福山知佐子個展 原宿NEW トーク概要とレセプションの様子
8月8日に私のXがのっとられて(メールアドレスを勝手に変更されて)しまいました。すぐにX公式フォームに申請し、メールで返事をもらい、そのメールにまたアカウントなどを書いて返信しましたがそれから返事がきません。
解決法がわかるかたは、私のHPの問い合わせか、ギャラリー十二社ハイデのHPの問い合わせからどうかアドバイスをお送りください。
よろしくお願いいたします。
9月4日(金)
トークとレセプションの様子です。
立って司会しているのがギャラリーのスタッフさん。真ん中に座っているのが私。私の隣が現代美術史研究家の篠原さん。
トークの概要:
○今回の展示「異生の顫動」とは
「異生」とは人間でない者の生命です。
私はずっと、絵というのは自分の内側だけで閉じて作るものではなくて、自分の外に在るものと自分との関係のなかで、手を通して立ち上がってくるものだと感じています。
最初に観念や概念を置いて構成するという人間中心主義の考えよりも、人間ではない生命のかすかなふるえや、ごく微細な気配にこちらも感応して、自分自身もふるえるようにして線を引き、そこから絵画が派生していくことを大切にしています。
現代は概念や人工物や経済の論理がとても強い時代だと思います。
だからこそ、自分の外に在る生の気配に触れようとする絵は、古いのではなく、むしろ今あらためて重要なのではないかと感じています。
○若林奮さんの「振動」と、今回の「顫動」との違いは
若林奮先生には、人間でないものの生命をテーマにするという点で、本当に大きな影響を受けてきました。
若林奮先生の「振動尺」の「振動」は、難しいのですけど、自分と人間でないものとの間を行き来する振動、反響、そのあいだの(固定しない)距離、といったようなものかと思います。
私が今回使った「顫動」は、かすかにずっと震えている状態、怯え、過敏さ、はかなさ、わからなさ、見過ごされている息づかいや気配、というようなものです。
○どのようなものを見つめる中で生まれてきたのか 前の画集について
まずは植物の運動、変容の時間です。
私は物心ついたときから動植物に強く惹かれてきましたが、ある時期から、花瓶の中の植物が萎れて枯れて、ついには粉になっていくまでの時間の運動を、何度もデッサンするようになりました。
ここに、30年、植物の衰弱していく運動を描くのを繰り返しやって来たのをまとめた画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』があります。
皆がその名前を知っていても実は見ていない植物の運動の時間、変化しつづける存在としての、時間を描きたかった。
私の絵を見た人から「これは想像の花ですか」「宇宙の花ですか」と言われることがあります。
けれど私にとってそれは空想ではなく、むしろ徹底して私の身体の体験の証言なのです。
つまり、私の絵が既存のイメージから外れて見えるのは、作為的に型を壊しているからではなくて、
人々の側の固定化された概念では捉えきれない、そこにむき出しで晒されているものが変容して動いている時間を描こうとしているからです。
私は最初からステレオタイプを崩すことを目的にした方法には、あまり惹かれません。
それは既存の意味や概念を別の意味や概念で置き換えているだけで、画家の身体や眼が何を見たのかということには、必ずしも触れていないと感じるからです。
もちろん、そうした作品には説明可能性があります。
聞けば理解できるし、意味として受け取ることもできる。
でも私には、その理解のしやすさ自体が、見ることの深さとは別の次元にあるように思えます。
私は、壊すために壊すのではなく、見ることの精度、というのか、自分の眼の力によって、結果的に壊す、結果的にステレオタイプから抜け出るということをやりたかったのです。
陳腐なものから抜け出るために「デッサン」というものには身体を開く革命の可能性があると思っています。
今の時代のアートの傾向ではデッサンは重要視されていませんが、概念ではなく身体の直接性と結びつくのがデッサンだと思っています。
画家とは本来、ふつうの人には見えていないものを見る眼をもつ存在で、
その眼は、奇をてらうためではなく、見慣れた名前の奥に隠れてしまった現実を、もう一度見えるようにするためにあるのだと思っています。
