文学

2021年8月27日 (金)

ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy )の訃報

8月25日(水)35℃

ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy)が23日に亡くなていたと知って、ものすごいショック。

私は符号など信じない人間だが、23日にちょうど、『イメージの奥底で』(何度めか)を何かの渇きからの欲求のように、読み返したくなって読んでいた。

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巻頭の「イメージー判明なるもの」の中の「聖なるもの」(これは「宗教的なもの」でもなければ「信仰」とも関係ない)「判明なるもの」が具体的にどういう絵をさしているのか、私なりにはっきり見えた。

「分離されたもの」「距離をおかれたもの」「切り取られたもの」

「弁別的な特徴線が、もはや触れることの次元ではないものを分離する」

「すれすれの状態」「退隠」

これらの言葉が、これまでにないほど、わかりすぎるほどわかって涙が出た。

「いかなる事物も、適合が自己に適合するために切り開くその隔たりにおいて、事物という資格を失い、ひとつの内奥となる。そのとき事物はもはや操作可能ではなく、物体でも、道具でも、神でもないものとなる。それは、みずから世界集約の強度であることによって、世界の外にある。またそれ自身において意味作用を欠いた意味の結集であることによって、言語の外にある。イメージとは世界と意味――意味の流れとしての意味(言説における意味、流通する意味……)――の流れを宙づりにする。そうすることでより一層、みずからが感知させるもの(イメージそれ自体)そのものにおいて、意味(したがって「感覚不可能なもの」)を主張する。イメージのうちには――しかしそこには「内部」はない――意味作用をともなわず、しかし取るに足らないものではなく、その力「形態」と同じくらい確実な意味がある。」

決して韜晦した難解な文章ではなくて、むしろすべてを丁寧に説明してくれていると感じた。

その日に、まさか亡くなっていたなんて。悲しすぎてどうしようもない。

ぜひとも画集をお送りして絵を見ていただきたいと、望んでいたのに、もうかなわない。

薄い黄色からアプリコットピンクのぼかしのヒガンバナが咲いていた、リコリス・アルビピンクという種類かもしれない。

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・・・

夜、にわかに信じがたいような文章のご依頼をいただいた。

おそらく、私が専門的な学説の用語を知らない人間だからこそ、選んでいただいたのだと思う。

この文章のために最大限の努力をしたい。

とてもいろんなことを考えてしまい、4時に目覚めた。レキソタン1㎎を飲んで、明るくなるまで起きていてまた寝た。

朝9時に目が覚めたが、就寝前にフェキソフェナジン(抗アレルギー剤)を飲んだせいかレキソタンが効きすぎていて気持ち悪さが残っていた。

8月26日(木)36℃

自分の画集のために書いた文章の英訳を拝受。一語ずつ吟味する。英語表現は無知でわからないことばかり。

夕方、画集の紙についての連絡が来る。

 

 

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2021年8月24日 (火)

画集にのせる文章、かかりつけ医の反応

8月23日(月)

午前中、吉田文憲さんと電話。書いたばかりの画集巻末の文章を(ファクシミリで)見ていただいた。

時間をあけて、あらためて正午に電話すると「詩人には書けない、最高に詩的な文章。どこも直すべきところはない。」と。

「すごくいいよ。読んでみようか?」「いや、読まなくていい。どういうところがいいと思うの?」と返事をするや、もう嬉しそうに読み始めている。

そして、「説明的ではなく、わからなさの屈折のしかたが抜群。語の選びかたも語順も完璧。これ以上どこも動かしちゃだめ。」と言われた。

文章の後のほうの謝辞の部分に関しても、「思ったように書いていい。失礼ではない。萎縮してつまらないものにならないでいい。どこもおかしいところはない。」と言われてほっとする。

英訳者のNさんと担当編集Tさんにメールで送り、治療院へ。

夜、沢渡朔さんからいただいた写真データをデザイナーMさんへ送る。これでNさんから英訳が送られて来るまで少し休める。

8月19日(木)

ごく具体的な細部にわたる身体的な言葉を得るために、5時過ぎ、川まで細い暗渠を自転車で下る。

眼によるスケッチに眼の奥の幾層もの記憶のスケッチを重ねる。

帰宅した時に一気に書けた。

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陽の傾いた川の手前の細道。アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシたちの絶唱。

問題は謝辞。目上の人にいただいた文章に対する形容、何を与えてくださったのかを(失礼でないかたちで)言語化するのは思いのほか困難で、とても迷い苦しんだ。

8月18日(水)

画集の巻末に急遽、私の文章と謝辞を入れることになった。

何十年もの絵から選び、何年もかかってやっとできそうな画集に思うことはたくさんあったが、何をどう書いたらいいのか頭がまとまらなくて焦った。

首の凝りと精神的緊張による頭痛を緩和のため星状神経ブロック注射を受けにSクリニックへ。案の定、外に立って待つ人もいるほど混んでいた。

短い文の中に何を書くべきか、どういう文体にするのか考えるために、自分の本『反絵、触れる、けだもののフラボン』を待ち時間に読んでいた。

「来たよ~!」とあわただしく処置室のカーテンを開けて「あら読書中失礼!」と言う明久先生に、「これ、私の本なんですよ。」とボソッと告げるとと、思いのほか大喜びされた。

「ええっ!ちょっと触ってもいい?」と本を手に取って、「すごい!題名からしてすごく難しい!中身も難しすぎてなにを書いてあるかわからない!すごい頭いいね~!ほんとにすごいよ!」

