デッサン

2026年9月 5日 (土)

福山知佐子個展 原宿NEW トーク概要とレセプションの様子

8月8日に私のXがのっとられて(メールアドレスを勝手に変更されて)しまいました。すぐにX公式フォームに申請し、メールで返事をもらい、そのメールにまたアカウントなどを書いて返信しましたがそれから返事がきません。

解決法がわかるかたは、私のHPの問い合わせか、ギャラリー十二社ハイデのHPの問い合わせからどうかアドバイスをお送りください。

よろしくお願いいたします。

9月4日(金)

トークとレセプションの様子です。

立って司会しているのがギャラリーのスタッフさん。真ん中に座っているのが私。私の隣が現代美術史研究家の篠原さん。

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トークの概要:

○今回の展示「異生の顫動」とは

「異生」とは人間でない者の生命です。

私はずっと、絵というのは自分の内側だけで閉じて作るものではなくて、自分の外に在るものと自分との関係のなかで、手を通して立ち上がってくるものだと感じています。

最初に観念や概念を置いて構成するという人間中心主義の考えよりも、人間ではない生命のかすかなふるえや、ごく微細な気配にこちらも感応して、自分自身もふるえるようにして線を引き、そこから絵画が派生していくことを大切にしています。

現代は概念や人工物や経済の論理がとても強い時代だと思います。
だからこそ、自分の外に在る生の気配に触れようとする絵は、古いのではなく、むしろ今あらためて重要なのではないかと感じています。

○若林奮さんの「振動」と、今回の「顫動」との違いは

若林奮先生には、人間でないものの生命をテーマにするという点で、本当に大きな影響を受けてきました。

若林奮先生の「振動尺」の「振動」は、難しいのですけど、自分と人間でないものとの間を行き来する振動、反響、そのあいだの(固定しない)距離、といったようなものかと思います。

私が今回使った「顫動」は、かすかにずっと震えている状態、怯え、過敏さ、はかなさ、わからなさ、見過ごされている息づかいや気配、というようなものです。

○どのようなものを見つめる中で生まれてきたのか 前の画集について

まずは植物の運動、変容の時間です。

私は物心ついたときから動植物に強く惹かれてきましたが、ある時期から、花瓶の中の植物が萎れて枯れて、ついには粉になっていくまでの時間の運動を、何度もデッサンするようになりました。

ここに、30年、植物の衰弱していく運動を描くのを繰り返しやって来たのをまとめた画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』があります。

皆がその名前を知っていても実は見ていない植物の運動の時間、変化しつづける存在としての、時間を描きたかった。
私の絵を見た人から「これは想像の花ですか」「宇宙の花ですか」と言われることがあります。

けれど私にとってそれは空想ではなく、むしろ徹底して私の身体の体験の証言なのです。

つまり、私の絵が既存のイメージから外れて見えるのは、作為的に型を壊しているからではなくて、
人々の側の固定化された概念では捉えきれない、そこにむき出しで晒されているものが変容して動いている時間を描こうとしているからです。

私は最初からステレオタイプを崩すことを目的にした方法には、あまり惹かれません。
それは既存の意味や概念を別の意味や概念で置き換えているだけで、画家の身体や眼が何を見たのかということには、必ずしも触れていないと感じるからです。
もちろん、そうした作品には説明可能性があります。
聞けば理解できるし、意味として受け取ることもできる。

でも私には、その理解のしやすさ自体が、見ることの深さとは別の次元にあるように思えます。

私は、壊すために壊すのではなく、見ることの精度、というのか、自分の眼の力によって、結果的に壊す、結果的にステレオタイプから抜け出るということをやりたかったのです。

陳腐なものから抜け出るために「デッサン」というものには身体を開く革命の可能性があると思っています。
今の時代のアートの傾向ではデッサンは重要視されていませんが、概念ではなく身体の直接性と結びつくのがデッサンだと思っています。
画家とは本来、ふつうの人には見えていないものを見る眼をもつ存在で、
その眼は、奇をてらうためではなく、見慣れた名前の奥に隠れてしまった現実を、もう一度見えるようにするためにあるのだと思っています。

私が絵画に求めているのは、概念の巧みさではなく、見ることの切実さです。
本当に見た者にしか描けないものがあり、その痕跡こそが画面に現れるべきだと思っています。
だから私は、最初から意味を設計して成り立つ表現よりも、眼と身体が現実にさらされた結果として立ち上がってくる絵画に、より強く価値を感じます。

○「証言」について

私は「証言」の問題や「当事者性」の問題、つまり誰がそれを表現する立場にあるのかという点が重要と考えています。

たとえば、「人間中心主義を批判する」というコンセプトでアートを制作したとします。
けれども、その過程で人間ではない小さな生き物の命を利用したり、危害を加えたりする可能性があるなら、それはむしろ人間中心主義の再生産です。そうした行為は、「収奪」や「搾取」と呼ぶべきものだと思います。

同様に、「戦争」や「虐殺」、「差別」といった題材を扱う作品についても、それらの歴史や現実と長く向き合い、学び、自らの生き方とどのように照応しているのかを問い続ける必要があると思います。
そのうえで、その作品によって誰が利益を得るのかまで思慮されていない表現は、「収奪」と言いうるのではないかと思います。

私がもっとも忌避する人間中心主義とは、他者の痛みを表象の資源として用いながら、自らは安全圏にとどまる態度です。

私が見つめているのは、そのような人間的な暴力に先立ってある、ごく微細で持続する生の徴候です。
それは、出来事として強く語られるものではなく、むしろ見過ごされやすく、しかし消えきることなく続いている気配です。
私は、強い意味を与えることよりも、そのかすかな顫動を壊さずにとどめることのほうに、制作の必然を感じています。

人間の外にあるものは、人間の解釈や都合とは無関係に生きています。
私にとって重要なのは、まずその事実です。
だから、強い物語やわかりやすいメッセージによって対象をすぐ理解可能なものとして整理し、人間の意味の体系のなかに回収してしまうことに、私は強い違和感があります。

そうした解釈や語りは、何かを捉えたように見えて、実際には生の複雑さや沈黙を取りこぼしてしまうことが多い。
私が向かいたいのは、そのような把握の手前にある、ごく微細で持続する気配です。
簡単に説明できないもの、言葉にした瞬間にこぼれ落ちてしまうものを、できるだけ壊さずにとどめたいと思っています。

