体操

2013年10月17日 (木)

ガーベラ 鶏頭 素描 / コスモス / 体操、フィギュアスケート

10月16日

前回のアンリ・ベルグソンについての補足。

グイエが、「デカルトは何を望んでいたか。形而上学が自然学と同じくらいに科学的に打ち立てられているようなひとつの哲学を、である。ベルグソンが「実証的形而上学」の名で呼んでいたものは、これではなかったか。」と書いたことについて、ベルグソンの哲学とデカルトの哲学との違いは、

ベルグソンは、「実験と観察で最終的に立証された結果だけを本に書いたのではない。」

「彼が哲学で重んじたのは、時間をかけて次第に高められていく「蓋然性」だった。」

「数学に頼れない生命の科学にとっては、〈次第に増す蓋然性〉こそが、対象とのほんとうの接触を保証するものだろう。」(『ベルグソン哲学の遺言』前田英樹 p15)

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大型台風の夜が明けた。明け方まで、激しい暴風の音で熟睡できなかった。痛ましい被害のニュース。

10月6日にもらったガーベラの花がまだ咲いている。野性的ではない見かけより強い花で、茎を短く切ってガラス瓶に挿して冷蔵庫に入れておけばずっと元気だ。

9月29日にひいた風邪に2週間以上苦しみ、うがいをしても薬を飲んでも喉の痛みがとれず、毎日37度くらいの微熱があり、倦怠感と頭痛と動悸があった。まだ喉がイガイガする。

長い発熱で、なかなか集中できない時に描いたガーベラ。右下の白い花は今日描き加えた。(画像はクリックすると大きくなります)

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最近のガーベラは色が微妙なのがある。これは花びらの裏が黄緑がかった薄黄色で、花びらの表は黄色がかった薄ピンク。中心の筒状花(管状花)のきらきらした華やかさを描きたかったが難しい。

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ガーベラと一緒にもらった鶏頭。左の花は、半分がオレンジ色で半分が鮮やかな赤紫の脳味噌のようなかたち。

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最近、とても惹かれたのは、エドワード・リア(Edward Lear 1812-1888)の鳥の素描だ。彼はナンセンス詩や滑稽な挿絵も描いていた人で、ルイス・キャロルなどに影響を与えたというが、鸚鵡の素描を見た時、そんなに昔の人とは思わなかった。

こんなすごいタッチを描けるのはいったいどんな人だろうと釘付けになった。そのグラファイトの線は端的でなめらかでか、みずみずしく、少しもたどたどしくない。線が軽やかで純真と言うのか、力が抜けていて、余計なものがなく、リアルなのがすごい。そのまわりに、着色に使うすべての色が、何の気負いもなく試し塗りされていて、羽についての観察など、たくさんのメモが書いてあるのが素晴らしい。

リアの鸚鵡のリトグラフの本が出たのは、驚くべきことに彼が二十歳の頃らしい。だから彼の素描は、その年かそれより以前のものだが、私が強烈に惹かれるのは、彼のリトグラフよりも、断然素描の方だ。

(ハーヴァード大学のホートン図書館に、リアのこれらの素描が保存されているらしい。)

http://strangebehaviors.wordpress.com/2011/09/27/edward-lear-and-his-birds/

ピサネロ(Pisanello,Antonio di Puccio Pisano 1395年頃 - 1455年頃)の素描にも魂を奪われた。特に猫。猫の素描を何百と見たが、これは極めて類型的でなく、奇妙でリアルだ。ピサネロの素描も、レオナルド・ダ・ヴィンチよりも古い人とはとても思えない生々しさと新鮮さがある。

それからレオン・スピリアールト(Léon Spilliaert 1881-1946)の孤独で 内向的な自画像、雪の上の黒い犬、水墨画のようなモノトーンの雪の風景・・・。

