2025年3月26日 (水)

ヒヤシンスの絵 / FODMAP 、ブレンダー 野菜ジュース

3月26日(水)

雪さまにリクエストいただいているヒヤシンスの絵、制作中。

Sdsc01695_20250326223501

ヒヤシンスの花色は多いが、私は青色、水色、薄紫系統が一番好きだ。

ご注文いただいたかたからも青色系が希望だと言われたので嬉しかった。

淡い青だとスカイジャケット、ブルージャケット(花の根元が鮮やかな空色で花弁は紫がかった青)、デルフトブルー・・・などの種類のヒヤシンスをイメージして描きたい。

ヒヤシンスの詩と言えば、大手拓次である。

ヒヤシンスは特徴的な素晴らしい香りがあって、真珠や霜のように花弁が光って、幼い頃から大好きな花だが、大手拓次の詩を読んでさらにヒヤシンスが好きになった。

その詩は、ヒヤシンスに色をつけた時に載せようと思う。

・・

猫の絵を買ってくださったサヤカちゃん(30年来の友人)と、最近メールで久しぶりに話した。

サヤカちゃんも長く腸の病気に悩んでいる。彼女は高FODMAP食品を避けることを教えてくれた。

FODMAPというのは、小腸で吸収されにくい4種類の発酵性糖質を指す用語とのこと。

Fermentable➝発酵性
Oligosaccharides➝オリゴ糖
Disaccharides➝2糖類
Monosaccharides➝単糖類
AND
Polyols➝ポリオール

お腹によいとされているヨーグルトや納豆、はちみつやオリゴ糖も高FODMAPに含まれる。

玉ねぎ、にんにく、ブロッコリー、キムチ、マッシュルーム、豆類、絹ごし豆腐、さつまいもなど私の好きなものばかり。

そして私の大好きな果物、さくらんぼ、桃、りんご、梨、マンゴー、スイカ、アボカド、プルーン、あんず、ライチ、柿、西洋梨、いちじく、すいか、プラム、ドライフルーツ・・・これらは全部やめられない。

ずぼらな私にはFODMAPを避けるのは難しそう。

何十年も前から欲しかったのにまだ買っていないブレンダーを買って、生野菜ジュースを飲んでみたいです、と言うと、

サヤカちゃんから、ワット数の低いものだとうまくできないというアドバイスをいただき、一番安い150Wのを買おうとしていたのをやめて500Wのを買うことにした。

本日、ブレンダーが届き、仕事から帰宅して夜、生まれて初めての自分で作る生ジュース体験。

小松菜を2株と有機バナナ一本、それにラブレ1本を加えてジュースにしたら最高においしかった。

飲んだらすぐにおなかがきゅるきゅる・・と鳴ってしまったが。ミヤリサンとロペミンを飲みながらだましだまし飲んでいこうと思う。

・・

先日、卓球仲間のMさんに体重が減ったと言ったら「たいへん、甘いものいっぱい食べなきゃ」と言われたのだが、

私はもう30年くらい、好んで甘いものを食べたことがない。お菓子に興味がなく、ほとんど砂糖を摂らない。

がん細胞はまず糖を吸収するのは事実だが、甘いものを食べても癌の悪化には関係ない、とも言われている。

しかし癌の悪化に関係なくても、身体の糖化、酸化、炎症に関係あることは避けたいし、私は甘いものを食べたいという欲求がまったくない(お酒は時々飲みたくなるが)なので、勧められてもいただかない。

甘いものをお土産にいただいたら、友達にもらっていただいている。

ぶどう糖加糖液の入った飲料も飲まない。

同じく卓球仲間のKさんに「すごくおいしい」という揚げせんべいを持ってきているので食べないかと勧められたが、謹んでお断りした。炭水化物が揚げてあるお菓子は食べない。

癌が動き出してから、絶対に食べたくないものに無理してつきあうこともない。

・・・

明日はまた絵の撮影。

ちゃんと選んだはずなのに、あとから絵を修正したくなったり、選にもれた作品が重要に思えてきたり、どうしても感覚が微妙に変化するので一発で決定!というふうにはならない。

悩み、迷いながら修正を重ねて、頭が少しずつ冴えて、どうにか考えがまとまっていく感じ。時間がかかるのだ。

プロの撮影現場を見るのは楽しい。やりかたを見せていただいていろんな発見がある。

私が現場で、一番撮りたいところのポイント(ディテール、色味など)を説明して、そこに焦点を合わせて撮っていただいて、思い通りの撮影になっていくのがとても充実感がある。

 

 

 

|

2025年2月13日 (木)

村上昭夫『動物哀歌』、抒情と思想、死(生)、アートと動物

Sdsc01460

初雁 数寄屋侘助椿(水彩) 

2月12日(水)

村上昭夫の詩集『動物哀歌』を読んでいる。

この詩集は1967年に上梓され、第8回土井晩翠賞を受賞し、1968年に第18回H氏賞を受賞。

その年の10月に村上昭夫は亡くなっている。

最初に私に村上昭夫の名前を教えてくれたのは丹羽文夫さんだ。

丹羽文夫さんは私とメールで文通している人で、横浜市立大学でフランス文学を、京都大学で昆虫生態学を学んだ。

横浜市立大学では奥浩平(私の大好きだった『青春の墓標』を残した人)と同級でサークルも一緒(史学研究部)。

京都では高野悦子(『二十歳の原点』)と同時代の青春を過ごし、『日本的自然観の方法』、『メーサイ夜話』、『ミャンマー行脚』の著者でもある。

 

