2023年5月24日 (水)

谷川俊太郎 絵本百貨展 立川

5月16日(火)晴れ

沢渡朔さんからチケットをいただいた「谷川俊太郎 絵本 百貨展」へ、友人と。

立川はおそろしく変わってしまっていた。GREEN SPRINGSという巨大な建物に驚いた。広い敷地内にある店はどれもおしゃれで高級。

その中のこれまた大きな美術館?で、絵本展というものに抱いていた予想よりずっと大きくてお金がかかっている感じ。

いくつかの絵本が、アニメーションなどで紹介されている。

そのなかで一番感動したのが、やはり谷川俊太郎さんの言葉と沢渡朔さんの写真でできている「なおみ」だ。

この展示は薄暗いところにひっそりと、そんなに大きくない写真と女性の朗読で構成されていて、とてもよかった。

実はこの絵本は、以前に谷川俊太郎先生のお宅に遊びに伺った時に、先生からいただいている。

「なおみ」は6歳の少女とおなじくらいの大きさの日本人形。

少女はなおみといつもふたりきり。海に行ったり、応えてくれないなおみを「きらい」だったり、そしてある日、なおみは病気になり、「なおみは しんだ」。

古い達磨時計。おかっぱの黒髪。物陰。洋館の窓の外。庭の緑。湿った匂い。少女となおみだけ。他に誰もいない世界。

沢渡朔さんの写真は幻想的なようで暗くなまっぽい。

子供の絵本にしてはとても異質な、覗いてはいけない秘密のような、なまめかしい体温。怖さ。妖しさ。

これは時の経過をテーマにした物語。そして恐ろしいほどの名作。

ほかにも戦争をテーマにした谷川さんの言葉とアイディアが生きている絵本、いのちと死、時間をテーマにした谷川俊太郎さんの言葉を、漫然とではなくリアルに感じてしまうとぞっとするような恐怖を感じるものが多かった。

しかし巨大で真新しいツルピカの建物に、私はどうしても居心地の悪さを感じてしまって寛げない。

私は昔の十二社(西新宿)のようにごちゃごちゃした小さな古い家や店がびっしり並んだ細い路地が好きだ。

錆びた看板や崩れた塀に植物が絡まるような風景や草ぼうぼうの空き地が好きだ。

そういうところの隅っこに面白いもの、不思議なものを発見しながら歩くとき、自分が自由である実感がある。

何もかも新しくきれいに作りあげられた空間では息が詰まる。

立川基地のあった頃に来られていればよかったのだけど・・。

それでも少しだけ残っていた古い扉、古い壁、古い看板、そういうものたちに出会えて楽しかった。

錆びた扉の下に青い矢車菊が満開。
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古くて面白い建物が残っていた線路際。

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髪の毛はどんどん抜けてだいぶ少なくなった。
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2022年1月11日 (火)

毛利やすみさんと森久仁子さんのこと

2021年年末のことだが、記録しておこうと思う。

26日くらいに、森久仁子さん(春日井建さんの妹さんで、毛利武彦先生の従兄弟)からお電話があった。私の画集を受け取ったことについて。

森久仁子さんは、以前通り、とても快活で知的な話し方をされていたが、しかしコロナ禍になってしまってから2年、ほとんど外を歩いていない、と言われたことが心配だった。フェイスブックも、久仁子さんのほうから友人申請があったくらい、モバイルで積極的にやっていられたのに、今は機械が変わったらログインできなくなってしまったと。

久仁子さんに「やすみさんはお元気ですか」と尋ねると、「ええ、元気です。前みたいにものすごく元気って感じではないけど。」と。

そのあと、毛利やすみさん(恩師、毛利武彦先生の奥様)に年末、お電話した。以前ならやすみさんが出られたが、今回は、まず番号表示のアナウンスが流れ、そのあと彦丸さん(音楽家)が出られた。

やすみさんのお声は明るかったのでほっとした。私の画集を毛利先生の写真の横に飾ってくれていると。

「森久仁子さんにもお送りしました」と言うと、「ああ、久仁ちゃん!よかった!喜ぶと思うわ。久仁ちゃんは本当に本が大好きだもの。昔はふたりでしょっちゅう、いろんなところへ遊びに行って、歩き回ったの。」と。

春日井建さんのお話も出た。「建ちゃんはパーティーの時はいつも全身黒でびしっと決めててね。そういえばあなたもそうね。いつも黒ね。私が入っていくと、必ずねえさ~ん、て抱きしめてくれたの。」

「まさ子おばさま(春日井建さんのお母様)がお風呂で亡くなった時、毛利が何か抜けられない用事でお葬式に行けなったの。そしたら建ちゃんが、やすみねえさんだけでも来てほしいって言われて、新幹線に乗って行ったのね。そしたら『姉さん、姉さん』て泣いて私に寄り添ってくれて・・・。私が『まさこおばさまはオフィーリアになったのよ』って言ったら、『そうか。そうだね。姉さんありがとう』って。」

阿部弘一先生のことをお聞きしたら、うしお画廊での阿部先生と毛利先生の詩画集刊行パーティー(2019年6月10日)の時のことを鮮烈に覚えてらして、つい最近のことと思っておられるようだった。「阿部先生の息子さんも来られて、すごく元気よ。」と。

http://www.suiseisha.net/blog/?p=15714p

福山知佐子画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』

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1月9日

画集に掲載した絵の購入申し込みをいただく(チューリップ、グドシュニクと、萎れたアネモネモナーク)。

ここ数日、スナウラ・テイラーの『荷を引く獣たち』(洛北出版)を読んでいるが、あいかわらず首と頭の付け根が痛くて、集中して読めない。

カラスウリ、アネモネ(ミスト)などのデッサン、水彩を描く。

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2021年11月12日 (金)

