2019年11月 3日 (日)

次の本の制作、アミアタ山の猫

10月31日(木)

イタリアのチナミさんと、毎日のようにメールのやりとりをしている。

話題の中心は、昨年の9月にアミアタ山の頂上で出会ってしまった、亡きちゃびの面影のある茶白の子のこと、それから、今年もアミアタ山で生まれてしまった子猫たちの命をどうしたら救えるのか、ということ。

10月12日にチナミさんがイタリアの動物愛護団体にメールを送ってくれたのだが、日本の事情と比べても、保護活動に積極的な人は少なく、その団体にしても活動の指針や実践がどうも不透明なようだ。

10月30日(水)

11月1日に訪問する約束をしていた山梨県白州のSさんから、急な発作が起きてしまった、とメールが来る。高速バスをキャンセル。

Sさんは20年来の友人で、私の著書『反絵、触れる、けだもののフラボン』のブックデザインもやってくれた。

世の中の風潮に流されず、猫と植物と本を愛し、正直に自由に生きる尊敬できる友人。親の介護をしながら、Sさん夫婦はたくさんの野良猫の避妊をし、暖かくて安全な居場所とフードをあげて保護して来た。

そしてSさんは難病にもかかわらず、いつも落ち着いていて、症状が思わしくないときも飄々と乗り越えて来た。

イタリアのチナミさんから送ってくれた最高の早摘みオリーブオイルを届けに、今年中に伺えたら嬉しいけれども。

10月29日(火)

チナミさんより、舌が痺れるような青くみずみずしい味の早摘みオリーブオイルが届く。

お願いしていたポルチーニとドライトマトも。とてもありがたく嬉しい。

10月28日(月)

筋肉量を増やすための運動のオリエンテーリング2回目。

10月27日(日)

次の本の制作。デザイナーさんに言われたとおり、絵のグルーピングを試み、指定をする。

もう一度、最初から絵の日付と照らし合わせながら順番を確認していくと、一度決めた順番に(今現在の私の感覚で)違和感のある部分がいくつかあった。

これまで何度も絵の差し替えをやっていただいており、今更といった感じで、版元の編集さんにはたいへん申し訳ないのだが、やはり私の気のすむように入れ替えさせていただいた。

膨大な数から絵を選んで、構成、編集する作業。私はなにをやるのにもそうだが、できることからやって、少しずつ自分の頭の中のイメージに合致するように修正を重ねながら詰めていく。

このやりかたでは追加や差し替えがいくらでも出てきてしまい、編集さんに迷惑をかけることになるのだが、自分の感覚と意識が徐々に高まって来、作業しながら初めて気づくことがある。

私が絵を描くときと同じだ。

完成形が最初から見えているわけではなく、眼と手を動かすことで見えてくる。どこで手を動かすのをやめるのかもやりだしてからでないとわからない。

絵を選ぶのにも、かれこれ4、5年かかったが、こういうやりかたしか自分にはできない。

10月26日(土)

これ以上筋肉が萎えてしまうと、サルコべニア、フレイルまっしぐらで、誰かに迷惑をかけてしまうことになりそうなので、わずかな運動をするクラブに入会。

全身の筋肉量が計れる体重計に乗る。体重と内臓脂肪は標準よりだいぶ低い。両手足の筋肉が標準より-3レヴェル。腹筋は-2レヴェル。

オリエンテーリング1回目。インストラクターについてトレーニング。

 

|

2019年10月17日 (木)

下高井戸でグラフィックデザイナーさんと打ち合わせ

10月16日(水)

水声社の担当さんと、グラフィックデザイナーの宗利淳一さんと下高井戸で打ち合わせ。

下高井戸の駅にあまり降りたことがなかったのだが、駅の2階の窓から下高井戸駅前市場のアーケードを見て感激。なんと懐かしい昭和の市場が残っていたとは!

Sdsc03140

待ち合わせの喫茶店はCofee Roaster 2-3。とにかく禁煙であるお店を希望して探していただいた。雰囲気のよい素敵な喫茶店だった。カフェオレとエビのサンドが食べたかったのに、胃腸の調子の悪い私は自粛してホットミルクのみ。

宗利さんは落ち着いたしゃべりかたの穏やかな方で、本づくりのアイディアをいろいろ示唆してくださったので、とてもありがたく思った。

禁煙のお店をお願いする際に、私が肺に転移を持つ癌患者であることをお伝えしたらとても心配してくださり、恐縮だった。

打ち合わせが終わってから駅周辺を探索。この看板、すごくいい。

Sdsc03141
こんな大きな魚屋さんの個人商店は都心ではなかなか見ない。近所だったらぜひ買いたい。
Sdsc03146
線路際の細い道。
Sdsc03159

帰りは永福町までぷらぷら歩き、そこからバスで高円寺に戻った。

静かな玉川上水永泉寺緑地。
Sdsc03170

永福稲荷神社の白鳥社の阿吽のキツネ。キツネらしくなくて奇妙でかわいい。

Sdsc03172

首が太く、鼻があまり尖ってなく、下がり眼で、耳も丸い、困った犬のようなキツネ像。

Sdsc03173

歩く道すがら、どこでも木犀が匂った。

今日は最高20℃。ひんやりした風が気持ちよく、気分もいいのだが、体温調節できない私は急に冷えてしまい、この秋初めての耳痛。この程度の気温でも手も紫色になり、薄い手袋が必要なほど。

10月14日(月)

酷暑の夏にほとんど家のなかで過ごしていたせいか、筋肉の衰え(特に脚)を痛感し、たんぱく質強化のため、最近は卵をたくさん食べていた。

ウズラ卵を茹でて出汁醤油と蜂蜜と酒で味付けたらおいしすぎて、一気に12個食べてしまい、急におなかを壊してしまった。

数年ぶりに食あたりの薬のお世話になっている。体力増強したいのに逆に体重減で涙。

|

2019年10月 1日 (火)

次の本の制作 / 高田馬場

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/

9月24日(火)

