時代だ。

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2016年12月 1日 (木)

ちゃび 19歳5か月 給餌の試行錯誤 / 書道

12月1日

試行錯誤により、ちゃび(19歳5か月)の体調が戻ってきたメモ。(老猫が食べられなくなったり、強制給餌に悩んでいるかたの参考に、少しでもなれたら幸いだ。)

10月10日に、ちゃびが自分で食べることができなくなり、一時はもうだめか、と思われた。自分で水を飲むことも、毛づくろいもしなくなってしまった。

今も自分では食べないので、一日一回、夜にシリンジ6~7本くらいの給餌をしている。

快作先生によると、猫は自分で食べることを忘れてしまうのは、珍しいことではなく、がんばって給餌してあげていると、ふとまた自分で食べるようになる子も珍しくない、ということだ。

ちゃびに関して私が生みだしたやりかたは、給餌を暴れて嫌がる場合は、セルシンを一錠(10mg)の1/6ほど飲ませ、10分くらいしたタイミングで給餌することだ。

ちゃびはFKW(スペシフィックの腎不全、肝不全、心不全用)があまり好きでないようで、シリンジであげると、半分量くらい舌で口の外に押し出してしまう。

試しにマグロのお刺身を叩いてすりつぶして、亜麻仁油、レンジアレン、ミヤリサン、デキストリン少々を混ぜてシリンジであげたら、このほうがよく呑み込む。

とりあえずマグロと亜麻仁油を毎日あげていたら、DHAが脳に効いたのか、以前のように生き生きしてきて、ゴロにゃあ!と爆裂するようになり、自分で水を飲み、毛づくろいもするように戻り、、便秘もなおって、吐かなくなった!

きのうは10cmの直線一本のうんこをして、朝、私にそれを知らせるために、うにゃあ!うにゃあ!と元気に私を起こした。きょうも7cmのうんこでうにゃあ!うにゃあ!

私が外から帰宅すると、すぐに膝の上にきてゴロゴロ甘えておしゃべり。

そしてなんと19歳と5か月にしてジャンプ力が戻った。

今年の2月くらいにはまだジャンプして上っていたが、夏には上れなくなった私の絵の具箱の引き出し(高さ1m)の上や、流し台の上に、また乗っかるようになった。

無農薬のカブの葉っぱもまた食べるようになった。

体重も一番具合の悪かった時の3.2kgから3.4kgに増えた。(老猫だから維持だけで増えるのは無理、と快作先生に言われていたのに・・・)

ネットで調べると、お刺身など生魚は、チアミン欠乏症(ビタミンB1の破壊)や黄色脂肪症(ビタミンEの破壊)の危険があるので、あげすぎはよくないと書いてある。

快作先生に聞いたところは、まだ、あげすぎというほどではないから、だいじょうぶ、と言われたが。

とりあえずFKWかk/dのウエットと、マグロには亜麻仁油またはえごま油とオリーブオイル(ビタミンE)を少量混ぜてあげて、様子をみようと思う。

きのうのちゃび。

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私の(ジャージの)ひざの上にしょっちゅう乗ってきて甘えるちゃび。

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最近の書道。「月落烏啼風傳鴈信」。月落ち烏啼き風は鴈信を傳う。

本部からのお手本には「ふうふがんしん」と書いてある。「ふうでんがんしん」ではないのか?鴈という字はわりとうまくいったと思うが、傳の「寸づくり」が左に曲がってしまった。

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「かいちつほうきん」。「帙を開き琴を抱く」(陳方)。「開」の門構えがすごく難しくて苦手。特に「右反跳勢」という縦画がなかなかうまくいかない。

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6月28日に痛めた右上腕の筋膜がずっと痛くて、11月から新しい治療法を求めて治療院をかえ、本格的な電気治療に通っている。

(治療院をかえたもうひとつの大きな理由は、客への楽しいサービスだと勘違いしているうるさいおしゃべり、院長が従業員を侮蔑、揶揄する大声のしゃべりが、あまりに不快で我慢できなかったからだ。)

ちょっとひねった右腕の損傷がこんなに大事になるとは思わなかった。絵を描くのにも筆や鉛筆を持つ右腕なので、常に嫌な感じの痛みがあると本当に辛くて、夜寝る時にも痛いので困っている。