吉田文憲『ふたりであるもの』装丁

吉田文憲さんの新しい詩集『ふたりであるもの』(思潮社)の装丁をしました(実際の作業はこの夏)。

秋の河原と枯れた草の花束のイメージで、以前描いたこの絵を使って。

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(銀箔、膠、岩絵の具、日本画)

カバーの絵は、上の絵の写真をモノクロに分解して、特色1色で、版画のようにしたかった。

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呼気であり、火であり、残された時であるもの

「契約(アリアンス)」のふたりであるもの

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「薄く裂けた、薄く裂けて、絶句したままの顔を残し、見えない飛跡を描いている。この世にはいない人の残光。離れながら、遠くから返信することだけがいまは可能だ。」

吉田文憲さんの初期の詩集『花輪線へ』のイメージから、見返しにはどうしても花輪線の写真を使いたくて、昔の花輪線で、季節は枯れ木の頃、正面からのものでなくて細長く車体が写されているものを求めてずいぶん探した。

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西村光さんというかたが撮影していた花輪線が感覚的にぴったり来たので、お願いして使用許可をいただいた。

見返しの紙の色もずいぶん悩んだ。吉岡実の『サフラン摘み』のように、暗いチャコールグレーの中に黒い線を見せるか、藍色の夜の中にするか。

神田の紙屋さん「竹尾」に赴き、(私の画集の表紙と見返しに使う紙も模索して)40枚くらい様々な色と材質の紙を購入し、簡易プリンタで画像を印刷してみて、すごく迷ったけれども、枯れ枝の繊細なシルエットがもっとも際立つ雪の白に近いペールグリーンにした。

後ろ見返し。
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タイトルのフォントは古くかすれて欠けた感じにしたかったので、フォトショップで白い欠けを描き入れた。「り」や「あ」や「の」の平仮名の最後の筆づかいの部分を丸っこくしたくなかったので終わり部分を削った。

表紙の絵はペンで感覚的に納得がいくまで50枚以上描きなおした。本当は表1から背の下に蔓が伸びて表4に続くはずだったのに、なぜか印刷屋さんのミスで背から表4の絵が落ちてしまった(涙)。

さらにメーカーで廃番になっていたOKフロート(熱で押した部分の色が濃く変化する)の「しゃけ」を無理を言ってせっかく手に入れてもらったのに、押した部分の色が変化しなかった(涙)。

この点については、紙のメーカーの平和紙業さんに電話で問い合わせたところ、製本屋さんの空押しの温度が低かったせいではないかと言われた。

箔押しや空押しをやや高温で押す工場と、温度を上げないでそのまま押す工場があるということ、OKフロートは110~130℃くらいで変化するので、それくらい高い温度にしないといけないということだ。

何度も空押しの「スタンプ」ではなく「ホットスタンプ」で、と編集のIさんに念を押したのだが、スタンプを押す人に温度まで伝わっていなかった。低い温度でも「ホットスタンプ」とよばれていることを初めて知った。

OKフロートのHPに温度も明確に書いてほしいと平和紙業さんに話した。

また、この装丁に関してはデータ制作の技術的なことでデザイナーのSさんにたいへんお世話になった。

すでに発売中です。ぜひ実物を手にとって見ていただけたらと思います。

 

 

 

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2021年8月24日 (火)

画集にのせる文章、かかりつけ医の反応

8月23日(月)

午前中、吉田文憲さんと電話。書いたばかりの画集巻末の文章を(ファクシミリで)見ていただいた。

時間をあけて、あらためて正午に電話すると「詩人には書けない、最高に詩的な文章。どこも直すべきところはない。」と。

「すごくいいよ。読んでみようか?」「いや、読まなくていい。どういうところがいいと思うの?」と返事をするや、もう嬉しそうに読み始めている。

そして、「説明的ではなく、わからなさの屈折のしかたが抜群。語の選びかたも語順も完璧。これ以上どこも動かしちゃだめ。」と言われた。

文章の後のほうの謝辞の部分に関しても、「思ったように書いていい。失礼ではない。萎縮してつまらないものにならないでいい。どこもおかしいところはない。」と言われてほっとする。

英訳者のNさんと担当編集Tさんにメールで送り、治療院へ。

夜、沢渡朔さんからいただいた写真データをデザイナーMさんへ送る。これでNさんから英訳が送られて来るまで少し休める。

8月19日(木)

ごく具体的な細部にわたる身体的な言葉を得るために、5時過ぎ、川まで細い暗渠を自転車で下る。

眼によるスケッチに眼の奥の幾層もの記憶のスケッチを重ねる。

帰宅した時に一気に書けた。

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陽の傾いた川の手前の細道。アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシたちの絶唱。

問題は謝辞。目上の人にいただいた文章に対する形容、何を与えてくださったのかを(失礼でないかたちで)言語化するのは思いのほか困難で、とても迷い苦しんだ。

8月18日(水)

