2018年2月12日 (月)

森島章人『アネモネ・雨滴』出版記念展  / 宇野昌磨  団体戦 / 誕生日 ChinamiさんとSkype

2月7日

『夜想』(ペヨトル工房) の今野裕一さんからメールをいただいた。

森島章人さんの『アネモネ、雨滴』展について、出品のお誘い。

今野さんは森島章人さんの歌がとても好きで、ずいぶん前から歌で展覧会をやりたいと思っていたと言う。私も森島さんの歌を讃える展示に参加できて幸せです。

森島章人『アネモネ・雨滴』出版記念展

311日~42日 Ⅰ期 バラボリカビス・マッティナ

46日~430日 Ⅱ期 パラボリカビス・コスタディーバ

参加作家

相場るい児

麻生志保

亀田尚子

建石修志

田村京子

日野まき

福山知佐子

槙宮サイ

間村俊一

渡邊加奈子

素敵な展覧会になりますように。

2月9日

あっというまにオリンピック開幕。フィギュア団体戦。

宇野昌磨のSP(ビバルディの『四季』から『冬』)の生命感溢れる演技。

足替えのシットスピンからコンビネーションスピンにむかう時の燃え上がるような表情に胸が熱くなった。

2月10日

2月は私の誕生月なので友人Gがお祝いをしてくれた。

私の好きな完全禁煙のおさかなのお店で、1000円のお刺身定食のランチ。

そして昼間から鳳凰美田純米吟醸酒(華麗な名前のままにおいしかったです)と流輝(るか)純米吟醸無濾過生酒(こちらも果物のように華やかでおいしかったです)を飲んだ。

誕生祝に、とっくの昔に廃番になっているヴィンテージのスイカズラの香水と、昔の絵本をいただいた。超レアなものばかり。

私の好きな植物いっぱいの狭い路地にて。

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まだ足元に雪が残っている。私の好きなヒメムカシヨモギの立ち枯れと。
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偶然迷い込んだ狭い路地裏で、錆びた窓ガラスを発見。
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近所のたくさんの植木鉢と。
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・・・

夜10時。イタリア在住のChinamiさんと初めてskype ビデオ通話。

とても感激。

Chinamiさんは、昨年6月、私の母が経口摂取できなくなって、もう最期だと私が追い詰められた頃に、はるかイタリアから連絡をくださったかただ。

それからずっと、母が亡くなり、ちゃびも亡くなり、私がどん底の時に、毎日のようにメールのやりとりをして遠くから支えてくださった人。

Chinamiさんには感謝の言葉がとても追いつかない。正直、私にそんなにしてくださるかたがいることが信じられないというか、実感が足りない。

今年は秋にChinamiさんに会いにイタリアに行く予定。緊張症でだらしなくてうっかり者の私がすごくご迷惑をおかけしてしまうのが怖いけれど。

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2018年1月28日 (日)

次の本のための絵の画像調整 / 大雪とちゃび / 書道

1月27日

カメラマンさん宅にて、撮影していただいた絵の画像をチェックし、鉛筆の線の強さ、水彩の色味、紙のグレーの濃度などの調整。前のカメラマンさんの撮影した画像とのすり合わせ。

今度のカメラマンさんの機材はキャノン・イオス。画質調整用のソフトで見ると、印刷に適した自然に近い色に見える。特に朱色が、うちのウィンドウズの画面で見た時のぎらぎらして蛍光色っぽく見える朱色とは全く違う。

前のカメラマンさんの機材はフジフィルムのカメラだったらしい。

鉛筆の線のかすれを、キャノンは点でとらえ、フジは面でとらえる感じ。フジのカメラのほうが鉛筆の色がグレーっぽく写っている。

雪が解けずに残っていて、風もあり、とても寒い。都心は53年ぶりに2日連続でマイナス3℃を下回ったとか、48年ぶりにマイナス4℃を記録したとか・・・電車の中でも皆が寒波の話で持ち切り。

帰りにまた日本酒を飲んだ。「こなき純米」と「酔鯨純米吟醸」。禁酒したいが、寒いのでつい飲んでしまう。

なぜか店員さんは「こなき純米」ではなく「こなきじじい」と呼んで注文をとっている。飾ってあった一升瓶に「お化けもびっくりの辛口!」と書いてあった。

1月22日

東京は4年ぶりの大雪。

ボアネックロールで耳が冷えないようにし、洗える布製マスクをし、アンダーシャツの上に3か所使い捨てカイロを貼り、フリース、コート、エアテックパンツの下にスパッツをはいて書道に出かけた。

私の場合、耳がもっとも冷えやすく、耳が冷たく痛くなると同時に激しい頭痛と吐き気に苦しむので、ボアネックロールが非常に役に立った。

書道の記録。

壽似春山(壽の字のかたちが違うけれど)。先生のお手本。

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下が私の書いた字。
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「壽」の字は何度書いてもうまく書けず、ボロクソ。美しい「壽」のかたちを自分でうまくイメージできないので、上手に修正することができない。

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「はね」の部分は、最終的に提出した字では修正することができた。

先生からお年賀をいただいた。とってもかわいいわんちゃんの墨。こういうのはかわいそうで使う気になれないので飾っておくしかない。

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横殴りの雪の中をスニーカーでよたよた歩き、滑って転倒しそうになって脚の筋肉を傷めた。

帰宅してから、ちゃびがいた時のことを激しく思い起こして、涙が止まらなかった。

外がどんなに寒くて雪が降っていても、部屋の中にちゃびがいてくれて、オイルヒーターのところにまあるくなって寝ていてくれたから、冷たい外気も、ことさらに嬉しく感じられた。

4年前の雪の日、私はカメラを持って雪の中に繰り出して、写真を撮ることが楽しかった。

今は雪の写真を撮る気にもなれない。

ちゃびの存在はあまりにも大きすぎて、あの愛おしさ、あの愛情関係の充足感を知っている今は、なにもかもが、それより劣って虚しく感じる。

寒い日は特にちゃびが愛おしくて、苦しくてたまらない。

どうしても「今、どこにいるの?」とさがしてしまう。

宮西計三の「月の園」(けいせい出版『金色の花嫁』)のなかの、「あなたが死んだ私 すべてが恐いの!」というセリフが頭の中をめぐっている。

2015年、私の膝の上のちゃび。

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2014年のちゃび。

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2011年のちゃび。

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生まれて2か月目くらいのちゃびとコナ。

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2018年1月13日 (土)

年末から新年

1月13日

昨年暮れから今までのこと。

次に出す本の作品撮影のため、12月28日に、カメラマンの糸井さんがスケッチブックをうちに取りに来てくれた。

近くのファミレスで本の概要や撮影についての希望を説明。

前のカメラマンさんの撮影データと合わせるための試作データが30日には送られて来、それから第2回補正、第3回補正と、色味や鉛筆の線の濃さの調整などのやりとりを正月中に、ずっとできていたのは、とてもありがたかった。

この仕事がなければ、なにひとつ充実しない淋しいお正月だった。

色味のニュアンスなど、感覚的なことを言葉で伝えるのはとても難しいのだが、糸井さんは軽妙で勉強熱心でコミュニケーションしやすいか人なので、彼のお人柄に感謝。

1月1日

福山家の菩提寺から年賀状が届いた!「謹んで新春のお慶びを申し上げます」に呆れて笑ってしまった。

昨年10月、母の火葬場まで若いお坊さんがお経を読みにいらしてくださったのに、そういう事実をちゃんと記録していないらしい。

(私が精神的に参っていたために)母の納骨を春頃まで待っていただきたいという電話をこちらからしないで、ずるずると年を越してしまった非礼を申し訳なく思っていたのだが、そんな気持ちも吹っ飛んでしまい、たいへん気が楽になった。