どうしても治らないようならMRIを撮影して筋膜断裂の状態を診て、場合によっては手術、と言われている。

右腕を上に伸ばしたり、背中のほうに腕を曲げるストレッチなどが痛くてできない状態なので、背中の筋肉も凝って苦しい。

傷めたところにカイロを貼ってあたためて、少しずつ稼働域を広げるリハビリを前向きにがんばっている。

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2016年5月 3日 (火)

高円寺大道芸2016

5月1日

4月30日から5月1日、恒例の「高円寺びっくり大道芸」。

街中、いたるところで風にのってハゴロモジャスミンのむせるように甘い香りがした。時折、柑橘系の花の香りが混じった。

まずは通算10回のけん玉日本一を誇る伊藤佑介さん。高円寺の大道芸に来るのは初めて。

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三万種類もの技の中からオリジナル技などを見せてくれる。

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なんとも誠実な感じで、派手さはないがしゃべりかたも非常に魅力的。

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次は毎年見ているセクシーDAVINCI。

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相変わらずしなやかな肢体で愛嬌たっぷりに笑わせる。美しいおしりも健在。

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そして初めて見てすごく魅せられたのはThe Enhlish Gents(ザ・イングリッシュ・ジェンツ)。

ネットで調べるとデニス・ロックとハミッシュ・マッキャンという名だが、ハミッシュはデニスからなぜか「ルパートくん」と呼ばれていた。

まずはすました英国紳士の装いで上品に紅茶をすする仕草から始まる。

それから地面に両手をつき、まるで重力がないかのように身体を浮かせてから、片手でスプーンを持ち紅茶をかき混ぜて優雅にすする仕草。

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両手の上に相方の両足を乗せて。

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この状態から人ひとり両手で持ち上げたまま起立。

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「私たちは紳士ですので、決して下品なことはしません。」とデニスがしゃべっている時に服を脱いではしゃぐ「ルパートくん」。「ルパート!だめだよ。きょうはファミリーのショーだよ。」と止めつつ、「裸を見たいですか?日本の皆さん、kinkyだね。」と脱ぐ二人。

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ハムストリングス(下肢後面をつくる筋肉)で人ひとりをもちあげる技。Sdsc08569

パンケーキという技。

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「こちら側にいる皆さんはお見苦しいので。おしりのほうから撮ったらだめだよ!」と言っている図。

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一番前の真正面で撮影していたら、「写真を撮ってますよね。」と言われ、「ではいいポーズをしましょう。クリスマスカードのようなポーズ。」

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究極の力技とすごいバランス技が淡々と続く。

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「それでは最後に私たちにしかできない技をやります。」と言って左手でルパートさんを上げる。

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この技は失敗し、「もう一回やっていいですか?」と聞いて今度は右手で上げる。

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この状態でだんだんと立ち上がる。
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フィナーレ「すき焼きが食べた~い!」と叫んで立ち上がる(後ろで見ていた小学生が興奮して万歳)。

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片手で軽々と山高帽をとって挨拶。後ろの小学生がずっと万歳。
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美しく驚異的な力技とバランス技にしゃれたウィット満載。

非常に洗練された芸、まさに悪魔的な魅力だが、これが小学校の校庭で見られたことが感無量。

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2016年4月29日 (金)

一ノ関圭 手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞

4月28日

一ノ関圭先生が第20回手塚治虫文化賞のマンガ大賞を受賞!!おめでとうございます。

一ノ関先生は、私が子どもの頃から心酔していた本当に大、大好きな漫画家さんです。

あまりに一ノ関圭先生の絵に惚れこんでていた私は、『デッサンの基本』をつくる時に、どうしても先生のデッサンを本に載せたくて、先生にわがままを言ってお願いした。

そして一ノ関先生とお会いして、お話を伺う機会を得た。

一ノ関圭先生は、思っていたとおり、とても聡明なかた。余計なものがなく、正直で、寡黙で、才能のある人ならではの、自分の創作に集中する激しさを秘めておられるかただった。