画集の巻末に急遽、私の文章と謝辞を入れることになった。

何十年もの絵から選び、何年もかかってやっとできそうな画集に思うことはたくさんあったが、何をどう書いたらいいのか頭がまとまらなくて焦った。

首の凝りと精神的緊張による頭痛を緩和のため星状神経ブロック注射を受けにSクリニックへ。案の定、外に立って待つ人もいるほど混んでいた。

短い文の中に何を書くべきか、どういう文体にするのか考えるために、自分の本『反絵、触れる、けだもののフラボン』を待ち時間に読んでいた。

「来たよ~!」とあわただしく処置室のカーテンを開けて「あら読書中失礼!」と言う明久先生に、「これ、私の本なんですよ。」とボソッと告げるとと、思いのほか大喜びされた。

「ええっ!ちょっと触ってもいい?」と本を手に取って、「すごい!題名からしてすごく難しい!中身も難しすぎてなにを書いてあるかわからない!すごい頭いいね~!ほんとにすごいよ!」

と看護師さんたちのほうに持って行って、「見て見て!これ福山さんの本なんだって!すごいね~!」と大騒ぎ。

「谷川俊太郎とかジャコメッティとか書いてある!」「ジャコメッティって名前、知ってたんだ?」「長っぽそい人のやつでしょ。」

明久先生は若くてテキパキしていて、大きな声で早口に話す人で、私から見ると前向きすぎ、いつも慌ただしすぎ。

最初会った頃は「本(当時作っていたのは『デッサンの基本』)作ってるの?すごいね。応援してます!」と言われても、まったく軽い口先だけとしか思えなかったのだけど、10年以上つきあううちに、いつも率直に本心を口にしている人なのだと信じられるようになった。

私のことを「異常に繊細過ぎる、今までの膨大な患者の中でも会ったことがない異常レヴェル、頭が回りすぎ、余計なことまで気にしすぎ、気にしちゃだめ!」と最初の頃にはっきり言ってくれたのもこの先生だ。

彼は偏狭なところがなく、臨機応変でサバサバしているので、こちらで薬のことなど詳しく調べて相談すれば、たいがいのことには患者の希望に柔軟に対応してくれるのも魅力でつきあいやすい。頭の回転が速いので、こちらが心を開きさえすれば話がどんどん通じる。

 

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2019年10月 7日 (月)

室井光広さんの訃報 / 吉田文憲ラジオ「土方巽」特集

10月2日(水)

室井光広さんが亡くなったニュースを聞いて驚き、ショックを受ける。

室井さんとはもうずいぶんお目にかかっていないが、個展にも来てくださって、まだ室井さんが千葉県四街道市に住んでおられた頃、吉田文憲さんに連れられて2度ほど伺ったことがある。

初めて伺った時、正月だったので、私は珍しくわりと堅い服装でパンプスだったのだが、着くなり雪の残る丘に連れて行かれ、面食らった。室井さんの奥様と4人で縄文土器拾いをした。

パンプスが泥と雪に埋まり、スカートの脚がつりそうなほど冷えて苦しかったが、室井さんは本当に楽しそうに、宝物のように縄文土器を捜していた。

私が絵に描きそうな泥だらけの樹の根っこを見つけて「これ、持って帰ろう!」と言って、奥様に「そんな汚いのやめて。」と苦笑いされていたのを鮮やかに覚えている。

室井さんはたいへんシャイな感じのかたで、私に面と向かって話しかけてくることはなかなかなく、私はなにか文学に関わるような質問をしなくてはならないと焦りながら、もともとの緘黙気質から言葉が出て来ず・・。変なことを言ったら失礼だし・・とぐるぐる考えあぐね、躊躇するばかりで、結局、なにひとつうまく話せなかった。

私は、室井さん宅にいた真っ黒でツヤツヤした猫、クロちゃんを抱いていた。

いつかまた必ずお会いできて、いろいろなお話を伺えると思っていたのに、なぜまだお若い室井さんが・・?と思うと、どんどん胸が苦しくなってたまらなくなってきた。

室井さんは、吉田文憲さんと、佐藤亨さんと、東北三人衆でたいへん親しくされていた。残されたおふたりの言葉を聞こうと思った。

10月3日(木)

吉田文憲さんが話をしたラジオ「土方巽」特集の再放送が昼12:30くらいからあるというので、PCで聞いていた。

文京区の「金魚坂」という(創業350年の金魚屋さんがやっている)喫茶店(レストラン)で録音したそうで、周りの雑音が入っていた。

舞踏は、ひとりで踊っていても、幻の誰かをよび寄せる、また、よび寄せられるもの。

死者とともに踊るもの。

誕生は一度限りだが、たえず親しい死者とともにいる。

詩は幻の死者をよぶ。死者の声を言葉とする。あるいは死者が立っているところを言葉にするもの。

それは詩だけではなく、表現の行為の根幹に在るもの。

『病める舞姫』第14章より 翻案:十田撓子 朗読:原田真由美、森繁哉

吉田さんが話していた西馬音内の盆踊りについてネットで調べ、とても心惹かれた。

まさに亡者の、未成年女性の彦三頭巾と絞りの浴衣には瞠目するが、成年女性の端縫い(はぬい)と言われる(先祖代々の着物の絹の切れ端を縫い合わせた)着物の美しさにも非常に心を動かされた。

10月4日(金)

