動物

2018年1月13日 (土)

年末から新年

1月13日

昨年暮れから今までのこと。

次に出す本の作品撮影のため、12月28日に、カメラマンの糸井さんがスケッチブックをうちに取りに来てくれた。

近くのファミレスで本の概要や撮影についての希望を説明。

前のカメラマンさんの撮影データと合わせるための試作データが30日には送られて来、それから第2回補正、第3回補正と、色味や鉛筆の線の濃さの調整などのやりとりを正月中に、ずっとできていたのは、とてもありがたかった。

この仕事がなければ、なにひとつ充実しない淋しいお正月だった。

色味のニュアンスなど、感覚的なことを言葉で伝えるのはとても難しいのだが、糸井さんは軽妙で勉強熱心でコミュニケーションしやすいか人なので、彼のお人柄に感謝。

1月1日

福山家の菩提寺から年賀状が届いた!「謹んで新春のお慶びを申し上げます」に呆れて笑ってしまった。

昨年10月、母の火葬場まで若いお坊さんがお経を読みにいらしてくださったのに、そういう事実をちゃんと記録していないらしい。

(私が精神的に参っていたために)母の納骨を春頃まで待っていただきたいという電話をこちらからしないで、ずるずると年を越してしまった非礼を申し訳なく思っていたのだが、そんな気持ちも吹っ飛んでしまい、たいへん気が楽になった。

原宿で見たヤマガラ。

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素敵な枝ぶりの冬の樹。
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12月30日

話し合いのため、Y子のアパートへ。

2017年の年末も差し迫ってから、私にとって人生最大のストレスと言ってもいいほどの他人からの迷惑に対して闘わなければならない事件があった。

以前書いた、母の火葬の日に私の怒りが爆発してしまった件・・・知人H子が何十年も昔に私の父に保証人のハンコを押させていたH子の娘Y子の借金の件で、ついにY子に債権者側から裁判の準備段階として召喚される書類が届いたのだ。

(この顛末については詳細を後述する予定。)

世間一般のように仕事納めで解放される年末どころか、心身ともに酷使せずにはいられない年末となった。

疲労しすぎて帰宅前に駅前の居酒屋で休んだら、薬などのはいったポーチを席に忘れて来てしまった。翌日、店に電話したら感じよく対応してくれた。魚民さん、ありがとう。

・・。

2017年の年末は、大掃除も気力と体力の不充分によりできず、正月の準備、花飾りやおせちなどはなにひとつやらず。

マッサージと整骨にだけは通っていた。

新しい年の新鮮なまっさらになった喜びや、心身ともにひきしまる感じはなく・・・。

思えば母がパーキンソンの認知症になってから、おせちや雑煮など、もう10年以上食べたことがない。

私自身はおせちや雑煮に興味はないが、昔、毎年暮れに祖母が大釜で炊いていた煮物や、母の手作りのニシンの昆布巻きがたいそう嬉しかったことを思い出してしんみりした。

「一夜飾りはいけないのよ」と言って、28日までに千両や万両の赤い実に花を組み合わせた正月の生花を買っていた母。かいがいしく働きまわっていた母の姿を思い出す。

母がいなくなってから、私は正月のために花は買わない。

儀式などは関係なく、ただ、純粋に自分が描きたいという衝動が起きる花を見つけた時に買うだけ。

元日の朝、母のタンタンタン!と勢いよく階段を駆け上がって来る音を聞いた。ねぼけまなこの私を「知佐子!早く起きなさい!年賀状が来てるよ!」と起こしに来た母。

母が亡くなり、最愛のちゃびもいなくなった今、気ぜわしい色とりどりの年末や、真っ白に光り輝いて見えた元日の朝の光が、遠く鮮明な記憶の中だけのものになってしまった。

私にかつてそういうことがあったことが信じられないようにも、また同時に、失われてしまったことが信じられないようにも感じる。

まだどこかに強烈にあるのに、それをつかめない、全身で触れられない淋しさ、苦しさ。

初詣の時に、母とちゃびの健康と幸せを一心に願えないことが、どうしようもなく辛かった。

昨年、ちゃびが亡くなった11月の初めから、12月、私は人生で一番の危機に耐えた。動悸と悪夢、不眠が苦しかった。

眼の前は真っ暗、なにも楽しくなかったし、なにもやる気が起きなかった。

でも大切な相手を亡くした人は私だけではないはずだし、淋しい年末年始を過ごしている人も、この世にはたくさんいるだろう。

12月24日

図書館に行く細い道の途中にある寸断された樹。

頭にトタンのようなものがかぶせてあるのが気になる。

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曹洞宗鳳林寺にて。

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江戸時代からここにあるこれらの石仏にこめられた過去の出来事を思う。
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曹洞宗宿鳳山高円寺の白椿とメジロ。
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花の蜜を食べ、鴬色(渋い黄緑色)なのはメジロで、ウグイスではない。ウグイスは虫を食べ、地味な茶色で、花には来ない。
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2017年12月19日 (火)

森島章人さんから歌集刊行記念展へのお誘い  /  東中野、中野

12月16日

森島章人さんから丁寧に封書でお手紙が来ていた。

来年の2月から3月のいつかに、森島さんの歌集『あねもね・雨滴』刊行記念の展覧会をパラボリカでやるということ。そこに作品を出してくれないかとのこと。

私以外では、雑誌『夜想』の今野裕一さんが声をかけて作家さんたちを集めるそうだ。

森島さんの歌に喚起されるイメージでなにかできたらいいけれど・・・。

やる場所がパラボリカだということをふまえて、いつもの私とは違うやりかたでなにかやれたらいいのかもしれない、とも思う。

12月15日

遠くに住むデザイナーの友人、和美さんに、ちゃびが亡くなったことをなかなかメールで伝えられないでいた。

和美さんとは、何年もずっと、お互いの母親の介護のこと、猫の介護のこと、それらにまつわる悲喜こもごもをメールで会話していた。今までなんとかぎりぎりでがんばっていることを伝えてきたので、母が亡くなったことに続けて、ちゃびが亡くなったことを伝えることが辛かったのだ。

ひと月以上すぎて、メールで伝えると、

「たいへんなメールをいただきました。このメールが来るのをおそれていました。どんな慰めの言葉を書いていいのかわかりません。」という返事が来た。

和美さんも9年間で4匹の猫をみおくったが、「どの子たちもそれぞれが唯一の存在とはいえ、私の場合は他の猫たちがいることで救われているので、福山さんの心境はもっと深刻なものだろうと思います。」と。

美大時代の友人愛子ちゃんからも、「ちゃびさんは子供以上の存在なんだろうね。私は、飼ったことがなくてわからないんだけど、自分以上に愛おしい存在なんだろうなって。生きているからにはいつかはって思うと、ふっこがどうなるか凄く怖かった。」というメールが来た。

私がどれほどのダメージを受けるか、どれくらいおかしくなるかわかってくれていた友人がありがたかった。

12月12日

母のお世話になった施設へ最後の精算に行く。

駅からの階段を降りて道を渡ったところ、染物屋さんの工場の前にいつも寝ていた猫が亡くなったという貼り紙があり、花と食べ物が供えられていた。

14歳だったという。外猫にしてはすごく長生きだが、最期は交通事故だそうで、とても残念だ。

私が母の施設へ向かうこの横断歩道で、たまたま車道のほうへ出てきているこの子を、よいしょっと抱き上げて染物屋さんの前に運んでいる人を見かけていた。

地域の人に愛されていろんな名前で呼ばれていたらしい。

施設に着き、受付に行って、ケアマネのK島さんを待つ間に、母との思い出が溢れてきて、もう涙が出てきてしまった。

母が施設から病院に移る直前に買った介護用の室内履きや未使用の紙おむつなど、まだ新しくて使えるものをもらっていただいた。

最後の精算の書類に記入してからも涙。涙。

母とちゃびが死んでしまうことが怖くて、あまりに張りつめていた時が終わったが、少しも解放された感覚がなく、ただ悲しい。

そのあと友人と中野の裏道を歩く。

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駅前に2匹でつながれていた犬。とても人懐っこくて、しゃがんだら飛びついてきて、口をなめられた。けだもののぬくもりと匂い、息づかいが身体いっぱいになだれ込んで、たまらなくなる。