『村上昭夫詩集』詩人論・作品論より

「村上昭夫の詩がわかりやすく思われるのはその透明性によってであり、平易だからではない。」

「詩は喩によって難解になるのではない。思想の曖昧さが詩を難解にするのである。」

「鮮やかな分析の手口によって読者を魅了するが、読み終わって事態が解明されたようにも、認識が進んだようにも思えない評論が多いのはなぜか、それはおそらく歴史的な社会、あるいは今日的な社会に対峙すべき作品、詩人の思想の眼が曇っているからだ。」

「そこには、弱々しいもの、滅びゆくものに対するシンパシィが溢れている。」・・・辻井喬

「嘘の自分への反逆、嘘の世間への反逆、自己脱却のための闘争の情緒、それが私にとっての詩だとつづる村上昭夫」・・・高橋昭八郎

・・・・

   雁の声

雁の声を聞いた

雁の渡ってゆく声は

あの涯のない宇宙の涯の深さと

おんなじだ

 

私は治らない病気を持っているから

それで

雁の声が聞こえるのだ

治らない人の病いは

あの涯のない宇宙の深さと

おんなじだ

 

雁の渡ってゆく姿を

私なら見れると思う

雁のゆきつく先のところを

私なら知れると思う

雁をそこまで行って抱けるのは

私よりほかないのだと思う

 

雁の声を聞いたのだ

雁の一心に渡ってゆくあの声を

私は聞いたのだ

 

   ねずみ

ねずみを苦しめてごらん

そのために世界の半分は苦しむ

 

ねずみに血を吐かしてごらん

そのために世界の半分は血を吐く

 

そのようにして

一切のいきものをいじめてごらん

そのために

世界全体はふたつにさける

 

ふたつにさける世界のために

私はせめて億年のちの人々に向って話そう

ねずみは苦しむものだと

ねずみは血を吐くものなのだと

一匹のねずみが愛されない限り

世界の半分は

愛されないのだと

 

・・・・

辻井喬の詩論によっていろんなことが明確になった気がした。

戦後、現代詩は三好達治の四季派の抒情性を激しく批判してきたわけだが、

三好達治の「村落共同体の拡がり、そういった時空に包まれている自分という存在への甘い容認の姿勢」、「伝統的な感性とそこに忍びこんだように横たわっている保守的、そして浪漫主義的心情」、その大衆性、「社会的制度をも一つの自然とみなして、それに自己を融合させ、偏在へと自己を拡散させる」抒情性と、

村上昭夫の「死を見詰めて生きようとする意志そのもの」は全く異なる。

村上昭夫の詩は「日本的美意識」とかかわるが、それは三好達治の「自然との一体感、四季の移り変わりと無常観の混同」とは異質である。

三好達治の受容の形態は、「体制によって公認され、いわゆる欧米にはないアジア的なものを日本に発見しようと試みた欧米の審美家によって称揚されることによって、逆に日本人のあいだにも固定観念を植え付けた」ところの「日本的なもの」で語られることが多い。

村上昭夫の詩は「現代の詩人としては例外的なほど思想詩人の骨格を持っている」。

村上昭夫の詩を語る時に「ひたすら抒情性に焦点を当てることは、村上昭夫を平板な抒情詩人に引下してしまう」ことである。

そして村上昭夫の詩は、村野四郎の詩のように「生き物との共感」が「理性的で骨っぽい社会批評によってつくられている」のでもない。

「影のような存在としての生命は理性と言う光にさらされることを嫌うのだと主張しているように思える」。

 

「不治の病」で時間が限られてくると、本当に上っ面のものや浅はかで饒舌なおしゃべりが耐えられなくなってくるのだ。

だから寂寥のなかで動物や植物とともにいるしかないのだ。

どんな優れた作品であっても、結局は鑑賞する側に思想性(と言えるほどの思考力)や、「不治の病」で死(つまりは生)を見つめる感覚を想像する力(深み)がなければ、安易な「抒情」でしか語られることはない。

それどころか、彼らは「自分は抒情でなく高度な理論でやっている」とか「自分はそういう古いやりかたでなく最先端を行っている」と傲慢にもマウントしてくるのだ。

私がある種の現代アートや現代詩に拒絶感があるのは、今の社会状況への対峙ではなく流行り(どんな流れも相対化され主流をなさないが、複数の流行り、あるいは流儀があるようだ)にのっかっているようなものに気持ち悪さを感じるからなのだが、

さらに言えば「体制」によって公認されてるような感性、いかにもありがちなコンテキスト、最初にアートがあって、アートのために自分でないもの(特に動物や他者の苦しみ)から収奪しているものには激しい嫌悪感を抱いてしまう。

 

少し前のことだが、一緒に暮らしていたわけではないが私が愛していてずっと見守っていたある動物の子が若くして急死したことを知って、私がショックで号泣してしまったことがある。(ブログにも、その子に何度も会いに行っている時のことを書いていて、あまりにも悲しすぎて辛すぎて今は名前を書けません)

そのことを友人が、ある動物を世話している人を取材してアートをつくっているKという女性に話してしまい、それを聞いたKは私のことを笑ったそうだ。

どういう意味で笑ったのか、ぜひとも本人に(私が生きているうちに)会える機会があったら、直接聞いてみたいものだ。

動物を「ネタ」にしてアートをやっているくせに、動物の死に大きなショックを受けて泣く人間を笑うとはどういうことなのだろう。

つまり最初にアート(を作るのが当然という前提)があり、アートのための取材であって、動物のための行動からではないのだろう。

問いかけをつくるのもアートのため、つまりは人間の社会の「文化的処方」のため。これを「収奪」という。

私は動物が死んだことに泣いている人間を笑う人間が嫌いだ。私の痛みの激しさは私のものだ。

そのことを思い出すと、癌に悪いとわかっていても胸がむかむかしてくる。

 