私が絵画に求めているのは、概念の巧みさではなく、見ることの切実さです。
本当に見た者にしか描けないものがあり、その痕跡こそが画面に現れるべきだと思っています。
だから私は、最初から意味を設計して成り立つ表現よりも、眼と身体が現実にさらされた結果として立ち上がってくる絵画に、より強く価値を感じます。
○「証言」について
私は「証言」の問題や「当事者性」の問題、つまり誰がそれを表現する立場にあるのかという点が重要と考えています。
たとえば、「人間中心主義を批判する」というコンセプトでアートを制作したとします。
けれども、その過程で人間ではない小さな生き物の命を利用したり、危害を加えたりする可能性があるなら、それはむしろ人間中心主義の再生産です。そうした行為は、「収奪」や「搾取」と呼ぶべきものだと思います。
同様に、「戦争」や「虐殺」、「差別」といった題材を扱う作品についても、それらの歴史や現実と長く向き合い、学び、自らの生き方とどのように照応しているのかを問い続ける必要があると思います。
そのうえで、その作品によって誰が利益を得るのかまで思慮されていない表現は、「収奪」と言いうるのではないかと思います。
私がもっとも忌避する人間中心主義とは、他者の痛みを表象の資源として用いながら、自らは安全圏にとどまる態度です。
私が見つめているのは、そのような人間的な暴力に先立ってある、ごく微細で持続する生の徴候です。
それは、出来事として強く語られるものではなく、むしろ見過ごされやすく、しかし消えきることなく続いている気配です。
私は、強い意味を与えることよりも、そのかすかな顫動を壊さずにとどめることのほうに、制作の必然を感じています。
人間の外にあるものは、人間の解釈や都合とは無関係に生きています。
私にとって重要なのは、まずその事実です。
だから、強い物語やわかりやすいメッセージによって対象をすぐ理解可能なものとして整理し、人間の意味の体系のなかに回収してしまうことに、私は強い違和感があります。
そうした解釈や語りは、何かを捉えたように見えて、実際には生の複雑さや沈黙を取りこぼしてしまうことが多い。
私が向かいたいのは、そのような把握の手前にある、ごく微細で持続する気配です。
簡単に説明できないもの、言葉にした瞬間にこぼれ落ちてしまうものを、できるだけ壊さずにとどめたいと思っています。
私にとって絵は、何かをわからせるための道具ではなく、人間の思惑の外でふるえているものに、こちらもまた感応しながら応答するための場です。
○新作について
朽ちていくものの時間と気配そのものを主題にした作品です。
植物の衰弱の運動に興味を抱くと同時に、錆や剥落、亀裂、黴、かすれ、古色のように、時間とともに立ち顕れてくるものにも動植物的なものを見て、感応してきました。
何かが完成された姿でそこにあるというより、時間のなかで傷み、衰え、変化しながら現れてくるもののほうに、私はより深い実在を感じています。
最初から明確な形を与えようとはしていません。むしろ、まだ形になりきっていない、ごくかすかな気配のようなものに、できるだけ長く留まろうとしていました。
存在と不在のあわいというのも、何かがはっきりそこにあると断言できる状態ではなく、たしかに触れた気がするのに、すぐに見失ってしまうような、その不安定さのこととして感じています。
なので今回の作品では、それを強く説明したり、象徴として固定したりするのではなく、消えそうで消えない震えとして、できるだけ壊さずに置くことを大事にしました。
形は、その気配を支えるためにあとから必要になってくるものであって、最初に結論としてあるものではありませんでした。私にとっては、何かをはっきり示すことよりも、まだ言い切れないものがかすかにとどまる状態を守ることのほうが重要でした。
○新刊について
この新刊は、私にとって本当に特別な本です。
子どものころから沢渡朔さんの写真に強く惹かれていて、とくに『少女アリス』と『ナディア』には心酔してきました。『少女アリス』には谷川俊太郎さんの詩も添えられていて、その世界にも深く魅せられていました。
最初の個展をしたとき、思い切って沢渡さんにご案内をお送りしたら、実際にいらしてくださったんです。