たまにこんなふうに往来につながれている犬に出会うが、「飼い主」は人目につくところにほっておいて心配じゃないのかと不思議だ。私なら、不安で、怖くて、とてもできない。しっぽや手足をカラーリングされているのも身体に悪いのじゃないかと心配。

少なくとも、カラーリングが、犬自身のためになること、犬の身体によいこと、犬にとって心地よいことにはなっていないのは確かだ。

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私は動物に対して「癒される」という言葉を使うことができない。相手に対して愛おしさと心配が激しすぎるからだ。「癒される」というのは、生きている存在に対して使う時、非常に手前勝手な収奪の言葉だと思う。そういう人間中心的な言葉遣いが嫌いだ。

鎧神社。オオミズアオの色の錆びた鉄の扉。薄青とチャコールグレーの混じった風景に酵公孫樹の山吹色が映えていた。

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昔の西新宿にあったような古いアパートと敷石。家の玄関までをコンクリートで固めないで、雑草が息をする土の上にこの石を置いただけの細い道が好きだ。

(この画像、何度やり直しても画像が勝手に横に倒れてしまうのでそのままにしてあります。)

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東中野のムーンロード。大きな塊のアーチになった羽衣ジャスミン。冬でも緑の葉が茂っている。4月にはここは白い花の香りでむせかえるだろう。

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懐かしい雰囲気の中野の仲道通り。「文化堂」というレコード屋も健在。20年くらい前に、この入り口にあった「めりけん吉田」というとても面白い看板の古道具屋でブリヂストンの中古自転車を買った。

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「新鮮 蔬菜」と書いてある八百政の看板。「蔬」というのはキノコという意味らしい。ここでも季節外れの丸葉朝顔の葉が青々と生い茂っている。東京では冬も完全な立ち枯れにはならない。

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2017年12月 4日 (月)

ちゃびへの恋しさが止まらない

12月3日(日)

ちゃびが死んでしまったことを、なかなか受け入れることができない。

理性的にはしかたないこととわかっているが、身体が勝手に反応している。

冷たい北風の中から帰宅してドアを開けたとたん、湿った暖かい空気に包まれ、「ちゃび、遅くなってごめんね!」と駆け寄って抱きしめようとすると、ちゃびがいない。

この部屋の湿り気のある柔らかくて暖かい空気はちゃびそのものだ。涙が噴き出てくる。

自分が寝ているふとんをめくったり、あるいはふとんの端が見えたりした瞬間に、そこにいっしょに寝ているちゃびの茶色くて丸いからだが見え、「ああ、ここにいたの。潰しちゃいそうだった。」と思う。

ほっとした2秒後に、ちゃびがいない、という現実に引き戻され、胸の真ん中の骨のあたりがズン!と打擲されたように痛くなる。

それからどくん、どくん、と骨が飛び出してくるような痛みの感覚とともに「嫌だ、嫌だ、耐えられない。」という言葉が繰り返される。

日に何度か聞こえるカサカサッという音に、ちゃびが私のところに近づいてくるいつもの足音だと思い、ふふっと嬉しくなる。

次の瞬間、ちゃびがいないことに目の前がぐにゃりと暗くなる。

夢の中で何度も、「ああ、ここにいたの。」とちゃびに会い、その数秒後には、「やっぱりいない。嘘でしょ?!」とうろたえる。夢の中でさえ泣いている私がいる。

うなされて眼が覚め、「はあ、はあ、」とまるでセリフのように出てしまっている自分の声を聴く。着ている綿シャツはぐっしょり汗で濡れている。

朝、目覚めた時がもっとも緊張が強く、首や肩の凝りからの頭痛や動悸が苦しくて、レキソタンを飲もうかと迷う。

朝一番に精神安定剤を飲んで依存するのが怖くて、とりあえず、ゆっくりお茶を飲んでみる。それからさまざまな用事をかたずけるが、緊張のための頭痛と肩凝りは収まらない。結局タイレノールを1錠飲み、それでも苦しくてたまらない時には、昼くらいにレキソタン1mgを飲む。

ちゃびがいつも水を飲みにきていたお風呂場。黴を落とすのに強力な洗剤を使いながら、「ちゃびに毒だから、ちゃびが入ってくるまでに洗い流さなきゃ。」と思う。その2秒後に、「ちゃびはもういない」という現実に、胸と頭ががん、と打ちのめされる。

ちゃびのトイレを置いていた場所では、足が引っかからないようによけて歩いてから、もうそこにトイレはないのだと気づかされ、「あっ」と驚く。

外出する時には、ちゃびが玄関の土間に出ないように、洗面所のドアを開けっぱなしにして、玄関への道をふさいでおいた。今も、出かけようとするたびに、洗面所のドアを開けっ放しにしようとしてしまう。

週に1、2回は行っていた店の前を通ると、「トイレの砂はまだあったっけ?」と、いつもの習いで店に寄ろうとしてしまう。そしてまたその2秒後に、「もうちゃびはいないんだ、トイレの砂も、K/Dも買う必要がないんだ。」と気づき、真っ暗になる。

二度と関係ない?この疎外感。この虚しさ。

スーパーでマグロのお刺身を見ても、中トロを買ってきて、ナイフで細かくたたき、レンジアレンを混ぜてから、ちゃびにあげていたことを思い出す。今はマグロの刺身を見るのも辛い。

ちゃびにあげたお刺身の余りを私が食べるのが嬉しかった。自分だけのためになら、もう二度とマグロのお刺身は買いたくない。

いたるところでちゃびのために買っていたもの、買おうと思っていたものに出会うたびに涙が止まらない。

ちゃびの医療費はそうとうかかっていたが、数字としてどのくらいなのかまったく考えなかった。自分のためには食費も暖房費もなるべく使いたくないと思う。

ショックで自分を虐めたくなっているということではない。ただ、自分に余計なものを与えること自体がストレスになるので、極力そぎ落としたい。

ちゃびが私に美しい景色を見せていてくれたのだろうか。ちゃびがいないと、すべてのものごとから魅惑が消えていってしまうのだろうか。

幼少期から、生家には犬や猫たちがいた。だから、一緒に暮らしていた最愛の動物との死別は、これが初めてではない。だが、このようなショック時の過ごし方に慣れるということはない。

最愛の犬、チロとの死別で、私は初めて心身ともにおかしくなった。小学校6年の時。それから何度も悲しい別れを体験し、そのたびに死ぬほど泣いた。

もう一度ちゃびに会えること、強い愛情関係が見つかることしか欲しいものはない。

2007年。10歳の時のちゃびと私(自撮り)。

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私の絵の具箱(高さ110cmくらいのクリアケース引き出し)の上がお気に入りだった。

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いつも私をじっと見ていて、眼が合っただけでゴロゴロいっていたちゃび。Sdh000031

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どんな接写も嫌がらずに私にカメラ目線をくれていたちゃび。
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11月30日(木)

静かな雨。乾いた北風でなかったせいか、それほど寒さは感じなかった。

週に2回、保険外のほぐしマッサージに通っている。通りいっぺんの保険内治療より、一番苦しいところを重点的にほぐしてもらえて効果があると感じる。

11月29日(水)

池袋の公園で猫たちを眺めた。

サラリーマンの男性が食べ物をあげていた。そのあと、その男性が猫を膝にのせながら煙草を吸っていたのが気になった。

どこにもちゃびに似た子はいなかった。

そのあと大塚駅まで歩く。

桜の紅葉はほとんど地面の上。柿色、檜扇色、紅玉色、葉脈の際は山吹色で、山吹色と山吹色に挟まれた部分が朱色の葉など。

大塚駅で都電を見た。線路際に揺れていた黄花コスモスの淡い色。この花がなければ殺風景な線路だ。

今度、この都電に乗って、母がまだ元気だった頃、父と一緒に行ったと言っていた都電荒川遊園に行ってみたいと思う。

11月28日(火)

