哲学

2023年12月21日 (木)

Sさん宅の猫、下北沢 / 上村忠男さん

12月21日(木)

上村忠男さんからメールをいただく。

『みすず』2023年読書アンケートへの回答文(冊子は2024年2月に刊行)に、鵜飼さんの最近書『いくつもの砂漠、いくつもの夜――災厄の時代の喪と批評』(みすず書房、二〇二三年)に収録されている私の本について書かれた文章について言及してくださったとのこと。

12月20日(水)

Sさん(うちの3匹を最初に保護してくれたかた)宅のタビちゃんに会いに行く。

タビちゃんの絵を描く約束をしたので、写真だけではなく実際に会いたかった。

タビちゃんはSさんが保護団体から譲り受けた猫で、メインクーンだが後ろ左足先端が欠損の(ブリーダーが売ることができなくなって保護団体に行った)子。

タビちゃんはメインクーンにしては大きくない。うちのちゅびおよりも軽い。

もう一匹、一時預かりだがもう1年半もいるというシマちゃんと仲良くしていた。

二匹を見るとうちの子たちとは大違い。同じく保護猫だが大人しい。おやつをねだったりもしないそう。

うちの子たちがいかに毎日ドタバタ大騒ぎしているかを痛感。

帰りに下北沢まで歩いた。

駅の南側、茶沢通りに出る。昔は露崎商店やら何軒ものアンティーク屋が連なっていたあたりを歩くとものすごい淋しさに襲われる。

駅の東側、ロックンロールバー・トラブルピーチ。そしてカラオケチイと本多スタジオのあるビル、ここだけぽつっと残っている。Sdsc07040_20231221223501

下北沢全体があまりに酷い破壊のされ方で、昔の記憶をたどって歩くのが難しい。方向感覚がおかしくなる。

ピーコックの入っている下北沢駅前共同ビルでトイレを借りる。4階にはいろんな劇団が入っていた。

北口にあった駅前食品市場(闇市の名残)が無い。

駅ビルにあったアンティークLIMONE、古いトランクが並んでいたお店は南口に移転したらしい。

北沢2丁目の北沢ビル。このビルはまだ存在している。
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3階まで外の階段を上がってみた。隣の建物も古い。

 

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2023年5月23日 (火)

眼から入ってくるもの、脳の疲労と意識、銀座奥野ビル

手術してからずっと脳の疲労がすごくてブログを書くのが遅れている。

ストレスを感じると眼の奥から後頭部が重く痛み、その場で昏睡しそうになる。

とにかく余計なおしゃべりが辛い。

脳が疲れると翌日は朝5時に目が覚め、そこから二度寝、三度寝をして10時間以上眠らないと頭が働かない。

5月11日に沢渡朔さんとお会いした。一昨日は宇野亞喜良さんとお会いした。

こども時代から本当にあこがれ続けた人たち。

その人たちの話を聞いている時は、すべてが芸術的示唆に満ちていて、さりげなくて正直なひとことひとことに最高に心がときめいた。

そういう時だけは幸せで傷の痛みも脳の疲労も取り除かれる気がする。

5月13日(土)

銀座奥野ビルの堀田展造写真展「無感覚物体」へ。

私にとっては知らない人だが、なぜ行く気になったかというと、4月にナツメ社気付でこの写真展の案内が送られて来たからだ。

「無感覚物体(phantom)=架空のダンス」という長い文章が印刷されてある。

文章の意味は何となく理解できたつもりだ。

「冷徹な非幻視の眼=写真」「架空と暗喩を暴く」「語を否定する語」「つねに取り残される暗喩の根深さ」・・・

案内状に書いてあったメルアドに、今は癌の手術後の痛みがあり、脳へのサイバーナイフを受けたばかりでエネルギーがないので、行けるかどうかわかりませんが・・・なぜ私にお送りくださったのでしょうか?と書いて送ったが返事は来なかった。