最近、過去の人たちのすごい素描を見ることに夢中になっている。昔の人の素描のすごさは、今よりも「ものに寄り添う力」が遥かに強いことによると思う。

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新宿区の施設Kより電話。母が入所できることになった。

10月14日

ここ数年コスモス畑に行っていなかったので無性にコスモスが見たくなり、友人と小金井公園へ。いろんな種類のコスモスが一緒に植えてあるが、昔ながらのなじみのある薄ピンクの花や、中心に濃い赤紫のぼかしのあるピンクの花は、センセーションやベルサイユというのだろうか。

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花びらが筒状のシーシェル。
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細い線のような濃いピンクで囲まれたピコティ。

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ピコティよりもしっかりと濃い赤紫の囲みのあるあかつき。

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花びらのつきかたが立体的なコラレット。

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レッドベルサイユ。畑には小さな蜂がたくさんいた。

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コスモスを絵に描くときに非常に気にするのは茎の曲がり方のニュアンスだ。すっと真っ直ぐな茎の花を描く気になれない。

雨に打たれ倒されてから起き上がり、他の個体と絡まりあい、複雑で奇妙な空間をつくる細いコスモスの茎と葉と震える葉がたまらない。

ここのコスモスは、まだそんなに大きくなっておらず、茎も雨風にひしゃげてくねっていなかったので、私の記憶の中のたくさんのコスモスほどは絵にならなかった。

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公演の中でも、街路でも、涼しく甘い匂いに振り返り、満開の大きな金木犀の樹を何本も見た。この日は、金木犀の香りのピークだった。

東小金井の駅まで歩いて帰ったが、昔ながらの緑地も古い家もなく、なんの店もなく、驚いた。最近になって開発されているということなのだろうか。

10月11日

10月なのに30℃超え。

近所の交差点で「知佐子ちゃん。」と声をかけられ、振り返ると、昔、西新宿に住んでいた古い知り合いのEさんだった。Eさんは、もう84才だと聞いてびっくり。すごく元気で頭の回転もよく、昔、西新宿に住んでいて遠くに引っ越していった友達の消息をいろいろ教えてくれた。

すごく頭が良かった友人のKちゃんは国会図書館に勤めているとか。彼女と一緒に新宿駅に本を買いに行ったっけ。また会えるといいな。

10月6日

世界体操が終わってしまって淋しい。メダル7つという素晴らしい結果。

内村航平も加藤凌平も、どんどん大人びてきてすごい。極めて濃縮された練習をこなし、とても常人には困難なことを美しくやって見せるだけ。それが一発勝負の演技の短い瞬間に有無を言わせぬ結果となる、そういうごまかしのきかない厳しい世界に生きる人間、その中でも魅力的な人間を同時代に見せてもらえるのがありがたい。

それはフィギュアスケートもまったく同じ。

10月5日

フィギュアスケート・ジャパンオープン。浅田真央や高橋大輔の今年のプログラムを初めて見る。

浅田真央は本人が手ごたえのある感じの出来で、笑顔が見られ、曲も劇的に盛り上がってよかった。彼女が演じるラフマニノフはいい。

しかし、本当にもうすぐソチ五輪で、それで最後なのだろうか。まだ信じられない。

深夜は世界体操。

風邪は大した熱ではなく37.4度程度だが、1日の中で急に具合が悪くなる時がある。

10月3日

深夜2時45分から朝の5時45分まで、世界体操の生中継を興奮して観ていた。結果は金、銀で本当に良かった。

風邪で喉と頭と背中が痛くて昼間は寝ている。外に出られないほど具合が悪い。

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2012年8月12日 (日)

新しい本 / 体操   内村航平

8月14日

遅い朝、11時ちょっと前、電話の音で起きる。見慣れない番号。夢にまで見た待ち人来たれり。まさに夢のよう。

しかしまだ自分の能力の可能性が及ぶかわからないことがたくさんあるので、不安で有頂天にはなれない。

昨夜遅く、TVで見た内村航平の言葉が胸に痛くて、内村の夢を見ていた。「限界まで頑張りたい。正直体操の年齢としてはピークな年齢だと思うんですけど、ここから衰えてくると思うんですけど、それをみんなに見せたくないんで、出来ればこれを維持したまま、どこまでできるかやってみたい。」