佐藤亨さんに久しぶりにメールした。

佐藤亨さんも室井さんの訃報が信じられず、「その日の夕方、動かなくなった室井さんを見てはじめて事の大きさを知りました」と。亡くなったことが受け止められないと。

吉田文憲さんに電話し、室井さんの病気のことを聞いた。

夏頃から具合が悪かったと聞いていたそうだが、やはり現実感がないようだった。

「あまりにも親しいと、いつも変わらずそばにいる感じが強くて、亡くなったと聞いても信じられない」と。

 

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2019年6月12日 (水)

 「毛利武彦詩画集『冬の旅』出版記念展、阿部弘一先生朗読会

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/japanese-style-paintings-1-膠絵/

6月10日(月)大雨

チョビのことが心配だったが、病院に預けるのが(チョビが恐怖でおかしくなりそうなので)かわいそうで、結局、家にプフと2匹で置いたまま、銀座うしお画廊へ。

地下鉄の駅を出てから横殴りの強い雨で服も靴もびしょ濡れ。こんな天候の日に、無事来られるのだろうか、と阿部弘一先生のことがすごく心配になる。

画廊の入り口前で毛利先生の奥様のやすみさんとお嬢様とお会いする。奥様の体調も心配だったが、とてもお元気そうでよかった。

会場は多くの人で賑わっていた。

阿部弘一先生は雪のように頭が白くなってらしたが、背筋もすらっと伸びてお元気そう。笑顔が見られて感激。ご子息にご紹介くださった。

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毛利先生のスケッチ。銅版画のように黒くて端的な線と、その分量。本画を想定して思索的に描かれていることに注意して見ていた。

森久仁子さん(春日井建さんの妹で毛利先生の従妹さん)にも、久しぶりにお目にかかることができてありがたかった。陶芸をやっている息子さんと一緒だった。

16時から朗読会が始まる前、阿部先生と、毛利先生の奥様と、朗読する藤代三千代さんのほかは、ほとんど全員が床に座った。その時、「毛利先生の画集だから。」とおっしゃられて、自分も(ステージ用の椅子ではなく)床に座ろうとする阿部先生。

まず最初に阿部弘一先生から、毛利先生と初めて会った時のお話。戦争が終わってから、慶応高校が日吉にできて、そこで出逢ったそうだ。

毛利先生は生前、慶應高校に勤めて何よりも良かったことは阿部先生と出会えたこと、とよく言ってらした、と奥様から伺っている。

藤代三千代さんが何篇か朗読された後に、阿部弘一先生自らが朗読されるのを生でお聴きする、という素晴らしく貴重な経験をさせていただいた。

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肉声で阿部弘一先生の詩を聴くという初めての体験は、言葉が絵と音として強く胸に響いて来、予想を超えた新鮮な衝撃だった。

阿部先生の詩をもっとたくさんの人に知ってほしいと心から思った。

阿部弘一先生が、ご子息に私を紹介してくださるときに、『反絵』の本にふれて、私のことを「厳しい文章を書く人」と言ってくださったことが信じられないほどありがたかった。

「最近は本屋に行って詩の棚を見ても辛くなりますね。」と嘆いていらした。

「ポンジュって知ってる?僕の友人が訳してるんだけど。」と毛利先生がご自宅の本棚から一冊の詩の本を見せてくださったのは、私が大学を出て少しした頃。

父の借金に苦しめられていて、世の中のすべてが暗く厚い不透明な壁に閉ざされて息ひとつするのもひどく圧迫されて苦しく、ただひとつの光に必死にすがるように、敬愛する恩師の家を訪ねた日のことだ。

それから阿部先生の現代詩人賞授賞式に誘ってくださった時のことも素晴らしい想い出(そこでは息も止まりそうな大野一雄先生の舞踏(その出現)があった)。ずっと私は夢中で阿部先生の著書を読み、私の絵を見ていただいてきた。

私にとって阿部弘一先生は、毛利先生と同じく、昔からずっと畏れを感じる存在、とても緊張する相手で、気安く話ができるかたではない。

阿部先生のような方と出会えたことが信じがたい僥倖だ。

「次の本はもうすぐ出ますか?」と覚えていてくださることもすごいことだ。

阿部先生のご子息は水産関係の研究をしてらっしゃるそうで、私のことを「そうか!この人は一切肉食べないんだよ。だから魚のほうの研究はいいんだ!」と、先生が笑って言われたこと、「植物の名前を本当によく知ってるんだ。今度、庭の樹を見に来てもらわなきゃ。」と言ってくださったことも嬉しかった。

「草や樹がどんどん増えてなんだかわからなくなってる。誰かさんがどっかからとってきて植えるから。」とご子息も笑っていらした。

阿部先生は、前々から、大きくて重たい椿図鑑をくださるとおっしゃっている。とりあえず阿部先生のご自宅のお庭の、68種類もある椿の名札をつけるのに、その図鑑を見ながらやる必要がある。

毛利先生のお嬢様に、原やすお(昔のまんが家で、毛利先生の奥様のお父様)の大ファンだった話をしたら、とても驚いて喜んでくださった。

毛利先生の奥様のご実家に原やすおさんのたくさんの本や切り抜が保存してあって、お嬢様がもらうつもりでいたのに、亡くなった時に全部処分されていてショックを受けたそうだ。

