映画

2025年3月 2日 (日)

ギャラリー / 新宿

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八重のアネモネを描こうとすると葉っぱを齧ろうとするプフ。

アネモネはプロトアネモニンという毒が危険なので、絶対に食べられないように花は冷蔵庫に入れている。

2月18日(火)

平田星司さんとZOOMで話す。

2月20日(木)

ギャラリー十二社ハイデの伊藤ゲンさん展の設営。

ちゃんと設計図を書いて、きちんとやっておられることに感心した。

レトロなぬいぐるみやおもちゃの絵。すごくこの場所に合っていると感激。さすがです。

・・・

午後から企画ギャラリーのオーナーに会いに行った。

ギャラリーが開くまで少し時間が合った。

ギャラリーの裏手のほうに「アトリエ」というとても古い錆びた看板のある不思議な家があった。美術ではなく音楽系のなにかだった。

大輪緑萼の梅が満開で、鳥の声がした。陽が当たる場所では春の野芥子が咲いていた。

いろいろ指示されることはあると覚悟していたが、一番気になっていたのは、私の病気のことがちゃんと伝わっていないのではないかということだった。

昨年、最初にオーナーの奥様にお会いした時、「声が素敵」と言われ、「声帯を片方切ってるんですよ。甲状腺癌で」というお話をして、現在、分子標的薬を飲んでいることも伝えていたのだが・・。

だから体力的に、ばりばり新作を描くことはもうできないかもしれないと伝えないといけないと思い、心が苦しかった。

オーナーと話ができるまで待っていたのだが、現在の展示を見に来ていたSさんという作家さんが同席して、企画画廊では画廊の言うことを聞かないといけない云々を私に説いてこられて激しいストレスを感じた。

Sさんは自分の過去の展示のハガキを私にくれたが、私の絵を見たこともないし、私がどういう活動をしてきたのかも知らない。

「すみません!お願いですから席を外してください!オーナーと直接話させてください!お願いします!すみません!」と深く頭を下げて退席していただいた。

病気のことを言う時、緊張して泣いてしまった。

オーナーは、奥様から聞いていると言われて、ほっとした。

その上でまだ私はもう少し生きられると思って、企画してくださるならありがたいことだ。

「奥さんは、あの人はいつも明るい人ね、って言ってるよ」と言われ、私はそんなふうに見えるんだ、と意外だった。

2月21日(金)

篠原誠司さんと電話で話す。

篠原さんは最近までアメリカに行って2つの企画展をされていた。アメリカの郊外の大きなお屋敷に泊まって、向こうのコレクターがどんなふうに家に絵を飾っているかを見たという。

画家のいろんな生き方の話。

2月23日(日)

画家の小穴さんと映像作家の光永さんが来られるというので、ギャラリー十二社ハイデへ。

一緒にランチをしていろいろお話した。

光永さんは、私があとがきに文章を書いたデリダ(鵜飼哲訳)の『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』の文庫版を持って来てくれていた。

伊藤ゲンさんの個展は、玄関に昭和懐かしい貝殻の人形や、古い大きな熊のぬいぐるみなどが増えていた。

あいかわらずうちの中は寒いのだけども、とても楽しい雰囲気。

帰りに新宿駅まで歩き、「あの枯れた蔦の絡まってるのはなんですか?」とハルクの前で光永さんに聞かれ、一瞬、戸惑った。

新宿西口の地下広場のタクシー乗り場から地上へと、ループ通路の巨大な吹き抜け。蔦が絡まっているのは、その真ん中のタイル貼りの筒状オブジェだ。

設計は板倉準三で、66年に出来、「地下空間の地上化」というコンセプトを掲げたという。

このクールだったループ状の吹き抜けが、もうすでに破壊されていて、タクシーが通ることができない。新宿西口は見るも無残だ。

まだかろうじて残っている筒状のオブジェは、私が大好きだった新宿駅前の象徴。

私が幼い頃の新宿のイメージはとにかく革新的で、なにもかもがかっこよくて、

テレビや映画や古い漫画で知っている新宿は、ものすごいエネルギーが渦巻いていて、常に新しい状況と、反発する力、爆発する力が・・。

ヒッピーも新宿騒乱もゴーゴー喫茶も、風月堂も、そういう青春には間に合わなかったけれど、映像で何度も見ている。その場にいたはずはないのに、その場にいたように記憶に溶け込んでいる。

ペロ(伊坂芳太郎)や宇野亞喜良、カルメン・マキや浅川マキのイメージも。

映画『女番長 野良猫ロック』は何度も見た。和田アキ子がバイクで西口地下道への階段を下って突っ走るシーンが大好き。当時の歌もかっこいい。

都会で、泥臭くて、サイケで、アングラで、熱くて、廃墟の中から宝物を拾えるような夢があった新宿。

紀伊国屋の中にあったこまごまとしたお店は闇市の名残だと聞いた。懐かしいLENE。西口にいくつもあった古レコード店。7丁目、8丁目の古いアパート群。駄菓子屋。

宮谷一彦や真崎守や上村一夫の漫画でも、歌謡曲でも、新宿は何度も描かれていた。

日本で一番、劇的に変わった町、新宿。

昔の新宿の痺れるようなかっこよさは、身近な友人や、人生の先輩たちとは当たり前に共有されてきたけれど、年下の人たちとはまったく共有されていないんだな、とふと気づいて、言葉が出なかった。

 

 

 

 

 

 

 

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2024年12月31日 (火)

『燃ゆる女の肖像』

『燃ゆる女の肖像』(2018)

これは「見ること」「記憶すること」が愛することと同義であること、まさに画家の身体を描いた作品だと思った。

綿密に計算された色彩、線、質感、古色、陰影、選び抜かれた古城とすべて手作りの衣裳、
冷たい海、薄茶色の草原、靄の中の落ち葉、マリアンヌの代赭(赤茶)色のドレスと響き合うエロイーズの深い緑色のドレス、
BGMのない演出が、静かで生々しく感覚に触れてくる(昔の)生活をリアルに感じさせ、
呪文のように同じ言葉が繰り返されて高揚する原始的な劇中歌が、強烈に心臓に迫った。