体験と思考が収斂して、それが深いところに集中していく感じというのか、この人は本当にすごい人だと思わせる空気。

本当にかっこいいかたです。

「裸のお百」の掲載されている『ビッグゴールド』を今も持っている。

ものがたりの最後で、お百が黒死病(ペスト)になってしまったところの「見ないで!あたしを見ないで!見ないで!」というネームのシーン、『ビッグゴールド』掲載時はミケランジェロの「瀕死の奴隷」の絵になっていたと思う。それがコミックス(単行本)に収められた時は頭を抱えてうずくまる女性の身体の絵にかえられていた。

私が激しく一ノ関圭に惹かれた理由に、もちろんなまめかしい人物の線と表情と、濃やかな心理描写というのは大きいのだが、女の生きざま、特に今よりもっと女性にとって厳しく生きづらい時代に、女がおのれの生を燃やし尽くして生きるありさまを描いたものがたりに惹かれる。

「らんぷの下」、「だんぶりの家」、「女傑往来」など。

特に「だんぶりの家」は、幼い頃から誰よりも頭がよくて、活発で、きかん気で、意志が強く努力家の、「かんな」という女の子がとても魅力的で、彼女が数々の困難を乗り越えて女医の道を歩んでいく話と思いきや、あっさりと東北の飢饉のせいで亡くなってしまう、涙なくしては読めない話。

もうひとつ、一ノ関圭にひどく惹かれた理由は、「絵を志す」人を描き切ったことだ。

本物の絵描きが描かない限り、「絵を志す」ものの凄惨さが描けるはずもなく、今まで数限りなくあった「絵を志す」人がテーマのマンガ(たとえば昨今の美大生が主要な登場人物であるものなど)はまともに読めないものが多かった。

一ノ関圭だけがその凄惨さを描いた。

「らんぷの下」は、当時、才能があっても女が絵で身を立てていくには厳しい時代、青木繁を愛し捨てられた女が、自分の絵の才能を開花させることを捨てて、青木繁のライバルに身を捧げる話(結局破局するが)。

「黒まんとの死」は、同じ画塾に通う主人公が、「黒まんと」の絵の才能に心底嫉妬し、その嫉妬が「黒まんと」を死に追いやる話。

絵の才能がある者と、才能がない者の、いかんともしがたい差と、軋轢と、さらによしんば才能があったとしても報われなかったり、あっけなくこの世を去ってしまったりすることの無情を、一ノ関圭は描き切っているのだ。

(しかし一ノ関圭が描いた、絵の才能をもつ者に対するもたない者の嫉妬というテーマも、経済のもとになにもかも平準化されてしまう今の時代には、わかりにくいテーマになっているのかもしれない。)

「裸のお百」の主要人物「らくだ」(弥平)が作中で描いた絵(挑戦的な人体群像)が素晴らしいのに、黒田清輝だけが反対して白馬会の展覧会に飾られなかったことが、自分のことのようにショックだったので、どうしてもその絵を『デッサンの基本』に載せたかった。

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2016年4月25日 (月)

宇野亜喜良さん訪問 / 沢渡朔ナディア展 / 銀座奥野ビル

4月15日

小学生の時から憧れていた宇野亜喜良さんの仕事場を訪問。

宇野亜喜良さんの次に出る画集のゲラや、私が持参した『ILLUSTRATION NOW 宇野亜喜良の世界 失楽園の妖精たち』(1974年、立風書房)を見ながら、その絵が描かれた当時の思い出など、非常に興味深いお話をたくさんうかがった。

首に細いスカーフを巻き、長い花柄のスカートをはいた少女の絵。

・・・「あの頃(60年代)、僕は銀座にいたんだけど、みゆき族っていうのがいてね。中学生や高校生の女の子が大きな紙袋を持って、銀座のトイレで着替えて街に繰り出す。マキシが流行っててね。警察に取り締まられていなくなっちゃったんだけど、誰かが悪さしたのかな。」

若い頃の宇野さんの奥様(元女優の集三枝子(つどいみえこ)さん)が女性器のかたちをした大きなオブジェに両足を入れて、裸で背中を向けて立っている写真。

・・・「これ(オブジェ)、ジュサブローが作ったんだけど、不評でねえ。おまんじゅうみたいだってみんな言うのよ。ジュサブローは子どももいるけど、やっぱり女性にはあんまり興味が持てなかったのかな。」