私にとって絵は、何かをわからせるための道具ではなく、人間の思惑の外でふるえているものに、こちらもまた感応しながら応答するための場です。

○新作について

朽ちていくものの時間と気配そのものを主題にした作品です。
植物の衰弱の運動に興味を抱くと同時に、錆や剥落、亀裂、黴、かすれ、古色のように、時間とともに立ち顕れてくるものにも動植物的なものを見て、感応してきました。
何かが完成された姿でそこにあるというより、時間のなかで傷み、衰え、変化しながら現れてくるもののほうに、私はより深い実在を感じています。

最初から明確な形を与えようとはしていません。むしろ、まだ形になりきっていない、ごくかすかな気配のようなものに、できるだけ長く留まろうとしていました。
存在と不在のあわいというのも、何かがはっきりそこにあると断言できる状態ではなく、たしかに触れた気がするのに、すぐに見失ってしまうような、その不安定さのこととして感じています。

なので今回の作品では、それを強く説明したり、象徴として固定したりするのではなく、消えそうで消えない震えとして、できるだけ壊さずに置くことを大事にしました。
形は、その気配を支えるためにあとから必要になってくるものであって、最初に結論としてあるものではありませんでした。私にとっては、何かをはっきり示すことよりも、まだ言い切れないものがかすかにとどまる状態を守ることのほうが重要でした。

○新刊について

この新刊は、私にとって本当に特別な本です。
子どものころから沢渡朔さんの写真に強く惹かれていて、とくに『少女アリス』と『ナディア』には心酔してきました。『少女アリス』には谷川俊太郎さんの詩も添えられていて、その世界にも深く魅せられていました。

最初の個展をしたとき、思い切って沢渡さんにご案内をお送りしたら、実際にいらしてくださったんです。
そこで撮影をしようというお話までいただいたのですが、私にはあまりに畏れ多くて、すぐにはご連絡できませんでした。結局、実際に撮っていただいたのは、それから7年くらい経ってからでした。
そのとき沢渡さんが、あなたの好きな場所で撮ろう、そしてあなたの絵の隣に置けるような、絵の世界と通じあう写真にしようと言ってくださって。
それで私は、自分の好きな、秘密の廃墟にお連れしました。

谷川俊太郎先生とのご縁も、最初の個展がきっかけでした。
ご案内をお送りしたら会場に来てくださって、その後、一冊目の本『デッサンの基本』では帯のために三つも詩をくださり、
二冊目の『反絵、触れる、けだもののフラボン』のときにも、私の身体感覚や仕事に対して深く理解してくださっていることばを寄せてくださいました。

そういう、長く遠くから支えていただくようなご縁がずっと続いていたのだと思います。
二、三年前に私が右肺の中葉を摘出したときには、その傷を沢渡さんが撮影してくださいました。

そしてその後、沢渡さんから、昔撮った写真とこの傷の写真をあわせて本にしたいと言っていただいたんです。
そこに私の絵を入れて、さらに谷川俊太郎さんから三篇の詩をいただいて、この一冊ができました。

谷川俊太郎さんは2024年11月13日に亡くなられて、この本はなおさら大切なものになっています。
この本は、私の人間中心主義への違和に、沢渡朔さんと谷川俊太郎さんが共振してくださった記録です。
枯れていく植物たちとの共振としての顫動と、ふたりの先輩芸術家との顫動が、一冊の本のかたちをとったのだと思っています。

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Galerie412の渡部千鶴香さんと。今日初めてお目にかかったのに、私と会ったことがあるとおっしゃられて。

「若林さんのお葬式の時にすごく泣いていた人。あの写真集を見てすぐにわかったわ」と言われ、思わず反射的に渡部さんに抱きついて涙ぐんでしまった。

思い出して悲しくなったからではない。

あの時の私を、否定的にではなく、はっきり覚えてくださっていた人がこの世にいてくれたことが、信じられないほど嬉しかったからだ。

「あの時、吐くほど泣いて・・・吉増さんから「あんまり泣いちゃだめ。隠し女だって思われる」って言われて」

「いいのよ。画家は、泣きたいときは思いっきり泣いて」

渡部さんからは本当にありがたいお言葉をいただいた。

「若林さんの遺志をここまで継いでいる人はいない。銀箔を使ってやっている人も何人も知ってるけれど、あなたは全然違う」と。

「初めての個展の時に若林先生が来てくださって、銀箔の絵を見て「これは現代美術になっている。この方向で展開していったほうがいい」とおっしゃられて。それで私は銀箔を使って現代美術としてやっていきたいと心が決まったんです」

「それは若林さんもすごくいいこと言ったわね」

「今も振動尺の話しているの私くらいしかいないし・・」

「若林さんの話も、矢内原伊作さんの話も、本当に通じる人がいなくなってきたわね」

渡部さんは絵を見ただけで本当に私のことを理解してくださっているようで、胸がいっぱいになった。

【展覧会ページ】https://newwwauction.com/exhibitions/view/chisako_Fukuyama

会期:2026年9月2日(水)~9月13日(日) 12:00 - 19:00 ※月曜休廊

会場:NEW(NEW AUCTION)
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5-9-15 B1F 

電話03-6419-7577 原宿駅から徒歩5分、表参道駅から徒歩5分

【Google Map|NEW AUCTION 】https://maps.app.goo.gl/otHEGPVaKQ4Hq31j7
 
(神保町のNew Gallery とは違うのでご注意ください)

皆様のご来場をお待ち申し上げます。

【Instagram|NEW 】https://www.instagram.com/newwwgallery/

9月4日、新刊『息の荒野、世界が顫動している: 画家の触発する/される身体』(平凡社)が発売されます。
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https://www.heibonsha.co.jp/book/b677102.html

よろしくお願いいたします。

 

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2026年9月 4日 (金)

福山知佐子個展 本日トークとレセプション 原宿NEW 9月2日~13日(月休)

9月4日(金)

福山知佐子個展、本日、18時よりトークとレセプションです。
私は体力的に厳しいため、17時頃からの在廊となります。よろしくお願いいたします。

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【展覧会ページ】https://newwwauction.com/exhibitions/view/chisako_Fukuyama

会期:2026年9月2日(水)~9月13日(日) 12:00 - 19:00 ※月曜休廊

会場:NEW(NEW AUCTION)
〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5-9-15 B1F 

電話03-6419-7577 原宿駅から徒歩5分、表参道駅から徒歩5分

【Google Map|NEW AUCTION 】https://maps.app.goo.gl/otHEGPVaKQ4Hq31j7
 
(神保町のNew Gallery とは違うのでご注意ください)