銀座に行くと酷く疲れそうで迷ったが、

名前で検索すると1945年生まれでずっと写真館をやっていた人であること、私の好きな奥野ビルでやっていることが行ってみる気になった理由だ。

奥野ビルの2回の端のギャラリー一兎庵。真っ暗な写真はビルと部屋の雰囲気にはあっていた。

挨拶して、なぜ私に案内を送ったのか(しかも水声社でなくナツメ社気付)尋ねてみると、

「なんでだろう。アルトーの関係かな?」と。

アルトーは出版記念のイベントに行っただけ。あと映画の中で朗読したけれど堀田さんが知るわけない。

「なんでだろう。ミステリーだね。」と言われ「はあ?」としか言いようがない。

「たぶんなにかで検索してブログを見て、変わってる人だなあ、すごくはっきりものを言う人だなあって思ったんだ。適当に出すわけない。」

そうですか。変わってるのは堀田さんのほうだ。強い文章と詩を書き、写真集をつくり、このエネルギーはなんなのだろう。

展示されている真っ黒な写真たち(ほとんど全部同じ)を見ていると、てきめんに脳が疲労してきた。

「無感覚物体」なのだから無感覚な写真を見せられて正解なのだろうが、私の身体(脳)はついついなんらかの感覚的な刺激、ときめき、快感、新鮮な驚き、感情などを求めてしまって、それが抑圧されると辛すぎて卒倒しそうになる。

哲学を勉強している人なら容易にわかり、軽くおしゃべりしあえるようなことを眼から入ってくる表現でやられると、私はものすごく疲弊する。テキストだけで十分なのに、と思ってしまうのだ。

たいていの人が私のように目で見る表現からストレスを受けることはない(ように私の長年の経験からは見える)。

絵にそれほど興味があるわけではないから、絵や眼から入っている表現に嫌悪や不快を催してしまう感覚がないからだ。

これは一般の人たちだけでなく、いわゆるお勉強のできる人たちも同じだ。言語や論理に精通している人たちはなおさら平気で無感覚な人が多い気がする。

まずい、すごく眠いと思いながら机の上にある過去の写真集を見せてもらった。

やはりどれも黒っぽい。喫茶店にいる奥様の写真も、暗いうえに左上と左下から三角色の闇が迫っている。

「この影は偶然?」と質問すると

「あとからフォトショップでやったんだ。デジカメの写真なんてフォトショップで作りこまないと意味ない。フォトショップが発売された頃からずっとパソコンでやってる。」と。

自分の頭が朦朧とするのがわかった。

夕暮れの海を撮った写真があった。「これは素敵ですね。雲の光がすごくきれいで、しかもカモメのすべてにぴったりピントが合ってる。」

「だいたいこの辺ていうところにピントを合わせて鳥が来るのを待った。」

この写真は私の好きな淋しげな海の景色で、私はその写真からポエジーを感じたから正直に素敵と言えた。

「少し上の方の階も見てきます」と部屋を出ようとすると、「福山さん、これ見て。定点観測。」と言われてデジカメの中にある奥野ビルの前で撮ったたくさんの写真を見せられたが、申し訳ないけれど「ああ・・」としか応えられなかった。

奥野ビルは昔は二つの並んだビルだったらしいです、と言うと「福山さんはその頃から生きてたりして。」と冗談を言われたが、疲れすぎて愛想笑いができない。

本当に精神のエネルギー切れ。

階段で上へ。6階までどんなになっているのか各部屋をちらりちらりと覗いてきた。

奥野ビルの素晴らしい古色の雰囲気とまったく合わない、とんでもなく酷い絵を飾ってある部屋もあった。仲間内の盛り上がりに入室できる空気もない。

一兎庵に戻ると谷昌親さんがいらしていて驚いた。

以前に詩人の浜田優さんと堀田さんがコラボ展をやった時からのお知り合いとのこと。

堀田さんが「写真やってる人たちが言うのは白黒の諧調とピントが合ってないと写真じゃないと。」というようなこを言って、

谷さんは「えっ?それじゃ森山大道がやったこうやってパシャパシャって撮ったのは写真じゃないってこと?」と。

私はもう質問する気力もなく、立っているのが不思議なくらい。

谷さんは、なにか写真論について書いた冊子を堀田さんに渡していらした。

「谷先生!写真とはなんですか?」と堀田さんが質問して、谷さんは「えっ・・これはロラン・バルトについて書いたものですけど、今の時代にそれがあてはまるかどうか・・」ともっともな対応。

堀田さんは帰り際に「福山さん、これ、もらってもらえるかな。」と私家版の詩集をくださった。

堀田さんは某哲学者が来てくれた、ととても喜んでいた。その人は写真の話はせずに、ずっと堀田さんが大学を卒業してから何をしていたかを聞いていたとという。

私も堀田さんの若い頃の話を聞けばよかった。個人の経験の話の方が写真論よりはるかに興味がある。

ちゃんと感想を言えなくて失礼だったかな、と気にしていたが、私の個展の時に来る人も絵の感想をひとこともくれず、どうでもいい雑談や、自分の話ばかりををしてくる人が多い。

