2016年5月26日 (木)

阿部弘一先生からの原稿 / 顔の湿疹

5月24日

詩人の阿部弘一先生より荷物が届く。たいへん大切なものだ。

阿部弘一詩集『測量師』、『風景論』などの原稿、それらの詩集の毛利武彦の表紙絵。

私の師である毛利武彦先生からの阿部弘一先生への長年にわたる書簡。

ていねいに分類して年代順にまとめて、それぞれを紙紐で結んであった。

これらは、拝読させていただいてから世田谷文学館に収めたいと思っている。

阿部先生に電話し、大切なお荷物を拝受したことを伝える。奥様の介護がたいへんなご様子だったが、とても久しぶりに阿部先生のお元気な声を聞けてほっとする。

阿部先生のお話によると、1948年に慶應義塾高等学校が発足したときから、毛利武彦先生は美術の教師を勤められ、その2、3年後に阿部先生は事務職として同校に勤められたそうだ。

もともと絵がお好きだった阿部先生は美術科の部屋を訪れ、毛利先生と親しくなられた。そして阿部弘一第一詩集『野火』を出されるときに毛利先生が装丁をしてくれることになったそうだ。

お二人とも学生だった時に戦争を体験され、戦争が終わった20歳代に知り合って、その後、一生親友となる。

阿部弘一の詩がもっと多くの人に読まれるように、願いをこめて書影をのせておきます。装幀、カバー絵はすべて毛利武彦。

阿部弘一第一詩集『野火』(1961年)奥付及び扉は「世代社」となっている。詩集『野火』の中身が刷り上がり、あとはカバーだけという時に、社名が「思潮社」に改称された。

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詩集『測量師』(1987年思潮社)。

この毛利先生の描いたたんぽぽの穂綿は、私の大好きな絵だ。

たんぽぽの穂綿を描いた絵は数多くあるが、さすがに毛利武彦は冠毛の描き方が非凡だと思う。もっとも不思議で、すべてをものがたる冠毛の形状と位置を選んで描かれている。
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詩集『風景論』(1996年思潮社)
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帯があるとわかりにくいが、左向きの馬の絵だ。遠くにも人を乗せて走る馬がいて、手前の馬のたてがみは嵐にたなびく草のようにも見える。

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この『風景論』で阿部弘一先生は第14回現代詩人賞を受賞された。

この授賞式に毛利先生ご夫妻に誘われて伺った私は、その会場で、間近に踊る大野一雄の「天道地道」を見て、魂を奪われた。

毛利やすみ先生から毛利武彦先生の書いた阿部弘一先生の受賞に寄せるお祝いの言葉の原稿を送っていただいているので、ここにのせておく。私は師毛利武彦の文字を見るたび、師の絵と同じ質の知性と美しさと力強さに圧倒されて胸が苦しくなってしまうのです。

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阿部弘一先生が翻訳された本にはフランシス・ポンジュ『物の見方』、『表現の炎』などがある。また思潮社の現代詩文庫『阿部弘一詩集』がある。

阿部先生と電話でお話しさせていただいてとても嬉しかったことは、『風景論』からあとの詩をまとめることについて、本にしたい、と確かにおっしゃったことだ。

「もし、まとめられたら。本にして知り合いに配りたいけど、みんな死んじゃったからなあ。ポンジュも亡くなったしね・・・。」とおっしゃられたが、未知の読者のために本をつくってほしい。「嶋岡晨はいるな。あいつは昔から暴れん坊だった。」とも。

阿部先生は、彫刻家毛利武士郎(私の師毛利武彦の兄弟)の図録や、巨大な椿図鑑も、「自分が持っていてもしかたないから、渡したい」と私におっしゃる。

椿図鑑は宮内庁がまとめたもので、宅急便では送れないほど巨大なのだそうだ。私などがいただいてよいのか自信がない。うちはすごく狭いので、貴重な大きな図鑑をきれいに見る大きな机もないし、大切に保管するスペースがないのだ。

私は椿の花が好きだが、椿図鑑に関しては、私より、その本にふさわしい人がどこかにいそうだ。

大切にしていたものを誰かに託したい、という気持ちを、私は私で、最近切実に感じることが多くなっている。

自分が持っているより、それを使って生き生きする人に、それを託したい、と思う気持ち。

私の持ち物(絵画作品や本)は、いったい誰がもらってくれるのだろう、と考えることがよくある。それを考えるとすごく苦しくなる。

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毎年、春になると苦しめられる顔の皮膚の乾燥と湿疹について。

昨晩、唇にプロペト(白色ワセリン)をべたべたに塗って寝たが、唇が痛いと同時に唇のまわりがかゆくて安眠できなかった。

朝、鏡を見たら口のまわりに真っ赤な痒い湿疹ができていた。

唇は皮が剥けて、縦皺がなくなるくらいパンパンに真っ赤に腫れあがり、唇の中にも爛れたような湿疹ができている。

プロペトとヒルドイドクリームを塗るがおさまらない。どんどんじくじくしてきて、爛れがひどくなってくる。

唇全体が傷のようになってしまい、痛くて口をすぼめたり広げたりすることができない。しゃべるのも食べるのも苦痛。口を動かさなくてもじんじんと痛い状態。

毎年、4月、5月になると皮膚が乾いてチクチク、ピリピリ痛み、特に唇が酷く乾燥して真っ赤に剥けてしまう。常に唇にべったりプロペトを塗っているのだが治らない。

きのうあたりから唇の荒れがますます酷く、歯磨き粉が口のまわりに沁みて涙が出るほど。味噌汁など塩分のあるものも沁みて飲めない。口にする何もかもが刺激物となり、皮膚が炎症を起こして爛れてしまったみたい。