原宿で見たヤマガラ。

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素敵な枝ぶりの冬の樹。
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12月30日

話し合いのため、Y子のアパートへ。

2017年の年末も差し迫ってから、私にとって人生最大のストレスと言ってもいいほどの他人からの迷惑に対して闘わなければならない事件があった。

以前書いた、母の火葬の日に私の怒りが爆発してしまった件・・・知人H子が何十年も昔に私の父に保証人のハンコを押させていたH子の娘Y子の借金の件で、ついにY子に債権者側から裁判の準備段階として召喚される書類が届いたのだ。

(この顛末については詳細を後述する予定。)

世間一般のように仕事納めで解放される年末どころか、心身ともに酷使せずにはいられない年末となった。

疲労しすぎて帰宅前に駅前の居酒屋で休んだら、薬などのはいったポーチを席に忘れて来てしまった。翌日、店に電話したら感じよく対応してくれた。魚民さん、ありがとう。

・・。

2017年の年末は、大掃除も気力と体力の不充分によりできず、正月の準備、花飾りやおせちなどはなにひとつやらず。

マッサージと整骨にだけは通っていた。

新しい年の新鮮なまっさらになった喜びや、心身ともにひきしまる感じはなく・・・。

思えば母がパーキンソンの認知症になってから、おせちや雑煮など、もう10年以上食べたことがない。

私自身はおせちや雑煮に興味はないが、昔、毎年暮れに祖母が大釜で炊いていた煮物や、母の手作りのニシンの昆布巻きがたいそう嬉しかったことを思い出してしんみりした。

「一夜飾りはいけないのよ」と言って、28日までに千両や万両の赤い実に花を組み合わせた正月の生花を買っていた母。かいがいしく働きまわっていた母の姿を思い出す。

母がいなくなってから、私は正月のために花は買わない。

儀式などは関係なく、ただ、純粋に自分が描きたいという衝動が起きる花を見つけた時に買うだけ。

元日の朝、母のタンタンタン!と勢いよく階段を駆け上がって来る音を聞いた。ねぼけまなこの私を「知佐子!早く起きなさい!年賀状が来てるよ!」と起こしに来た母。

母が亡くなり、最愛のちゃびもいなくなった今、気ぜわしい色とりどりの年末や、真っ白に光り輝いて見えた元日の朝の光が、遠く鮮明な記憶の中だけのものになってしまった。

私にかつてそういうことがあったことが信じられないようにも、また同時に、失われてしまったことが信じられないようにも感じる。

まだどこかに強烈にあるのに、それをつかめない、全身で触れられない淋しさ、苦しさ。

初詣の時に、母とちゃびの健康と幸せを一心に願えないことが、どうしようもなく辛かった。

昨年、ちゃびが亡くなった11月の初めから、12月、私は人生で一番の危機に耐えた。動悸と悪夢、不眠が苦しかった。

眼の前は真っ暗、なにも楽しくなかったし、なにもやる気が起きなかった。

でも大切な相手を亡くした人は私だけではないはずだし、淋しい年末年始を過ごしている人も、この世にはたくさんいるだろう。

12月24日

図書館に行く細い道の途中にある寸断された樹。

頭にトタンのようなものがかぶせてあるのが気になる。

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曹洞宗鳳林寺にて。

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江戸時代からここにあるこれらの石仏にこめられた過去の出来事を思う。
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曹洞宗宿鳳山高円寺の白椿とメジロ。
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花の蜜を食べ、鴬色(渋い黄緑色)なのはメジロで、ウグイスではない。ウグイスは虫を食べ、地味な茶色で、花には来ない。
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2017年12月28日 (木)

次の本の制作 カメラマンと打ち合わせ

12月28日

次に出す本に新たに加える絵画撮影のため、カメラマンさんにうちに絵を取りに来ていただいた。

既に以前、ほかのカメラマンに撮影してもらっている画像データが10年以上前の出版にしか対応できていないやりかた(保存形式など)であるということがわかった。

撮影済みデータと、今回新たに撮影してもらうデータを調整してもらうお願いをした。

出版、印刷のやりかた、それに対応するカメラマンのやりかたも、どんどん新しく変化しているらしい。

I井さんを信頼しておまかせする。

12月20日

昼から中野に出て造形材料と古本を買い、3時に阿佐ヶ谷でFと会う。

寒かったが、川北病院の裏の巨大な欅の古木を見、神明宮のあたりを少し歩いた。

小学校の金網のすぐ向こうに、丸い実が金色に光り、そこに薄茶色の枯れ蔓が絡みついていた。キカラスウリかと思ったら薔薇の実だった。その向こうにボール遊びをする子供が快活に踊っていた。

Fは、彼の母親と18歳で上京する時に別れ、それ以来、頻繁に交流することはなかった。亡くなってからは、自分が子どもだった頃の母親のことを鮮烈に思い出す、と言った。

私のように成人してからもずっと近くに母親がいたほうが稀なのかもしれない。ずっと近い関係であったほうが、亡くなった時に母親の記憶を思い出しにくい、と言われた。

そうかもしれない。

父が異常で、母や私に過度な負担を強いたせいで、私は少しでも母の苦しさを軽減したい、母を幸せにしたい、という思いに駆られて、必死になってきた。

必死になっていたことは覚えているのだが、その時々の具体的な母の様子が細かく思い出せない。

介護をずっとしてきたにも関わらず、母が危険な状態になった時から、私はなにか大切な母の記憶がどうしても思い出せないようなもどかしさに駆られ、苦しんでいる。

私は母が亡くなってから心身がおかしい。ちゃびが亡くなってから、さらに心身がおかしい。

母とちゃびが生きていた時には楽しく思えたことが楽しく思えない。今は、自分のために意欲を持つことが不可能に思える。

ただ生存のためにどうしたらいいのか、どうしたら生きていけるのか、それだけを真剣に考えている。

Fと知り合って、来年で20年になる。

歌人の森島章人さんからパラボリカ・ビスでの展示のお誘いがあったことを話した。

そしてステュディオ・パラボリカから復刊された雑誌『夜想』と、パラボリカ・ビスというギャラリーがどういう傾向で、どういう人たちをターゲットにしているのかを、それほど多くを知っているわけではないが、私が知っている範囲で、私なりに、Fに説明した。

FはPCもメールもやったことがない。インターネットで情報を知ることが一切ない人だ。現在の若い人たちの流行も、「アート」をめぐる現況も、ほとんどなにも知らない。

Fに対して、「ゴスロリ」の意味や、日本における「球体関節人形」の流行りなどのざっくりとした説明をした。

「それで、その展示、どうするの?やるの?」と聞かれたので、「だから、材料買って来たんでしょ。」と、あまり説明はせず、きょう買ってきた袋を見せた。なにをやるのかは、まだはっきり決めていない。

3時半、ひとまずカフェに入る。

まずFのために買っておいたメラトニンのサプリを渡した。眠剤がどんどん効かなくなってきて、かなり苦しんでいるそうだ。

私はちゃびがいなくなってから動悸や過緊張の肩凝りや頭痛にひどく苦しめられ、毎晩辛い記憶にうなされて安眠できないが、眠剤は飲んでいない。精神安定剤を飲むようになることが怖いので避けたい。

かつて私が、その並外れた芸術的才能ゆえに好きだった人が、「お金を貸して。」と言っては(返すはずもなく)、薬やたばこを買っていた。そのことが私の中で許せず、澱のように固まっているからだ。

