文化・芸術

2016年12月 1日 (木)

ちゃび 19歳5か月 給餌の試行錯誤 / 書道

12月1日

試行錯誤により、ちゃび(19歳5か月)の体調が戻ってきたメモ。(老猫が食べられなくなったり、強制給餌に悩んでいるかたの参考に、少しでもなれたら幸いだ。)

10月10日に、ちゃびが自分で食べることができなくなり、一時はもうだめか、と思われた。自分で水を飲むことも、毛づくろいもしなくなってしまった。

今も自分では食べないので、一日一回、夜にシリンジ6~7本くらいの給餌をしている。

快作先生によると、猫は自分で食べることを忘れてしまうのは、珍しいことではなく、がんばって給餌してあげていると、ふとまた自分で食べるようになる子も珍しくない、ということだ。

ちゃびに関して私が生みだしたやりかたは、給餌を暴れて嫌がる場合は、セルシンを一錠(10mg)の1/6ほど飲ませ、10分くらいしたタイミングで給餌することだ。

ちゃびはFKW(スペシフィックの腎不全、肝不全、心不全用)があまり好きでないようで、シリンジであげると、半分量くらい舌で口の外に押し出してしまう。

試しにマグロのお刺身を叩いてすりつぶして、亜麻仁油、レンジアレン、ミヤリサン、デキストリン少々を混ぜてシリンジであげたら、このほうがよく呑み込む。

とりあえずマグロと亜麻仁油を毎日あげていたら、DHAが脳に効いたのか、以前のように生き生きしてきて、ゴロにゃあ!と爆裂するようになり、自分で水を飲み、毛づくろいもするように戻り、、便秘もなおって、吐かなくなった!

きのうは10cmの直線一本のうんこをして、朝、私にそれを知らせるために、うにゃあ!うにゃあ!と元気に私を起こした。きょうも7cmのうんこでうにゃあ!うにゃあ!

私が外から帰宅すると、すぐに膝の上にきてゴロゴロ甘えておしゃべり。

そしてなんと19歳と5か月にしてジャンプ力が戻った。

今年の2月くらいにはまだジャンプして上っていたが、夏には上れなくなった私の絵の具箱の引き出し(高さ1m)の上や、流し台の上に、また乗っかるようになった。

無農薬のカブの葉っぱもまた食べるようになった。

体重も一番具合の悪かった時の3.2kgから3.4kgに増えた。(老猫だから維持だけで増えるのは無理、と快作先生に言われていたのに・・・)

ネットで調べると、お刺身など生魚は、チアミン欠乏症(ビタミンB1の破壊)や黄色脂肪症(ビタミンEの破壊)の危険があるので、あげすぎはよくないと書いてある。

快作先生に聞いたところは、まだ、あげすぎというほどではないから、だいじょうぶ、と言われたが。

とりあえずFKWかk/dのウエットと、マグロには亜麻仁油またはえごま油とオリーブオイル(ビタミンE)を少量混ぜてあげて、様子をみようと思う。

きのうのちゃび。

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私の(ジャージの)ひざの上にしょっちゅう乗ってきて甘えるちゃび。

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・・・・

最近の書道。「月落烏啼風傳鴈信」。月落ち烏啼き風は鴈信を傳う。

本部からのお手本には「ふうふがんしん」と書いてある。「ふうでんがんしん」ではないのか?鴈という字はわりとうまくいったと思うが、傳の「寸づくり」が左に曲がってしまった。

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「かいちつほうきん」。「帙を開き琴を抱く」(陳方)。「開」の門構えがすごく難しくて苦手。特に「右反跳勢」という縦画がなかなかうまくいかない。

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6月28日に痛めた右上腕の筋膜がずっと痛くて、11月から新しい治療法を求めて治療院をかえ、本格的な電気治療に通っている。

(治療院をかえたもうひとつの大きな理由は、客への楽しいサービスだと勘違いしているうるさいおしゃべり、院長が従業員を侮蔑、揶揄する大声のしゃべりが、あまりに不快で我慢できなかったからだ。)

ちょっとひねった右腕の損傷がこんなに大事になるとは思わなかった。絵を描くのにも筆や鉛筆を持つ右腕なので、常に嫌な感じの痛みがあると本当に辛くて、夜寝る時にも痛いので困っている。

どうしても治らないようならMRIを撮影して筋膜断裂の状態を診て、場合によっては手術、と言われている。

右腕を上に伸ばしたり、背中のほうに腕を曲げるストレッチなどが痛くてできない状態なので、背中の筋肉も凝って苦しい。

傷めたところにカイロを貼ってあたためて、少しずつ稼働域を広げるリハビリを前向きにがんばっている。

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2016年5月 3日 (火)

高円寺大道芸2016

5月1日

4月30日から5月1日、恒例の「高円寺びっくり大道芸」。

街中、いたるところで風にのってハゴロモジャスミンのむせるように甘い香りがした。時折、柑橘系の花の香りが混じった。

まずは通算10回のけん玉日本一を誇る伊藤佑介さん。高円寺の大道芸に来るのは初めて。

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三万種類もの技の中からオリジナル技などを見せてくれる。

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なんとも誠実な感じで、派手さはないがしゃべりかたも非常に魅力的。

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次は毎年見ているセクシーDAVINCI。

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相変わらずしなやかな肢体で愛嬌たっぷりに笑わせる。美しいおしりも健在。

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そして初めて見てすごく魅せられたのはThe Enhlish Gents(ザ・イングリッシュ・ジェンツ)。

ネットで調べるとデニス・ロックとハミッシュ・マッキャンという名だが、ハミッシュはデニスからなぜか「ルパートくん」と呼ばれていた。

まずはすました英国紳士の装いで上品に紅茶をすする仕草から始まる。

それから地面に両手をつき、まるで重力がないかのように身体を浮かせてから、片手でスプーンを持ち紅茶をかき混ぜて優雅にすする仕草。

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両手の上に相方の両足を乗せて。

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この状態から人ひとり両手で持ち上げたまま起立。

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「私たちは紳士ですので、決して下品なことはしません。」とデニスがしゃべっている時に服を脱いではしゃぐ「ルパートくん」。「ルパート!だめだよ。きょうはファミリーのショーだよ。」と止めつつ、「裸を見たいですか?日本の皆さん、kinkyだね。」と脱ぐ二人。

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ハムストリングス(下肢後面をつくる筋肉)で人ひとりをもちあげる技。Sdsc08569

パンケーキという技。

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「こちら側にいる皆さんはお見苦しいので。おしりのほうから撮ったらだめだよ!」と言っている図。

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一番前の真正面で撮影していたら、「写真を撮ってますよね。」と言われ、「ではいいポーズをしましょう。クリスマスカードのようなポーズ。」

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究極の力技とすごいバランス技が淡々と続く。

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「それでは最後に私たちにしかできない技をやります。」と言って左手でルパートさんを上げる。