上野にある国立国会図書館国際子ども図書館で、いくつかの作品を見ることができるとのこと。

阿部先生の新刊、詩集『葡萄樹の方法』を出された七月堂の知念さんともお話しできた。

http://www.shichigatsudo.co.jp/info.php?category=publication&id=budoujyunohouhou

記念撮影。阿部先生と毛利やすみさん。

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阿部弘一先生の向かって左にはべっているのが私。

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慶應高校の毛利先生の教え子のかたが持って来てくださったらしい当時の写真。

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1964年夏の毛利武彦先生。

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1962年、裏磐梯の毛利武彦先生。

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当時の阿部弘一先生。

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皆様お元気で、お目にかかれて本当に幸せでした。

 

 

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2016年5月26日 (木)

阿部弘一先生からの原稿 / 顔の湿疹

5月24日

詩人の阿部弘一先生より荷物が届く。たいへん大切なものだ。

阿部弘一詩集『測量師』、『風景論』などの原稿、それらの詩集の毛利武彦の表紙絵。

私の師である毛利武彦先生からの阿部弘一先生への長年にわたる書簡。

ていねいに分類して年代順にまとめて、それぞれを紙紐で結んであった。

これらは、拝読させていただいてから世田谷文学館に収めたいと思っている。

阿部先生に電話し、大切なお荷物を拝受したことを伝える。奥様の介護がたいへんなご様子だったが、とても久しぶりに阿部先生のお元気な声を聞けてほっとする。

阿部先生のお話によると、1948年に慶應義塾高等学校が発足したときから、毛利武彦先生は美術の教師を勤められ、その2、3年後に阿部先生は事務職として同校に勤められたそうだ。

もともと絵がお好きだった阿部先生は美術科の部屋を訪れ、毛利先生と親しくなられた。そして阿部弘一第一詩集『野火』を出されるときに毛利先生が装丁をしてくれることになったそうだ。

お二人とも学生だった時に戦争を体験され、戦争が終わった20歳代に知り合って、その後、一生親友となる。

阿部弘一の詩がもっと多くの人に読まれるように、願いをこめて書影をのせておきます。装幀、カバー絵はすべて毛利武彦。

阿部弘一第一詩集『野火』(1961年)奥付及び扉は「世代社」となっている。詩集『野火』の中身が刷り上がり、あとはカバーだけという時に、社名が「思潮社」に改称された。

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詩集『測量師』(1987年思潮社)。

この毛利先生の描いたたんぽぽの穂綿は、私の大好きな絵だ。

たんぽぽの穂綿を描いた絵は数多くあるが、さすがに毛利武彦は冠毛の描き方が非凡だと思う。もっとも不思議で、すべてをものがたる冠毛の形状と位置を選んで描かれている。
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詩集『風景論』(1996年思潮社)
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帯があるとわかりにくいが、左向きの馬の絵だ。遠くにも人を乗せて走る馬がいて、手前の馬のたてがみは嵐にたなびく草のようにも見える。

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この『風景論』で阿部弘一先生は第14回現代詩人賞を受賞された。

この授賞式に毛利先生ご夫妻に誘われて伺った私は、その会場で、間近に踊る大野一雄の「天道地道」を見て、魂を奪われた。

毛利やすみ先生から毛利武彦先生の書いた阿部弘一先生の受賞に寄せるお祝いの言葉の原稿を送っていただいているので、ここにのせておく。私は師毛利武彦の文字を見るたび、師の絵と同じ質の知性と美しさと力強さに圧倒されて胸が苦しくなってしまうのです。

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阿部弘一先生が翻訳された本にはフランシス・ポンジュ『物の見方』、『表現の炎』などがある。また思潮社の現代詩文庫『阿部弘一詩集』がある。

阿部先生と電話でお話しさせていただいてとても嬉しかったことは、『風景論』からあとの詩をまとめることについて、本にしたい、と確かにおっしゃったことだ。

「もし、まとめられたら。本にして知り合いに配りたいけど、みんな死んじゃったからなあ。ポンジュも亡くなったしね・・・。」とおっしゃられたが、未知の読者のために本をつくってほしい。「嶋岡晨はいるな。あいつは昔から暴れん坊だった。」とも。

阿部先生は、彫刻家毛利武士郎(私の師毛利武彦の兄弟)の図録や、巨大な椿図鑑も、「自分が持っていてもしかたないから、渡したい」と私におっしゃる。

椿図鑑は宮内庁がまとめたもので、宅急便では送れないほど巨大なのだそうだ。私などがいただいてよいのか自信がない。うちはすごく狭いので、貴重な大きな図鑑をきれいに見る大きな机もないし、大切に保管するスペースがないのだ。

私は椿の花が好きだが、椿図鑑に関しては、私より、その本にふさわしい人がどこかにいそうだ。

大切にしていたものを誰かに託したい、という気持ちを、私は私で、最近切実に感じることが多くなっている。

自分が持っているより、それを使って生き生きする人に、それを託したい、と思う気持ち。

私の持ち物(絵画作品や本)は、いったい誰がもらってくれるのだろう、と考えることがよくある。それを考えるとすごく苦しくなる。

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毎年、春になると苦しめられる顔の皮膚の乾燥と湿疹について。