加藤凌平に対して「一番堂々としていたので、個人総合で戦うとしたら間違いなく最大のライバルになると思うんで、ちょっと恐ろしい。たぶん僕と同じ道を歩んでいくと思うんで、ここからいろいろと苦しいことも経験すると思う。それを乗り越えてこれからも一緒にやっていきたい。」

疲れていて大人の顔だった。内村は今回のオリンピックが体操選手としてピークの年齢だと思いつめていて、どうしてロンドンでも団体の金をとりたかったのだなあ、と思うと涙が出た。自分が努力し尽したとしても、ひとりではどうにもならないことで苦しんだのだということに胸が痛んだ。体操は体脂肪を極限まで落として飛んだり回ったりし、かつ美しさにこだわる異常に厳しい競技だ。あらためて、彼は正直で、はっきりしていて、有言実行のすごい才能の選手だと思う。

そして私はスポーツをやる人間ではなく、もっと不分明な世界に懸けて生きている。私が眼にしたもの、身体がおかしくなるほど何かに触れていたとしても、それを絵なり、言葉なりに変換してなにができるのか、結局はそれを受容し、何かが伝わる誰かがいてくれなければ私が死んだときにそれらはすべて消える。細くて曲がりくねった針の孔ほどの道を通って誰かと死ぬまでに通信できるのかはわからない。まったくわからない世界。

私は夢をあきらめないでずっと努力し続けていれば叶うなんて思ったことはない。どんなに才能があって努力してもその時のいろいろな条件や運で叶わないことはたくさんある。理不尽なことはいっぱいある。ただ諦めないことや研ぎ澄まされてあることがそのまま身体そのものになっている稀有な人間だけが有無を言わせず何かに続けさせられるのだと思う。だから内村航平にも浅田真央にも、どうか競技人生で嬉し涙を流す瞬間を見せてほしいと祈っている。

8月12日

花輪和一がまたドイツから来た手紙のコピーを送ってきた(訳してほしいとのこと)ので電話。ものすごく読みにくい文字だがドイツ語じゃなくて英語なので私にも訳せた。久しぶりに長話。

Yと電話。カヴァーデザインについて、よくある白を基調にしたフラットな装丁にする必要なく、私の感覚を強く出した装丁にすべき、と言われた。今は新しい本を良い本にすることだけに集中して、ほかの仕事は、あるいは諦めるなりして、私の神経が疲れることが一番心配だからストレスになることは避けてほしい、と言われた。とりあえずここまで我慢してがんばってきたこと(新しい本と関係ない仕事)は、だめもとでチャレンジしてみる、と答えた。

8月11日

母をタクシーでKに送る。白い百日紅が咲いていた。真昼間のかんかん照りの中を駅前のコンビニまで戻り、母の夜用のおやつを買ってまた施設に行き、それだけで熱中症になりそうなくらい疲れた。

宅急便で図版を入れたゲラが送られてきた。これから8月末までが集中して感覚を研ぎ澄ます勝負。

夜、7時からバレーボール女子の試合を見た。正直、こんなにすんなり勝てないんじゃないかと思っていたのですごく嬉しかった。涙が出た。

8月10日

夜、Gから電話で、本棚の蝶番が錆びていて扉が落ちてきて頭を打って顔が血だらけになった、と言われてびくっりする。そのあと歩いて近くの病院に行き、救急で診てもらったそうだ。

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2012年8月 9日 (木)

体操 ロンドンオリンピック

8月10日

夜、帰国したての体操男子チームのインタビューをやっていた。

内村航平の言葉、「今回のオリンピックに、少し懸けすぎていた部分があったので、――いつもそんなことはないんですけど、いつも本当にどの試合もいつもどおりを心掛けてやっているんですけど、あらためていつもどおりと思うことの大切さを学んだので、そこを生かしてこの先ひとつひとつ試合を淡々とこなしていきたいと思う。」

