ねこ

2025年2月 6日 (木)

血液検査

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ちゃびが子猫だった頃(墨)

2月4日(火)11℃

国立がん研究センター中央病院で血液検査。

一般の項目の血液検査だけ当日結果が出、腫瘍マーカー(サイログロブリン)の結果は来月。

今日は混んでいて、12時前に受付したが採血できたのは12:20~25くらいだった。

13時にH先生の診察予約だったが13:40くらいに呼ばれた。

「炎症の値が上がってる。風邪で熱を出したりした?」

「いいえ、腸が炎症を起こしたみたいで、ここ1週間くらい食後すぐに右の腰骨の内側が強く痛んでいました。一昨日と昨日、ロペラミドを朝夕2回飲んで、やっと下痢が止まってきました」

「そう。それで脱水を起こしたんだな。肝臓も腎臓も上がってる。水分たくさん摂ってね」

あまり詳細な数値はもう気にしないことにした。

「そういう体調悪い時は副作用が強く出るから、休薬していいよ」

「え!?でもこの前すごく上がっちゃったから怖くて休めなくて・・がんばりました」

「すぐにがんばっちゃうからなあ・・」

「はい・・がんばり気味ですけど・・」

「今度、下がってるといいね」

「え?・・」ここまで来て下がることなんてあるんですか?と聞きたかったけど、聞いてもしかたない気がして聞けなかった。

次にY本先生の診察。

先日、浅井先生に会いに行った時、長くお話してくださったことの報告。

「私も浅井先生の意見で合ってると思いますね。サイログロブリンが上がっている癌は元の乳頭癌の性質なので大人しく、少し勢いのある癌にはレットヴィモが効いていると。

これから何かほかにできる薬があるか探せたら、と思います。もう一度、放射線ヨウ素治療をやってみるとか」と言われた。

私は最初に甲状腺と副甲状腺を全摘した時に、わりとすぐに放射線ヨウ素治療をやって、放射線をがん細胞が取り込まなかった経験がある。

その時は、ヨウ素治療の1か月前からヨウ素を含むもの(海藻など)を一切口にしてはいけなかったのだが、なにか食べてしまったせいではないかと言われた。

今、調べてみると海藻類だけでなく魚類と貝類も鰹節もいけないらしい。それだったら確かに食べていたと思われる。

魚類、貝類、鰹節、練り物、人工着色料の赤色など、ヨウ素が含まれるものを徹底的に摂らなければ、放射線ヨウ素治療が効くとしたら少し明るい気持ちになる。

・・

帰りに新宿のヨドバシカメラに寄った。今は健康家電がほんとうにいっぱいある。同じ階に化粧品まであるのでびっくりした。

・・

17:30からWさんに肩や背中をもみほぐしてもらった。がちがちに凝っていると言われた。

寒いのといろいろな心配と。

 

 

 

 

 

 

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2025年1月30日 (木)

浮腫をとる努力

 

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(鉛筆、水彩)