私の次の本(画集)に載せるための評論(解説)の原稿を、編集さんが転送してくれた。鈴木創士さんに次いで、二番目に到着した鵜飼哲さんの原稿だ。

鈴木創士さんのときもそうだったが、鵜飼哲さんもまた、私が常にうまく言葉にできなくて苦しんでいること、私にとっての絵とは何かについて、厳密に言語化してくださっていて感激した。

正直に言えば、ここまで私という「個」の仕事に寄り添い、分け入って、精確に見て、書いてくださるとは思わなかった。

私の『反絵、触れる、けだもののフラボン』を、特にその中でも読みやすいとは言えないだろう若林奮論を、深く、微細なところまで読んだうえで書いてくださっていた。

概念によらないこと、その実践がどのようなものかを言葉にするためには、「言葉」とは何か、言葉でないものを「受容する」とはどういう身体の状態なのか、を言葉にしなければならない。

「前方にあるもの」との「三重の距離」・・それを概念に媒介されることなく、はかること。

素描の「リミット」。植物を描いていることの意味についても。

急に届いた私にとって最も嬉しい贈り物に戸惑い、恐ろしくて胸がざわざわした。

本当に、ありがたすぎて言葉にならず、御礼の言葉をすぐにはメールに書くことができなかった。

9月25日(水)

鵜飼哲さんに素晴らしい文章をいただいたことで、停滞していた思考回路から次の本の新たなアイディアが突如として生まれ出て来、編集さんを煩わせることとなった。

衝動が湧いてくると抑えられなくなり、今まで3、4年もかけて選択していた絵を入れ替えし、久しぶりに夜中まで夢中で仕事した。

深夜2時過ぎにお腹がすき、咽喉が乾いてたまらなくなり、冷凍の枝豆をおつまみに、1本だけとっておいた珍しいビールを飲んだ。

オールドトムというアルコール度8.5パーセントもある黒ビール。

「イギリスで最も古く、最も有名なビールの一つ」、「チョコレートやポートワイン、胡椒の風味を感じさせる、複雑で味わい深いビール」だそうだ。

10年くらい前は、明け方まで夢中で絵を描いていることもよくあった。3時や4時に気がつけばとてもお腹がすいて、食事をし(そんな時間ににカキフライなどを揚げてたべることも)、ビールをがんがん飲んで、外が明るくなってから眠りに着き、昼前に起きたりしていた。

ふとどこからともなく訪れるものを、自分で計画したりコントロールしたりできないので、顕現するものがあった時に、それを逃さないためために、すべてをそこに合わせる生活。頭が回転してくると、すごく楽しくなってきて、疲れも眠気もを感じない。

最近は体調を崩さないように思慮しなければやっていけず、夜に暴飲暴食はしたくないけれど、今日だけは。

9月26日(木)

高円寺でお世話になっていたマッサージ店が6月末に移転になってしまい、ずっと身体中が凝り固まっていたのだが、3か月ぶりにマッサージに行くことにした。電車を乗り継いで移転先へ。

以前お世話になったOさんはもう辞めてしまった。きょう初めてお会いするKさん。

「ここまで酷くなるまで我慢なんてちょっとすごすぎます。肩、背中の筋肉と皮膚ががちがちに固まってはり付いてしまっている。」と言われた。

首ががちがちで、頭皮が血行不良でぼこぼこしているそうだ。脚も冷えて固くむくみが酷い、と。

このところずっと頭の筋膜が凝って頭痛がするのを、鎮痛薬と神経ブロック注射でなんとか我慢してきた。とりあえず血行をよくする努力と、毎日10分でも運動をしようと思う。

高田馬場近くの、昔好きだった細い裏道を久しぶりに歩く。

とてもよい雰囲気の多摩旅館は健在。

Ssdsc02820

人ひとりがやっと通れてすれ違えないほど細い家と家の間の道。この道に面していた古い下宿屋のような素敵な建物が無くなって、原っぱになっていた。

Sdsc02835

http://chitaneko.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-bd58.html#search_word=戸山 高田馬場

|

2019年9月23日 (月)

がんの定期検査 / 阿佐ヶ谷 

9月21日

今日も阿佐ヶ谷まで散歩。

薄青紫のルリマツリ(瑠璃茉擬)がまだ元気に咲いている。初夏から晩秋まで次々に開花する花。

初めてこの花を見たのは「ビリティス」という映画の中。なんと優しい色の花なのだろうと思った。

どこからか木犀が匂った。今年は台風の影響か、この香で街が充ちるのが少し遅いような気がする。

阿佐ヶ谷北の、通ったことのない路地を散策していたら、行き止まりの先にいくつかの廃屋を見つけた。

Sdsc02698

私の好きな細い路地と階段。

Sdsc02722

9月20日

癌の定期検査で鎌ヶ谷の病院へ。今日は血液検査とレントゲンのため、いつもの予約よりも1時間早く11時に家を出る。

行きの電車の中と待ち時間にジャン= リュック・ナンシーの 『イメージの奥底で』を読む。

 

甲状腺がんは長年持っていることによって、きわめて進行が速い悪性の癌に突然変化することがある。

私の場合、原発の甲状腺は全摘しているが、肺の粟粒状転移が原発の乳頭がんと同じ性質を持っているので、無数の粟粒が急に進行のきわめて速い癌に変化することがないとは言えない。

そうなった時、まずどういう症状で癌の変化に気づくのですか、と主治医の浅井先生に質問したら、私の場合は、とにかく息が苦しくなる、急激に肺が侵されるので、その苦しさは風邪と間違えるようなレヴェルではないとのこと。

そうなればあっという間(1か月くらい?)に亡くなるそうで、強い(意識が朦朧とする)緩和しか手立てはなく、本人がその状態を記録する余裕などない、と言われた。

現在の定期健診は3か月に一度。ある時に急に呼吸困難になれば、それが甲状腺がんの肺転移の変化なのか、確認のために片道2時間かけて鎌ヶ谷の病院に来る余裕はなさそう。最期は浅井先生に判断してはもらえないのかな、と思った。