そのことを私自身がすごく辛く思っているからこそ、他人の個展ではなにか感想を言わないと失礼だと思ってしまい、それがちゃんとできない自分がだめに思えて余計に精神が疲弊してしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2023年5月14日 (日)

鵜飼哲『いくつもの砂漠、いくつもの夜 災厄の時代の喪と批評』

鵜飼哲さんの新刊『いくつもの砂漠、いくつもの夜 災厄の時代の喪と批評』(みすず書房)を4月末にご恵送いただいております。

この本には私の絵とエッセイ集への鵜飼さんの批評「もうひとつのリミット」、「現れざる言葉、あるいはオマージュへのオマージュ」が収載されるとともに、私の絵「枯れたチューリップ」(水彩)を入れてくださっています。鵜飼さんに深謝。

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色校正を丹念にしてくださったみすず書房の編集者、尾方さんにも心より感謝です。

「枯れたチューリップ」は私の画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』にも入っています。

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「しかしこの不毛性はなおも力の場であり、さまざまな砂漠と千と一の夜のイマージュを、隠匿し、磁化し、濾過し、配分するに十分なほど強力なのです。」  (鵜飼哲「いくつもの砂漠、いくつもの夜」より)

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2022年9月21日 (水)

もうすぐ個展 / 上村忠男先生からのメール

 

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小菊(和紙、岩絵の具、水干、膠彩)

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星見草(和紙、銀箔、墨、岩絵の具、膠彩)

2022年9月26日(月) ~ 10月2日(日)
吉祥寺ギャラリー gallery re:tail »

福山知佐子個展「花裂ける、廃絵逆めぐり」 (thetail.jp)

リテイルの地図

吉祥寺駅を出、「中道通」と書いてあるゲートをくぐり、まっすぐ進み、10分ほど歩いて「NAKAMICHI」というゲートをくぐったらすぐ左に見えます。

よろしくお願いいたします。

9月21日(水)

3日前、マッサージに行くために台風の豪雨の中をたった10分歩いただけでずぶ濡れになって冷えてしまい、その後、のどの痛みと鼻水が続いている(熱はない)。

今日もマッサージに行き、帰宅後、この秋初めての使い捨てカイロを腰に貼って養生中。

個展を前にして絵の制作に過集中になり、急に疲れが出てしまったようなので、3日前から制作をやめて事務仕事に入っている。

個展の7日間は毎日在廊するつもりなので、体調をしっかり整えたい。

・・・

帰宅してPCを見ていたら、上村忠男先生からメールが届き、信じられない。ありがたい。

上村忠男先生の『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(ジョルジョ・アガンベン著、2001年、月曜社)を読んでいたく感銘を受け、私はそれがきっかけでジョルジョ・アガンベンに惹かれた。

この本は、「大量殺戮」の「これ以上に真実なものはないというくらいにリアルな事実。事実的諸要素を必然的に逸脱してしまっているほどのリアルさ」をめぐって、「事実と真実、確証と理解のあいだの不一致」をめぐって、

「生き残って証言する者たちは証言しえないものについて証言しているのだ」ということをめぐって書かれている。

ずっと上村忠男先生に拙画集をお送りさせていただきたくて、なかなか上村先生のご住所がわからなくて、また緊張と躊躇いがあって、やっと最近お送りすることができたのだが、まさか届いてすぐにメールをいただくとは夢にも思わなかった。

アガンベンの『書斎の自画像』から文章を引いてまで書いてくださった、メールのお言葉があまりにありがたく、畏れ多くて身体が震えた。

 

 

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2021年10月 5日 (火)

デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』、動物の哲学

10月3日(日)

プフが、デリダの『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』に顎をのせて眠っていた。

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私が読みながら疲れて眠ってしまい、ふと目を開けたらプッピィが。。きゃわゆい~。。

『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(鵜飼哲訳、筑摩書房)のマリ・ルイーズ・マレの前書きより。

「「動物」の問いは彼の多くのテキストに顕著に現れている。彼の全作品を通じてのこの執拗な現われは、少なくともふたつの源泉に由来する。その第一はたぶん、特異で激烈なある感受性、哲学がもっとも蔑視あるいは失念してきた動物的な生の諸側面と、おのれが「共感している」と感じるある種の適性であろう。」