午前中、E藤さんより電話。「今、すぐ近くに来ているので昼食を一緒にとらない?。」と誘われる。

高円寺の名代そば茶屋で昼間から熱燗。

E藤さんはまったく飲まない人だったが、娘さんの通夜から、お酒をほんの少しずつ飲むようになったという。

蕎麦は、私には汁の醤油が濃すぎて出汁のうまみが感じられず、まずかった。

E藤さんが私の母に会った最後は10年くらい前、西新宿の旧駒ケ峰病院の前で、父と一緒に歩いている母が「これから食事に行くの。」と嬉しそうに言っていたそうだ。

母が病気で外出できなくなる前、父と都内のいろんなところに食べ歩きに行っていたらしい。その当時、母はとても幸せだったと思いたい。

そのあと、E藤さんを送って、E藤さんの家まで行き、娘さんの祭壇にお線香をあげた。

娘さんがかわいがっていたという2匹の猫(外猫)が、ベランダから家の中をのぞいていた。とてもガタイのいい猫だ。ベランダの戸を開けたら、ぱっと逃げてしまった。

誰にも触らせない、と聞いて驚いた。昔、何度か野良猫の世話をしたことがあるが、たいてい1、2か月で慣れて、向こうからすり寄ってきて、ゴロゴロ言いながら私に抱かれるようになっていた。

触らせない猫だったことにがっかりした。撫でるのを楽しみにしていたのに。

E藤さんから「家にいるのがよくない。旅行にでも行ったほうがいい。」としきりに勧められた。夜にネットで、一応、東京から近い島の宿などを調べ、そこに行った自分を想像してみたが、気持ちははずまない。

やはり今、寒い中で遠出すること、時間とお金と体力を使うことを想像すると、さらに疲弊する気がする。

なにかやるべきこと、大切なことの本筋からずれてしまうような焦燥感がある。自分の仕事が遅れていることに対する自己嫌悪。

結局、自分が思うところのやるべき仕事が進むことでしか自分を支えることはできない。

今は、遅々とした歩みでも、仕事と家の中の整理をしていたほうが精神的にいいように思う。

ちゃびが亡くなってから、部屋の中にいるのが怖くて、無理やりにでも電車に乗って出かけたりしていたが、陽のある時間は近所を歩き、あとは家の中にいたほうが心身の回復のためにいいのかもしれない。

外に出て余計なストレスを受けることを避けるほうがいいと今は思う。

11月27日(月)

書道の日。「呈祥献瑞」。淡々とお手本を見ながら忠実に書いたが、正月のおめでたい言葉。

今は書くのが虚しい。

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2017年12月 2日 (土)

死別の苦しみ おばのこと

11月27日(月)

おばさん(母の弟の奥さん)から夜9時前に電話。(私が昼からずっと出かけていたので)「夜分遅くごめんなさい」と何度も言われる。(全然遅くないのに。)

私の送ったお花と手紙が着いたという。昨年亡くなった叔父(母の弟)と、それ以来ずっとふさぎこみがちなおばのために、私が送ったものだ。

お花について、「箱を開ける前からバラの香りがして、とても素敵だった。色合いもあなたが選んでくれたっていう感じがしたわ。」と言ってもらえた。

手紙についても、「あなたはすごい、本当の教養があるわ。胸がいっぱいになった。お義姉さんはよくあなたをここまで育て上げたわね。」と言ってくれた。

「ええっ?そんな。おばさんちの娘さん二人のほうがずっと優秀じゃないですか。」と返すと、おばは「あなたは謙遜するところも含めてすごいわ。」と言うのだった。

「そんなわけないですよ。おばさんちはどこから見ても理想の家庭だったじゃないですか。うちなんてすっごく雑で、酷い父親で。ほったらかし。」

それは正直な気持ちだった。でもおばは、「そんなことない。うちは・・・裏表があったんじゃない。」と言った。

「裏表」とまで言うということは、おばは、私にお世辞などではなく、本音を言っているのだ。

叔父が亡くなってからというもの、おばはよく、自分のことを「傲慢だった」と言う。そうまで言えるのはすごいと思う。昔のおばなら、感じはいいが、物事の上っ面をかすめるだけの中身のない会話に終始していたと思う。

おばは相当教育熱心だった。叔父もそうだったが、おばもまた、すごく細かいところまでしつけに厳しかった。

小学生だった頃、私は、叔父とおばの家に、母や妹といっしょによく遊びに行かせてもらっていた。ピアノや大きなステレオやソファーのあるハイクラスの家。

本棚には私が知らない外国作家の絵本などがあり、うらやましく思った。

それらと並んで、「やさしい女の子に育てる方法」といったタイトルの本があるのに私は驚いた。当時、いわゆる子育てのハウツー本のようなものは、それほど出まわってはいなかったと思う。こんな本まで読んでおばさんはがんばっているのか、と子どもながらに感心したのを覚えている。

田舎育ちで、食べていくために必死で働いていた私の母は、私に勉強やしつけに関して特になにも言わなかった。

私が育ったその頃の西新宿では、私のうちだけでなくまわりの家庭の多くが、やはり、食べていくのに精いっぱいで、子どもの教育などにそんなにかまっていられなかったように思う。私は子ども心にも、叔父の家は全然違う、と感じていた。

おばが今、苦しんでいるのは、元気でしっかりしていた叔父が急に亡くなったショックと同時に、(急なことで私は葬儀にもよばれなかったので、具体的な様子を見て知っているというわけではないが、)おばひとりが悲嘆にくれていて、娘二人が(冷淡とまでは言わないが、)悲しみに対して淡白だということもあるらしいのだ。

二人の娘にはそれぞれ家庭があり、子どももいて忙しく、おばはひとり取り残されたような気持になっているようだ。

「私が人に尽くすより自分のことが一番だったから、子供たちもそれを見ていて、人のことより自分が一番になった。でもお義姉さんは違う。だからあなたもお義姉さんに似て愛情が深い。」とおばは言う。

おばから見れば、私からずっと介護されていて、亡くなってからも恋慕われている私の母が、とても幸せに思えるのかもしれない。

しかし、違う観点から見れば、父親を亡くしても平常心を失わずマイペースで生きていく私の従妹たちのほうが、私よりずっとしっかりしていて頼もしいと言えるのではないか。

私は母の介護から解放されて自由になった、という気にまったくなれず、呆然とするくらい厭世的になっている。

元気な時の母の姿ばかりが思い出され、母の生命がこの世から消えたこと、激しくて一生懸命だった母と過ごした時間が過去になることが淋しくてたまらない。

母は必死で忙しく働いていたので、過保護だったとは思わないが、母の私に対する愛情が、私の心を弱くするほど、深すぎたのだろうか?

元気だった頃の母に、情熱的で、献身的で、働き者だった母に、子供の私が甘えすぎていたために、私はいまだ、精神的に自立できないのだろうか?

11月26日(日)

母とちゃびの喪失の悲しみが深すぎて、自分の感受性や認知力が衰えてしまうのではないか、それが怖くて、とにかく陽が暖かそうな日中は歩くようにしている。

色づいた樹々の下、東京国際フォーラムの大江戸骨董市を散歩。

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物を所有したいという欲望が無くなっている。ただ、古びた色、ところどころに欠損さえある、わずかにくずれかけた輪郭を見つけて、市の雰囲気を味わう。

Ooloo(私の大好きなGeorge StuddyのキャラクターBonzoの恋人猫)の人形に出会った。すごく珍しいもので48000円。

(BonzoとOolooのキャラクターに出会ったのは、もう20年以上も前、吉祥寺のLivesにあったアンティーク屋でだ。それから私はこの強烈で愛嬌のあるキャラクターに魅せられ、BonzoのSalt&Pepperを集めたり、ロンドンに行った時にはBonzo Annualの古本を買ったりした。

それもちゃびと出会う前の話だ。Bonzoの愛くるしさもちゃびの愛くるしさにはかなわない。)

そことは違う店だが、きれいな手編みレースや、陶器や、私の好きなシュタイフのぬいぐるみの隣に、本物の動物の骨(店によっては鳥の剥製まで)が置いてあるのに、すごく違和感がある。

以前行った多摩の骨董市で、「この骨、かわい~い。こういうちっちゃいの探してたんですよ!」と言っている若い女がいた。店員が「これ、かわいいですよね~。なかなかこういう小さいのはないんですよ~。」と応じているのを聞いて、ぞっとしたのを思い出した。