そこで撮影をしようというお話までいただいたのですが、私にはあまりに畏れ多くて、すぐにはご連絡できませんでした。結局、実際に撮っていただいたのは、それから7年くらい経ってからでした。
そのとき沢渡さんが、あなたの好きな場所で撮ろう、そしてあなたの絵の隣に置けるような、絵の世界と通じあう写真にしようと言ってくださって。
それで私は、自分の好きな、秘密の廃墟にお連れしました。
谷川俊太郎先生とのご縁も、最初の個展がきっかけでした。
ご案内をお送りしたら会場に来てくださって、その後、一冊目の本『デッサンの基本』では帯のために三つも詩をくださり、
二冊目の『反絵、触れる、けだもののフラボン』のときにも、私の身体感覚や仕事に対して深く理解してくださっていることばを寄せてくださいました。
そういう、長く遠くから支えていただくようなご縁がずっと続いていたのだと思います。
二、三年前に私が右肺の中葉を摘出したときには、その傷を沢渡さんが撮影してくださいました。
そしてその後、沢渡さんから、昔撮った写真とこの傷の写真をあわせて本にしたいと言っていただいたんです。
そこに私の絵を入れて、さらに谷川俊太郎さんから三篇の詩をいただいて、この一冊ができました。
谷川俊太郎さんは2024年11月13日に亡くなられて、この本はなおさら大切なものになっています。
この本は、私の人間中心主義への違和に、沢渡朔さんと谷川俊太郎さんが共振してくださった記録です。
枯れていく植物たちとの共振としての顫動と、ふたりの先輩芸術家との顫動が、一冊の本のかたちをとったのだと思っています。

Galerie412の渡部千鶴香さんと。今日初めてお目にかかったのに、私と会ったことがあるとおっしゃられて。
「若林さんのお葬式の時にすごく泣いていた人。あの写真集を見てすぐにわかったわ」と言われ、思わず反射的に渡部さんに抱きついて涙ぐんでしまった。
思い出して悲しくなったからではない。
あの時の私を、否定的にではなく、はっきり覚えてくださっていた人がこの世にいてくれたことが、信じられないほど嬉しかったからだ。
「あの時、吐くほど泣いて・・・吉増さんから「あんまり泣いちゃだめ。隠し女だって思われる」って言われて」
「いいのよ。画家は、泣きたいときは思いっきり泣いて」
渡部さんからは本当にありがたいお言葉をいただいた。
「若林さんの遺志をここまで継いでいる人はいない。銀箔を使ってやっている人も何人も知ってるけれど、あなたは全然違う」と。
「初めての個展の時に若林先生が来てくださって、銀箔の絵を見て「これは現代美術になっている。この方向で展開していったほうがいい」とおっしゃられて。それで私は銀箔を使って現代美術としてやっていきたいと心が決まったんです」
「それは若林さんもすごくいいこと言ったわね」
「今も振動尺の話しているの私くらいしかいないし・・」
「若林さんの話も、矢内原伊作さんの話も、本当に通じる人がいなくなってきたわね」
渡部さんは絵を見ただけで本当に私のことを理解してくださっているようで、胸がいっぱいになった。
【展覧会ページ】https://newwwauction.com/exhibitions/view/chisako_Fukuyama
会期:2026年9月2日(水)~9月13日(日) 12:00 - 19:00 ※月曜休廊
会場:NEW(NEW AUCTION)
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5-9-15 B1F
電話03-6419-7577 原宿駅から徒歩5分、表参道駅から徒歩5分
【Google Map|NEW AUCTION 】https://maps.app.goo.gl/otHEGPVaKQ4Hq31j7
(神保町のNew Gallery とは違うのでご注意ください)
皆様のご来場をお待ち申し上げます。
【Instagram|NEW 】https://www.instagram.com/newwwgallery/
9月4日、新刊『息の荒野、世界が顫動している: 画家の触発する/される身体』(平凡社)が発売されます。
https://www.heibonsha.co.jp/book/b677102.html
よろしくお願いいたします。
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