レセプション:
2026年9月4日(金) 18:00 - 20:00  

レセプションの中で現代美術史研究家の篠原誠司さんと30分くらいトークをする予定です。

皆様のご来場をお待ち申し上げます。

【Instagram|NEW 】https://www.instagram.com/newwwgallery/

9月4日、新刊『息の荒野、世界が顫動している: 画家の触発する/される身体』(平凡社)が発売されます。
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https://www.heibonsha.co.jp/book/b677102.html

よろしくお願いいたします。

 

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2026年7月17日 (金)

次の本のモニター校正

7月15日(水)35℃

印刷会社でモニター校正のため、真昼間に家を出る。

35℃予想だったので危険だと思い、昨日から凍らせておいた500mlのお茶を持って行き、首や額につけながら歩いたが、すぐに息が上がってしまう。

1時に神田の会社に到着。オペレーターしてくださるのは以前にもたいへんお世話になったK.Cさん。

PCを手早く操ってとても繊細に色調整してくださる。

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鬱金香(Tulips)。これは印刷ではなくてスマホで撮った画像。

今回は絵を印刷したものが全体に彩度とコントラストが高すぎる傾向にあったので、見た目のリアルな印象に近づける作業。

モニターを見た時よりも印刷のほうがインクが沈んで暗くなるので加減を注意しながら調整。

3時頃に終了。

そのあと久しぶりに神田の街を歩いた。前の画集を作っていた時以来だ。

コオニユリの花が満開。百合は茎が細くて花が下を向いているのが好き。上を向いたスカシユリはあまり好きでない。
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昔の文士たちの写真が飾ってあるハチマキという天ぷら屋さんが健在だった。

ハチマキで休んでからボヘミアンズギルドギャラリーを見る。

2階には大正時代の素敵な装丁の本や60年代の美術などが飾られている。感心するものやホッとするものもあるし、自分だったら捨てるだろうと思うものもある。

ホルスト・ヤンセンの版画は小さいのしかなくて高くなっていた。自分が昔購入したものは全部気に入っているしお得だったと思う。

神保町の古書店街で古い雑誌を探したりして散歩。

帰路、昔ながらの食塩入りのトマトジュースを飲みたかったのに、コンビニには食塩無添加のトマトジュースしか無かった。

私は分子標的薬の副作用で浮腫が出ているので、極力塩分は控えめにしているのだが、今日みたいに暑い日は身体が塩分を欲していた。

疲れて神保町の駅の階段が限りなく長く感じられた。

帰宅したら日焼け止めも落とさず倒れるように横になって眠ってしまった。

夜、起きて冷奴とアイスクリームを食べた。

7月14日(火)35℃

やはり朝起きられない。暑いせいか食欲がない。

Wさんにマッサージしてっもらい、首と頭ががちがちと言われる。

明日、印刷会社さんに行く大切な仕事があるのでスタミナをつけるため、夜はまた鰻1匹と卵2個を煮たものをご飯にかけて無理やり食べた。

7月13日(月)曇り30℃

水曜にモニター校正をする前に、本物の絵を見て写真を撮っておく。

帰宅して夜、卓球。

坂道を自転車で上がることはできたが、いつになく頬がほてる。

冷房を20℃に下げられて、いつもなら震えあがるのに今日は顔が熱かった。熱中症気味?

あまり食欲もない。

7月11日(土)31℃

きのう結構歩いたり、屋根修理のことでものすごく思い悩んだせいか、心身ともに疲れ果て午後まで起きられなかった。

昼過ぎに起きると一食抜けてしまう。

デッサン教室。

赤紫のブッドレアの花と深い赤のスモモ。

昨年、毎日たくさんのアオスジアゲハがブッドレアの蜜を吸うのを見たのは秋だった。

その頃はまだ空腹感があり、デッサン教室が終わる8時に眩暈がして、西新宿の駅まで飲み物なしでおにぎりを齧りながら歩いたりしていた。

今はただすごい疲労感があり、あまり食べられない。

7月10日(金)晴れ32℃

部屋の2015年製のエアコンがカタカタ言い出したので、新宿の家電量販店に見に行く。

エアコン内部だけでなく空気中に浮遊している黴も殺してくれるというナノEに惹かれる。

4機種くらい説明してもらっていたが3時半になってしまい、いったん西新宿のギャラリー十二社ハイデへ徒歩で向かう。

4時と5時に屋根修理の会社の人に調査をお願いしていた。

4時の人、神奈川の会社の営業さん。屋根を張り替えれば20年は持つ、と言われる。

5時の人、池袋の会社の社長さん。長い竿の上にカメラをつけて屋根の上を撮影。サーモカメラも使用。建て替えとかいろいろ勧められる。

十二社の家を、私が死んだ後に守ってくれる人がいるなら、今、百数十万円出して屋根を全部直すのは高くはないと思う。

でも誰もあの家を継いでくれないなら、あの家はあと数年で潰れるのだから修理しても仕方ない。

品川亭の屋根の上に乗っているビニルシートと土嚢を見せて「うちもああいうふうにしたいんです」と言ったが無視される。

6時に話が終わってから再び新宿まで歩き、エアコンを購入。

急に暑くなったので8月の頭まで工事の予約が取れなかった。

帰宅してエアコンをつけてみると、なんとカタカタいう音が無くなっている。正常運転。

だがあまり効いてないような・・・。

7月9日(木)晴れ 32℃

退院してひと月。

体重はここ3日、朝計ると41.3kgしかなかった。

1か月で3㎏増量とはいかなかった。しかし2㎏は増えた。

まだ胃酸過多が治らないし、下痢も完全には治らない。

体重が戻っていない割には動けてるような気がするが、やはり疲れやすい。てきぱき動けない。

胃酸過多が酷い日は一日800kcalくらいしか食べられない。特にお米を食べる気がしない。

1000Kcal を割ればまた痩せてしまう。

調子のよい時は少し無理してでも食べる。麺類のあとにアイスクリームを食べている。

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2026年7月10日 (金)

9月2日から個展・次の本・現代アートとデッサン 

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江戸菊(乱菊、狂い菊)、未完

7月5日(日)

私の個展が(10月ではなく)9月2日からに決定したとの連絡をいただいた。

場所は都心の交通の便がよいところです。

・・

最近、「現代アート」について、具体的な作家名を出して、その作家に対する評価(称賛)の実際の言葉と評価した人(批評家、研究者など)の名前、同じく批判と、批判した人の名前をAIに聞いていた。