セリーヌ・シアマ監督がアデル・エネルの役の幅を広げるために書いた脚本だという。
セリーヌ・シアマとアデル・エネルはこの作品の直前まで一緒に暮らしていたそうだ。

18世紀、フランスの孤島。「女性画家」というものが歴史から抹殺されていた時代の女性画家マリアンヌと、望まぬ結婚を控え、肖像のモデルになったエロイーズ(アデル・エネル)との恋。

マリアンヌの眼であり、セリーヌ・シアマの眼でもあるカメラは、海へと急ぐ濃紺色のマントのアデル・エネルの後ろ姿を追いかける。
マントのフードが落ち、風に乱れる金髪と白いうなじ、柔らかい耳があらわれる。
海ぎりぎりの断崖でアデル・エネルが振り向く。青い眼に息をのむ。
画家は愛するのと同じように見つめ、耳の軟骨の形、色、皮膚の質、指の表情、ひとつひとつを眼で記憶していく。

しかし見られていたエロイーズもまた見つめていたマリアンヌの仕草を、表情を、感情をつぶさに見ていたし、
自分が見ていたものを言葉にして相手に返した。
そこにふたりで作っていくものが生まれる。
伯爵夫人が留守にするあいだの、なんのしがらみも制約もない、たった五日間の恋。

令嬢と召使と画家と、身分も立場もないただの女どうしになって遊び、笑い合い、
オルフェウスとエウリディケの物語について語り合う。
なぜオルフェウスは、エウリディケを永遠に失うと知っていて振り返ったのか。

島の夜祭、女だけが焚火の周りに集まり、誰ともなく地の底から湧き上がるようなハミング、繰り返される呪文のようなハーモニーと手拍子。
ニーチェの言葉から発想を得てつくったというこの劇中歌が、情動の高まりに火をつけるその頂点で、エロイーズのドレスの裾に火がつく。

エロイーズは恐怖するでもなく、静かに微笑した顔で焚火をはさんだマリアンヌを見つめ、マリアンヌも見つめ返し、一瞬、時が止まる。
スカートで力強く火を叩いて消してくれた島の女と一緒にエロイーズは砂の上に崩れる。
ふたりの恋に火がついた時の記憶を、別れてからマリアンヌは絵に封じ込める。しかしそれはとても寂しげな絵だ。

残された時間がない激しい恋。
すべてを心にに焼き付け、記憶しようとするふたり。

「思い出してください」というマリアンヌ。
オルフェウスの本の「28ページ」に裸で横たわるエロイーズの身体を小さく写生し、そこに自分の顔をつなげ、エロイーズに残すマリアンヌ。

結婚のための肖像画が完成し、思いを断ち切るように城を出ていくマリアンヌに「振り返って!」と叫ぶエロイーズ。
私は冥府に戻る、あなたは画家として生きて、と思いを込めた純白のローブに包まれたエロイーズ。

必ずマリアンヌは見つけてくれると信じて、結婚してからも、オルフェウスの物語の本の「28ページ」に指を挟んだ肖像をほかの画家に描かせていたエロイーズ。
父の名でしか出品できない展覧会で、絵のなかのエロイーズと再会するマリアンヌ。
マリアンヌの出品していた絵は、冥府に吸い込まれる白い服のエウリディケと、手を伸ばして慟哭するオルフェウスだった。

演奏会で、離れた席にたったひとりで座るエロイーズを見つけるマリアンヌ。
初めて会った時にマリアンヌがエロイーズに好きな曲を教えようと、拙い指でチェンバロを弾いた思い出の曲、ヴィヴァルディの「春」。

エロイーズはマリアンヌを振り返らない。たったひとりで涙を流し、激しく曲に感応しながら、微笑みもする。
それはセリーヌ・シアマの思いに応えるアデル・エネルそのものだ。
ここでしきたりに従順ですべての感情を押し殺していたエロイーズと、奔放に自分の道を突き進むマリアンヌの情動が逆転する。

アデル・エネルは今年、映画界を引退することを発表。「政治的な理由です。映画産業は、絶対的に保守的で、人種差別的で、家父長制的であるから。内側から変えたいと思っていたけれど、MeToo運動や女性の問題、人種差別に関して、映画界は非常に問題がある。もうその一員になりたくない」と語ったという。

 

 

 

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2024年12月30日 (月)

『アデル、ブルーは熱い色』(2013)、『水のなかのつぼみ』(2007)

12月に見た映画のメモ

女性同士の愛の映画を3本見た。
『アデル、ブルーは熱い色』(2013)
『水のなかのつぼみ』(2007)
『燃ゆる女の肖像』(2018)

『アデル、ブルーは熱い色』(2013)

高校の授業でマリヴォーの1700年代の小説『マリアンヌの生涯』を読む少女。
一目惚れとはどういうことなのか。
街なかで短い髪を青く染めた女性(レア・セドゥ)に眼を奪われる。

レズビアンバーでの再会。
袖無しのGジャン、むきだしの腕。
「おごるよ。これ飲んでみて」と差し出されたグラスに口をつけ「酷い味」と言う少女。

高校に迎えに来た女性に吸い寄せられる少女。
レズビアンに対して口汚く非難する女友達。

公園で薄い日差しを浴びて「気持ちいい・・」と微笑むレア・セドゥ。
陽に透ける白い皮膚、思いっきり気だるい、うっとりとした眼、
柔らかく血色のいい唇を少しゆがめて笑うと、きれいな小さい歯の真ん中が少しだけすいている。

レア・セドゥはそのたたずまいが「超自然体」とも称されるフランスの女優で、
『MI4』などのハリウッド映画の中や、ゴージャスなドレスをまとった写真には私は心動かされなかったのに、
化粧なしでさり気ない服装をした時の彼女の引力は凄まじい。
眼の下の隈、眠たげなふた重で空(くう)を見つめる表情、仏頂面、
ちょっとした仕草の何もかもが詩的で官能的。

この映画は、監督だけでなく二人の主演女優が異例のパルムドールを獲ったほど、彼女たちの演技は真に迫っている。
が、レア・セドゥが「あの監督は頭がおかしい」と、のちに批判した事実があり、男性監督(アブデラティフ・ケシシュ)が女優二人を蹂躙した(7分間の過激なベッドシーンを撮るのに10日間もかけた)ことで話題にもなっていたらしい。