 

|

2023年5月24日 (水)

谷川俊太郎 絵本百貨展 立川

5月16日(火)晴れ

沢渡朔さんからチケットをいただいた「谷川俊太郎 絵本 百貨展」へ、友人と。

立川はおそろしく変わってしまっていた。GREEN SPRINGSという巨大な建物に驚いた。広い敷地内にある店はどれもおしゃれで高級。

その中のこれまた大きな美術館?で、絵本展というものに抱いていた予想よりずっと大きくてお金がかかっている感じ。

いくつかの絵本が、アニメーションなどで紹介されている。

そのなかで一番感動したのが、やはり谷川俊太郎さんの言葉と沢渡朔さんの写真でできている「なおみ」だ。

この展示は薄暗いところにひっそりと、そんなに大きくない写真と女性の朗読で構成されていて、とてもよかった。

実はこの絵本は、以前に谷川俊太郎先生のお宅に遊びに伺った時に、先生からいただいている。

「なおみ」は6歳の少女とおなじくらいの大きさの日本人形。

少女はなおみといつもふたりきり。海に行ったり、応えてくれないなおみを「きらい」だったり、そしてある日、なおみは病気になり、「なおみは しんだ」。

古い達磨時計。おかっぱの黒髪。物陰。洋館の窓の外。庭の緑。湿った匂い。少女となおみだけ。他に誰もいない世界。

沢渡朔さんの写真は幻想的なようで暗くなまっぽい。

子供の絵本にしてはとても異質な、覗いてはいけない秘密のような、なまめかしい体温。怖さ。妖しさ。

これは時の経過をテーマにした物語。そして恐ろしいほどの名作。

ほかにも戦争をテーマにした谷川さんの言葉とアイディアが生きている絵本、いのちと死、時間をテーマにした谷川俊太郎さんの言葉を、漫然とではなくリアルに感じてしまうとぞっとするような恐怖を感じるものが多かった。

しかし巨大で真新しいツルピカの建物に、私はどうしても居心地の悪さを感じてしまって寛げない。

私は昔の十二社(西新宿)のようにごちゃごちゃした小さな古い家や店がびっしり並んだ細い路地が好きだ。

錆びた看板や崩れた塀に植物が絡まるような風景や草ぼうぼうの空き地が好きだ。

そういうところの隅っこに面白いもの、不思議なものを発見しながら歩くとき、自分が自由である実感がある。

何もかも新しくきれいに作りあげられた空間では息が詰まる。

立川基地のあった頃に来られていればよかったのだけど・・。

それでも少しだけ残っていた古い扉、古い壁、古い看板、そういうものたちに出会えて楽しかった。

錆びた扉の下に青い矢車菊が満開。
Sdsc03394

古くて面白い建物が残っていた線路際。

Sdsc03418
髪の毛はどんどん抜けてだいぶ少なくなった。
Sdsc03443-2

Sdsc03454

|

2022年1月11日 (火)

毛利やすみさんと森久仁子さんのこと

2021年年末のことだが、記録しておこうと思う。

26日くらいに、森久仁子さん(春日井建さんの妹さんで、毛利武彦先生の従兄弟)からお電話があった。私の画集を受け取ったことについて。

森久仁子さんは、以前通り、とても快活で知的な話し方をされていたが、しかしコロナ禍になってしまってから2年、ほとんど外を歩いていない、と言われたことが心配だった。フェイスブックも、久仁子さんのほうから友人申請があったくらい、モバイルで積極的にやっていられたのに、今は機械が変わったらログインできなくなってしまったと。

久仁子さんに「やすみさんはお元気ですか」と尋ねると、「ええ、元気です。前みたいにものすごく元気って感じではないけど。」と。

そのあと、毛利やすみさん(恩師、毛利武彦先生の奥様)に年末、お電話した。以前ならやすみさんが出られたが、今回は、まず番号表示のアナウンスが流れ、そのあと彦丸さん(音楽家)が出られた。

やすみさんのお声は明るかったのでほっとした。私の画集を毛利先生の写真の横に飾ってくれていると。

「森久仁子さんにもお送りしました」と言うと、「ああ、久仁ちゃん!よかった!喜ぶと思うわ。久仁ちゃんは本当に本が大好きだもの。昔はふたりでしょっちゅう、いろんなところへ遊びに行って、歩き回ったの。」と。

春日井建さんのお話も出た。「建ちゃんはパーティーの時はいつも全身黒でびしっと決めててね。そういえばあなたもそうね。いつも黒ね。私が入っていくと、必ずねえさ~ん、て抱きしめてくれたの。」

「まさ子おばさま(春日井建さんのお母様)がお風呂で亡くなった時、毛利が何か抜けられない用事でお葬式に行けなったの。そしたら建ちゃんが、やすみねえさんだけでも来てほしいって言われて、新幹線に乗って行ったのね。そしたら『姉さん、姉さん』て泣いて私に寄り添ってくれて・・・。私が『まさこおばさまはオフィーリアになったのよ』って言ったら、『そうか。そうだね。姉さんありがとう』って。」

阿部弘一先生のことをお聞きしたら、うしお画廊での阿部先生と毛利先生の詩画集刊行パーティー(2019年6月10日)の時のことを鮮烈に覚えてらして、つい最近のことと思っておられるようだった。「阿部先生の息子さんも来られて、すごく元気よ。」と。

http://www.suiseisha.net/blog/?p=15714p

福山知佐子画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』

・・・

1月9日

画集に掲載した絵の購入申し込みをいただく(チューリップ、グドシュニクと、萎れたアネモネモナーク)。

ここ数日、スナウラ・テイラーの『荷を引く獣たち』(洛北出版)を読んでいるが、あいかわらず首と頭の付け根が痛くて、集中して読めない。

カラスウリ、アネモネ(ミスト)などのデッサン、水彩を描く。

|

2021年11月12日 (金)