彼女たちには、動物の死体からとられた骨も、自分たちのための、おしゃれな飾り物としか見えない。

小さい骨は動物が幼くして死んだ、その亡き骸だという意識、はかなく短いその命を憐れむ感覚がない。

もしかしたら自然死ではなく、人間のおしゃれに利用するために殺されたかもしれない。たとえ自然死だったとしても、死体からとった骨を「かわいい~」という感覚に、私は激しい嫌悪しか持てない。

(肉食しないことはもちろん、私は普段の生活から革製品もなるべく遠ざけているが)、これはリアルファーとフェイクファーの区別が(感覚的に)つかない人と一緒なのだろう。

そのあと、ブリックスクエアを通り、丸の内のKITTEに入った。JPタワーで偶然、『植物画の黄金時代――英国キュー王立植物園の精華から』のポスターが目にとまり、これは私が見るべき展覧会だと思い、入った。

入場無料。

植物画と植物の標本(押し花のようなもの)が同時に展示してあり、興味深かった。

Franz Andreas Bauer(フランツ・アンドレアス・バウアー)の「ゴクラクチョウカ科ゴクラクチョウ属オーガスタ」(18世紀後半~19世紀前半)の、特に黄色ではなく白地に赤紫色がさしてあった絵に立ち止まる。

とても妖しくて胸がざわついた。

鬱に近い今の私でも、絵のよしあしははっきりわかった(少しほっとする)。

ポスターになっていたのはGeorg Dionysius Ehret(ゲオルク・デゥオニシウス・エーレト)のチューリップ。

植物画の特別展示のほかにも、学術文化総合ミュージアムの展示が並んでいたが、やはりそこでもたくさんの動物の骨を見るのが辛かったので、立ち止まることはなかった。

動物を愛することについてなにを、どう書くことができるか、今もちゃびに話しかけている。

11月25日(土)

晴れていたので、とにかく少しでも歩こうと吉祥寺に行ってみた。

中道通りを散歩。20年くらい前にコサージュを買った「カサギ」というお店がまだあった。笠置都さんというオーナーさんがコサージュをつくっているらしい。

中道通りの奥の蔦が絡まる古い「潤アパート」。

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三鷹まで歩く。

線路沿いに生産緑地があり、扇形に広がる雲がよく見えた。

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11月24日(金)

叔父を亡くしたショックでふさぎこんでいるおばを慰めるために、便箋3枚の手紙を書いた。

元気で真面目でしっかりしていて、男にしては心配性で、細かいところまで口うるさかった叔父。

「正江(私の母のこと。なぜか母の兄弟は互いを名前で呼び捨てにしていた。)のことをよろしく頼むよ。」といつも私に言っていた叔父。

(私は詳しいことは聞いていないけれど、おそらく)父の借金の時も援助してくれた叔父。

生前、母がたいへんお世話になったことは、叔父に対して、言葉に言い表せないほど感謝の気持ちでいっぱいであること。

いつまでも元気と思っていた叔父が急に亡くなったと聞いて、私も目の前が暗くなるほどショックだったこと、おばのショックは計り知れないだろうということ。

私の父は私を不安に追い込むことばかりをやる人だったが、しっかり者の叔父がいてくれて、叔父が母を思いやってくれていることが、ものすごく私の心の支えになっていたことを、思い知ったこと。

それらを手紙にして伝え、月曜に届くように花を送った。

花は薔薇を中心にクリーム色とアプリコット色のアレンジ。お供えにはとげのある薔薇はいけないそうだが、叔父が亡くなってからすでに1年半が経っており、目的はおばを慰めるためなので、あえて薔薇にした。

白っぽい花よりも温かみのある優しい色を選んだ。

11月21日(火)

詩人の阿部弘一先生に送る香典返しの品をさがしに、新宿のデパートへ。

高島屋、伊勢丹の贈答品売り場でお茶の銘柄を見てまわり、高級なお茶はどちらも同じ会社のものだった。「愛国製茶」という名前は嫌いな人は嫌いだろう、と思うのでやめた。

最後に小田急の地下に行ったら、阿部先生のお好きな椿の花の絵の意匠を凝らした箱入りのお茶があったので、それにした。

月曜(11月27日)に届くように指定して頼んだ。

新宿南口では、バスタの前のデッキをはじめ、そこここでイルミネーションがきらきらしていた。

クリスマスに向けた飾りつけを見ても、すごく淋しくて辛くなる。もともと人工的な華やかさをあまり楽しめない性質だが、今年はたまらなく淋しい。

かと言って、都会に灯りが乏しくなったら余計淋しく感じるのかもしれない。

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2017年11月26日 (日)

ちゃびのこと、猫(動物)の看取り、動物を愛するということ

11月22日(水)

お世話になった動物病院に未使用の輸液や薬を返却しに行く。

ちゃびが亡くなる前日に、まだ、すぐ亡くなるとは思っていなくて購入したものだ。

(亡くなると思っていなかった、ということを思い出すと、苦しくて発狂しそうになる。)

これから一生、猫と触れ合えない人生が考えられない、すごく苦しい、と快作先生に言ったら、今、病院のケージの中にいる治る見込みのない猫の看取りをやらないかとすすめられた。

野良猫で、悪性リンパ腫で、おそらく余命半年くらいで、絶えず下痢をしているキャラメルちゃん。外猫として世話をしていた人たちからも、誰の自宅でも飼えなくて、お金を払うから引き取ってほしい、と言われたという。

顔はちゃびとはまったく違うけれど、同じ茶トラなので、快作先生は私に引き取ってもらいたくて、「ね~、ちゃび。」とキャラメルちゃんに話しかけて見せたりしていた。

「温かい部屋にいて、近くに人がいて、テレビがついているような安心できる暮らしを死ぬ前に味あわせてやりたい」「看取りをしてくれる人がいたら、なによりも助かる」「預かってくれる人がいない」と快作先生に言われて、苦しすぎて、ただ涙が出た。

外猫(地域猫)で、食餌の世話をしていた人はいるが、病気までは面倒みきれなくて、ほっておかれて死んでしまっていたかもしれない猫で、とりあえず病院に連れて来てもらえて、病院のケージに入れられて、命拾いだけはした猫。

引き取って看取りをしてあげたいとは思う。しかし、今の私には、愛情を注ぐものがやせ衰えて死んでいく現実を受け止めて、全力で介護する覚悟とエネルギーがない。

心身共に、今の私の力では足りる気がしない。

やるからには全力で介護しないわけにはいかない。同時に、誰もそれをやりたがらないなら力不足でも誰かがやらないと、という気持ちもある。

それをやったら、私自身が精神崩壊しかねないのではないか、という懸念がある(実際はどうなるかはわからない。私は私自身が予測するより強いのか、弱いのかわからない)。

どうしたらいいのかわからない。ただ苦しくて涙が止まらない。

ちゃびと死別して、正直、自分の精神崩壊、うつやパニック障害になるのは嫌だ、とすごくおそれている。

私が愛情や思いやりを注げる相手が喪失した、その欠落に苦しんでいるのだ。

自堕落になる気もなく、サプリ(アスタキサンチン、ブルーベリー、タウリン、レシチンなど)を飲んだり、日がさしている時間帯にはとりあえず無理やりでも歩くようにしている。

街を歩いていても勝手に涙がこぼれる。酷く疲れた顔なので極力、人に会いたくない。

11月20日(月)

人生で一番悲しい時、自分自身がどういうふうに過ごして(生きて)いったらいいのか、また、人生で一番悲しい時の相手に、自分はどのように接していったらいいのか、どんな言葉をかけたらいいのか、そんなことばかりを考える毎日。

・・・

午前中、おばさん(私の母の弟の奥さん)に電話。数十年ぶりにA子ちゃん(母の妹の娘。つまり、私の従妹、おばさんにとってはやはり姪)と連絡がついたことを報告。

おばさんは叔父さんを亡くして1年と半年。まだなにもやる気が起きない、誰にも会いたくない、と言う。体重は40kgもないそうだ。月命日は毎回、おじさんのお参りに行っているという。