と看護師さんたちのほうに持って行って、「見て見て!これ福山さんの本なんだって!すごいね~!」と大騒ぎ。

「谷川俊太郎とかジャコメッティとか書いてある!」「ジャコメッティって名前、知ってたんだ?」「長っぽそい人のやつでしょ。」

明久先生は若くてテキパキしていて、大きな声で早口に話す人で、私から見ると前向きすぎ、いつも慌ただしすぎ。

最初会った頃は「本(当時作っていたのは『デッサンの基本』)作ってるの?すごいね。応援してます!」と言われても、まったく軽い口先だけとしか思えなかったのだけど、10年以上つきあううちに、いつも率直に本心を口にしている人なのだと信じられるようになった。

私のことを「異常に繊細過ぎる、今までの膨大な患者の中でも会ったことがない異常レヴェル、頭が回りすぎ、余計なことまで気にしすぎ、気にしちゃだめ!」と最初の頃にはっきり言ってくれたのもこの先生だ。

彼は偏狭なところがなく、臨機応変でサバサバしているので、こちらで薬のことなど詳しく調べて相談すれば、たいがいのことには患者の希望に柔軟に対応してくれるのも魅力でつきあいやすい。頭の回転が速いので、こちらが心を開きさえすれば話がどんどん通じる。

 

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2021年3月 8日 (月)

癌(肺の粟粒状転移)の定期検査と『マルテの手記』(望月市恵訳)

3月6日(金)

昨年7月の検査で、それまでほとんど問題なかった肺の粟粒転移(原発の甲状腺は摘出済み)が大きくなり、腫瘍マーカーの値も急に上がってしまった。

それ以来初めての血液検査とレントゲン。

私の肺の粟粒転移は治療方法がない(抗がん剤も放射線も有効でない)ことから、ただストレスをかけないこと、そして毎日飲む甲状腺ホルモン剤の吸収を安定させることしか延命方法はないと先生に言われている。

努めて忘れるようにして、ここ数か月は本当に忘れていたが、2、3日前から検査が怖くて怯えていた。倍々に加速して増悪しているかもしれないと。

11時に家を出て1時から検査。2時(午後の診察の最初)に診察予約だったのだが、私の前に二人、患者さんがいて、それぞれが40分以上かかった(おそらく癌の診断が確定した最初の説明)ので私が呼ばれたのは3時半。

緊張したが、レントゲンの目視で前回と腫瘍の塊の大きさが前回と変化ない「定規で計ったけど1mmと変わってない」と言われた。私は半信半疑だが、先生は嬉しそうで触診を忘れてしまうほど。

腫瘍マーカーの値は本日中には出ないが、チラジン(内服している甲状腺ホルモン剤)の血中濃度T3とT4は安定、だから癌細胞の増加は抑えられているとのこと。

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片道2時間の電車と診察待ち時間に読む本にリルケ『マルテの手記』(望月市恵訳 岩波文庫)を選んだ。何度読んでも心揺さぶられる本のひとつだから。

一番好きな場面、ゴブラン織りの6枚の壁掛けをアベローネに語りかけながら見ていくところから読み始める。その絵のくすんだ深みのある色の響きあい、緞子の天幕やオルガン、一角獣と女性のたおやかさな曲線と妖しさ、淡い石竹の花輪の細部や、鷹や獅子やさまざまな小さな動物の仕草やかわいい表情にのめりこんでしまう。

幼いマルテが母親と一緒に斜面机の引き出しの中にしまわれたレースを出して見る場面。レースは農家の菜園になり、蜘蛛の巣になり、温室の華麗な植物になり、雪の茂みになる。目は花粉に朦朧とし、睫毛に氷花が咲く。母親は(想像を絶する苦心をして)このレースを編んだ人たちにはこのレースがそのまま天国だったと言う。

ブラーヘ伯がアベローネに口述筆記をさせながら、おまえにはサン・ジェルマン(フォン・ベルマーレ侯)が見えるかね?と問うシーン。その瞬間、ベルマーレ侯の姿を見ることができたというアベローネ。

「僕は目に見えるように物語れる人に、一度も今まであったことがない。」とマルテは語る。

リルケは目に見えるように物語れるかをこの作品にかけている。遠く時と場所を隔てて、私が『マルテの手記』から強烈に印象に残るシーン(絵)を見せてもらえていることは僥倖だ。

望月市恵氏の解説も素晴らしい。リルケが敬愛したロダンから学んだ作品の「造形性」について。

私の眼に強烈に訴えて得も言われぬ数々の絵を見せてくれる本は、私を病気と死の不安から救ってくれる。

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そして前日にメールや電話で不安を吐露してしまった親友たち、祈ってくれてありがとう。心から感謝です。

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2020年8月27日 (木)

イタリアからの友情の奇跡、次の本(画集)と絵について

8月27日(木)

今朝、イタリアのチナミさんから朗報が届いた。現実感が無くて信じられないと同時に、私はこうなることを信じてずっと待っていた。

チナミさんが私のためにしてくださった大胆な冒険の結果、美しく聡明な女神が、私たちふたりに微笑んでくださった!