Fは「バイラルメディア」や「Change.Org」、「Me Too」など、私がしゃべった単語をメモしていた。

今日の一番の目的、私が今作っている、次の本のカンプのようなもの(掲載順に絵を仮にならべたプリントの束)を見てもらった。

Fに最初に見てもらったおよそ3年前から、熟考の末、絵の量がはるかに増えている。それを見てどう感じるか、Fの感想を聞きたかった。

本に載せるための絵の撮影をいったんしてから、やはり自分の外に在るものに寄り添って描いた時間を取りこぼしては本をつくる意味がないと思い直し、これから新たに違うカメラマンに撮影を頼むことにした。

「すごくいいね。あなたにしか見えないもの、あなたにしかできないことだ。」とFは言った。

私は「そう言ってくれるのはFさんと、この世であと2人くらいだけどね。」と真面目に応えた。

Fは、私のことを「生涯でもっとも影響を受けた人だ」と言った。目のつけどころ、ものの見方、どれもが驚異で、私と散歩しているだけで、ほかの誰と歩くのともまったく違う世界が見える、と。

とりわけFがいる、「高踏的」とも形容してかまわないだろう文学の世界は、言葉を言葉で批評することだけですべてが回っているからだと思う。

彼らが思う「見る」ということと、私がものを見ることとは、言葉の意味などでなく、おそらく体験の内実が違う。

「アート」の世界はさらに絶望的なまでに自分の殻に閉じこもった病んだ精神が、自明なまでにそこでは主流になっているからだと思う。

私と関わり、影響を受けてから出した本のほとんどすべてで賞をとった、とFは言う。

私はおよそ賞といったものに縁がないが、Fがもらった最初の賞金で、カニを食べに行ったことを忘れていた。5万円くらいかかったという、私にとって人生で最も贅沢な会食だったのに、そういう楽しい記憶を私は忘れていることがすごくもったいない。

5時半に食事ができる場所に移り、私は「七田」を飲んだ。

そこで初めてFに、なかなか口に出せなかったこと、ちゃびが11月に亡くなったことを告げた。話しているうちに、涙がまた溢れてきた。

Fは「そのことが気になっていたけど、なかなか聞けなかった。」と言った。

私はちゃびのいない世界で、なにひとつ自分の魂が高揚することがない。

そのことは、この世の誰にも信憑できることではないと思っている。

「愛情に際限がない」という言い方がもっとも私にあっている、とFは言った。性格がお母さんとすごく似てるんでしょ、と。

「精神疲労で頭が朦朧として回転が悪くなっている」と言ったら、「そんなことはない、昔から少しも変っていない」と言ってくれた。

それから最近興味深かった映画や漫画の話をした。Fは今日私が買ってきた漫画を借りたいと言った。まだその漫画を味わい尽くしていなかったので、私は貸すのを断わった。

12月11日

今年最後の書道。

「高談娯心」(楽廣)。「高尚なる談論をして心をたのしませる事」と本部からのお手本にある。

先生のお手本。

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私の書いた字。こうして写真に撮ってみると起筆の角度がおかしい(少し寝すぎている)。次から気をつけようと思います。

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今まで半年くらい、ふたつに割れてどうしようもない筆を使って書いていたので、そうとうな徒労があった。先日、安い(1600円くらいの)筆を新調したら、今までの苦労は何だったのかと思うほど楽に書けるようになった。

一度割れてしまった筆は、先生に筆の洗い方が不十分と言われ、どんなに洗っても元には戻らず、むしろぱさぱさになって余計割れるようになった。

昔、小学生の時、そんなに必死に筆を洗った覚えがなく、それでも数年同じ筆を使っていたような気がするので、もしかしたらむしろ洗いすぎだったのか?

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2017年12月19日 (火)

森島章人さんから歌集刊行記念展へのお誘い  /  東中野、中野

12月16日

森島章人さんから丁寧に封書でお手紙が来ていた。

来年の2月から3月のいつかに、森島さんの歌集『あねもね・雨滴』刊行記念の展覧会をパラボリカでやるということ。そこに作品を出してくれないかとのこと。

私以外では、雑誌『夜想』の今野裕一さんが声をかけて作家さんたちを集めるそうだ。

森島さんの歌に喚起されるイメージでなにかできたらいいけれど・・・。

やる場所がパラボリカだということをふまえて、いつもの私とは違うやりかたでなにかやれたらいいのかもしれない、とも思う。

12月15日

遠くに住むデザイナーの友人、和美さんに、ちゃびが亡くなったことをなかなかメールで伝えられないでいた。

和美さんとは、何年もずっと、お互いの母親の介護のこと、猫の介護のこと、それらにまつわる悲喜こもごもをメールで会話していた。今までなんとかぎりぎりでがんばっていることを伝えてきたので、母が亡くなったことに続けて、ちゃびが亡くなったことを伝えることが辛かったのだ。

ひと月以上すぎて、メールで伝えると、

「たいへんなメールをいただきました。このメールが来るのをおそれていました。どんな慰めの言葉を書いていいのかわかりません。」という返事が来た。

和美さんも9年間で4匹の猫をみおくったが、「どの子たちもそれぞれが唯一の存在とはいえ、私の場合は他の猫たちがいることで救われているので、福山さんの心境はもっと深刻なものだろうと思います。」と。

美大時代の友人愛子ちゃんからも、「ちゃびさんは子供以上の存在なんだろうね。私は、飼ったことがなくてわからないんだけど、自分以上に愛おしい存在なんだろうなって。生きているからにはいつかはって思うと、ふっこがどうなるか凄く怖かった。」というメールが来た。

私がどれほどのダメージを受けるか、どれくらいおかしくなるかわかってくれていた友人がありがたかった。

12月12日

母のお世話になった施設へ最後の精算に行く。

駅からの階段を降りて道を渡ったところ、染物屋さんの工場の前にいつも寝ていた猫が亡くなったという貼り紙があり、花と食べ物が供えられていた。

14歳だったという。外猫にしてはすごく長生きだが、最期は交通事故だそうで、とても残念だ。

私が母の施設へ向かうこの横断歩道で、たまたま車道のほうへ出てきているこの子を、よいしょっと抱き上げて染物屋さんの前に運んでいる人を見かけていた。

地域の人に愛されていろんな名前で呼ばれていたらしい。

施設に着き、受付に行って、ケアマネのK島さんを待つ間に、母との思い出が溢れてきて、もう涙が出てきてしまった。

母が施設から病院に移る直前に買った介護用の室内履きや未使用の紙おむつなど、まだ新しくて使えるものをもらっていただいた。

最後の精算の書類に記入してからも涙。涙。

母とちゃびが死んでしまうことが怖くて、あまりに張りつめていた時が終わったが、少しも解放された感覚がなく、ただ悲しい。

そのあと友人と中野の裏道を歩く。

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駅前に2匹でつながれていた犬。とても人懐っこくて、しゃがんだら飛びついてきて、口をなめられた。けだもののぬくもりと匂い、息づかいが身体いっぱいになだれ込んで、たまらなくなる。

たまにこんなふうに往来につながれている犬に出会うが、「飼い主」は人目につくところにほっておいて心配じゃないのかと不思議だ。私なら、不安で、怖くて、とてもできない。しっぽや手足をカラーリングされているのも身体に悪いのじゃないかと心配。

少なくとも、カラーリングが、犬自身のためになること、犬の身体によいこと、犬にとって心地よいことにはなっていないのは確かだ。

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私は動物に対して「癒される」という言葉を使うことができない。相手に対して愛おしさと心配が激しすぎるからだ。「癒される」というのは、生きている存在に対して使う時、非常に手前勝手な収奪の言葉だと思う。そういう人間中心的な言葉遣いが嫌いだ。

鎧神社。オオミズアオの色の錆びた鉄の扉。薄青とチャコールグレーの混じった風景に酵公孫樹の山吹色が映えていた。

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昔の西新宿にあったような古いアパートと敷石。家の玄関までをコンクリートで固めないで、雑草が息をする土の上にこの石を置いただけの細い道が好きだ。