紫外線にかぶれる体質なので5時30分頃を待ち、マスクをして皮膚科に行く。

タリオン(抗ヒスタミンH1拮抗薬)10mg朝夕

ビブラマイシン(抗生物質)100mg夕

ロコイド軟膏0.1パーセント

夕食はハンペンとパンケーキ、豆乳、ヨーグルトですませ、夜9時にタリオンとビブラマイシンを飲んだら、10時半には痛みと痒みが少しおさまってきた。

5月23日

31度。真夏のように暑い日。

このところ、ずっと顔が乾いて、特に唇が痛くてたまらない。

とにかく洗顔で顔をこするのをやめようと思い、2週間くらい日焼け止めも塗らないで夕方5時以降しか外に出ないようにしようと決めていた。

しかし今日は2時から書道の日だったので、紫外線吸収剤フリーの日焼け止めを塗って日傘を差して、1時半頃に出かけた。

その後、唇の痛みが酷くなり、まともに食事ができない。

夜中、寝ているあいだ、やたらに口のまわりがざらざらして痒い。寝ているあいだに顔を掻いてしまう。

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2015年12月24日 (木)

毛利武彦先生の原稿と阿部弘一先生の書簡 / 西新宿

12月23日

わが師、毛利武彦先生の奥様から、レターパックが送られて来た。

なんだろう、と封を開けてみて、衝撃に打たれた。

詩人の阿部弘一先生から毛利武彦先生に宛てた手紙の束と写真、そして毛利先生の直筆原稿。その原稿は、おそらく阿部先生が現代詩人賞を受賞された時のスピーチのためのもの。

今さらながら、師、毛利武彦の筆跡のものすごさに圧倒される。知的で美しいというような形容をはるかに超えて、師の「絵」そのものだ。

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そして阿部弘一先生が毛利先生に宛てた、二人で詩画集をつくる計画の内容、装丁の相談の手紙。

阿部弘一先生が、フランシス・ポンジュの墓を訪ねた時の、青い海を背にした白いお墓の前での青年の阿部先生の写真。

この原稿、書簡、写真は、阿部先生が持っていらしたフランシス・ポンジュからの書簡などを追いかけるかたちで、世田谷文学館に保管してもらう予定である。

12月18日

長髪で美貌の一級建築士Sが、崩壊しそうな福山家の床下を見に来てくれた。

Sは、70年代の、まだ華奢だったジュリーをさらに女性っぽく、睫毛を長くして、鼻筋は丸ペンで引いた線のようにすうっとまっすぐに細く描いた感じ。

きょうのジュリーは作業着ではない。私服(ダウンジャケットにジーンズ)で汚れる作業をしてだいじょうぶなのか、と心配になる。

畳を上げるためにまず箪笥を移動。その瞬間、箪笥の後ろの罅がはいっていた壁が崩落。ものすごい土埃に「ギャーッ!!」と驚く私。

「土台の板が崩れたわけじゃないからだいじょうぶですよ。車から掃除道具持ってきますから。」と、てきぱきと処理するジュリー。

畳を上げてみて、猛烈に黴の臭気が漂う中、「これはまずい。床がこっちまでくっついてる。」とジュリー。

床板が大きくてはずせなかったため、一部を四角く電動のこぎりで切ることになった。

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板を打ちつけてある釘も古くて錆びていて、バールで引き抜こうとしても釘の頭がもげてしまう。

たいへんな作業だったが、素手で淡々とこなしていくジュリー。やっと床板の一部分を外すことができ、黴と埃で恐ろしく汚い床の上に、惜しげもなく私服で寝転んで床下を覗くジュリー。

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こんな汚くてたいへんな作業をしてくれるのか、とありがたく思うと同時に、いったいこの古い家をどのように修理、改築するのがいいのか暗澹とする。

12月7日

昔、西新宿でご近所だったEさんと「砂場」で昼食。

昔の西新宿の話、知り合いの消息を聞く。Eさんの若い頃の話も。

Eさんに会うたび、ご高齢になっても、どうしてこんなに若くて元気で頭がしっかりしているのだろう、と感動する。

八ヶ岳に行って来たお土産だと、甘いお菓子に興味のない私のために、ちびきゅうりの塩麹漬けをくれた(これがめちゃくちゃおいしかった)。

Eさんと話していて、長く忘れていた西新宿(昔の十二社)の商店街の記憶が蘇って来て、何とも言えない気持ちになる。

黒い土の上に部品が置いてあった瓦屋さん、少年まんが週刊誌を読みたくて通った甘味屋さん、水っぽい焼きそばとかき氷を食べたおでんやさん、楳図かずおの「おろち」に夢中になった貸本屋さん、ミセキというお菓子屋さん、ヒロセという魚屋さん、エビハラというパン屋さん・・・。

暗渠の脇にくっついていた平べったい小さな家たち。

西新宿が開発されるとともに商店街も無くなり、小学校、中学校の時の友人は皆、遠くに引っ越してしまった。大通りから少し引っ込んだ坂の上の私の実家だけがボロボロになって残っている。

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2015年7月 3日 (金)

阿部弘一先生のお宅訪問 毛利武彦先生の画 

6月27日

朝、雨だった。午前中に家を出、阿部弘一先生のお宅へ。

阿部弘一先生は詩人で、ポンジュの『物の味方』(1965)、『表現の炎』(1982)、フランシス・ポンジュ詩選』(1982)なども訳された方だ。詩集は『野火』(1961)、『測量師』(1987)、『風景論』(1995)などがあり、現代詩文庫にもはいっている。

玄関で『あんちりおん3』への寄稿の御礼を申し上げた。

玄関には、阿部弘一先生のご親友であり、私の師である毛利武彦先生の版画がいっぱい飾ってある。阿部先生の詩集の装丁は、最初の詩集『野火』より以前の、同人誌『軌跡』の時から毛利武彦先生が画を描いている。