レットヴィモの副作用で一番辛いのが顔の浮腫。次に倦怠感と全身の筋肉痛。

レットヴィモ服用を始めたのが昨年の3月。レットヴィモを始めてから初めての冬は、浮腫が酷くてとても辛かった。

気温が低いと顔が冷えて覿面に浮腫が酷くなる。むくみで眼の奥が圧迫され、頭重で鬱になる。

寒い日は顔だけでなく、手足も明らかにむくんで痛む感覚があり、全身の循環が悪いのだと思う。

朝、熱めの風呂に入ってふくらはぎや首などをマッサージしているが、なかなか浮腫みがとれない。

1月24日(金)14℃

2時過ぎから荻窪へ。

太田黒公園に初めて入ってみた。植物の種類は淋しい。

そのあと杉並中央図書館へ。

頭が冴えなくて、難しい本はあまり集中して読めなかった。

昔、大好きだった雑誌の内容がものすごくつまらなくなっていてショック。これは私の頭のせいではなくて時代のせいだと思う。

歩けるときに歩いておこうと思い、外に出る。

荻外荘通りを、かつて幼稚園だった庭を右に、鉢植えを売っている園芸の店を左に見ながら川の方へと歩く。

ものすごい豪邸の塀の中の巨樹を仰ぎながら、ぐるっと左にまわって右手に公団住宅のような建物。

荻外荘公園の横の坂を上る。このあたりは古い建物が多い。

角川庭園には小さな水仙が咲いていた。

暗渠を通り、枯れ蔓に浸食された窓を見つけ、太田黒公園の脇の樹木に添った細い道を通って駅に戻る。

古いグレーの木枠の窓の歯科医院。

タウンセブンの西友で毛糸の帽子を見、ふらふらしていたらアエナという不思議な店に入った。この店は90%オフなど、破格の商品がいっぱい。

そのあと久しぶりに荻窪のブックオフへ。立ち読みしだすとけっこう読んでしまう。

新高円寺のブックオフが潰れてしまったのがとても淋しい。

1月25日(土)9℃

浮腫が酷く、だるくて午後まで寝ていた。

顔がもう限界なくらいパンパン。

3時過ぎに、一念発起して外に走りに行った。

息が切れたらだらだら歩く、を5回くらい繰り返しただけ。走ったのは正味5分くらいだが、からだには汗をかいた。

顔が冷え、耳が痛くなったので帰宅してすぐに風呂。

そのあとyoutubeで顔のリンパを流す動画を見ながら耳の下、胸鎖乳突筋、鎖骨の下、頸の後ろ、こめかみなどをマッサージしたら少し効果があった。

1、2分でもまずは全身運動をし、心臓がドキドキして息がきれる状態にならないと、座ったままでマッサージしてもあまり浮腫に効果がないみたい。

ハーバード大学式野菜スープ(ファイトケミカルで活性酸素を除去し、免疫細胞を増やす)を試してみる。

とりあえず玉ネギ、にんじん、かぼちゃ、長ネギ、菜の花などを煮てみた。

味付け無しで結構甘い。

1月26日(日)

昨日の夜、減塩したのだが、まだ顔の浮腫がひどい。

4時くらいからまた荻窪に出かけて、暖かい建物の中を歩き回っていたら少し顔の浮腫に効果があった。

もう本はあまり買わないつもりだが『わたしは真悟』(楳図かずお)の持っていなかった部分、まりんの子供時代が終わるひとつのクライマックスの刊がブックオフにあったので買った。

真悟がまりんを苦しめているロビンを消すために放った衛星のかけらが、まりんの立ち位置がずれたためにまりんを直撃することを知った真悟が、身を挺してまりんを守る。

しかしロビンによって苦しめ続けられていたために、まりんの子ども時代が終わるのが早まってしまい、真悟がまりんに伝えようとしていた言葉がまりんに伝わらなくなる。

機械である真悟がすべての遺伝子に助けを求めて、一瞬だけ人間の赤んぼうの姿になり、まりんの頭の上に抱きついて泣きながら「お か あ さ」と言った瞬間に燃える衛星のかけらによって打ち砕かれ、

機械の姿に戻った真悟を見ても大人になったまりんにはなにも思い出せない。

楳図かずおは、子どもの心を失うまでのカウントダウンをカチ、カチ、カチというドミノ倒しのような音で表現している。

この作品が82~86年にかかれていたことが奇跡だと思う。

1月27日(月)

夜、卓球に行く前にまともに食べられなくて、しかたなくカカオの濃いチョコレートを齧り、ホットミルクを飲んだ。

耳が冷えるので毛糸の帽子を被って行き、被ったままやっていた。

少しでも耳周り、顔周りの体温を上げて汗をかかないと浮腫が治らない。

今日も先生を入れて8人。練習の時、初めて会う男性Iさんに相手していただいて、できるかぎり強打した。

7勝で1番になり「たいしたもんだ」とM先生に言われた。

以前は運動後はすごくお腹がすいたのに、今はどうしても胃の調子がよくならなくて、たくさん食べられない。

あまり食べないで運動すると筋肉がやせてしまってかえって体に悪いのはわかっているのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2025年1月23日 (木)

次の本の編集 / 詩人のTさん / 少し気持ちが落ち着く

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ちゅびのまだ小さい頃(鉛筆、水彩)。

22日(水)

次の本のための編集作業。

掲載したい絵の画像の順番をざっくり決め、タイトルと英訳をつける。けっこう時間がかかった。

途中、並べてみると少し色味がおかしい画像があり、連作として並べた時に地の色がおかしくないように再度調整。

1月21日(火)