考えておくべきなのは猫たちのこと。あとはあまり考えてもしょうがない。

病院から駅までの線路沿いの道で、とても体の大きなジョロウグモを見た。黄色と黒の縞のボディが丸まると輝いていた。カメラを持って来なかったことが残念。

土手の葛の花が甘酸っぱく匂っていた。少しでも触れると儚く落ちてしまうので迷ったが、一房だけ手折って、ずっと左手に持って帰った。電車を3回乗り換えて2時間の道のり。気づくと地下鉄の中で眠ってしまっていたが花を手から落としてはいなかった。

夜に描いたが、少し花の色が褪せて黒紫を帯びていた。

9月14日

阿佐ヶ谷まで友人と散歩。

ヒメムカシヨモギの白い穂綿と茎のしなり具合が魅力的になってきた。まだ青く、本当に素晴らしくなるのはこれからだけれど。

近所で古い建物が壊され、雑草が美しく生い茂るかと思っても、ほんの数週間で真新しい大きな建物に変わってしまう。原っぱのまま休まされている土地はほとんどない。

ほんのわずかな時の姿だが、ハルノノゲシ、ヒメムカシヨモギ、メヒシバ、オヒシバ、カヤツリグサ、ヨウシュヤマゴボウたちのなんとも素晴らしい夏から秋への変化を毎日見ている。

高架の手前で70年代から存在していそうなアパートを発見。こういう建物がまだ少しでも残っていてくれるとほっとする。

Sdsc02454-2

そう言えば、今期やっている「べしゃりぐらし」というドラマで、主人公の上妻圭右(間宮祥太朗)が一人暮らしをするアパートが、私の生家のある西新宿の懐かしい散歩コースのアパートだったので感激した。

紫雲荘、瑞雲荘、白雲荘、東雲荘(順番は忘れました)と並ぶ、それはそれは素敵な古い(60年代後半か70年代築の)建物だ。まだ健在だったことに涙。。。

中野、高円寺、阿佐ヶ谷あたりに、生まれ育った風景と同じアパートがまだ生きていてくれるのに出会うとすごく嬉しくなる。

 

阿佐ヶ谷駅の裏の倒れてしまった胡桃の樹は切り株だけになっていた。

 

この不思議な家、お店ではないようだ。覗く勇気はない。

Sdsc02483-2

中杉通りの一本裏の通り、何年かぶりに散歩したら知らない古本屋さんを発見。懐かしい本を購入。

Sdsc02488

最近あまり見ない小さな手芸のお店を発見。小学生の頃、洋裁の仕事をしていた母に付いて、こういう手芸材料の店に入るのが大好きだった。

Sdsc02489

表生地の切れ端をあてながら裏地に使うのに合う色の布をさがす楽しい時間。変わったかたちのボタンが留められている厚紙、黒い台紙の上の白いレースの替え襟。単純でかわいらしいフェルトの動物。幼い私の別珍のワンピースの胸に付けるために買った小さなダイアのようなガラスの飾り。すべて鮮烈に残っている。

そしてグレイッシュで微妙な差異の色合いの光る刺繍糸がグラデーションに並んでいる引き出しを開けると、胸が震えるほど高鳴った。

光る微妙なグラデーションの色たち。ねじれて束ねてある光沢のある糸。それらを見た時の強烈な感覚は今も色褪せない。

 

|

2019年7月26日 (金)

神代植物公園 日本固有のユリ

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/7-other-flowers-plants/

7月23日(火)

再び神代植物公園へ。午後からところどころ強い雨になるという予報だったので10時半くらいに到着。予報ははずれ、またも蒸し暑い日となった。

山野草園では先日よりも百合が開花していた。

Sdsc01352 
細長い林の中、点々と数十本のヤマユリ。まだ蕾もあるので、あと一週間は見頃。深大寺門近くの林の中にも数本咲いていた。

Sdsc01365

一面緑の夏草の中に、うつむいた大きな白い花が見えるのがたまらない。

ユリの花を描いた絵で、私が子供の頃に最初に心惹かれたのは酒井抱一の「夏秋草図屏風」(風神雷神図の裏に描かれた絵)だった。その理由はススキの緑の葉の隙間から実に微妙な分量の白が見えていて、しかもうつむいているからだ。

子供の頃、山で、実際に何度かその状態のヤマユリを見て感動したことがあるので、抱一の描いたのはヤマユリだと思い込んでいたが、今見ると「夏秋草図屏風」のユリはテッポウユリだ。

Sdsc01207

日本に自生するユリは15種で、そのうち日本固有種はヤマユリ、ササユリ、オトメユリ、サクユリ、カノコユリ、テッポウユリ、タモトユリ、ウケユリの8種。

・・・

最近、大好きなヤマユリとカノコユリについて調べていたら、ちょうど植物会館で、今日から「世界のなかで日本の植物が果たした役割と影響」という特別企画展をやっていた。

メモ。

17世紀に西欧諸国による貿易航路が整うと、まずイギリスからプラントハンターが各大陸へとやって来た。

トラデスカント親子(1570-1638と1608-1662)はプラントハンターのパイオニア。

フランシス・マッソン(1741-1805)はキューガーデンから最初に派遣されたプラントハンターで南アフリカからイギリスへ植物を送った。

日本は北半球の温帯地域の中でも植物の多様性がもっとも高い地域と言われる。

日本と北アメリカ東部はよく似た植物が多くみられる。これは「第三紀周極要素(第三紀周北極植物相)」と呼ばれ、6500万年~200万年前に広く北半球に分布していた植物が南下し、各大陸の中緯度地域に残存することになったもの。ヨーロッパではその多くが(寒冷化に伴う南下が阻まれたために)すでに絶滅。

長崎の出島にケンペル、トゥンベリィ(ツンベルク)、シーボルトの三学者に先立って日本の植物を研究していたクライエル(1634-1698)がいた。

クライエルは1682~83年、1685~86年の2回、来日。日本の画家に描かせた植物画1360枚をドイツ・ブランデンブルクに住むメンツェル(1622-1701)に送った。