すごい・・・・言葉が重みを持っている。そういえば北京五輪の時、まだあどけない顔の内村は跳馬を飛ぶ直前に「いつもどおり。いつもどおり。」とぶつぶつ唇を動かしていたことを思い出した。

中国は金メダル獲得への執念と団体決勝に合わせてくる調整力が違った、とも。

「気持ちを強くもっていれば練習も変わるし、練習が変われば試合でも自ずといい演技ができる、それができれば結果はついてくる。」

内村は十分強い気持ちで、やりすぎるほど過酷な練習をしてきたと思うが、普段の練習の中で、さらに状況が一変したときの緊張やあらゆるアクシデントに臨機応変に立ち向かう訓練をしておくということなのか。

加藤凌平がお父さんが叶わなかったオリンピックに行けたことについて問われ、「本当に、体操を始めた頃からお父さんを超えたいという気持ちがあったので、まあ、ちょっとお父さんに申し訳ないっていうか、強く言えないんですけど、実績としてはお父さんを超えられたのかなと、そう思います。」と恥ずかしそうに答える姿はやはり18才にしてははしゃがないというのか、落着きがすごいと思う。

8月9日

なんだかんだと忙しく余裕のない毎日ながら、オリンピックの体操やバレーボールはLiveで見ている。入江陵介も気になってしかたなかったし、卓球もすごかった。

内村航平が絶好調といいながら現地入りしてから落下が続いたり。落下したときのすごくびっくりしたような頬の上気した顔が印象的だった。

「ミラクルボディ」を見ていたり、今までの大会をTVで見ていたので、本当に天才肌というのか、別次元の選手なのだな、と思っていたが、今回のオリンピックの予選のガタガタと、すっかりやつれてげっそりこけた顔を見て、急激に興味が深まった。

冨田洋之の世界選手権金メダル後の、特に北京オリンピック前後の、あの深まりかた、常人には計り知れない体験、努力、忍耐、工夫、苦心をして、深淵を垣間見ている人間の口にする言葉の恐ろしさに痺れたものだった。もともと朴訥で、完璧主義だけれど目立ちたがりではない冨田の言葉は、実に個的体験の真実から出てきていて、その個的体験の稀有さ、稀少さ、深さに見合うように、言葉がどんどん端的に、重みを持ち、稠密になっていったのにものすごく惹かれた。

が、内村航平の言葉は・・・・彼自身の感じている個体的真実と彼の言葉はあっているんだろうと思うが、どうも身体のストレス反応による変化や疲労を言語として認識できないほどエンドルフィンが出ている状態なのかな?と思った。

それが緊張なのか昂揚しすぎなのか、器具が使いづらいのかはわからないが、とにかく内村が本能のように自在に操っていた身体の制御に不具合、不自由が出てきたということで、今までよりずっと祈るように応援したい気持ちになったことは確かだった。

アテネからずっと冨田洋之の大ファンだったので、4年前に内村航平が出てきたときは、なにか精神的に幼く見えてしまって、あまり好きでなかったのだが、あれから4年で、常人には想像できないような気の狂うほどの練習量と濃縮された時間を過ごして、すごく大人になってきたように見えた。

団体予選の時の最後の平行棒演技のときの形相は、アテネのときの冨田のような鬼気迫る顔になっていた。あの顔であれば個人総合はやってくれるという気がした。

凄みと同時に、身体そのものの美しさ、体線、動きやリズムの美しさが恐ろしく洗練されてきて、それを同時代に見るのは奇跡的な喜びだ。とにかく彼らは晒されている。その身体演技そのものに、欺瞞や虚飾の余地はない。

(ある種のアート、表現を見ても、それをやっている人の個的真実の稀少さや凄さ、過敏さや思考の深さに惹かれない場合は、まったく興味を持てないのだ。それを持てない場合は、アートよりある種のスポーツの身体表現のほうが、ずっとずっと眼からはいってくる真実を持って胸を打つ。それがそのときのあるルールとか採点法とか、いろいろなものに規制された型を持つものであるにせよ、リアルに研ぎ澄まされたはらはらさせられる生身の身体表現だからだ。