Wさんに2週間ぶりにマッサージしてもらう。

左肩が痺れるほど凝っていた。

やはり腫瘍マーカー6400超のショックが大きくて、過緊張が半端なかったのだろう。

浅井先生にお話を伺ったおかげで、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。

今も浅井先生とご縁が切れていないことを心底ありがたいと思った。

過緊張が少しずつほぐれてくると、だるくて眠くて布団から立ち上がれなくなった。

1月20日(月)

筋肉の疲れがどっと出た。全身に乳酸が溜まっている感じ。

夜は2週間ぶりに卓球に行った。今日は全部で7人だった。

Aさんに「顔が腫れてる」と言われた。寝てばかりいるせいか顔の浮腫が酷い。

左足の捻挫はまだ完全には治っていない(少し腫れているし、足首を動かす方向によっては少し痛む)が、ほぼ自由に動けた。

5勝で1番だった。

6時半頃に雷の音がして、激しい雨となり、7時半になっても止まなかった。

受付にいたかたが優しくて、忘れ物の傘を貸してくださったので助かった。以前に別の人が受付の時に、やはり雨で「忘れ物の傘を貸していただけませんか」とお願いしたら「忘れ物なので貸せません」と言われたことがある。

1月19日(日)

昨年の「二匹展」に来てくださった詩人のTさんにメールしたら、もう20年も前から私を知ってくださっていたとのこと、また「鬱金香をはじめとする絵に惹かれている」と伺ってたいへん感激した。

腫瘍マーカーが急上昇して、ネガティヴで絶望しやすい私は、過去の生き生きした瞬間のことを忘れてしまって、どうしようもない厭世観や無力感に襲われたりもしていたのだが・・

メールのやりとりをするうちに、昔のことが鮮やかによみがえって来て、とてもありがたく思った。

過去の、死の恐怖にすくんだりせずに精一杯燃焼していた時のことを思い出すと、自分の人生は空虚ではないと思えてきた。

その頃は、今よりもっと絵を描くことに緊張していて、どんなに懸命にやってもまだ足りないと思いこみ、焦燥でいっぱいで・・・激しく求める性格はあまり変わっていないので絵を描くことを楽しんだりはできていなかったのだが・・今、思えば、ありがたいこともたくさんあった。

絵を描くことを思いつめすぎて、辛くてもうやめたいと思った時期も長くあったが、結局は細々とでも発表を続けて来たおかげで、いろんな素敵な人たちと巡り合うことができた。

私に絵と文章が無かったら、死を前にして、もっと力なく、途方に暮れていただろう。

そして不安で張りつめていた私を支えてくれた、もう会うことのできない人たちのことを思い出して涙が出た。

今日は少しずつ気持ちが落ち着き、やっと何枚かのスケッチを描くことができた。

 

 

 

 

 

 

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2025年1月 4日 (土)

ちゃびとプフ

1月2日

喉の痛みが和らいできたと思ったら、鼻の奥に傷がついたらしく、鼻をかむと血の塊がでてくる。
鼻の奥から眼の奥のほうに、つんと痛みが走るとこめかみまで痛くなる。

生まれて初めて買った加湿器(小さめの水筒のようなポータブルタイプ)が届いたが、ミストがなかなかでてこず調子が悪い。

USBメモリに入れたままの昔の写真を見ていた。

16歳越えた頃のちゃび。

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やっぱり普通ではない。眼の大きさとかたち。

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ちゃびは20年近く、ずっと私と一緒にいてくれて、いつも私の枕の左端に頭を載せて眠ってくれた。

最期は介護となり、ちゃびのことが心配過ぎていろいろ苦しかった。あまりに好きすぎて、ちゃびを失ったことがショック過ぎて、今もうまく思い出せなくなっている。

今は夜寝る時、必ずプフが来てくれて、私の体の上で足踏みしてから、枕の左端に頭を載せて眠ってくれる。

3匹一緒にいるせいか、ちゃびほど私を常に追いかけてきたりしないけれど、寝ている時は思いっきり赤ちゃんになって甘えている。

ちゃびとタイプは違うが、やっぱりとびきりの美少女プフ。
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ちゃびも、ちゅびおやチョッピーも、まだ乳離れできていないヨチヨチの時から私が哺乳瓶でミルクを飲ませて育てた。