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(プフにくっつくチョッピー)

本文のデリダの言葉より。

「私があなた方に打ち明けようとしていることのすべては、たぶん、私に応答するよう、あなた方が、私に、応答するとは何を意味するかということに関して、私に応答するよう、あなた方に求めることに帰着するからだ。」

「動物なるものについての前述の問いは、動物が話すかどうかを知ることにではなく、応答するとは何を意味するかが、知られうるかどうかを知ることに帰着するであろう。そして、応答を反応から、区別しうるかどうかを。」

「実践的、技術的、科学的、法的、倫理的ないし政治的などんな帰結をそこから引き出すにせよ、この出来事、すなわち、動物の隷属の前例なき規模については、今日、誰も否定できない。その歴史をわれわれが解釈すべく努めているこの隷属は、この言葉の道徳的にもっとも中立の意味においてであれ、暴力と呼ぶことができるだろう」

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斑の白粉花を見に、夜9時に外に出たら木犀の匂いがした。

9月25日と26日の雨で全滅したと思っていた木犀が、また満開になっていた。オレンジ色のなまめく香り。

10月4日(月)

きのう一日、ずっとPCの前に座ってほとんど身動きせず仕事していたせいか、腰の痛みが尋常でない。こんな腰の痛みは初めて。朝、布団から腹筋を使ってパッと起き上がれたはずが、腰が痛くて無理(涙)。

マッサージ店でなじみのS村さんにほぐしていただく。しかしそのあともおかしい。腰が痛くて、いつものよう普通に歩けない。

 

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2021年9月28日 (火)

画集づくり / 動物の哲学,、猫たち / 胃痛

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あいかわらずべたべたのチョッピーとプフ。お互い交互になめあう。

9月20日(月)

カバー第6案。

黒字の紫系のインキと白地の紫系のインキの見え方(彩度が全く違って見える)の対比を考える。

9月21日(火)

カズミさんの提案により、カバーの絵を入れ替える。絵の配置、最初からやりなおし。

9月22日(水)

カバー第6案の4点の中から1点を選ぶ。

9月23日(木)

胃痛。

カバー第7案の英字タイトルのレイアウト修正。

9月24日(金)

お腹が痛くてどうしようもない夢でうなされ、起きたら胃腸痛。ずっと口内炎も治らない。

帯の絵の入れ方。帯の文字のレイアウト修正。

9月25日(土)

朝から強い胃痛。

カバーに入るデッサンの大きさと位置かえ。

・・・

鵜飼哲さんから哲学について、2回目の質問のおこたえが届く。

哲学と「根拠」(懐疑不可能なものを提示すること)の関係が複雑であることを教えていただいて目から鱗。

原因という観念をこだいにつきつめたアリストテレスは「根拠」を原理にしなかった。根拠率を定式化したのはデカルトのあとのライプニッツ。ハイデッガーの「根拠律」は真理が確実性と理解される主体の時代、近代的思考の特徴とみなした。

ハイデッガー自身は根拠律の外で存在を考えることを試みた。(「薔薇は〈なぜ〉なしにある」シレジウス)

デリダは後期ハイデッガーの考えを受け継ぎ、ハイデッガーが排除した動物たちとの関係を根拠(証拠)ではなく「証言」で考えようとした。

近代社会には根拠が証拠と呼ばれて真実の条件になることが非常に有力だが、デリダは共苦を根拠(証拠)ではなく証言に基づいて考えた。

証言論を、証言する資格とされる主体の問題設定の外で考える。(ほかにも教えていただいたことは山ほどあるが、とりあえずのメモ。)

9月26日(日)

胃痛で、食事はミントティー、ヨーグルトのみ。外に出るのも苦しい。

カバーに入るデッサンの位置かえ。

9月27日(月)

久しぶりにマッサージに行く。首の凝りからの頭痛がどんどん激しくなって、カロナールを飲んでも治らなかったのが少し回復。

9月28日(火)

昨日に続いてマッサージを受ける。少し食欲戻る。

明日は出張校正。

 

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2021年9月20日 (月)