選手の言葉には身体をコントロールすることがいかに難しいかということが経験から訥々と語られていて、言葉を高度な技巧によって操る人たちのように自己韜晦がないから好きだ。)

どうなるかはらはらしたが個人総合の金メダルを獲れて、素直に「夢かと思いました」と言っているところは、素直で晴れやかでかっこよかった。

ゆかの銀メダルのときの、最後にやっと満足の演技ができて嬉しい、というのも爽やか。しかしそのあとの、皆さんに勇気を与えられる演技ができたと思うんでよかった、という発言はマズイなぁ(笑)。それは見た側が言うかもしれないことで、演技した側がいうことじゃないから。4年前よりすごく大人になってきたけれどまだまだ言葉が稠密になっているわけじゃない、ということはまだまだこれから伸びるということなのだろう。

そしてクールな美少年、加藤凌平。あの落着きは素晴らしい。NHK杯で見たときは本当にびっくりした。

団体の銀メダルのとき、加藤凌平が花束の匂いをかいでいる仕草がとても初々しかった。黄色とオレンジとピンクの薔薇に麦の穂とラベンダーの花束はイングランドの田園を思わせる素敵な花束だった(個人的には、昔行ったコッツウォルズやウインダミアの田園風景を思い出した)。

加藤凌平の魅力満載の、この「スッキリ」という番組には冨田洋之も出ていたんですね。

http://www.56.com/u95/v_NzA1ODAyMjA.html

なお、負傷した山村がなぜか嬉しそうなにやにや笑い(照れ笑いなのか?)を満面に浮かべながら冨田洋之におんぶされて退場して行った時は、本当に、ちょ・・・!? 勘弁してよ、山室~という気持ちでいっぱいでした。

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2011年10月16日 (日)

世界体操2011 / 反原発 柄谷行人 槌田劭

10月16日

世界体操2011が終わった。

予選から熱心に見ていた。演技直前の緊張した引き締まった表情と、一瞬でよくも悪くも決まってしまう危うさに惹かれて、真剣に見入ってしまう。

豊田国際をなまで見に行ったときの緊張と興奮がよみがえってきた。

内村航平選手が、あれからあまりにも大人びて顔つきもすっかり変わってしまったことに感動した。髪の毛が逆立っているさまや、跳馬の直前の何かを頭の中で精確にはかっている動作に身震いした。

そして、沖口誠が跳馬で銅、オリンピック、世界選手権の個人種目で自身初のメダルを獲れて本当によかった。

なまで見ている選手なので、そして豊田国際のときも、競技終了後、観客に向けて写真が撮りやすい位置に立ってポーズをしてくたり、サービス精神のあるかわいい顔の選手の印象があって、その彼もずいぶん顔つきが大人びて、ずっと引き締まった表情をしているのを見て、すごく応援したい気持ちでいっぱいであった。

体操は、ひとつの演技時間が短く、そのあいだ息を止めるようにして見つめられるのも魅力の一つだと思う。競技できる年齢が短く、けがの危険性が大きいからこそ、見ているほうも思いつめて見てしまう。

10月15日

柄谷行人の著書をよく読んでる友人に誘われて、柄谷行人と槌田劭の講演「原発とエントロピー」(実際の講演内容はタイトルとは異なった)を聴きにたんぽぽ舎へ行く。

まずは槌田劭さんのお話。1954年に大学に入学し、科学イコール豊か、と洗脳されて金属物理学を研究していたが、自分の子供がアトピーになった経験や、四国電力伊方原発裁判で証人となり、国側の理不尽なやりかたで敗訴した苦しい経験から、科学は部分的真偽でしかないと考えを変えたとのこと。

高度科学技術が裁判に向かないのであれば、原発の専門家でない被害者は敗けることになってしまう。これは問題。難しい言葉を使わずにすべてのことは関連していることをふまえながら連帯していくべき、という話。

