2019年7月26日 (金)

神代植物公園 日本固有のユリ

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7月23日(火)

再び神代植物公園へ。午後からところどころ強い雨になるという予報だったので10時半くらいに到着。予報ははずれ、またも蒸し暑い日となった。

山野草園では先日よりも百合が開花していた。

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細長い林の中、点々と数十本のヤマユリ。まだ蕾もあるので、あと一週間は見頃。深大寺門近くの林の中にも数本咲いていた。

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一面緑の夏草の中に、うつむいた大きな白い花が見えるのがたまらない。

ユリの花を描いた絵で、私が子供の頃に最初に心惹かれたのは酒井抱一の「夏秋草図屏風」(風神雷神図の裏に描かれた絵)だった。その理由はススキの緑の葉の隙間から実に微妙な分量の白が見えていて、しかもうつむいているからだ。

子供の頃、山で、実際に何度かその状態のヤマユリを見て感動したことがあるので、抱一の描いたのはヤマユリだと思い込んでいたが、今見ると「夏秋草図屏風」のユリはテッポウユリだ。

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日本に自生するユリは15種で、そのうち日本固有種はヤマユリ、ササユリ、オトメユリ、サクユリ、カノコユリ、テッポウユリ、タモトユリ、ウケユリの8種。

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最近、大好きなヤマユリとカノコユリについて調べていたら、ちょうど植物会館で、今日から「世界のなかで日本の植物が果たした役割と影響」という特別企画展をやっていた。

メモ。

17世紀に西欧諸国による貿易航路が整うと、まずイギリスからプラントハンターが各大陸へとやって来た。

トラデスカント親子(1570-1638と1608-1662)はプラントハンターのパイオニア。

フランシス・マッソン(1741-1805)はキューガーデンから最初に派遣されたプラントハンターで南アフリカからイギリスへ植物を送った。

日本は北半球の温帯地域の中でも植物の多様性がもっとも高い地域と言われる。

日本と北アメリカ東部はよく似た植物が多くみられる。これは「第三紀周極要素(第三紀周北極植物相)」と呼ばれ、6500万年~200万年前に広く北半球に分布していた植物が南下し、各大陸の中緯度地域に残存することになったもの。ヨーロッパではその多くが(寒冷化に伴う南下が阻まれたために)すでに絶滅。

長崎の出島にケンペル、トゥンベリィ(ツンベルク)、シーボルトの三学者に先立って日本の植物を研究していたクライエル(1634-1698)がいた。

クライエルは1682~83年、1685~86年の2回、来日。日本の画家に描かせた植物画1360枚をドイツ・ブランデンブルクに住むメンツェル(1622-1701)に送った。

当時のドイツの学術雑誌にクライエルが送った植物画をもとにしたメンツェルが執筆した日本植物レポートが掲載されている。そこにはヤマユリとカノコユリの図(「ヤマユリ」と「カノコユリ」とカタカナが添えられている)がある。

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三学者の一人、ケンペル(1651-1716)は自ら描いた植物画(日本語による植物名が添えられている)とともに1695年にヨーロッパへ帰還。『廻国奇観』を1712年に出版。これはカール・フォン・リンネ(1707-1778)が1753年に『植物の種』を出版するより40年余り前。

イギリスの医師ハンス・スローンがケンペルの遺品・遺稿を買い取り、『日本誌』を1727年に出版。

トゥンベリィ(1743-1828)はリンネの愛弟子で、出島に滞在後1784年に『日本植物誌』を完成。

シーボルト(1796-1866)は1823年に来日。1830年7月に現ベルギーのアントワープに到着した時、積載した485種の植物のうち約260種が生き残っていた。それらをヘントの植物園に運び、2ヶ月滞在。

ベルギー独立戦争のさなか、ヘントのカノコユリは1832年に開花し、現地の人々はその美しさに驚嘆したという。

その後ベルギー独立戦争の余波を受けてシーボルトはオランダのライデンへ避難。戦争中、ヘントの植物園に残された日本の植物は、現地の園芸商に持ち出されて増殖・販売され、大部分が散逸してしまっていた。シーボルトは1839年の戦争終了後に返還を求め、80種を取り戻した。

シーボルトはドイツの植物学者ゲアハルト・ツッカリーニ(1797-1848)の協力を得、『日本植物誌』(二人の共著)の刊行は1835年にはじまった。(この中に素晴らしいカノコユリの図版がある。

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しかし刊行は1844年に中断。シーボルトとツッカリーニの死後、オランダの植物学者ミクェルによって第2巻の後半が刊行された。

ヤマユリ(Lilium auratum)が1862年にイギリスにもたらされると「驚嘆すべき美しさ」と大評判になった。auratumは「金色の」の意味。

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シーボルトらによる日本の植物の普及活動が欧米ではじまると、まずユリの評判が高まり、その需要に応えるため、1867年ごろには横浜を拠点としてユリ根の貿易を行う在留外国人があらわれた。

ボーマー(1843-1896)は北海道開拓使として来日したが横浜に転居し、ユリ根などを扱う貿易商を始めた。

鈴木卯兵衛(1839-1910)は横浜植木商会を設立。ユリ根の輸出を始め、1893年に園芸植物全般を扱う株式会社に発展。横浜植木商会の『LILLIES OF JAPAN』(1899年)の図版は素晴らしく魅力的。(左:表紙、中:サクユリ、右:丸葉カノコユリ。)

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ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)のぼうっと光り輝くヤマユリと提灯のを見た時、衝撃を受けたが、この絵が描かれたのは1886年。日本から入って来たばかりの金の帯と赤い斑のあるヤマユリは、さぞかし輝いて見えたことだろう。

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(この企画展では、ほかにも世界に渡った日本のサクラ、アジサイ、バラ、キク、ハナショウブについての展示があった。)

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私の一番好きなユリの絵といえば、やはり1900年頃に描かれたモンドリアンのヤマユリとカノコユリの水彩だ。たっぷりと涙を湛えたようなカノコユリの絵はすごいと思う。