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この技は失敗し、「もう一回やっていいですか?」と聞いて今度は右手で上げる。

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この状態でだんだんと立ち上がる。
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フィナーレ「すき焼きが食べた~い!」と叫んで立ち上がる(後ろで見ていた小学生が興奮して万歳)。

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片手で軽々と山高帽をとって挨拶。後ろの小学生がずっと万歳。
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美しく驚異的な力技とバランス技にしゃれたウィット満載。

非常に洗練された芸、まさに悪魔的な魅力だが、これが小学校の校庭で見られたことが感無量。

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2016年4月29日 (金)

一ノ関圭 手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞

4月28日

一ノ関圭先生が第20回手塚治虫文化賞のマンガ大賞を受賞!!おめでとうございます。

一ノ関先生は、私が子どもの頃から心酔していた本当に大、大好きな漫画家さんです。

あまりに一ノ関圭先生の絵に惚れこんでていた私は、『デッサンの基本』をつくる時に、どうしても先生のデッサンを本に載せたくて、先生にわがままを言ってお願いした。

そして一ノ関先生とお会いして、お話を伺う機会を得た。

一ノ関圭先生は、思っていたとおり、とても聡明なかた。余計なものがなく、正直で、寡黙で、才能のある人ならではの、自分の創作に集中する激しさを秘めておられるかただった。

体験と思考が収斂して、それが深いところに集中していく感じというのか、この人は本当にすごい人だと思わせる空気。

本当にかっこいいかたです。

「裸のお百」の掲載されている『ビッグゴールド』を今も持っている。

ものがたりの最後で、お百が黒死病(ペスト)になってしまったところの「見ないで!あたしを見ないで!見ないで!」というネームのシーン、『ビッグゴールド』掲載時はミケランジェロの「瀕死の奴隷」の絵になっていたと思う。それがコミックス(単行本)に収められた時は頭を抱えてうずくまる女性の身体の絵にかえられていた。

私が激しく一ノ関圭に惹かれた理由に、もちろんなまめかしい人物の線と表情と、濃やかな心理描写というのは大きいのだが、女の生きざま、特に今よりもっと女性にとって厳しく生きづらい時代に、女がおのれの生を燃やし尽くして生きるありさまを描いたものがたりに惹かれる。

「らんぷの下」、「だんぶりの家」、「女傑往来」など。

特に「だんぶりの家」は、幼い頃から誰よりも頭がよくて、活発で、きかん気で、意志が強く努力家の、「かんな」という女の子がとても魅力的で、彼女が数々の困難を乗り越えて女医の道を歩んでいく話と思いきや、あっさりと東北の飢饉のせいで亡くなってしまう、涙なくしては読めない話。

もうひとつ、一ノ関圭にひどく惹かれた理由は、「絵を志す」人を描き切ったことだ。

本物の絵描きが描かない限り、「絵を志す」ものの凄惨さが描けるはずもなく、今まで数限りなくあった「絵を志す」人がテーマのマンガ(たとえば昨今の美大生が主要な登場人物であるものなど)はまともに読めないものが多かった。

一ノ関圭だけがその凄惨さを描いた。

「らんぷの下」は、当時、才能があっても女が絵で身を立てていくには厳しい時代、青木繁を愛し捨てられた女が、自分の絵の才能を開花させることを捨てて、青木繁のライバルに身を捧げる話(結局破局するが)。

「黒まんとの死」は、同じ画塾に通う主人公が、「黒まんと」の絵の才能に心底嫉妬し、その嫉妬が「黒まんと」を死に追いやる話。

絵の才能がある者と、才能がない者の、いかんともしがたい差と、軋轢と、さらによしんば才能があったとしても報われなかったり、あっけなくこの世を去ってしまったりすることの無情を、一ノ関圭は描き切っているのだ。

(しかし一ノ関圭が描いた、絵の才能をもつ者に対するもたない者の嫉妬というテーマも、経済のもとになにもかも平準化されてしまう今の時代には、わかりにくいテーマになっているのかもしれない。)

「裸のお百」の主要人物「らくだ」(弥平)が作中で描いた絵(挑戦的な人体群像)が素晴らしいのに、黒田清輝だけが反対して白馬会の展覧会に飾られなかったことが、自分のことのようにショックだったので、どうしてもその絵を『デッサンの基本』に載せたかった。

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2016年4月25日 (月)

宇野亜喜良さん訪問 / 沢渡朔ナディア展 / 銀座奥野ビル

4月15日

小学生の時から憧れていた宇野亜喜良さんの仕事場を訪問。

宇野亜喜良さんの次に出る画集のゲラや、私が持参した『ILLUSTRATION NOW 宇野亜喜良の世界 失楽園の妖精たち』(1974年、立風書房)を見ながら、その絵が描かれた当時の思い出など、非常に興味深いお話をたくさんうかがった。

首に細いスカーフを巻き、長い花柄のスカートをはいた少女の絵。

・・・「あの頃(60年代)、僕は銀座にいたんだけど、みゆき族っていうのがいてね。中学生や高校生の女の子が大きな紙袋を持って、銀座のトイレで着替えて街に繰り出す。マキシが流行っててね。警察に取り締まられていなくなっちゃったんだけど、誰かが悪さしたのかな。」

若い頃の宇野さんの奥様(元女優の集三枝子(つどいみえこ)さん)が女性器のかたちをした大きなオブジェに両足を入れて、裸で背中を向けて立っている写真。

・・・「これ(オブジェ)、ジュサブローが作ったんだけど、不評でねえ。おまんじゅうみたいだってみんな言うのよ。ジュサブローは子どももいるけど、やっぱり女性にはあんまり興味が持てなかったのかな。」

巌谷國士の本に描いた挿絵。

・・・「今は澁澤龍彦を受け継ぐ人がいないな。このひともちょっと違うしね。」

私が怖すぎてショックを受けた竹内健の『世界でいちばんコワイ話』の挿絵。

・・・「この人が寺山さんに会って演劇を勧めたらしい。」と宇野さんはおっしゃった。

私がはるか昔に読んだこの本の内容を曖昧だが覚えていて、その話をしたら、「よく覚えてるね。」と感心された。

赤から始まって青色、黄色、銀色、紫色、藍色とそれぞれの色をイメージした恐ろしい話が続く。各話の冒頭に短歌が載っている(あかねさすむらさきのゆきしめのゆき・・・など)。初めの」「赤」は「ママのマニュキアが真っ赤に光っている・・」というような文で始まる母親に殺される少年の話。「黄色」は盲目の少女の瞼を少年が切る話。最後は「藍色」で深い湖に落ちるとその底に穴があり、その穴を落ちるとさらに深い湖があり、永遠に落ちて行くという話、さらに宇宙の暗闇の黒色で終わったような気がする。