それを知ってからベッドシーンや暴力的な諍いのシーンを見ると、女優が気の毒で気持ちが悪くなる。

美大卒業でエマが描きためていたアデルの絵、という設定の劇中画は凡庸だった。画廊に展示された絵、すべてひどいのに人が集まるのがリアル。

『水のなかのつぼみ』(2007)

女性監督セリーヌ・シアマ、27歳でのデビュー作。
水の反射そのもののように鋭利で繊細でキラキラしている。

セリーヌ・シアマはレズビアンであることを公言しているが、この映画は彼女の少女時代の経験を踏まえながらも、創作物として普遍的であるように、時代設定も限定せず、
見る者が誰も身に覚えがあるような痛みに胸が苦しくなるように作られている。

15歳の少女が17歳の華やかな少女に恋をする。
やせっぽちで少年のような主人公のマリー役のポーリーヌ・アキュアールは、街なかで声をかけて抜擢したという。
マリーの真っすぐな思いが、もう少しで成就しそうで何度も裏切られる残酷さ。

シンクロナイズドスイミングをする年上の美少女フロリアーヌ(アデル・エネル)は常に男性たちから性の対象に見られ、同級生の女の子たちからは嫌われている。
フロリアーヌが男の子とキスするのを見るとマリーはこわばった表情で眼をそむける。

フロリアーヌはマリーに少しずつ心を開き、「本当は誰とも寝ていない」と言う。
「これ、あげる」とフロリアーヌに渡された派手なラメの水着を服の上から着て笑いあった日、
ベッドで並んで仰向けに寝て「ほとんどの人が最期に見るのは天井だね」とぽつりと言うマリー。

フロリアーヌが外のゴミ箱に捨てたゴミを素早く拾って持ち帰るマリー。
机の上にフロリアーヌのゴミを広げ、フロリアーヌの齧った青い林檎の芯を齧ってみる。

音と光の喧騒の中でフロリアーヌに誘われて踊り、フロリアーヌの唇が自分の唇に触れる直前に眼を閉じると、
フロリアーヌは消えて、眼を開けるとほかの男と踊っている。
男の車の中でキスされているフロリアーヌを救い出そうと、車の窓を強く叩くマリー。
夜の中を手をつないで走りながら笑い転げ、「たすけてくれてありがとう」とマリーを抱きしめるフロリアーヌ。

フロリアーヌに「あなたに頼みがあるの。普通じゃないことよ。あなたにしてほしいの、私のバージンを男の人がするように」と言われ、「無理よ。できない」と一度は断ったマリーだが、結局、
白地にブルーの花柄の掛け布団をかけて仰向けに横たわったフロリアーヌに寄り添い、布団の奥に手を入れるマリー。
ただ静かに。
フロリアーヌは天井を見つめたまま、少しだけ痛そうに眉をしかめ、すーっと涙を流す。
マリーの表情は動かないまま。このシーンがとても切なかった。

フロリアーヌはまだ愛を知らないし、マリーがどんなに自分を愛しているかもわからない。
「ね、簡単でしょ?」と言われ、自分の唇のまわりにねっとりとついたフロリアーヌの赤い口紅を指で拭うマリー。
高慢なようで壊れやすく、危うく、ひとりぼっちで踊っているフロリアーヌ。
服を着たまま水の上に浮いて天井を見つめ「私にも好きな人がいたの」とつぶやくマリー。

女性監督セリーヌ・シアマの現場はとてもソフトで、やりやすかったとアデル・エネルはインタビューで話している。
男性監督だったら仕事を受けなかったと。

彼女はのち(2019年)に、12歳で演じたデビュー作『クロエの見る夢』での監督クリストフ・ルッジアから3年に渡りセクハラを受けていたことを告発した。

 

 

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2024年11月11日 (月)

二匹展 6日目(最終日)の記録

11月4日(祝日)の記録

今日最終日、もう本当に体力ギリギリで頭朦朧だったので今朝もレットヴィモ休薬。

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私の西新宿の古い家を改築してくれた村野正徳君。
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いつも変わらずあたたかい斎藤哲夫さん(シンガーソングライター)。
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今日は中塚正人の「風景」を歌ってくださった。
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このシンプルな曲はいろんな人がカバーしているが、哲夫さんの今日のギターと歌唱は一番泣けました。

いずれyoutubeにアップします。

たくさんのお客様。
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昨日来られて「『反絵、触れる、けだもののフラボン』にサインが欲しいんで、明日持って来ていいですか?」と言われた小説家のM・Kさん。ビーチサンダル姿が印象に残った。

私はこの本を小説家のかたにほめていただくのは初めてなので、たいへん感激した。比喩や観念を入れない、見えるものをそのまま描写することに共鳴してくださったとしたら稀有なことだ。


早稲田大学の谷昌親先生。「美容師にそそのかされちゃって」と髪を伸ばしてパーマをかけたヘアで、すごくおしゃれ。
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ポスターハリスカンパニー代表で寺山修司記念館副館長の笹目浩之さん。映画「田園に死す」の中での花輪さんの描いた看板は、寺山修司が撮影の際に火をつけて燃やそうとしたが、スタッフがそれは忍びない、と言って救ったとか。いいお話を聞かせていただいた。
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笹目さんも「とにかくこの絵が最高にいい」とおっしゃっていたペン画。これは30年以上前の花輪さんの個展で一番の大作で、その時に私が譲り受けた宝物なのです。あまりにも繊細で、かわいくて神々しい。
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安部慎一のドキュメンタリー映画を制作中の外川凌さん。

フルーテイスト、篠笛奏者の藤原雪さん。一緒にお写真を撮っていただきたかったのに撮り忘れてしまいました。

とにかくお客様いっぱい。
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昨日、外から大きなガラス窓越しに私の絵を見て、今日見に来てくださったという元モデルのHamさん。Sdsc01008_20241110130901

詩人の中本道代さん。
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シモーヌ・ヴェイユを主軸に芸術、詩学を探求されている今村純子さん。
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5時になった瞬間、テーブルに突っ伏してしまった。肩首背の筋肉が緊張しすぎて強い吐き気がして。

レットヴィモを飲みながら、サンダルで立ちっぱなしで血行不良の姿勢で連日はきつかった(寒気がするので腰と背中に使い捨てカイロを貼っていた)。

そして花輪さんファンのかたたちの熱い思いに触れ、対応する喜びと緊張感、半端なかったです。

ご来場いただいた皆様、熱心に見てくださった皆様、本や絵葉書など購入いただいた皆様、本当にありがとうございました。

新たな出会いも僥倖でした。

 