1954年、広島原爆からたった9年で中曽根康弘が造船疑獄のどさくさにまみれて原子力の予算をつけた。それは敗戦のとき、国民総懺悔に問題があった。国民総懺悔は天皇陛下にひれ伏したのであって、本当の意味での戦争反省ではなかったから。原水禁の運動も、ソ連への劣等感で、都合主義に揺れたという話。

福島の人達、特に避難できない人達の痛みをわかちあいながら、原発反対運動を、という要旨だったと思う。

最後に槌田さんの「福島の子供たちに放射能汚染された食べ物を食べさせないために、60歳以上の人は福島の食べ物を食べませんか?」という発言に対しては、敵の思うつぼになってしまうのでは、という質問も出た。

次に柄谷行人さんの「資本主義は必ず終わる、自然破壊などとの関係でなく(環境論とは並行的に見ることができる)、終わる。だから、みんな資本主義に勝てるわけがない、と悲観的になりがちだが、そんなことはない。」というお話。

マルクスの理論とクラウディウスの理論について。

エントロピーの増大によって熱死(風が凪いで均衡になること、運動がおこらなくなること)が起こるが、開放系においては熱死が起こらない。

資本(剰余価値)は価値体系の差異から産まれる、という話を、商人資本、金貸し資本、産業資本に分けて細かく説明。3つの資本について、歴史的にこれ以上「外」がないから、資本主義は必ずゆきづまる、というようなお話だったと思う。

時間が足りなくなって質疑応答はなかったのだが、ちょっといろいろ質問が出そうな話ではあったのだが・・・・・・

とにかく、「原発反対」という立場をはっきり表してくれている知識人であるという点で、支持できると思う。

お二人とも、ときどき笑いをとりながらのお話で、思ったよりわかりにくい話ではなかった。

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2008年11月19日 (水)

冨田洋之 可視の身体

11月19日

冨田洋之を見てから胸が騒ぎっぱなし。

performanceとは、実行する、やり遂げると言う意味があり、体操における「演技」にあたる言葉である。今まで、他の表現者がperformanceという言葉を使うとき、悪いイメージしかなく、嫌気がさしていた。

私は、ほとんどの美術展を見に行くことができないし、ほとんどの演劇やダンスも、見に行くことができない。自分にとって、体調が滅茶苦茶になるほどのストレスだからである。私にとって、嫌なものを見ることは死ぬほど、身体的に苦痛であり、そこに付き合ったという自分への憎悪やらルサンチマンやらでおかしくなりそうになるのである。

可視であることに徹底的にこだわるとはどういうことなのか。

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2008年11月18日 (火)

冨田洋之 豊田国際 2日目

11月16日

豊田国際2日目。11時30分くらいに会場に行くと、きのうよりずっと熱気で長蛇の列。すぐ横で写真を撮っている家族が、冨田のお母さんとお兄さんと気づく。

席につき、きょうはずっとオペラグラスで冨田の表情を胸に刻む。アップは体に力を入れないで、いろんな柔軟を少しずつ。床に仰向けに寝て両足を30cmくらいのところで止めたり、本当に全身のあらゆる部分をまんべんなくやる。

冨田が平行棒のところに来る。森泉さんと中瀬選手も一緒に、慎重に銀色の物差しできっちりと幅を調整している。砂糖水、塩水、蜂蜜など一式置かれた場所からボトルをとって、丁寧に塗る。マグネシウムの粉を手につけてから、最後パンパンとマットの上に手をはたくのが印象的だった。

平行棒をつかんで少し心配そうに見上げる、私の大好きな冨田の表情。彼は必ず右目のほうの眉が上がる(左目を少し困ったようにしかめる)。全く晒された生命が匂い立つ。

それから、瞬間のけもの的躍動があり、「象徴なき象徴の神々しさ」(私たちはいかなる神も持たないから)があり、静謐と、冷徹と厳格さの中に混然となったあまりに柔らかい子猫のような命が一気に噴出して、誰もが魂を奪われてしまう。

