1月20日(土)
Fと国立で待ち合わせ、鵜飼哲さんの最終ゼミを聞きに、一橋大学佐野書院へ。
会場の佐野書院へと急ぐ道すがら、「(私は)昨年の母とちゃびの死からずっと心が疲弊して頭の回転が悪い状態なのに、3時間も集中して難しい話を聞くことができるのかすごく心配。久しぶりに脳を酷使して、エネルギーを消耗しすぎて、途中でこと切れてこっくりこっくり寝たりしたらどうしよう」とFに尋ねる。
Fは「僕もそこまで長い間、集中力が続くわけではない」と、「あなたの頭はあなたが思っているほどには回転が悪いとは思えない」と言う。
「10月に母が死んで、そのあと11月にちゃびが死んでから、緊張とショックが大きすぎてほんとにずっと頭が回らなくて。いろんなものを失くしたりしてる。認知症になるんじゃないかと思って不安で。」と言ったら、
「20年前に出会ってからずっと、あなたが緊張して思いつめていなかったことはない」と言われた。
・・・
『原理主義とは何か』(1996年、河出書房新社)から20年余りの世界の変容を語る、というテーマ(ちなみに私はその本を読んでない)。
会場は満杯で、前のほうの席しか空いていなかったので前から2番目に座る(集中せざるを得ない、うつらうつらはできない、プレッシャーを感じる状況)。
前半の1時間半を終えてからは、混んでいるのでもっと前に詰めてください、と言われて最前列のほぼ真ん中の席になった。
〈まとまりがないが、私個人のためのメモの抜粋〉(誰の発言だったか、メモが追いつかず、最後の方、特に不確かで、発言主を間違えて書いているところもあると思います。)
1995~1996年以降の世界・・・グローバリゼーション化によって抑圧された復讐が始まった年。
日本では歴史修正主義、日本会議の始まり、沖縄少女暴行などがあった。
西谷修さんの発言:
「西洋的なもの」も概念的でしかない。発案、作用、ディスコース、研究。
港千尋さんのやっていることは論理化、整理することだけではないリプレゼンテーション、そこに介入する、美術の市場に介入する、ここにこういう表現がある、というエクスポジションの場に晒していく、場のディレクターであり、マネージメントできない表出、提示。
描くこと、ラスコー、文字文化以前の世界との関係にかたちを与える、「明かしえぬ共同体」、なにを共有しているのか言うこともできない。
私は言語評論界の松本ヒロのようなもの。(お笑い芸人の名らしい)
鵜飼さんはデリダに波長があったのだと思うが、私が波長が合うのはデリダがバタイユを扱うあたりまで。そこからはレヴィナスでいい。
『構造と力』はチャート式に整理している、ポスト構造主義。思想のモードとしては実存主義対構造主義。
バタイユの「禁止と違反」に直結している。
哲学は普遍性を目指すが、ピエール・ルジャンドルは目指さない。言葉を使う生きものしか扱わない。
言語を使う生きものは、それがうまくいかない(言語という、あるオーダーが破綻してしまう)と狂気にしかならない。法のアルケー、コードの塊、ノーム、ノルマ。
理性とは、「Why」という問いに応えること。
我々の知恵は途上の知恵であり、内部観測でしかない。宇宙船から宇宙を見ているのであって、宇宙から宇宙船を見ているのではない。
アガンベンはラテン語2000年の歴史を肥やしにして生えてきた草。
我々が限定されていることの自覚、「終わりなき目的なき手段」であり、終わりは我々には不可能、今、ここで探索しているのであり、永遠に途上であること。
フランスにとっての他者はアラブ、イスラム世界。
ヨーロッパの知性、中心性。(フランス人一般は自分たちはヨーロッパの知性、中心だと当たり前に思っている。)
港さんの発言:
1992年にストラスブールで世界作家会議があった。
旧ユーゴの内戦やアルジェリアの内戦に知識人たちが反応した。
1995年は不気味なものが世の中に顕われてきた年。どの地名をとっても、地名を通して対話が可能となった。
世界遺産への批判。グローバルな土地の占有と結びついている。
ジオとは与えられた大地としての所与のものであって、そこに宗教、文明が生まれたのだが、今はジオそのものが人間と同等以上の力を持ち、ヒストリーやポリティクスに介入し始めている。
鵜飼哲さんの発言:
9.11事件の後、パレスチナ人に会って話を聞きたいと思った。2014年の事件の後、アルジェリア人に会って話を聞きたいと思った。
暗黒の10年に何があったのか、アルジェリアの内戦について、フランスの教養のある人でも記憶にない。アナロジーの作りようがない。隔絶。
アルジェの戦いの時に子供だった人は、フランスがまた侵攻してくるのではないかと思っている。
朝鮮、沖縄、中国を見なければ日本というものはわからない。
世界遺産に入りたいと思っている人は、サバルタンではない。
1994年、世界遺産奈良コンファレンス、オーセンティシティに関する奈良ドキュメント。
第二次世界大戦の時、奈良と京都だけは爆撃されなかった。
知床・・・アイヌの舞踊が無形文化財に指定されているだけ。
田浪亜央江さんの発言:
広島の学生はシリアなどの難民支援を志す人が多い。
呉世宗さんの発言:
沖縄では地名が人名になっている。旅とはある場所を持ち帰ってくること。
原理主義への対抗はトレランスではなくホスピタイティ。
会場からの質問:今は世界多発原理主義化と言えるのか?