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2024年8月21日 (水)

伊藤ゲンさんの個展

8月14日(水)
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高円寺駅近くの伊藤ゲンさんの個展へ。

伊藤ゲンさんは日常の身の回りの小さなものたちを内側から光り輝くように描く画家だ。

M・Mさんも一応お誘いしたら来てくれるそうで、ギャラリーで待ち合わせ。私は自転車で行く。

ゲンさんは私の顔を見たら「ああ!」と笑顔で出迎えてくれた。

前回のゲンさんの個展の時、ちょうど抗がん剤の副作用が酷くて出かけられなかったことを詫び、お土産を渡す。

一昨日、生家で見つけた私の幼稚園の頃に使っていた鈴とカスタネットと、うちにあった古いキューピー人形。

「モチーフに使ってください」と言ったら「うわ、よくまだ残ってましたね。描きますよ!」と喜んでくれた。

「最近やっと『実録連合赤軍』(若松孝二監督)を見ることができました。とてもよかった。思ってたよりすごくいい映画だった。ゲンさんも山のシーンで出てたでしょ。すぐにわかった」と言うと

「ちょこっとね。あれは僕が関わった若松さんの映画の中でも一番の映画です」と。

ゲンさんは山岳キャンプの別荘を作ったそうで「実際は仙台で撮影したんですよ。本物の建物を設計図通りに再現して」と。

「台詞もすごくリアルで、ほとんど本当の台詞なんでしょ?」

「全部ほとんど実際の人の証言記録から再現した台詞です」

「最後のあさま山荘でのあの若い子の台詞だけは・・・」

「あれだけはフィクションです」

「やっぱりね。そうだと思った」

それから唐十郎さんが亡くなってとても残念でした、と言う話など。

ゲンさんは元唐組の役者さんで、唐十郎さんをとても大切に思ってらっしゃる。

最後に「今、私の生まれた西新宿の築78年の家を彼が修繕してくれているんです。」

「西新宿?すごいですね。どの辺ですか?」

「ただの住宅街なんですけど。新宿中央公園の北西の端っこのあたりで、西新宿5丁目駅から4分くらいです。昔、十二社という花街だったところです。

それで、まだできるかわからないんですけど、1階の一部屋をギャラリーにできたら・・ゲンさんそこで個展やってくれませんか?」

と尋ねると

「やりますよ!福山さんの家がギャラリーになるならやりますよ!オープニングでやらせてください!お客1000人呼んでやりますよ!」

と言われて感激。

「(ゲンさんにお伺いを立ててみるというアイディアが)思ってたよりうまくいったね。あなたにはたいへんだろうけど・・」とM・Mさんに笑う。

しかし想像してくれているより辺鄙な場所で、ゲンさんにがっかりされるかもしれないし。本当に人が呼べるようなものにできるのかまだわからないし・・。

ギャラリーにできるのかどうかはまだ夢物語だが、ときめきによって免疫を上げるために、自分の理想のかたちのいろいろを想像してみる。

できれば廃屋のレトロな感じを生かして、私の大好きな古色、錆、ペンキのひび割れと剥落などが響き合う空間にできたら嬉しいのだけど。

M・Mさんはもうひとつのほうの仕事ですごくお疲れの様子。

M・Mさんには果物ゼリーとうちにあった缶詰などを渡した。

 

 

 

 

 

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2024年7月27日 (土)

鈴木清順監督大正浪漫三部作 その他の映画メモ

無料での映画見放題が終了する7月17日までに見た映画のメモ

『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(若松孝二 2008年)
想像していたよりもずっといい映画だった。
カメラは昔、私のドキュメンタリー映画を撮影された辻智彦さん。
美術は画家の(数年前、高円寺のギャラリーで知り合いになった)伊藤ゲンさん。

冒頭は1960年くらいからの学生運動のあらましを実際の記録映像と原田芳雄の淡々とした語り(この声がいい)で綴る。この部分を見られただけでもよかった。
連合赤軍の山岳ベースでのリンチ殺人は本当に怖いのだけど、理屈や信条を声高に叫ぶ閉鎖されたグループの支配構造の内では、こういう異常な状況にあっという間になだれ込んでしまうのだということは想像できる。
永田洋子役の女優(並木愛枝)がうまくてすごく怖かった。

鈴木清順監督の大正浪漫三部作、『夢二』(1991年)、『陽炎座』(1981年)、『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)を新しい順から見直した。

いずれの作品でも、主人公が妖艶な女性に翻弄されると同時にそこに絡んでくる荒々しい男性に脅かされ、夢か現実か過去か現在かもわからない陰影の濃い迷路を彷徨う。
『陽炎座』と『ツィゴイネルワイゼン』は昔に何度か観ているが、やはりほれぼれする清順美学。
はっとさせる、あるいはぎょっとさせるタイミング、あでやかな色彩と線と陰影の妙、聞き取れないけれど脳裏に残る呟き・・すべてが研ぎ澄まされていて、最高にかっこいい。

『夢二』は前二作に比べると、芸術的には少し緩く感じる。

主人公がビアズレーやシーレを意識したり、新しい流行に自分の画家としての地位が脅かされる不安にさいなまれるところ、リリアン・ギッシュ、アラ・ナジモヴァ、ポーラ・ネグリ、グロリア・スワンソン、パール・ホワイト(順番は忘れた)などサイレント映画時代の女優たちの名前を沢田研二がぶつぶつ呟くところが好き。

映画の終わりのタイトルバックに淡谷のり子の歌う「宵待ち草」が流れ、全身がぞくぞくする。「宵待ち草」はいろんな人が歌っているが、私は淡谷のり子の歌唱が好き。

原田芳雄の野生味が強烈に映えるのが「ツィゴイネルワイゼン」で、「夢二」での原田芳雄は金満家の役柄のせいかあまり魅力的に感じられなかった。
原田芳雄は最近見返した寺山修司の『田園に死す』や『さらば箱舟』でも強烈な印象を放っていた。