プフだけはミルクをあげていない。

外で生まれて、秋の雨の日に泥だらけで必死で泣いているところを保護されるまで、プフはひと月近くも過酷なサバイバルをしていた。かわいそうに。

同じ日に同じ親から生まれたチョッピーがミルクをいやいやしている赤ちゃんだった時に、プフはもう自立してカリカリを食べていた。

だからほかの3匹より少し警戒心が強いのかと思う。プフはあまり抱っこされない。寝ている時だけはべったり。

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(うちに来て2週間目くらいのプフ)

眠っているプフの額に頬をつけると、プフはそのまま動かない。くーっ、くーっと息の声がする。

眼を閉じたままゴロゴロ言い出し、腕を伸ばして私のからだに爪を立て、ふみふみとお乳をもむような仕草をする。

ちゃびはパイルヘアゴムをジャンプしてキャッチするのが好きだった。

パイルヘアゴムを咥えて私のところまで持って来て、私の前にポトリと落とし、「これやって」と催促した。
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プフもパイルヘアゴムキャッチが好き。これも不思議だ。

1月1日 雲一つない晴天

昼前から少し歩いてみようとJR駅の方へ。

古着屋が何軒か開いていた。さすが高円寺。

もう何十年も、自分にとって年末と正月ほど憂鬱な季節はないが、とにかく生きて歳を越せた。

家族団欒とか年中行事、目出度いとか、そういう雰囲気が苦手(自分とかけ離れていて)で具合悪くなってしまうのだが、季節の変化だけは生で感じる。

12月より明るくなった陽射し。

今、盛りの花は山茶花ばかり。花弁が白く長くてひねりのある種類が一番好きだ。

母を支えながら散歩していた時、山茶花を見ていたら、通りすがりの人に「これなんていう花なんですか?」と声をかけられたことを思い出す。

あれは谷川俊太郎さん宅の近くの塀だった。あの山茶花の木立ももう無い。

 

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2024年4月17日 (水)

レットヴィモ休薬

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プフとチョッピー

4月16日(火)

レットヴィモ320mg30日目。

朝起きた時、ひどいむくみと隈で疲れた顔。眼もはっきり開かなくてどんより。

眼の奥とこめかみと後頭部が圧迫されて痛い。全身疲労でとにかく苦しい。

国立がん研究センター中央病院で血液と尿検査。

頭頸・食道内科のH先生に「どうですか?体調は・・」と聞かれ、

「とにかく頭重と疲労で朦朧として苦しいです。頭が働かなくてぼけてるし、だるくて動けないです」

私の酷い顔と検査結果を見たH先生は優しかった。

肝臓の数値が上がっていると。「脳の浮腫が強いんですね」とも。

それで10日間休薬することになった。

 肝臓の数値

     2024/4/2 → 2024/4/16
ALP(IFCC) 139 → 167(基準値38~113)
GOT(AST)   29 → 54(基準値13~30)
GPT(ALT)    43 → 73(基準値7 ~23)

「10日も休んで腫瘍がまた大きくなることは・・?」

「それはだいじょうぶ。とにかくゆっくり休んでください。」

やっと休める!

苦しかったが自己判断で断薬するのが憚られて我慢していたので、すごくほっとした。

束の間の休薬期間だが有意義に時間を使いたい。

18時にWさんにマッサージしていただき、「うわ~!すごく頭と顔が固い~!」と驚かれた。

脳浮腫で頭に強いストレスがかかっているらしい。

額など異常にがちがちで、もまれると「痛い!痛い!」と叫んでしまう。

ずっと頭の筋膜が痛いので、自分でもしょっちゅう、こめかみや後頭部をもんでいるのだけど。

 

 

 

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2024年3月 4日 (月)