『新婦人』の表紙(1961~1966)。

・・・紙を頭のかたちにくりぬいてカメラの前におき、その紙に背景と同じくらいの光を当てて顔を撮影し、イラストと合体させたそうだ。麻生れい子(その当時のトップモデル)が「宇野さんは私を小人にするからイヤなんて言ったんだよ。」

セーラー21金ペンのジュリー(沢田研二)が馬に乗っている絵。

・・・(TVCMでは)「ジュリーが馬に乗っているように見せるために、お金を入れて動く遊具に乗せてやったら、全然馬に見えなくてね。そしたら半日練習して本物の馬に乗ったんだ。ジュリーはよくやった。」とのこと。ジュリーは最近太りましたよね、と言ったら「あそこまで気にしないっていうのもかわいい。」とおっしゃった。

「あの頃のモデルはみんな気概があったな。井上順の奥さんだった青木エミなんかも、顔だけ出して胸は胸専門のモデルのを使おうって言ったら、私の顔に違う人の胸をつけるのはおかしいんで、私が脱ぎます、なんて言ってね。」

沼正三の『家畜人ヤプー』の挿絵。

・・・「沼正三は誰だかわからなくてね。あの頃はどこかの出版社の編集長だとか言われてたな。」

『デザイン』(1965)の表紙。

・・・この頃まだなかった「スーパーリアリズムをアクリル絵の具でやってみた。」

Aquiraxというサインについて。

・・・「亀倉雄策はKame、伊藤憲治はKen、みたいにみんなサインは短かったんだけど、関西のデザイナーの早川良雄や山城隆一のサインが長いのを見て、長いサインにした。」

沢渡朔さんが撮った宇野亜喜良さんの若い時の写真について。

・・・「これ、滅茶苦茶かっこいいんですよね。」と言うと、「これ、女性器を胸にペイントして、毛をつけてるの。」と言われ、驚く私に「ヘアメイクの人がいたから簡単にできた。」と。

私も先日行ったAKIO NAGASAWA ギャラリーの「NADIA展」で沢渡朔さんに会われたそうだ。「朔君は口数が少ないでしょ。」と仰っていた。NADIAを撮るために、奥様を実家に帰してから旅立ったとか、その時初めて聞いた、と。沢渡朔さんの娘さんはよく仕事場に遊びに来られていたそうだ。

沢渡さんが昔、秋吉久美子を撮った写真集が近く出るとか。「高畠華宵はその時代と切り離せない画家だけど、竹久夢二は現代でも通る。彼もそういう写真家だな。」

詩人について。

・・・「詩人ていうのは、みんなナルシストだね。自分の声が好きなのか、詩の言葉が好きなのか、朗読したがる。河盛好蔵がコクトーの講演会に行ってキンキン声でがっかりしたなんて言ってたな。」

白石かずこさんの娘さんを連れてデヴィット・ボウイやT-REXのコンサートに行ったことがあるそうだ。「そしたらピアノの発表会に行くような服装で来たからびっくりしたね。会場は子どもたちと老人だったな。」

現代美術について。

・・・「今、現代美術って言ってるものは、昔の現代美術とは違うね。昔はコンセプトがあったけど、今は売れたらなんでも現代美術だって言ってる。」

「僕の絵を、あるカテゴライズでくくってグループ展に出すのは断っている。分類やタイトルが何か違う、と思って。」

最近売れているある絵描きXの話が出て、「彼はすごくよく描いてるから。」と宇野さんが言われた時、「私はXは好きじゃありません。宇野先生のように、少ない線と微妙な色で多くを物語る絵が好きです。絵の詩情、想像力をかきたてる強度がまったく異なる。」と言ったら「そう言われると嬉しいけどね。」と仰った。

それから、恐る恐る私の絵を見ていただいた。私はほとんど人物を描くことがないので、宇野亜喜良さんはまったく興味を持ってくださらないと思っていた。

以前の作品の絵葉書とスケッチブックを見ていただいたら、「こういう絵を描いているんならXなんか物足りないでしょう。」と言われて感激した。私の絵を「北欧の画家の絵のように感じる。レンブラントとか、デゥーラーとか。」と言われて驚く。

薄紫の細い筋がはいったアネモネの(私の)絵について、「これはホワイト使ってるの?」と聞かれて「これは全く使ってません。」と応える。

ホワイトを使っているのかいないのかを聞かれたことに、ものすごく感動した。

ある絵に関しては、一切の修正(ホワイト)を入れないことが、絵の臨場感であるということ、ある絵に関しては、最初からホワイトでハイライトを入れることを前提で描くのが当然であるということ、それはその絵、それぞれの必然であること。

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麻布十番のあたりは、父が生まれたところであり、私が幼い頃、祖母に連れられて祖父のお墓参りの後に、よくこの商店街で食事をしていた記憶がある。

短い商店街を一周すると、いくつか昭和の面影のお店が残っていた。

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昔、祖母の仲の良かった友達の家が、この近く、麻布狸穴(まみあな)のあたりにあり、よく連れて行ってもらった。

その家は、私の背よりはるかに高い向日葵やあかまんま(オオケタデ)、百日草や花魁草が咲き乱れる庭の中に埋もれるような木の家だった。その庭を探検するだけで夢のように楽しかった。

「まんまの樹」(オオケタデ)が大好きになったのはその頃。

子供心にも、都会の真ん中にそこだけぽつんと鬱蒼とした花園と古い木造の家があることがとても不思議だった。まさに私にとって「秘密の花園」だった。

(今思うと、戦争で祖父母と父が住んでいた家はなくなってしまったけれど、そのお宅は残ったのだろう。祖父母と父は疎開から帰って来て西新宿に住んだ。)

ひとつ年上の男の子がいて、きれいな御菓子の箱に大切に集めていた宝物をくれた。

それは、その家で脱皮した白い蛇の抜け殻や、庭で収集したいろんな種類の蝉の抜け殻だった。「くれるの?本当にいいの?」と私は大喜びしていただいて帰り、毎日その箱を開けてながめていた。

大きなお姉さんが3人いて、水野英子の大人っぽいまんがを読ませてもらって意味もわからず夢中になったりした。

いつしかその家がなくなって、その家族がどこに引っ越したのか私にはわからないのだが。夢のような素敵な家のこと、かわいがってもらったことをずっと覚えている。

4月10日

沢渡朔さんからご案内をいただいていた「ナディア」展の最終日、銀座のAKIO NAGASAWA ギャラリーへ。

暗いところで撮った動きの残像が残る幻想的なモノクロの写真をずっと見ていた。

ナディアのモノクロとカラーの写真集(54000円)とモノクロのみの写真集(32400円)カラーのみの写真集(27000)円の出版記念展らしかった。

そのあともうひとつ沢渡さんの展示をしているギャラリー小柳に向かったが、日曜休廊だった。

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通りががりのLIXILで、偶然「薬草の博物誌」展をやっていたので入った。私の大好きな関根雲停の原画を見られたので興奮した。