『ツィゴイネルワイゼン』の3人の盲目の旅芸人のうち最も異様で不気味な演技をする「先達」は、今更ながら麿赤兒だと気づいた。

その他の映画について。
『天国と地獄』(黒澤明 1963年)・・・山崎努の若い頃の魅力。横浜の黄金町のスラム街のシーンがすごかった。
『砂の器』(野村芳太郎 1974ネン)・・・厳寒の竜飛崎のシーンが心に残った。

 

 

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2024年7月12日 (金)

古い映画、寺山修司

 

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うちの冷蔵庫の中の花。

7月

バレーボール・ネーションズリーグが終わってしまい、せっかく見放題なのでいくつか映画を観ることにした。

前から観たかったミケランジェロ・アントニオーニの「情事」、「太陽はひとりぼっち」

とにかくモニカ・ヴィッティが魅力的。

「情事」・・・相手の男にクールなモニカ・ヴィッティが惹かれてしまうことが理解できなかった。

古い教会の屋上で鐘を鳴らすと遠くでも鐘の音を返してきて、「鐘が返事してくれてるわ」とモニカが笑うシーンが、仮初めの恋の不安定さを表しているようで、同時に彼女は本当に恋に落ちているのか、落ちていると思い込んでいるだけなのか最後までわからなかった。

「太陽はひとりぼっち」・・・ミラノの人気のない工事現場の風景にかつて行ったベルリンの風景が重なった(時代も場所もずいぶん離れているのだけど、私が行った当時、ベルリンはそこらじゅうで工事をしていた)。わけのわかないラストも好き。

トリフォー「突然炎のごとく」・・・風景は美しい。この映画のジャンヌ・モローは男たちを翻弄する役柄なのにあまり魅力的に見えなかった。

アントニオーニの「夜」の時のほうが素敵。「夜」ではジャンヌ・モローとモニカ・ヴィッティの両方とも好きだ。

イングマル・ベルイマン「のいちご」・・・シュールで美しい映像。昔の追想の中の婚約者と現代の奔放な女性の二役を演じるビビ・アンデショーンがよかった。ラストは悲劇でなくてほっとした。

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それから寺山修司原作の「あゝ、荒野」を観てみた。

寺山修司監督の映画は大好きなのだが、この「あゝ、荒野」(岸善幸監督)はまったく寺山修司の匂いがしなかった。

映画のテーマは「宿命に抗う」ということのようだが、「宿命」という言葉の上澄みだけが寺山から踏襲されていても、まったくアングラ感、詩的幻想性はない。

私が生まれ育った西新宿や新大久保界隈はたくさん出てくる(墓地のシーンは私の生家の地主のお寺が撮影に使われていた)のだが、何かが違う。

突然、「暗黒舞踏」のような舞踊のシーンがいかにもとってつけたようで、全然暗黒ではなかった。

役者ヤン・イクチュンはよかった。

 

寺山の古い映画も何本かあったので、遥か昔に見た映画をもう一度観る。

「さらば箱舟」・・・冒頭、ひび割れた泥の上をよろけながら荷車を引いて行く老人と、それを押している子供。

水辺を俯瞰でとらえているその切り取り方、斜めにカーブする川とさらにもう一本の水墨で滲ませたような水たまり、左下に風にたなびく青い布が縛り付けた朽ちた木。

完璧な抽象画になっていて、しかも顫えている。この最初のシーンだけで胸をつかまれる。これぞ寺山。

砂浜に穴を掘り村中の古い柱時計を埋めて、これでもう村に時計はたった一つだけ、たった一つの時計が村のすべての時間を支配する。

そして犬像の魔除けが乗っている屋根、南国の湿り気、聞き取りづらい言葉をしゃべる人々。

合田佐和子の蹄の脚の少女の絵の強烈さ。

呪術、迷信、差別、嫉妬、欲望、なにもかもが濃くてどろどろして、闇や森の中や水辺には妖しいものが満ちている。

生と死も不分明で、殺したはずの原田芳雄はすぐ近くにいて話しかけてくるし、底知れない穴に入って手紙を運ぶあの世とこの世の郵便配達夫もいる。

底知れない黒い穴は、象徴主義の絵に出てくるような素晴らしく不気味で美しい樹の手前に口をあけている。

寺山はこの樹がどれほど絵的に素晴らしいか、ちゃんとわかってこの樹を選んでいる。

高橋ひとみがかじっていた黄色い花はフリージアだと今回気づいた。この物語では黄色い花びらが魔術的役割を果たす。

耐えられなくて飛ばしたのは高橋洋子の横に豚の頭が並んでいたシーン。豚を日常的に食べているので普通のシーンなのだろうけど、私には絶対無理。

沖縄でニコニコ笑いながら豚の生の頭を持って写真に撮られていた有名な女性小説家を思い出した。

彼女たちには豚の生首は面白おかしい漫画のキャラのようにしか見えないのだろう。

 

「田園に死す」・・・やはり冒頭のシーンからかっこよすぎて、この恐山シーンでもう興奮。

何度も観ているが寺山の最高傑作だと思う。私が寺山修司で一番好きなのが「田園に死す」「草迷宮」「迷宮譚」の3本。

母親から、古い風土から逃げたくてどこまでも逃げられない少年。

少年が八千草薫と線路の上を逃避行する直後、いきなりカタカタカタと乾いたフィルムが回り、映画の前半が終わる。

暗闇の中で並んで語る「わたし」(菅貫太郎)と批評家(木村功)。

「自分の子供時代を売りに出してしまった。書くと書いた分だけ失うことになる。書くつもりで対象化した途端、自分も風景も厚化粧した見世物になってしまう」

「しかしそうすることによって自分の子供時代や風土から自由になるってこともある。過ぎ去ったことは虚構だと思えばいいんだ」

「しかしそれを書かずにしまっておけば自分の核になったかもしれない。先生は原体験が現在を支えているとお考えになることはありませんか?」

「ないね。むしろそれは首輪みたいなもんだよ。人間は記憶から解放されない限り、本当に自由になることはできないんだ。ボルヘスも言ってるじゃないか。5日前に失くした銀貨と今日見つけたその銀貨とは同じじゃないって。ましてやその銀貨が一昨日も昨日も存在し続けたと考えることなんてどうしてできるんだい?」