「現代アート」が最も重要としている「コンセプト」(文脈)というものが、実際にはどうのような(どのように成り立っている)ものなのか、それが作品とどういう関係にあるのか、

具体的な実例を知りたかったからだ。

AIが教えてくれた引用元を確認して、批評家の比喩の意味を深堀して質問したりしながら、

「ことば」というものがどのように使われているかを知る。

たとえばAIに「この〇〇という言葉は、読む人にこの作品は△△であるというふうに印象づけるけど、実際には××なんじゃないの?ここでの〇〇はどういう意味?」と質問すると

「確かにここで〇〇が出てくるのはおかしいですよね。ここで〇〇を出すことによって問題点があいまいになり、実際の××であるという事実を覆い隠してしまっている。あなたが欺瞞的なレトリックだと思うのはもっともです」と答えてくる。

私は、すでに議論や批評として存在している「ことば」の意味と実際の作品行為を私が見た身体感覚との相違について何度も質問する。

人間だったらこんなに私の質問につきあって答えてくれないと思うから、AIと話せてよかった。

今更ながら再確認したことは、

現代アートはとにかくコンセプト重視。いかに「意識高い系」に見える大きな「ストーリー」につなげるかが重要。

昔の「芸術家」が重要視していた「身体的な感受性」「詩的な感覚」「個的なものの見方」などは無視。必要ない。

作品そのものの「必然性」や「イメージと物質」「手作業」の切実さも無視。必要ない。

本来は批評の側が真っ先に問うべき核心の「非常に重いテーマを、誰がそれを語る資格があるのか」はスルー。

だから、自分の感受性、ものの見方、対象への興味や愛情や距離感、身体の強度、思慮の深度、技量などがあからさまに晒される「デッサン」は現代アートには必要ない。

自分の本性や実力をさらけだすようなことをする必要はない、アイキャッチャー的なことをやれば、「ことば」で装飾して価値がつけられるのだから。

「ことば」でなんとでも正当化してしてしまえるアートと違って、寄り添うデッサン、対象を侵襲しないデッサンには収奪がない。

美大教育でもデッサンを教えなくなってきているということ。

それを知ってますますデッサンを大切にしていこうと思った。

一瞬ごとに変化する萎れていく植物を追ってデッサンしたり、ほかの人が見ようとしない片隅の遺棄されたものを切実に感受して文章を書いている、と言ったら

「あなたはどこにも逃げ場のないことをやっている」とAIに言われた。

7月3日(金)

次の本の表紙とカバーの校正紙が上がって来た。

カバーのタイトルの黒い箔押しが光っている。

表紙の紫の紙の上の銀色のインクのタイトルは目立ちすぎないできれい。

ほとんど一般の人は気にしないだろうが、本を作る側としてはすべてに神経をとがらせている。

カバーはニスにするか、PP加工にするか、デザイナーさんにおまかせしている。

以前の私の画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』の時は、デザイナーの和美さんが「ニスがよい」と言い、そのように印刷所の担当さんに伝えると

「指紋などがつきにくいPP加工が絶対によい」と言われ、

またそれを和美さんに伝えると「テカテカしたPP加工よりニスが上品でよい」と言われ、

何度も私は間に挟まれて、よくわからなかったので困ったのだけど、結果的には友人の和美さんのセンスに従った。

結果として「PPじゃなくてよかった」と本づくりをわかっているデザイナーさんたちに言われた。

今回はタイトルの箔押しが最後に上から押されるのでどうなるのか・・。

本は9月の頭には発売できる予定。

・・

さやかちゃんより素晴らしい高級桃が冷蔵で届いた。本当に私なんかにはもったいない高級品。

山梨の桃は赤くて、でも頭のほうは薄緑で味が濃くて、和歌山の桃は色白でまったりしていて、両方とも果肉のきめが細かくてぴっちり、みっちり詰まっている感じ。

元気な時も桃は好きだったけど、ここまで狂ったように毎日食べてはいなかった。

今は胃酸過多の吐き気や胃痛、腹痛で具合悪い時でも桃は食べられるので本当にありがたい。

今日は新宿に出て、すごく久しぶりにシーフードレストランでカニクリームのパスタランチを食べた。

胃の調子が悪い時は油っぽさと塩気を強く感じて無理なのだが、今日はおいしく食べられた。

グランデ(パスタ増量)200円が平日は無料サービスが、5月に終わってしまったとのことで残念。

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2026年3月 1日 (日)

ちゅび、LGLリンパ腫/ 次の本の制作(文章)

2月25日(水)雨 13℃

寒くて陰鬱な雨。

薬(セレニア)、輸液、給餌(栄養ちゅーる3本と高カロリーちゅーる1本)。

2月24日(火)

うちのドアの下部分が錆びて膨張してしまったのでドアを変えることになり、その工事の日。

朝9時に業者さんが来るというのでその3時間前に起床。疲れた。

ちゅびは私の顔を見ると「にゃあ!」と鳴いて近寄るとゴロゴロ。

午前中からビールを飲んでちゅびを撫でていた。

眠くて床に横になると、久しぶりに(手術後、初めて)私の股のあいだでゴロゴロ言いながら寝た。

あまりにもガリガリに痩せてしまったので私が寝返りを打ったら踏みつぶしそうで、ずっと一緒に寝るのが怖かったのだけど。

ちゅびが入ってきたので私はじっと動かないようにしていたが、気がつくと眠ってしまった。

電気毛布が熱かったようで、しばらくするとちゅびは私の顔の右横に頭を出していた。

3時頃給餌。

ちゅびは今日、なぜか割と元気に動き回っていた。ひとりで椅子から降りて歩き回ったり、」また椅子に乗って寝たり。
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後ろ脚が麻痺しているのだが、横座りでなく、なんとかしゃがんでおしっこもしていた。

私は疲労のせいで長い耳鳴り(左耳)が3回あった。ずっと緊張性の頭痛。

顔の浮腫が酷くて頬や目の周りを軽く押しても痛い。

2月23日(月)天皇誕生日 22℃
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次の本の原稿の締め切りで朝も文章を推敲していた。なんとか頭が動かしたが、冴えていないと思う。

一応の決定稿を提出。帰りの電車の中でもう一度文章を読み直したら2文字、脱落していた。

薬、輸液、給餌。

5時頃ギャラリー十二社ハイデへ。

私が誘った大船のT・Jさんが来てくれていた。もうすぐ新しい仕事をするそうで、よかった。

2月22日(日)