詳しくはここに書けないが、これで来年、コロナが落ち着いて私が元気でさえあれば、晴れ晴れしい気持ちでイタリアに最高の旅ができるということ。

観光のことではなくて、もちろん私の命である絵に関することだ。そしてこの数年、寝ても覚めてもうなされるほど、いつも考えている次の本に関すること。

昨晩深夜2時半頃、(悲観的な私には珍しく)なぜか急にふっと気が楽になって「だいじょうぶ」な気がした。なんの理由も、きっかけもないのに突然。

丸山ワクチンが効いて精神的に上向いているのかな、と思ったりもしたが、今朝の私にとって最高のニュースのための前ぶれだったのかと思う。

とにかくこのまま自分の信じるとおりに、どんな妨害や嫌がらせがあっても淡々と、熟慮しつつ思い切りよくがんばろう。

ドイツのブレーメンのYさんからもありがたいことに、来年、お宅にご招待を受けている。

ブレーメンは昔、敬愛するホルスト・ヤンセンの生まれ故郷オルテンブルクにハンブルクから向かった夜に、乗り換えをした駅。

藍色の宵闇の中にブレーメンの音楽隊のかわいいネオンが光っていて、それだけでとても心躍った鮮明な記憶がある。そのお伽の国のようなブレーメンに今、ご招待していただけるなんて、不思議なご縁を感じる。

もし来年、イタリアに行くのにあわせてブレーメンに行くことができたら、もう一度オルテンブルクのヤンセン美術館とヤンセンのお墓(思い出すだけで涙。。)と子供の頃のヤンセンがおばちゃまと住んでいた家にも行ってみたい。

Yさんのお家からは、種村季弘先生が『ヴォルプスヴェーデふたたび』に書かれていた芸術村ヴォルプスヴェーデや、もっと小さな芸術村フィッシャーフーデが近いという。グーグルマップで画像を見ても本当に素晴らしいところ。オットー・モーターゾーンたちが惹かれた沼地、湿地の風景がまだ残っているのが泣けてしまう。

自分の命がそろそろやばいのかな、と思った時に、遠い海の向こうから私をよんでくださるかたたちがいる。

このめぐり逢いとご厚意に深謝。

自分を追い込みすぎないように、気を楽に持ってがんばろう。

最近10数枚同時に描いているうちの一枚。チューリップの膠絵(部分)。
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2019年10月 7日 (月)

室井光広さんの訃報 / 吉田文憲ラジオ「土方巽」特集

10月2日(水)

室井光広さんが亡くなったニュースを聞いて驚き、ショックを受ける。

室井さんとはもうずいぶんお目にかかっていないが、個展にも来てくださって、まだ室井さんが千葉県四街道市に住んでおられた頃、吉田文憲さんに連れられて2度ほど伺ったことがある。

初めて伺った時、正月だったので、私は珍しくわりと堅い服装でパンプスだったのだが、着くなり雪の残る丘に連れて行かれ、面食らった。室井さんの奥様と4人で縄文土器拾いをした。

パンプスが泥と雪に埋まり、スカートの脚がつりそうなほど冷えて苦しかったが、室井さんは本当に楽しそうに、宝物のように縄文土器を捜していた。

私が絵に描きそうな泥だらけの樹の根っこを見つけて「これ、持って帰ろう!」と言って、奥様に「そんな汚いのやめて。」と苦笑いされていたのを鮮やかに覚えている。

室井さんはたいへんシャイな感じのかたで、私に面と向かって話しかけてくることはなかなかなく、私はなにか文学に関わるような質問をしなくてはならないと焦りながら、もともとの緘黙気質から言葉が出て来ず・・。変なことを言ったら失礼だし・・とぐるぐる考えあぐね、躊躇するばかりで、結局、なにひとつうまく話せなかった。

私は、室井さん宅にいた真っ黒でツヤツヤした猫、クロちゃんを抱いていた。

いつかまた必ずお会いできて、いろいろなお話を伺えると思っていたのに、なぜまだお若い室井さんが・・?と思うと、どんどん胸が苦しくなってたまらなくなってきた。

室井さんは、吉田文憲さんと、佐藤亨さんと、東北三人衆でたいへん親しくされていた。残されたおふたりの言葉を聞こうと思った。

10月3日(木)

吉田文憲さんが話をしたラジオ「土方巽」特集の再放送が昼12:30くらいからあるというので、PCで聞いていた。

文京区の「金魚坂」という(創業350年の金魚屋さんがやっている)喫茶店(レストラン)で録音したそうで、周りの雑音が入っていた。

舞踏は、ひとりで踊っていても、幻の誰かをよび寄せる、また、よび寄せられるもの。

死者とともに踊るもの。

誕生は一度限りだが、たえず親しい死者とともにいる。

詩は幻の死者をよぶ。死者の声を言葉とする。あるいは死者が立っているところを言葉にするもの。

それは詩だけではなく、表現の行為の根幹に在るもの。

『病める舞姫』第14章より 翻案:十田撓子 朗読:原田真由美、森繁哉

吉田さんが話していた西馬音内の盆踊りについてネットで調べ、とても心惹かれた。

まさに亡者の、未成年女性の彦三頭巾と絞りの浴衣には瞠目するが、成年女性の端縫い(はぬい)と言われる(先祖代々の着物の絹の切れ端を縫い合わせた)着物の美しさにも非常に心を動かされた。

10月4日(金)

佐藤亨さんに久しぶりにメールした。

佐藤亨さんも室井さんの訃報が信じられず、「その日の夕方、動かなくなった室井さんを見てはじめて事の大きさを知りました」と。亡くなったことが受け止められないと。

吉田文憲さんに電話し、室井さんの病気のことを聞いた。

夏頃から具合が悪かったと聞いていたそうだが、やはり現実感がないようだった。

「あまりにも親しいと、いつも変わらずそばにいる感じが強くて、亡くなったと聞いても信じられない」と。

 

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2019年6月12日 (水)