おばさんはうつだと言うが、話し方に快活で頭のよかった昔の感じはそのまま残っている。ただ、かすれて低い声の色が苦痛をものがたっている。話す内容が、もっと叔父にこうしてあげればよかった、という後悔ばかりになっている。

おばさんは私に「お義姉さんは、お義兄さんのことですごくたいへんなことがたくさんあっても、家族っていうものをつくっていく力があったと思う。」と言われ、「母があんなどうしようもない父に惚れたせいで、私にばっかりしわ寄せが来てますけどね。」と言ったら、

「知佐子ちゃんはものすごく苦しい時でも、それにうまく対応する能力がある。そういう大物感があるのよね。だって声から笑顔が浮かぶもの。」と言われた。

私は自分が心身ともに強いとはまったく思えないし、実際、心拍がおかしくなっているし、ほとんどうつの一歩手前だが、おばさんを慰めたいという気持ちだけはとてもある。

おばさんは叔父と本音をぶつけ合わなかったことを後悔していた。いろんなことを話さないうちに、「まるで交通事故のように」、すい臓がんの告知からすぐに別れになってしまったことをとても悔やんでいた。

癌性の脳梗塞が多発し、癌の治療が始まる前に会話できなくなってしまったことがものすごくショックだったのだ。

子どもに対して口うるさく言い過ぎたことも子育てに失敗した、とおばさんは言っていたが、同じように愛情を注がれても私と妹は全然違う性格になったのだから、親の育て方のせいとばかりは言い切れない。もともとの資質とか、わからないことは多い。

母は自分の感情を押し殺すタイプではなく、私にはヒステリックに言いたいことをぶつけてくることも多かった。母は働き者で忍耐強くもあったが、笑ったり、泣いたり、怒ったり、感情回路はストレートで激しかった。

母が元気で私が若い頃は激しく衝突することもあったが、思いっきりぶつかり合える関係は幸せだったのかな、と今は思う。

母は世間がうらやましがるような贅沢には興味がなくて、どんな環境でもその場で面白いことをさがして楽しめる人だったから、それだけは私にとって、すごくよかったのかな、と思う。

ちゃびが亡くなって、私もすごく精神的に辛すぎておかしい、とおばさんに話したら、「ペットロス」という言葉を使われ、すごく違和感があった。

ちゃびを「ペット」だと思ったことが一度もない。「子ども」「恋人」…、どういう言葉を使っていいのかわからない。ただ、狭い部屋にずっと一緒に暮らしていて、心身ともに激しく求めあう関係、お互いに相手のことはわかっている、理解していると思える存在だった。

おばさんは動物と一緒に暮らしたことがないそうなので、それ以上のことは言ってもしかたないと思った。

・・・

午後、ほぐし屋さんで、凝り固まった背中の筋肉をほぐしてもらう。

僧帽筋、脊柱起立筋も酷いが、菱形筋が特に凝り固まっている。

リンパの激しい痛みは治まったが、まだ乾いた咳があり、血の混じった痰が出る。洗える布製の抗ウイルスマスクをしている。

・・・

夕方5時に、生まれて初めて保護猫カフェに行ってみた。

正直、ちゃびと同じ「猫」という生きものとは思えない子たちばかりだった。「猫」ってこんなだっけ?と思うくらい、私が知っている「猫」とは違った。

成猫が皆、ちゃびの数倍もガタイがよくて、頭の大きさに対して体幹が大きすぎるのだ。

そして顔のバランスがものすごく違う。皆、顔がクサビ形で、鼻の筋が太くて長く、直線的だ。ピューマとかチータとかに近い雰囲気の子ばかりだった。

たまたま同じ兄弟の子が集まっているのかもしれないが、私にとっては「猫」というものが「ちゃび」とあまりに違うことに驚愕しかなかった。

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ちゃびのおでこから鼻にかけての柔らかな曲線が恋しくてたまらない。

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蠱惑的で甘えっ子だったちゃび。
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11月19日(日)

保護猫譲渡会に行ってみた。

眼に障害がある子、四肢欠損の子、どの子もかわいく、愛情を感じた。

けれど、当たり前だが、「ちゃび」はいなかった。

夜、すごく苦しい感情が堰を切って溢れだし、爆発してしまった。

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2017年11月21日 (火)

阿部弘一先生/ 悼むということについて

11月18日

冷たいセメントのような灰色の曇り時々雨の日。冬の気配が濃くなってきている。

朝、書留が届いたのでなにかと思ったら、阿部弘一先生からのお香典だったのでとても驚いた。

気安くお話しできるような間柄ではないのだが、3日前に私が出した年賀欠礼状が届いてすぐに、私などにお香典をくださるとは、本当に恐縮するばかりだ。

手紙に「お母様のご逝去を心よりお悼み申し上げます。また、“ちゃび”まで・・・・・、ご心痛の程、ただただお察し申し上げるばかりです。どうぞお体を大切にされますよう・・・・・。」とあった。

「ちゃび」のことまで書いてくださっていることが嬉しく、ありがたすぎて、涙。

目上のかたに出す年賀欠礼状に、ちゃびのことを書いていいのか少し躊躇いがあったのに、一番書くことを懸念した阿部先生が、真っ先にちゃびのことまで悼んでくださったことに痛み入る。

阿部弘一先生は、私の師、故毛利武彦先生のご親友で、とても尊敬する詩人だ。

私が美大を卒業して2、3年の頃、父の借金を負い、疲弊して、もう絵を続ける気力も失いかけ真っ暗な闇の中で迷っていた頃、毛利先生のお宅に伺った時のことだ。

「ポンジュって知ってる?僕の友人が訳しているんだけど…。」最初、そんなふうに、毛利先生は阿部先生のことを教えてくださった。

そして毛利先生のお宅で私は阿部先生と初めて出会った。その時に阿部先生は私が持参したスケッチブックの中の椿の絵を気に入ってくださった。

2001年に祖母が亡くなった時にも、阿部先生からクリーム色のチューベローズ(月華香)や青と白のアネモネが美しく盛られたお花が届いて、あまりにも驚いたことがあった。

阿部先生が私のような者をこのように気にかけてくださることは、大きな喪失の淵にある時、とても信じられないほどありがたい。

阿部弘一先生。1978年4月、ヴァレリーの眠る海辺の墓地(フランス、セート)で。

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私の最初の個展の時の阿部先生と私。

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11月17日

ちゃびのことをとてもかわいがってくれて、私が家を留守にするときに、ちゃびと一緒に留守番していてくれた友人Nちゃんから長距離電話。

ちゃびが亡くなった直後から2回目の電話だ。Nちゃんも「あんなかわいい子はどこにもいないよね。」と言って泣いてくれた。

Nちゃんはかつて近くに住んでいて、ちゃびのことを長年、すごく愛してかわいがっていてくれた。わかりすぎるので、あまり言葉もなく、ただ電話口で一緒に泣いた。

ちゃびはよくNちゃんを踏み台にして、高い棚のてっぺんに駆け上がったりしていたこと、なんにでもよくじゃれて、疲れを知らずに遊びまわっていたこと。元気で、暴れん坊で、愛嬌たっぷりだったちゃびのことを覚えていてくれて嬉しい。

Nちゃんが一緒に留守番していてくれた時、私の帰宅する気配を待って、ちゃびはいつも落ち着かなかった、と言っていた。

・・

母が亡くなってすぐ、私が寝込んでいる時に、クール宅急便(冷凍ではなく冷蔵)を送ってきた人がいた。段ボール箱を開けたら、ジップロックに煮物などの手料理がいくつか入っていて、おまけに肉を使ったものあったので、すごく困惑した、という話をNちゃんにしてみた。

私は(動物を愛するために)肉食だけは(反射的に吐いてしまうくらい)どうしてもできない、と何度もはっきり伝えているのに、「友達だから手料理を送ったのに…」と言われた、という話をして、「どう思う?」と聞いてみた。

Nちゃんは「異常に気持ち悪い。肉食できないことって、本人にとってものすごく重要なここだよね。」と言った。

私は「もちろん、私の人生で最も重要なことのひとつ。」と応えた。

「友達なら、相手が肉が食べられないことを覚えていてくれるはずでしょう。それに肉が入っていなかったとしても、手作り料理をジップロックに入れて送るなんて不潔で気持ち悪すぎる。そんなの食べられるわけないのに。」と言ってくれた。