モンドリアンはオランダで20代の頃に、日本から来たヤマユリやカノコユリを生まれて初めて見て、とても神秘的な美しさを感じたのかもしれないと思うと、感無量だ。

形骸的ではなく、張りつめたようでいてとても傷つきやすい百合の美しさを描くことができたら、と思う。百合を描くのはとても難しい。

植物センター内に貼ってあったサクユリの場所を職員さんに尋ね、植物多様性センターへ。サクユリは伊豆諸島に自生する伊豆諸島固有のユリで、世界最大のユリ。絶滅危惧種。

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植物多様性センターの中にもヤマユリが何本か生えていた。芝生の近くにとても背の高いヤマユリが。

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植物公園に戻り、再び職員さんにカノコユリはないか尋ねたら、なんと山野草園の入り口付近に、ほんとうに小さなつぼみがついたのが一本。カノコユリも絶滅危惧種。どうか無事に咲いて、増えてくださいますよう。

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このあと花蓮園できょう咲いている蓮の花を撮影、その後、野生種とオールドローズ園の薔薇をひとつひとつ丁寧に見て歩き、たまだ開花しないショクダイオオコンニャク(燭台大蒟蒻)を見に温室を訪ね、さらに薔薇園を歩き回ったのでクタクタ。

深大寺通りで9割蕎麦を食べた。3時頃から盆踊りの曲(三波春夫の「大東京音頭」)が流れ、太鼓の音が鳴り響いてきた。蕎麦屋に貼ってあるポスターには6時からと書いてあるが、太鼓の練習なのだろうか?

 

 

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2019年7月10日 (水)

G先生からお返事 / 自己中心的な人/ 白州から贈り物

7月5日(金)

夜10時過ぎ、G先生から待ちに待ったメールを受信してほっとする。今日、私のエアメイルが届いたのだろう。

嬉しいというより緊張で身が引き締まり、胸がどきどき(後悔しないような本づくりができるのか、いろいろ考えすぎて)したが、親友ふたりがとても喜んでくれたので、嬉しかった。

これで一つ滞りがなくなり、本づくりの仕事が進めやすくなる。

7月6日(土)

つい最近、私に多大なストレスを与えた男性(画家としての私に長年「憧れていた」という)に対して、彼の私への不可解な言動について、親友がメールでその意図を質してくれた。

あまりに自己中心的に歪んだ返答が戻ってきたため、親友は驚き呆れ、ふたたび私に代わって彼にメールしてくれた。

その男性とは6月末に一度だけ会食した。会わなければよかったと思う。会った時とそのあとの彼の言動に、私はひどく疲弊した。

「なにか失礼があったら言ってください」と言われたので、私がずっと我慢していたことをメールに正直に書いたら、いきなり会話を遮断された。

そして(私からフォローされてすごく嬉しかった、と彼が言っていたことを自ら全否定するように)、ツイッターでブロックされた。

私はここまで過剰反応されるとは思わなかった。彼は私よりはるかに年下だし、「失礼しました」で終わると思っていた。

が、彼は、正直に言ってしまった私を恨んでいるようだ。

彼に「あなたの態度は、傍から見ても明らかに配慮がなく、相手を軽んじている。自己認識がおかしい。」と私に代わって言ってくれた親友に、ただ感謝。

もうひとりの親友からは「自己中心的な妄想でいい気になってる相手に、まともに話したらダメ。危険すぎる。」と怒られた。

7月7日(土)

七夕。肌寒い雨。陽射しの少ない日は好きなので、高円寺を南から北の端まで散歩。

小さな野原でヨウシュヤマゴボウやヒオウギやハルノノゲシに光る雫をいっぱい見たあと、民家の軒下のヤマユリを見る。

大好きな花なので夢中で撮影していたら、通りすがりの老婦人に声をかけられた。「あら、これ、ヤマユリよねえ。うちも今年はこんなに大きなカサブランカが6つも咲いたのよ。やっぱり、好きな人がいるのねえ。」と。

私はよく夢中で花の写真を撮っている時に声をかけられる。たいていは私より年上のかたに「熱心ですね!」「花、好き?」と。

気象庁住宅の廃屋の近くには、棘が恐ろしい大きなアザミがいっぱいはえていた。

歩きすぎて、全身ずぶ濡れになり、身体が冷えてしまった。

7月8日(日)

陽に色褪せたアジサイ(紫陽花)。最近は雨の中でみずみずしく色づく紫陽花よりも、乾いて微妙な色になった紫陽花に情趣を感じる。

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きのう見たヤマユリ。

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7月9日(月)

白州の友人Sから贈り物が届いた。

興味しんしんのチョビとプフ。

桃、杏、ブルーベリー、アスパラ、カリフローレ(カリフラワーと違うらしい)、丸いズッキーニ・・・珍しい野菜がいっぱい。

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太くて柔らかいアスパラにも感激。

(昨年、北海道の花輪和一さんのところに遊びに行った時、スーパーで売っているアスパラが佐賀県産のだったのでびっくりした。北海道産の太いアスパラは高級みやげものとしてしか売られていなかった。)

 

Sさんが自宅の横に植えているブルーベリーの実がこんなにたくさん!