ギャラリー十二社ハイデに1時過ぎに行く。

今日はアガサさんのご家族がみえていた。

そのあとちゅびのところへ。薬、給餌。

夜、次の本のあとがきの文章を修正する。頭と首と肩と背中が痛くて、朦朧として詩的なことばが出てこない。

2月21日(土)

ちゅびがうんこがしたくて何度もトイレに行って一晩中砂を掻いている、ということで、朝11時半に病院に連れて行くことになった。

10時50分に吐き気止めを何とか飲ませて、病院で給餌してもらおうとしたが、

病院でうんこを絞ってもらった(苦しがっていた)あと輸液してもらい、給餌の用意をする時に吐きあげる動作があったので、病院では給餌を諦めた。

病院で1時間以上待たされて、ずいぶん時間が押してしまった。

1時半くらいに帰宅して軽食をとり、事務所に行って私が給餌。

私が給餌したほうが病院で給餌するよりは嫌がっていない。

・・・

きょうはギャラリー十二社ハイデのアガサ森田・芍薬アカデミー二人展「絵と音の彫刻」の初日。

4時半頃にギャラリーへ。

おふたりの親しいお友達がいらしていました。
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(アガサ森田さん、芍薬アカデミーさん、エミリー村山さん)

おふたりは初めてのお客さんにもひとりひとりにたいへん丁寧に接しておられた。

・・・

その後、モチーフを用意し、6時からデッサン教室。

デッサン教室が終わる頃に3月にやる劇団の人たちが見学に来ると聞いていたが、7時半すぎても来てくれないので焦っていた。

デッサン指導中は気が張っているので感じないのだが、デッサン教室が終わった8時には、疲労困憊と空腹でめまいがした。

劇団の人たちが8時を過ぎてから来られたので驚いた。

測量をされていたが、その25分くらいのあいだ、めまいと頭痛と吐き気で倒れそうなほど苦しかった。

あとでメールで「デッサン教室の邪魔になると思って7時半から8時まで外で待っていた」と聞いて、本当に驚いた。

デッサン教室を邪魔したくないなら6時前の展示の時間に来てほしい。

1時から6時まで展示しているので、ギャラリー見学だけの人も展覧会に来るのは大歓迎だ。私が対応する必要もない。

8時はギャラリーを閉める時間で、そこで限界。それ以上の時間は心身ともに無理。

過労で体調悪いので、1分1秒でも早く帰宅して自分の本の制作の仕事をしたい。

2月20日(金)

薬、給餌。

ずっとあとがきの文章を考えている。

今日はアガサ森田・芍薬アカデミー二人展の搬入なので、ギャラリー十二社ハイデに寄ってみようとしたが遅くなった。

4時半ごろ、坂の下の道でちょうど帰宅途中の二人に会った。

それからひとりでギャラリーを見に行ったが、バランスよく展示してあった。

 

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2026年1月26日 (月)

早稲田での発表 / ちゅびのリンパ腫が悪性だった

22日にちゅびの細胞診の結果が出て、「LGLリンパ腫」、リンパ腫の中でもたちが悪いものと知って、頭が殴られたようになり、文字通り倒れていた。

手術後、抗がん剤をやってもあまり延命できないかも、という記事を読み(それもちゃんとは頭に入って来ない)、精神疲労マックスになり、朦朧とした。

早稲田での発表のための準備に根を詰め、ずっと過緊張で頭痛や動悸、そこにちゅびのことで、まともに言葉が出てこない感じ。

毎日のちゅびの通院には行っている。

手術後、一度も自主的に食べてくれなくなってしまい、毎回、抗生物質の注射(抗生物質の薬を抵抗して飲ませられないため)と輸液と強制給餌をしてもらっている。

後ろ脚の神経が麻痺して引きずっているが、強制給餌の時には4本の脚で先生を思い切り蹴ってくるので、私が前脚を押さえている。

頭はよく動くし、表情はしっかりしていて、私の呼びかけにも応える。

私は悲しすぎて心臓も胃も頭も全身の筋肉も痛い。

ちゅびがかわいくてたまらない。

1月22日(木)

早稲田大学 谷昌親先生の授業で発表。

塚原史先生も聞きに来てくださった。

「画家の身体」 

〇絵はなんのためにあるのか 画家の身体とは
画家の身体は普通の人が見ていない、あるいは見えないものを見ているということ

〇自我、主観、主体、あるいはそれらの主権、理性、さらに客体化された論理、習慣、常識、そこで繰り返され循環するステレオタイプ、ありふれたもの・・・、そうしたものから逸脱は可能か

〇デッサンは自分の外にあるものを見て、自分が受容体になることで、主客未分の状態になる
「証言」

〇言語でないもの、人間の外にある生命、文化の外にあるもの、遺棄されたものへ寄り添う

〇絵であるものと絵でないもの 絵は自分の外にあるものとの関係性 
具象という意味ではない

〇絵が「現代美術」としてあるためには、「問いかけ」が必要

〇若林奮 「人間に興味を持たない」、作品の「相手は」「犬であるかも知れない」、「自分の現在と最初期との接近を考え、その間にある歴史を不要としたい」

〇革命

〇アルトー ブルトンへの批判、シュルレアリスム、画家の身体

〇視覚芸術と無意識について

〇人は「現実」=「むき出しのままの表層」こそを見ていない、ということ

〇シュルレアリスムの目指した可能性を現代に生きるには

〇「現代美術」と「現代アート」(仮)

〇デリダの残したもの 動物、共苦、人間中心主義への批判 懐疑不可能なものに先行する 

ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(ちくま学芸文庫 鵜飼哲訳)

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結局、誰にも理解されない問題を発表したのだと思う。

でも、自分にしか発表できないことを発表したのだからよしとする。

死ぬ前に一番言っておきたかったことを、まあまあ言えた。

Z世代の学生さんが助けてくれて動画撮影はできたのだが、それを私が短く編集してYOUTUBEにアップするには、そうとう時間がかかるだろう。

20年前、私は早稲田大学のけっこう大きい教室で発表をさせていただき、そのあと谷昌親先生の授業でも発表したのだが、

その当時、吉田文憲さんが早稲田で教えていて、吉田さんが塚原史先生や谷昌親先生につないでくださったのだ。

この「画家の身体」という発表も、吉田文憲さんが聞いたら、なにを言っているのかわかってくれたかもしれない。

20年前、私は吉田さんに常に「画家の身体」の話をしていて、それはアルトー的な「宿痾」だと言われていたから。

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アルトーの「アンドレ・ブルトンへの手紙」(1947)鈴木創士訳