吉田文憲『ふたりであるもの』装丁

吉田文憲さんの新しい詩集『ふたりであるもの』(思潮社)の装丁をしました(実際の作業はこの夏)。

秋の河原と枯れた草の花束のイメージで、以前描いたこの絵を使って。

Sss5d4_0454-7
(銀箔、膠、岩絵の具、日本画)

カバーの絵は、上の絵の写真をモノクロに分解して、特色1色で、版画のようにしたかった。

Ssdsc01286-2

呼気であり、火であり、残された時であるもの

「契約(アリアンス)」のふたりであるもの

Sdsc01287

「薄く裂けた、薄く裂けて、絶句したままの顔を残し、見えない飛跡を描いている。この世にはいない人の残光。離れながら、遠くから返信することだけがいまは可能だ。」

吉田文憲さんの初期の詩集『花輪線へ』のイメージから、見返しにはどうしても花輪線の写真を使いたくて、昔の花輪線で、季節は枯れ木の頃、正面からのものでなくて細長く車体が写されているものを求めてずいぶん探した。

Sdsc01289-2

西村光さんというかたが撮影していた花輪線が感覚的にぴったり来たので、お願いして使用許可をいただいた。

見返しの紙の色もずいぶん悩んだ。吉岡実の『サフラン摘み』のように、暗いチャコールグレーの中に黒い線を見せるか、藍色の夜の中にするか。

神田の紙屋さん「竹尾」に赴き、(私の画集の表紙と見返しに使う紙も模索して)40枚くらい様々な色と材質の紙を購入し、簡易プリンタで画像を印刷してみて、すごく迷ったけれども、枯れ枝の繊細なシルエットがもっとも際立つ雪の白に近いペールグリーンにした。

後ろ見返し。
Sdsc01320

タイトルのフォントは古くかすれて欠けた感じにしたかったので、フォトショップで白い欠けを描き入れた。「り」や「あ」や「の」の平仮名の最後の筆づかいの部分を丸っこくしたくなかったので終わり部分を削った。

表紙の絵はペンで感覚的に納得がいくまで50枚以上描きなおした。本当は表1から背の下に蔓が伸びて表4に続くはずだったのに、なぜか印刷屋さんのミスで背から表4の絵が落ちてしまった(涙)。

さらにメーカーで廃番になっていたOKフロート(熱で押した部分の色が濃く変化する)の「しゃけ」を無理を言ってせっかく手に入れてもらったのに、押した部分の色が変化しなかった(涙)。

この点については、紙のメーカーの平和紙業さんに電話で問い合わせたところ、製本屋さんの空押しの温度が低かったせいではないかと言われた。

箔押しや空押しをやや高温で押す工場と、温度を上げないでそのまま押す工場があるということ、OKフロートは110~130℃くらいで変化するので、それくらい高い温度にしないといけないということだ。

何度も空押しの「スタンプ」ではなく「ホットスタンプ」で、と編集のIさんに念を押したのだが、スタンプを押す人に温度まで伝わっていなかった。低い温度でも「ホットスタンプ」とよばれていることを初めて知った。

OKフロートのHPに温度も明確に書いてほしいと平和紙業さんに話した。

また、この装丁に関してはデータ制作の技術的なことでデザイナーのSさんにたいへんお世話になった。

すでに発売中です。ぜひ実物を手にとって見ていただけたらと思います。

 

 

 

|

2021年8月24日 (火)

画集にのせる文章、かかりつけ医の反応

8月23日(月)

午前中、吉田文憲さんと電話。書いたばかりの画集巻末の文章を(ファクシミリで)見ていただいた。

時間をあけて、あらためて正午に電話すると「詩人には書けない、最高に詩的な文章。どこも直すべきところはない。」と。

「すごくいいよ。読んでみようか?」「いや、読まなくていい。どういうところがいいと思うの?」と返事をするや、もう嬉しそうに読み始めている。

そして、「説明的ではなく、わからなさの屈折のしかたが抜群。語の選びかたも語順も完璧。これ以上どこも動かしちゃだめ。」と言われた。

文章の後のほうの謝辞の部分に関しても、「思ったように書いていい。失礼ではない。萎縮してつまらないものにならないでいい。どこもおかしいところはない。」と言われてほっとする。

英訳者のNさんと担当編集Tさんにメールで送り、治療院へ。

夜、沢渡朔さんからいただいた写真データをデザイナーMさんへ送る。これでNさんから英訳が送られて来るまで少し休める。

8月19日(木)

ごく具体的な細部にわたる身体的な言葉を得るために、5時過ぎ、川まで細い暗渠を自転車で下る。

眼によるスケッチに眼の奥の幾層もの記憶のスケッチを重ねる。

帰宅した時に一気に書けた。

Sdsc09307_20210824140201
陽の傾いた川の手前の細道。アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシたちの絶唱。

問題は謝辞。目上の人にいただいた文章に対する形容、何を与えてくださったのかを(失礼でないかたちで)言語化するのは思いのほか困難で、とても迷い苦しんだ。

8月18日(水)