巌谷國士の本に描いた挿絵。

・・・「今は澁澤龍彦を受け継ぐ人がいないな。このひともちょっと違うしね。」

私が怖すぎてショックを受けた竹内健の『世界でいちばんコワイ話』の挿絵。

・・・「この人が寺山さんに会って演劇を勧めたらしい。」と宇野さんはおっしゃった。

私がはるか昔に読んだこの本の内容を曖昧だが覚えていて、その話をしたら、「よく覚えてるね。」と感心された。

赤から始まって青色、黄色、銀色、紫色、藍色とそれぞれの色をイメージした恐ろしい話が続く。各話の冒頭に短歌が載っている(あかねさすむらさきのゆきしめのゆき・・・など)。初めの」「赤」は「ママのマニュキアが真っ赤に光っている・・」というような文で始まる母親に殺される少年の話。「黄色」は盲目の少女の瞼を少年が切る話。最後は「藍色」で深い湖に落ちるとその底に穴があり、その穴を落ちるとさらに深い湖があり、永遠に落ちて行くという話、さらに宇宙の暗闇の黒色で終わったような気がする。

『新婦人』の表紙(1961~1966)。

・・・紙を頭のかたちにくりぬいてカメラの前におき、その紙に背景と同じくらいの光を当てて顔を撮影し、イラストと合体させたそうだ。麻生れい子(その当時のトップモデル)が「宇野さんは私を小人にするからイヤなんて言ったんだよ。」

セーラー21金ペンのジュリー(沢田研二)が馬に乗っている絵。

・・・(TVCMでは)「ジュリーが馬に乗っているように見せるために、お金を入れて動く遊具に乗せてやったら、全然馬に見えなくてね。そしたら半日練習して本物の馬に乗ったんだ。ジュリーはよくやった。」とのこと。ジュリーは最近太りましたよね、と言ったら「あそこまで気にしないっていうのもかわいい。」とおっしゃった。

「あの頃のモデルはみんな気概があったな。井上順の奥さんだった青木エミなんかも、顔だけ出して胸は胸専門のモデルのを使おうって言ったら、私の顔に違う人の胸をつけるのはおかしいんで、私が脱ぎます、なんて言ってね。」

沼正三の『家畜人ヤプー』の挿絵。

・・・「沼正三は誰だかわからなくてね。あの頃はどこかの出版社の編集長だとか言われてたな。」

『デザイン』(1965)の表紙。

・・・この頃まだなかった「スーパーリアリズムをアクリル絵の具でやってみた。」

Aquiraxというサインについて。

・・・「亀倉雄策はKame、伊藤憲治はKen、みたいにみんなサインは短かったんだけど、関西のデザイナーの早川良雄や山城隆一のサインが長いのを見て、長いサインにした。」

沢渡朔さんが撮った宇野亜喜良さんの若い時の写真について。

・・・「これ、滅茶苦茶かっこいいんですよね。」と言うと、「これ、女性器を胸にペイントして、毛をつけてるの。」と言われ、驚く私に「ヘアメイクの人がいたから簡単にできた。」と。

私も先日行ったAKIO NAGASAWA ギャラリーの「NADIA展」で沢渡朔さんに会われたそうだ。「朔君は口数が少ないでしょ。」と仰っていた。NADIAを撮るために、奥様を実家に帰してから旅立ったとか、その時初めて聞いた、と。沢渡朔さんの娘さんはよく仕事場に遊びに来られていたそうだ。

沢渡さんが昔、秋吉久美子を撮った写真集が近く出るとか。「高畠華宵はその時代と切り離せない画家だけど、竹久夢二は現代でも通る。彼もそういう写真家だな。」

詩人について。

・・・「詩人ていうのは、みんなナルシストだね。自分の声が好きなのか、詩の言葉が好きなのか、朗読したがる。河盛好蔵がコクトーの講演会に行ってキンキン声でがっかりしたなんて言ってたな。」

白石かずこさんの娘さんを連れてデヴィット・ボウイやT-REXのコンサートに行ったことがあるそうだ。「そしたらピアノの発表会に行くような服装で来たからびっくりしたね。会場は子どもたちと老人だったな。」