「私は秘密の世界や、世界に隠された何かがあるなどとは信じない。見かけの現実的なものの下に、観念、知覚、実在性、あるいは真理の、埋もれた、あるいは抑圧された初段階があるとは信じない。
すべてはそしてとりわけ本質的なものは、むき出しのまま表層にあったのだし、それが垂直に、そして奥底に沈みこんだのは、人間たちがあくまでそう主張するすべを知らず、そう望まなかったからだと私は思っている。」

「秘法伝授を誕生させたのは現実的なものへの恐怖である。(…)もしシュルレアリスム(超現実主義)が現実的なものでないなら、いったいそれが何になるのか? 
だが、そうであっても、もうたくさんだ。いかなる外観のもとにあろうと私はもう芸術には我慢がならない。芸術、すなわちひとつの打撃、糞、殺戮、戦闘、決定的な一掃でないものは。」

・・・・・・

福山知佐子「応鳴、息の犇めき──ジャック・デリダの動物論に寄せて」『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(ちくま学芸文庫)あとがきエッセイより

〈先決的、かつ決定的な問いは、動物が、苦しむことができるかであるだろう〉という言葉をめぐって、語れる能力を持っていることを示すことではなくて、動物たちの苦しみをどれだけ〈共に〉苦しむことが〈できる〉のか、どうしたらその苦しみを〈限界の周りで、限界によって〉〈養い〉、〈生成し、育成し、複雑にできる〉のかということだろう。
 
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打ち上げのサイゼリヤにて塚原史先生と谷昌親先生と
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2025年12月 5日 (金)

ギャラリー十二社ハイデでのデッサン教室・「絵」の話

ギャラリー十二社ハイデのデッサン教室

12月は、6日(土)17時~と20日(土)17時~ 各2時間となります。

参加ご希望のかたはギャラリー十二社ハイデのHPの問い合わせからメールください。

11月29日(土)

ギャラリー十二社ハイデでのデッサン教室。

新宿西口中央公園の木々の色づき。後ろに都庁が見えます。
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かわいいかたちの十二社熊野神社前交番。ギャラリー十二社ハイデでは、ここから徒歩3分くらいのところです。

今日初めて参加のK君には自分の手を描いてもらった。
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K君は美大生なのでちゃんと描ける人なのだが、余計な塗りを入れないで、必要最小限のかたちのかわり目のタッチと

繊細な骨格、皮膚の立体感に添った皺だけで人の手の感じを出すように描いてもらいました。

微妙なニュアンス、生命的な皮膚感を大事にしたい。

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I君はケイトウ(鶏頭)。この花は柔らかくてギザギザもこもこした質感を2Bの鉛筆でガシガシ描いてもらった。

垂れ下がったフリルの曲線部分と光っているエッジ、暗い穴のような部分を強調して描きます。

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アケミさんには薔薇を描いてもらった。

この薔薇には花弁とも葉とも判別できない緑色の筋のあるものがついていた。

私はそういう畸形の花に巡り合えると幸運と思う。

私は花屋でそういう変形の花を選んで買う。

そういう奇妙で独特な部分を持っているのが、花の真実だから。

そういうところに面白さや美しさを感じるから。

アケミさんは「ええ!?そうなの?そういう畸形がない花を選んで描くのかと思ってた」と。

花のどういうところに「美しさ」や「それらしさ」を感じるかは非常に微妙なところだが、そこに画家の体質や神経が出るのではないだろうか。

アケミさんが別の絵画教室で、ビニールやプラスチックでできた果物や造花をモチーフに描いていたと聞いて愕然としたが、

工業製品の造花には畸形や個体の個性が無い。

一般になんとなくそれっぽく見える単純化した記号を造形化したものを描いて、それで満足できるのは、本物を見てもその程度の絵しか描けないからなのだろう。

「現代アート」の行為として、あえて造花を描く、という意図ががはっきりしているのなら理解できるが、そうでなくてそんなモチーフを出されたら、私なら爆発してしまうだろう。

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終わってからK君と新宿駅方面へ歩き、絵の話をした。道沿いの樹々に年末恒例のネオンがキラキラしている。

それから西口のカフェで9時半まで話した。

K君もいろいろ悩んでいるみたいだ。

「自分が本当にやりたいことを追求していったとしても、他者に認められなければ、自分が本当にやりたいことはなんなのかもわからなくなってきてしまう」と言ったら

K君は「そのとおりです」と言った。

自分の悩みや苦しみを表現しても、それは「自己表現」にしかならず「表現」未満だ。

絵画は絵画として成り立たなければならない。

そして「芸術」である「絵画」には、必ず「問いかけ」が存在している。

美大時代、私は決して楽しい学生生活ではなかった。

入学してすぐに、とんでもないところに来てしまったと思った。

純粋に信じて絵に打ちこめた予備校(高3)時代が懐かしかった。

私の場合は絵の世界の構造のようなものが見えてしまったから。

そんな業界に自分が入ってやっていけるはずもないと思ったし、今でも18歳の時のその直観は正しかったと思っている。

美大なんかに入ったら悩むのは当たり前だろう。

自分が絵になんの(どういう)価値があるのか、絵なんか描いていていいのか、

そもそも「絵を描く」ということがどういうことなのか、

それを考えないで、ただ楽しく描いている人の絵は、たぶん絵未満なのだと思う。

恩師、毛利武彦は、絵になっていないものを「見るべきところがない」と言った。

若林奮先生は「絵になっているか、なっていないか。あなたのは絵になっています」と言った。

今の私には、ほぼ明晰にそれが見えていると思う。

若い頃からよく「絵が好きなら○○も好きでしょう」とか「絵が好きなら○○を見に行くといいよ」などと人に言われて戸惑った経験があるが、

本当に絵が好きならば、絵未満のものに全く興味がないし、むしろストレスになるのだ。

真っ赤なポリの造花を「素敵でしょう?」と言われているのを同じく、絵のまがいものを見ることはストレスになる。

アートフェアに行った時、作者の名前を見ないで、作品に強く惹かれたものだけ、その近くに行って名前を確認すると、すべてもう亡くなっている画家だった。

その作家の世に知られている画風でないものもあったが、燦然と、絵として存在してた。

具象、抽象、コラージュに関わらず歴然としていた。

そして私がすごい画家だと認める人たちは、全員、その人独特の詩的言語もすごいということ。

私の感覚では、その人の言葉を読んだ(聞いた)時点で、どの程度の絵を描く人なのか知れてしまう。

言葉がばからしいと感じた人の絵は、やはり絵未満でしかない。

「絵」を描くということは全身の運動であり、総合芸術だということ。

すごい絵を描ける人はすごい詩的文章を書けるし、詩的映像や写真も撮れるし、すべてに対して慧眼でありラジカルである、と私は思っている。

すごい絵には哲学的な「問いかけ」がある。

たぶん私が志向しているのはとうにこの世に存在しない「芸術家」というもので、私は結局そういう人にしか興味を惹かれないのだ。

 