当時のドイツの学術雑誌にクライエルが送った植物画をもとにしたメンツェルが執筆した日本植物レポートが掲載されている。そこにはヤマユリとカノコユリの図(「ヤマユリ」と「カノコユリ」とカタカナが添えられている)がある。

Sdsc01401-2

三学者の一人、ケンペル(1651-1716)は自ら描いた植物画(日本語による植物名が添えられている)とともに1695年にヨーロッパへ帰還。『廻国奇観』を1712年に出版。これはカール・フォン・リンネ(1707-1778)が1753年に『植物の種』を出版するより40年余り前。

イギリスの医師ハンス・スローンがケンペルの遺品・遺稿を買い取り、『日本誌』を1727年に出版。

トゥンベリィ(1743-1828)はリンネの愛弟子で、出島に滞在後1784年に『日本植物誌』を完成。

シーボルト(1796-1866)は1823年に来日。1830年7月に現ベルギーのアントワープに到着した時、積載した485種の植物のうち約260種が生き残っていた。それらをヘントの植物園に運び、2ヶ月滞在。

ベルギー独立戦争のさなか、ヘントのカノコユリは1832年に開花し、現地の人々はその美しさに驚嘆したという。

その後ベルギー独立戦争の余波を受けてシーボルトはオランダのライデンへ避難。戦争中、ヘントの植物園に残された日本の植物は、現地の園芸商に持ち出されて増殖・販売され、大部分が散逸してしまっていた。シーボルトは1839年の戦争終了後に返還を求め、80種を取り戻した。

シーボルトはドイツの植物学者ゲアハルト・ツッカリーニ(1797-1848)の協力を得、『日本植物誌』(二人の共著)の刊行は1835年にはじまった。(この中に素晴らしいカノコユリの図版がある。

Sdsc01403

しかし刊行は1844年に中断。シーボルトとツッカリーニの死後、オランダの植物学者ミクェルによって第2巻の後半が刊行された。

ヤマユリ(Lilium auratum)が1862年にイギリスにもたらされると「驚嘆すべき美しさ」と大評判になった。auratumは「金色の」の意味。

Sssdsc01385

シーボルトらによる日本の植物の普及活動が欧米ではじまると、まずユリの評判が高まり、その需要に応えるため、1867年ごろには横浜を拠点としてユリ根の貿易を行う在留外国人があらわれた。

ボーマー(1843-1896)は北海道開拓使として来日したが横浜に転居し、ユリ根などを扱う貿易商を始めた。

鈴木卯兵衛(1839-1910)は横浜植木商会を設立。ユリ根の輸出を始め、1893年に園芸植物全般を扱う株式会社に発展。横浜植木商会の『LILLIES OF JAPAN』(1899年)の図版は素晴らしく魅力的。(左:表紙、中:サクユリ、右:丸葉カノコユリ。)

Sdsc01393

ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)のぼうっと光り輝くヤマユリと提灯のを見た時、衝撃を受けたが、この絵が描かれたのは1886年。日本から入って来たばかりの金の帯と赤い斑のあるヤマユリは、さぞかし輝いて見えたことだろう。

Dsc01396

(この企画展では、ほかにも世界に渡った日本のサクラ、アジサイ、バラ、キク、ハナショウブについての展示があった。)

・・・

私の一番好きなユリの絵といえば、やはり1900年頃に描かれたモンドリアンのヤマユリとカノコユリの水彩だ。たっぷりと涙を湛えたようなカノコユリの絵はすごいと思う。

モンドリアンはオランダで20代の頃に、日本から来たヤマユリやカノコユリを生まれて初めて見て、とても神秘的な美しさを感じたのかもしれないと思うと、感無量だ。

形骸的ではなく、張りつめたようでいてとても傷つきやすい百合の美しさを描くことができたら、と思う。百合を描くのはとても難しい。

植物センター内に貼ってあったサクユリの場所を職員さんに尋ね、植物多様性センターへ。サクユリは伊豆諸島に自生する伊豆諸島固有のユリで、世界最大のユリ。絶滅危惧種。

Ssdsc01414

植物多様性センターの中にもヤマユリが何本か生えていた。芝生の近くにとても背の高いヤマユリが。

Ssdsc01425

植物公園に戻り、再び職員さんにカノコユリはないか尋ねたら、なんと山野草園の入り口付近に、ほんとうに小さなつぼみがついたのが一本。カノコユリも絶滅危惧種。どうか無事に咲いて、増えてくださいますよう。

Sdsc01430

このあと花蓮園できょう咲いている蓮の花を撮影、その後、野生種とオールドローズ園の薔薇をひとつひとつ丁寧に見て歩き、たまだ開花しないショクダイオオコンニャク(燭台大蒟蒻)を見に温室を訪ね、さらに薔薇園を歩き回ったのでクタクタ。

深大寺通りで9割蕎麦を食べた。3時頃から盆踊りの曲(三波春夫の「大東京音頭」)が流れ、太鼓の音が鳴り響いてきた。蕎麦屋に貼ってあるポスターには6時からと書いてあるが、太鼓の練習なのだろうか?