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上の画像の、壁の上段真ん中の絵が阿部弘一先生『測量師』のカバーの絵。

タンポポの穂綿を決して丸く描かず、種子が離れていく時のもっとも面白い瞬間を描いていることに、徹底して俗を嫌った毛利武彦らしさがある。

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毛利先生は非常に厳しい師であったが、多くの教え子に慕われていた。

阿部弘一先生はというと、今時どこにもいないほど敵意と拒絶の意志を持って文壇・詩壇との関わりを断った詩人であり、人の集まるような場所に出向くことはない。

私の個展はずっと見ていただいているが、こうして、やや強引にだがお宅を訪ねることによって、久しぶりにお目にかかれてたいへん嬉しかった。

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大正9年、阿部先生のお母様が教職についた頃に弾いていたという古い貴重なオルガン。このオルガンや、阿部先生のご両親についての文章、フランシス・ポンジュ訪問記などのエッセイは、同人誌『獏』に書かれ、現代詩文庫『阿部弘一詩集』(1998)に納められている。

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阿部先生が弾くと、抵抗感と温かみのある本当に大きな風の声のような荘厳な音が広がった。
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このオルガンは引き取ってくれる演奏者を探しているということだ。
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阿部弘一先生は椿がたいへんお好きで、椿の樹だけで70本もあるという古い庭を案内してくださった。

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椿の中では、やはり侘助が一番好きだと言われた。いくつかの椿の樹は紅を帯びた艶やかな実をつけていた。足もとには可憐なヒメヒオウギが咲いていた。

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美しい苔にまみれた梅の樹。「あなたは苔が好きなんだよね。」と笑って言われた。

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この日、たいへんなものをお預かりしてしまった。阿部弘一先生の詩集の装丁のために描かれた毛利武彦先生の画だ。

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上の画像は毛筆で書かれたあまりに美しい毛利武彦先生の文字。

下の画像は、使われなかった装丁案の画(黒い背景にヒメジョオンの花が白く描かれている)と、阿部弘一詩集『測量師」の中から、毛利武彦先生が抜き書きしたもの。

そこから 退いていった海

そこで氾濫しかえれなくなった河

砂になった水

そこにまだ到着していなかった 

人間の声          (「幻影」より)

では これが解なのか 

風よ 野を分けて行くものよ

だが 私たちにどうして

死と生と この涼しい風のひと吹き

の意味とを 識別することができる

だろう             (「夏」より)

            一昨年 ひめじおんの風播を試みて失敗してしまったのです

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『測量師』の中に幾度か「ヒメジョオン」ということばがでてくる。

阿部先生の未刊行詩編の中にも「ヒメジョオン」という詩がある。その「ヒメジョオン」という詩から少し抜き書きしてみる。

盲目の私たちのあかるすぎる視野いちめんに

おまえはそよぐ

おまえの無数の白い花でさえひろがりの果てで風にまぎれ

私たちの何も見えぬ視野をいっそう透き通らせて行く

それはかつて誰のまなざしの世界であったのだろう

夏の野に突然おまえを浮かび上がらせはるかな風を誘い出し

その広がりのままおまえから夏のおまえの野から不意に視覚をそむけてしまったのは

一体誰なのだろう そしておまえの野と向きあっている私たちのとは別の

もっと大きいどんな盲目にいまそのひとは耐えているのだろう どんな

内部の暗闇の星につらぬかれて深く視野の叫びを秘めているのだろう

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下の画像は『測量師』の別丁扉。

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下の画像は、その原画。

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下の2枚は、同じ別丁扉に使われなかった画。
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下の画像は、昭和31~32年頃、阿部弘一先生が28~29歳の時に、つくっていた文芸同人誌『軌跡』の表紙。

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下が毛利武彦先生の原画。よく見ると線の方向や人物らしき影の位置が違うので、下の画から、さらにヴァリエを制作して『軌跡』の表紙としたようだ。
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阿部弘一先生にたいへん貴重なものを預かったこと、私の心から尊敬する詩人がそれを私に託してくださったことはありがたいが、重い。

大切なものを保存、保管してくれるところがないこと、それを保管しても、誰が読み継いでいくのかということ。

私も、自分が何かを書いて、たいへんな思いをして本を作っても、誰が読んでくれるのだろうか、と常に考えている。絵を描いても、それを廃棄しなければならないかもしれないことを常に考える。

私の鬱の原因のほとんどが、この問題に起因する。

6月26日

アマゾンが本を2割引きで販売する話、大手出版取次業が倒産した話のニュース。

出版不況の閉塞感、絶望感に鬱々としてくる。

本当に読まれるべきもの、残すべきものが残せないで、一般に売れる本、つまり気晴らし的なものしか売れない世の中は恐ろしい。

6月25日

夕方、阿部弘一先生の家を訪ねたがお留守だった。

和田堀給水塔は、不思議な城のような、強烈に惹きつける古い建造物だ。一番古い部分は大正13年につくられたらしい。この敷地内にはいって自由に撮影できたらどんなにいいだろうと思ったが、残念なことに今は壊されているところで、柵の外からしか撮影できなかった。

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初めて降りたこの駅は不思議な場所だった。駅前に、ほんの少しだが戦後闇市のような小さな長屋のような食べ物屋が連なり、そのほかはこれと言った商店街はない。

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住宅街を歩く途中、ぽつんとある銭湯を見つけた。その壁にオロナミンCの錆びた看板が残っていた。

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下は裏から見たところ。
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小田急線の方へと歩いて行くと、先ほどの闇市とは対照的な、巨樹の影に瀟洒な建物が続く恐ろしいほど豪奢なお屋敷町となる。

