8月12日(月)山の日の振り替え休日
(天井が無くなって穴から太陽が差し込んでいる屋根の内側)
西新宿の生家に行くと、M・Mさんは防塵マスクをして屋根裏に上って掃除機をかけていて、私が階段を上りきるあたりで
「2階に来ちゃだめですよ!今危険だから!」と叫んだ。
78年間蓄積した恐ろしいほど大量の埃とネズミの糞の粉が、大きく破られた天井から2階の床にもたくさん落下して、あたりは真っ黒になっていた。
私は2階の遺物を整理しようと思っていたのだが無理そうなので、1階で古いギターの錆びた弦を全部ナイロン弦に張り替えていた。
チューニングしようとしたが、ナイロン弦がどんどん伸びてなかなかチューニングが合わない。
1時間以上してからそっと2階の様子を見に行ったら、M・Mさんはほっかぶりをして奥の部屋の天井に掃除機のホースをあてて、板の隙間から埃を吸っていた。
今日も36℃。2階や天井裏は息が詰まるほど暑い。
紺色のTシャツが隅から隅までぐっしょり濡れていて、振り返った顔には玉の汗がびっしり。
その姿は神々しいとしか言いようがなく、「お疲れ様」とか「ごめんなさい」とか私が言うのもとんでもなく失礼な気がして、言葉に詰まった。
「同じ人間とは思えない・・・」と正直な言葉が出た。
誰も見ていないところで、ひとりでなぜそんなにたいへんな仕事を一心にやってくれているの?
当初は屋根の上から修繕すればいいと思っていたのが、屋根の内側の腐った木の部分を剥がして修繕しないとだめだとわかり、それをやるには78年間、誰も手を付けたことがない(もちろん私はそんなところに考えが及んだこともない)屋根裏の煤の徹底的な掃除が必要になったということらしい。
「全部掃除したら下に行きます」と言われ、そのあとM・Mさんは2階の床から階段の煤を雑巾で拭いていた。
全身煤と汗まみれになったM・Mさんは(ガスが通っていないので)水風呂を浴びて髪の毛を洗い、カセットコンロで炊いた土鍋ご飯を食べていた。
昨日は5時間、今日は3時間、天井裏の煤の掃除をしたという。
「これで難所は越えました」と。つまり天井裏の煤の掃除がほかのどんな作業よりもたいへんだということ。
今まで建築関係の仕事はいろいろやってきたそうだが、「天井裏の煤の掃除は?」と尋ねると「初めて」と言われて、もう申し訳なさ過ぎて私はどういう態度をとったらいいのかわからない。
食べた後、M・Mさんは玄関のベニヤの壁を手でバリバリと剥がし始めた。
ベニヤを剥がすと黒いふかふかした断熱シートが貼ってあり、その中ほどに「うわ!汚いゴミがある!・・・ネズミの巣みたい!」と言われて「キャーー!」と思わず恐怖の叫びが出てしまった。
(私は衛生(の知識)上、ネズミが怖いだけで、ネズミという生き物自体は殺したくない。)
ちぎれたビニールのふわふわしたカスのようなものと大量の埃を、彼は手で掴み取ってゴミ袋に入れているので、私は埃が空気に散らないようにゴミ袋の口を広げて壁の穴に押さえつけるように掲げて両手で持っていた。
今週は私の生家の仕事ではないもう一つ通っている仕事のほうが忙しくて「からだが持つかわからない」と彼は言った。
辞めた人がいるのでその分、出勤しなければならないと。
私の生家のほうはいつまでにやってほしいという期限があるわけでもなく、ほっておいて休んでくれていいのだけど、彼には彼のやりかたと予定というものがあるらしいので私はあまり深くは詮索しない。
本当に私はただあいた穴の部分に上から板で接ぎあてするくらいだと想像していて、こんなに大がかりな作業になるとは夢にも思っていなかったので、何が起こっているのかいまだに把握できていない。
なぜ、ここまでたいへんな作業をしてくれているのだろう?という不思議さに胸が痛んで仕方ないのだが、おそらく彼は上っ面でなく、根本からやりたい人だということ。
自分が納得できるように仕事することが彼にとって大切なのだろう。
「天井裏に上って、この家は最近の家とは違う、「ほぞ」の組みかたに微妙な隙間があって家が揺れながら振動を吸収するようにできていて、昔のすご腕の大工さんだから作れた、もう今の職人ではこういう家は建てられないと思う」と言われた。
また、あえて微妙な隙間を作ることによって風通しがよく考えて作られていて、だから台所の床板など腐っていないのだという。
ボロボロの木の外壁も杉だと言われた。新しいものの見かたを授けられて感激してしまう。
昔、有名な芸者町だったという十二社(じゅうにそう)の黒塀や料亭はなにひとつ残っていない。
旅館一直もだいぶ外見が変わってしまった。ホテルニュー寿も無くなっていた。大好きだった十二社の乳銀杏(十二社の池があった頃から見守ってくれていた巨樹)まで切られて無くなっていた。
民家より料亭のほうが多いくらいだったこの辺りの古い家はすべて新しい建物に変わり、懐かしい友達も知り合いも皆、いなくなってしまった。
ぽつんと取り残された廃屋の福山家が、なぜか今外見を変えずに甦ろうとしている。
ここまでなんとかつながっている命と出会いのおかげで、私は今、思いもつかなかった不思議な体験をさせてもらっている。