(この画像、何度やり直しても画像が勝手に横に倒れてしまうのでそのままにしてあります。)

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東中野のムーンロード。大きな塊のアーチになった羽衣ジャスミン。冬でも緑の葉が茂っている。4月にはここは白い花の香りでむせかえるだろう。

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懐かしい雰囲気の中野の仲道通り。「文化堂」というレコード屋も健在。20年くらい前に、この入り口にあった「めりけん吉田」というとても面白い看板の古道具屋でブリヂストンの中古自転車を買った。

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「新鮮 蔬菜」と書いてある八百政の看板。「蔬」というのはキノコという意味らしい。ここでも季節外れの丸葉朝顔の葉が青々と生い茂っている。東京では冬も完全な立ち枯れにはならない。

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2017年10月29日 (日)

『アネモネ・雨滴』 森島章人歌集

10月29日

10月19日に森島章人さんから、歌集『アネモネ・雨滴』が届く。

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一本のアネモネあらば希望なる言葉かすかに雨滴のごとし

第一歌集『月光の揚力』から18年、待望の第二歌集です。

跋に、「砕かれる寸前の形、火を上げながらなお立っている形が歌であればよいと願う。」とある。

雛罌粟(ひなげし)の揺るる向かうをしめらせて今宵阿修羅が足洗う音

きみの掌(て)になぜに集まるふはふはと舞ひそびれたる花粉、雪など

一色に胸塗りつぶしわが行くにサルビア園、傘乱立の夏

赦(ゆる)されて生を享(う)けたるけだものよ赦(ゆる)しえぬ世に金の尾立てよ

ひそかなる空の耳あり成し遂げしものなきなげき抱きとむるごと

にごりゆく記憶の底にくもりなき夏誰(た)がかざすをりをりは匕首

きちきちと空気の中を鳴るものよそこに骨などないはずなれど

氷菓溶けだす前に言はむ 炎天を裂けばすがしき半裸の言葉

森島さんの歌は透明な光と微かに囁く声、静かな追憶の世界。死の歌が多いが、声高に叫んだりはせず、どろどろした情念がたぎるような歌にはならない。

この本の中には私の画「風の薔薇・あねもね」を口絵として使ってくださっている。

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この歌集の世界に入りこみ、遠くて哀しいところを彷徨えば、いたるところに「アネモネ通り」や「アネモネ領」への入り口が隠されている。

暗きところをかすかに上(のぼ)りやがて咲くあなたの息がアネモネと言ふ

なだるるは歌のみならず昨夜(きぞ)こころなだるるなかにひらくアネモネ

もとより庭などありませんが天心のアネモネを少しだけなら

おさがしの玩具さびしきドラムならアネモネ通りにたしかあるはず

アネモネ通りつきあたり 猫町の噴水春を濡らして帰せ

きみ照らすアネモネ通り西はづれ火を売る店を捜しにゆかむ

アネモネ領 きみの瞳の奥にあり門ひとつなし北へと続く

私は母を失って、強烈に蘇るまだ元気な母と一緒にいた頃の身体感覚とともに、この歌たちを読んでいる。

そしてやはりあまりに近くにいすぎて、失われることなどどうしても考えられなかった愛猫の介護に切羽詰まりながら。

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2017年7月16日 (日)

母のこと、介護のふりかえり / 毛利やすみさんの展示、 原やすお 

7月12日

母はまだ存命。

母との日々を振り返るために、自分の書いた過去のブログを読んでいた。

母が認知症とパーキンソン病による身体の不自由が進行しつつある時、介護の時間、母と一緒に過ごす時間、私はその瞬間には母のことしか考えていなかった。

母の介護をしている時の私は本当にそこに集中していたので、早く家に帰って自分の仕事をしなくちゃ、という急くような思いはまったく浮かんでこなかった。

まだ母が少し歩けた頃、母と私は陽の色や温度を感じ、植物を見、落ちている実や落ち葉を拾った。

それは私にとって純粋な体験の時間、静かな幸せの時間だった。

母を抱えて歩くとき、すれ違う年配の人に、にこにこしながら「孝行してくださいね~。」などとよく声をかけられた。

転倒しないようにと母のこわばってきた身体を支えて歩くので、私はいつも緊張していた。.

帰宅するとはじめて、自分の身体にこんなに負荷がかかっていたのかと思うほど、肩や背中や腰が痛んだ。だが、母を抱えている時はまったく痛みを感じなかった。

母がまだ要介護3だった2011年の暮れから翌年の正月まで、介護サービスがお休みの時は、本当に母が死ぬかと思い、緊迫していた。

2012年末、母が転倒して大腿部を骨折してからは、食事介助などがたいへんだった。

介護制度の矛盾により、次の入所先が決まらず、薬を処方してくれる主治医もなくなり、先が見えない不安で押しつぶされそうになって、日に何度も吐くほど疲弊していた時期もあった。

・・・

母の介護の大雑把なまとめ(私自身のための備忘録)

2007年から2009年、母はだんだんと具合が悪くなり、震顫(しんせん)が出てきて、ぐったりと横になっていることが多くなった。

しかし実家に帰ると、祖母の仏壇には必ず母が摘んだみずみずしい野の花がさしてあった。

玄関にある昔母が使っていた古いミシンの上には、秋には紅色の桜や楓の落ち葉が飾ってあった。

母が調理ができなくなってきたので、私が調理したものを実家に持参して食べさせるようになった。大根、人参、里芋などの根菜と厚揚げを柔らかく煮たもの、私の自家製のつみれなどが母は好きだった。

2007年には、大学の同級生の美貌のTが亡くなったことを私が告げると、母は「あんなにきれいなのに、もったいないねえ」と涙をこぼしていた。認知症の始まりの時期だったが、まだ温かい感情は死んでいなかった。

2008年4月。四谷3丁目で展示(私に強引に展示を要請した主催者本人から信じられない(凝った手口で)酷い妨害を受ける)。

8月くらいから(モデルさがしはその前の3月くらいから)ずっと、私は『デッサンの基本』という本を必死でつくっていた。『デッサンの基本』は2009年7月に発売された。

2009年には、(認知症のまだらボケはあったにせよ、)桜の木の絵を描いている人が映っているテレビを見て、「桜の枝にしてははまっすぐすぎる。桜の枝ってあんなにまっすぐのは少ないでしょう?」と私に言うほど母の認知はしっかりしていた。

この頃は東京医大の脳神経科に母を連れて行っていた。2時間も待たされ、その間いつも母は疲れてぐったりしてソファで横になっていた。

調子がよさそうな時は、母を支えながら散歩して一緒に花を摘んだり、落ち葉を拾ったりした。

2009年8月に、介護保険申請のために区役所の人が来訪。8月に依頼した診断書をY医院のY先生が10月まで隠匿していた(Y先生は精神的に不安定で、その後、Y医院は閉院)。介護認定が出たのはそのあと。

2010年。4月、恩師、毛利武彦が亡くなる。私はショックで著しく体調を崩した。9月末、ドイツへ。

(この頃から精神的におかしいパクリストーカーに数年張りつかれ、私はうつ病になりそうなほどのストレスを受ける。)

2011年。3月11日の震災の後、「放射能が怖いので、ちゃび(猫)を連れて一時だけ九州あたりまで避難しようかと思う」と父の前で言ったら、母は急に正気に戻ったように「行きなさい!私たちのことなんてかまわなくていいのよ。若い人は避難したほうがいいに決まってる!」と言ったので、父も驚いて笑う。(母はこの時、普段は認知症傾向であまり話は通じなかったのに重要な場面で急に覚醒!)。