ストレスと散歩

3月2日(土)10℃

画材店へ。

強い北風のホームで電車を待つだけで凍えてしまい、今、熱を出したらまずいと思い、駅に着いてからすぐに使い捨てカイロを買った。

新宿で昼食をとってからマッサージ店へ。

治療中、私のすぐ隣のベッドに入って来た女性がいきなり大声で話し始め、

「最初に首が酷く痛くなったのは20代の出産後で~私は首が長いんですって!ロングストレートネックなんですって!それから○○のマッサージに行ったんですよ。そしたらマッサージでなおるみたいで~、でもその先生が病気になっちゃったんですよ~、それから○○に行って~。その○○は~だったんですけど~そこが××で~!それから耳鳴りで耳鼻科にに行ったんですけど~酷いことを言われたんですよ!!耳鳴りを中和する音の出る補聴器をつけろって。そんなの老人がつけるようなやつで~!ねえ酷いと思いません?酷いですよね!!」

カーテン一枚隔てただけで、すぐ私の耳の横からうるさい声ががんがん響いてきて、ストレスで頭痛と吐き気がしてきた。話が長くて止まらない。しつこく同意を求める。

私にはこういうおしゃべりの騒音が一番ストレス。

5、6分我慢してから耐えられなくて両耳を塞いだら、担当の人に「頭が痛いんですか?」と聞かれ、

「そうじゃなくて、声が辛い・・」と言ったら

「そうですよね」と奥のベッドに変更してくれた。

私は自己顕示の強すぎるおしゃべりの人が本当に苦手。

個展の時に声が大きくて私となんの関係もないおしゃべりをする人が来ると、ストレスで倒れそうになる。

3月3日(日)14℃

撮影した画像にゴミが映るので、センサークリーニングをしてもらいに中野のカメラ屋へ。

前回、センサークリーニングをしてもらってから半年も経っていないし、レンズ交換もしていないのになぜセンサーにゴミが付くのか質問したら、

ズームする時に鏡筒の中のゴミが落ちているのではないかと言われた。

クリーニングが出来上がるまでブロードウエイで天ぷらを食べ、古くてレアな漫画の本を探し、

カメラを引き取ってから散歩。

趣のあった古い団地(水仙の群れがあった)が潰されたあとに建った巨大ビルの中を通り(テナントは空きが多かった)、

木造の小さなバブテスト教会の横の緩やかな階段坂が無事なのを確認し、

不思議なスペイン風の家の前を通り、SLのある公園の脇を上り、

明治時代の洋館(旧中村家)を囲む煤けた大谷石の塀をつたい、くねった坂を下る。

紅葉山の向かいの旧中野第9中学校は瓦礫になりつつあった。

私の好きな散歩道はどんどん破壊されていく。

帰りは少し寒かったが桃園川緑道を通って高円寺まで歩いた。

沈丁花が満開。

田中稲荷という小さな神社で、チョッピ―によく似たかわいいおキツネ様と出会った。
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桃園川緑道沿いの古いアパート。
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アパートの横にいた猫たち。片方の子は桜耳だった。
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昔はかわいい野良猫を見つけたら喜んだりしたけれど、野良猫は1、2年しか生きられないと知ってからは

外に暮らしている猫を見つけるだけで保護しなければ死んでしまう、という心配でストレスになる。

すぐ向かいに保護猫活動をしている家があったのでほっとした。

 

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2023年12月21日 (木)

Sさん宅の猫、下北沢 / 上村忠男さん

12月21日(木)

上村忠男さんからメールをいただく。

『みすず』2023年読書アンケートへの回答文(冊子は2024年2月に刊行)に、鵜飼さんの最近書『いくつもの砂漠、いくつもの夜――災厄の時代の喪と批評』(みすず書房、二〇二三年)に収録されている私の本について書かれた文章について言及してくださったとのこと。

12月20日(水)

Sさん(うちの3匹を最初に保護してくれたかた)宅のタビちゃんに会いに行く。

タビちゃんの絵を描く約束をしたので、写真だけではなく実際に会いたかった。

タビちゃんはSさんが保護団体から譲り受けた猫で、メインクーンだが後ろ左足先端が欠損の(ブリーダーが売ることができなくなって保護団体に行った)子。

タビちゃんはメインクーンにしては大きくない。うちのちゅびおよりも軽い。

もう一匹、一時預かりだがもう1年半もいるというシマちゃんと仲良くしていた。

二匹を見るとうちの子たちとは大違い。同じく保護猫だが大人しい。おやつをねだったりもしないそう。

うちの子たちがいかに毎日ドタバタ大騒ぎしているかを痛感。

帰りに下北沢まで歩いた。

駅の南側、茶沢通りに出る。昔は露崎商店やら何軒ものアンティーク屋が連なっていたあたりを歩くとものすごい淋しさに襲われる。

駅の東側、ロックンロールバー・トラブルピーチ。そしてカラオケチイと本多スタジオのあるビル、ここだけぽつっと残っている。Sdsc07040_20231221223501