以前、牧野富太郎コレクションの展示の時にも関根雲停を見ることができたのだが、今回、一番痺れたのは「蝦夷蒲公英(えぞたんぽぽ)」。次に「月見草」と「翁草」。

「翁草」はいろんな色の花首だけを描いている。紫色の中の一部に紅色をぼかして入れていた。

「蝦夷蒲公英」は葉も花びらも捩じれている珍しい「糸咲き」の花だった。茎には緑を塗らずに赤い色のぼかしの部分を描いただけなのにも感心した。

「月見草」はひとつの画面にびっしり、書き損じの上にも重ねて変化の局面を描いていた。

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それから1丁目のあたりを散歩。古いお洒落な建物を発見。岩瀬博美商店と書いてあるかっこいい外灯のついた建物。

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一階に「美術書 絵畫 閑々堂」という看板の店がはいっている古い建物。

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その後、私が以前個展をやった画廊のすぐ近くの奥野ビルは今どうなっているのか見に行ってみた。

細い道を挟んで向かいに大きな新しいビルが建っていて、まわりの様子がすっかり変わっていたのですぐに場所がわからなかった。私が個展をやった画廊のあったビルはもうなかった。

個展をやった時は毎日通った懐かしい裏通りの店もほとんど以前の面影はなかった。

1932年竣工のアンティークな趣の奥野ビル。よくドラマの撮影に使われているようだ(「グッドパートナー」などなど)。

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しばらく来ないうちに一階はおしゃれな店になっていた。
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2016年2月 5日 (金)

百草 倉沢 / 画廊打ち合わせ

2月2日

友人と百草の山、都心に最も近い里山、日野市最後の里山と言われている倉沢を歩く。

「倉沢里山をあいする会」の人たちが守っている自然を見てみたくて。

http://www.alice-fm.info/fr_kurasawa.htm

百草園駅から百草の山を登る道。百草園に直結する坂は、とても脚と心臓にきつい急勾配だと聞き、グーグルマップにも載っていない細い山道を登る。途中、駅の方を見下ろしたところ。

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この道はさらに山の中にはいる。

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電灯ひとつない、陽が落ちたら真っ暗で危険そうな道。

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途中、左折すると「六地蔵」の方に行けるが、きょうはそちらにはいかずに「倉沢」をめざすことにする。

百草園の正面に出た時、百草園駅から25分くらいかかっていた。日向の梅はもう咲いていた。

スダジイの大木の森がある百草八幡の横を通り、このあたりから今度は下り坂になる。太腿ががくがくしそうな急な坂。寒いこともあり、脚がそうとう痛くなった。

坂を下り、しばらく平地を歩くと、ついに「倉沢」というバス停のところに着く。昔からあった「倉沢」という地名は、今は住居表示としては存在しないそうだ。

400年続いた農家、石坂ファームハウス。

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さすがの風格を感じさせる家屋とまわりの古い樹に感動。私が5歳の頃、母の母がいた田舎にタイムスリップしたよう。

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ハロウィンの顔がついていたのだが、重くて向きを変えることができない大きなかぼちゃ。
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石坂ファームハウスの庭の500歳になる大欅。

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そして、少し道に迷ったが、ついにきょうの目的のアリスの丘ファームに到着。

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左の建物は由木農場の養鶏場。コッココッコ、ピヨピヨと賑やか。昔の田舎の風景のようだ。
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本当に都心近くにこんな場所があったとは信じられない素敵なところ。
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手前はローズマリー。みんな白菜や大根、ブッロコリーなどナバナ系の野菜が多かった。
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想像以上に広々としている。暖かくなったら、もっといろんな野菜や花で溢れて楽しそうだ。
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ファームの中の道を一巡してから丘を下る。日陰の土の上には、まだ、このあいだの雪が残っていた。

駅まで戻るバスが1時間に1本くらいしかなく、痛い脚を我慢しながら「和田」というところのスーパーまで歩き、スーパーの休憩室で休む。

そのあと、多摩川の河原の方へ行った。

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生まれて4か月というかわいい犬と出逢ったりしながら、河原の端っこのほうへと歩く。
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ここも来たかった場所。昔、ここは牧場で、牛乳をつくっていたところらしい。
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不思議な噴水と溢れない池。牛の水飲み場だったのだろうか。
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ここも、よく昔のままで残っているなあ、と思う稀少な場所。
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2月4日

京橋の画廊との打ち合わせ。

今、私は本をつくることに集中したいので、とにかく本ができるまでは個展の時期を決めることができない、と話す。

とても不思議なのは、画廊主Yさんは、私をネットで見たことがなく、今の私の情報を一切持たず、なんと16年前の私の銀座での個展を見に来ていて、私のことを覚えていてくれたのだと言う。

Yさんも絵や版画や彫刻をやる人だが、去年から画廊をやることになったので、私に電話してくれたそうだ。よく私の名刺も、なくさないで持っていてくれたものだ。

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2016年1月29日 (金)

カマキン水沢勉館長からメール

1月28日

朝早く、カマキンの水沢勉館長からメールをいただいていた。そのメールを一部引用すると、

「村山槐多の言葉は「絵馬堂」です。「絵窓」ではありません。ぼくの声が寒さで震えていたので、聞き取りにくかったかもしれませんね。

facebookにそのことを書きました。」

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1671514936461994&set=a.1449261905353966.1073741828.100008105107577&type=3&theater

水沢勉さんに「絵馬堂を仰ぎて」と伺って、『ユリイカ』の「村山槐多」特集で読んだ記憶が少し蘇えってきた。
水沢勉館長のfacebookの文章を読ませていただいた。村山槐多についての文章がなんとも言えず切ない気持ちにさせられる。
「「・・・神社の絵馬堂で、日本画に限らず版画や油絵や水画やブロンズの裸像を見る事..のできる日。柏手(かしわで)の物寂びた音と共に、未だ若い人の声が、マチスやピカソを語り合う声・・・。そして敬神の日の、この古都に来たらんことを事を切に待つ。