 「毛利武彦詩画集『冬の旅』出版記念展、阿部弘一先生朗読会

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/japanese-style-paintings-1-膠絵/

6月10日(月)大雨

チョビのことが心配だったが、病院に預けるのが(チョビが恐怖でおかしくなりそうなので)かわいそうで、結局、家にプフと2匹で置いたまま、銀座うしお画廊へ。

地下鉄の駅を出てから横殴りの強い雨で服も靴もびしょ濡れ。こんな天候の日に、無事来られるのだろうか、と阿部弘一先生のことがすごく心配になる。

画廊の入り口前で毛利先生の奥様のやすみさんとお嬢様とお会いする。奥様の体調も心配だったが、とてもお元気そうでよかった。

会場は多くの人で賑わっていた。

阿部弘一先生は雪のように頭が白くなってらしたが、背筋もすらっと伸びてお元気そう。笑顔が見られて感激。ご子息にご紹介くださった。

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毛利先生のスケッチ。銅版画のように黒くて端的な線と、その分量。本画を想定して思索的に描かれていることに注意して見ていた。

森久仁子さん(春日井建さんの妹で毛利先生の従妹さん)にも、久しぶりにお目にかかることができてありがたかった。陶芸をやっている息子さんと一緒だった。

16時から朗読会が始まる前、阿部先生と、毛利先生の奥様と、朗読する藤代三千代さんのほかは、ほとんど全員が床に座った。その時、「毛利先生の画集だから。」とおっしゃられて、自分も(ステージ用の椅子ではなく)床に座ろうとする阿部先生。

まず最初に阿部弘一先生から、毛利先生と初めて会った時のお話。戦争が終わってから、慶応高校が日吉にできて、そこで出逢ったそうだ。

毛利先生は生前、慶應高校に勤めて何よりも良かったことは阿部先生と出会えたこと、とよく言ってらした、と奥様から伺っている。

藤代三千代さんが何篇か朗読された後に、阿部弘一先生自らが朗読されるのを生でお聴きする、という素晴らしく貴重な経験をさせていただいた。

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肉声で阿部弘一先生の詩を聴くという初めての体験は、言葉が絵と音として強く胸に響いて来、予想を超えた新鮮な衝撃だった。

阿部先生の詩をもっとたくさんの人に知ってほしいと心から思った。

阿部弘一先生が、ご子息に私を紹介してくださるときに、『反絵』の本にふれて、私のことを「厳しい文章を書く人」と言ってくださったことが信じられないほどありがたかった。

「最近は本屋に行って詩の棚を見ても辛くなりますね。」と嘆いていらした。

「ポンジュって知ってる?僕の友人が訳してるんだけど。」と毛利先生がご自宅の本棚から一冊の詩の本を見せてくださったのは、私が大学を出て少しした頃。

父の借金に苦しめられていて、世の中のすべてが暗く厚い不透明な壁に閉ざされて息ひとつするのもひどく圧迫されて苦しく、ただひとつの光に必死にすがるように、敬愛する恩師の家を訪ねた日のことだ。

それから阿部先生の現代詩人賞授賞式に誘ってくださった時のことも素晴らしい想い出(そこでは息も止まりそうな大野一雄先生の舞踏(その出現)があった)。ずっと私は夢中で阿部先生の著書を読み、私の絵を見ていただいてきた。

私にとって阿部弘一先生は、毛利先生と同じく、昔からずっと畏れを感じる存在、とても緊張する相手で、気安く話ができるかたではない。

阿部先生のような方と出会えたことが信じがたい僥倖だ。

「次の本はもうすぐ出ますか?」と覚えていてくださることもすごいことだ。

阿部先生のご子息は水産関係の研究をしてらっしゃるそうで、私のことを「そうか!この人は一切肉食べないんだよ。だから魚のほうの研究はいいんだ!」と、先生が笑って言われたこと、「植物の名前を本当によく知ってるんだ。今度、庭の樹を見に来てもらわなきゃ。」と言ってくださったことも嬉しかった。

「草や樹がどんどん増えてなんだかわからなくなってる。誰かさんがどっかからとってきて植えるから。」とご子息も笑っていらした。

阿部先生は、前々から、大きくて重たい椿図鑑をくださるとおっしゃっている。とりあえず阿部先生のご自宅のお庭の、68種類もある椿の名札をつけるのに、その図鑑を見ながらやる必要がある。

毛利先生のお嬢様に、原やすお(昔のまんが家で、毛利先生の奥様のお父様)の大ファンだった話をしたら、とても驚いて喜んでくださった。

毛利先生の奥様のご実家に原やすおさんのたくさんの本や切り抜が保存してあって、お嬢様がもらうつもりでいたのに、亡くなった時に全部処分されていてショックを受けたそうだ。

上野にある国立国会図書館国際子ども図書館で、いくつかの作品を見ることができるとのこと。

阿部先生の新刊、詩集『葡萄樹の方法』を出された七月堂の知念さんともお話しできた。

http://www.shichigatsudo.co.jp/info.php?category=publication&id=budoujyunohouhou

記念撮影。阿部先生と毛利やすみさん。

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阿部弘一先生の向かって左にはべっているのが私。

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慶應高校の毛利先生の教え子のかたが持って来てくださったらしい当時の写真。

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1964年夏の毛利武彦先生。

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1962年、裏磐梯の毛利武彦先生。

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当時の阿部弘一先生。

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皆様お元気で、お目にかかれて本当に幸せでした。

 

 

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2019年4月28日 (日)