下北沢全体があまりに酷い破壊のされ方で、昔の記憶をたどって歩くのが難しい。方向感覚がおかしくなる。

ピーコックの入っている下北沢駅前共同ビルでトイレを借りる。4階にはいろんな劇団が入っていた。

北口にあった駅前食品市場(闇市の名残)が無い。

駅ビルにあったアンティークLIMONE、古いトランクが並んでいたお店は南口に移転したらしい。

北沢2丁目の北沢ビル。このビルはまだ存在している。
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3階まで外の階段を上がってみた。隣の建物も古い。

 

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2023年8月 5日 (土)

分離不安で逆にいい子になる猫たち

北海道から帰宅し、部屋のドアを開けた時、いつも私の座っていた位置に寝ていたちゅびは、私の顔を見るなり驚いたように「うにゃ~お、うにゃ~お」と叫んだ。

プフはそのあと、棚の一番上の私の手の届かないところに上って、私に向けて「うにゃ~?うにゃ~?」と捕まえに来て、と言うように何度も鳴いた。

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ちゅびは私のお膝にべったりでゴロゴロ。
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ちゅびがいなくなったらすぐにチョッピー(まだらさま)が私の膝の上に来てゴロゴロ。
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プフは朝方、気づくと私の頬に頭をつけて眠っていた。そのあと私の胸で長くゴロゴロ踏み踏みし、胸の上で眠る。

私が北海道に行っているあいだ、うちの3匹の猫たちはどうしていたかと聞くと・・

面倒を見てくれたYさんによると、なんと急にいい子になって大人しくしていた、と(・・!?)。

普段なら、カリカリをあげてもちゅーるなどおやつを欲しがってうにゃ~うにゃ~うるさくしていたプフとちゅびおが、

ひとことも文句を言わず、素直にカリカリだけを食べていたという信じられない報告。

そして毎日、お風呂場前の洗濯機の上に行っては「うにゅる~うにゅる~」と大きな声で壁に向かって鳴いていたちゅびが、

まったく変な鳴き声を出さず、大人しくしていたという。

つまり、私をわざわざ呼んで抱き上げてもらうために叫んでいた?

飼い主がいなくなると、普段はいい子たちが分離不安で異常行動になり、大きな声を出したり食べなくなったりする、とよく書いてあるのに、

うちの子たちはひどいわがままで甘ったれなのが、私がいなくなったら急にしっかりしていい子になった。

私はなるべく家を留守にしていた方がいいみたい。

・・

先代のちゃび(女の子)も、よちよち歩きの赤ちゃんの時に保護して、狭い部屋の中でずっと私とふたりきりだったせいで、たいへんな甘えん坊に育ち・・しょっちゅうパイルヘアゴムを咥えてきては私にキャッチヘアゴム遊びを要求し・・

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私が絵に集中しだすと高いところから私の肩を飛び蹴りしてたいへんだったのだ。

一瞬、頬や顎下まで電気が走り、何が起こったのかわからなく、そのあと痛くて痛くて、肩から背中が血まみれになり・・

マッサージに行くと必ず「どうしたんですか?首から肩が傷だらけですけど」と聞かれていた。

そういう経験を踏まえ、私にべったり依存し過ぎないように、無理してでも3匹一緒に飼うことにしたのだ。

 

 

 

 

 

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2023年5月28日 (日)

宇野亞喜良「蕉風展」、『オールド・ポッサムの抜け目なき猫たちの詩集』

5月21日(日)