庭で育てているカモミールと姫薄荷も。とてもいい匂い(猫には薄荷は毒なので注意)。

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ちゅびも興味しんしんでソワソワくんくん。

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この野菜たちを、イタリアのチナミさんが送ってくださったウンブリアのオリーブオイルでいただけるなんて、最高に幸せ。

心優しい友人たちに心より感謝。

 

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2019年6月26日 (水)

チョビ抜糸、『ニンファ その他のイメージ論』ジョルジョ・アガンベン

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6月14日(金)

チョビの目薬(クロラムフェニコール)を使い切る。病院に電話すると、まだ続けて使ったほうがいいとのことでもらいに行く。

6月17日(月)

午後6時過ぎ、チョビ、(左目の眼瞼内反の手術の)抜糸。

まだ目のふちが赤く、目やにはほとんどないが、目薬のせいか、分泌物で左眼の周りがよごれている。

手術はうまくいっているとのこと。

場合によってはまだドキシサイクリン(抗生物質、チョビは副作用の下痢がひどい)を飲ませると言われていたので心配だったが、もう飲ませなくていいことになり、ほっとする。

なにかあったら連れて来てとのこと。

エリザベスカラーを病院に返し、やっと首が自由に。

帰宅したらすぐに、鎖骨あたりをいっしょうけんめい舐めていた。よしよし、ストレスだったね、と顎の下や耳、頬の周辺をかいてあげるとゴロゴロ爆裂。

そのあと放心したように私の布団で眠る。

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6月20日(木)

チョビとプフ、舐め合い、じゃれ合いの追いかけっこ、大運動会復活。チョビがエリザベスカラーをしていた2週間は、プフは神妙な距離感を保っていて、怖がったりもしないがじゃれたり噛んだりもしなかった。ほんとうにいい子。

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しおれた薔薇レイニーブルーを描く。

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6月21日(金)

がんの定期検診。

病院への往路2時間の電車と、会計の待ち時間で『ニンファ その他のイメージ論』(ジョルジョ・アガンベン 高桑和巳訳)をひととおり読み終える。

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「イメージはどのようにして時間という負荷を帯びることができるのか?
(・・・)
アリストテレスは時間、記憶、想像力を緊密に一つに結びつけ、「時間を知覚する存在だけが、時間を知覚するのと同じところを用いて記憶する」と断言していた。つまり、想像力を用いて、ということである。じつのところ、記憶は「イメージ」がなければ不可能である。「イメージ」とは、感覚や思考の「触発」である。この意味で、記憶は何か身体的なものであり、想起はイメージを身体的なところにおいて探求することである。」

「イメージの問題についてのあらゆる探究は何よりもまず、この用語が私たちの文化においてはある不可能なものを表すものであるということを認めるところから始まるのでなければならない。じつのところイメージとは、西洋形而上学がそのまさに中心的な謎の解決を探し求めてきた当の場である。」

「(プラトンがイデアについて言っていることを、私たちは芸術の完了に関する教説として読むのでなければならない――哲学は最高のムーサの術であるとプラトンが言っているのはそのためである。フリードリッヒ・ニーチェと同じように、プラトンも芸術の思想家である。もしかすると真正な哲学はすべて、芸術の完了――芸術の終わり――の思考であるのかもしれない。)

「イデア(idea)という単語は、動詞の語源「id」から直接形成されている――のであって、名刺の語源「eid」から形成されているのではない。この単語は、見るという意味を最大限に表現している。だがイデアは、あらゆるイメージを超えたところにあるまた別のイメージではない。イデアとは言葉を見るということ、それぞれのイメージをイメージとして構成する当のものを見るということである。

それが私たちに見える点において、言葉は沈黙する。ここにおいてついに私たちに言語活動の沈黙が、言語活動の顔が見える。それは事物の顔と一致する。じつのところ、私たちに言語活動が見えるのはただ、私たちが言語活動から暇を取る点においてである。(・・・)」」

・・・

線路際の夏草が私の背よりも高く茂っていた。ススキとヒメムカシヨモギが大きい。ヤブカラシの砂糖菓子のような花。

帰りの電車ではどうしても疲れて眠ってしまう。

6月22日(土)

手紙になにか絵を添えたいと思い、雑草を耳鼻科医院後の原っぱから摘んでくる。ハルノノゲシ(春の野芥子)、イヌビエ(犬稗)、スズメノチャヒキ(雀の茶引き)、ヒメジョオン(姫女苑)、ヒルガオ(昼顔)。

草を見て一番狂喜乱舞するのはプフ。夢中で机に乗ってきて齧ろうとする。

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越前和紙鳥の子の便箋3枚(かまくら社頭or香紙堂or鳩居堂)。

6月23日(日)

いい感じに雲っていたので阿佐ヶ谷近辺まで自転車で散歩。遊歩道で拾った杏。直径6cm。

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「赤いトマト」が閉店していた。すごくショック。レトロで大好きなお店だった(35年間営業)。初めて来た時、大昔のゲームつきのテーブルや、星占いの紙が出てくる赤銅色のおもちゃが置いてあったのを覚えている。

姫女苑でいっぱいだった野原も駐車場に変わっていた。

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都会では「原っぱ」というものが残ることはない。ビルが潰されたあとの、新しくビルが建てられるまでのほんの短い間に、どこからか運ばれて来たのか、あるいは土の中に潜在していたのか、種たちが一斉にふき出すのを私は見逃さないように追っている。田舎の広々した土地で見る植物以上に、そこに美しさを感じる。

6月24日(月)

ようやっと手紙を投函。エアメイルで110円。

チョビの左眼のまわり、だいぶきれいになってきた。しかし彫りが深すぎる。ホワイトライオンのような風情。

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カメラの紐を噛むチョビ。

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しっぽのふかふかの柔らかさは天下一品(しっぽの毛がほかの部分と違い、繊細なワッフルパーマのような状態になって空気を含んでいる)。

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同時に同じお母さんから生まれた妹なのに、まん丸目で鼻も短くまったく顔が違うプフ。

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6月25日(火)

神奈川近代美術館葉山館長の水沢勉先生よりお返事をいただく。

本づくりについてのスケジュールをOKしてくださった。

たいへんありがたく、ほっとした。

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2019年6月12日 (水)