この頃、母をタクシーでショートステイに連れて行った後も、一緒に塗り絵をしたり、散歩に連れ出したりで、私は結局夕方5時過ぎまで施設にいることもあった(戸山の施設は人手不足だったので私にすぐに帰ってほしくなくて長くいてほしがっていた)。

2011年、私は『反絵、触れる、けだもののフラボン』の原稿を必死で書いていた。デイケアのほか、北新宿のK、東新宿のM、西早稲田のF、下落合のSなどのショートステイに、私が母をタクシーで送り迎えしていた。

11月頃から池袋のA,、文京区のHなどの老健の面談で忙しかった。転倒の危険が高いという理由でどこからも断られた。

2011年の暮れから翌年の正月、介護サービスが休みで、自宅に通いでの介護がものすごくたいへんだった。寒い部屋でほっておかれている母が今にも死んでしまいそうだった。

2012年。この頃は1か月のロングステイに行っている。溜まった洗濯物は、私が途中、取りに行って洗濯していた。1か月預かってもらうと、身体のリハビリにはよいが、母の認知症は進むようだった。

叔父夫婦が突然実家に来訪。母はもう、すごく柔らかいものしか呑み込めないのに、あらかじめ状態を聞かずに鰻を買って来られて、私はすごく困った。5mmか1cmまで細かくして、指で小骨をとってすごく小さい一口ずつにして食べさせるのに時間がかかった。

母の食事を介助中の私に、叔父たちは、将来の自分たちの参考に、介護サービスについての情報を聞かせてくれ、と言ってきた。私はなんとか説明したが、内心、心身共に来客に疲れきっていて、もうエネルギーがなくて、口を開くのもしんどかった。

今、余裕もなく目の前の介護に集中している私に、まだ元気で介護の必要のない人たちが、自分の未来のための情報を聞いてくるのがイライラした。聞きたければ行政に聞けばいいのに、とこの時は思った。

しかし叔父が2016年に癌で急死していたことを2017年に叔母に聞き、私はショックで悶絶。実の父の性格が異常なので、私は(私の母を大切にしてくれる、母のすぐ下の弟の)叔父に、ものすごく精神的に頼っていたことを自覚する。

2012年7月、『反絵、触れる、けだもののフラボン』の初校ゲラの校正を水声社へ提出。

この頃、私はよく朝まで仕事をしていた。9月21日、『反絵、触れる、けだもののフラボン』の最終打ち合わせ。第3稿をもらう。

この頃、母が高熱を出したり、転倒して怪我をしたりでたいへんだった。

2012年12月12日。母がトイレで支えていた父とともに転倒、大腿部を骨折。

12月18日、母、全身麻酔の手術。一時、炎症を起こして40度の熱を出し、死にかかる。

もうだめかと思い、妹を病院によぶ。久しぶりに会った妹の、「もう、うるさい!」と言ってすぐに帰ってしまった態度に、私はショックと怒りが収まらなかった。

2013年。3月に母の介護度が3から5になる。

リハビリで入院していたN病院で、N女医からドクハラを受ける。

母が苦しそうに痛みを訴えたことを「なにも具合悪くないくせに大騒ぎして、まるでオオカミ少年だ!」とN女医に言われた。

「変なことばかり言うのよ!譫妄があってリハビリの効率が悪い。さっさと家に帰ってほしい。」と私は面談で直接、N女医から罵倒された。

実際は胸水がたまっていて母は苦しんでいた。パーキンソン病(難病指定)だという前の病院からのカルテにも、N女医はちゃんと目を通していなかった。

私は、母の担当医を変更してくれるように看護師長とメディカルソーシャルワーカーに何度もお願いしたが、いくら言っても完全に無視された。看護師長はこちらの話をまったく聞かず鉄面皮、MSWは一度も顔を見せてさえくれなかった。

結局、私はN病院の事務局長まで直訴に行った。

この事件は私の心身にとって、ものすごく大きなストレスとなった。

事務局長はN女医の態度を「人権侵害にあたる」と認めてくれた。

母の主治医がN女医から院長にかわり、院長の診断書により、母は4月に身体障碍者一級になった。

N病院の3か月のリハビリ入院からの転院先を探して、いくつも老健の面談に奔走したが、どこも断られ、私は不安と疲労で追い詰められた。

2013年5月8日に板橋の老健Eに入所。Eへは、私は池袋から歩いて食事介助(と歯磨き)に通った。この頃、母は傾眠が酷い日があったが、調子がいい日は懐かしい歌を歌ったり、昔の写真を見て笑ったりもしていた。

ここでも、3か月すぎたら次の転院先を探せ、と迫られてたいへんだった。

また、持参した薬が8月の頭でなくなってしまう問題に悩んだ。入居中の老健は経営上の都合で薬は出せない、N病院はリハビリ病院だから最大1か月分しか薬は出せない、以前の在宅の主治医はもう主治医ではないので処方できない、と言われた。

つまり介護保険制度の矛盾により、どこからも薬を出してもらえないと言われ、心身ともに追い詰められて、私は極限まで疲労していた。

7月25日、府中の郊外の特養Tを見学。27日に書類審査を通り、決断を迫られたが、母の終の棲家として決心がつかず、悩んだすえお断りする。

8月17日、第一希望だった北新宿のK苑から「待機」になった連絡をいただく。

10月24日、K苑へ入所。

7月8日

母がいよいよ亡くなる時に来て、もっと母の幸せのために尽くしてあげればよかった、という後悔と不全感で、非常に心が乱れていた。

そうしたら、母の在宅介護の時(数年前)のケアマネのMさんから、たいへん心のこもったメールをいただいた。

母が最初に介護認定を受けてケアマネさんのお世話になり始めたころ(6年くらい前)、認知症は進みつつあったが、まだ受け答えもはっきりしていて、「私はパパが大好きだから、ずっと一緒にいたいけど、パパは私のことを迷惑だと思ってるんでしょう?」と父に言ったそうだ。

また、ケアマネさんが父と話すと、やきもちをやいたりもしたそうだ。(私はまったく気がつかなかった。)

認知症になってからの母は、父にされた長年の酷い仕打ちを忘れて、最初に父に出会った頃の恋する女に戻っていたようだ。

私は、自分が20歳頃に父に負わされた大きな借金の凄惨な記憶や、父が死んでからも出てきた私を苦しめ続ける数々の悪行の後始末のことで、母が幸せな結婚をしたとは思えなかった。

実際、しっかりしていた頃の母と私は、異常性格の父の暴力に対して、共闘する同志のようなところがあった。

しかし母にとっては、父に出会った頃は、駆け落ちしたほどの大恋愛だったのだ。私が生まれてから、父は思いやりのない性格になった、と母はよく私に言っていた。

母が祖母の介護を終えて、パーキンソン病の苦しみが始まるまでの7年間くらいは、父と二人でよく出歩いていた。この頃は母は幸せだったと思いたい。

過去のブログを読み返してみれば、自分で今思うよりは、私は母の介護をよくやっていたようだ。

施設に迎えに行ってから、家で食事を用意して、介助して、薬を飲ませて、ストレッチやマッサージなどして、4時間から5時間くらいかかることもあった。

母はまったく贅沢をしない人だった。もっとおいしいものを食べさせてあげればよかったと悔やんでいたのだが、まだ嚥下が悪くない頃は、私は自分が一番おいしいと思うケーキなども買って行っていたみたいだ(私自身はひとりではケーキや甘いものを食べない)。