それから「わたし」は「少年時代のわたし」と出会う。

まるで忘れていたどうしようもない生家と向き合うことになった今の私、どう片付けていいかわからない過去と向き合うことになった今の私のようで、不思議な気がした。

花輪和一デザインのかわいい子供の「火種売り」は3度出て来た。

花輪和一の描いた「犬神サーカス」の看板たちがそれはそれは素晴らしかった。

ラスト、「わたし」は「少年時代のわたし」に、母親を殺すために草刈鎌と縄を持ってこい、と命令するが

「少年時代のわたし」は新高恵子に犯されてからどこかへ逃げてしまい、私の大好きだった昔の新宿駅前(今の東口ビジョン前)で畳に座ったままの「わたし」と母親が残される。

 

 

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2021年11月29日 (月)

太田快作先生のトーク「犬部!」川越スカラ座

11月28日(日)

うちの亡きちゃびと、現在のちゅび、チョッピー、プフの主治医である太田快作先生をモデルにした映画「犬部!」を見に、川越スカラ座へ。

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27日(土)に、気が付いたら関東ではもう川越スカラ座しか「犬部!」を上映しているところがないこと、快作先生のトークが28日にあること、しかしその予約はもう締め切られていたことを知った。

それで今日、当日券を朝から並んで手に入れることになった。川越は思ったより(朝霞よりさらに)遠く、スカラ座は駅からけっこう離れていた。

15年以上前に来たきりの川越は、「小江戸」をテーマにずいぶん観光地化されていた。

今の「大正ロマン夢通り」、昔はひなびた商店街だったと思う。みこもり煎餅「発狂くん」というすごいディープな看板(たしか赤鬼の絵)のお店がが無くなっているのがとても残念。

(ブルテリア)の顔の彫刻が一体となってるベンチが表にあるしゃれた店ももう無い(フィルムで撮ったその写真がどこかにあるので探さなければと思う)。

スカラ座の「犬部!」の会場は4時なので、3時半すぎまで川越を歩き回る。雲一つない青空。北風が冷たい。蔵造りの通りはすごい人。着物を着て歩いている人も多い。

菓子屋横丁を抜け、人気のない裏道で崩れた土壁を見つけた。
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3時すぎににスカラ座の前に戻る。
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スカラ座の側面の壁の錆び。隣の太陽軒との狭い隙間。
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「犬部!」の映画の感想。

太田快作先生は、当時の北里大学獣医学部でただひとりだけ、生きている犬を手術実習に使って殺すことを拒否した学生なので、たいへんな苦労をしたはずだ。対立する教授や、大学に逆らえない「犬部」のメンバーとの軋轢が描かれているかと思ったら、そこらへんはあっさりしていた。特に岩松了演じる教授が良い人でびっくり。

多頭崩壊の現場も、共食いの動物の死体などは描かれず、そこらへんは現実よりもかなりソフトに描かれていたように感じた。

実際に快作先生のまわりには動物愛護センターに行った人はいないそうだが、映画では中川大志が、センターに就職して殺処分に苦しむ役どころを熱演していた。

太田快作先生のトーク。前に調布市での講演に行った時に経験しているが、PCをプロジェクタにつないで、たいへん簡潔にわかりやすく問題点をまとめてお話しされた。

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〇捨て犬は、昔も今も、地方には普通にいる。ほとんどは愛護センターに収容され、一定期間(映画ではたった7日)ののち、殺処分

〇日本の殺処分は、犬猫合わせて年間訳4万匹 毎日100匹。(2016年に調布で講演を聞いた時には8万匹と言っていたと思う。確実に減ってきている。)

〇迷子で処分されるのが、一番やりきれない犠牲。田舎の人は飼い犬がいなくなってもすぐに探さないで、処分されてしまうことが多い。

〇対策はマイクロチップと啓蒙

〇愛護センターは飼い主が持ち込んだりした動物を一定期間収容し、殺処分する施設

〇飼い主を批判しても意味はない。だめな飼い主は一定数いる。そのためにどうするか。行政と民間の連携、臨床獣医師やボランティアとの協力が必要

〇目標は殺処分ゼロ!

〇獣医学教育において動物を犠牲にする実習が存在する。そのほとんどが不必要、あるいは命に見合う価値はない

〇欧米では学生の選択で動物を犠牲にすることなく卒業が可能

〇大学も教員も責任はあるが、悪いのは学生。目の前の命にちゃんと向き合ってほしい。それこそが獣医師。

実習を拒否して目立つのが嫌だとか面倒くさいと言う理由で、動物の命を犠牲にする人は獣医師には向いていない。

〇多頭飼育崩壊の現場はまさに地獄絵図。批判すべきは飼い主ではない。地域、行政の責任も大きい。見て見ぬふりをしてボランティアを待つ現状、甘え。

〇悪徳ブリーダー問題は、消費者に大きな責任がある。消費者の意識を上げることが唯一にして最大の解決策。安く買えるからと安直に買わないで、自分の飼う子はどういう生まれ方をして、その親はどんな生活をしているかを知ろうとするべき。

◎目指すべきもの 殺処分ゼロ!!!!!!

◎犬や猫は家族 誰かの家族が、殺されていいはずはない!
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◎日本の人口1億2千万人 1年間の殺処分4万 3000人で1匹助ければいい

◎新しく犬や猫を飼う人は年間100~200万人くらい 新しく飼う人のうち30~40人にひとりが、愛護センターからの保護犬保護猫を飼えばいい。これだけで今日から殺処分ゼロ。

◎日本に動物病院が1万軒、さらに増加傾向。動物病院一軒につき年間4匹助ければいい。犬舎もあり、スタッフもいる、治療も実費でできる。これでも今日からゼロ。

快作先生は福島や千葉に野良猫の不妊手術に行っている。なぜその地域の獣医師がやってくれないのか。先生は休みの日に東京から朝早く高速に乗って行って手術しているそうだ。1匹5000円でやっても、実費は1000円くらいだから儲けはあるのにやってくれない、と。

◎なぜできない?自分の力が足りないと思わず、目の前の一匹が、最後の殺処分の1匹だと持って!自分自身が日本の殺処分ゼロを実現するヒーローという意識で!