 

 

|

2019年7月10日 (水)

G先生からお返事 / 自己中心的な人/ 白州から贈り物

7月5日(金)

夜10時過ぎ、G先生から待ちに待ったメールを受信してほっとする。今日、私のエアメイルが届いたのだろう。

嬉しいというより緊張で身が引き締まり、胸がどきどき(後悔しないような本づくりができるのか、いろいろ考えすぎて)したが、親友ふたりがとても喜んでくれたので、嬉しかった。

これで一つ滞りがなくなり、本づくりの仕事が進めやすくなる。

7月6日(土)

つい最近、私に多大なストレスを与えた男性(画家としての私に長年「憧れていた」という)に対して、彼の私への不可解な言動について、親友がメールでその意図を質してくれた。

あまりに自己中心的に歪んだ返答が戻ってきたため、親友は驚き呆れ、ふたたび私に代わって彼にメールしてくれた。

その男性とは6月末に一度だけ会食した。会わなければよかったと思う。会った時とそのあとの彼の言動に、私はひどく疲弊した。

「なにか失礼があったら言ってください」と言われたので、私がずっと我慢していたことをメールに正直に書いたら、いきなり会話を遮断された。

そして(私からフォローされてすごく嬉しかった、と彼が言っていたことを自ら全否定するように)、ツイッターでブロックされた。

私はここまで過剰反応されるとは思わなかった。彼は私よりはるかに年下だし、「失礼しました」で終わると思っていた。

が、彼は、正直に言ってしまった私を恨んでいるようだ。

彼に「あなたの態度は、傍から見ても明らかに配慮がなく、相手を軽んじている。自己認識がおかしい。」と私に代わって言ってくれた親友に、ただ感謝。

もうひとりの親友からは「自己中心的な妄想でいい気になってる相手に、まともに話したらダメ。危険すぎる。」と怒られた。

7月7日(土)

七夕。肌寒い雨。陽射しの少ない日は好きなので、高円寺を南から北の端まで散歩。

小さな野原でヨウシュヤマゴボウやヒオウギやハルノノゲシに光る雫をいっぱい見たあと、民家の軒下のヤマユリを見る。

大好きな花なので夢中で撮影していたら、通りすがりの老婦人に声をかけられた。「あら、これ、ヤマユリよねえ。うちも今年はこんなに大きなカサブランカが6つも咲いたのよ。やっぱり、好きな人がいるのねえ。」と。

私はよく夢中で花の写真を撮っている時に声をかけられる。たいていは私より年上のかたに「熱心ですね!」「花、好き?」と。

気象庁住宅の廃屋の近くには、棘が恐ろしい大きなアザミがいっぱいはえていた。

歩きすぎて、全身ずぶ濡れになり、身体が冷えてしまった。

7月8日(日)

陽に色褪せたアジサイ(紫陽花)。最近は雨の中でみずみずしく色づく紫陽花よりも、乾いて微妙な色になった紫陽花に情趣を感じる。

Sdsc00702

きのう見たヤマユリ。

Sdsc00756

7月9日(月)

白州の友人Sから贈り物が届いた。

興味しんしんのチョビとプフ。

桃、杏、ブルーベリー、アスパラ、カリフローレ(カリフラワーと違うらしい)、丸いズッキーニ・・・珍しい野菜がいっぱい。

Sdsc00743

太くて柔らかいアスパラにも感激。

(昨年、北海道の花輪和一さんのところに遊びに行った時、スーパーで売っているアスパラが佐賀県産のだったのでびっくりした。北海道産の太いアスパラは高級みやげものとしてしか売られていなかった。)

 

Sさんが自宅の横に植えているブルーベリーの実がこんなにたくさん!

庭で育てているカモミールと姫薄荷も。とてもいい匂い(猫には薄荷は毒なので注意)。

Sdsc00748

ちゅびも興味しんしんでソワソワくんくん。

Sdsc00751

この野菜たちを、イタリアのチナミさんが送ってくださったウンブリアのオリーブオイルでいただけるなんて、最高に幸せ。

心優しい友人たちに心より感謝。

 

|

2019年6月26日 (水)

チョビ抜糸、『ニンファ その他のイメージ論』ジョルジョ・アガンベン

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/

6月14日(金)

チョビの目薬(クロラムフェニコール)を使い切る。病院に電話すると、まだ続けて使ったほうがいいとのことでもらいに行く。

6月17日(月)

午後6時過ぎ、チョビ、(左目の眼瞼内反の手術の)抜糸。

まだ目のふちが赤く、目やにはほとんどないが、目薬のせいか、分泌物で左眼の周りがよごれている。

手術はうまくいっているとのこと。

場合によってはまだドキシサイクリン(抗生物質、チョビは副作用の下痢がひどい)を飲ませると言われていたので心配だったが、もう飲ませなくていいことになり、ほっとする。

なにかあったら連れて来てとのこと。

エリザベスカラーを病院に返し、やっと首が自由に。

帰宅したらすぐに、鎖骨あたりをいっしょうけんめい舐めていた。よしよし、ストレスだったね、と顎の下や耳、頬の周辺をかいてあげるとゴロゴロ爆裂。

そのあと放心したように私の布団で眠る。

Sdsc00356

6月20日(木)

チョビとプフ、舐め合い、じゃれ合いの追いかけっこ、大運動会復活。チョビがエリザベスカラーをしていた2週間は、プフは神妙な距離感を保っていて、怖がったりもしないがじゃれたり噛んだりもしなかった。ほんとうにいい子。

Sdsc00354

しおれた薔薇レイニーブルーを描く。

Sdsc00352

6月21日(金)

がんの定期検診。

病院への往路2時間の電車と、会計の待ち時間で『ニンファ その他のイメージ論』(ジョルジョ・アガンベン 高桑和巳訳)をひととおり読み終える。

・・・

「イメージはどのようにして時間という負荷を帯びることができるのか?
(・・・)
アリストテレスは時間、記憶、想像力を緊密に一つに結びつけ、「時間を知覚する存在だけが、時間を知覚するのと同じところを用いて記憶する」と断言していた。つまり、想像力を用いて、ということである。じつのところ、記憶は「イメージ」がなければ不可能である。「イメージ」とは、感覚や思考の「触発」である。この意味で、記憶は何か身体的なものであり、想起はイメージを身体的なところにおいて探求することである。」

「イメージの問題についてのあらゆる探究は何よりもまず、この用語が私たちの文化においてはある不可能なものを表すものであるということを認めるところから始まるのでなければならない。じつのところイメージとは、西洋形而上学がそのまさに中心的な謎の解決を探し求めてきた当の場である。」