画集の巻末に急遽、私の文章と謝辞を入れることになった。

何十年もの絵から選び、何年もかかってやっとできそうな画集に思うことはたくさんあったが、何をどう書いたらいいのか頭がまとまらなくて焦った。

首の凝りと精神的緊張による頭痛を緩和のため星状神経ブロック注射を受けにSクリニックへ。案の定、外に立って待つ人もいるほど混んでいた。

短い文の中に何を書くべきか、どういう文体にするのか考えるために、自分の本『反絵、触れる、けだもののフラボン』を待ち時間に読んでいた。

「来たよ~!」とあわただしく処置室のカーテンを開けて「あら読書中失礼!」と言う明久先生に、「これ、私の本なんですよ。」とボソッと告げるとと、思いのほか大喜びされた。

「ええっ!ちょっと触ってもいい?」と本を手に取って、「すごい!題名からしてすごく難しい!中身も難しすぎてなにを書いてあるかわからない!すごい頭いいね~!ほんとにすごいよ!」

と看護師さんたちのほうに持って行って、「見て見て!これ福山さんの本なんだって!すごいね~!」と大騒ぎ。

「谷川俊太郎とかジャコメッティとか書いてある!」「ジャコメッティって名前、知ってたんだ?」「長っぽそい人のやつでしょ。」

明久先生は若くてテキパキしていて、大きな声で早口に話す人で、私から見ると前向きすぎ、いつも慌ただしすぎ。

最初会った頃は「本(当時作っていたのは『デッサンの基本』)作ってるの?すごいね。応援してます!」と言われても、まったく軽い口先だけとしか思えなかったのだけど、10年以上つきあううちに、いつも率直に本心を口にしている人なのだと信じられるようになった。

私のことを「異常に繊細過ぎる、今までの膨大な患者の中でも会ったことがない異常レヴェル、頭が回りすぎ、余計なことまで気にしすぎ、気にしちゃだめ!」と最初の頃にはっきり言ってくれたのもこの先生だ。

彼は偏狭なところがなく、臨機応変でサバサバしているので、こちらで薬のことなど詳しく調べて相談すれば、たいがいのことには患者の希望に柔軟に対応してくれるのも魅力でつきあいやすい。頭の回転が速いので、こちらが心を開きさえすれば話がどんどん通じる。

 

|

2019年10月 7日 (月)

室井光広さんの訃報 / 吉田文憲ラジオ「土方巽」特集

10月2日(水)

室井光広さんが亡くなったニュースを聞いて驚き、ショックを受ける。

室井さんとはもうずいぶんお目にかかっていないが、個展にも来てくださって、まだ室井さんが千葉県四街道市に住んでおられた頃、吉田文憲さんに連れられて2度ほど伺ったことがある。

初めて伺った時、正月だったので、私は珍しくわりと堅い服装でパンプスだったのだが、着くなり雪の残る丘に連れて行かれ、面食らった。室井さんの奥様と4人で縄文土器拾いをした。

パンプスが泥と雪に埋まり、スカートの脚がつりそうなほど冷えて苦しかったが、室井さんは本当に楽しそうに、宝物のように縄文土器を捜していた。

私が絵に描きそうな泥だらけの樹の根っこを見つけて「これ、持って帰ろう!」と言って、奥様に「そんな汚いのやめて。」と苦笑いされていたのを鮮やかに覚えている。

室井さんはたいへんシャイな感じのかたで、私に面と向かって話しかけてくることはなかなかなく、私はなにか文学に関わるような質問をしなくてはならないと焦りながら、もともとの緘黙気質から言葉が出て来ず・・。変なことを言ったら失礼だし・・とぐるぐる考えあぐね、躊躇するばかりで、結局、なにひとつうまく話せなかった。

私は、室井さん宅にいた真っ黒でツヤツヤした猫、クロちゃんを抱いていた。

いつかまた必ずお会いできて、いろいろなお話を伺えると思っていたのに、なぜまだお若い室井さんが・・?と思うと、どんどん胸が苦しくなってたまらなくなってきた。

室井さんは、吉田文憲さんと、佐藤亨さんと、東北三人衆でたいへん親しくされていた。残されたおふたりの言葉を聞こうと思った。

10月3日(木)

吉田文憲さんが話をしたラジオ「土方巽」特集の再放送が昼12:30くらいからあるというので、PCで聞いていた。

文京区の「金魚坂」という(創業350年の金魚屋さんがやっている)喫茶店(レストラン)で録音したそうで、周りの雑音が入っていた。

舞踏は、ひとりで踊っていても、幻の誰かをよび寄せる、また、よび寄せられるもの。

死者とともに踊るもの。

誕生は一度限りだが、たえず親しい死者とともにいる。

詩は幻の死者をよぶ。死者の声を言葉とする。あるいは死者が立っているところを言葉にするもの。

それは詩だけではなく、表現の行為の根幹に在るもの。

『病める舞姫』第14章より 翻案:十田撓子 朗読:原田真由美、森繁哉

吉田さんが話していた西馬音内の盆踊りについてネットで調べ、とても心惹かれた。

まさに亡者の、未成年女性の彦三頭巾と絞りの浴衣には瞠目するが、成年女性の端縫い(はぬい)と言われる(先祖代々の着物の絹の切れ端を縫い合わせた)着物の美しさにも非常に心を動かされた。

10月4日(金)

佐藤亨さんに久しぶりにメールした。

佐藤亨さんも室井さんの訃報が信じられず、「その日の夕方、動かなくなった室井さんを見てはじめて事の大きさを知りました」と。亡くなったことが受け止められないと。

吉田文憲さんに電話し、室井さんの病気のことを聞いた。

夏頃から具合が悪かったと聞いていたそうだが、やはり現実感がないようだった。

「あまりにも親しいと、いつも変わらずそばにいる感じが強くて、亡くなったと聞いても信じられない」と。

 

|

2019年6月12日 (水)