私にとって、肉料理は動物たちを殺すことに変わりない。、

私はもともと肉食をしないが、よりによって母が亡くなったばかりの時に、肉の手料理を送り付けられることは耐えがたかった。どうしてこんなに余計なことをするのだろうと思った。

さらに「いらないならクール便で実家に転送してほしい」と言われたんだけど・・、と伝えると、「その人は完全におかしい。」とNちゃんは言った。

過去にも何度かあったが、大切な人が亡くなって、私が心身ともに一番弱っているような時にかぎって、「福山さんのために」と言って、エゴの塊の自己承認欲求をぶつけて、ずかずか踏み込んでくる人たちがいる。

私にとって異常なストレスでしかない。

たとえば、恩師である毛利武彦先生が亡くなって、私が泣くのと吐くのをくり返している時に、面識もない他人であるにもかかわらず、自分が私と毛利先生の重要な関係者だという勝手な妄想で、「師の死に捧げるオマージュ」なる安い創作物を送りつけてきたN・S。

彼は一方的に憧れる相手に同一化して自分が「芸術家」になった妄想で有頂天になる精神の病だ。(彼から受けた耐えがたいストレスの経験について、いずれブログに書くつもりだ。)

あるいはまた、父が亡くなった時に、よく知りもしない他人の親について自分の意見を書いて送りつけてきて、私が「私はあなたの意見を必要としていません」と返答しても、何度も「自分の意見を聞け」と強要してきたI・S。彼女は私よりひと回り以上も年下だ。

相手を理解する気がなく、ただ一方的に自分がやりたいことをやって「ほめろ」「ありがたがれ」と押しつけて、私に甘えようとしてくる他人が、ものすごく気持ち悪い。

彼らは自己愛が強すぎ、現実の解釈が歪んでいる。

私は相手を拒絶しないように見えるらしく、そういう人たちからターゲットにされる経験がとても多い。そういう人たちは自分の言動が相手に嫌がられるということを認めない。彼らは私とすごく親しくて、自分のやることはすべて私が喜ぶ、と思い込んでいる。

そういう人たちを無視しても通じなくて被害が甚大になるので、最近は、端的に「そういうことをやられるのは私は苦痛です」ということだけはしっかり伝えるようにしている(伝えても理解しない人がいるので困るが)。

Nちゃんは過去にそういう人たちから私が受けた被害をよく知っているので、とても心配していてくれた。

Nちゃんに話せてちょっと楽になった。

11月16日

実家にあった古い電話番号簿が見つかったので、新潟市に住む従妹(母の妹の子)のA子ちゃんに電話してみた。

私が大学生の頃、母と新潟に遊びに行った時のこと、また、そのあと新宿の私のうちにA子ちゃんのほうから遊びに来てくれた時のことなどをよく覚えていて、話してくれた。

とりわけ母のことをよく覚えていてくれたことが嬉しかった。母は、弟である叔父とともに、新潟にいる叔母とも、とても仲がよかった。

A子ちゃんが一時、東京で暮らしていた時、母がA子ちゃんの様子を見に行ったそうだ。近くの中華屋で一緒にチャーハンを食べ、母が「これ、ラードがはいってるから嫌い。」と言っていた、と。そんな些細なエピソードを話してもらえることが今は嬉しい。

A子ちゃんのお母さん(私の母の妹)は神経質で、子どもに少しうるさく文句を言いすぎる性格だったようで、A子ちゃんは「おばさんが自分の母親だったら、うまくいったと思う。」と言った。

A子ちゃんが「正江おばさんには安心して母の愚痴を言えてました。」と言ってくれたことがとても嬉しかった。

母は私には感情を激しくぶつけてくることも多くあったが、母は私にはなにを言ってもだいじょうぶと思っていたから、それくらい私を信頼していたのだと思う。

母の死亡後の手続きに区役所に行って書類をもらった時、母の戸籍に「四女」と書いてあったのに驚いた。

母の兄妹は全部で9人か10人あったらしい。

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2017年11月18日 (土)

ちゃびのこと

11月17日

母とちゃびを相次いで亡くし、今は私にとって人生で最大の喪失感に苦しむ時だ。

私にとって、ただ存在するだけで無条件に激しく暴力的に愛し愛された相手、私の命をかけて守りたいと必死になっていた相手が、この世からいなくなってしまったのだから。

このことを「乗り越える」ことは決してないだろう。大切な命が失われてしまった体験に対して、本来、「乗り越える」という言葉を使うべきでないと思う。

時が、ほんの少しずつ、心身の酷い痛みと動揺を和らげ、薄くしていってくれるのかもしれないとは思う。でも、それにしたって実際どうなるかは、この先経験してみないとわからない。

たいへんな「喪」の作業(世間一般の四十九日とか、読経とか、納骨とかとはまったく関係ない、私個人の)がいるだろう。

「喪」と名づけるべきでもない、私個人の喪失の体験の処し方、これこそがなにかを「表現する」ことそのものになっていないのであれば、私が生きていて表現する意味もないと思う。

毎日、ちゃびの写真をさがして整理している。

本にまとめるために過去の素描(デッサン)を整理した時と同じように、私自身にとって大切な発見がある。

20数年の記憶は、忘れていることも多く、断片的な記録や写真によって蘇り、リアルに追体験できたりもする。

私が絵を描いている時、ちゃびが、花瓶とスケッチブックを支えているちゃぶ台の上にどん、と乗っかって、絵を描くのを邪魔している写真。この絵を描いている時にも、ちゃびは私に絡みついてそばにいた。

(2000年のちゃび。この写真の時に描いた枯れたドクダミの素描(デッサン)がスケッチブックに残っている。当時、私はある小さな雑誌の表紙画を描いていた。)

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絵を描いている私の肩の上に乗っかって離れなかったり、私が絵に集中すると、自分のほうをかまえ、とことさらに激しく全身の力を込めて私の背中を蹴って、傷だらけにしたり…。

私が植物を持って帰るとすぐにちゃびは何の草かチェックしていた。薔薇やパンジーは買って来たら一瞬の隙にかじられていたので、かなり描くのがたいへんだった。

植物を氷水につけて流し台の中においても、必ずかじられるので、コップに生けて冷蔵庫の中にしまうしかなかった。

私の植物の絵を見ただけでは、ちゃびがそこにいることはわからないが、ちゃびは私と一体化するように、あまりに近くにいた。

私はちゃびと一緒に生きながら、蠱惑的な生命の秘密の世界で、植物の絵をたくさん描いた。

ちゃびが私に植物の絵を描かせてくれていたのだと思う。

私が誰かに会いに出かける時も、ちゃびは元気で留守番していてくれた(時には友人が、私の外出中はずっとちゃびを見ていてくれた)。

若林奮先生、種村季弘先生、毛利武彦先生、大野一雄先生、中川幸夫先生…私が心底慕った大切な先生たちがひとり、またひとりと亡くなって、私が激しく嗚咽してぼろぼろになっていた時も、いつもちゃびは元気で、私のそばにくっついていてくれた。

帰宅するとき、ちゃびが、私の階段を上る足音に飛び起きて、もう玄関に走って来ていて、ドアを開けた瞬間、嬉しそうにわあっと私にまとわりついてくる、そのことを、私はどれほどの奇跡だと自覚し、全身で味わうことができていたのだろうか?