木々は100年以上は生きていそうであり、「昔はあそこらへんは風のまた三郎が出て来そうなところでした。」と阿部弘一先生がおっしゃっていた。

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大きな熟れた実をつけた李の樹があったので撮っていたら、著名な批評家Hさんのお宅だった。

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2014年5月 2日 (金)

言葉、詩について /  樹の上の眠り猫(チェシャねこ)

5月2日

言葉について、詩について友人と話したことの備忘録。

友人Aの言葉。

「「解剖台の上での、ミシンと傘との偶発的な出会い」 以後、無意識が解放されて以後と言ってもいい、 詩は、極めて修辞的な態度になった。それは、身体を空っぽにしたいという態度であり、ものを見ることがすでに何ものかになる人間は稀である。言語化できないものに躓きながら、何かを書く人は非常に少ない。」

友人Bの言葉。

「無意識が解放されて抑圧が無くなり、超自我がなくなり、誰もが何をやってもいい、やりたい放題でただ自分を認めろ、と駄々をこねる赤ん坊になった。グループをつくり、お互いに甘えあい、許しあうようになった。」

「ブルトンがいた時はまだ指針があった。皆が大人として扱われていた。今は規範がなくなり、自己正当化のためにおつむを使う人たちがいる。」

「格差社会はますます広がり、普通の生活が脅かされている自分たちにとっては、まったくどうでもいい話。」

5月1日

3月からずっと整理している膨大な昔のネガの一部をデータ化したもの(StrageDisc)ができたのでヨドバシカメラに取りに行く。

三井ビルのオーガニックカフェで食事。ここは、とても静かでいい場所なのだが、夕方なのでほとんどおかずがなくなっていた。

4月30日

高円寺大道芸の日なのだが、強烈な日差しと人混みを避けて、人がやっと通れるようなひっそりした細い裏道を通って、阿佐ヶ谷のほうへ歩いて行った。
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懐かしい明治牛乳のポストを発見。かすれてきれいな空色だ。

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阿佐ヶ谷の商店街に抜ける暗渠に、樹が覆って陰をつくっているところがある。向かって左は胡桃の樹で、その隣が梅の樹。

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問題はこの梅の樹のほうなのだが・・・・。

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阿佐ヶ谷にある(改装されてだいぶ変わったけど、それでもまだ)70年代の素敵な感じたっぷりの「赤いトマト」で、懐かしい(日本に初めてピザが入ってきた時の生地のタイプの)ピザと コーンサラダを食べた後に、この道を引き返すと、

なんと、梅の樹の上に 悠々と眠るチェシャ猫がいたのである。

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ごろにゃぁ、ぐるぐるにゃぁ、と声帯模写で鳴いて呼びかけると、しっかり眼があった。

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けっこう大きな梅の樹で、そうとう高い枝にいるので、まさかとは思うが、どうか寝ぼけて落ちませんように。

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この遊歩道には、これまた懐かしい「かけはぎ」をやっている洋服センターがひっそりとある。

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私の憧れだった素晴らしい桜の古木と蕗の薹が茂る庭がある古い平屋の家が重機で崩されていたので大ショック。

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さらにこの道の先、私が毎年必ずチェックしている忍冬(スイカズラ)の花が咲いている場所、壊れたブロック塀から旺盛に外に触手を伸ばしてくる忍冬の群生が、刈られていたので大ショック。

夏になるにつれて強い忍冬の蔓がめげずに生成していきますように。

4月28日

一か月前から薬をTからMに変更。それで楽になるのを期待していたのに大量出血。頭ががんがんして首を動かせない。眼窩の縁と眼の奥もすごく痛い。とにかく苦しくて何もできない。

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2014年4月28日 (月)

宮沢賢治の世界 / 『ジャッキー・デリダの墓』

4月26日

「宮沢賢治の世界」(レクチャー、朗読、中世の古楽器演奏)を聞きに行く。

「永訣の朝」の真ん中あたりの「・・・・・・ふたきれのみかげせきざいに/みぞれはさびしくたまってゐる/わたくしはそのうへにあぶなくたち/雪と水とのまっしろな二相系をたもち」という部分の「たもち」という語は、何をたもっているのか。何がたもたれようとしているのか。

「永訣の朝」には、そこ以外に「みぞれ」「雪」「あめゆじゆ」という語が何回もでてくるが、ここだけが「雪と水とのまっしろな二相系をたもち」と書かれている。

『春と修羅』にも「ここまでたもちつゞけられたかげとひかりのひとくさりづつそのとほりの心象スケツチです」という一節があり、たもつことが難しいものをたもっているのだ、というレクチャーの言葉が心に残った。

野口田鶴子さんの「無声慟哭三部作」と言われる「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」、さらに「風林」「白い鳥」「手紙4」「イーハトヴの氷霧」「冬と銀河ステーション」の朗読とSally Lunnさんの中世古楽器の演奏。

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2時間超のプログラムが終了したら夕方になっていた。食事する店をさがして広尾の散歩街を抜けて有栖川記念公園のほうへと歩いて行った。外国人で賑わっているちょっとハイソな店が多くてはいれるところがなかった。

牡丹はもう花びらが失われて花芯が小さなキャンドルのように膨らんでいた。石楠花の極彩色が坂の斜面に爛れていた。

崩れた塀の前にに春女苑や蒲公英が乱れ咲く裏路地を抜け、隅へ、隅へと歩を進めて行ったら、地名が「南麻布」になり、「西麻布」になり、「まずいよ。どんどん高級な場所に歩いて来ちゃってる。」と焦って広尾の駅前に戻ると、庶民的な店「寿司三崎丸」を発見。

ちょうど一貫88円セールをやっていた。生グレープフルーツサワー。

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4月25日

PMSがひどく首、肩、背中が痺れるほど固まってしまったので、星状神経ブロック注射を打ちに行く。先週と先々週も打っていて、その時は何事もなく快適に緊張が寛解したのだが、今回は効いてきた実感のあとに喉が締め付けられる感じで呼吸困難になってしまった。