Galerie LIBRAIRIE 6(シス書店)宇野亞喜良「蕉風展」へ。

『オールド・ポッサムの抜け目なき猫たちの詩集』(T.S.エリオット・詩、宇野亞喜良・画、佐藤亨・訳)を出版した球形工房さんと一緒に。

宇野亞喜良さんは私が小学生の頃から最高に憧れの絵描きさん。

私が生まれた新宿の、その頃のアングラで反体制でかっこいいイメージと宇野亞喜良さんの毒があって挑発的なイラストのイメージが重なる。

そして少女の頃に夢中で読んだ寺山修司とのコラボの新書館の詩集、どうしても、私は死ぬまであの頃の宇野亞喜良さんが見せてくれた気だるくて妖しい夢から抜け出せない。

宇野亞喜良さんと奥様の美恵子さんが到着し、訳者の佐藤亨さんと一緒に『オールド・ポッサムの抜け目なき猫たちの詩集』にサインしていただく。

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サインしてくだっさている間、左手で、本を90度傾けて宇野亞喜良さんが描く線に、その時間にすべてを見逃さないように眼を集中していた。
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ぞくぞくとお客さんが増えて、三枝子さんが「サイン会になってしまう」とおそれる。

宇野亞喜良さんと三枝子さんの沢渡朔さんが撮ったヒッピーぽい写真、最高に素敵で、大きなポスターにしたいくらい、と私が言うと、三枝子さんは「黒歴史よ~。でもあの頃があったから今が落ち着いていられるんだと思うわ~。」と。

三枝子さんは芸能界が合わなくて早くやめたかったそうだ。そして昔の原宿や表参道がどんなに素敵だったかのお話。

宇野亞喜良さんの絵はますます生気を帯び、華やかで、少女は愛らしく。

宇野亞喜良さんは正直で才能に溢れ、恐ろしく話が面白い。

劇団四季のミュージカル「ライオンキング」で、元の舞台では黒人が頭に草をつけて出てくる場面を、日本人が黒く塗らないでやったから面白くない、とか、「これ、文字読める?」とある本を開いて見せてくれて、ブックデザインがまずいことをはっきり指摘したり。

そういう芸術家そのものの宇野亞喜良さんのお話を聞いていると、私の心(頭)は嬉しくてたまらなく高揚する。

画家や文筆家でも、その道の「専門家」であって「芸術家」ではない人が多い。

この詩集はミュージカルCATSの原作になったものだが、宇野亞喜良さんはミュージカルとは違う、元の詩に寄せて、さらに元の詩からも少し違う宇野亞喜良独特のイメージを膨らませて自由に絵を描いておられる。
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佐藤亨さんは日本エリオット協会の会長で、原作を生かした意欲的な新訳。

 

 

 

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2023年1月 8日 (日)

智積院の明宝展・うちの猫3匹の生まれ故郷・宇野亞喜良万華鏡展

1月5日

六本木サントリー美術館「京都・智積院の明宝展」へ。

1時頃に六本木に着き、裏通りの隠れ家っぽいクッチーナ・アリアでウニとイクラのパスタを食べる。少し塩分が強かったけれど素敵な雰囲気のお店。夜はすごくお高そう。

福山家の墓が東京タワーの丘の中のお寺にあり、祖母の友人の家が六本木狸穴(まみあな)付近にあったので、子供の頃、六本木はよく連れられて来ていた。六本木にも草木が生い茂る庭と木造の古い家屋があった頃の思い出。

ミッドタウンの中のサントリー美術館へ。

智積院の「国宝桜図」(長谷川等伯の子・久蔵作と言われている)は昔から一度、本物を見てみたいと思っていた。(この写真は入り口にある撮影スポットの大きな印刷物を撮影したもの)
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八重桜の胡粉の盛り上がりがどうなっているのか、また、後ろの可憐な柳の葉の実物をこの目でよく見てみたかった。実際に見て、花の盛り上げ胡粉の黒灰色の立体感の心地よさ、柳の葉のヴァリエはいろいろあり、点々(粒粒)で描いている葉があることに気づいて感動。

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私はどうしても剥落や古色や欠損に美しさを感じる(けばけばしすぎるものが嫌い)ので、かすれた質の中にかつて描かれていたものの痕跡を間近で見つけることができて興奮した。

八重桜の樹の下には著莪(シャガ)や菫、蒲公英、山吹が描かれてあり、この時代(1500年代後半)にはもう入ってきていたのだなあと感慨深い。樹下の植物部分をよく見るためにしゃがんでガラスに顔をぎりぎりまで近づけてずっと見ていた。