すっかり忘れていたが、私は母が好きそうなものも、サプリも、母のために当時、思いついたことはやっていたようだ。

7月7日

母が高熱で倒れて入院してから1か月が過ぎた。

7月1日

母が死ぬ緊迫感で、このところずっと心身ともに疲弊している。

恩師、毛利武彦の奥様である毛利やすみさんの絵の展示を見に、銀座へ。

やすみさんは、本当にかわらずお元気だったので、とても嬉しかった。

とにかくやすみさんに、阿部弘一先生が毛利先生から送られた手紙やスケッチなどの収蔵先を探しておられることを改めて伝え、世田谷文学館は厳しそうだが、どうしたらいいか、と聞いたのだが、あまり深く考えておられないようだった。

ただ、「慶応で働いたことで、ただひとつすごくよかったことは阿部先生と出会えたことだって毛利が言ってたわ。」とやすみさんがおっしゃったことが、私の胸を打った。

この日、やすみさんのお父様も画家(漫画家)だったことを知る。

そのやすみさんのお父様の名前が「原やすお」だと聞いて、雷に打たれたようになってしまった。

私が、もの心つくかつかないかの時に、家のお客さんの誰かが私にくれた集英社の『とんち曾呂利』という漫画、私が生まれて最初に夢中になったまんがの作者が、その「原やすお」だった。

いつの間にかその本は失くしていたが、大人になった私は、どうしてももう一度読みたくて、「そろりしんざえもん」(曾呂利新左衛門)という名前だけで何十年も探していた。なかなか見つからなかったところへ、思いがけず、親友が探し出してきて、去年の私の誕生日にプレゼントしてくれたばかりだった。

まさか、やすみさんのお父様だったとは。もっと早くに言ってほしかった。それにしても不思議なご縁だ。

森久仁子さん(毛利武彦先生の従妹で、歌人の春日井建の妹さん)にお会いしたかったのだが、つい先ほど帰られたという。

会場は、うしお画廊というところだった。銀座6丁目のみゆき画廊が2016年になくなっていたことも、私は知らなかった。

正直、毛利やすみさんのほかは、阿部弘一先生と森久仁子さんにだけ、私は会いたかった。

自分が絵を描いていて、それについての本も書いているのに、私は美術、絵画の周りを取り巻く人たちと会うことほどストレスになることはない。画廊を出てから、本当に立っていられないほど疲弊して苦しくなった。

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鈴木創士さんと、何度かメールのやりとりをさせていただいた。鈴木さんもこの春にお母様を亡くされた。「お母さんはきっと全部わかっていますよ。」というお優しい言葉をいただいて、少し落ち着いた。

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2017年6月 4日 (日)

苦しい夢 / 次の本の構成

最近、朝、動悸のせいで連続して苦しい夢を見たが、夕方には正常に戻る。集中力はまあまあ。次の本の構成(特に絵の順番)を完璧にやり遂げたいことだけがプレッシャーだ。折り(16ページ)に順番を合せるのがひどく難しい。

他人にはほとんど理解されないようなところで張りつめて、綱渡りで生きているが、優しい人にも会えている。

6月3日(土)

やはり朝、悪夢を見た。

海で大きな珍しい貝殻をたくさん拾っている(これもよく見る夢)。巻貝や二枚貝の形状や色鮮やかな柄が、細部まですごく鮮明に見えて、私は夢中で水際で採集している。

にわかに空がほとんど漆黒と言っていいほど真っ暗になって、大雨が来る。慌てて屋根のあるところに走り、貝を砂浜において来てしまって、残念で切ない。

そのあと、怒って怒鳴りながら私を追いかけてくる女性から逃げて電車に乗ろうとするが、操車場のような工事現場に迷い込み、巨大なクレーンや鉄材や、掘り起こされて何もない不気味な泥の中を必死で逃げる。危険な機材の間を縫って全速力で走るのがすごく怖くて苦しい。

急に2本の電車が前と後ろから同時に轟音をたてて迫ってくる。その電車に轢かれないように、電車が交差する瞬間に、間一髪のように、なんとか必死で身をよけて、走って逃げる。

先のほうに江ノ電のような小さな駅が見え、電車に飛び乗る。追ってきた人は電車に乗れていなかったらいいのにと願うが、はたして彼女は乗ってきている。

中は寝台車で,、通路の両側に扉があり上下に寝台がある(アガサ・クリスティの映像の記憶)。なんとか空いている寝台を見つけて隠れ、ドアを閉めて息をひそめているのに、壁とドアの隙間が経年劣化して少しあいていたために、(なぜか天井に近い高い位置から覗かれて)見つかってしまう。

また私は必死で走り出してトイレの窓から外へ逃げるが、まだ追ってくる。どこまで走っても追ってくる。あまりに逃走が長い。苦しすぎて息が切れて心臓がばくばくする。

さらにその女性が二人の仲間のような人と私を追いつめてくる。なんでもその女性は詐欺で大金を手にして、分け前をその二人の女性にあげたようだ。二人の女性は完全な手下になっている。

その詐欺の責任を負って謝れ、というようなことを言われ、私は「謝る気はない。私とは関係ない。」とその女性に言うのだが、これからいったいどうなってしまうのか怖くてたまらない。という夢。

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5時に母に会いに行く。

そのあと、外は北風が強く、寒いくらいだった。

東中野の高台から早稲田通りのほうまで歩き、落合から中野へ。夕陽が灰色の雲を照らして、劇的な色の対比をつくっていた。

東中野から中野は、奇妙な(やる気がないような)リサイクル屋さんが多い。

紫陽花の色が濃くなってきていた。ホタルブクロ(カンパニューラ・プンクタータ)の釣鐘の中をのぞいて斑点を確認した。タチアオイのガラス質の紅、赤紫。くすんだピンクの小さな蔓薔薇。

早稲田通りで古い蔵がお店になっている不思議な酒屋さんを発見。ベルギーのハチミツ入りビールやストロベリーチョコレートのビールなど、珍しいお酒を売っていた。タモリ倶楽部でも訪問されたらしく、記事が貼ってあった。

6月2日(金)

やはり朝方、苦しい夢を見た。

懐かしい幼なじみのユキちゃんの家に、何人かの仲間(?)と訪問に来ているらしい。会食のための買い物で、チーズとサラダの材料などを吟味しながら買いそろえている。いつのまにかここは、ある教授がつくった、ブリュージュにある日本人村、と店の人に言われる(ブリュージュには行ったことがないのでなぜ出てくるのかわからない)。

そのあと、みんなが先に帰ってしまい、私は何十年も行っていないユキちゃんの家に戻ることができない。まったく知らない土地で道に迷い、どうしたらいいのかわからなくてすごく不安になる。

いろんな人に道をたずね、なんとか近くまで行くのだが、どうしてもその家にたどり着くことができない。細い路地の奥の、白い玄関の家だとわかっていても、まるで化野のようにそこにたどり着けない。という夢。

・・・

以前、母のケアマネをしてくださっていてたいへんお世話になったMさんからデートのお誘い。お茶に誘っていただいたが、私はお酒を希望した。

・・・

整骨院に行ったら、またチーフが担当してくれた。

「私の担当、私が言ったせいで、ずっとOさんになったの?なんか気まずくて胸がざわざわして、来づらいんだけど・・・」と言ったら、最初「偶然です。」と彼は言ったが、

「嘘。だって私が来たときにカーテンから出てきたでしょ。私の時間に合わせてたんでしょ。私、そういうのすぐに気づくのよ。」と言ったら、「体調を崩したのが心配だったんで、この一週間は僕がやるって言ったんです。」と言われた。

「上からそう言われたの?それとも皆がそうしてほしいって言ったの?」と言ったら

「上からも皆からもなにも言われてません。僕がそうするって言ったんです。」と言われたので、少しほっとした。

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新しい本の図版の順番のページ合わせを、深夜2時過ぎまで考えていた。