現代美術について。

・・・「今、現代美術って言ってるものは、昔の現代美術とは違うね。昔はコンセプトがあったけど、今は売れたらなんでも現代美術だって言ってる。」

「僕の絵を、あるカテゴライズでくくってグループ展に出すのは断っている。分類やタイトルが何か違う、と思って。」

最近売れているある絵描きXの話が出て、「彼はすごくよく描いてるから。」と宇野さんが言われた時、「私はXは好きじゃありません。宇野先生のように、少ない線と微妙な色で多くを物語る絵が好きです。絵の詩情、想像力をかきたてる強度がまったく異なる。」と言ったら「そう言われると嬉しいけどね。」と仰った。

それから、恐る恐る私の絵を見ていただいた。私はほとんど人物を描くことがないので、宇野亜喜良さんはまったく興味を持ってくださらないと思っていた。

以前の作品の絵葉書とスケッチブックを見ていただいたら、「こういう絵を描いているんならXなんか物足りないでしょう。」と言われて感激した。私の絵を「北欧の画家の絵のように感じる。レンブラントとか、デゥーラーとか。」と言われて驚く。

薄紫の細い筋がはいったアネモネの(私の)絵について、「これはホワイト使ってるの?」と聞かれて「これは全く使ってません。」と応える。

ホワイトを使っているのかいないのかを聞かれたことに、ものすごく感動した。

ある絵に関しては、一切の修正(ホワイト)を入れないことが、絵の臨場感であるということ、ある絵に関しては、最初からホワイトでハイライトを入れることを前提で描くのが当然であるということ、それはその絵、それぞれの必然であること。

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麻布十番のあたりは、父が生まれたところであり、私が幼い頃、祖母に連れられて祖父のお墓参りの後に、よくこの商店街で食事をしていた記憶がある。

短い商店街を一周すると、いくつか昭和の面影のお店が残っていた。

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昔、祖母の仲の良かった友達の家が、この近く、麻布狸穴(まみあな)のあたりにあり、よく連れて行ってもらった。

その家は、私の背よりはるかに高い向日葵やあかまんま(オオケタデ)、百日草や花魁草が咲き乱れる庭の中に埋もれるような木の家だった。その庭を探検するだけで夢のように楽しかった。

「まんまの樹」(オオケタデ)が大好きになったのはその頃。

子供心にも、都会の真ん中にそこだけぽつんと鬱蒼とした花園と古い木造の家があることがとても不思議だった。まさに私にとって「秘密の花園」だった。

(今思うと、戦争で祖父母と父が住んでいた家はなくなってしまったけれど、そのお宅は残ったのだろう。祖父母と父は疎開から帰って来て西新宿に住んだ。)

ひとつ年上の男の子がいて、きれいな御菓子の箱に大切に集めていた宝物をくれた。

それは、その家で脱皮した白い蛇の抜け殻や、庭で収集したいろんな種類の蝉の抜け殻だった。「くれるの?本当にいいの?」と私は大喜びしていただいて帰り、毎日その箱を開けてながめていた。

大きなお姉さんが3人いて、水野英子の大人っぽいまんがを読ませてもらって意味もわからず夢中になったりした。

いつしかその家がなくなって、その家族がどこに引っ越したのか私にはわからないのだが。夢のような素敵な家のこと、かわいがってもらったことをずっと覚えている。

4月10日

沢渡朔さんからご案内をいただいていた「ナディア」展の最終日、銀座のAKIO NAGASAWA ギャラリーへ。

暗いところで撮った動きの残像が残る幻想的なモノクロの写真をずっと見ていた。

ナディアのモノクロとカラーの写真集(54000円)とモノクロのみの写真集(32400円)カラーのみの写真集(27000)円の出版記念展らしかった。

そのあともうひとつ沢渡さんの展示をしているギャラリー小柳に向かったが、日曜休廊だった。

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通りががりのLIXILで、偶然「薬草の博物誌」展をやっていたので入った。私の大好きな関根雲停の原画を見られたので興奮した。