幸せのさなかで、命が有限だと言うことをどれだけ意識できただろうか。

あまりに一心同体で、互いの身体の中に出入りするような関係だったから、ちゃびが生きているうちは、まるでナルシスティックな話にとられそうで、ちゃびのことを語ることが憚られた。

今、私は身体にちゃびを思い切り刻み付け、瘢痕を残したいと思う。

(2011年。13~14歳のちゃび。)

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常に私のことを眼で追い、私に甘えようとしていたちゃび
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私の絵の具箱(高さ110cmくらいのプラスチックの引きだし)の上がお気に入りだったたちゃび。この上から私の上にどーんとジャンプしてきた。

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とにかく元気で暴れまわっていた。

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(2012年。14~15歳のちゃび。)
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枕で私を待っているちゃび。

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私になでられるのが大好きだったちゃび。
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乾燥したカラスウリにじゃれているちゃび。
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11月15日

鼻の奥の炎症と頸部リンパの腫れを抑えるためにサワシリンを1日3回服用。毎日、少しずつだが頸のリンパの腫れは治まってき、きょうはずきずきしない。

そのかわりに、なぜか乾いた咳が出てきて苦しい。アステラス製薬に確認したが、抗生物質で細菌を抑制したから風邪のウイルスが優位になる、ということはない、と言われた。

また、サワシリンに関してはカルシウムとキレートをつくることはない(牛乳などの食べ合わせは気にしなくていい)、と。

このところずっと昼は温かい蕎麦にネギと卵を加えたもの、夜は日本酒とつまみ、という食事。それと毎日、スチューベン(野性的な酸っぱい葡萄)を食べている。

それ以外のものを食べる気になれない。

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2017年11月12日 (日)

20年前、ちゃびと最初に出会った場所

11月4日

ちゃびの火葬。

仏教徒でもなく、すべての宗教を特に信じない私は、移動火葬車を選んだ。

遺体を渡す時、ちゃびの亡骸と別れるのがあまりに辛すぎて、号泣してしまった。

未練が果てることなく、ちゃびの顔にちゅっちゅっと吸うように口づけると、けだもののちゃびの匂いがして、私の胸いっぱいに満ちて溢れ、身体に衝撃が走った。

匂いからは死んでいることがわからなかった。このまま、ずっとちゃびの遺体と暮らしていけたらどんなにいいだろうと思った。

「お骨を一緒に拾いますか?それともこちらでやりましょうか?」と聞かれて、吐きそうになって、「考えられない。」と答えてその場(近くの駐車場)にしゃがみこんで泣いた。

40分くらいして、火葬が終わったと電話がはいった時は、かすかに落ち着いていた。と言うより、現実がよくわからなくなっていたのかもしれない。

ちゃびの骨を拾って、骨壺に入れたが、私は泣いていなかった。もちろん悲しくないわけではなく、身体や心の痛みが消えてなくなったわけでもないのだが、一瞬、呆けたような、真っ白な、時間とも空間とも言えないどこかにはまりこんでしまっていた。

ちゃびのお骨をいったん自宅に置いてから、20年前にちゃびと出会った善福寺川のほとりまで自転車を引いて行った。最初の時にちゃびを自転車で連れて来たから、やはりそこへは自転車で行きたかったのだ。

ちゃびが捨てられていた善福寺川沿いの瓢箪池近くの土手の角に着いた時、激しい悲しみで泣き崩れてしまった。

あの時から20年が過ぎたこと、そのあいだにちゃびが人間で言えば100歳近くになっていたことが信じられなかった。その自分のふがいなさも、すべてが酷く悲しかった。

あの時、私は、先に保護した茶トラの赤ちゃん猫の「ちび」が、懸命の治療の甲斐もなく、たった17日で亡くなってしまったばかりで、あまりのショックに物凄くやつれていた。すっかり青ざめて、眼の下に真っ黒な隈をつくって、私はガリガリに痩せた幽霊のようになっていたと思う。

「ちび」は、たった17日で、掌にのるような赤ちゃんから、少し大きく成長していた。

死ぬ前に、私に撫でられて、「ちび」が安心したようにゴロゴロ言っていたのを鮮明に覚えている。どうしたらよかったのだろう、どうしたら救えたのだろう、と私は際限なく苦しんだ。

呑気に、無責任に、野良猫に食べ物をあげたりして満足しているのは、人間の無知とエゴでしかなく、ちっちゃな赤ちゃん猫が、野良猫のまま予防注射もされないでいれば、あっという間にパルボ(伝染性腸炎)などの病気で死んでしまう、という現実を、いやというほど思い知らされたのだ。

その数日後に、私はちゃびに出会った。

私は「ちび」を失った悲しさと苦しさに胸が潰れてしまいそうで、どうしようもなくて、無性に野良猫に会いたくて、自転車で善福寺川沿いに行った。そこで野良猫の世話をしている女性と、ふと言葉を交わしたのだ。

人に怯えていて捕獲するのがたいへんだった赤ちゃん猫を、やっと捕獲して、これから大切に育てようとしたのに、パルボで、入院させただけで死なせてしまった、と言ったら、その女性が教えてくれた。

「ちょうど今、捨てられたばかりの赤ちゃんがいるのよ。」と。

善福寺川沿いの土手の角の隅っこに、誰かが引っ越しの時に粗大ごみを不法投棄し、一緒に段ボールの中に猫の親子を入れて、その上に重しのようにテレビを乗せて捨てて行ったという。

猫たちの鳴き声を聞いて、その近くの植え込みに住んでいたホームレスの人が、段ボールの中から猫を助け出して植え込みの中に移動してくれた、と。

そして、その植え込みに連れて行ってもらって、私はちゃびと出会ったのだ。

お母さんとちゃび(1997年7月21日)。お母さんはいろいろミックスされた柄の子だった。

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ちゃびにはあと2匹の白い男の子と女の子の兄妹がいた。当時、お世話をしていた女性が2、3人いて、そのうちの一人と私とで引き取った。私はちゃびと白い男の子(コナと名づけた)をもらった。

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人を怖がらなくて、白い女の子とおっとりとポーズをとっていたちゃび。

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その植え込みのあったところは現在、駐車場の一部になっている。だからホームレスの人も住めない。

すべてが淋しくて悲しい。

11月5日

ちゃびがいないことが苦しすぎて受け入れられない。

2日で2kg痩せた(現在162cm、44kg)。

泣きすぎて眼の上と下の骨部分と眼窩がずきずきしてすごく痛い。

ドクン、ドクンという胸の真ん中を殴られるような動悸がして眠れない。呼吸が苦しくて「はあ、はあ、」と声に出てしまう。

夜中、幾度も「ちゃび!」と呼びたくなり、だけど呼ぶことでものすごく苦しい現実に塗りこめられてもっと苦しくなるので、声に出して呼びたくない。心の中だけで呼んでいる。

なににも慰められない。なにも欲しくない。

食べたくない。お酒だけは飲める。お酒を飲むと激しい動悸が収まって少しだけ楽になる。

・・

ちゃびのことを大切にしてくれた友人と西荻を歩いた。

ちゃびと出会う前に私は、わずかなあいだだが、西荻に住んでいて、その頃はアンティークに夢中だったので、当時のアンティーク屋が今もあるか気にかけながら歩いた。

アンティーク屋巡りをしても心が浮き立つとはまったく思えなかった。ただ、自宅にいて、ちゃびがいないという耐えがたい痛みと向き合うことから、ほんの一瞬でも逃避したかっただけだ。

当たり前だが、20年以上も時がたてば、街並みはずいぶん変わっている。真新しいものには興味はない。当時、よく目の保養に行っていたアンティーク屋さんは、ほとんど(fujiiya、ベビヰドヲル、ムーンフェイズ、アーバンアンティークスなどなど)なくなっていた。

信愛堂書店さんは小さくなって、新刊の書籍が減り、品ぞろえも変わっていた。

自分が住んでいた住所も正確には思い出せず、近辺を歩いてみたが、どうやらその建物はなくなっているようだった。

「地蔵坂下」という忘れていたバス停の名前。22年くらい前に、このバス停の名を楽しい気分で見たことははっきり覚えている。

日が暮れて風が冷たくなった時、急にちゃびがいないという現実に襲われて、通りを歩きながら激しく嗚咽してしまった。

老舗の酒屋さんで飲みなれている銘柄の日本酒の小瓶を買い、裏路地で一口飲んだ。激しい動悸を抑えるには今のところ、これしかないのだ。

私が住んでいた頃もあったはずの古い酒屋さん。当時はお酒なんて興味もなかったので酒屋があることにも気づかなかった。

当時と変わらず、(意外にも)なくなっていなかった駅前の「天下寿司」という回転寿司で、かつてお気に入りだったカリフォルニア巻(エビとアボカド)を食べた。

なにをしても、どうにもならない悲しみから逃げられなかった。

11月6日

E藤さんから電話。ずっと闘病中だった娘さんが3日に亡くなったと。

言葉が出なかったが、お通夜に伺うと伝える。

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2017年11月 8日 (水)