昨晩、唇にプロペト(白色ワセリン)をべたべたに塗って寝たが、唇が痛いと同時に唇のまわりがかゆくて安眠できなかった。

朝、鏡を見たら口のまわりに真っ赤な痒い湿疹ができていた。

唇は皮が剥けて、縦皺がなくなるくらいパンパンに真っ赤に腫れあがり、唇の中にも爛れたような湿疹ができている。

プロペトとヒルドイドクリームを塗るがおさまらない。どんどんじくじくしてきて、爛れがひどくなってくる。

唇全体が傷のようになってしまい、痛くて口をすぼめたり広げたりすることができない。しゃべるのも食べるのも苦痛。口を動かさなくてもじんじんと痛い状態。

毎年、4月、5月になると皮膚が乾いてチクチク、ピリピリ痛み、特に唇が酷く乾燥して真っ赤に剥けてしまう。常に唇にべったりプロペトを塗っているのだが治らない。

きのうあたりから唇の荒れがますます酷く、歯磨き粉が口のまわりに沁みて涙が出るほど。味噌汁など塩分のあるものも沁みて飲めない。口にする何もかもが刺激物となり、皮膚が炎症を起こして爛れてしまったみたい。

紫外線にかぶれる体質なので5時30分頃を待ち、マスクをして皮膚科に行く。

タリオン(抗ヒスタミンH1拮抗薬)10mg朝夕

ビブラマイシン(抗生物質)100mg夕

ロコイド軟膏0.1パーセント

夕食はハンペンとパンケーキ、豆乳、ヨーグルトですませ、夜9時にタリオンとビブラマイシンを飲んだら、10時半には痛みと痒みが少しおさまってきた。

5月23日

31度。真夏のように暑い日。

このところ、ずっと顔が乾いて、特に唇が痛くてたまらない。

とにかく洗顔で顔をこするのをやめようと思い、2週間くらい日焼け止めも塗らないで夕方5時以降しか外に出ないようにしようと決めていた。

しかし今日は2時から書道の日だったので、紫外線吸収剤フリーの日焼け止めを塗って日傘を差して、1時半頃に出かけた。

その後、唇の痛みが酷くなり、まともに食事ができない。

夜中、寝ているあいだ、やたらに口のまわりがざらざらして痒い。寝ているあいだに顔を掻いてしまう。

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2015年12月24日 (木)

毛利武彦先生の原稿と阿部弘一先生の書簡 / 西新宿

12月23日

わが師、毛利武彦先生の奥様から、レターパックが送られて来た。

なんだろう、と封を開けてみて、衝撃に打たれた。

詩人の阿部弘一先生から毛利武彦先生に宛てた手紙の束と写真、そして毛利先生の直筆原稿。その原稿は、おそらく阿部先生が現代詩人賞を受賞された時のスピーチのためのもの。

今さらながら、師、毛利武彦の筆跡のものすごさに圧倒される。知的で美しいというような形容をはるかに超えて、師の「絵」そのものだ。

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そして阿部弘一先生が毛利先生に宛てた、二人で詩画集をつくる計画の内容、装丁の相談の手紙。

阿部弘一先生が、フランシス・ポンジュの墓を訪ねた時の、青い海を背にした白いお墓の前での青年の阿部先生の写真。

この原稿、書簡、写真は、阿部先生が持っていらしたフランシス・ポンジュからの書簡などを追いかけるかたちで、世田谷文学館に保管してもらう予定である。

12月18日

長髪で美貌の一級建築士Sが、崩壊しそうな福山家の床下を見に来てくれた。

Sは、70年代の、まだ華奢だったジュリーをさらに女性っぽく、睫毛を長くして、鼻筋は丸ペンで引いた線のようにすうっとまっすぐに細く描いた感じ。

きょうのジュリーは作業着ではない。私服(ダウンジャケットにジーンズ)で汚れる作業をしてだいじょうぶなのか、と心配になる。

畳を上げるためにまず箪笥を移動。その瞬間、箪笥の後ろの罅がはいっていた壁が崩落。ものすごい土埃に「ギャーッ!!」と驚く私。

「土台の板が崩れたわけじゃないからだいじょうぶですよ。車から掃除道具持ってきますから。」と、てきぱきと処理するジュリー。

畳を上げてみて、猛烈に黴の臭気が漂う中、「これはまずい。床がこっちまでくっついてる。」とジュリー。

床板が大きくてはずせなかったため、一部を四角く電動のこぎりで切ることになった。

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板を打ちつけてある釘も古くて錆びていて、バールで引き抜こうとしても釘の頭がもげてしまう。

たいへんな作業だったが、素手で淡々とこなしていくジュリー。やっと床板の一部分を外すことができ、黴と埃で恐ろしく汚い床の上に、惜しげもなく私服で寝転んで床下を覗くジュリー。

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こんな汚くてたいへんな作業をしてくれるのか、とありがたく思うと同時に、いったいこの古い家をどのように修理、改築するのがいいのか暗澹とする。

12月7日

昔、西新宿でご近所だったEさんと「砂場」で昼食。

昔の西新宿の話、知り合いの消息を聞く。Eさんの若い頃の話も。

Eさんに会うたび、ご高齢になっても、どうしてこんなに若くて元気で頭がしっかりしているのだろう、と感動する。

八ヶ岳に行って来たお土産だと、甘いお菓子に興味のない私のために、ちびきゅうりの塩麹漬けをくれた(これがめちゃくちゃおいしかった)。

Eさんと話していて、長く忘れていた西新宿(昔の十二社)の商店街の記憶が蘇って来て、何とも言えない気持ちになる。

黒い土の上に部品が置いてあった瓦屋さん、少年まんが週刊誌を読みたくて通った甘味屋さん、水っぽい焼きそばとかき氷を食べたおでんやさん、楳図かずおの「おろち」に夢中になった貸本屋さん、ミセキというお菓子屋さん、ヒロセという魚屋さん、エビハラというパン屋さん・・・。