 「毛利武彦詩画集『冬の旅』出版記念展、阿部弘一先生朗読会

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6月10日(月)大雨

チョビのことが心配だったが、病院に預けるのが(チョビが恐怖でおかしくなりそうなので)かわいそうで、結局、家にプフと2匹で置いたまま、銀座うしお画廊へ。

地下鉄の駅を出てから横殴りの強い雨で服も靴もびしょ濡れ。こんな天候の日に、無事来られるのだろうか、と阿部弘一先生のことがすごく心配になる。

画廊の入り口前で毛利先生の奥様のやすみさんとお嬢様とお会いする。奥様の体調も心配だったが、とてもお元気そうでよかった。

会場は多くの人で賑わっていた。

阿部弘一先生は雪のように頭が白くなってらしたが、背筋もすらっと伸びてお元気そう。笑顔が見られて感激。ご子息にご紹介くださった。

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毛利先生のスケッチ。銅版画のように黒くて端的な線と、その分量。本画を想定して思索的に描かれていることに注意して見ていた。

森久仁子さん(春日井建さんの妹で毛利先生の従妹さん)にも、久しぶりにお目にかかることができてありがたかった。陶芸をやっている息子さんと一緒だった。

16時から朗読会が始まる前、阿部先生と、毛利先生の奥様と、朗読する藤代三千代さんのほかは、ほとんど全員が床に座った。その時、「毛利先生の画集だから。」とおっしゃられて、自分も(ステージ用の椅子ではなく)床に座ろうとする阿部先生。

まず最初に阿部弘一先生から、毛利先生と初めて会った時のお話。戦争が終わってから、慶応高校が日吉にできて、そこで出逢ったそうだ。

毛利先生は生前、慶應高校に勤めて何よりも良かったことは阿部先生と出会えたこと、とよく言ってらした、と奥様から伺っている。

藤代三千代さんが何篇か朗読された後に、阿部弘一先生自らが朗読されるのを生でお聴きする、という素晴らしく貴重な経験をさせていただいた。

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肉声で阿部弘一先生の詩を聴くという初めての体験は、言葉が絵と音として強く胸に響いて来、予想を超えた新鮮な衝撃だった。

阿部先生の詩をもっとたくさんの人に知ってほしいと心から思った。

阿部弘一先生が、ご子息に私を紹介してくださるときに、『反絵』の本にふれて、私のことを「厳しい文章を書く人」と言ってくださったことが信じられないほどありがたかった。

「最近は本屋に行って詩の棚を見ても辛くなりますね。」と嘆いていらした。

「ポンジュって知ってる?僕の友人が訳してるんだけど。」と毛利先生がご自宅の本棚から一冊の詩の本を見せてくださったのは、私が大学を出て少しした頃。

父の借金に苦しめられていて、世の中のすべてが暗く厚い不透明な壁に閉ざされて息ひとつするのもひどく圧迫されて苦しく、ただひとつの光に必死にすがるように、敬愛する恩師の家を訪ねた日のことだ。

それから阿部先生の現代詩人賞授賞式に誘ってくださった時のことも素晴らしい想い出(そこでは息も止まりそうな大野一雄先生の舞踏(その出現)があった)。ずっと私は夢中で阿部先生の著書を読み、私の絵を見ていただいてきた。

私にとって阿部弘一先生は、毛利先生と同じく、昔からずっと畏れを感じる存在、とても緊張する相手で、気安く話ができるかたではない。

阿部先生のような方と出会えたことが信じがたい僥倖だ。

「次の本はもうすぐ出ますか?」と覚えていてくださることもすごいことだ。

阿部先生のご子息は水産関係の研究をしてらっしゃるそうで、私のことを「そうか!この人は一切肉食べないんだよ。だから魚のほうの研究はいいんだ!」と、先生が笑って言われたこと、「植物の名前を本当によく知ってるんだ。今度、庭の樹を見に来てもらわなきゃ。」と言ってくださったことも嬉しかった。

「草や樹がどんどん増えてなんだかわからなくなってる。誰かさんがどっかからとってきて植えるから。」とご子息も笑っていらした。

阿部先生は、前々から、大きくて重たい椿図鑑をくださるとおっしゃっている。とりあえず阿部先生のご自宅のお庭の、68種類もある椿の名札をつけるのに、その図鑑を見ながらやる必要がある。

毛利先生のお嬢様に、原やすお(昔のまんが家で、毛利先生の奥様のお父様)の大ファンだった話をしたら、とても驚いて喜んでくださった。

毛利先生の奥様のご実家に原やすおさんのたくさんの本や切り抜が保存してあって、お嬢様がもらうつもりでいたのに、亡くなった時に全部処分されていてショックを受けたそうだ。

上野にある国立国会図書館国際子ども図書館で、いくつかの作品を見ることができるとのこと。

阿部先生の新刊、詩集『葡萄樹の方法』を出された七月堂の知念さんともお話しできた。

http://www.shichigatsudo.co.jp/info.php?category=publication&id=budoujyunohouhou

記念撮影。阿部先生と毛利やすみさん。

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阿部弘一先生の向かって左にはべっているのが私。

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慶應高校の毛利先生の教え子のかたが持って来てくださったらしい当時の写真。

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1964年夏の毛利武彦先生。

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1962年、裏磐梯の毛利武彦先生。

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当時の阿部弘一先生。

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皆様お元気で、お目にかかれて本当に幸せでした。

 

 

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2019年4月28日 (日)

吉田文憲、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の授業

4月17日

吉田文憲さんから久しぶりに、急な電話でのお誘いががあり、一ツ橋の大学院の『銀河鉄道の夜』の授業におじゃました。

いきなりだったので『銀河鉄道の夜』の本も準備できなかった(うちの本棚のどこに入っているのか、すぐに捜せない)。ばたばたと出かける。

会ってすぐ、なぜ今までずっと音沙汰なく急な連絡になったのか、昨年の今頃のパラボリカの森島章人『アネモネ・雨滴』展では森島さんが吉田さんをずっと待っていたのになぜ来てくれなかったのか聞いてしまった。すごく体調が悪かったという。