癌の数値上昇、画集づくりがすごく忙しい

忙しくてまったくブログを書く余裕がなかった。

9月3日(金)雨

甲状腺癌の定期検診で鎌ケ谷の病院へ。血液検査の腫瘍マーカーが上がってしまった。

血液検査でとても待たされ(たくさん並んでいた人たちは、コロナ検査と関係あるのか不明)、肺(転移)のレントゲンを先に。

頸部のエコーを待つあいだ、TVで菅首相が次の総裁選に出ないというニュース、パラリンピックの競技をぼんやり見た。

診察室に呼ばれ、先生が検査結果について話す前に私のほうを見ないで暗い顔をしていたので、結果が悪いことがわかった。

癌の悪化にはとにかくストレスが悪い、それと絶対に薬の飲み忘れをしないこと。

・・・

今の私のストレスの原因はただひとつ。画集の制作の進行予定が示されず、私に理解できない理由で進行を待たされたり、その分私(著者)が徹夜までして早く仕事をあげなければならないように焦らされたり、振り回されていることだ。

デザイナーさんが遅れる理由が示されなかったり、修正指示した部分が修正されなかったりで、不安が限界になってしまった。一番恐ろしかったことは、私が締め切りを守っても進行が押せ押せになって、一番重要な色校やカバーなどに納得するコミュニケーションがとれないことだ。

帰宅してから出版社に電話したが、担当編集のTさんは本日お休みだった。

9月4日(土)

白州のカズミさんに電話。すごく久しぶりに話す。カズミさんも体調が悪く、なかなか言い出せなかったが、本当に自分勝手で申し訳ないが、レイアウトや装丁を引きついでいただけないかお願いする。私にとっては、コミュニケーションができる相手と仕事することが最も重要なのだ。

担当のTさんと電話で話し、申し訳ないけれどデザイナーさんを昔なじみのカズミさんに変更していただいた。前代未聞の事態なので社長に相談すると言われる。

9月6日(月)

カズミさんに装丁を引き継いでいただくことに決定。

担当編集さんに初めてはっきりした刊行スケジュールを出していただく。ここから忙殺。

本文レイアウトの修正や表記の確認、英訳の校閲の翻訳者への確認、印刷用に分解された画像データの修正、印刷所で色味や鉛筆の線の出具合いを修正してもらうための見本作成、カバーと表紙のデザインの希望ラフ作成などなど。

9月7日(火)

病院に行った日に冷えたのか、咽喉が痛くて口がきけなくなる。

9月11日(土)

4色分解したカラー画稿の色と線とレイアウト修正。

9月13日(月)31℃

カバー試作3。1色ページの画稿の修正。

満開の金木犀が香る。その下に彼岸花。

9月15日(水)

カバー試作2が届く。

9月16日(木)

1色ページの画稿の修正がコントラストが強すぎて(中間の繊細なタッチが消えて)使えない。一般的な言葉で指示しているのに通じなくて苦しむ。

依頼されている文章を考えながら、夕方、狭い暗渠を川まで自転車で走る。頭を刺激するため。

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薊の種子がこぼれているのを見たかった。

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9月17日(金)

印刷所から送られてきた1色の2度目の修正が、元の何も修正しなかった時の画像よりも悪くなったものが多い。やはり自分で現場に行かないと無理な気がする。

9月18日(土)

大雨で木犀の花がすべて叩き落されてしまった。

カズミさんとカバーや紙について何度もやりとり。

9月19日(日)

カバー試作4。ほぼ決定。

9月20日(月)

カバー修正5。

エリザベート・デ・フォントネの本を読む。

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2021年8月27日 (金)

ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy )の訃報

8月25日(水)35℃

ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy)が23日に亡くなていたと知って、ものすごいショック。

私は符号など信じない人間だが、23日にちょうど、『イメージの奥底で』(何度めか)を何かの渇きからの欲求のように、読み返したくなって読んでいた。

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巻頭の「イメージー判明なるもの」の中の「聖なるもの」(これは「宗教的なもの」でもなければ「信仰」とも関係ない)「判明なるもの」が具体的にどういう絵をさしているのか、私なりにはっきり見えた。