「(プラトンがイデアについて言っていることを、私たちは芸術の完了に関する教説として読むのでなければならない――哲学は最高のムーサの術であるとプラトンが言っているのはそのためである。フリードリッヒ・ニーチェと同じように、プラトンも芸術の思想家である。もしかすると真正な哲学はすべて、芸術の完了――芸術の終わり――の思考であるのかもしれない。)

「イデア(idea)という単語は、動詞の語源「id」から直接形成されている――のであって、名刺の語源「eid」から形成されているのではない。この単語は、見るという意味を最大限に表現している。だがイデアは、あらゆるイメージを超えたところにあるまた別のイメージではない。イデアとは言葉を見るということ、それぞれのイメージをイメージとして構成する当のものを見るということである。

それが私たちに見える点において、言葉は沈黙する。ここにおいてついに私たちに言語活動の沈黙が、言語活動の顔が見える。それは事物の顔と一致する。じつのところ、私たちに言語活動が見えるのはただ、私たちが言語活動から暇を取る点においてである。(・・・)」」

・・・

線路際の夏草が私の背よりも高く茂っていた。ススキとヒメムカシヨモギが大きい。ヤブカラシの砂糖菓子のような花。

帰りの電車ではどうしても疲れて眠ってしまう。

6月22日(土)

手紙になにか絵を添えたいと思い、雑草を耳鼻科医院後の原っぱから摘んでくる。ハルノノゲシ(春の野芥子)、イヌビエ(犬稗)、スズメノチャヒキ(雀の茶引き)、ヒメジョオン(姫女苑)、ヒルガオ(昼顔)。

草を見て一番狂喜乱舞するのはプフ。夢中で机に乗ってきて齧ろうとする。

Sdsc00351

越前和紙鳥の子の便箋3枚(かまくら社頭or香紙堂or鳩居堂)。

6月23日(日)

いい感じに雲っていたので阿佐ヶ谷近辺まで自転車で散歩。遊歩道で拾った杏。直径6cm。

Sdsc00372

「赤いトマト」が閉店していた。すごくショック。レトロで大好きなお店だった(35年間営業)。初めて来た時、大昔のゲームつきのテーブルや、星占いの紙が出てくる赤銅色のおもちゃが置いてあったのを覚えている。

姫女苑でいっぱいだった野原も駐車場に変わっていた。

Sdsc01517-2

都会では「原っぱ」というものが残ることはない。ビルが潰されたあとの、新しくビルが建てられるまでのほんの短い間に、どこからか運ばれて来たのか、あるいは土の中に潜在していたのか、種たちが一斉にふき出すのを私は見逃さないように追っている。田舎の広々した土地で見る植物以上に、そこに美しさを感じる。

6月24日(月)

ようやっと手紙を投函。エアメイルで110円。

チョビの左眼のまわり、だいぶきれいになってきた。しかし彫りが深すぎる。ホワイトライオンのような風情。

Sdsc00389

カメラの紐を噛むチョビ。

Sdsc00378 

しっぽのふかふかの柔らかさは天下一品(しっぽの毛がほかの部分と違い、繊細なワッフルパーマのような状態になって空気を含んでいる)。

Sdsc00392


同時に同じお母さんから生まれた妹なのに、まん丸目で鼻も短くまったく顔が違うプフ。

Sdsc00412

6月25日(火)

神奈川近代美術館葉山館長の水沢勉先生よりお返事をいただく。

本づくりについてのスケジュールをOKしてくださった。

たいへんありがたく、ほっとした。

|

2019年6月12日 (水)

 「毛利武彦詩画集『冬の旅』出版記念展、阿部弘一先生朗読会

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/japanese-style-paintings-1-膠絵/

6月10日(月)大雨

チョビのことが心配だったが、病院に預けるのが(チョビが恐怖でおかしくなりそうなので)かわいそうで、結局、家にプフと2匹で置いたまま、銀座うしお画廊へ。

地下鉄の駅を出てから横殴りの強い雨で服も靴もびしょ濡れ。こんな天候の日に、無事来られるのだろうか、と阿部弘一先生のことがすごく心配になる。

画廊の入り口前で毛利先生の奥様のやすみさんとお嬢様とお会いする。奥様の体調も心配だったが、とてもお元気そうでよかった。

会場は多くの人で賑わっていた。

阿部弘一先生は雪のように頭が白くなってらしたが、背筋もすらっと伸びてお元気そう。笑顔が見られて感激。ご子息にご紹介くださった。

Sdsc00118

毛利先生のスケッチ。銅版画のように黒くて端的な線と、その分量。本画を想定して思索的に描かれていることに注意して見ていた。

森久仁子さん(春日井建さんの妹で毛利先生の従妹さん)にも、久しぶりにお目にかかることができてありがたかった。陶芸をやっている息子さんと一緒だった。

16時から朗読会が始まる前、阿部先生と、毛利先生の奥様と、朗読する藤代三千代さんのほかは、ほとんど全員が床に座った。その時、「毛利先生の画集だから。」とおっしゃられて、自分も(ステージ用の椅子ではなく)床に座ろうとする阿部先生。

まず最初に阿部弘一先生から、毛利先生と初めて会った時のお話。戦争が終わってから、慶応高校が日吉にできて、そこで出逢ったそうだ。

毛利先生は生前、慶應高校に勤めて何よりも良かったことは阿部先生と出会えたこと、とよく言ってらした、と奥様から伺っている。

藤代三千代さんが何篇か朗読された後に、阿部弘一先生自らが朗読されるのを生でお聴きする、という素晴らしく貴重な経験をさせていただいた。

Sdsc00110

肉声で阿部弘一先生の詩を聴くという初めての体験は、言葉が絵と音として強く胸に響いて来、予想を超えた新鮮な衝撃だった。

阿部先生の詩をもっとたくさんの人に知ってほしいと心から思った。

阿部弘一先生が、ご子息に私を紹介してくださるときに、『反絵』の本にふれて、私のことを「厳しい文章を書く人」と言ってくださったことが信じられないほどありがたかった。