展示室2では堂本印象の絵がけばけばしくて気持ち悪かった。堂本印象は好きな絵もあるけれど、この絵は大嫌いで見たくなかった。

ほかの真言密教関係の意匠は、その装飾性などいろいろ面白かった。花輪和一が真言密教に惹かれる感覚がわかる。モンテルキで実際に見ることができたピエロ・デルラ・フランチェスカの「出産の聖母」を彷彿とさせる左右対称の絵もあった。

・・

六本木駅近く(ミッドタウンからすぐ)の、うちの猫3匹の生まれた庭を久しぶりに訪れてみた。大きな修道院の庭。
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この修道院と道路隔てて向かい側の大きな社宅の駐車場の隅に生まれて10日から2週間ほどのちゅびが落ちていて、社宅に住むSさんが拾ってくれた。道路を渡り、社宅の中庭を横切って駐車場までけっこうな距離があるのに、まだ眼もあいていなくてよちよちの赤ん坊がそんなところに落ちていたことが不思議だ。

母猫がくわえてうろうろしていたとしか考えられないのだが、本当によく車に轢かれずに、衰弱死せずにタイミングよく拾ってもらえたなあ・・・と(涙)。拾ってくれたSさんに本当に感謝。

6月にちゅびが落ちていて、9月にはさらに社宅の中庭にチョッピーが落ちていた。10月の雨の中、さらに中庭でプフが保護された(プフはよちよちではなく、生後ひと月くらいだった)。3匹ともSさんが保護してくれて、Sさんの知人の知人である私がもらい受けた。

修道院では野良猫の避妊の意識がなくて、ものすごく増えてしまっていたが、Sさんが保護団体に連絡してくれて多数の野良猫が保護された。

12月27日(火)

ギンザ・グラフィック・ギャラリー「宇野亞喜良万華鏡展」へ。

<https://www.dnpfcp.jp/CGI/gallery/schedule/detail.cgi?l=1&t=1&seq=00000813p> 

宇野亞喜良さんは、私が小学生の頃から激しく憧れたイラストレーター。

「今年3月、めでたく米寿(88歳)を迎えた宇野亞喜良。イ>グラフィックデザイナーとして1950年代から半世紀以上にわたり、“黄金の左腕”を武器に、常に時代の第一線で活躍してきた。特に1960年代-70年代は、寺山修司演出の天井桟敷公演をはじめ、アングラ系の劇団を中心としたサブカルチャーと深く結びつき、狂気や毒気、エロティシズム、情念を孕んだポスターやイラストレーション表現で一世を風靡。街に貼られた宇野のポスターが次々と剥がされたり、ポスターが先行して芝居の中身にまで影響を与えるようなことも実際に起こっている。」(矢萩喜從郎)

 ギンザ・グラフィック・ギャラリーとはDNP(大日本印刷)のギャラリーであり、この展覧会は宇野亞喜良さんの絵を最先端の印刷技術を駆使してポスターにしたものの展示がメインで本当に驚異的な様々の印刷技術を目にすることができた。

地下階では、子供の頃にそのわけのわからない妖しさにくぎ付けになった宇野亞喜良さんの古いポスターたちを見られて感激。

寺山修司の演劇や越路吹雪のコンサートのポスター、驚いたのは大きな顔だけのイラストの車のポスターと花束と少女のイラストの銀行のポスター。ここまで宣伝目的と無関係の絵が昔は許されたことに感動。

2階では宇野亞喜良さんの60年代制作のアニメーション(イラストに詩と音楽を組み合わせたもの)を見た。映像技巧的には感覚的にショックを与えるようなものではなく素朴で、イラスト自体は今も古びずに色気たっぷりでアンニュイで刺激的で、すごく心地よくてずっと見ていたくなるようなアニメ。

宇野亞喜良さんは何度かお目にかかってお話を伺ったことがあるが、感覚の若さ、頭の回転の速さ、記憶力のすごさ、柔軟性、すべてが驚異的でとても魅力的なかた。

おそらく私が抱く芸術家のイメージそのもののかたのひとり。

私が画家になりたいと幼い頃に願ったきっかけに、宇野亞喜良さんの自由奔放なイメージと当時の新宿のイメージがあることは間違いない。

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