 「古都」を「京都」ではなく、「鎌倉」と読みかえれば、16歳の槐多さんが「切に待つ。」と大正
初めに願った夢は鎌倉の近代美術館に40年後にはみごとに実現していたのです。夭逝されなければ、開館の年(1951年)に、槐多さんはまだ55歳ということになる。」(水沢勉facebookより)
カマキン開館の年に槐多が生きていたら55歳ということに驚く。大正時代の人という印象が強いが、この場所にしっかりつながっている。槐多が生きていてくれたなら、この素晴らしいカマキンという場所を堪能して、またすごい絵を描いただろう。
水沢勉さんのfacebookでは、また、若林奮先生の写真を「「ウルカヌス」的・・・」と表現されていた。
若林奮先生は誰もが惹かれてしまうほど、姿も声も仕草も素敵だった。それなのに私に「僕はね、自分の顔が嫌いなんです。」とおっしゃって、とてもびっくりしたことがあった。
ウルカヌスとはローマ神話の火の神で、ギリシャ神話のヘーパイストスと同一視される。よく種村季弘先生がヘーパイストスのお話をしてくださったことを思い出す。
ヘーパイストスは両脚が曲がった奇形の子で海に落とされて、海の底で何年も過ごした、とお話しされていた。芸術家は半身はこの世、残り半身はあの世にある、と。
種村季弘先生と一緒に陽を浴びて歩いたのは、鎌倉でも葉山でもなく、湯河原の海だ。けれど強く輝く陽光は似ている。
「ヘーパイストス」という名前と同時に種村先生姿を思い出す。あの日、光っていた山桜と蜜柑の樹と、石切り場と、葡萄色の山鳩が見える。
また種村先生の奥様の笑顔を思い出す。亡くなっていたと聞いた時、ものすごいショックを受けた。なんともかわいい素敵なかただった。
時間というものがなんとも切なく、不思議に感じられる。
2月には、また府中市美術館に若林奮先生の展覧会を見に行く予定だ。若林奮先生や種村季弘先生のことを思い出しながら。
・・・
1999年の夏に水沢勉さんとカマキンのカフェでお茶を飲んだ時の写真。本棚から発見されたので載せておきます。たぶん「生誕100年関根正二展」の時です。水沢勉さん、カラフルなポロシャツ姿もかっこいい。
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その日、カマキンの関根正二展を見た後に、鎌倉駅の踏切の通りにあった古い素敵な木造の洋館の写真を撮った。ネットで調べると通称「鳩屋敷」と呼ばれた1930年築の病院だったようだ。
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今も、この踏切あたりを歩く時に懐かしく思い出す。繊細な木の細工が凝った建物だった。
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2016年1月27日 (水)

再び鎌倉 カマキンと海岸

1月26日

一昨日に続き、再び鎌倉へ。友人Fが「カマキン最後」を見に行きたいというので一緒に行った。

10時に新宿駅待ち合わせ。カマキンの入口を入ったら、驚愕。きょうこそは平日の午前中だからすいていると思ったのに、やはり長蛇の列。皆、この場所が大好きでに思い入れがあるのだろう。とはいえ券を買うまで一昨日ほどの時間はかからなかった。

2階の展示は、人が多くて落ち着いて見られなかった。おとといとても好きになった三宅克己の「雪原」を見てから、まずは一昨日入れなかったカフェに行くことにする。

その前にトイレに行こうとしたが混んでいるので、外の鶴岡八幡宮の公衆トイレへ。とても寒かったが、こちらはすいていた。トイレから出たら、元気なリスがいたので嬉しい気持ちになる。

カマキン最後のカフェ。きょうは光が溢れて背中が熱くなるほどだった。

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99年くらいだったか、FとGと三人で展覧会を見に来て、水沢勉さんと、このカフェでお茶を飲んだ。厨房の少し年配の女性が、「先生はいつものでしょ。」と言って、水沢さんが煮出したミルクティを飲んでいたのが印象に残っている。その時、水沢さんは、まだ館長じゃなくて、みんな若かった。

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ケースの上に、たぶん池でとった枯れ蓮の実が飾ってあった。

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カフェのテラスから池を見る。

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カフェで私は展示の中で好きな絵の話をした。カフェを出てからそれをFと確認しに行った。

松本俊介の「立てる像」の前で、「この足のあいだに小さな犬がいるでしょう?」と言うとFが「馬じゃないの?」と言うので、「違うよ、犬だよ。」と二人で身を乗り出していたら係員の人が来て「近づきすぎないように。」と言われてしまった。

和達知男の「眼鏡をかけた自画像」(この画家は25歳で亡くなっている)、柳瀬正夢の「静物(百合)」も素晴らしかった。

階下に降りて中庭を見る。ル・コルビジェと坂倉準三が立っていた場所が足跡で残されている。

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天井に映る刻々と変化する水面の光の反射と一緒に。
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浮島の真ん中に、私の大好きなアオサギがいた!

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大谷石の壁に空いた窓から中庭をのぞいて。
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カマキンをつくった坂倉準三は、私の生家近くの新宿西口広場をつくった人だ。

子供の頃の私は、タクシーが滑るように吸い込まれていく新宿西口ロータリーの、植え込みに傾いで立つ筒状のオブジェを見るたびに興奮していたものだ。子ども心を湧き立たせるような面白さがあった。

そして新宿西口広場は、自由と変革を求めて、いくつもの騒乱の渦が生まれた。そのたびに「ここは広場でない」と弾圧されたりしたが、新宿西口広場は、私にとって、いまだ(たぶんこれからも)自由な広場だ。

夢のような場所だった阿佐ヶ谷住宅をつくった前川國男も、ル・コルビジェに学んだ人だ。

阿佐ヶ谷住宅一帯も、恐ろしく魅力的な場所だった。まさに「光の下で組み合わされた諸々のヴォリュームの巧緻精確で壮麗な遊戯」だった。あの豊かな場所が無くなった寂しさは言葉にならない。

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私たちが美術館を出る時も、尽きることなくたくさんの人が並んでいた。
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美術館を出て、おととい見つけた素敵な場所をFに見せるために、同じ経路で駅に戻る。

星野写真館の横で。

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「Photographisches Kunst=Atelier 合資會社 星野悠鳳寫真館」と書いてあるプレート。

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おととい通った細い路地の金網の塀に囲まれた素敵な古い家は大仏次郎関係の家みたいだ。廃業している小さな理容店は、かつて有平棒があった部分が気になった。

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おととい見つけた動物病院。蔦に絡まれ過ぎて読めなくなっている看板。「車の出入り口につきこの付近に駐停車をご遠慮下さい。」?
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Fが御成小学校を知らないというので、一緒に見に行った。
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御成通りを歩いていたら、植物に浸食された家を発見。Sdsc07949

家全体が植物になってしまいそう。
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蔦の蔓が樹木のように太くなっていて、触ってもまったく撓らない。
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そのあと江ノ電に乗って浜に出た。拾い物をするために、鎌倉高校前から七里ヶ浜、由比ヶ浜と移動した。

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鎌倉高校前では、ごく細かい破片ばかりで、貝はほとんど拾えなかった。それでも1cmほどのアズマニシキ、カバトゲウミギク、ヒバリガイ、ナミマガシワなどを拾った。6mmくらいの桜貝も。

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由比ヶ浜では少し大きな貝の吹き溜まりがあったが、陽が落ちて急激に寒くなったので帰ることにした。

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鎌倉駅の近くで食事して帰る。久しぶりに会ったFといろいろ話した。子供の頃、夢中だった遊びの話。戦後の美術から現代の美術の話。絵をわかるとか、芸術を評価するというのはどういうことなのか。