国立の大学通りの花壇にはチューリップが大きく開いていた。大学の庭の普賢象の八重桜も、もう開き過ぎてぽしゃぽしゃしていた。

大きな教室の端っこにひっそり座っていればいいのかと思っていたら、大学院のゼミで、13人しかいない、とこの時に聞いた。うち10人は中国と韓国からの留学生さんだという。

扉を開けたら狭い部屋のひとつしかない長机に学生さんたちが集合していたので、すごく緊張して恥ずかしかった。吉田さんの詩集の装丁を何度かやっている画家だと紹介されて頭を下げる。

私は学生時代に「ゼミ」という(膝を突き合わせて意見を言い合うような)経験がない。あったとしたら緘黙気質の私は(頭の中では言いたいことがあっても)絶対に自分の意見を言えなかったし、たいへんな苦痛だったと思う。

ゼミのメモ。

『銀河鉄道の夜』、二章の「活版所」と三章の「家」を読んだ。

物語の舞台状況をなす構成要素の一つひとつに象徴的意味を読み解いていくといった内容だった。

坂道が物語の重要なトポス。

川・・・天の川と地上の川が一体化、互いに映し合う。宮沢賢治の故郷、花巻には北上川がある。北上川は北から南に流れる。

橋・・・境界領域

牛乳・・・ミルキーウェイ。ジョバンニが病気の母親のために牛乳(ミルキーウェイ)をとりに行く。牛乳を手に入れるところで物語が終わる。

空からの雨、雪・・・浄化。『永訣の朝』では、死んでいく妹を見送る儀式となる。

星祭、青い灯・・・死のイメージ。誰が死ぬのか。青と白。黒い服。

活版所・・・昼なのに電燈がついている。薄暗い。

「うたう」「よむ」(近代的「よむ」は黙読。それ以前は「うたう」と同義)「かさねる」・・・呪術を帯びた動詞を3つ。(活版所では「輪転器」が回っているので)ものすごい音がしているはずなのに音が消えた世界。

「活版印刷で本をつくるとすごく字が締まるんですよ」というような吉田さんの説明。

吉田文憲さんの詩集『原子野』の装丁を私がした時、板橋区の活版印刷所に行った。当時、活版印刷の会社は日本で2か所しかない、と社長さんに言われたような記憶がある。「いつまでたってもグーテンベルグ」というような標語が掲げてあったような。その時に私が撮った活版の活字の写真がある。

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Skappan

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粟粒ほどの活字・・・貧困、愛しさのイメージ。

ジョバンニの家・・・母親は布をかぶって休んでいた。アニメでも母親の顔が出て来ない。母親はすでに死んでいる、と解釈する人もいるとのこと。

姉・・・母親との会話の中に出てくるだけ。

父親・・・会話の中にしか出て来ない存在。しかし物語の核心。お父さんがいないために苛められている。

ラッコの上着・・・当時、ワシントン条約で禁止されている。小さなラッコで上着をつくるのも不自然。

カムパネルラ・・・女性的な名前。釣鐘。鎮魂的。セリフが無い。声を与えない。銀河鉄道が走りだすまで空白(何を考えているかわからない)。

ザウエルという名の犬・・・犬とは距離がない。(物語上の今、カムパネルラとは距離がある。「あのころはよかったなあ」と推定小5くらいの子どもが言うところが残酷。)

天気輪の柱の丘・・・泣きながら街を見下ろす。遠くてはっきり見えないところで、カムパネルラがおぼれた子(しかもそれはいじめっ子のザネリ)を助け、自分は力尽きて沈んだ。

ボートに乗れる人の数は限られている。タイタニック号と同じ。究極の選択。

「ほんとう」・・・平仮名。「ほんとうは何かご承知ですか。」何がほんとうなのか、わからない。「分ける」ことができない。不可知論。

吉田さんはこの授業で『風の又三郎』をやりたかったそうだが、『銀河鉄道の夜』のほうが世界的に多くの人に読まれているということで、『銀河鉄道の夜』になったらしい。

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私は久しぶりに聴講したので、聞き漏らさないように集中することですごく疲れた。

5時にゼミが終わった。三鷹で食事。

私の次の本についての話をざっくりとした。

「誰に文章をいただいたと思う?」と尋ねて「まったく見当がつかない」と言われ、「G先生。」と言ったら「ええ?!」とやはりものすごく驚いてくれた。びっくりしすぎて言葉が出ない、と。

とりあえず、そのことを喜んでくれたことがとても嬉しかった。お祝いということで、私は新潟産のお酒を飲んだ。

文学というものはすべてが「収奪」なのかもしれないが、私は政治的主張に絡めたこじつけや物言えぬ当事者から「収奪」したアートは嫌い、それなら言葉による概要書で充分だし、そこにアートはいらない、と言ったら、「あなたはほんとうに昔から変わってないね。いや、悪い意味じゃなくて、いい意味で。」と言われた。

 

 

 

 

 

 

 

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2019年4月26日 (金)

水沢勉さんにお会いしに神奈川県立美術館葉山へ行く

記録しておくべきことがたまってしまった。だいぶ過去のことになるが、一冊の本をつくるための長く曲がりくねった道のりの途中。

4月9日

次に出す本のことで、水沢勉さんに相談しに神奈川県立美術館葉山へ。

だいぶ前に9日午後2時に約束をいただいていた。

地下鉄を使い、新宿3丁目で副都心線に乗り換え、直通で横浜まで。横浜から京急で新逗子へ。(最近は新宿から湘南ラインに乗るより便利。)

金沢八景で乗り換えが初めてだったので、違うホームに行ってしまったりして階段を引き返した。途中、神武寺のあたりで見えた萌出たばかりの薄銀黄緑色の新芽の点描の樹々、倒木のある山の様子が素敵だった。新逗子からバス。途中の岩場で遊びたくてたまらなかった。

1時20分くらいに着いて受付に取り次いでいただく。約束は2時だが、急な来客が2時にあることになったそうで、「早く来てくれてよかった」と、先に館長室に通してくださった。