講演後の質疑応答。

野良猫の避妊手術代が高すぎて、5000円の補助金でもやっていけない、という質問に対し、

議員さんに言って行政に働きかけてもらうこと、絶対に黙らせられない厄介な人と思われるまでしつこく要望すること。

トークイベントが終わり、外に出ると真っ暗。しーんと静まり返った蔵造りの街。

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雲のない暗い藍色の夜空には星も見えていた。
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2020年6月 3日 (水)

ジョージ秋山さん / F

6月1日(月)

ジョージ秋山さんが5月12日に亡くなっていたというニュース。

とても淋しい。

もうずいぶん前になるが事務所でお話しした。床にずらーっと同じ銘柄の空の酒瓶が並んでいた。40~50本もあるように見えた。

若い編集さんに「ウイスキーですか?」と聞くと、「ジンです」と答えたような気がする。

子供の頃に読んだ『現約聖書』がすごく強烈だったことをお伝えした。

金持ちの若旦那が、好いた娘が見ている前でみすぼらしい乞食に恵んでやる。娘は「なんて心の優しいかた・・」と若旦那との結婚を決意する。乞食は若旦那に感謝して涙を流す。しばらくして若旦那が病に倒れたと噂に聞いた乞食は高い山に薬草を採りに行き、何度も崖から落ち、瀕死の状態でやっと手にした薬草を届けに行き、お屋敷の前で息絶える。若旦那は「汚い乞食が死んでいる。さっさと片付けなさい。」と召使に告げる。

これほど残酷な話を小学生が読むまんが雑誌に書くとは・・・ショックだった。大人になって思い出せば、どこにでもある、しかしだれも直視しない当たり前の〈リアル〉でしかないのだろうが。

あの日、私に「絵を描くなんて、暗闇を手探りで歩くようなもんで、ものすごく苦しいだろうな。」といきなりおっしゃったジョージさんが忘れられない。

そのあとだったか、ジョージさんの奥様が癌で亡くなられて抜け殻のようになってる、と(「少女コミック」編集長だった)山本順也さんからうかがった記憶がある。

そして私のところにジョージさんから宅急便が届き、開けてみると奥様のために買った鮫の軟骨の健康食品が入っていた。ありがたくいただいた。

映画『美しき諍い女』のVTRを送ってくださったこともあった。画家のモデル(マリアンヌ)役のエマニュエル・ベアールの巨大に張ったおしりが、ジョージさんの描く女のようだと思った。

・・・

深夜12時すぎにFさんから電話。Fさんの次の本の装丁を私に頼みたいという。それと私の絵を50万円から100万円で買いたいと。

Fがなにか夢見ているようでおかしい。昔の記憶ばかりが鮮明で、今現在の現実感覚や問題意識が希薄。明らかに感覚も鈍麻していて以前の明晰さがない。

ここ何年も、Fが私との約束を反故にし、こちらがどんなに連絡しても無視して電話にも出ないで、しばらくすると少しも悪びれずに電話してくる神経が理解しがたく、私の強いストレスになっていた。

私の展覧会に来なかったことについて謝りもせず、あるいは弁解もせず、今になって平気で私の絵を買いたいと言う。私のことを生涯で最高に才能を感じる人だと言う。

耐えられなくなって、あれだけ待っていたのに展覧会にどうして来てくれなかったの?展覧会で新作を見てもらうことほど嬉しいことはない、それを無視しておいて今更なんなの、と責めてしまったが、F本人は記憶にないという。

私が本を作る時にも、自分から手伝うと言いだしておいて急に一切の連絡を絶ったり・・、今まで不気味すぎてはっきり聞けなかったけれど、なぜそんな不誠実なことをするのか、と問い詰めると、自分でもわからない、思い出せない、自分の行動が不可解だ、と言う。

恐ろしいことにFは、ここ数年の私に対する自分の言動を記憶していなかった。今日、私に強く問い詰められなければ、Fさんのために私が酷く傷ついていることを、F自身が知ることもなかった。F自身は昔から何も変わらず、私と信頼関係があると信じ込んでいた。

私は、Fの私に対する態度が酷く変わってしまったのは、もう私の才能を認めていないから、私に関心が無くなったからだと思っていた。そのことは私にとって酷く惨めで悲しいことだったが諦念するしかないと思っていた。

ことの次第が呑み込めなくて、私自身、困惑して朝7時まで眠れなかった。ビールを飲んでやっと寝た。

昼になり、共通の友人にそのことを話すと、「それは怒るようなことじゃない。Fは自分が鬱状態の時のことを覚えていない。乖離症。記憶障害。」と言われた。

夕方、Fに電話して、昨日の話を覚えているかと聞き、私が話すことをメモしてほしい、きちんとメモして数日後に忘れていないか確認してほしいと告げた。

それから、昼間友人が言っていたことを伝え、「鬱病、あるいは認知症、アルツハイマーの前段階。とにかく脳の活動が著しく抑えられていると思う。」ともはっきり告げた。

そして話しているうちに、はっと気づいたのは、Fさんが常用している睡眠薬も関係あるのではないかということ。

ゾムビデム。「脳の活動を抑える」。「精神症状や意識障害が起こる危険性がある」「もうろう状態、睡眠随伴症状(夢遊症状)」と副作用に注意喚起が追記された薬。

重大な副作用に

離脱症状 、 薬物依存 、 反跳性不眠 、 いらいら感 、 精神症状 、 意識障害 、 譫妄 、 錯乱 、 夢遊症状 、 幻覚 、 興奮 、 脱抑制 、 意識レベル低下 、 一過性前向性健忘 、 もうろう状態 、 服薬後入眠までの出来事を覚えていない 、 途中覚醒時の出来事を覚えていない 、 呼吸抑制 、 炭酸ガスナルコーシス 、 肝機能障害 、 黄疸・・・などなど記載されている。

確かにFさんの言動が私に理解できないほどおかしくなったのは、睡眠薬を飲み始めて少ししてからだ。おそらく年齢に対して薬物過剰摂取で、日中も十分に代謝されずに残っているのではないかと思う。

鬱自体が脳の活動を抑えられた状態であり、(鬱だから苦しくて不眠になり、睡眠薬を飲むのだが、)さらに睡眠薬が脳の活動を抑える。結局認知症と似た症状になる。

とりあえず糖質、揚げ物、添加物をなるべく摂らずにたんぱく質と野菜を多く摂ることをすすめた。おいおいナイアシンやメラトニン、DHAなど、不眠や不安、脳に効くサプリを送ると。

薬をやめる方向に持って行ったほうがいいと思うが、私は経験者ではないので、離脱症状についてはよく調べないとまだわからない。

 

