早稲田での発表 / ちゅびのリンパ腫が悪性だった
22日にちゅびの細胞診の結果が出て、「LGLリンパ腫」、リンパ腫の中でもたちが悪いものと知って、頭が殴られたようになり、文字通り倒れていた。
手術後、抗がん剤をやってもあまり延命できないかも、という記事を読み(それもちゃんとは頭に入って来ない)、精神疲労マックスになり、朦朧とした。
早稲田での発表のための準備に根を詰め、ずっと過緊張で頭痛や動悸、そこにちゅびのことで、まともに言葉が出てこない感じ。
毎日のちゅびの通院には行っている。
手術後、一度も自主的に食べてくれなくなってしまい、毎回、抗生物質の注射(抗生物質の薬を抵抗して飲ませられないため)と輸液と強制給餌をしてもらっている。
後ろ脚の神経が麻痺して引きずっているが、強制給餌の時には4本の脚で先生を思い切り蹴ってくるので、私が前脚を押さえている。
頭はよく動くし、表情はしっかりしていて、私の呼びかけにも応える。
私は悲しすぎて心臓も胃も頭も全身の筋肉も痛い。
ちゅびがかわいくてたまらない。
1月22日(木)
早稲田大学 谷昌親先生の授業で発表。
塚原史先生も聞きに来てくださった。
「画家の身体」
〇絵はなんのためにあるのか 画家の身体とは
画家の身体は普通の人が見ていない、あるいは見えないものを見ているということ
〇自我、主観、主体、あるいはそれらの主権、理性、さらに客体化された論理、習慣、常識、そこで繰り返され循環するステレオタイプ、ありふれたもの・・・、そうしたものから逸脱は可能か
〇デッサンは自分の外にあるものを見て、自分が受容体になることで、主客未分の状態になる
「証言」
〇言語でないもの、人間の外にある生命、文化の外にあるもの、遺棄されたものへ寄り添う
〇絵であるものと絵でないもの 絵は自分の外にあるものとの関係性
具象という意味ではない
〇絵が「現代美術」としてあるためには、「問いかけ」が必要
〇若林奮 「人間に興味を持たない」、作品の「相手は」「犬であるかも知れない」、「自分の現在と最初期との接近を考え、その間にある歴史を不要としたい」
〇革命
〇アルトー ブルトンへの批判、シュルレアリスム、画家の身体
〇視覚芸術と無意識について
〇人は「現実」=「むき出しのままの表層」こそを見ていない、ということ
〇シュルレアリスムの目指した可能性を現代に生きるには
〇「現代美術」と「現代アート」(仮)
〇デリダの残したもの 動物、共苦、人間中心主義への批判 懐疑不可能なものに先行する
ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(ちくま学芸文庫 鵜飼哲訳)
・・・・
結局、誰にも理解されない問題を発表したのだと思う。
でも、自分にしか発表できないことを発表したのだからよしとする。
死ぬ前に一番言っておきたかったことを、まあまあ言えた。
Z世代の学生さんが助けてくれて動画撮影はできたのだが、それを私が短く編集してYOUTUBEにアップするには、そうとう時間がかかるだろう。
20年前、私は早稲田大学のけっこう大きい教室で発表をさせていただき、そのあと谷昌親先生の授業でも発表したのだが、
その当時、吉田文憲さんが早稲田で教えていて、吉田さんが塚原史先生や谷昌親先生につないでくださったのだ。
この「画家の身体」という発表も、吉田文憲さんが聞いたら、なにを言っているのかわかってくれたかもしれない。
20年前、私は吉田さんに常に「画家の身体」の話をしていて、それはアルトー的な「宿痾」だと言われていたから。
・・・・・
アルトーの「アンドレ・ブルトンへの手紙」(1947)鈴木創士訳
「私は秘密の世界や、世界に隠された何かがあるなどとは信じない。見かけの現実的なものの下に、観念、知覚、実在性、あるいは真理の、埋もれた、あるいは抑圧された初段階があるとは信じない。
すべてはそしてとりわけ本質的なものは、むき出しのまま表層にあったのだし、それが垂直に、そして奥底に沈みこんだのは、人間たちがあくまでそう主張するすべを知らず、そう望まなかったからだと私は思っている。」
「秘法伝授を誕生させたのは現実的なものへの恐怖である。(…)もしシュルレアリスム(超現実主義)が現実的なものでないなら、いったいそれが何になるのか?
だが、そうであっても、もうたくさんだ。いかなる外観のもとにあろうと私はもう芸術には我慢がならない。芸術、すなわちひとつの打撃、糞、殺戮、戦闘、決定的な一掃でないものは。」
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福山知佐子「応鳴、息の犇めき──ジャック・デリダの動物論に寄せて」『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』(ちくま学芸文庫)あとがきエッセイより
〈先決的、かつ決定的な問いは、動物が、苦しむことができるかであるだろう〉という言葉をめぐって、語れる能力を持っていることを示すことではなくて、動物たちの苦しみをどれだけ〈共に〉苦しむことが〈できる〉のか、どうしたらその苦しみを〈限界の周りで、限界によって〉〈養い〉、〈生成し、育成し、複雑にできる〉のかということだろう。

打ち上げのサイゼリヤにて塚原史先生と谷昌親先生と
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