「最近は本屋に行って詩の棚を見ても辛くなりますね。」と嘆いていらした。

「ポンジュって知ってる?僕の友人が訳してるんだけど。」と毛利先生がご自宅の本棚から一冊の詩の本を見せてくださったのは、私が大学を出て少しした頃。

父の借金に苦しめられていて、世の中のすべてが暗く厚い不透明な壁に閉ざされて息ひとつするのもひどく圧迫されて苦しく、ただひとつの光に必死にすがるように、敬愛する恩師の家を訪ねた日のことだ。

それから阿部先生の現代詩人賞授賞式に誘ってくださった時のことも素晴らしい想い出(そこでは息も止まりそうな大野一雄先生の舞踏(その出現)があった)。ずっと私は夢中で阿部先生の著書を読み、私の絵を見ていただいてきた。

私にとって阿部弘一先生は、毛利先生と同じく、昔からずっと畏れを感じる存在、とても緊張する相手で、気安く話ができるかたではない。

阿部先生のような方と出会えたことが信じがたい僥倖だ。

「次の本はもうすぐ出ますか?」と覚えていてくださることもすごいことだ。

阿部先生のご子息は水産関係の研究をしてらっしゃるそうで、私のことを「そうか!この人は一切肉食べないんだよ。だから魚のほうの研究はいいんだ!」と、先生が笑って言われたこと、「植物の名前を本当によく知ってるんだ。今度、庭の樹を見に来てもらわなきゃ。」と言ってくださったことも嬉しかった。

「草や樹がどんどん増えてなんだかわからなくなってる。誰かさんがどっかからとってきて植えるから。」とご子息も笑っていらした。

阿部先生は、前々から、大きくて重たい椿図鑑をくださるとおっしゃっている。とりあえず阿部先生のご自宅のお庭の、68種類もある椿の名札をつけるのに、その図鑑を見ながらやる必要がある。

毛利先生のお嬢様に、原やすお(昔のまんが家で、毛利先生の奥様のお父様)の大ファンだった話をしたら、とても驚いて喜んでくださった。

毛利先生の奥様のご実家に原やすおさんのたくさんの本や切り抜が保存してあって、お嬢様がもらうつもりでいたのに、亡くなった時に全部処分されていてショックを受けたそうだ。

上野にある国立国会図書館国際子ども図書館で、いくつかの作品を見ることができるとのこと。

阿部先生の新刊、詩集『葡萄樹の方法』を出された七月堂の知念さんともお話しできた。

http://www.shichigatsudo.co.jp/info.php?category=publication&id=budoujyunohouhou

記念撮影。阿部先生と毛利やすみさん。

Sdsc00125

 

Sdsc00129

阿部弘一先生の向かって左にはべっているのが私。

Sdsc00136

慶應高校の毛利先生の教え子のかたが持って来てくださったらしい当時の写真。

Sdsc00154
1964年夏の毛利武彦先生。

Dsc00150-2

Sdsc00155
1962年、裏磐梯の毛利武彦先生。

Dsc00147-2

Sdsc00149
当時の阿部弘一先生。

Dsc00149-2

Sdsc00152

Sdsc00183

皆様お元気で、お目にかかれて本当に幸せでした。

 

 

|

2019年4月28日 (日)

吉田文憲、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の授業

4月17日

吉田文憲さんから久しぶりに、急な電話でのお誘いががあり、一ツ橋の大学院の『銀河鉄道の夜』の授業におじゃました。

いきなりだったので『銀河鉄道の夜』の本も準備できなかった(うちの本棚のどこに入っているのか、すぐに捜せない)。ばたばたと出かける。

会ってすぐ、なぜ今までずっと音沙汰なく急な連絡になったのか、昨年の今頃のパラボリカの森島章人『アネモネ・雨滴』展では森島さんが吉田さんをずっと待っていたのになぜ来てくれなかったのか聞いてしまった。すごく体調が悪かったという。

国立の大学通りの花壇にはチューリップが大きく開いていた。大学の庭の普賢象の八重桜も、もう開き過ぎてぽしゃぽしゃしていた。

大きな教室の端っこにひっそり座っていればいいのかと思っていたら、大学院のゼミで、13人しかいない、とこの時に聞いた。うち10人は中国と韓国からの留学生さんだという。

扉を開けたら狭い部屋のひとつしかない長机に学生さんたちが集合していたので、すごく緊張して恥ずかしかった。吉田さんの詩集の装丁を何度かやっている画家だと紹介されて頭を下げる。

私は学生時代に「ゼミ」という(膝を突き合わせて意見を言い合うような)経験がない。あったとしたら緘黙気質の私は(頭の中では言いたいことがあっても)絶対に自分の意見を言えなかったし、たいへんな苦痛だったと思う。

ゼミのメモ。

『銀河鉄道の夜』、二章の「活版所」と三章の「家」を読んだ。

物語の舞台状況をなす構成要素の一つひとつに象徴的意味を読み解いていくといった内容だった。

坂道が物語の重要なトポス。

川・・・天の川と地上の川が一体化、互いに映し合う。宮沢賢治の故郷、花巻には北上川がある。北上川は北から南に流れる。

橋・・・境界領域

牛乳・・・ミルキーウェイ。ジョバンニが病気の母親のために牛乳(ミルキーウェイ)をとりに行く。牛乳を手に入れるところで物語が終わる。

空からの雨、雪・・・浄化。『永訣の朝』では、死んでいく妹を見送る儀式となる。

星祭、青い灯・・・死のイメージ。誰が死ぬのか。青と白。黒い服。

活版所・・・昼なのに電燈がついている。薄暗い。

「うたう」「よむ」(近代的「よむ」は黙読。それ以前は「うたう」と同義)「かさねる」・・・呪術を帯びた動詞を3つ。(活版所では「輪転器」が回っているので)ものすごい音がしているはずなのに音が消えた世界。

「活版印刷で本をつくるとすごく字が締まるんですよ」というような吉田さんの説明。

吉田文憲さんの詩集『原子野』の装丁を私がした時、板橋区の活版印刷所に行った。当時、活版印刷の会社は日本で2か所しかない、と社長さんに言われたような記憶がある。「いつまでたってもグーテンベルグ」というような標語が掲げてあったような。その時に私が撮った活版の活字の写真がある。