ISBNがつくことは重要なこと、国会図書館に入ることは文化遺産になるということだから、と言われた。

また英訳者さんを選ぶのがとても重要だと。水沢さんは偶然(美術館に来て)出会われたPさんを推していらした。水沢さんは知らなかったが、最近大きな賞をとったかた。

私はS社のNさんしか頭になかった(全然存じ上げないが、S社の仕事をいつもされているかただということで。)

二人に同じ短文を訳してもらって比較したほうがいいと言われた。ちょっと私にはそんなことはできそうもないが、お二人に振り分けてやっていただくことはありうると思った。

 

2時から3時半くらいまで、水沢さんが急な来客に対応しているあいだ、私は浜へ出たり、庭でぼーっとしたり。

富士山が大きく見えた。

 

水沢先生が私を待たせていることを気にして、2階からロビーの私に向かって手を振ってくださったりされていることに、たいへん申し訳なく思った。すごくお忙しいかたで、今回の2時の急な来客も、なにかトラブルで急用だったらしい。

文章を書く人が遅れてずるずるしないために、まず本の刊行日を今、ここで決めて、と言われる。なにかの記念日はないのか、と聞かれて困る。そこから逆算してすべてのスケジュールをはっきり決めないとだめだと。

本日、私が話したかった用件、文章の内容について、なかなか私の考えていることは言葉にできなかった。なぜ話せなかったか、その理由も、言語化すること自体が困難だし、そのことについてブログに公開できることはない。

帯になる文について、G先生にいただいた、ということを言ったら「ええ?!Gにもらったの?あなたの人生変わるよ。」とすごく驚かれていた。「どんな文章?暗唱してる?」と言われて困った。

私自身は、今回、私が水沢さんを訪問した理由を言語化できなかった理由も、毎回、私が自分の仕事について人になにかを話す時に苦しんでいる理由も、G先生にはすべて伝わって、文章をいただけたのだと信じている。

5時に美術館が終わってからもお話ししていた。7時過ぎに外に出ると空が藍色に澄んでいた。東京とは明らかに違う空気。潮の匂い。

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2019年4月 1日 (月)

ジョナス・メカス展、水の塔、新井薬師

ココログのリニューアルにより数々の不明と不具合で、ブログを書くのが面倒になり、ずっとほっていた。新システムのやりかたを調べながら少しずつ書きます。

3月13日

本日は中野駅から、こうの史代『桜の国』に出て来た「水の塔」を訪ねた。

そのあとジョナス・メカス展を見に、中野区新井薬師駅近くのスタジオ35分へ。

中野駅北口。新井交差点のそば。まずは私の大好きな帽子材料と布花材料の店、ニシダさん近くの、駐車場のドアの前で撮影。

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中野駅から中野通りをひたすら北上。ビーンズという無農薬野菜の店とカイルズ・グッド・ファインズというアメリカン・パイの店を左手に通り過ぎ、新井天神北野神社の池を左手にに通り過ぎる。

思っていたより遠い(2kmくらい)。強い北風に鼻水が止まらない。

踏切を越し、哲学堂公園を右に通り過ぎ、椿咲く静かな蓮華寺の裏の細道を通って水の塔公園へ。

水の塔は「野方配水塔」というらしい。「空襲時の弾丸の傷跡が残されている配水塔です。関東大震災後、都市化による水の需要に応えるため、この地にあった給水塔に、配水塔がつくられました。この配水塔は1966(昭和41)に配水を止め、その後、災害用給水塔として使われてきました。中野区」と看板にある。

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水の塔公園の中の枯れ蔓が素敵だった。

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複雑に絡まった枯れ蔓を下から眺めながら、どこを切り取るかを考える。

自然にそこに生まれているものを見るほうが、現代美術のオブジェを見るよりはるかに自由な想像力をかきたてられて夢中になる。

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水の塔の弾丸の跡が見られるのは幼稚園の側から。

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「桜の国」というように新井薬師の周辺は桜(ソメイヨシノ)がいっぱいだが、まだ固い蕾。すべての開花の直前の寒さが身に沁みる。

古い団地の前にソメイヨシノではない早咲きの桜(マメザクラ?)が満開なのを見つけた。

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新井薬師まで途中、けっこうな坂を上り、高台から振り返ると水の塔の丸い頭だけが小さく見えた。上高田図書館の横を通る。

スタジオ35分のジョナス・メカス展は18時開場。町は宵闇に包まれつつあった。

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静かに見られてよかった。ギャラリーは元写真屋さんらしい。35分の看板を残したのはしゃれている。
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新井薬師の商店街は古い建物が残っていたのにびっくりした。高円寺でも、ここまで古いのはない。

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薬局だったらしい建物。「科」の前の文字は何だったのか。小さく「中野區歯科医〇〇〇」という札。(〇は読めない)

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やたらに懐かしい昭和の雰囲気の商店ばかり。「いげたばち お茶とのり」。
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金鳥とキンチョールの看板。「ぎふ屋」。

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新井薬師の踏切を超えて中野駅側へ。
「書籍 雑誌 すばる書店」。

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新井薬師の参道を抜ける。「日本一安い!!皆様の 泥棒 激安 泥棒市場」。。

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「文化堂金物店」。「傘と履物 叶屋履物店」。
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お煎餅屋さんがまだけっこうあった。ずいぶん昔に来たきりだが、(敷石は新しくなっていたが)店は昔とほとんど変わっていない印象。

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「天然温泉 中野寿湯温泉」。中野にも天然温泉があったとは。

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私の故郷、西新宿の十二社(じゅうにそう)天然温泉は、気づいたら2009年に営業を終えていて、すごく淋しい。