 

 

 

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2016年10月20日 (木)

ピクニック・アット・ハンギングロック 見ているものが見られているものであること

10月20日

「ピクニック・アット・ハンギングロック」(Picnic at Hanging Rock )。以前から見たいと思っていた映画をGAOで見ることができた。

甘美なものとグロテスクなものの対比。なにからなにまで違和に満ちている。

私がこの映画に魅了されたのは、暗喩のようでいて、同時に暗喩でないものの凄みのある魅惑だ。

映画はヴァレンタインデーに起きた少女たちの失踪事件の話で、小説が元らしいが、日付は違っても似たような事件は実際にあったのかもしれないし、あっても不思議はない。

冒頭、ごうごうという風の音と砂埃と岩山。

「見えるものも――私たちの姿も――ただの夢 夢の中の夢・・・」

ポーの詩を少女が囁く声。

同時に映っているのは、金色に輝いて誘うように揺れるイネ科の細い草。枯れた花々。大きな西洋鬼薊(セイヨウオニアザミ)。これだけで私は引き込まれる。

寄宿学校の窓辺にも野性的で強烈な西洋鬼薊(ちなみに、この花は、ヨーロッパからオーストラリアにはいってきた外来種だ。)

たくさんの薔薇が生けられた洗面器の水で顔を洗うミランダ。ここで、薔薇の花びらが浮かんでいる水ではなく、たくさんの茎が浸かっている水であることが重要だ。

少女たちはヴィクトリア時代の繊細なレースの白い服。少女たちはそれぞれにヴァレンタインカードの愛の言葉を読み上げる。セーラはミランダに愛の詩を捧げたのだろう。

寄宿学校の中のヴィクトリア調の優雅な世界から、砂埃を上げて馬車は、決してヨーロッパの森や山ではないオーストラリアの荒々しい自然へ。

岩山のふもとに着いた時に、ミランダが少し顔をしかめて見上げる頭上に騒がしく飛んでいる鳥は、極彩色の鸚哥だ。

ざらざらした奇怪な岩山との対比で、繊細なレースの白い服が、異常なほどなよやかに映る。

ミランダが先生と別れて岩山の方へ登る時に、最後に見せた微笑の前にも薊。

「見て!」とミランダが、魅入られたように奇怪な尖った岩をさし示して(ミランダは、そこになにを「見た」のか、なぜ彼女は同行する少女たちもそれを共有できると思ったのか、)どんどん岩山の上に登って行く途中にも鮮やかな薊。

岩山の上で眠るミランダの横に、まるで岩山が手におえない生き物に変身して、これから彼女をどうしようか、と楽しそうに窺うかのような大きな蜥蜴。

ごうごうと唸る尖った奇怪な岩は、人間の制度や文化と関係ない「なま」のもの、人間の営みや生死とは違う次元のものであり、少女はたやすくそこを超えてしまえるのだろう。

靴も靴下も脱ぎ捨てた3人の少女が呼んでも振り返らずに岩の隙間に入って行く時、もう取り返しがつかないことが起きる恐怖の予感で絶叫するイーディス。

マイクルは少女を目撃したことを警官に尋ねられ、なぜ「4人」でなく「3人の少女」と言い間違えるのか。

そこに行けなかったイーディスは、嘘をついていないのか。

生還したアーマは頭部を強打していて、からだには傷がない。つまり誰かに頭を殴られたのだ。アーマは自分が見たことを隠していないのか。

生徒たちがダンスのレッスンを受けている時に、先生に連れられて来たアーマの、じきヨーロッパに旅立つという時の、自分だけが岩山の暗い裂け目から生還したことを誇示するかのような、眼を射るように真っ赤な帽子と真っ赤なマント。

それに対して生徒全員の冷たい目。非難と絶叫。

「死んだのよ!汚い洞窟で死んだのよ あの岩山で みんな死んで腐ってる!」と、ことさらにイーディスが絶叫するのは、そこに消えてしまって甘美な夢となることを、自分は拒否されたからではないのか。

セーラもまた少女であるのに、貧しい孤児という理由だけで、岩山にも行くことを許されず、ミランダのように人間的ではない世界へ行ってしまうことを許されなかった。

実の兄と近くにいながらも再会できず、彼女を誰もたすけることができない理不尽さ。

セーラにだけの扱いの残虐さも対比、違和。

セーラは、世の中の無慈悲さのいいなりになることを拒否して(ミランダの大好きな野菊の花をくれた庭師の世話している)温室の上に飛翔、逃亡。

冒頭のポーの詩は、「私たちが見ているものも――私たちがどう見られているかも――ただの夢」と、少女が、囁いている。

少女たちがなにを「見ている」のか、少女でない誰にもわかることはできない。

少女は、少女でないものには共有できないものを見、俗世の欲やしきたりと無縁の、無償の世界に行ってしまえるけれど、同時に「見られている」存在でもある。

そして「夢見るもの」が、「夢見られているもの」でもある、ということにおいて、この世では、どんな残虐な目に遭う危険もある。

マイクルが、なぜ、自分が見た少女は「3人」と言ったのか。

彼がミランダに魅せられて彼女に酷いことをしたことを警官に隠して、ミランダを人数に入れないで答えた可能性もある。

しかし、それよりも、イーディスは彼に「見られる」存在でなかったから、彼はイーディスを人数に入れなかったのではないのか。

イーディスは、奇怪な岩山の魅惑(夢)を「見る」ことができなかった。そして青年たちからも魅惑(夢)として「見られる」ことがなかった。だからイーディスは岩山の恐怖から逃げて帰って来て、この世を生きている。

厳格で無慈悲で権力をふる女校長が不安に乱れて狂っていき、すべての鬱憤がセーラに向かい、破滅していくさまは、とても怖く、悲哀に満ちている。

この校長を素晴らしく演じたレイチェル・ロバーツ(Rachel Roberts)が、この当時、私生活でも離婚で傷つき、実際にアルコール依存症と鬱病で1980年に自殺していることを知ると、彼女はさらに、凄みがあって痛々しい。

ファンタジーと残虐な現実が同時に在る。本当にあった話なのか、フィクションなのか、事件に巻き込まれたのか、事故なのかはっきり描かないことによって、幾重にも想像力を掻き立て、この映画は素晴らしい緊迫感を獲得した。

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