いずれにせよ、私はそれぞれの作品をなんらかの歴史的なパースペクティブの中に位置づけて見ることよりも、私なりの感覚でそれらに触れている。人が歴史的課題としてヒューマニズムや人間中心主義を批判するところで、私は好き嫌いを言う。

最近とくにヒューマニズム、人間中心主義が強く出ている作品が好きではない。

美的な意味であれ、人道的な意味であれ、解釈によって付与される意味が、作品の価値を上げる、と思うことがばからしいと感じるということだ。

批評を書ける人が、絶えず「もの」を(あるいは「もの」が存在するかどうかの問題から言えば「事(関係としての出来事)」を)見つけ、(あるいは、より的確には、ぶつかり、つまづき、)常に疑問や問題意識を持っているとは限らない。

私にとってすごい才能を感じる人は、24時間何かを見つけ、思考している人だ。

Fは、私が苦痛を感じながら誰かと会うことをとてもよくないことだと言う。どうして断って帰らないの?と。私はもっと我慢しないで言いたいことを言うべきだと。相手が従順に従うと思っている時に、私はまったく逆の考えだとはっきり言ったほうがいい、大人しく見られるのを受け入れるべきではないと。

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2016年1月26日 (火)

水沢勉館長カマキン最後のトーク

1月24日(日)

午前中、副施設長から、母の様子を伝える電話。きのうの夜、また熱が39度台まで上がった、今朝は37度台だが、おかゆ2匙しか食べられなかったという。

電話を切ってしばらくしてから、もう一度こちらから電話して確認したら、意識ははっきりしていて、眼を開けて応答していて、ぐったりした感じではないという。

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母は大事なさそうだという確認をして、ひとり鎌倉へ向かう。きょうはカマキン(神奈川県立近代美術館)最後の水沢勉館長のトークの日なので行っておきたくて。

アクティの新宿発12時ちょうどの電車に乗る。戸塚で乗り換えのため、ホームで電車を待つが、じってしていられないほど寒い。階段を降りて、また上がったりして12分を過ごす。

1時過ぎに鎌倉駅に到着。若宮大路を速足で急ぐ。鶴岡八幡宮の参道わきから池越しに臨む神奈川県立近代美術館。

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再び参道に戻り、左折。カマキンの入口からあふれそうな長蛇の列にショック。「うわあ、予想外だったなあ。」とまわりの人たちの声。入場券を買うまで寒空の下、40分くらい待たされる。

後ろの4人グループは建築を学んでいる人たちらしく、建物を見ながらいろいろ感想を言っていた。私はしゃべる人もいないので、凍えながらチーズみたいな大谷石の不定形の穴を見ていた(生まれた家の近所に、昔料亭だった家の古びた大谷石の塀が残っている。大谷石はいつも、穴やツブツブを触って遊んでいた幼い頃の記憶を思い起こさせる。)

ぎりぎり2時前に入場券が買え、1階のトークの場所へ。中庭に大勢の人が輪になって立って水沢勉館長を待っていた。2階の回廊にも人がいっぱい。

2時になり、水沢館長は輪の真ん中ではなく、通路側からお話しするとのことで、みんなそろって大移動。柱に寄りかかっていた私は、目の前でお話を聞くことができた。

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カマキンの建物、この場所がどんなに素晴らしいものであったか語る水沢勉館長。

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水沢館長のお話の覚書(聞き書きのメモより。手がかじかんであまりメモできなかった)・・・・

この美術館は1951年、サンフランシスコ講和条約の前にできた。

空間が鮮やか。瑞々しい、開放的な、自由な空間。空気が澱まない。

建築家坂倉準三の義父は文化学院をつくった西村伊作で、自由な精神の系譜の体現者だった。

西村伊作はアマチュアの教育者であり、アマチュアの絵描き、建築家であったが、その自由で開放的な精神が受け継がれている。

この中庭の真ん中にあるイサムノグチの「コケシ」は、1951年にイサム・ノグチが李香蘭と結婚した時に、記念につくったもの。

李香蘭が自分の心臓に手をあてている。イサム・ノグチが李香蘭を抱き寄せている。さらに自分(水沢館長)は、この時、李香蘭は妊娠していたと思っている。

この頃、レッドパージが激しく、イサムノグチはアメリカと日本、李香蘭は旧満州と日本の関係でいろいろ苦しんだ。

1952年にカマキンでイサム・ノグチの個展があり、別館に資料があるが、この「コケシ」はリストに載っていない。

52年にイサム・ノグチは原爆記念モニュメントを拒絶されてショックを受けていた。

イサム・ノグチは自作について忘れるような人ではないが、この「コケシ」をカマキンの中庭に置きっぱなしにした。この美術館なら大事にしてくれると思ったのだろう。

1月31日に、この建物は神奈川県の主管を離れる。どういう使い方があるのか、次の世代に託したい。やはり創造的な場所であってほしい。

当初、鶴岡八幡宮のこの建物は、宗教活動の場所ではないので取り壊す、という予定だったが、いろいろな人の意見を聞いて、取り壊さないことになったのは良かった。

この場所、上に回廊があるのは、まさにル・コルビジェが言った「ピロティ」。

「絵馬堂」とも言える。「絵馬堂」ならば、宗教的施設とも通じるだろう。

宗教のために建物を壊すようなことがあれば、ヴァンダリズムのようになってしまう。

この美術館の業績は、村山槐多や関根正二の展覧会をやったということも大きい。村山槐多が、1913年5月、大阪の朝日新聞に投稿した「絵馬堂を仰ぎて」という文章がある。

当時17歳の若き天才詩人、村山槐多が書いた「絵馬堂を仰ぎて」は、まさにこの場所を予言している。この文章は『村山槐多全集』にははいっておらず、雑誌『ユリイカ』の「村山槐多」特集にはいっている。

(このブログを書いた時点で、私は「絵窓」と聞き書きしてしまっていましたが、28日朝に水沢勉館長からメールをいただき、「絵馬堂」の聞き間違いだとわかり、修正しました。)

お話が終わった時の水沢勉館長の表情。

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・・・・

(私は少女の頃から村山槐多や関根正二が大好きだ。カマキンでの村山槐多や関根正二の展覧会は本当に素晴らしかった。その時の胸の高鳴りを思い出すだけで涙が出てくる。

『ユリイカ』の「村山槐多」特集は当時買っているので、すぐに読み返そうとしたが、本の山の中から発見できず。)

トークは30分ほどで終わり、展示を見る。1951年から1965年の時代の熱を感じる作品たち。

現在は評価が確定している作家の作品が多かったが、あまり知られていない作家の作品に感動した。また美術の教科書に載っているような有名な作品よりも、同じ作者のそれほど知られていない作品にはっとするものがあった。

私がとても好きだったのは三宅克己の「雪原」(水彩絵の具、紙)だ。よく見られる水でたらしこんでふわっと描いた水彩画ではなく、墨彩のような筆勢でもなく、まるで薄塗りの油彩画のように見えた。