吉田文憲、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の授業

4月17日

吉田文憲さんから久しぶりに、急な電話でのお誘いががあり、一ツ橋の大学院の『銀河鉄道の夜』の授業におじゃました。

いきなりだったので『銀河鉄道の夜』の本も準備できなかった(うちの本棚のどこに入っているのか、すぐに捜せない)。ばたばたと出かける。

会ってすぐ、なぜ今までずっと音沙汰なく急な連絡になったのか、昨年の今頃のパラボリカの森島章人『アネモネ・雨滴』展では森島さんが吉田さんをずっと待っていたのになぜ来てくれなかったのか聞いてしまった。すごく体調が悪かったという。

国立の大学通りの花壇にはチューリップが大きく開いていた。大学の庭の普賢象の八重桜も、もう開き過ぎてぽしゃぽしゃしていた。

大きな教室の端っこにひっそり座っていればいいのかと思っていたら、大学院のゼミで、13人しかいない、とこの時に聞いた。うち10人は中国と韓国からの留学生さんだという。

扉を開けたら狭い部屋のひとつしかない長机に学生さんたちが集合していたので、すごく緊張して恥ずかしかった。吉田さんの詩集の装丁を何度かやっている画家だと紹介されて頭を下げる。

私は学生時代に「ゼミ」という(膝を突き合わせて意見を言い合うような)経験がない。あったとしたら緘黙気質の私は(頭の中では言いたいことがあっても)絶対に自分の意見を言えなかったし、たいへんな苦痛だったと思う。

ゼミのメモ。

『銀河鉄道の夜』、二章の「活版所」と三章の「家」を読んだ。

物語の舞台状況をなす構成要素の一つひとつに象徴的意味を読み解いていくといった内容だった。

坂道が物語の重要なトポス。

川・・・天の川と地上の川が一体化、互いに映し合う。宮沢賢治の故郷、花巻には北上川がある。北上川は北から南に流れる。

橋・・・境界領域

牛乳・・・ミルキーウェイ。ジョバンニが病気の母親のために牛乳(ミルキーウェイ)をとりに行く。牛乳を手に入れるところで物語が終わる。

空からの雨、雪・・・浄化。『永訣の朝』では、死んでいく妹を見送る儀式となる。

星祭、青い灯・・・死のイメージ。誰が死ぬのか。青と白。黒い服。

活版所・・・昼なのに電燈がついている。薄暗い。

「うたう」「よむ」(近代的「よむ」は黙読。それ以前は「うたう」と同義)「かさねる」・・・呪術を帯びた動詞を3つ。(活版所では「輪転器」が回っているので)ものすごい音がしているはずなのに音が消えた世界。

「活版印刷で本をつくるとすごく字が締まるんですよ」というような吉田さんの説明。

吉田文憲さんの詩集『原子野』の装丁を私がした時、板橋区の活版印刷所に行った。当時、活版印刷の会社は日本で2か所しかない、と社長さんに言われたような記憶がある。「いつまでたってもグーテンベルグ」というような標語が掲げてあったような。その時に私が撮った活版の活字の写真がある。

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粟粒ほどの活字・・・貧困、愛しさのイメージ。

ジョバンニの家・・・母親は布をかぶって休んでいた。アニメでも母親の顔が出て来ない。母親はすでに死んでいる、と解釈する人もいるとのこと。

姉・・・母親との会話の中に出てくるだけ。

父親・・・会話の中にしか出て来ない存在。しかし物語の核心。お父さんがいないために苛められている。

ラッコの上着・・・当時、ワシントン条約で禁止されている。小さなラッコで上着をつくるのも不自然。

カムパネルラ・・・女性的な名前。釣鐘。鎮魂的。セリフが無い。声を与えない。銀河鉄道が走りだすまで空白(何を考えているかわからない)。

ザウエルという名の犬・・・犬とは距離がない。(物語上の今、カムパネルラとは距離がある。「あのころはよかったなあ」と推定小5くらいの子どもが言うところが残酷。)

天気輪の柱の丘・・・泣きながら街を見下ろす。遠くてはっきり見えないところで、カムパネルラがおぼれた子(しかもそれはいじめっ子のザネリ)を助け、自分は力尽きて沈んだ。

ボートに乗れる人の数は限られている。タイタニック号と同じ。究極の選択。

「ほんとう」・・・平仮名。「ほんとうは何かご承知ですか。」何がほんとうなのか、わからない。「分ける」ことができない。不可知論。

吉田さんはこの授業で『風の又三郎』をやりたかったそうだが、『銀河鉄道の夜』のほうが世界的に多くの人に読まれているということで、『銀河鉄道の夜』になったらしい。

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私は久しぶりに聴講したので、聞き漏らさないように集中することですごく疲れた。

5時にゼミが終わった。三鷹で食事。

私の次の本についての話をざっくりとした。

「誰に文章をいただいたと思う?」と尋ねて「まったく見当がつかない」と言われ、「G先生。」と言ったら「ええ?!」とやはりものすごく驚いてくれた。びっくりしすぎて言葉が出ない、と。

とりあえず、そのことを喜んでくれたことがとても嬉しかった。お祝いということで、私は新潟産のお酒を飲んだ。

文学というものはすべてが「収奪」なのかもしれないが、私は政治的主張に絡めたこじつけや物言えぬ当事者から「収奪」したアートは嫌い、それなら言葉による概要書で充分だし、そこにアートはいらない、と言ったら、「あなたはほんとうに昔から変わってないね。いや、悪い意味じゃなくて、いい意味で。」と言われた。

 

 

 

 

 

 

 

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2018年11月19日 (月)