左のふくらはぎに手術したあとのような長く白い傷痕が見えた。

平行棒も、鉄棒も、吊り輪も、下から見るとひどく巨大だった。怖かった。

今日の彼は凛として張りつめた精神が共振してくるようだった。周りの空気が澄むようだ。

平行棒の慣らしを何回か終え、彼が鉄棒のほうの椅子に座わる。バッグから白いテープを出して指に巻く。それから静かに心を高めるようにプロテクターを手にはめる。画家魂としてはとても平静に見られない魅惑的な仕草。始めはちょっと慣らす程度。最後はコールマン(息が止まりそう)で、後方に身体を回転させる感じでマットに転がる着地。

日頃の練習が全てであり、そのイメージを再確認するための肩慣らしではあるだろうが、それでも本番にピークを合わせるための精神と身体の取扱い、その持っていきかたに非常に興味がある。

何万回、何十万回と練習しようとも、精神と感覚はより高みを目指すだろうし、試練は新たな試練を生むに違いないところで、一瞬一瞬の新しい賭けをどうするのか。その果てしない、計り知れない未知の領域で、冨田は引退を選んだのだが・・・。

二種目目の彼の平行棒まで、一種目目の演技が終了するまで奥で待っている冨田はずっと腕を回転させたり、前屈したりし続けていた。

二種目目の平行棒の選手入場があり、心臓はパンクしそう。鹿島選手が平行棒真横のスタッフブースに移動して、じっと、すごい真顔で冨田の最後の演技を待つ表情に胸を打たれた。目の下に影の隈があるように見えた。

互い違いに進行する女子の床の演技に、私は目をやる余裕があるはずもなく、冨田の表情を追っていた。彼の前の床の演技中、彼は斜め下の宙を見て、じっと動かなかった。ただただ静かに集中している演技直前の姿。彼の演技の番が来て、彼が砂糖水を塗り、白い粉をはたいて立ってから、床の採点が長引き、彼が美しく片手を挙げるまで測定不可能の時が流れた。右肩に黒紫の内出血がいくつもあるのが、生々しくはっきり見えた。

彼の演技については、あまり書けない。ものすごくしゅっと長く延びた足がダイナミックだった。彼のきゅっと食いしばった顔が、なまなましくも強烈に輝いた。世界一美しい倒立に歓声が上がった。異様に張りつめた凝縮した瞬間。どんな言葉も追いつかない凄味のある優美さと迫力。

それから、彼の鉄棒についても、うまく言葉が出ない。正直、落ちたらどうしようと思い、心臓がぎゅっとつかまれるように痛かった。しかし彼は戦慄させるほど晴れやかにやり遂げた。およそ人間らしくない凄さ。帰宅してから、北京よりもさらに難度を上げた構成だったと知り、さらに胸が焦がれた。

引退のセレモニーのとき、冨田は「去年の北京では、生涯味わったことのないような重圧を味わい」と言った。「去年」が間違いであることさえ、私もまた気付かなかった。あまりに凝縮された、あまりに懸命な時を過ごすと、はるかに時が経ったように感じることがある。

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冨田洋之 豊田国際

11月15日

いよいよ豊田国際。

6時過ぎに起き、7時過ぎに家を出、8時過ぎのひかり号に乗る。とにかく緊張している。豊橋で乗り換えて知立へ。知立からの三河線は、ローカルでかわいい電車。先頭に「猿投」と書いてある。11時15分豊田市着。駅から歩く。会場前は数千人並んでいた。

12時会場。チケットのチェックを受けてアリーナに入ると、いきなり床の上に座った冨田が真近にいて、息が詰まる。席は偶然ブロックで、平行棒の真ん前。

自由席を確保した人は食事に行ったりして会場はいたって静か。おもむろに彼が平行棒のほうへ歩いてきたとき、身体が震えた。きょう彼の演技はないが、ゆっくり少しずついろんな柔軟をやって、それから幾度も平行棒の調子を確かめる彼を見ることができた。