ちゃびが亡くなりました

11月2日

11月2日(木曜日)、午後12時30分、ちゃびが亡くなりました。

20歳と4か月(推定)でした。

1997年の7月、善福寺川のほとりに捨てられていた生まれたばかりの赤ちゃんちゃびと出会い、一目見て、私は魂全てを奪われてしまい、この子と暮らしたい激しい欲求を抑えることができませんでした。

(その直前に、近所で鳴いていた、ちゃびに似た茶トラの男の子の赤ちゃんをやっと保護したのに、その子がパルボにかかっていて、17日間の入院の甲斐なく看とることになったという、思い出すのも胸が潰れる経験がありました。)

死んでしまった「ちび」と同じ名前をつけて、この子を誰よりも大切にかわいがろうと、自分の部屋に連れて帰って来たのは7月24日でした。

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信じられないような美少女だったちゃび。
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それからちゃびは私の一番の宝もので、ちゃびにまさるものは何ひとつなくて、20年以上一緒に、ものすごく密に生きてきました。

いつでも、ちゃびがいつか先に死んでしまうことを思うと、とてもそんなことは1秒だって考え続けられなくて、頭がおかしくなりそうだった。

ちゃびがいなくなることがあまりにも苦しくて、頭がおかしくなって、今はまだおかしいまま、混乱したままです。

肋骨の真ん中とみぞおちが殴打されるような痛みに、吐きそうになって号泣してしまう。夜も苦しくて眠れない。

まだふっくらしていていつも一緒に寝ていた去年(2016年)のちゃび。

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眠る時、私のあごの下に頭をうずめてはゴロゴロ言っていた。(2016年10月16日)
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夜中に眼を覚ましたら、じっと私の顔を見ていたちゃび。(2016年12月23日)
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とにかくいつも私にべったりくっついて離れなかったちゃび。
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(2016年12月24日)
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私がPCを使っている時、いつも私のひざ(太もも)の上に乗っかってきたちゃび。

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私が仕事すると必ず邪魔したちゃび。本をつくるために整理中のスケッチブックの上に乗って、仕事よりも自分にかまって、とアピール。いつもすごく甘えっ子でご機嫌だったちゃび。
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去年の暮れ(当時19歳)はまだまだすごく元気でした。
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今年の8月くらいから、ちゃびは胃腸の具合が悪くなり、病院でも原因がわからないまま、私はできることはすべてしようと思った。

日々、激変するちゃびの体調を見ながら、必死で介護してきました。

亡くなる日の前日は、それ以前よりずっと調子がよく、快復傾向にあると信じていました。

まだちゃびがいないことをとても受け止められません。

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2017年5月18日 (木)

『デッサンの基本』 (ナツメ社) 第27刷 / 緘黙

5月15日

住宅街を歩くと、枯れかけたハゴロモジャスミンと、柑橘系(ザボンやミカン)の花の甘い香りと、薔薇の香りが風に混じっています。

『デッサンの基本』(ナツメ社)増刷、第27刷となりました。(本日、27刷目の本が、手元に届きました。)

購入してくださったかた、ありがとうございました。

どんなかたが『デッサンの基本』を手にとってくださったのだろう、といつも思いを巡らせています。

私が予想した人数をはるかに超えた人たちが、どこかで、この本をめくってくださっていることが、不思議でたまりません。

素描(デッサン)には、いろんなやりかたがあると思いますが、この『デッサンの基本』が、どこかで絵をかこうとするかたの、わずかなヒントやきっかけになれば、とても幸せです。

最近私が描いたもの。

4月3日の記事で写真を載せた、近所で思いがけずいただいた椿の花です。

http://chitaneko.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/index.html#entry-112790659

巨大輪椿(ツバキ)の素描着彩(デッサン)。

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フリージアの素描着彩(デッサン)。昔、フリージアと言えば、黄色と白のイメージでした。最近のフリージアの花色は多様。八重咲きも多く見られるようになりました。
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牡丹の素描着彩(デッサン)。散りかけの姿が美しいと思う。
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ちゃび(猫)の鉛筆素描(デッサン)。

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いつも私にくっついて眠るちゃび。
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「花」という言葉が花を覆い隠している

デッサンは花という言葉を剥ぎ取って

花という得体の知れない存在に近づこうとする

紙の上にワープして

花は「花」という言葉から自由になる

花が生きるように沈黙のうちに線も生きる

それがデッサンではないか

(谷川俊太郎さんが書いてくださった『デッサンの基本』の帯文です。)

5月は「緘黙(かんもく)」の啓発月間だそうです。

前にも書きましたが、私は対人緊張が強すぎて、幼稚園から高校くらいまで、家族やごく親しい友人とは話せても、大勢の前ではほとんど話せませんでした。そういうふうに(特定の関係を除いて、)人前で話せない状態を「場面緘黙」というのだそうです。

私は子供時代、自分の自分の思ったことや考え、好き嫌いなどが、周囲からおかしく思われるのではないか、変に思われるのではないか、とあれこれ考えすぎて、悩んでばかりいて、学校で表に出すことが恥ずかしくて、なかなかできなかったのです。

幼稚園や学校で自分の意思を表明したくてもできなかったせいで、また、理不尽なことを拒否できなかったせいで、たいへん苦しい経験が山ほどありました。

緘黙気質の人は、他の人が気づかないことに敏感に気づいたりすることも多いのですが、一方で傷つくことも人一倍激しい傾向にあるのではないでしょうか。

心の痛みや苦しさを、外に表すことができない(表したくてたまらないのに、なぜか拘束されたように、どうしてもできない)ので、身体の中にどんどん鬱屈したものがたまってしまいます。

(私の場合、無言の反発力があり、なんとか不登校にもならず、大人になってからも精神科に通ったことはありません。)

私は今も対人緊張の傾向はありますが、初対面の人に、自分から話しかけることもできます。

私は幼稚園に行く前から、絵を描くことと本を読むことは好きだったのですが、私自身の体験から言えば、そのことがどこかで「場面緘黙」の苦しみと闘うことと結びついているように思えます。

そして、私がすっと愛おしく思ってきた動物たちと植物が私をたすけてくれました。

ものをよく見て描くということは、その時にはおしゃべりはいらない、そのものがそれ自身から訴えかけてくる魅力を、おしゃべりをやめて静かに聴きとるということです。

言葉では表しきれない魅惑に、もっと接近すること、愛するものに寄り添って描いた時間が、絵になることは、それだけで自分を支えることになっているように思います。

自分が気になるものを、何回も、繰り返し描くのです。自分も変わり、相手も変わっていく、自分の描く絵も変わっていく。

また、私は、よく散歩をしては、気になるもの、面白いものを見つけ、そこに何度も通って、時間とともに移ろう様子を見たりします。

そのもののどういうところに自分が惹かれているのか、自分の感覚に注意しながら見て、記憶するのです。

そういうことを繰り返しているうちに、いつのまにか、自分の好きなもの、嫌いなもの、自分の意志を表明できるようになってきました。

緘黙に苦しむかたたちは、そのような自分の感じたこと、考えたことを絵や文章などにかきとめておくことは、生きていく上で、おそらくとてもよいことだと思います。

絵を描いている時の私は、しゃべれないのではなく、誰ともしゃべりたくないから、絵に集中したいからしゃべらない。そういう沈黙の時間を持つことによって、自分が本当にしゃべりたいときにしゃべれないこともなくなってきたように思います。

そのものをよく見れば見るほど、終わりのない、休めない、苦しいデッサン(素描)にはいっていくことになるにせよ、とりあえずそれによって、私はある意味では強くなっていったのです。

緘黙気質の人に大切なことは、その鬱屈によって押し潰されないようにやっていくこと、自分を生存のほうに向かわせる、それぞれのやりかたを見つけることで、これについては、参考になるかはわかりませんが、自分の経験から思うことを、これからも少しずつブログに書いていけたら、と思っています。

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