以前、牧野富太郎コレクションの展示の時にも関根雲停を見ることができたのだが、今回、一番痺れたのは「蝦夷蒲公英(えぞたんぽぽ)」。次に「月見草」と「翁草」。

「翁草」はいろんな色の花首だけを描いている。紫色の中の一部に紅色をぼかして入れていた。

「蝦夷蒲公英」は葉も花びらも捩じれている珍しい「糸咲き」の花だった。茎には緑を塗らずに赤い色のぼかしの部分を描いただけなのにも感心した。

「月見草」はひとつの画面にびっしり、書き損じの上にも重ねて変化の局面を描いていた。

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それから1丁目のあたりを散歩。古いお洒落な建物を発見。岩瀬博美商店と書いてあるかっこいい外灯のついた建物。

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一階に「美術書 絵畫 閑々堂」という看板の店がはいっている古い建物。

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その後、私が以前個展をやった画廊のすぐ近くの奥野ビルは今どうなっているのか見に行ってみた。

細い道を挟んで向かいに大きな新しいビルが建っていて、まわりの様子がすっかり変わっていたのですぐに場所がわからなかった。私が個展をやった画廊のあったビルはもうなかった。

個展をやった時は毎日通った懐かしい裏通りの店もほとんど以前の面影はなかった。

1932年竣工のアンティークな趣の奥野ビル。よくドラマの撮影に使われているようだ(「グッドパートナー」などなど)。

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しばらく来ないうちに一階はおしゃれな店になっていた。
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2016年2月 5日 (金)

百草 倉沢 / 画廊打ち合わせ

2月2日

友人と百草の山、都心に最も近い里山、日野市最後の里山と言われている倉沢を歩く。

「倉沢里山をあいする会」の人たちが守っている自然を見てみたくて。

http://www.alice-fm.info/fr_kurasawa.htm

百草園駅から百草の山を登る道。百草園に直結する坂は、とても脚と心臓にきつい急勾配だと聞き、グーグルマップにも載っていない細い山道を登る。途中、駅の方を見下ろしたところ。

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この道はさらに山の中にはいる。

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電灯ひとつない、陽が落ちたら真っ暗で危険そうな道。

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途中、左折すると「六地蔵」の方に行けるが、きょうはそちらにはいかずに「倉沢」をめざすことにする。

百草園の正面に出た時、百草園駅から25分くらいかかっていた。日向の梅はもう咲いていた。

スダジイの大木の森がある百草八幡の横を通り、このあたりから今度は下り坂になる。太腿ががくがくしそうな急な坂。寒いこともあり、脚がそうとう痛くなった。

坂を下り、しばらく平地を歩くと、ついに「倉沢」というバス停のところに着く。昔からあった「倉沢」という地名は、今は住居表示としては存在しないそうだ。

400年続いた農家、石坂ファームハウス。

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さすがの風格を感じさせる家屋とまわりの古い樹に感動。私が5歳の頃、母の母がいた田舎にタイムスリップしたよう。

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ハロウィンの顔がついていたのだが、重くて向きを変えることができない大きなかぼちゃ。
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石坂ファームハウスの庭の500歳になる大欅。

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そして、少し道に迷ったが、ついにきょうの目的のアリスの丘ファームに到着。

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左の建物は由木農場の養鶏場。コッココッコ、ピヨピヨと賑やか。昔の田舎の風景のようだ。
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本当に都心近くにこんな場所があったとは信じられない素敵なところ。
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手前はローズマリー。みんな白菜や大根、ブッロコリーなどナバナ系の野菜が多かった。
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想像以上に広々としている。暖かくなったら、もっといろんな野菜や花で溢れて楽しそうだ。
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ファームの中の道を一巡してから丘を下る。日陰の土の上には、まだ、このあいだの雪が残っていた。

駅まで戻るバスが1時間に1本くらいしかなく、痛い脚を我慢しながら「和田」というところのスーパーまで歩き、スーパーの休憩室で休む。

そのあと、多摩川の河原の方へ行った。

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生まれて4か月というかわいい犬と出逢ったりしながら、河原の端っこのほうへと歩く。
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ここも来たかった場所。昔、ここは牧場で、牛乳をつくっていたところらしい。
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不思議な噴水と溢れない池。牛の水飲み場だったのだろうか。
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ここも、よく昔のままで残っているなあ、と思う稀少な場所。
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2月4日