Skappan-2

Skappan

Skappan4

粟粒ほどの活字・・・貧困、愛しさのイメージ。

ジョバンニの家・・・母親は布をかぶって休んでいた。アニメでも母親の顔が出て来ない。母親はすでに死んでいる、と解釈する人もいるとのこと。

姉・・・母親との会話の中に出てくるだけ。

父親・・・会話の中にしか出て来ない存在。しかし物語の核心。お父さんがいないために苛められている。

ラッコの上着・・・当時、ワシントン条約で禁止されている。小さなラッコで上着をつくるのも不自然。

カムパネルラ・・・女性的な名前。釣鐘。鎮魂的。セリフが無い。声を与えない。銀河鉄道が走りだすまで空白(何を考えているかわからない)。

ザウエルという名の犬・・・犬とは距離がない。(物語上の今、カムパネルラとは距離がある。「あのころはよかったなあ」と推定小5くらいの子どもが言うところが残酷。)

天気輪の柱の丘・・・泣きながら街を見下ろす。遠くてはっきり見えないところで、カムパネルラがおぼれた子(しかもそれはいじめっ子のザネリ)を助け、自分は力尽きて沈んだ。

ボートに乗れる人の数は限られている。タイタニック号と同じ。究極の選択。

「ほんとう」・・・平仮名。「ほんとうは何かご承知ですか。」何がほんとうなのか、わからない。「分ける」ことができない。不可知論。

吉田さんはこの授業で『風の又三郎』をやりたかったそうだが、『銀河鉄道の夜』のほうが世界的に多くの人に読まれているということで、『銀河鉄道の夜』になったらしい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私は久しぶりに聴講したので、聞き漏らさないように集中することですごく疲れた。

5時にゼミが終わった。三鷹で食事。

私の次の本についての話をざっくりとした。

「誰に文章をいただいたと思う?」と尋ねて「まったく見当がつかない」と言われ、「G先生。」と言ったら「ええ?!」とやはりものすごく驚いてくれた。びっくりしすぎて言葉が出ない、と。

とりあえず、そのことを喜んでくれたことがとても嬉しかった。お祝いということで、私は新潟産のお酒を飲んだ。

文学というものはすべてが「収奪」なのかもしれないが、私は政治的主張に絡めたこじつけや物言えぬ当事者から「収奪」したアートは嫌い、それなら言葉による概要書で充分だし、そこにアートはいらない、と言ったら、「あなたはほんとうに昔から変わってないね。いや、悪い意味じゃなくて、いい意味で。」と言われた。

 

 

 

 

 

 

 

|

2019年4月26日 (金)

水沢勉さんにお会いしに神奈川県立美術館葉山へ行く

記録しておくべきことがたまってしまった。だいぶ過去のことになるが、一冊の本をつくるための長く曲がりくねった道のりの途中。

4月9日

次に出す本のことで、水沢勉さんに相談しに神奈川県立美術館葉山へ。

だいぶ前に9日午後2時に約束をいただいていた。

地下鉄を使い、新宿3丁目で副都心線に乗り換え、直通で横浜まで。横浜から京急で新逗子へ。(最近は新宿から湘南ラインに乗るより便利。)

金沢八景で乗り換えが初めてだったので、違うホームに行ってしまったりして階段を引き返した。途中、神武寺のあたりで見えた萌出たばかりの薄銀黄緑色の新芽の点描の樹々、倒木のある山の様子が素敵だった。新逗子からバス。途中の岩場で遊びたくてたまらなかった。

1時20分くらいに着いて受付に取り次いでいただく。約束は2時だが、急な来客が2時にあることになったそうで、「早く来てくれてよかった」と、先に館長室に通してくださった。

ISBNがつくことは重要なこと、国会図書館に入ることは文化遺産になるということだから、と言われた。

また英訳者さんを選ぶのがとても重要だと。水沢さんは偶然(美術館に来て)出会われたPさんを推していらした。水沢さんは知らなかったが、最近大きな賞をとったかた。

私はS社のNさんしか頭になかった(全然存じ上げないが、S社の仕事をいつもされているかただということで。)

二人に同じ短文を訳してもらって比較したほうがいいと言われた。ちょっと私にはそんなことはできそうもないが、お二人に振り分けてやっていただくことはありうると思った。

 

2時から3時半くらいまで、水沢さんが急な来客に対応しているあいだ、私は浜へ出たり、庭でぼーっとしたり。

富士山が大きく見えた。

 

水沢先生が私を待たせていることを気にして、2階からロビーの私に向かって手を振ってくださったりされていることに、たいへん申し訳なく思った。すごくお忙しいかたで、今回の2時の急な来客も、なにかトラブルで急用だったらしい。

文章を書く人が遅れてずるずるしないために、まず本の刊行日を今、ここで決めて、と言われる。なにかの記念日はないのか、と聞かれて困る。そこから逆算してすべてのスケジュールをはっきり決めないとだめだと。

本日、私が話したかった用件、文章の内容について、なかなか私の考えていることは言葉にできなかった。なぜ話せなかったか、その理由も、言語化すること自体が困難だし、そのことについてブログに公開できることはない。

帯になる文について、G先生にいただいた、ということを言ったら「ええ?!Gにもらったの?あなたの人生変わるよ。」とすごく驚かれていた。「どんな文章?暗唱してる?」と言われて困った。

私自身は、今回、私が水沢さんを訪問した理由を言語化できなかった理由も、毎回、私が自分の仕事について人になにかを話す時に苦しんでいる理由も、G先生にはすべて伝わって、文章をいただけたのだと信じている。

5時に美術館が終わってからもお話ししていた。7時過ぎに外に出ると空が藍色に澄んでいた。東京とは明らかに違う空気。潮の匂い。

Dsc08457

 

|

より以前の記事一覧