この注射で呼吸困難になったのはこれで4,5回目なので、あまり気にしていない。1時間くらい発語不能になり、涙でぐちゃぐちゃでケホケホ、ハアハアする状態にはなるが、完全に呼吸ができなくなるわけではなく、気道が押さえつけられる感じ。首、肩、背中の痛みは劇的になくなるので、この有効性を考えるとたまにある危険は我慢できる。

1時間寝かせてもらっていて、少しふらつきながらクリニックを出、その足て治療院に行き、首、肩、腰、脚をもんでもらった。私の場合、星状神経ブロックで首や肩がやや弛緩したあとにマッサージしてもらっても、まだ固いしこりがいくつもあり、がちがちだと治療師さんに言われる。

4月24日

鵜飼哲さんから新著『ジャッキー・デリダの墓』が届く。

LE TOMBEAU DE JACKIE DERRIDA by Satoshi Ukai

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少しずつ読ませていただきます。

4月23日

東中野へ。

橋をこえた先の白い八重椿はぼたぼたと落ち、細道の赤い八重のチューリップは外側に反り返り始めた。

古い写真を2L用ミニアルバムに移して数枚持っていく。そのアルバムにもともとはいっていた私の笑顔の写真と、私の絵の写真に反応があった。

「これ、私の描いた絵。」と言うと「いいねえ。」と。

4月22日

本の原稿の手伝いの仕事で新宿へ。Mで食事。3月からずっと整理していたネガの一部をデータ化サービスに出す。私にとってとても大切な人たちの映っている写真を厳選したのでとても重いデータと料金も高いStoregeを選んだ。

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2013年2月20日 (水)

知覚の不可能性の領域 / チューリップ素描 / N女医の母への人権侵害

2月24日

北川透さんからいただいた「別に詩人なんかでなくても、書くものすべてが詩になってしまう人がいます」という言葉がずっとひっかかっている。

書くものすべてが詩になってしまうなら「詩人」ではないのか?

その実態や内実ではなくて、本の表に「詩集」と書いたら詩人なのだろうか?詩集を何冊も出していても全然詩人でない人もいる、というのが私の経験からくる感覚だ。

画家と称していても描いているものが「絵」になっていない人もいるし、現代アートという呼称だけが先走っていて、べつに何も・・・と言う現象もある。才能のある人はすべての言動が違う、すべてにおいて鋭いというのが才能のある人を見て来た私の経験からくる感覚。

中野で見たアール・ブリュットの幾人かの作品はずっと心に残っている。日記を線の重なりとして残していた戸来貴規。誰にも見せず、その人の記録、記憶として。不思議な猫の絵を描いていた蒲生卓也。いつか本物を見られる機会があるだろう。

アール・ブリュットの作家たちのすごさは自己顕示欲や虚栄心がないこと、自分を大きく見せようとする醜悪なそぶりや押し付けがましさ、うるささ、余計なおしゃべりがないことだ。ただそこに集中したということ。それが「生(せい)」とも「なま」とも感じられる直接的なものだ。

詩にしても絵にしても、その成り立ちの条件として、「《知覚の不可能性の領域》に、身体の全感覚が触れてしまう」のはすべての基本ではないかと思う。

ここ10日ほど描き続けていたチューリップの鉛筆と水彩素描のまとめ(クリックすると大きくなります)。

八重咲きピンクのチューリップ(フラッシュポイント)と2月10日に京王で買った薄黄色のパロットチューリップ鉛筆素描(2月12日)。

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上のフラッシュポイントの開いたところ後ろ向きと上の黄色のパロットの開いたところ(2月13日)。

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2月10日に描いたエキゾチックパロットの画面左の花の花弁が落ちてしまったところを右下に逆方向から描いた(2月15日)。

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13日にゼフィールで買ったチューリップ(アプリコットパロット)の水彩(2月14日)。左と中上の花は同じものを違う方向から描いたもので、右下は同じ花の17日の状態。

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ゼフィールで2月13日に買ったアプリコットパロットが開いた。2月17日に新しく買ったアプリコットパロットとの比較(2月17日)。
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2月22日に買ったチューリップ(モンテオレンジ)。鮮やかな緑のすじを描きたかった。

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2月6日につぼみだったチューリップ(フラッシュポイント)の2月23日の状態。枯れてきた線が美しいと思う。

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美しい線の流れをさがして角度を変えて何度も描く。

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2月22日

中野のN病院。G・Kとデルソルで食事。プライベートでは話が通じて、相手の話の感覚の鋭さにわくわくするような相手としか話したくない。

2月19日

雪。積もらない。

2月18日

北川透さんからはがきをいただく。『反絵、触れる、けだもののフラボン』について、

「エッセイというより、全篇が散文詩だったことに驚きました。別に詩人なんかでなくても、書くものすべてが詩になってしまう人がいます。あなたもその種類の人のようです。みずから書いていらっしゃるように〈概念〉に頼って思考されないからでしょう。《知覚の不可能性の領域》に、身体の全感覚が触れてしまう。そんな印象でした。」と書いてくださった。

4時過ぎにN病院に行き、相談員に会いたいと受付で言う。二階の担当の人が不在で、三階の医療ソーシャルワーカーのKさんが話を聞いてくれた。

薬のこと、主治医のこと、勇気を出して話した。話してこれからどうなるのか、よい方向に向かうのか、もっと心労がかかるような事態になるのかわからない。けれど理不尽だと思うことを端的に訴えたのだ。

6時の夕食時、母は常食に近い食事になっていた。きょうの昼食時、ST(嚥下障害などを訓練、指導、助言するリハビリスタッフ)が評価したとのこと。2時間近く見守り、完食。