ミシェル・レリス 谷昌親訳 『ゲームの規則 Ⅳ 囁音』

11月17日

早稲田大学の谷昌親先生が今年の春に送ってくださったミシェル・レリス著、谷昌親訳 『ゲームの規則 Ⅳ 囁音』(平凡社)を、ずっと少しずつ読んでいる。

以前に、谷昌親先生がくださった『ロジェ・ジルベール=ルコント――虚無へ誘う風』(水声社 シュルレアリスムの25時)も、稀有な美しさを感じる本でした。

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 「論理的または年代的な一貫性をなすというよりも、以下の文章は――それが完成するか、外部の事情で中断されたとき――、群島か星座、血のほとばしりのイメージ、灰白質の爆発、最期の吐瀉物となり、それによって、わたしが倒れこむときに(その中断を、こうした突然の破局というかたちでしかわたしは想像できない)虚構の境界線が空に描かれるだろう。

 文章を並べ、移動し、配置し、トランプのゲームで勝ちをめざすのと同じこと。」     (P5)

「もし、くるりと輪を描き、そこから出発した虚無に立ち返らなければならないとしたら、人生全体を要約すると雫――尾を噛む蛇あるいは環状鉄道――になってしまうのではないか。ただ、円環の内側の白さを黒く塗りつぶす何か、空虚を充実に転換させ、底なしの湖を島にする何かを書き殴る、という問題が残る・・・・・・。とはいえ、この雫は、わたしたちが拠り所とできるものが何もないと示しているのに、いったい何を書き殴ればいいのか。      (P61)

『ゲームの規則』という大衆的なミステリー小説かのようなタイトルのこの本は、まったくそういう内容ではなくて、「ゲーム」というのは「ものを描く」「ものを書く」ということ。

大衆に受け入れられてお金を稼ぐために書く(描く)こととは関係なく、根源的に、人はなぜものを書くのか、いったい何を書くことができるのか、いったい書くに値する何があるのか、書く方法があるのか、という問いかけに挑んだアッサンブラージュ。

厚い本のどの部分を開いて短い文章に集中して読んでも、ミシェル・レリスが観念的に論理や知識を組み立てるのではなく非常に怜悧かつ感覚的、あいまいで豊かなイメージが自分を超えて湧き立ち奔放な旅をする、そのあまりに言語化不可能な次元の境界を言語化しようとしていることがわかる。

貧しい感受性しかない人が、重箱の隅をつつくように末梢的なことをさも重大な発見のように書くことで、いかにも繊細で鋭敏な感受性があるように装う、薄っぺらな詩人気どりにありがちなパターンとは違う。

こういう本を読んだ時だけ、自分が次の本を出すことが虚しくないような気がする。

ネットからのあらゆるニュース、流行りのアートや文学やイヴェントの情報を眼にすると、心が躍るどころか厭世観で息が止まりそうになる。

なにを書いても(描いても)真意が伝わらない閉塞感。

11月18日

とりあえず3匹と共に新宿から高円寺の自宅に帰って来た。

ひと月ぶりに熱い湯舟にゆっくり浸かったら、すごくだるくなり、長い時間眠ってしまった。

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2018年4月 9日 (月)

パラボリカ 森島章人トリビュート展 第2期のレセプション

4月7日

パラボリカ・ビスで開催中の森島章人『アネモネ・雨滴』出版記念トリビュート展、第2期(部屋が変わり、展示も少し変更)のオープニングレセプション。

今回はけっこう文学関係のかたたちが来られていた。

乾杯の音頭を森島さんがとり、その時に集まった人たちの紹介と、ひとことずつの言葉があった。

私は『アネモネ・雨滴』の口絵を描いた画家として最初に紹介いただいたが、特に言葉は出て来ず(人前で急に言葉を求められると一切話せない)、「使っていただいて恐縮です」とだけ述べた。

クロソウスキーなどの訳で知られる小島俊明さんが「森島さんから歌集を送っていただいて初めて森島さんを知った。「抽斗(ひきだし)に海をしまへば生きやすき少年といふもろき巻貝」という歌が素晴らしかった。詩、ポエジーとは言葉だと思っていたが、ここに集まっている作品を作った人は言葉ではないポエジーを持っている。」とお話しされていたのが印象に残っている。

私の口絵について「アネモネの絵にはとても驚きました。暗い情熱に狂い咲く寸前の、凄絶な精神の美を感じます。歌と拮抗した緊張感に痺れました。」という手紙を森島さんにくださったという藤本真理子さんが滋賀からみえていた。

藤本さんは紬のお着物を素晴らしく着こなしていらっしゃったのだが、うっかり撮影させていただくのを忘れて残念。

今回、森島さん所蔵の絵を展示されていた画家の田谷京子さん(左)と田之上尚子さん(右)。お二人とも正直で柔和なお人柄で、すぐに打ち解け、話が盛り上がった。

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9時過ぎに詩人の林浩平さんがかけつけ、写真を撮ってくださった。真ん中が森島章人さん。森島さんの右は歌人の天草季紅さん。
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林浩平さん撮影の私。林さんは、今日はこの前に4つものイベントに出席されたという。
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2018年1月25日 (木)

鵜飼哲 最終ゼミ 『原理主義とは何か』以後 於一橋大学佐野書院

1月20日(土)