幼児の頃、よく祖母に連れられて行った黒い昆布が溶けたようなぬるぬるの十二社温泉が大好きだった。

上がってからは宴会場でサイダーを飲んで、ステージの上で浴衣で日本舞踊を踊る人たちを眺めながら、何時間もぼーっとすごしたのが夢のような思い出。

やっと中野ブロードウェイに着き、いつもの天ぷら屋さんで天ぷらと熱燗。空腹で冷え切ったからだを温める。

私の好きな天ぷら屋のご主人がお元気で揚げていらしたことに感激。たしか今年で81歳くらいだ。しばらくお顔を見ていなかったので心配だったが、きょうはすごく嬉しかった。

ノスタルジックな旅。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年3月21日 (木)

G先生、次の本の制作、PC破損修理、サーバーのメール消滅

2月23日(土)

G先生から写真を送ってくれとのメールが来る。

前の私のメールへの返答はない。ただ「写真を送れる?」という短いメール。

G先生のエッセイに写真についての思いを書いたものがあるが、思索的な意味があるのか、わからない。とても不思議。

2月25日(月)

G先生に写真を送る。

送った後で、ずっと緊張しっぱなしで神経が疲れていたことが、なんだかおかしくなって笑い出したくなってきた。

とにかく先生は私の絵についてお言葉をくださったのだから。お言葉をいただいたことが重要で、あとはどうにかなるだろう。

・・・

鵜飼哲さんからメール。

研究室の片づけなども含め、原稿は8月以降になるとのこと。

2月26日

出版社に電話。

翻訳作業は水沢勉さんの原稿を出版社に送ったあと、文字数を数えた後でいいと言われた。

美術専門の英語翻訳家を紹介してもらえてほっとした。それで少し気が楽になった。

3月8日

ナツメ社のSさんから『デッサンの基本』重版のお知らせをいただく。

今度で32刷り。

Sさんは今年の6月に定年退職されるというので驚いた。

Sさんに担当していただいてもう10年。年月に実感がないことが怖い。

3月12日(火)

本とは別の仕事の件でHさんと電話。Hさんも、もう歳だから仕事をやめたいと言う。

ぶつっとやめるのは淋しいから、まばらにやったらいいのじゃない、と言ったら、そうだね、それがいいね、と。

3月13日(水)

ジョナス・メカスの写真展を見に、新井薬師の「スタジオ35分」へ。

中野から歩き、スタジオへ向かう前に、こうの史代『桜の国』に出てくる水の塔を見に行った。

陽が落ちたら急に寒くなり、一眼レフを持ったせいか左肩と首が痛くなる。新井薬師の商店街は昔にタイムスリップしたようだったが、北風に凍えて楽しめなかった。

3月15日(金)

机で書き物に集中するため、ノートPCを閉じて布団の上に置いていた。

ふとPCを開け、スイッチを入れると真っ暗な画面から「NEC」と書いた画面に移行せず、ガラスが割れたような放射状の亀裂と、極彩色の格子がちかちかする画面が出た。

これはもう絶対壊れたと一瞬でわかる。画面自体が割れているわけではなく、割れている画像が見えている状態。

3月16日(土)

NECに電話。

やはり液晶画面の破損、液漏れにほぼ間違いなさそう。

購入時に3年保証に入っていたが、液晶画面の交換はその補償に含まれないそう(ショック!)で、75000円かかると言われた。

子猫3匹が暴れまわる狭い部屋の中では、なにが起きても不思議ではない、こんなこともあるだろうと妙に納得していた。

(スカイプを使えないので)友人に電話したら「死ぬわけじゃないし」と言われて、ほっとした。

3月17日(日)

S急便の人が昼にPCを引き取りに来てくれる。PC専門の入れ物に、そっと入れてくださいと言われる。

古いPCを繋ぎ、OCNメール(サーバー)を見たら1000件ためていたメール履歴が全部消えていた。こちらのほうがPCの破損より理不尽に思え、すごいストレスになった。

OCNメールのリニューアルと同時に消えたようで、3月3日以降の40件ほどしか残っていない。これでは仕事にならない。

3月18日(月)

OCNに電話して尋ねると、「新しくなったOCNメールで、メール履歴が消える設定はない」という。ならどうして私だけが?

「聞いてきますのでちょっとお待ちください」と何度も言われ、3時間近くかかった。

メール検索など何度もかけたが、読み込みの問題ではなく、消えている。右上に40件と書いてあるのだからその数しかない。

古いPCで使っていたのはサポートがなくなったWindows Liveメールで、そこにはメール履歴が残っていたが、セキュリティがないので、へたにエキスポートなどしないほうがいいと思い、やめた。

Windows live メールの詳細設定を見たが、ちゃんと「サーバーにメールを残す」設定になっている。

OCNメールはなんとも迷惑だ。

さらに新しくなってからやたらに「読み込んでいます」というくるくる渦巻になって、書くのも削除するのも時間がかかるのでイライラ。

3月20日(水)

首(特に左)が、がちがちになってしまい、ほぐしマッサージに行く。すごく固い凝りの塊があると言われる。

夕方、PCが戻って来た。予想より早い。

コンテナから出す時、やはりS急便の人は触ってはいけない決まりだった。

中のデータは元のままだったのでやっと安心。

久しぶりにブログにアクセスしたらniftyのココログも新しくなっていた。嫌だなあと思う。

このブログを書いただけでも、コピペできない、複数カテゴリが選べない、ツイッター連携できないなどの不具合だらけ。

PC、メール、ブログ、ツイッター・・こういうことに振り回されることは本当に嫌だ。

 

 

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2019年2月28日 (木)

G先生からのお言葉(次の本)/ 花輪さん、友人に感謝

2月15日

G先生から私の絵についてのお言葉(次に出す画集のための)が届いた。

文章をいただけたことがまだ信じられない。ありがたいのだが、いろいろ考えてしまい、緊張して恐ろしいのがまさる。

親友たちが本当に喜んでくれた。彼らの喜ぶ様子を見て、私も少しずつ嬉しくなってきた。

それでもまだ現実感がない。

2月13日

花輪和一さんと電話。気温は氷点下で、雪も溶けずに積もっているが、バスで出かけていたそうだ。

先日の私の絵に似すぎている絵を描いている学生の話について、花輪さんは私のブログを読んでくれていた。

「すっごい変なのがいるねえ。性格が異常だよねえ。そんなのの絵は絶対ものにならないでしょ。言ってることがDV男みたい。」と言われた。

「なんで最近の若い人はそんなにおかしいの?食べ物が悪いの?」と聞かれたけれど、おそらく現代の病で、やたらに自尊感情や承認欲求ばかりが高く、利己的、功利主義的に育ったのでしょう。