狸小路の赤ちゃん猫、4匹。もつ焼きやさんの前にケージを持って保護準備している人がいた。本当によかった。寒さで死んでしまったらどうしよう、と気が気ではなかった。

2月17日

14日に買ったチューリップ(アプリコット・パロット)をまた2本買った。N病院のことで胸がつぶれそうに苦しかったが素描に集中した。

2月16日 土

詩人の吉田文憲さんと新宿のRで食事。

私の書いている本や文章について、

「「内面を書いている、内的なことを書いている」というのはまったく間違いだ。」と吉田さんは言った。

「あなたの書いていることは、本当にものをつくる人間同士がつきあうとき、「お互いを生きる」ような関係性であって、そこにはむしろ「外部しかない」と言ったほうがいい。」「

「「内面」を書いている、と言うと「内部」だけでうごめいていて「外」がない人が、自分をわかってくれ、認めてくれと言って寄ってきてしまう。本当は中川幸夫さんがどんなことをしてきたかを見たら、凄い、という畏れを感じて自分は謙虚になるはずなんだけれど・・・。」

「中川幸夫さんが何をしてきたかを見ても、中川さんの厳しさや美しさ、頭の良さはまったく継承されない軽挙妄動の最悪のエピゴーネンもあるんだから、何を見ても何も感じない、何も学べない人間はどうしようもない。」

2月15日 金

N病院で母の主治医N・M医師(女性)との初面談。

あまりにも医師として不適切、人間としてどうかと思う態度にショックを受けた。

母が2階の一般病棟から3階のリハビリ病棟に移った日、顔が真っ赤になって胸が苦しいと言って、心電図や脳CTや血液検査をし、酸素吸入や点滴を受けていたことについて、「データには異常ないんだから、狼少年だ。」とN医師は言った。

パーキンソンは刺激によって状態が変動しやすい病気だが、手を煩わせられていらいらしたというような言い方をされた。「2階にいるときに(具合悪く)なってくれればいいのに。(3階に来られてから具合悪いとか言われて迷惑だ)」と。

「狼少年」というのは人の関心をひくために嘘を言うという意味だが、病気で苦しんでいる人間にどんな神経でそのたとえを使っているのだろうか。母は嘘をつく人間ではない。むしろ、そうとう我慢強いほうだ。

日によって体調のレヴェルが変わり、リハビリが効率よくできないことが気に入らないらしく、リハビリができないなら帰宅してほしい、といようなことを言われた。具合が悪い患者に対して慈悲どころか、面倒くさくて憎悪があるみたいだ。

そればかりか、今まで処方されたことのない副作用の危険な(死亡率があがる)薬を出したと言われ、愕然とした。

しかし昼食後、現場の若いリハビリスタッフにリハビリの現状を尋ねると、その場で「立ちましょうか。」と言って、後ろから補助して歩かせるところを見せてくれた。とても優しい。実際には予想以上にリハビリはうまくいっていることに驚いた。

「歩くことが好きなんですよね。ほかに好きだったことはありますか。」とそのかわいい療法士さんに聞かれ、「散歩が好きで、樹や草花が大好きでした。」と答えた。男性の療法士さんも、「お、きょうは調子いいねえ。」と声をかけてくれ、現場のスタッフはとっても親切。

狸小路の猫、もつ焼き屋さんの窓の外の棚の上にのっかて寄り添っている。毎日少し食べ物をもらっているようだが寒そうですごく心配。帰りに見たら一匹、薄茶の子がもつ焼き屋さんの二階へと登って行っていた。落ちませんように。

中野ブロードウェイで、日本のアール・ブリュットの展示を見た。初期のヤンセンの過密な線の版画のような、鉛筆で縦横に線を巡らせた作品に眼を奪われた。解説を読むと、これは個人の日記で、誰にも見せず、隠されて置いてあっただそうだ。よく見ると線の中に何月何日と書いてある。その上にゆっくり線を重ねていったのだ。

若林奮さんがやったのと偶然にも同じように、日を追ってきちんと紙を重ねて閉じてあったそうだ。すごいと思った。

帰宅後、夕方ケアマネさんに電話できょうのことを報告、相談した。彼女はN医師に対してすごく憤慨していた。N病院は進歩的な病院のはずだし、相談員に話してみたらどうか、と。

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2013年1月22日 (火)

吉岡実 『土方巽頌』

1月21日

ここ数日、吉岡実の『土方巽頌』をゆっくり読み返していた。読み終えて、ちょうどきょう一月21日が土方巽の命日であることに気づいた。

この本を読むと、1967年から1986年の吉岡実の日記から、当時、土方巽と吉岡実の周りに、その時代を代表する綺羅星のような詩人、前衛芸術家、批評家たちがいかに集っていたかが生々しくわかる。

公演や授賞式のあとの延々とした飲み歩き。今の時代ではとても考えられない芸術家の狂騒。

また、世界でも類を見ない「舞踏」というものの草創期の様子が想像できる。最初は舞踏の身体は白塗りではなく、黒塗りだったという興味深い証言もあった。

私がその当時大人だったら、見に行ったろうか、と考える。身体表現としての「舞踏」は非常に興味があるが、初期の土方巽の、鶏を生贄に捧げるような「燔」「犠」の儀式は、私は絶対に受け入れられない。演出のために実際に動物を殺すのは、芸術とは正反対の行為だと思う。だから、そういうことをやるかもしれないと知っていたら、絶対に私は行かないだろう。