Fと国立で待ち合わせ、鵜飼哲さんの最終ゼミを聞きに、一橋大学佐野書院へ。

会場の佐野書院へと急ぐ道すがら、「(私は)昨年の母とちゃびの死からずっと心が疲弊して頭の回転が悪い状態なのに、3時間も集中して難しい話を聞くことができるのかすごく心配。久しぶりに脳を酷使して、エネルギーを消耗しすぎて、途中でこと切れてこっくりこっくり寝たりしたらどうしよう」とFに尋ねる。

Fは「僕もそこまで長い間、集中力が続くわけではない」と、「あなたの頭はあなたが思っているほどには回転が悪いとは思えない」と言う。

「10月に母が死んで、そのあと11月にちゃびが死んでから、緊張とショックが大きすぎてほんとにずっと頭が回らなくて。いろんなものを失くしたりしてる。認知症になるんじゃないかと思って不安で。」と言ったら、

「20年前に出会ってからずっと、あなたが緊張して思いつめていなかったことはない」と言われた。

・・・

『原理主義とは何か』(1996年、河出書房新社)から20年余りの世界の変容を語る、というテーマ(ちなみに私はその本を読んでない)。

会場は満杯で、前のほうの席しか空いていなかったので前から2番目に座る(集中せざるを得ない、うつらうつらはできない、プレッシャーを感じる状況)。

前半の1時間半を終えてからは、混んでいるのでもっと前に詰めてください、と言われて最前列のほぼ真ん中の席になった。

〈まとまりがないが、私個人のためのメモの抜粋〉(誰の発言だったか、メモが追いつかず、最後の方、特に不確かで、発言主を間違えて書いているところもあると思います。)

1995~1996年以降の世界・・・グローバリゼーション化によって抑圧された復讐が始まった年。

日本では歴史修正主義、日本会議の始まり、沖縄少女暴行などがあった。

西谷修さんの発言:

「西洋的なもの」も概念的でしかない。発案、作用、ディスコース、研究。

港千尋さんのやっていることは論理化、整理することだけではないリプレゼンテーション、そこに介入する、美術の市場に介入する、ここにこういう表現がある、というエクスポジションの場に晒していく、場のディレクターであり、マネージメントできない表出、提示。

描くこと、ラスコー、文字文化以前の世界との関係にかたちを与える、「明かしえぬ共同体」、なにを共有しているのか言うこともできない。

私は言語評論界の松本ヒロのようなもの。(お笑い芸人の名らしい)

鵜飼さんはデリダに波長があったのだと思うが、私が波長が合うのはデリダがバタイユを扱うあたりまで。そこからはレヴィナスでいい。

『構造と力』はチャート式に整理している、ポスト構造主義。思想のモードとしては実存主義対構造主義。

バタイユの「禁止と違反」に直結している。

哲学は普遍性を目指すが、ピエール・ルジャンドルは目指さない。言葉を使う生きものしか扱わない。

言語を使う生きものは、それがうまくいかない(言語という、あるオーダーが破綻してしまう)と狂気にしかならない。法のアルケー、コードの塊、ノーム、ノルマ。

理性とは、「Why」という問いに応えること。

我々の知恵は途上の知恵であり、内部観測でしかない。宇宙船から宇宙を見ているのであって、宇宙から宇宙船を見ているのではない。

アガンベンはラテン語2000年の歴史を肥やしにして生えてきた草。

我々が限定されていることの自覚、「終わりなき目的なき手段」であり、終わりは我々には不可能、今、ここで探索しているのであり、永遠に途上であること。

フランスにとっての他者はアラブ、イスラム世界。

ヨーロッパの知性、中心性。(フランス人一般は自分たちはヨーロッパの知性、中心だと当たり前に思っている。)

港さんの発言:

1992年にストラスブールで世界作家会議があった。

旧ユーゴの内戦やアルジェリアの内戦に知識人たちが反応した。

1995年は不気味なものが世の中に顕われてきた年。どの地名をとっても、地名を通して対話が可能となった。

世界遺産への批判。グローバルな土地の占有と結びついている。

ジオとは与えられた大地としての所与のものであって、そこに宗教、文明が生まれたのだが、今はジオそのものが人間と同等以上の力を持ち、ヒストリーやポリティクスに介入し始めている。

鵜飼哲さんの発言:

9.11事件の後、パレスチナ人に会って話を聞きたいと思った。2014年の事件の後、アルジェリア人に会って話を聞きたいと思った。

暗黒の10年に何があったのか、アルジェリアの内戦について、フランスの教養のある人でも記憶にない。アナロジーの作りようがない。隔絶。

アルジェの戦いの時に子供だった人は、フランスがまた侵攻してくるのではないかと思っている。

朝鮮、沖縄、中国を見なければ日本というものはわからない。

世界遺産に入りたいと思っている人は、サバルタンではない。

1994年、世界遺産奈良コンファレンス、オーセンティシティに関する奈良ドキュメント。

第二次世界大戦の時、奈良と京都だけは爆撃されなかった。

知床・・・アイヌの舞踊が無形文化財に指定されているだけ。

田浪亜央江さんの発言:

広島の学生はシリアなどの難民支援を志す人が多い。

呉世宗さんの発言:

沖縄では地名が人名になっている。旅とはある場所を持ち帰ってくること。

原理主義への対抗はトレランスではなくホスピタイティ。

会場からの質問:今は世界多発原理主義化と言えるのか?