「分離されたもの」「距離をおかれたもの」「切り取られたもの」

「弁別的な特徴線が、もはや触れることの次元ではないものを分離する」

「すれすれの状態」「退隠」

これらの言葉が、これまでにないほど、わかりすぎるほどわかって涙が出た。

「いかなる事物も、適合が自己に適合するために切り開くその隔たりにおいて、事物という資格を失い、ひとつの内奥となる。そのとき事物はもはや操作可能ではなく、物体でも、道具でも、神でもないものとなる。それは、みずから世界集約の強度であることによって、世界の外にある。またそれ自身において意味作用を欠いた意味の結集であることによって、言語の外にある。イメージとは世界と意味――意味の流れとしての意味(言説における意味、流通する意味……)――の流れを宙づりにする。そうすることでより一層、みずからが感知させるもの(イメージそれ自体)そのものにおいて、意味(したがって「感覚不可能なもの」)を主張する。イメージのうちには――しかしそこには「内部」はない――意味作用をともなわず、しかし取るに足らないものではなく、その力「形態」と同じくらい確実な意味がある。」

決して韜晦した難解な文章ではなくて、むしろすべてを丁寧に説明してくれていると感じた。

その日に、まさか亡くなっていたなんて。悲しすぎてどうしようもない。

ぜひとも画集をお送りして絵を見ていただきたいと、望んでいたのに、もうかなわない。

薄い黄色からアプリコットピンクのぼかしのヒガンバナが咲いていた、リコリス・アルビピンクという種類かもしれない。

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・・・

夜、にわかに信じがたいような文章のご依頼をいただいた。

おそらく、私が専門的な学説の用語を知らない人間だからこそ、選んでいただいたのだと思う。

この文章のために最大限の努力をしたい。

とてもいろんなことを考えてしまい、4時に目覚めた。レキソタン1㎎を飲んで、明るくなるまで起きていてまた寝た。

朝9時に目が覚めたが、就寝前にフェキソフェナジン(抗アレルギー剤)を飲んだせいかレキソタンが効きすぎていて気持ち悪さが残っていた。

8月26日(木)36℃

自分の画集のために書いた文章の英訳を拝受。一語ずつ吟味する。英語表現は無知でわからないことばかり。

夕方、画集の紙についての連絡が来る。

 

 

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2020年9月 3日 (木)

『イメージの奥底で』 ジャン=リュック・ナンシー / 絵画

9月3日(木)

イメージ・判明なるもの

イメージとは聖なるものである――

(略)

「聖なるもの」は「宗教的なもの」とたえずその語義を混同されている。

ところが宗教とは、結びつき(他者ないし自己自身との結びつき、自然ないし超自然なものとの結びつき)を形成しそれを維持する祭式の遵守なのであって、それ自体としては、聖なるものへと収斂されるべきものではない(宗教はまた信仰へと収斂されるべきものでもない。そもそも信仰はまた別のカテゴリーである)。

聖なるものは、これに対して、分離されたもの、距離をおかれたもの、切り取られたものを意味する。

(略)

聖なるものが聖なるものであるのは分離によってのみであり、それに関しては結びつきなどないとも言える。それゆえ、厳密に言えば、聖なるものの宗教はないことになる。

聖なるものは、おのずから遠ざかったまま隔たりを保持しつづけるものであって、それとの結びつきをもつことができないものである(あるいは極めて逆説的な結びつきのみをもちうるものである)。

したがってそれは触れることのできない(接触しない触れ方によってのみ触れうる、と言ってもよい)ものである。

語義の混乱から抜け出すために、私はそれを判明なるもの〔le distinct〕と名づけたい。

(略)

判明なるものとは、その語源を遡れば、様々な標徴(マーク)によって分離されたもののことである(この語は、刻跡(スティグマ)、鉄ごてによる烙印、刺傷、切り込み、入墨へと送り返される)。

それは、ある描線(トレ)が引き抜き、隔てておきつつ、この退隠(ルトレ)の描線によって標記もするところのものである。

また判明なるものとは触れることのできないものである。というのも我々がそれに触れる権利をもたないからではなく、それに触れる手段を欠くからでもなく、弁別的な特徴線(トレ・ディスタンクティフ)が、もはや触れることの次元にはないものを分離するからである。

したがって、触れてはならないものを分離するというのは正確ではなく、むしろ蝕知しえないものを分離するのである。

しかしこの蝕知しえないものは、みずからを隔ておく描線(トレ)のもとで、またみずからの描線によって、あるいはみずからを隔てるこの散逸の描線(ディストラクシオン)によって姿を現す(したがってこのような弁別的(ディスタンティフ)な描線が、つねに芸術にかかわる事柄なのではないだろうか、というのがここでの最初にして最後の問いであるだろう。)

(略)