暗渠の脇にくっついていた平べったい小さな家たち。

西新宿が開発されるとともに商店街も無くなり、小学校、中学校の時の友人は皆、遠くに引っ越してしまった。大通りから少し引っ込んだ坂の上の私の実家だけがボロボロになって残っている。

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2015年7月 3日 (金)

阿部弘一先生のお宅訪問 毛利武彦先生の画 

6月27日

朝、雨だった。午前中に家を出、阿部弘一先生のお宅へ。

阿部弘一先生は詩人で、ポンジュの『物の味方』(1965)、『表現の炎』(1982)、フランシス・ポンジュ詩選』(1982)なども訳された方だ。詩集は『野火』(1961)、『測量師』(1987)、『風景論』(1995)などがあり、現代詩文庫にもはいっている。

玄関で『あんちりおん3』への寄稿の御礼を申し上げた。

玄関には、阿部弘一先生のご親友であり、私の師である毛利武彦先生の版画がいっぱい飾ってある。阿部先生の詩集の装丁は、最初の詩集『野火』より以前の、同人誌『軌跡』の時から毛利武彦先生が画を描いている。

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上の画像の、壁の上段真ん中の絵が阿部弘一先生『測量師』のカバーの絵。

タンポポの穂綿を決して丸く描かず、種子が離れていく時のもっとも面白い瞬間を描いていることに、徹底して俗を嫌った毛利武彦らしさがある。

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毛利先生は非常に厳しい師であったが、多くの教え子に慕われていた。

阿部弘一先生はというと、今時どこにもいないほど敵意と拒絶の意志を持って文壇・詩壇との関わりを断った詩人であり、人の集まるような場所に出向くことはない。

私の個展はずっと見ていただいているが、こうして、やや強引にだがお宅を訪ねることによって、久しぶりにお目にかかれてたいへん嬉しかった。

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大正9年、阿部先生のお母様が教職についた頃に弾いていたという古い貴重なオルガン。このオルガンや、阿部先生のご両親についての文章、フランシス・ポンジュ訪問記などのエッセイは、同人誌『獏』に書かれ、現代詩文庫『阿部弘一詩集』(1998)に納められている。

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阿部先生が弾くと、抵抗感と温かみのある本当に大きな風の声のような荘厳な音が広がった。
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このオルガンは引き取ってくれる演奏者を探しているということだ。
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阿部弘一先生は椿がたいへんお好きで、椿の樹だけで70本もあるという古い庭を案内してくださった。

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椿の中では、やはり侘助が一番好きだと言われた。いくつかの椿の樹は紅を帯びた艶やかな実をつけていた。足もとには可憐なヒメヒオウギが咲いていた。

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美しい苔にまみれた梅の樹。「あなたは苔が好きなんだよね。」と笑って言われた。

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この日、たいへんなものをお預かりしてしまった。阿部弘一先生の詩集の装丁のために描かれた毛利武彦先生の画だ。

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上の画像は毛筆で書かれたあまりに美しい毛利武彦先生の文字。

下の画像は、使われなかった装丁案の画(黒い背景にヒメジョオンの花が白く描かれている)と、阿部弘一詩集『測量師」の中から、毛利武彦先生が抜き書きしたもの。

そこから 退いていった海

そこで氾濫しかえれなくなった河

砂になった水

そこにまだ到着していなかった 

人間の声          (「幻影」より)

では これが解なのか 

風よ 野を分けて行くものよ

だが 私たちにどうして

死と生と この涼しい風のひと吹き

の意味とを 識別することができる

だろう             (「夏」より)

            一昨年 ひめじおんの風播を試みて失敗してしまったのです

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『測量師』の中に幾度か「ヒメジョオン」ということばがでてくる。

阿部先生の未刊行詩編の中にも「ヒメジョオン」という詩がある。その「ヒメジョオン」という詩から少し抜き書きしてみる。

盲目の私たちのあかるすぎる視野いちめんに

おまえはそよぐ

おまえの無数の白い花でさえひろがりの果てで風にまぎれ

私たちの何も見えぬ視野をいっそう透き通らせて行く

それはかつて誰のまなざしの世界であったのだろう

夏の野に突然おまえを浮かび上がらせはるかな風を誘い出し

その広がりのままおまえから夏のおまえの野から不意に視覚をそむけてしまったのは

一体誰なのだろう そしておまえの野と向きあっている私たちのとは別の

もっと大きいどんな盲目にいまそのひとは耐えているのだろう どんな

内部の暗闇の星につらぬかれて深く視野の叫びを秘めているのだろう

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下の画像は『測量師』の別丁扉。

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下の画像は、その原画。

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下の2枚は、同じ別丁扉に使われなかった画。
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下の画像は、昭和31~32年頃、阿部弘一先生が28~29歳の時に、つくっていた文芸同人誌『軌跡』の表紙。

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下が毛利武彦先生の原画。よく見ると線の方向や人物らしき影の位置が違うので、下の画から、さらにヴァリエを制作して『軌跡』の表紙としたようだ。
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阿部弘一先生にたいへん貴重なものを預かったこと、私の心から尊敬する詩人がそれを私に託してくださったことはありがたいが、重い。