余計なタッチを入れないように手数を制限しながら、雪の煌めきまでも表現している。理知的で詩的だった。極力手数が少なくて、しかもソリッドな画面が素晴らしかった。

島崎鶏二の「風景」(油絵の具、カンバス)。パリの風景だろうか。この絵も詩的で惹かれた。色の選び方のセンスと何気ない線の繊細さ。

島崎鶏二は島崎藤村の二男で、37歳で戦死している。弟の翁介も画家。

私は「描かざる幻の画家 島崎翁介 遺作展」(大川美術館)の図録を持っている。以前、詩人の江森國友さんがくださったものだ。きょう島崎鶏二の絵を初めて見て惹かれ、彼が翁介の兄であり、島崎藤村の二男であったことを知って驚いた。

松本俊介は生誕100年の展覧会には行かなかったが、過去に何度か見ている。今回出ていた自画像は、衿のかたちがすごい、と思った。

有名な「立てる像」は、写真で見るとよくわからないが、本物は色に透明感があり、あらゆる部分の表情が絶妙なのがわかる。特に画面左のではなく足の間にいる小さな犬のかたちに感心した。

それとズボンの足首に結んである細い紐、服の白いステッチ(縫い糸)など、細部がそれぞれ雰囲気を持って語っている。

展示を全部見終わってから、先ほど水沢館長のお話にあった中庭のイサム・ノグチの「コケシ」を撮影。

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この美術館の美しさのポイントである池の中に立った柱。

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2階の回廊から中庭を臨む。

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・・・

3時半頃に美術館を出て、分館へ。カーヴした坂を登る。分館では工芸などの展示を見た。

その後、本館に戻ってもう一度写真を撮った。

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枯れ花の向こうに池と建物を臨む。

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建物の周辺には蔦が絡みついた素敵な樹があった。
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・・・

美術館を出て、雪ノ下のあたりを少し歩く。2014年3月21日に来たとき、素敵だった写真館の建物を見に行ってみた。

星野写真館は、以前来た時はちゃんと営業中だったのに看板がはずされていて、素敵なアーチ型の窓に飾られていた写真もなくなっていた。すごくショック。

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人気のない写真館の玄関。パンジーはなまなましく元気に咲いていた。
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星野写真館の側面。
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下は、かつて営業していた頃の星野写真館の様子。
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この近くのお蔵を改造した家は変わっていなかった。

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星野写真館のななめ向かいの骨董屋さんで小さなガラス瓶や昔の人形などを見た。

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若宮大路の一本裏の細い路地を通って駅へと帰る。このあたりは瀟洒な古い家がいっぱい。細い路地を抜けたところに、おしゃれな古い家。

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かつて理容室だったかわいい建物を発見。ペンキの剥落が美しい。「全国理容環境衛生同業組合連合会 組合員イワサワ」と書いてある看板。

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若宮大路に出て、古い素敵な建物の犬猫の病院を発見。アールのかかったタイルの階段と、蔓草の絡まる棚と、白い擦れた木枠の窓がある出っ張った部分がすごく魅力的。
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寒くて凍えた手を強くさすりながら帰る。母の体調も心配だったので、お茶、食事などの休憩もとらず、トイレも我慢して、4時36分発のアクティに乗って帰った。6時過ぎに帰宅。

帰ってから、母はきょうの昼は完食し、プリンも食べたとの連絡を受けてほっとひと安心。身体が冷えきっていたので熱いお蕎麦を食べた。

1月23日(土)

午前中、K島さんから母は37度程度で落ちついているとの電話を受けて少しほっとする。午後から雪になる予報。

午後2時頃、K島さんから母をH病院に連れて行くとの電話。

午後4時前、K島さんから母が病院から戻ったという電話。入院になるなら、すぐに病院に行く気持ちの準備をしていたので少し驚く。

やはりインフルエンザではなく、尿路感染ではないか、ということ。

1月22日(金)

少し前に大家さんから、仕事場の罅割れた窓ガラスを取り換えるという話が来ていた。ガラス屋さんが部屋に入るというので、ここ一週間、部屋の中の整理に追われ、くたくたになっていた。

午後に見知らぬケイタイから電話があり、ガラス屋さんかと思ったら、京橋の画廊のオーナーさんからだった。企画展のお話をいただく。とりあえず近いうちに打ち合わせ。

夕方、K島さんから、母がきのうから熱を出したという電話を受けた。きのう39・4度。インフルエンザは陰性。深夜0時の検温で40度だったと聞いてすごく心配になる。

しかし肺に雑音はなく、食事もとれているということ。どうして高熱なのに吐いたりせずに、わりとしっかりしているのかはわからない。抗生剤と熱ざましを飲ませて様子を見るとのこと。

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2015年12月24日 (木)

毛利武彦先生の原稿と阿部弘一先生の書簡 / 西新宿

12月23日

わが師、毛利武彦先生の奥様から、レターパックが送られて来た。

なんだろう、と封を開けてみて、衝撃に打たれた。

詩人の阿部弘一先生から毛利武彦先生に宛てた手紙の束と写真、そして毛利先生の直筆原稿。その原稿は、おそらく阿部先生が現代詩人賞を受賞された時のスピーチのためのもの。

今さらながら、師、毛利武彦の筆跡のものすごさに圧倒される。知的で美しいというような形容をはるかに超えて、師の「絵」そのものだ。

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そして阿部弘一先生が毛利先生に宛てた、二人で詩画集をつくる計画の内容、装丁の相談の手紙。

阿部弘一先生が、フランシス・ポンジュの墓を訪ねた時の、青い海を背にした白いお墓の前での青年の阿部先生の写真。

この原稿、書簡、写真は、阿部先生が持っていらしたフランシス・ポンジュからの書簡などを追いかけるかたちで、世田谷文学館に保管してもらう予定である。

12月18日

長髪で美貌の一級建築士Sが、崩壊しそうな福山家の床下を見に来てくれた。

Sは、70年代の、まだ華奢だったジュリーをさらに女性っぽく、睫毛を長くして、鼻筋は丸ペンで引いた線のようにすうっとまっすぐに細く描いた感じ。

きょうのジュリーは作業着ではない。私服(ダウンジャケットにジーンズ)で汚れる作業をしてだいじょうぶなのか、と心配になる。

畳を上げるためにまず箪笥を移動。その瞬間、箪笥の後ろの罅がはいっていた壁が崩落。ものすごい土埃に「ギャーッ!!」と驚く私。

「土台の板が崩れたわけじゃないからだいじょうぶですよ。車から掃除道具持ってきますから。」と、てきぱきと処理するジュリー。

畳を上げてみて、猛烈に黴の臭気が漂う中、「これはまずい。床がこっちまでくっついてる。」とジュリー。

床板が大きくてはずせなかったため、一部を四角く電動のこぎりで切ることになった。

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板を打ちつけてある釘も古くて錆びていて、バールで引き抜こうとしても釘の頭がもげてしまう。