平行棒の横の椅子に座る冨田。短パンから出た足がすごく引き締まって細い。背筋が確かにひとりだけ信じられないくらいくるりと盛り上がっていて、だからイスに座って前屈みになると腰から上が短く、ひじをつく位置が他人と違う。他人より太ももがすらりと前に伸びた形に見える。横顔がほんとにきりりとして、しかもあどけない。その姿だけで、明らかに「にんげん」じゃない。

平行棒にぶら下がってからしゅっと両足が前に振れるときの速さ。ものすごい凝縮した生命の力学が振れる。真正面から胸を突き抜かれるれるよう。選手誰もが彼を見ている。その一瞬の肩慣らしだけで彼が、どんなに過酷で緻密な世界に生きているかが知れる。

冨田の2時間のアップを見られたことはあまりに貴重だった。

私はつくりものヤエンターテイメントに興味がない。常に、興味があるのは、ぎりぎりの、確かめようのないところで選択を迫られ、さらされてある生命である。

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2008年11月 9日 (日)

冨田洋之

10月8日

冨田洋之が引退するというニュースを知って、あまりのショックに混乱状態。その後、胃痙攣で吐いたり、急にどっと涙が出たり。だが言葉がでない。

言葉にしたくないと言うべきか。

痛み。全身が重くなり、身動きができない。まだ何も考えられない。

きのう、筑紫哲也が亡くなったのを知ったときもショックだったが。

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2008年9月21日 (日)

記憶 デッサン

9月21日

デッサンの本のための実作と撮影の日取り(第一日目)が決まる。3人、同時に実作と撮影が、夕方から3時間(3分で1枚くらい撮らないと終わらない)で可能なのだろうかと、すごく気を揉んでいたのだが、すいどーばたさんのご厚意で、1時から8時まで取ってくださったとのこと。ぱっと、目の前が明るくなった。

知り合ったばかりの人の、能力と、的確さと、心遣いに助けられてことが進んでいく。本当にありがたいことである。若く優秀な芸大の学生さんと、熟練のカメラマンさんと、初顔合わせになる。つくづく幸せだと思う。

冨田洋之のドルツのCMがナショナルのHPから消えていた。ものすごくショックだけれど、記憶をずっと保つために、デッサンを学んできたのだから・・・。イメージと声は収縮と拡大の螺旋動を繰り返し、弱まることはない。

すべてにおいて贅肉のない潔さ。

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2008年8月29日 (金)

髪を切る 豪雨  Hiroyuki Tomita

8月29日

カットモデルで、只で髪を切る。すごくおとなしい美容師さんで、全然話しかけてこないのでほっとしていたら、全部終わるころに、出し抜けに、バンドやってるんですか?と言われて、びっくり。フェンダーとか弾いてないですか、と言われた。

冨田洋之の、北京前の雑誌インタビューを手に入れる。やはり彼は、体操をアーティスティックな表現として捉えている。

「これが100だなっていう明確なものはない」。思い描いたイメージを練習で試してみると、その通りにはいかない、「そういうことのくりかえし。1回できたものを崩さずにいくということはしないで、崩しながら修正し、また自然と崩れていきますし。体も変わってくるんで、その中でどうやったらよくなるかということを考えていくわけです。」

そもそものイメージが違っていたということも「あります。ただ、1回やってできなかったといって、そういうふうに判断することはないです。何度かやっていく中で、違うイメージが出てくることがあるし、その違ってたイメージも何かと組み合わせるとよくなることがありますから。」

まったく、絵描きのことばに聞こえる。不思議なほどに画家の体験に馴染んでしまう。

「よく闘争心がないとダメとか言われるんですけどね。そういうのは……確かに人によっては闘争心が湧いて力が出てっていうことがあるかもしれないですけど、」「僕にとって闘争心が出るのがいいとは思わないし」

「人に見てもらおうというような意識ではなくて、どうやったら自分が美しく見えるかというふうに考えてます」

まさに身体芸術のことば。「僕にとって演技は、作品みたいなもの。画家が絵を描くのと同じ」

矜持!そのときどきの狭い人間文化の枠を超えていく、その矜持。

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