いくつか観た土方巽のフィルムと、持っている写真集の中の、筋と骨格だけの緊張感に充ちた肉体とポーズを見るだけで十分すぎるくらい伝わってくる。

1998年の「土方巽とともに 天道地道」の公演を思い出す。大野一雄先生も種村季弘先生もお元気だった。胸が痛くなるような思い出・・・・・・。

種村季弘+吉増剛造+吉田文憲のシンポジウム、種村先生は「とげぬき」の少年の話をされたのを覚えている。少年が無意識に何気ない仕草で足に刺さったとげを抜いているから、その姿は美しい、自分が美しいと見られていると少年が意識したら、その姿は美しくもなんともなくなってしまう、と。その日、種村先生にカンガルーポーの赤い奇妙な花のはいった花束を渡した・・・。

それにしても土方巽の言葉はすごい。言葉が、そのまま土方巽の舞踏そのものを生きていて、それはつまり、日常の生の時間が、そのまま身体言語であり、舞踏である。

大野一雄先生もそうだったが、何かをつくっているわけでも、表現しているわけでもない。存在自体が特異で、言葉は常に詩的な箴言であり、強烈に人を惹きつける。

「外と内とかがフランスあたりの哲学ではやってるらしいけれど、もともと外が内側なんですね。内側は皮で外側が内臓、これを二十年前から私は言っています。内側が包む、外側が包まれる内臓なんだよっていう思考があたりまえの考え方だったんですよ。」(土方巽)

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2012年8月24日 (金)

新しい本

8月23日

夜通し最終校正をやっていて朝8時に就寝。

朝、待っていた帯文が突然、思っていたより早く届いた。寝不足で朦朧とする頭で文章の味わいが判断できなかった。もう一度寝る。

若林奮先生に関する文章の中のご本人の言葉からの引用の元をメモしておかなかったので、たくさんの断片の引用元を記憶で探して照合して、一字一句チェックしていた。原文は漢字のところをひらがなにしていたりする不注意変換ミスがけっこうあって、冷や汗ものだった。

この若林先生の引用の元を探す校正だけで、もう3日もかかっている。それだけいろんなところから胸に残る断片を順不同に切バリして論じている。どこから引用してきたのかどうしても思い出せない重要な若林先生の言葉があり、『対論・彫刻空間――物質と思考』と『I.W――若林奮ノート』を一字一句見落とさないように4回読み直しても出て来なくて苦しんだ。探しものは苦手なのだ。『現代の眼』だったかな~と思い数枚のコピーを読み直すも、半分ちゃびにかじられていて解読不能。困難なことが去らずに、またさらに新しい困難が積み重なっていくような気がする。

この3日は最終校正と本のいろんな部分を詰めて決定していかねばならない緊張と、その他雑務のストレスと、猛暑による自律神経失調があいまって、首が回らなくてひどく頭痛がするほど緊張しているので、星状神経ブロック注射を打って校正をやっている。

机に向かって無言で集中しているので、いつになく強烈にちゃびが邪魔をしてくる。空中飛びキック、今読んでいる本の上にどん、と乗っかる、など。

深夜12時近く、親友が帰省から帰宅して電話が来る。帯文は「いい文章だよ、すごくちゃんと読んでくれてる。リップサービスでなく、面と向き合わないと書けなかった文なんだ。この書物をオビに凝縮するのは、至難の業です、って書いてある通りでしょ。」と言われ、そうなのか、とあらためて感謝。カタカナと漢字の表記の違いの深い意味など聞いて、さすが見識が違うな、と感心。表記の違いにたくさんの意味がこめられているということ。つまりは、過去の文学におけるさまざまな表記の例を背負って、場合によってそれを連想させるように準じたり、または拒絶したりしているということ。

副題と装丁についての意見を聞く。4日前に私が提案した副題に、そのときは、有り得ない、全然良くない、と言っていたのだが、帰省列車の中でずっとその言葉を紙に書いたりして考えていたら、悪くないな、と思えてきたと言う。一般にはなんの本なのかわかりにくいけれど本の内容にはまさに合っている、と言った。窮地に助けてくれる友人だけが本当の友人とあらためて思う。

深夜3時過ぎ、やっと探していた言葉の元が発見された。2002年の豊田市美術館の図録の中の作家インタビューだった。少しほっとして、そのあとアジの南蛮揚げをツマミに麦酒もどきを飲み、また校正を続けて、今、もう朝5時。そろそろ生ゴミを出して眠ろうと思う。

5時きっかりにゴミを出しに行くとツクツクボウシとミンミンゼミが一生懸命鳴いていた。街道のほうに出ると、東の灰水色の空にに薔薇桃色のもこもこした素晴らしい入道雲が出ていた。すごくシュールな、はっとする美しさだった。それを見て嬉しくなってユーロホップというベルギーの105円の麦酒もどきを買って帰った。

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2011年12月 1日 (木)

現代詩花椿賞 季村敏夫 / 介護施設

11月30日

母を初めての施設(西早稲田のF)に送っていくため、朝からバタバタ。実家に行っていろいろ持ち物をチェック表に記入しながら大きな袋2つに詰め、母に温めた牛乳と薬を飲ませ、着替えさせ、母を抱えながら歩きタクシーを拾う。きょうのタクシー運転手さんは優しい感じの人でよかった。いつもタクシーに乗るとき、母の足腰が悪いため乗せたり降りさせたりに時間がかかりたいへんだったり、地元の人でなく道をわからない運転手に曲がるところを逐一説明したり、渋滞でお金がかかったりでとても疲労する。

タクシーは1600円代で着き、まずは良かったが、そのあとの契約説明と看護師からの普段の生活の様子の質問や薬の打ち合わせで時間がかかった。母が少し眠そうにベッドに横になっていたら、診に来た院長のきき方は「いつもこんな感じなの?」とすごくきつかった。薬のこと、普段の転倒や足のこわばり、認識力について、実際試されているのだが、病気の度合いが進んでいると判断されたらはじかれる(施設入所拒否)のだから、悪いことをしているわけではないのに詰問されているように感じる。弱者であればあるほど選別されて落とされることにやりきれない思いになる。とにかくやりとりにすごく疲労する。