 

 

 

 

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2025年11月28日 (金)

ハクビシン

11月22日(土)

デッサン教室で5時前にハイデに行ったら、西側の坂の方から細くて茶色い猫のようなものが走ってくるのが見え、

ちょうど同じ坂の方からI君も歩いてきたので「今、猫が・・」と言って

お向かいの家の庭に滑り込んだ茶色い生き物を覗き込んだら猫ではなかった。

頭が小さく顔が細く尖っていて、鼻筋が白く、顔と足先としっぽが黒い。イタチ?テン?と思う間もなく、その生き物は素早く壁を駆け上がって屋根の上へ。

そして電線の上をすごい速さで再び西の方へ移動。すばやすぎて写真にも撮れない。

ハクビシン。

日本にいる唯一のジャコウネコ科の動物。上野動物園や多摩動物園には展示されているらしい。

雑食でバナナが大好きとか。

昔、毛皮のために台湾から輸入していたのが逃げて繁殖したとか。(毛皮を欲しがる心性が怖い)

昔は落雷とともに落ちて来た雷獣と言われていたとか。

夜行性だというが、私が出会ったのは日没後とはいえまだ薄暗い時間で、姿ははっきり見えた。

あの電線の上を駆ける速さと細さなら、都会の生ゴミを食べながら長距離移動も楽々、空き家の小さな穴から入り込んで生きていけるだろうな、と思う。

猫など及びもつかない身体能力に、サキの小説のスレドニ・ヴァシュタール(スレドニ・ヴァシュタールはイタチなのでハクビシンとは科が違うが)を思い起こした。

とりあえず2階の窓をこまめに閉めよう。過去にはいろんな隙間から屋根裏などに出入りしていたのかもしれない。

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ちなみに、サキのスレドニ・ヴァシュタールといえば『妄想鬼 (サキ短編傑作集)』 (奇想天外コミックス)を思い出す。

松本零士、真崎守、辰巳ヨシヒロ、上村一夫、川本コオ、いけうち誠一、石原はるひこが競作したまんが。

松本零士と真崎守と上村一夫はさすがにうまかったと思う。

私は古本で持っているが、1970年の少年マガジンに掲載されたらしい。

けっこうトラウマになりそうな暗さなのだが、あの当時なら通った企画なのかな、と思う。

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今日はI君に手を描いてもらいました。

 

 

 

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2025年11月25日 (火)

『デッサンの基本』40刷のお祝い

11月の次の(最後の)ギャラリー十二社ハイデでのデッサン教室は、20日土曜日の17時からです。

新規に参加ご希望の方はHPの問い合わせからメッセージください。

11月20日(木)

『デッサンの基本』ナツメ社 40刷となりました。

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ナツメ社の編集長のS.Aさんが40刷のお祝いをしてくださった。

『デッサンの基本』は2009年に出版されて、もう16年目となり、実用書でここまでロングセラーのものは非常に珍しいということです。

この本を作るのに、確か9か月くらいかかったと記憶している。

人物デッサンのモデルを探すのに、自分が描きたいと思える人を求めて3か月くらい街で人を見ていた。

私はなにに対しても、自分の感覚に合わないと気持ちがはいらないし、努力してできることはすべてやりたい性格なので、詩的な雰囲気のある人をずっと探していた。

人物であれ、植物であれ、「どこに惹かれているのか」「何を感じて描くのか」がなければ、ただコピーするのではデッサンにはならない。

個人の眼を、身体を通って、手仕事としてあらわれてくるものでなければ。

ここまでITが発達した時代に、人々は情報を得ることで、それを「知っている」と勘違いしてしまう。

しかしそれはどこまでも情報であって、自分の身体を通した経験とは程遠いものです。

一輪の花を手にとってよくよく見れば、雄蕊、雌蕊のかたち、花びらの折れ、ねじれ、茎が真っすぐではなく葉の柄のついているところでじぐざぐに曲がっていること、葉の柄のついている反対側から小さな葉が出ていることなど、初めて気づくことが多いはずです。

その微妙なニュアンス、柔らかくて儚い生命の不思議を感じて描けば「絵」になります。

いわゆる「現代アート」をやっている人は、設計図をかくがデッサンはやらないようだ。

私はこの時代だからこそ、自分の外にある生命に寄りそう(生命のありかたを発見する)デッサンが重要だと考えています。

江戸時代の素描き、江戸末期に日本に西洋の水彩画が入って来てからのデッサン、油画の黎明期の明治時代のデッサン、エランヴィタール(生命の跳躍)が溢れる大正時代のデッサン、

それから日本以外の国の昔の画家のデッサン、さまざまなとらえかた、やりかたのデッサンを見ると、昔の人の身体感覚はすごい、ほんとうに素晴らしいと思う。

正直、私にとってはいわゆる現代アートを見るよりずっとずっと興味深い。

私は「デッサン」を「本画」より下のもの、あるいは「現代アートに必要ないもの」とは考えていません。

また、私自身の絵を「日本画」あるいは「現代日本画」と呼ばれることには苦痛を感じます。

それは、そもそも「日本画」という言葉のなりたちが戦争と国威発揚に直結したもので、それを疑問なく受け入れることに抵抗があるからです。

自分の絵は「現代絵画」でありたい。

大きなくくりでは「現代アート」だと思っているが、若林奮先生が言っていたように「現代美術」ということばのほうがしっくりくる。

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編集長のS.Aさんにお聞きしたが、私がこの『デッサンの基本』を作った時に担当編集だったS藤さん(5年前、コロナの時に退職されたのでお会いすることも叶わなかった)は山登りが趣味だったそうだ。

