4月30日(火)
今朝からレットヴィモ240㎎(朝と夕に40㎎×3)に減薬で再開。
金曜にがんセンターに行ってから今日まで、貴重な断薬の時間は極力、仕事に集中したくてそうしてきた。
ただ漫然と楽しくは描けない。頭が回転して新しいアイディアが出なければ制作にならない。
アイディアが出ない時は、今できる仕事を進める。
たとえば気に入らないところを潰したり、パネルの下張りをしたり。
制作している時は空腹も感じないが、制作を中断すると強い空腹感と同時にどっと疲労が押し寄せてくる。
以前より集中の時間が長く続かないのは、年齢のせいもあるが、レットヴィモを飲んでいる期間、頭の回転を止められているような癖が脳についてしまっているのかな、と思う。

チョッピ―と。
川沿いで摘んできたハルジオン、シロツメクサ、タンポポ
4月26日(金)
国立がん研究センター中央病院で採血、採尿。
診察を待つ間、待合の機械で血圧を測ると、119-69と本来の私の血圧に戻っていたので嬉しかった。服薬中は130~140-85くらい。160-90くらいが出ることもあった。
4月16日の採血での血液検査の結果、肝臓の値はそこそこ下がっていたので、レットヴィモを240㎎に減薬して再開すること、本日からでなく4月30日の火曜からでもいいと言われたのでそうすることになった。
肝心のサイログロブリンの値は、飲み始める前に2200くらいだったのが700に下がっていた。
飲み続ければもっと下がるとのこと。
血圧を下げる薬アジルサルダンが出た。薬局では頭重感は血圧と関係あるかもしれないと言われ、そうであればいいのだけど。
火曜までの時間が思いがけない贈り物のように思えた。この時間を大切にしたい。
・・
帰りに駅に向かう途中、築地本願寺の前の歩道の街路樹側にたくさんのポスターパネルが並べてあった。
なんだろう、と見ると、苦しむ動物たちの残虐な写真(死体もあったと思う)やショッキングなイラスト。
動物を救うための標語のような言葉が添えてある。つまり動物愛護の運動。
耐えがたくて絵面をじっくり見ることはできなかったが、言いたいことは一瞬で伝わった。
犬猫の保護は一般的に伝わりやすいが、畜産動物、産業動物について訴えるにはいろいろな意味でもっと勇気が必要だ。
「屠殺場がなくならない限り、戦場もなくならない。」トルストイ
「この世において、一番凶暴な凶器はフォークである。」マハトマ・ガンジー
50枚くらい並べてあったろうか、近くには関係者らしき外国人の金髪の女性がひとりいた。
もう少しソフトなやりかたでないと、誰からも見てもらえないのではないかと心配するくらい、観光地には不釣り合い。
私自身は動物を殺すのが嫌なので肉食はしない。革製品もファーも買わない。
世の中には犬や猫に愛情を注いでいる人は多いが、牛や豚や羊や鳥も、犬や猫と同じように苦しむと意識できる人は少ない。
食肉がもとは生きた動物だったと意識できる人も少ない。
それは人間中心主義の文化や慣習に培われた観念に骨の髄まで浸っていて、現実の感覚が麻痺しているからだ。
何人かのベジタリアンの友人に聞くと、皆、若い頃は普通に肉食していて、ある時にふと動物を殺してその死体を食べている残虐さに気づいて肉食できなくなったそうだが、そのきっかけは人それぞれだ。
菜食の人はすごいと思うが、私は菜食「主義」はあまり好きではない。
あくまで感覚によりたい。
イデオロギーになってしまえば、その「主義」を完璧にすることに躍起になり、観念のとりこになって、痛みの、あるいは憐みの、生の感覚から乖離する。
また、なによりも恐ろしいのは肉食しない人に敵意を持つ人だ。
私が肉を食べないと言っただけで「動物を殺さないのに野菜はいいの?」と私に(なぜか)激怒してきた人がいたが、
草を刈ることとを動物を殺すことを同等に感じるとしたなら精神異常だろう。
生き物すべての命の在り方を一律に考えるのは、デリダやフロランス・ビュルガも言っているが、間違っている。
植物には「命の重さ」という比喩がふさわしくなく、植物の命の在り方(たとえば茎を切っても根で生きていたり、剪定することでさらに伸びたり、「個体」がどこまでなのかがわからない、など)が動物とは違う。
「命の重さ」というのは、生誕と死によって限られて個体化されているものについて考えるべきもの。
動物を殺したくない理由は、ジェレミ・ベンサムのように「そのものは苦しむか?」だけで十分だ。
ひとりひとりがかすかにでも、動物が自分と同じように痛みを感じて苦しむことを想像することができたら、少しずつでも殺される動物が減っていくだろう。