 「毛利武彦詩画集『冬の旅』出版記念展、阿部弘一先生朗読会

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/japanese-style-paintings-1-膠絵/

6月10日(月)大雨

チョビのことが心配だったが、病院に預けるのが(チョビが恐怖でおかしくなりそうなので)かわいそうで、結局、家にプフと2匹で置いたまま、銀座うしお画廊へ。

地下鉄の駅を出てから横殴りの強い雨で服も靴もびしょ濡れ。こんな天候の日に、無事来られるのだろうか、と阿部弘一先生のことがすごく心配になる。

画廊の入り口前で毛利先生の奥様のやすみさんとお嬢様とお会いする。奥様の体調も心配だったが、とてもお元気そうでよかった。

会場は多くの人で賑わっていた。

阿部弘一先生は雪のように頭が白くなってらしたが、背筋もすらっと伸びてお元気そう。笑顔が見られて感激。ご子息にご紹介くださった。

Sdsc00118

毛利先生のスケッチ。銅版画のように黒くて端的な線と、その分量。本画を想定して思索的に描かれていることに注意して見ていた。

森久仁子さん(春日井建さんの妹で毛利先生の従妹さん)にも、久しぶりにお目にかかることができてありがたかった。陶芸をやっている息子さんと一緒だった。

16時から朗読会が始まる前、阿部先生と、毛利先生の奥様と、朗読する藤代三千代さんのほかは、ほとんど全員が床に座った。その時、「毛利先生の画集だから。」とおっしゃられて、自分も(ステージ用の椅子ではなく)床に座ろうとする阿部先生。

まず最初に阿部弘一先生から、毛利先生と初めて会った時のお話。戦争が終わってから、慶応高校が日吉にできて、そこで出逢ったそうだ。

毛利先生は生前、慶應高校に勤めて何よりも良かったことは阿部先生と出会えたこと、とよく言ってらした、と奥様から伺っている。

藤代三千代さんが何篇か朗読された後に、阿部弘一先生自らが朗読されるのを生でお聴きする、という素晴らしく貴重な経験をさせていただいた。

Sdsc00110

肉声で阿部弘一先生の詩を聴くという初めての体験は、言葉が絵と音として強く胸に響いて来、予想を超えた新鮮な衝撃だった。

阿部先生の詩をもっとたくさんの人に知ってほしいと心から思った。

阿部弘一先生が、ご子息に私を紹介してくださるときに、『反絵』の本にふれて、私のことを「厳しい文章を書く人」と言ってくださったことが信じられないほどありがたかった。

「最近は本屋に行って詩の棚を見ても辛くなりますね。」と嘆いていらした。

「ポンジュって知ってる?僕の友人が訳してるんだけど。」と毛利先生がご自宅の本棚から一冊の詩の本を見せてくださったのは、私が大学を出て少しした頃。

父の借金に苦しめられていて、世の中のすべてが暗く厚い不透明な壁に閉ざされて息ひとつするのもひどく圧迫されて苦しく、ただひとつの光に必死にすがるように、敬愛する恩師の家を訪ねた日のことだ。

それから阿部先生の現代詩人賞授賞式に誘ってくださった時のことも素晴らしい想い出(そこでは息も止まりそうな大野一雄先生の舞踏(その出現)があった)。ずっと私は夢中で阿部先生の著書を読み、私の絵を見ていただいてきた。

私にとって阿部弘一先生は、毛利先生と同じく、昔からずっと畏れを感じる存在、とても緊張する相手で、気安く話ができるかたではない。

阿部先生のような方と出会えたことが信じがたい僥倖だ。

「次の本はもうすぐ出ますか?」と覚えていてくださることもすごいことだ。

阿部先生のご子息は水産関係の研究をしてらっしゃるそうで、私のことを「そうか!この人は一切肉食べないんだよ。だから魚のほうの研究はいいんだ!」と、先生が笑って言われたこと、「植物の名前を本当によく知ってるんだ。今度、庭の樹を見に来てもらわなきゃ。」と言ってくださったことも嬉しかった。

「草や樹がどんどん増えてなんだかわからなくなってる。誰かさんがどっかからとってきて植えるから。」とご子息も笑っていらした。

阿部先生は、前々から、大きくて重たい椿図鑑をくださるとおっしゃっている。とりあえず阿部先生のご自宅のお庭の、68種類もある椿の名札をつけるのに、その図鑑を見ながらやる必要がある。

毛利先生のお嬢様に、原やすお(昔のまんが家で、毛利先生の奥様のお父様)の大ファンだった話をしたら、とても驚いて喜んでくださった。

毛利先生の奥様のご実家に原やすおさんのたくさんの本や切り抜が保存してあって、お嬢様がもらうつもりでいたのに、亡くなった時に全部処分されていてショックを受けたそうだ。

上野にある国立国会図書館国際子ども図書館で、いくつかの作品を見ることができるとのこと。

阿部先生の新刊、詩集『葡萄樹の方法』を出された七月堂の知念さんともお話しできた。

http://www.shichigatsudo.co.jp/info.php?category=publication&id=budoujyunohouhou

記念撮影。阿部先生と毛利やすみさん。

Sdsc00125

 

Sdsc00129

阿部弘一先生の向かって左にはべっているのが私。

Sdsc00136

慶應高校の毛利先生の教え子のかたが持って来てくださったらしい当時の写真。

Sdsc00154
1964年夏の毛利武彦先生。

Dsc00150-2

Sdsc00155
1962年、裏磐梯の毛利武彦先生。

Dsc00147-2

Sdsc00149
当時の阿部弘一先生。

Dsc00149-2

Sdsc00152

Sdsc00183

皆様お元気で、お目にかかれて本当に幸せでした。

 