判明なるものは、不分明なものに対して跳びかかり、不分明なもののうちへと跳び込みながら、そこに繫ぎ止められることがない。

(略)

あるがままの姿で、だがその弛緩した力ではなく緊迫した力をもって、また、拡散した力ではなく溜められた力をもって、その内奥は露呈される。

(略)

判明なるものは、つねに異質なものであり、連鎖を解かれたもの――繫ぎ止めることができないもの――である。

判明なるものが我々のもとに運んでくるのは、したがってそれが連鎖を解かれてあることという猛威そのものであり、この猛威は近接性によって鎮めることもできずそのようにして距離をおかれたままでありつづける。

それはまさしく触れるか触れないかの距離におかれ、肌に触れんばかりの緊迫した距離を保っている(à fleur de peau)。

(略)

(精華〔fleir〕とは、もっとも繊細な部分、表面であり、前方に残り続けるもの、ただそっと触れる〔efflrurer〕しかないものである。すべてのイメージはすれすれの状態〔à fleur]、あるいはひとつの花〔fleur〕である)。

――――『イメージの奥底で』 ジャン=リュック・ナンシー(西山達也・大道寺玲央 訳 以文社)より

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鬱金香(チューリップ 膠絵 部分)

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2019年12月14日 (土)

岡田温司さんトークイベント「知識人と書斎――アガンベン自伝に見る書斎のかたち」

12月8日(日)

岡田温司さんのトークイベント「知識人と書斎――アガンベン自伝に見る書斎のかたち」を聞きに日本橋、コレド室町の中の誠品生活へ。

月曜社の小林さんより、月曜社の最初の本が『アウシュヴィッツの残りのもの』(上村忠男、広石正和訳)で、これが一番売れたとのこと。私もこの本で初めてアガンベンの思想に出会い、強く感銘を受けた。

岡田温司さんは予想していたより柔和なかたで、お話も軽妙で楽しかった。

『書斎の自画像』はハイデガーとの出逢いから始まり、それからは時系列ではなく、自分の書斎にあるものをアガンベンが見ることによって思いつくままに綴られている。

――お話の断片的メモ――

生きる形式と存在の様態が区別されないのはフーコーの影響。 

エピゴーネン・・・有限な存在であるということ。過去のテキストを独自の形式、新しい読み方で受け継ぐ考古学。発展可能性。

ハイデガーの存在論を乗り越える。存在と存在者を区別しない。

哲学と詩作。ポエジーの問題。コミュニケーション(伝達)に限定されない言葉。

岡田さんが最初に訳されたのは『スタンツェ』。

『イタリア的カテゴリー』「西洋の言語はますます哲学と詩のあいだで引き裂かれてしまい、一方は悦びなき認識へと、他方は認識なき悦びへと向かってきたのだが、いまや急を要するのは、哲学にそれ本来の悦びを、詩にそれ固有の認識を奪還することである。」

ダンテ論執筆への岡田さんの期待。

パゾリーニとの関係。

アガンベンは悲観的、黙示録的(「歴史の終わり」を語る)とジョルジュ・ディディ=ユベルマンにも言われているが、悲喜劇である。

コメディ・デラルテ、プルチネッラ・・・アイロニー、ペーソス、諧謔

トト(喜劇王)、人形劇仕立て

身振り・・・目的や意思にしばられない。ギャグ。

「大きな鳥と小さな鳥」・・・サン・フランチェスコの小鳥への説教。喜劇仕立て。

発想のアルケー。

ドゥルーズ追悼文においても「セルフ・エンジョイメント」の思想について言っている。

無為・・・無活性とは違う。常識的に考えていることを無為にする。行為する時の潜勢力。通常のやりかたをエポケーして別のやりかたでやる。

言語の別の使い方。

ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』・・・共同体の別の可能性。

『書斎の自画像』の巻末・・「草」についての記述。ドゥルーズの動物の生成変化の向こうをはる。アガンベンの弟子エマヌエーレ・コッチャの著作『植物の生の哲学』。

植物は、世界があるとはどういうことか、生命が世界と結びうるもっとも基本的な関係を体現している。

ハイデガーの『放下 (Gelassenheit)』における星々 カント的・・・見上げるもの。それとは対称的な、草・・・足元の・・・。

京都からおいでになった岡田温司さんと。

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コレド室町というところに初めて来た。私には食べられそうな店が無かったので、キラキラしたイルミネーションだけを見て帰宅。
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