たいへんな作業だったが、素手で淡々とこなしていくジュリー。やっと床板の一部分を外すことができ、黴と埃で恐ろしく汚い床の上に、惜しげもなく私服で寝転んで床下を覗くジュリー。

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こんな汚くてたいへんな作業をしてくれるのか、とありがたく思うと同時に、いったいこの古い家をどのように修理、改築するのがいいのか暗澹とする。

12月7日

昔、西新宿でご近所だったEさんと「砂場」で昼食。

昔の西新宿の話、知り合いの消息を聞く。Eさんの若い頃の話も。

Eさんに会うたび、ご高齢になっても、どうしてこんなに若くて元気で頭がしっかりしているのだろう、と感動する。

八ヶ岳に行って来たお土産だと、甘いお菓子に興味のない私のために、ちびきゅうりの塩麹漬けをくれた(これがめちゃくちゃおいしかった)。

Eさんと話していて、長く忘れていた西新宿(昔の十二社)の商店街の記憶が蘇って来て、何とも言えない気持ちになる。

黒い土の上に部品が置いてあった瓦屋さん、少年まんが週刊誌を読みたくて通った甘味屋さん、水っぽい焼きそばとかき氷を食べたおでんやさん、楳図かずおの「おろち」に夢中になった貸本屋さん、ミセキというお菓子屋さん、ヒロセという魚屋さん、エビハラというパン屋さん・・・。

暗渠の脇にくっついていた平べったい小さな家たち。

西新宿が開発されるとともに商店街も無くなり、小学校、中学校の時の友人は皆、遠くに引っ越してしまった。大通りから少し引っ込んだ坂の上の私の実家だけがボロボロになって残っている。

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2015年11月25日 (水)

出版四賞パーティー

11月20日

Fから久しぶりに集英社の出版四賞パーティーに行ってみようと誘われたので、夕方、会場のあるホテルへ。

ロビーで座って待っていると、テロ警戒のためか、警備の人が何度も金属探知機のようなもので花を飾ってある奥のほうをさぐっていた。

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この植え込み、よく見るとススキやユリは本物だが、地面の石の上に散らしてある紅葉はビニール製だ。

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きょうも上から下まで(コートも)古着の黒のベルベット。自作の布花の大きなコサージュを二つまとめて胸につけた。

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Fは仕事で遅れ、6時過ぎに来た。3階の会場に行くともう授賞式は終わっていて、立食パーティーがまさに始まるところ。(「いいタイミングだったネ」とにっこり)

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「この余りまくっている料理を全部、日比谷公園のホームレスに持って行ってあげられたらなあ。」「ほんとにねえ。余るところには余ってるのにねえ。」

受賞者や出版社の人たちなどは、ほとんど何も食べないで話しまくっていて、豪華な料理がもったいない。貧乏な私たちは、とにかく久しぶりの栄養補給のためにも、ひたすら食べましょう、ということで。

Fは何人もの知り合いがいると思うが、誰とも顔を合わせず、挨拶することもなく、好きなものを食べて話しまくった。

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動物を殺すのが嫌で肉類を一切食べないが、魚介は食べる。好物のエビ、カニ、オマールエビ、サザエ、アワビ、ホタテ。

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またサザエ、カニ、オマールエビ、フルーツ。

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またまたおかわり。このウニの殻にはいったウニのムースと、アワビのスモークがおいしかった。

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夢中で話しながら食べていると、まだ空いていないお皿を下げられたり、席を立っているうちに、絶対食べられない肉類を勝手にテーブルに配られたりするのはストレスだ。

むこうが「決まりきった」「習慣の」サービスをしてくることがストレスになる。余計な労働はなくするべきだと思う。

フルーツをとりに行っても、門番のように給仕の人が立っていて、「おとりしましょうか?」と言われるのが鬱陶しい。いちいち種類を告げて皿に盛りつけてもらうのは、検閲されているようで苦痛だ。

コンパニオンの人にビールをつがれるのも嫌だ。すべて「けっこうです。自分でやります。そのままにしておいてください。」と言うしかない。

Fに、若き獣医師、快作先生の話をした。Fはたいへん興味を持ったようだった。

彼は動物の命を守ろうとする行動に対して、たくさん誹謗中傷(というような次元ではない暴力)を受けても、「それは当たり前のことだ。」と受け入れて、怯むことがない。

私がすごいと思うのは、まったく気持ちや考えが通じない相手にも、何度も話せば、必ず少しずつでも考えが通じると信じる強さだ。Fも「それはすごく強いね。」と感心していた。

(よくあることだが)会話の中で「・・・ですよね。」と、こちらの意思を確認せずに決めつけられてしまった時に、その場ですぐに、決して大きな声ではなく、明るく、ボソッと「それは違うと思いますけどね。」とさらっと言えること。

「そうじゃないんです。そういうことはむしろ、すごく苦痛なんです。」とさらっと言うことができずに、その場を我慢して、どんどんストレスが溜まって、人と会うのが苦痛になってしまう私が学ぶべき才能だ。(心で激しく同調できないことを叫びながらも、いつも、どうしても言葉が出てこないのはなぜなのだろう。)

パーティーがひけてからも、ロビーの椅子に腰かけて話した。絵のこと、文章のこと、子供の頃、最初に衝撃を受けてずっと心に残っているものの話、幼い頃、強烈に魅せられた絵本を最近偶然手に入れたことなど。何が伝わるか、伝わらないのか。

Fは、ボソッと言った。「最近、思うんだけど、自分が書いた(文学)作品を、それを本当はどんな気持ちで書いたか、他人にわかることはないんじゃないかって。それが絵だったら、言葉でないだけ、なおさら、他人がわかることはないんじゃないかって。」

Fの言ったことは、私も、最近ずっと思っていることだ。

私がものすごく興味を持って、それがなければ生きていけないくらいに思っているもの(その多くは人間の文化に属さないものだ)が、他人にはまったく関心のない、その人たちの視界には存在しないようなものだと、嫌というほどわかってきた。また、そのギャップは、私が想像していたよりはるかに深く、埋められることはない、と、少しずつわかってきたのだ。

昔で言えば「トマソン」のような、人がほとんど興味を持たず、かえりみないものを徹底してコレクションしている人とも、たぶん感覚のありかたが、私は違う。それがどう違うのか言葉にするのは難しい。

それでもFは、私の絵を見ることができる(ということを実際に私に知らせてくれる)。

私の絵についてFは言った。「たとえば、虹色の華やかなパンジーの絵はぱっと人目を惹きつける。だけど、あなたらしい、あなたそのものなのは、ハルジョオンに絡みつくヒルガオやスズメノエンドウ、ノブドウやアオツヅラフジのような蔓草。そして腐蝕画だ。」と。

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