大切なものを保存、保管してくれるところがないこと、それを保管しても、誰が読み継いでいくのかということ。

私も、自分が何かを書いて、たいへんな思いをして本を作っても、誰が読んでくれるのだろうか、と常に考えている。絵を描いても、それを廃棄しなければならないかもしれないことを常に考える。

私の鬱の原因のほとんどが、この問題に起因する。

6月26日

アマゾンが本を2割引きで販売する話、大手出版取次業が倒産した話のニュース。

出版不況の閉塞感、絶望感に鬱々としてくる。

本当に読まれるべきもの、残すべきものが残せないで、一般に売れる本、つまり気晴らし的なものしか売れない世の中は恐ろしい。

6月25日

夕方、阿部弘一先生の家を訪ねたがお留守だった。

和田堀給水塔は、不思議な城のような、強烈に惹きつける古い建造物だ。一番古い部分は大正13年につくられたらしい。この敷地内にはいって自由に撮影できたらどんなにいいだろうと思ったが、残念なことに今は壊されているところで、柵の外からしか撮影できなかった。

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初めて降りたこの駅は不思議な場所だった。駅前に、ほんの少しだが戦後闇市のような小さな長屋のような食べ物屋が連なり、そのほかはこれと言った商店街はない。

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住宅街を歩く途中、ぽつんとある銭湯を見つけた。その壁にオロナミンCの錆びた看板が残っていた。

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下は裏から見たところ。
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小田急線の方へと歩いて行くと、先ほどの闇市とは対照的な、巨樹の影に瀟洒な建物が続く恐ろしいほど豪奢なお屋敷町となる。

木々は100年以上は生きていそうであり、「昔はあそこらへんは風のまた三郎が出て来そうなところでした。」と阿部弘一先生がおっしゃっていた。

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大きな熟れた実をつけた李の樹があったので撮っていたら、著名な批評家Hさんのお宅だった。

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2014年5月 2日 (金)

言葉、詩について /  樹の上の眠り猫(チェシャねこ)

5月2日

言葉について、詩について友人と話したことの備忘録。

友人Aの言葉。

「「解剖台の上での、ミシンと傘との偶発的な出会い」 以後、無意識が解放されて以後と言ってもいい、 詩は、極めて修辞的な態度になった。それは、身体を空っぽにしたいという態度であり、ものを見ることがすでに何ものかになる人間は稀である。言語化できないものに躓きながら、何かを書く人は非常に少ない。」

友人Bの言葉。

「無意識が解放されて抑圧が無くなり、超自我がなくなり、誰もが何をやってもいい、やりたい放題でただ自分を認めろ、と駄々をこねる赤ん坊になった。グループをつくり、お互いに甘えあい、許しあうようになった。」

「ブルトンがいた時はまだ指針があった。皆が大人として扱われていた。今は規範がなくなり、自己正当化のためにおつむを使う人たちがいる。」

「格差社会はますます広がり、普通の生活が脅かされている自分たちにとっては、まったくどうでもいい話。」

5月1日

3月からずっと整理している膨大な昔のネガの一部をデータ化したもの(StrageDisc)ができたのでヨドバシカメラに取りに行く。

三井ビルのオーガニックカフェで食事。ここは、とても静かでいい場所なのだが、夕方なのでほとんどおかずがなくなっていた。

4月30日

高円寺大道芸の日なのだが、強烈な日差しと人混みを避けて、人がやっと通れるようなひっそりした細い裏道を通って、阿佐ヶ谷のほうへ歩いて行った。
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懐かしい明治牛乳のポストを発見。かすれてきれいな空色だ。

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阿佐ヶ谷の商店街に抜ける暗渠に、樹が覆って陰をつくっているところがある。向かって左は胡桃の樹で、その隣が梅の樹。

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問題はこの梅の樹のほうなのだが・・・・。

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阿佐ヶ谷にある(改装されてだいぶ変わったけど、それでもまだ)70年代の素敵な感じたっぷりの「赤いトマト」で、懐かしい(日本に初めてピザが入ってきた時の生地のタイプの)ピザと コーンサラダを食べた後に、この道を引き返すと、

なんと、梅の樹の上に 悠々と眠るチェシャ猫がいたのである。

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ごろにゃぁ、ぐるぐるにゃぁ、と声帯模写で鳴いて呼びかけると、しっかり眼があった。

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けっこう大きな梅の樹で、そうとう高い枝にいるので、まさかとは思うが、どうか寝ぼけて落ちませんように。

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この遊歩道には、これまた懐かしい「かけはぎ」をやっている洋服センターがひっそりとある。

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私の憧れだった素晴らしい桜の古木と蕗の薹が茂る庭がある古い平屋の家が重機で崩されていたので大ショック。

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さらにこの道の先、私が毎年必ずチェックしている忍冬(スイカズラ)の花が咲いている場所、壊れたブロック塀から旺盛に外に触手を伸ばしてくる忍冬の群生が、刈られていたので大ショック。

夏になるにつれて強い忍冬の蔓がめげずに生成していきますように。

4月28日

一か月前から薬をTからMに変更。それで楽になるのを期待していたのに大量出血。頭ががんがんして首を動かせない。眼窩の縁と眼の奥もすごく痛い。とにかく苦しくて何もできない。

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