なにがたいへんかというと、時系列で並ぶ絵の一連の塊と、本の16ページ(あるいは8ページ)単位の「折り」を合わせるのが難しいのだ。

カラーページをどこにはさむかを、折りに合わせ、しかも時系列の流れに合わせることがほぼ不可能なのだ。

頭と感覚を最大限使おうとして疲れる。

6月1日(木)

朝方、苦しい悪夢を見た。朝だけは動悸が強くなるからだろう。

美大生たちの前でかばんを落として、中の絵の具や筆など、もろもろの道具や描きかけの絵を道いっぱいにばらまいてしまう。そういうものひとつひとつを他人に見られるのが酷く恥ずかしくて屈辱的な感じがする。なかなか収集がつかなくて、ひとりでいつまでもあたふたと拾っている。

そのあと、大きな建物の中に閉じ込められて、外に出ようと扉を開けると、そこは横幅1.5m、奥行き60cmくらい(灯りがなく)暗く狭く四角い場所で、すぐ目の前にまた扉がある酷く逼塞した空間。

扉はノブつきの金属のドアだったり、観音開きだったり、横開きだったり、それぞれ形状は違うが、扉を開けてもそこにはまた扉、という状態は繰り返される。やっと扉を開けて出た場所は、また扉を開けて次の空間に出られるほどのスペースしかない。

私は何度でも扉を開ける。扉が重くて、肩が痛くて、狭くて暗くて何もない空間の圧迫感と、永遠に続く恐怖に、もう耐えられないと思うのだが、必死で扉を開けて前に進み続けるしかない。という夢。

この手の、どんなに努力しても建物から外に出られない夢は、精神的に苦しい時によく見る。

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肩と背中の緊張が酷かったので、午後2時すぎにほぐし系のマッサージ屋さんに行った。

店長のOさんにいつもお願いしているのだが、Oさんは6月は土日しか来られないそうで、Oさんにメールで土日のどちらかの3時か4時くらいからもしできれば予約を、とお願いした。

2時過ぎに担当していただいたのはMさん(女性)。彼女は田舎の自然の中で、浪曲師のお父さんと三味線師のお母さんに自由に育てられたので、緊張やストレスがないそうだ。Mさんはすごくおっとりしている。うらやましい限り。

マッサージが終わってから、Oさんの予約を確認していただいたら。土日とももう3時半の分がうまっていて、Mさんに「土日は混むんですよ~」と言われた。

それでは4時半から、と予約して帰宅したが、名前が記入してなかったけど、土日の3時半から埋まってたのは、もしかしたら私の?と思い、Oさんにメールしたらやはり私のために押さえていてくださったのだった。

Oさん、Mさん、私の身体をたすけてくれている人たちに感謝。

Mさんの息子さんはふたりとも音楽をやっている。帰宅してyoutubeを見たら、けっこう知られたバンドのようだ。

・・・

今日から6月だ。もう春ではなく、初夏だ。

カルメン・マキ&OZの「六月の詩」を聴きつつ、『スプリット―存在をめぐるまなざし 歌手と武術化と精神科医の出会い)を読む。カルメン・マキと甲野善紀と名越康文の、今から20年位前の鼎談の本だ。

1974年くらいのOZの時のカルメン・マキが美しすぎて、かっこよすぎて、彼女の生い立ちや、どんなことを話すのか知りたかったのでこの本を図書館で借りた。

内容は難しくなくて一気に読める。ちょっと「存在」とか「リアリティ」とかの言葉の解釈がゆるすぎて、「え?こんなおしゃべりで本になるの?」と思った。今よりも出版界がゆるかった時代なのかもしれない。私にとってはマキだけのインタビューのほうがよかった。

・・・

夕方5時半。白い綿シャツとセルリアンブルーのベロアのパンツに、素足にサンダルを引っかけて外を歩いたら、風が涼やかでとても気持ちがよかった。青い空気の中を歩いていた。

スーパーに血圧計があったので計ってみたら上113、下63、脈拍78だった。私は落ち着いているな、だいじょうぶだな、と思った。

5月31日(水)

やはり朝、苦しい夢を見た。

昔、同僚だったYさんに明日から1か月間、海外旅行に行くと言われ、「仕事、たったひとりでいったいどうしたらいいの?」とすごく不安になるが、そんなことはひとことも言えない夢。

Yさんは旅行の準備で楽しそうにはしゃいでいる。なぜか大きなぬいぐるみまで持って行くのだと言う。私はそれを見ながら心細さとさびしさでいっぱいになっていた。という夢。

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手続きをしてあったのに、手違いで荷物が別のところに届いた件で、きのう電話した城南信用金庫さんの副支店長Tさんから、昼1時に電話をいただいた。

丁重過ぎて、すみません、とこちらが謝りたくなるような知的で親切な大人の対応。3日前に私が電話した時に出た若い職員の対応が間違っていた、と簡潔に2つの要点を言明して謝罪された。

「原発反対してらっしゃるので、応援させていただいてます。これからもがんばってください。」と言うと「わたくしTと申します。いらした時はどうぞお声をかけて顔を見てやってください。」と言われた。

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頸と肩の緊張が酷いのでSクリニックで神経ブロック注射を受ける。頸の前の筋肉ががちがちなので、針が刺さる時にびりびりっと痺れて痛い。

「ちょっと緊張する事件があって、・・・過緊張は酷いんですけど、・・・私の本、また、ちょこっとだけ売れたんですよ。」と院長先生に言ったら、

「すごいじゃん!すごいじゃん!その、本が売れることと酷く緊張することは、まったく同じことなのよ!ここまで緊張して根詰める性格だからこそできるのよ!。楽にいい大学はいって、楽に仕事してうまくやろうなんて考えてるやつはろくなことになんないんだから。」と言われた。

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2017年5月18日 (木)

『デッサンの基本』 (ナツメ社) 第27刷 / 緘黙

5月15日

住宅街を歩くと、枯れかけたハゴロモジャスミンと、柑橘系(ザボンやミカン)の花の甘い香りと、薔薇の香りが風に混じっています。

『デッサンの基本』(ナツメ社)増刷、第27刷となりました。(本日、27刷目の本が、手元に届きました。)

購入してくださったかた、ありがとうございました。

どんなかたが『デッサンの基本』を手にとってくださったのだろう、といつも思いを巡らせています。

私が予想した人数をはるかに超えた人たちが、どこかで、この本をめくってくださっていることが、不思議でたまりません。

素描(デッサン)には、いろんなやりかたがあると思いますが、この『デッサンの基本』が、どこかで絵をかこうとするかたの、わずかなヒントやきっかけになれば、とても幸せです。

最近私が描いたもの。

4月3日の記事で写真を載せた、近所で思いがけずいただいた椿の花です。

http://chitaneko.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/index.html#entry-112790659

巨大輪椿(ツバキ)の素描着彩(デッサン)。

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フリージアの素描着彩(デッサン)。昔、フリージアと言えば、黄色と白のイメージでした。最近のフリージアの花色は多様。八重咲きも多く見られるようになりました。
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牡丹の素描着彩(デッサン)。散りかけの姿が美しいと思う。
Sdsc00980

ちゃび(猫)の鉛筆素描(デッサン)。

Sdsc01087

いつも私にくっついて眠るちゃび。
Sdsc01089

「花」という言葉が花を覆い隠している

デッサンは花という言葉を剥ぎ取って

花という得体の知れない存在に近づこうとする

紙の上にワープして

花は「花」という言葉から自由になる

花が生きるように沈黙のうちに線も生きる

それがデッサンではないか

(谷川俊太郎さんが書いてくださった『デッサンの基本』の帯文です。)