「ずばっと本当のことを言ってやってよかったんだよねえ。絶対に自分は悪くないってどんなにわめいて、言い張って見せても、「鎧通し」のように突き刺さってるから。」

「鎧通し」とは、格闘して敵を鎧の隙間から刺す、身幅が狭くて、手元に近いところはかなり厚みがあるが先は薄くなっている短刀だそうだ。

花輪さんは幼少期の愛情不足や虐待(ネグレクト)もあり、15歳の頃からひとりで生きて、苦労して絵(漫画)をかいてきたけど、自分が努力して道を伐り拓いてきた、とは決して言わない。そういうことを言うのはすごく恥ずかしい、と言う。

私は花輪さんの並外れた才能と謙虚な人柄を尊敬している。

花輪さんがすごいところは絵に嘘がないこと。

植物や動物へ愛情のこまやかさ、眼を通して細部のニュアンスまでとらえる力が突出していること。

仕事に対して効率よくお金を得ることは考えず、自分で納得できる作品を常に目指していること。

人への遠慮や気遣いがあること。

花輪さんとのつきあいも長いが、思えば、私はすごく尊敬している人から大切にされなかった経験があまりない。

もしかしたらこれはすごいことかもしれない、とありがたく思う。

昨年の7月、花輪さんに会いに北海道に行った時、(花輪さんの担当編集さんお気に入りの)少しだけ高級な寿司屋に行こうか、と言われ、私は食べ物に高いお金を使うことに躊躇があるので断ってしまったことを、今、少し後悔している。

花輪さんに会いに北海道に行くことも滅多にないのだし、特別な機会としてちょっとだけ贅沢してもよかったのかも、と。

だけど次に会いに行っても、やっぱり(お金を使うのが怖くて)高級寿司屋には行かずに、庶民的な居酒屋に行ってしまうのかもしれない。

私にとって最高においしい食事は、高級料理よりも、どれだけ素敵な人と食べるかが一番大切だと思うから。

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しばらくほっておいたツイッターを、またやり始めた。

なにもかもわからないことばかりで、全然気軽につぶやけないが、少しずつ。

無知な私に教えてくださったM子さま。久しぶりにお便りをくださったN子さま。

ツイッターがきっかけで知り合った女性の友人は皆、メールの文面も素晴らしくしっかりした思いやりのあるかたたちだ。

お知り合いになれて本当に嬉しい。

心から感謝します。

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2018年12月22日 (土)

猫の絵、動物の犠牲について、デリダ

12月22日

猫の絵(Cat drawing, Dessin)

わずか100gちょっとで拾われた日のチョビ。初めて病院に行った日(135g)のチョビ。

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小さな犬のぬいぐるみだけに甘えていたチョビ。
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真菌によってしっぽ、手足、首の毛がはげたチョビ。特にしっぽが真っ赤で痛々しかった。
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ひとりぼっちではなくなったチョビとプフ。
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「〈殺すなかれ〉は、ユダヤ・キリスト教の伝統のなかでは、また明らかにレヴィナスによっても、〈生物一般を死なせてはならない〉という意味で解釈されたことは一度もない」。

「人間主義を超えて」存在の思考を推し進めたはずのハイデガーも、犠牲(サクリファイス)のエコノミーを問いなおすことはできなかった。

ハイデガーでもレヴィナスでも、「主体」とは、「犠牲が可能であり、生命一般の侵害が禁じられていない世界における、ただ人間の生命に対する、隣人である他者の、現存在としての他者の生命に対する侵害だけが禁じられている世界における人間なのだ」

(「〈正しく食べなくてはならない〉あるいは主体の計算――ジャン=リュック・ナンシーとの対話」)。

こうしてデリダが、ユダヤ=キリスト教も含めて、西洋形而上学の「肉食=男根ロゴス中心主義」を問題化する。

それは、現代の動物実験、生物学実験に至るまで、「肉食的犠牲が主体性の構造にとって本質的である」ような世界である。

いまからほど遠くない過去に、「われわれ人間」が「われわれ成人の、男性の、白人の、肉食の、供犠をなしうるヨーロッパ人」を意味した時代もあった(『法の力』)。

(高橋哲哉『デリダ――脱構築』(講談社)より引用)

・・・

「 問題は(略)動物が思考すること、推論すること、話すこと等々ができるかどうかではない。(略)先決的かつ決定的な問いは、動物が、苦しむことができるかどうかであるだろう。《Can they suffer?》

この問いは、ある種の受動性によっておのれを不安にする。それは証言する、それはすでに、顕わにしている、問いとして、ある受動可能性への、ある情念=受苦(passion)、ある非‐力能への証言的応答を。「できる」(can)という語は、ここで、《Can they suffer?》と言われるやいなや、たちまち意味および正負の符号を変えてしまう。

「それらは苦しむことができるか?」と問うことは、「それらはできないことができるか?」と問うことに帰着する。

(略)苦しむことができることはもはや力能ではない。それは力能なき可能性、不可能なものの可能性なのである。われわれが動物たちと分有している有限性を思考するもっとも根底的な仕方として、生の有限性そのものに、共苦(compassion)の経験に属する可死性は宿っているのである、この非‐力能の可能性を、この不可能性の可能性を、この可傷性の不安およびこの不安の可傷性を、分有する可能性に属する可死性は。」

(ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物)である』(鵜飼哲訳、筑摩書房)より引用)

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