 

|

2016年5月26日 (木)

阿部弘一先生からの原稿 / 顔の湿疹

5月24日

詩人の阿部弘一先生より荷物が届く。たいへん大切なものだ。

阿部弘一詩集『測量師』、『風景論』などの原稿、それらの詩集の毛利武彦の表紙絵。

私の師である毛利武彦先生からの阿部弘一先生への長年にわたる書簡。

ていねいに分類して年代順にまとめて、それぞれを紙紐で結んであった。

これらは、拝読させていただいてから世田谷文学館に収めたいと思っている。

阿部先生に電話し、大切なお荷物を拝受したことを伝える。奥様の介護がたいへんなご様子だったが、とても久しぶりに阿部先生のお元気な声を聞けてほっとする。

阿部先生のお話によると、1948年に慶應義塾高等学校が発足したときから、毛利武彦先生は美術の教師を勤められ、その2、3年後に阿部先生は事務職として同校に勤められたそうだ。

もともと絵がお好きだった阿部先生は美術科の部屋を訪れ、毛利先生と親しくなられた。そして阿部弘一第一詩集『野火』を出されるときに毛利先生が装丁をしてくれることになったそうだ。

お二人とも学生だった時に戦争を体験され、戦争が終わった20歳代に知り合って、その後、一生親友となる。

阿部弘一の詩がもっと多くの人に読まれるように、願いをこめて書影をのせておきます。装幀、カバー絵はすべて毛利武彦。

阿部弘一第一詩集『野火』(1961年)奥付及び扉は「世代社」となっている。詩集『野火』の中身が刷り上がり、あとはカバーだけという時に、社名が「思潮社」に改称された。

Sdsc08866

詩集『測量師』(1987年思潮社)。

この毛利先生の描いたたんぽぽの穂綿は、私の大好きな絵だ。

たんぽぽの穂綿を描いた絵は数多くあるが、さすがに毛利武彦は冠毛の描き方が非凡だと思う。もっとも不思議で、すべてをものがたる冠毛の形状と位置を選んで描かれている。
Sdsc08867

詩集『風景論』(1996年思潮社)
Sdsc08868

帯があるとわかりにくいが、左向きの馬の絵だ。遠くにも人を乗せて走る馬がいて、手前の馬のたてがみは嵐にたなびく草のようにも見える。

Sdsc08870

この『風景論』で阿部弘一先生は第14回現代詩人賞を受賞された。

この授賞式に毛利先生ご夫妻に誘われて伺った私は、その会場で、間近に踊る大野一雄の「天道地道」を見て、魂を奪われた。

毛利やすみ先生から毛利武彦先生の書いた阿部弘一先生の受賞に寄せるお祝いの言葉の原稿を送っていただいているので、ここにのせておく。私は師毛利武彦の文字を見るたび、師の絵と同じ質の知性と美しさと力強さに圧倒されて胸が苦しくなってしまうのです。

Sdsc08877


Sdsc08879

Sdsc08875

Sdsc08876

阿部弘一先生が翻訳された本にはフランシス・ポンジュ『物の見方』、『表現の炎』などがある。また思潮社の現代詩文庫『阿部弘一詩集』がある。

阿部先生と電話でお話しさせていただいてとても嬉しかったことは、『風景論』からあとの詩をまとめることについて、本にしたい、と確かにおっしゃったことだ。

「もし、まとめられたら。本にして知り合いに配りたいけど、みんな死んじゃったからなあ。ポンジュも亡くなったしね・・・。」とおっしゃられたが、未知の読者のために本をつくってほしい。「嶋岡晨はいるな。あいつは昔から暴れん坊だった。」とも。

阿部先生は、彫刻家毛利武士郎(私の師毛利武彦の兄弟)の図録や、巨大な椿図鑑も、「自分が持っていてもしかたないから、渡したい」と私におっしゃる。

椿図鑑は宮内庁がまとめたもので、宅急便では送れないほど巨大なのだそうだ。私などがいただいてよいのか自信がない。うちはすごく狭いので、貴重な大きな図鑑をきれいに見る大きな机もないし、大切に保管するスペースがないのだ。

私は椿の花が好きだが、椿図鑑に関しては、私より、その本にふさわしい人がどこかにいそうだ。

大切にしていたものを誰かに託したい、という気持ちを、私は私で、最近切実に感じることが多くなっている。

自分が持っているより、それを使って生き生きする人に、それを託したい、と思う気持ち。

私の持ち物(絵画作品や本)は、いったい誰がもらってくれるのだろう、と考えることがよくある。それを考えるとすごく苦しくなる。

・・・・・・・・・・・・・・・・

毎年、春になると苦しめられる顔の皮膚の乾燥と湿疹について。

昨晩、唇にプロペト(白色ワセリン)をべたべたに塗って寝たが、唇が痛いと同時に唇のまわりがかゆくて安眠できなかった。

朝、鏡を見たら口のまわりに真っ赤な痒い湿疹ができていた。

唇は皮が剥けて、縦皺がなくなるくらいパンパンに真っ赤に腫れあがり、唇の中にも爛れたような湿疹ができている。

プロペトとヒルドイドクリームを塗るがおさまらない。どんどんじくじくしてきて、爛れがひどくなってくる。

唇全体が傷のようになってしまい、痛くて口をすぼめたり広げたりすることができない。しゃべるのも食べるのも苦痛。口を動かさなくてもじんじんと痛い状態。

毎年、4月、5月になると皮膚が乾いてチクチク、ピリピリ痛み、特に唇が酷く乾燥して真っ赤に剥けてしまう。常に唇にべったりプロペトを塗っているのだが治らない。

きのうあたりから唇の荒れがますます酷く、歯磨き粉が口のまわりに沁みて涙が出るほど。味噌汁など塩分のあるものも沁みて飲めない。口にする何もかもが刺激物となり、皮膚が炎症を起こして爛れてしまったみたい。