実際にそのとき担当してくれた介護の職員さんは若くて優しそうな人であった。現場の人たちは親切で誠実な人が多いとしたら、職員が少ない(だから手がかかりそうな病人は受け入れられない)構造の問題はどうにもならないのだろうか・・・

1時間ちょっとで契約を終え、急いで帰宅。黒のベルベットと暗緑色のコートに着替えて季村敏夫さんの現代詩花椿賞のパーティーに銀座資生堂へ。きょうは緑のガラスのミリアム・ハスケルのブローチをして行った。

季村敏夫さんの「ノミトビヒヨシマルの独言」が受賞されたということで、本当によかった。嬉しいから乾杯のシャンパンもおいしかった。

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祝辞を述べた金時鐘(キム・シジョン)さん。「花椿賞のイメージというのは華やかで、季村敏夫さんの作品はそのイメージに合わなくて親しみがもてます。季村敏夫さんが受賞されて本当によかった。」というようなことを言っておられたけれど、本当にそう思った。

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季村敏夫さんは吉田文憲さんの山本健吉賞受賞のときにちらっとお目にかかって以来だが、すごくかっこいい人だ。文学者然とした虚飾や油ぎったところやギラギラしたところがない、さらっとしていて色気がある人だ。

阪神大震災の頃から特にたいへんなご苦労をされたこと、今も東北にボランティアに行っておられることなど人づてに伺うが、そういう背景を知らなくても、顔の表情を見て直観的に素敵な人だと思う。

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会場風景。著名詩人がいっぱい。

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資生堂パーラーのお料理。ホタテのグラタンみたいなもの(手前右側)がホタテが巨大(7cmくらい)でマルサラ酒(?)がうんと効いていて美味だった。

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資生堂のケーキ。モンブランと胡桃のケーキがおいしかった。

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詩人の財部鳥子さんと。財部さんは吉田文憲さんが尊敬する詩人。すごく上品な方。

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会場の隅っこで季村敏夫さんを間近で話しながら撮った。話し方の雰囲気ですべてが感じられるような魅力のある人。くしゃっと笑った時の顔がすごく素敵なのだがフラッシュを切って撮影したので表情にタイミングが合わなくて残念。握手してくれた彼の手はとても温かく、私の手はいつもながらすごく冷たい。

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帰りに数寄屋橋のほうまで冷たい風の中を歩いた。

帰宅してずっと私をひとり待っていたちゃびと(私が自分で右手を伸ばして撮影)。一日中ひとりぼっちにしてごめんね~。

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10時過ぎにVさんから仕事のTEL。

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2011年11月 6日 (日)

言葉 詩 批評

11月2日

きのう久しぶりにMさんに電話し、即、会うことになった。3時に会って、あまり煙くない穴場の喫茶店に行き、話が盛り上がり、そのあと比較的静かな飲み屋に移動して話し続けた。気がついたら12時を超えていた。

私にとって話が合う、ということは、自分にとってもっとも切実なこと、もっとも重要なことについて、腹を割って話せて、相手もそれに関心を持って聞いてくれるという状態であり、相手が私の話のキモに興味を持たないのであれば親友になれるはずもない。

それは私の場合、必然的に何を書くか、何が「絵」なのか、という話になってしまい、つまりは毎日の生存の感覚と乖離していないことなのである。毎日の体験から疑問に思ったこと、理不尽に思ったことが問題になるのであり、通りがかりに発見したもの、実際に見たものが(記憶であれ、)絵になっていくのである。

私が心底敬愛した数少ない画家や造形作家は、作品と、実際その人に合っているときの感じ(厳しさや豊かで鋭敏な感覚)が乖離していなかった。だから一生ついて行きたいと思った。逆に言えば作品にその人らしさがすべて出ていたので裏切られることはなかった。むしろ出会ってみて、その人の恐ろしい深さに触れて、ますます惹かれていった。共通して言えることは、私が偉大な芸術家だと敬愛した人たちは、いつもまわりが見えていたし、観念でなく、「もの」をよく見ていた。仕草ひとつとっても、芸術家の血が通っていたのである。

私が敬愛した画家や造形作家には「嫌悪」するものがあった。だから、そういう対象にはひどくはっきりと意思表示するときがあった。私はそれを見て、なおさら惚れ惚れした体験があった。

ところが、物書きの場合は、事情が全く違うのである。

どうも言葉というものは、その人の身体を介さなくても、素晴らしい内容のことが書けるらしいのである。たくさんの書物を読んでお勉強好きで、情報処理能力に長けた人には高度な言語技術が身につくらしいのである。

少なくとも私は「詩」について饒舌に声高に語り続ける人には興味を持てず、存在自体が詩的な人に惹かれる。逆に言えば、存在や雰囲気に「詩」がない人、ものが見えていなくてナルシスティックな人にすごいストレスを感じるのである。

そんな話や、最近のいろんな体験から思ったことを話していたら、あっという間に時が過ぎていた。

10月31日

新宿でHさんと会う。

初めて会う人だったので、ものすごく緊張した。この対人恐怖はどうしようもできない自分の資質であり、自分の仕事をベストのかたちでやりたい、そのために出会えるものなら理解者に出会いたい、という希求のあらわれである。

相手がすばらしい引力を持ち、尊敬できる人であれば、がっかりされたくないために緊張し、相手に引力がなく、話が通じず、こちらががっかりすれば疲労し、どちらにせよ初対面の人には緊張する運命にある。

新宿のど真ん中の地下のお洒落なバー。5時過ぎはティータイムで、アイスチョコレートを飲んだ。6時過ぎからバータイムになり、赤いサングリアを飲んだ。

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