京橋の画廊との打ち合わせ。

今、私は本をつくることに集中したいので、とにかく本ができるまでは個展の時期を決めることができない、と話す。

とても不思議なのは、画廊主Yさんは、私をネットで見たことがなく、今の私の情報を一切持たず、なんと16年前の私の銀座での個展を見に来ていて、私のことを覚えていてくれたのだと言う。

Yさんも絵や版画や彫刻をやる人だが、去年から画廊をやることになったので、私に電話してくれたそうだ。よく私の名刺も、なくさないで持っていてくれたものだ。

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2016年1月29日 (金)

カマキン水沢勉館長からメール

1月28日

朝早く、カマキンの水沢勉館長からメールをいただいていた。そのメールを一部引用すると、

「村山槐多の言葉は「絵馬堂」です。「絵窓」ではありません。ぼくの声が寒さで震えていたので、聞き取りにくかったかもしれませんね。

facebookにそのことを書きました。」

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1671514936461994&set=a.1449261905353966.1073741828.100008105107577&type=3&theater

水沢勉さんに「絵馬堂を仰ぎて」と伺って、『ユリイカ』の「村山槐多」特集で読んだ記憶が少し蘇えってきた。
水沢勉館長のfacebookの文章を読ませていただいた。村山槐多についての文章がなんとも言えず切ない気持ちにさせられる。
「「・・・神社の絵馬堂で、日本画に限らず版画や油絵や水画やブロンズの裸像を見る事..のできる日。柏手(かしわで)の物寂びた音と共に、未だ若い人の声が、マチスやピカソを語り合う声・・・。そして敬神の日の、この古都に来たらんことを事を切に待つ。

 「古都」を「京都」ではなく、「鎌倉」と読みかえれば、16歳の槐多さんが「切に待つ。」と大正
初めに願った夢は鎌倉の近代美術館に40年後にはみごとに実現していたのです。夭逝されなければ、開館の年(1951年)に、槐多さんはまだ55歳ということになる。」(水沢勉facebookより)
カマキン開館の年に槐多が生きていたら55歳ということに驚く。大正時代の人という印象が強いが、この場所にしっかりつながっている。槐多が生きていてくれたなら、この素晴らしいカマキンという場所を堪能して、またすごい絵を描いただろう。
水沢勉さんのfacebookでは、また、若林奮先生の写真を「「ウルカヌス」的・・・」と表現されていた。
若林奮先生は誰もが惹かれてしまうほど、姿も声も仕草も素敵だった。それなのに私に「僕はね、自分の顔が嫌いなんです。」とおっしゃって、とてもびっくりしたことがあった。
ウルカヌスとはローマ神話の火の神で、ギリシャ神話のヘーパイストスと同一視される。よく種村季弘先生がヘーパイストスのお話をしてくださったことを思い出す。
ヘーパイストスは両脚が曲がった奇形の子で海に落とされて、海の底で何年も過ごした、とお話しされていた。芸術家は半身はこの世、残り半身はあの世にある、と。
種村季弘先生と一緒に陽を浴びて歩いたのは、鎌倉でも葉山でもなく、湯河原の海だ。けれど強く輝く陽光は似ている。
「ヘーパイストス」という名前と同時に種村先生姿を思い出す。あの日、光っていた山桜と蜜柑の樹と、石切り場と、葡萄色の山鳩が見える。
また種村先生の奥様の笑顔を思い出す。亡くなっていたと聞いた時、ものすごいショックを受けた。なんともかわいい素敵なかただった。
時間というものがなんとも切なく、不思議に感じられる。
2月には、また府中市美術館に若林奮先生の展覧会を見に行く予定だ。若林奮先生や種村季弘先生のことを思い出しながら。
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1999年の夏に水沢勉さんとカマキンのカフェでお茶を飲んだ時の写真。本棚から発見されたので載せておきます。たぶん「生誕100年関根正二展」の時です。水沢勉さん、カラフルなポロシャツ姿もかっこいい。
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その日、カマキンの関根正二展を見た後に、鎌倉駅の踏切の通りにあった古い素敵な木造の洋館の写真を撮った。ネットで調べると通称「鳩屋敷」と呼ばれた1930年築の病院だったようだ。
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今も、この踏切あたりを歩く時に懐かしく思い出す。繊細な木の細工が凝った建物だった。
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