紫外線にかぶれる体質なので5時30分頃を待ち、マスクをして皮膚科に行く。

タリオン(抗ヒスタミンH1拮抗薬)10mg朝夕

ビブラマイシン(抗生物質)100mg夕

ロコイド軟膏0.1パーセント

夕食はハンペンとパンケーキ、豆乳、ヨーグルトですませ、夜9時にタリオンとビブラマイシンを飲んだら、10時半には痛みと痒みが少しおさまってきた。

5月23日

31度。真夏のように暑い日。

このところ、ずっと顔が乾いて、特に唇が痛くてたまらない。

とにかく洗顔で顔をこするのをやめようと思い、2週間くらい日焼け止めも塗らないで夕方5時以降しか外に出ないようにしようと決めていた。

しかし今日は2時から書道の日だったので、紫外線吸収剤フリーの日焼け止めを塗って日傘を差して、1時半頃に出かけた。

その後、唇の痛みが酷くなり、まともに食事ができない。

夜中、寝ているあいだ、やたらに口のまわりがざらざらして痒い。寝ているあいだに顔を掻いてしまう。

|

2015年12月24日 (木)

毛利武彦先生の原稿と阿部弘一先生の書簡 / 西新宿

12月23日

わが師、毛利武彦先生の奥様から、レターパックが送られて来た。

なんだろう、と封を開けてみて、衝撃に打たれた。

詩人の阿部弘一先生から毛利武彦先生に宛てた手紙の束と写真、そして毛利先生の直筆原稿。その原稿は、おそらく阿部先生が現代詩人賞を受賞された時のスピーチのためのもの。

今さらながら、師、毛利武彦の筆跡のものすごさに圧倒される。知的で美しいというような形容をはるかに超えて、師の「絵」そのものだ。

Sdsc07674

Sdsc07677

そして阿部弘一先生が毛利先生に宛てた、二人で詩画集をつくる計画の内容、装丁の相談の手紙。

阿部弘一先生が、フランシス・ポンジュの墓を訪ねた時の、青い海を背にした白いお墓の前での青年の阿部先生の写真。

この原稿、書簡、写真は、阿部先生が持っていらしたフランシス・ポンジュからの書簡などを追いかけるかたちで、世田谷文学館に保管してもらう予定である。

12月18日

長髪で美貌の一級建築士Sが、崩壊しそうな福山家の床下を見に来てくれた。

Sは、70年代の、まだ華奢だったジュリーをさらに女性っぽく、睫毛を長くして、鼻筋は丸ペンで引いた線のようにすうっとまっすぐに細く描いた感じ。

きょうのジュリーは作業着ではない。私服(ダウンジャケットにジーンズ)で汚れる作業をしてだいじょうぶなのか、と心配になる。

畳を上げるためにまず箪笥を移動。その瞬間、箪笥の後ろの罅がはいっていた壁が崩落。ものすごい土埃に「ギャーッ!!」と驚く私。

「土台の板が崩れたわけじゃないからだいじょうぶですよ。車から掃除道具持ってきますから。」と、てきぱきと処理するジュリー。

畳を上げてみて、猛烈に黴の臭気が漂う中、「これはまずい。床がこっちまでくっついてる。」とジュリー。

床板が大きくてはずせなかったため、一部を四角く電動のこぎりで切ることになった。

Sdsc07643

板を打ちつけてある釘も古くて錆びていて、バールで引き抜こうとしても釘の頭がもげてしまう。

たいへんな作業だったが、素手で淡々とこなしていくジュリー。やっと床板の一部分を外すことができ、黴と埃で恐ろしく汚い床の上に、惜しげもなく私服で寝転んで床下を覗くジュリー。

Sdsc07644

こんな汚くてたいへんな作業をしてくれるのか、とありがたく思うと同時に、いったいこの古い家をどのように修理、改築するのがいいのか暗澹とする。

12月7日

昔、西新宿でご近所だったEさんと「砂場」で昼食。

昔の西新宿の話、知り合いの消息を聞く。Eさんの若い頃の話も。

Eさんに会うたび、ご高齢になっても、どうしてこんなに若くて元気で頭がしっかりしているのだろう、と感動する。

八ヶ岳に行って来たお土産だと、甘いお菓子に興味のない私のために、ちびきゅうりの塩麹漬けをくれた(これがめちゃくちゃおいしかった)。

Eさんと話していて、長く忘れていた西新宿(昔の十二社)の商店街の記憶が蘇って来て、何とも言えない気持ちになる。

黒い土の上に部品が置いてあった瓦屋さん、少年まんが週刊誌を読みたくて通った甘味屋さん、水っぽい焼きそばとかき氷を食べたおでんやさん、楳図かずおの「おろち」に夢中になった貸本屋さん、ミセキというお菓子屋さん、ヒロセという魚屋さん、エビハラというパン屋さん・・・。

暗渠の脇にくっついていた平べったい小さな家たち。

西新宿が開発されるとともに商店街も無くなり、小学校、中学校の時の友人は皆、遠くに引っ越してしまった。大通りから少し引っ込んだ坂の上の私の実家だけがボロボロになって残っている。

|