鵜飼哲さんの応答:
トランプや安倍晋三は原理主義とは見えない。原理主義の人たちにはもっと真剣なものがある。ポリティークの中では性格が違う現象。ひとつ間違うと原理主義的傾向になってしまう。
西谷修さんの発言:
資本主義というのはマルクス主義の枠組みの中のことであり、今の経済は資本主義とは言わない。
現在は科学技術開発、技術産業、市場のシステムが破綻し、これが経済を支えられない、国民経済の枠がない状態。
観光が最後の段階。これには資本がいらない。交通と飲み食いが経済になる。
それぞれの国の社会の在り方が壊される、社会が持たなくなる、原理主義でなくネガショニズム。世界戦争まで推し進めた勢力が歴史修正しながら出てくる。
原理主義とは宗教的キャピタルを持っているところ。
鵜飼さんの発言:
第二次大戦について、アジア太平洋で、なんでこんなにつながっていないのか。
トランプはオバマが持っていた解決しようという気を持っていない。
最低限、ろこつに空いているピ-スをはめてからでないと議論にならない。
西谷修さんの発言:
ITテクノロジーの問題。我々の情報、経験の質をどれだけ変えているか。
ハイデガーが「形而上学はサイバネティックスにとってかわられる」と言ったとおりになった。
港千尋さんの発言:
ITテクノロジーの問題は、我々の生命が変わるということ。
かつて、スマホ以前の時、ベルルスコーニのことを問題にしていた。今はトランプがそっくり同じことをやっている。
我々が知的な活動にさける時間は1日に数時間。マーケティング的に、その時間をいかにお金に変えられるかがテクノサイエンス。
ツイッターの情報が数千万人に渡ることは、形而上学的な話どころではない。
あらゆる戦争が民営化していった。敵味方の区別がデジタル化。
政治的なクライテリアがずれてきた。実際に何が起こっているのか簡単な図式では整理できない。
鵜飼哲さんの発言:
鈴木道彦先生と入れ違いに研究室を引き継いだ。
今やフランスが世界で一番ファノンの読まれない国。
『地に呪われたる者』「橋をわがものにする思想」、ファノンが橋。ファノンをわがものにできるか。
トランス・ポジション。翻訳と同時に置き換える。ファノンが他の文脈で読める。自分のポジションの正当化にならないために元の文脈に送り返した時に豊かになるように。
自分を人質の立場におく(レヴィナス)。


私のような予備知識のない人間には、用語や人名などが聞き取りにくくて、今一つつかみ辛いところの多い討論だった。
帰りに、Fと三鷹で食事。私は「こなき純米」という鳥取のお酒を飲んだ。水木しげるのこなき爺のラベルがとっても素敵なお酒(Fは一滴も飲まない)。
「我々の知恵は途上の知恵であり、内部観測でしかない。宇宙船から宇宙を見ているのであって、宇宙から宇宙船を見ているのではない。」という西谷修さんの発言が印象に残っている。
ジャコメッティは見えないところまで描かない、ということを若林奮先生が言っていたと思う。俯瞰でものごとを見ない、実際には見えてもいないことを、さも見えているように言うべきではないということ。(それが、見えないものを無きものとしないことなのだと思う。)
誰でも自分の立ち位置、身体能力でしかものごとを感じることができない。だから想像力と配慮がいる。
これはものを考える時の基本であると思う。
・・・
「言語という、あるオーダーが破綻してしまうと」という西谷さんの言葉から、自分自身のトラウマともいうべき体験が連想されて、お酒が進んでしまった。
言語というオーダーが完全に破綻すべきところが、盗みによってのみあからさまにとりつくろわれて、自我の優越に開き直る、つまり現実認知がおかしく、手前勝手な妄想でいつも有頂天になっている・・・そういう人間たちに私はずっと苦しめられてきた。
その言語(というオーダー)が隠す「根源」があるとすれば、異様なまでの情動の停滞、感覚の鈍さ、あるいは知能の低さだろう。
とりわけ私を6年苦しめたP(パクリストーカー)は、あらゆる言語やものごとの理解がおかしく、抽象的な言葉がすべて自分中心(Pにだけ都合のいいように)歪んでいる。行動は衝動的、空疎で、「狂気」と呼ぶような豊かさは微塵も引き連れていない。
私を標的にして「見てもらいたいから」「惹かれたから」と言い、勝手に(衝動制御障害的に)侵害行為を続けてけてくるPのことがあまりに苦痛で、Pが怖くてたまらなかった。
彼は他人のものを自分のものと思い込んで「自分はすごい」「自分をほめろ」と強要してくる精神の病だ。
Pには無視が通じないのだ。私が黙っていると自分に都合のいい妄想を自己展開して行動がエスカレートする。私がはっきり「本当のこと」を言うと、Pは上から激昂して来た。
彼はどんなに人(他者)を傷つけても、絶対に自己嫌悪したり、内省したりすることがない。彼は激しすぎる自己愛からの妄想で、現実認識が逆に歪んでいて、本来なら恥を感じる場面で大得意になるのだ。
最低限のルールやマナーも身につけていないPに、小学生レヴェルのことを一から説明してわかってもらうことはほとんど不可能に近かった。何度注意しても理解されず、私自身が消耗しすぎて、心身ともにおかしくなるほどに追い詰められた。
Pにやられたことは「収奪」という言葉を使っていいと思うか、とFに尋ねたら、「それは収奪そのものなんじゃない?」と。
それにしてもFは心の病や発達障害などについての認識が信じられないほどに薄すぎる。
いつも「言語という、あるオーダー」が前提的に共有されている場所でしか自分を試されないからだと思う。
文学の内には、言語というオーダーがあり、また言語破壊というオーダーがある。いずれにせよ予定調和的に救われ、言語のそとのものが侵害されるわけではないからだ。
Pのことの経緯はいずれ詳しくブログに書こうと思っている。