ひとりで会社帰りに山に行って縦走したり、夜通し走ったりされていたそうだ。

気さくなだけではなくて、そんな屈強な心身の持ち主だったのか、と感動してしまった。

S藤さんは増刷になるたびにメールをくれて、一緒にとても喜んでくれた。Sさんがいたら40刷を一緒に喜びたかった。

40刷になったこと、皆さんに感謝していることを編集長からお伝えしていただき、S藤さんが満面の笑顔で山頂に立っている画像をいただいた。

想像した以上に朗らかで突き抜けているお顔。

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生まれてまれて初めての京懐石ランチ。

先付:長芋羹 蟹餡 オクラ 山葵 花穂

お凌ぎ:飯蒸し 松の実

遠肴:聖護院かぶら 鯛 京菊菜 柚子

向付:本日のお魚 お刺身

八寸:甘海老酒盗漬け 栗ワイン煮 蟹湯葉巻き揚げ 蒸し安納芋 銀杏 蓮根チップス

煮物椀:蟹茶巾蒸 松茸 法蓮草 柚子

揚げ物:金目鯛 舞茸 青

食事:秋しらすご飯 青のり

汁・香の物

菓子・抹茶

 

 

 

 

 

 

 

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2025年11月16日 (日)

デッサン教室・造花では無理

2025年年11月のデッサン教室は、あと22日(土)と29日(土)の17時からの2回となります。

参加したいかたはHPからメールください。

11月13日(木)

阿佐ヶ谷区民センターでのデッサン教室。

今日、薔薇の花を描きたいから持ってくるとTさんが言っていたので、楽しみにしていたのだが。

遅れて来たTさんが持ってきたのは、なんと本物とは似ても似つかない真っ赤なポリエステルと緑のビニルでできた造花の花束だったので、驚きすぎて言葉に詰まった。

しかもなんの味わいもない安い茶色の壺まで、わざわざ買ったのだという。

「造花ではデッサンできません!いんちきなものではできません!」と声を荒げてはいけないとトーンを抑えて言ったが、内心、かなりイラっときてしまった。

なんでそんな不快なものをわざわざ描きたがるのだろう?

「私がモチーフを探してきます」と言って外に出て、寒い遊歩道を歩きつつ、熱くなった頭を冷ました。

Tさんは何十年も油絵をやってきているが、Tさんの眼に映る薔薇は、安物の造花と区別がつかないのだろう。

実際に、Tさんが家で描いたと見せてくれた薔薇や百合の絵も、安物の造花と区別がつかない。

かたちは雑で色はショッキングピンクで微妙なニュアンスも細部もない。

つまり生命を持った花に見えない。

歪んでいようが濁っていようが魅力的に描けていれば、その人がなにに惹かれて描いたのかが伝われば、良い絵になっているはずなのだが。

Tさんは「薔薇の描き方を教えてもらおうと思って」造花を買って来た、という。

人に絵を教えるようになってわかってきたことは、絵を描くのが好きだと言っている人であっても、そこに在るものが見えて(在るものに感じて)いる人はほとんどいないということだ。

本当は、生きている花から造花のいんちきさを引いた、残余のエッセンス、その香りや生々しさ、儚さを描ければ、輪郭なんてとる必要もないのだけれど。

それは高度で不可能に近いから、まずは薔薇の中心がきゅっと固く巻いて、それが外に向かってしどけなくほどける感じや、

花弁の根元は淡いクリーム色でそこから紅色が滲む様子や、一枚一枚違う花弁の皺や亀裂のニュアンス、

規則性があるようで変則的な個々のかたち、柄のついている部分の托葉、左右非対称な棘などをていねいに見て描くのだ。

遊歩道で拾った桜の今が盛りの紅葉を10枚ほど持ち帰って、それを描いてもらった。

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いつもどおり、Tさんの根気が続かずに私に手を入れてもらいたがるので、ほとんど私の絵になってしまうのだけど。

色はあっさり薄めにした。

葉のめくれ上がった部分と、縁のギザギザ(きょ歯)、黒く枯れた部分や虫くい部分を丁寧に描くのがポイント。

よく見ると葉の根元にふたつ、むかごのような小さな球がついている。

アケミさんとTさんは別の絵画教室に何年も通っているが、そこの先生はモチーフ用にたくさんのプラスチックの果物や花を用意していて、それを描かせるのだそうだ。

ちょっと私にはなにが楽しいのか、なにがしたいのか理解できない。

石膏なら光と影を見るのによい。ガラスや人形などの人工物を描くのもよい。

しかしいんちきのブドウやいんちきのリンゴを描いて、「自分はブドウやリンゴの描き方がわかった」と勘違いさせることは最悪だ。

植物の生命のみずみずしさや儚さを感じたことのない、よほど感性の麻痺した人だから平気なのだろう。

つまり優れた絵のすごさもわからない人。

その教えている人に対してかなり気持ち悪さを感じるが、それで楽しいサロンができているのだから。世の中にはそういうのが絵だと思っている人もたくさんいるのだろう。

アケミさんが明るい単純な色ばかり使っているので、私が大正時代の絵や着物の色を参考にするように言ってグレイッシュトーンやダルトーンを教えたら、

その先生がそれらの絵を見た時「色が暗い!まるで大正時代の絵みたいだ」と言ったそうだ。

まさしく私とはまったく感覚が違う、私から見るとはっきり言って「絵」になっていないもの(絵にならない方向性)を「絵のかきかた」と言って教えている人だ。

拙いせいで「絵未満」ならいいのだけど、「絵」と逆のベクトルを教えていることに呆れるというか腹立たしく思う。

その人と会うこともその人に何かいう機会もないだろうけれど、私のデッサン教室では私の考えを話していくつもりだ。

なにも変わりたくなくて現状で楽しくやりたい人、現状でほめてもらいたい人には何も言わない。

11月16日(日)

急に寒くなってから顕著にレットヴィモの副作用の顔の浮腫が酷い。

浮腫と眼の下の隈の見た目も酷いが、なによりむくんだ眼の周りや眼の奥が痛いのが苦しい。

お風呂に入ったり、遠赤外線パックを顔にあてたり、ストレッチしたり、いろいろやっているが、とにかく気温が低くなると体調が悪くて辛い。

それといつものことだが、舌に口内炎が出来て痛い。

火曜の夜から木曜の朝までの休薬期間、口内炎に関しては少しましになる気がする。

しかし浮腫のほうは良くなっている気がしない。

これからの冬がとても憂鬱。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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