鵜飼哲さんの応答:

トランプや安倍晋三は原理主義とは見えない。原理主義の人たちにはもっと真剣なものがある。ポリティークの中では性格が違う現象。ひとつ間違うと原理主義的傾向になってしまう。

西谷修さんの発言:

資本主義というのはマルクス主義の枠組みの中のことであり、今の経済は資本主義とは言わない。

現在は科学技術開発、技術産業、市場のシステムが破綻し、これが経済を支えられない、国民経済の枠がない状態。

観光が最後の段階。これには資本がいらない。交通と飲み食いが経済になる。

それぞれの国の社会の在り方が壊される、社会が持たなくなる、原理主義でなくネガショニズム。世界戦争まで推し進めた勢力が歴史修正しながら出てくる。

原理主義とは宗教的キャピタルを持っているところ。

鵜飼さんの発言:

第二次大戦について、アジア太平洋で、なんでこんなにつながっていないのか。

トランプはオバマが持っていた解決しようという気を持っていない。

最低限、ろこつに空いているピ-スをはめてからでないと議論にならない。

西谷修さんの発言:

ITテクノロジーの問題。我々の情報、経験の質をどれだけ変えているか。

ハイデガーが「形而上学はサイバネティックスにとってかわられる」と言ったとおりになった。

港千尋さんの発言:

ITテクノロジーの問題は、我々の生命が変わるということ。

かつて、スマホ以前の時、ベルルスコーニのことを問題にしていた。今はトランプがそっくり同じことをやっている。

我々が知的な活動にさける時間は1日に数時間。マーケティング的に、その時間をいかにお金に変えられるかがテクノサイエンス。

ツイッターの情報が数千万人に渡ることは、形而上学的な話どころではない。

あらゆる戦争が民営化していった。敵味方の区別がデジタル化。

政治的なクライテリアがずれてきた。実際に何が起こっているのか簡単な図式では整理できない。

鵜飼哲さんの発言:

鈴木道彦先生と入れ違いに研究室を引き継いだ。

今やフランスが世界で一番ファノンの読まれない国。

『地に呪われたる者』「橋をわがものにする思想」、ファノンが橋。ファノンをわがものにできるか。

トランス・ポジション。翻訳と同時に置き換える。ファノンが他の文脈で読める。自分のポジションの正当化にならないために元の文脈に送り返した時に豊かになるように。

自分を人質の立場におく(レヴィナス)。

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私のような予備知識のない人間には、用語や人名などが聞き取りにくくて、今一つつかみ辛いところの多い討論だった。

帰りに、Fと三鷹で食事。私は「こなき純米」という鳥取のお酒を飲んだ。水木しげるのこなき爺のラベルがとっても素敵なお酒(Fは一滴も飲まない)。

「我々の知恵は途上の知恵であり、内部観測でしかない。宇宙船から宇宙を見ているのであって、宇宙から宇宙船を見ているのではない。」という西谷修さんの発言が印象に残っている。

ジャコメッティは見えないところまで描かない、ということを若林奮先生が言っていたと思う。俯瞰でものごとを見ない、実際には見えてもいないことを、さも見えているように言うべきではないということ。(それが、見えないものを無きものとしないことなのだと思う。)

誰でも自分の立ち位置、身体能力でしかものごとを感じることができない。だから想像力と配慮がいる。

これはものを考える時の基本であると思う。

・・・

「言語という、あるオーダーが破綻してしまうと」という西谷さんの言葉から、自分自身のトラウマともいうべき体験が連想されて、お酒が進んでしまった。

言語というオーダーが完全に破綻すべきところが、盗みによってのみあからさまにとりつくろわれて、自我の優越に開き直る、つまり現実認知がおかしく、手前勝手な妄想でいつも有頂天になっている・・・そういう人間たちに私はずっと苦しめられてきた。

その言語(というオーダー)が隠す「根源」があるとすれば、異様なまでの情動の停滞、感覚の鈍さ、あるいは知能の低さだろう。

とりわけ私を6年苦しめたP(パクリストーカー)は、あらゆる言語やものごとの理解がおかしく、抽象的な言葉がすべて自分中心(Pにだけ都合のいいように)歪んでいる。行動は衝動的、空疎で、「狂気」と呼ぶような豊かさは微塵も引き連れていない。

私を標的にして「見てもらいたいから」「惹かれたから」と言い、勝手に(衝動制御障害的に)侵害行為を続けてけてくるPのことがあまりに苦痛で、Pが怖くてたまらなかった。

彼は他人のものを自分のものと思い込んで「自分はすごい」「自分をほめろ」と強要してくる精神の病だ。

Pには無視が通じないのだ。私が黙っていると自分に都合のいい妄想を自己展開して行動がエスカレートする。私がはっきり「本当のこと」を言うと、Pは上から激昂して来た。

彼はどんなに人(他者)を傷つけても、絶対に自己嫌悪したり、内省したりすることがない。彼は激しすぎる自己愛からの妄想で、現実認識が逆に歪んでいて、本来なら恥を感じる場面で大得意になるのだ。

最低限のルールやマナーも身につけていないPに、小学生レヴェルのことを一から説明してわかってもらうことはほとんど不可能に近かった。何度注意しても理解されず、私自身が消耗しすぎて、心身ともにおかしくなるほどに追い詰められた。

Pにやられたことは「収奪」という言葉を使っていいと思うか、とFに尋ねたら、「それは収奪そのものなんじゃない?」と。

それにしてもFは心の病や発達障害などについての認識が信じられないほどに薄すぎる。

いつも「言語という、あるオーダー」が前提的に共有されている場所でしか自分を試されないからだと思う。

文学の内には、言語というオーダーがあり、また言語破壊というオーダーがある。いずれにせよ予定調和的に救われ、言語のそとのものが侵害されるわけではないからだ。

Pのことの経緯はいずれ詳しくブログに書こうと思っている。

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