5月は「緘黙(かんもく)」の啓発月間だそうです。

前にも書きましたが、私は対人緊張が強すぎて、幼稚園から高校くらいまで、家族やごく親しい友人とは話せても、大勢の前ではほとんど話せませんでした。そういうふうに(特定の関係を除いて、)人前で話せない状態を「場面緘黙」というのだそうです。

私は子供時代、自分の自分の思ったことや考え、好き嫌いなどが、周囲からおかしく思われるのではないか、変に思われるのではないか、とあれこれ考えすぎて、悩んでばかりいて、学校で表に出すことが恥ずかしくて、なかなかできなかったのです。

幼稚園や学校で自分の意思を表明したくてもできなかったせいで、また、理不尽なことを拒否できなかったせいで、たいへん苦しい経験が山ほどありました。

緘黙気質の人は、他の人が気づかないことに敏感に気づいたりすることも多いのですが、一方で傷つくことも人一倍激しい傾向にあるのではないでしょうか。

心の痛みや苦しさを、外に表すことができない(表したくてたまらないのに、なぜか拘束されたように、どうしてもできない)ので、身体の中にどんどん鬱屈したものがたまってしまいます。

(私の場合、無言の反発力があり、なんとか不登校にもならず、大人になってからも精神科に通ったことはありません。)

私は今も対人緊張の傾向はありますが、初対面の人に、自分から話しかけることもできます。

私は幼稚園に行く前から、絵を描くことと本を読むことは好きだったのですが、私自身の体験から言えば、そのことがどこかで「場面緘黙」の苦しみと闘うことと結びついているように思えます。

そして、私がすっと愛おしく思ってきた動物たちと植物が私をたすけてくれました。

ものをよく見て描くということは、その時にはおしゃべりはいらない、そのものがそれ自身から訴えかけてくる魅力を、おしゃべりをやめて静かに聴きとるということです。

言葉では表しきれない魅惑に、もっと接近すること、愛するものに寄り添って描いた時間が、絵になることは、それだけで自分を支えることになっているように思います。

自分が気になるものを、何回も、繰り返し描くのです。自分も変わり、相手も変わっていく、自分の描く絵も変わっていく。

また、私は、よく散歩をしては、気になるもの、面白いものを見つけ、そこに何度も通って、時間とともに移ろう様子を見たりします。

そのもののどういうところに自分が惹かれているのか、自分の感覚に注意しながら見て、記憶するのです。

そういうことを繰り返しているうちに、いつのまにか、自分の好きなもの、嫌いなもの、自分の意志を表明できるようになってきました。

緘黙に苦しむかたたちは、そのような自分の感じたこと、考えたことを絵や文章などにかきとめておくことは、生きていく上で、おそらくとてもよいことだと思います。

絵を描いている時の私は、しゃべれないのではなく、誰ともしゃべりたくないから、絵に集中したいからしゃべらない。そういう沈黙の時間を持つことによって、自分が本当にしゃべりたいときにしゃべれないこともなくなってきたように思います。

そのものをよく見れば見るほど、終わりのない、休めない、苦しいデッサン(素描)にはいっていくことになるにせよ、とりあえずそれによって、私はある意味では強くなっていったのです。

緘黙気質の人に大切なことは、その鬱屈によって押し潰されないようにやっていくこと、自分を生存のほうに向かわせる、それぞれのやりかたを見つけることで、これについては、参考になるかはわかりませんが、自分の経験から思うことを、これからも少しずつブログに書いていけたら、と思っています。

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2017年3月29日 (水)

フローラとフォーナ / 書道

3月28日

堀辰雄の「フローラとフォーナ」を読んでいた。

「社會を描く作家を二種に分けてもいい。即ちそれを fauna として見て行かうとするものと flora として見て行かうとするものと。」――そしてクルチウスはプルウストを後者に入れて論じてゐる。」

「プルウストは人間を植物に同化させる。人間を植物(フローラ)として見る。決して動物(フォーナ)として見ない。」

ここで、人間社会をフローラとして見て行こうとする、という解釈が引っかかる。

これでは植物を見ても、動物を見ても、作家は結局、そこに人間しか見ていないことになってしまう。

それは、植物から、動物たちからの人間の収奪でしかない。

堀辰雄は、「僕はそんな風に花のことはちつとも知らない。しかし花好きでもあるし、小説の中で花を描くことも好きだ。僕なんかも flora 組かも知れない。」と書いている。

けれど私にはこの「フローラとフォーナ」の文章から、堀辰雄が花を好きな感じが伝わってこない。

プルウストの文章からは、彼がとても花を愛していることが伝わってくる。彼は、植物そのものを、その衝撃をちゃんと見ている。

それは、幼年時代の最初の記憶からずっと続く、暴力的なほどになまなましい、陽の光と風や雨の雫と植物の交信、植物が発する香気や響きあう色や質の運動の、強烈な生命の時間の体験だ。

植物を、植物として、強く体験できる人は非常に少ない。人工的なもの、人間的なものの、添え物のようにしか感じていない人は多い。このことは、私が大人になってから身に染みてわかったことだ。

幼い頃の私は、自分が興味を持つのと同じくらい、他の人も植物に興味を持っているのだと思っていた。

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最近の書道(きのう)。

「賞花釣魚」。

先生のお手本。

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下が私の字。初めて待望の「花」という字。「ヒ」の部分をもっとしなやかに書きたいが、バランスが難しい。次はぜったい、もっと柔らかく書きたい。

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先月の「温慈敬和」。

先生のお手本。「慈」という字の「いとがしら」の左右のかたちが同じではないのが不思議。右のほうが、三画目が長く、上の「一」の画に接している。

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下が私の字。「慈」という字の上の部分、「一」が長すぎた。

ちなみにこの「前」という字の上の部分と同じところは、「くさかんむり」ではなく、よび方がないらしい。

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墨汁のあまりを片づけている時、先生が「紙、使う?これ、書き損じ。」と出してくれた半紙の細筆の文字を見て「うわ、先生の書き損じ、かっこいい。」と、その紙をいただくのを辞退した。

いただいてくれば良かったのに、とすぐ後悔した。墨汁をぬぐうのにはとてももったいなくて使えないけれど、いただいてくれば私はそこから吸収するものがあった。

そこにある何がかっこいいと感じるのか、考えることができるから(これはすごく感覚的で重要なことだ)。

今、習っている楷書は、現代の字とかたちが違うこともよくあり、実務的に字がうまくなるかというと、よくわからない。

書道に惹かれるのは、筆と墨の造形と質感のなにか、水で絵の具をとく絵を描いていることと通じているたっぷりと豊かななにかを、強く感覚しているからなのだろう。

その時々の手本の四文字によって、字面のバランスをとるというのも面白い。

ゼロから考えるのではなく、手本を見てそれに倣うというのが、私には新鮮なのだ。

書道教室は、月一回、1時間半しかない。せめて2時間あれば、もう少し詰められるのに、と思う。

まわりの、いつもゲートボールの話ばかりしている奥様達にもめげず、最近は、最初からすっと入り込んで集中できるようになってきた。

私は、のめりこんでその瞬間にすごく集中したい性格ので、なんで書道教室に来て雑談ばかりしているのだろう?と、その奥様達が不思議でしかたないのだが。

最近はがんがん書いて、遠慮せずに、時間内に5、6回は先生に直していただきに行っている。

帰宅してすぐ、一度筆を洗ってから、その日に直されたところを注意しながら、もう一度自分で書いてみる。

まだ筆の扱いに慣れないので、自分なりに納得がいくまで書こうとしたら、なかなか終わらずエネルギーを使ってくたくたになる。

先生の家の書道教室に通うことも考えたが、そうすると書道にのめりこんでしまって絵が描けなくなりそうだ(それでなくても趣味が多いのに)。

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