9月17日
ちゃびがきのうから全く何も食べていない。うんこもしていない。4日くらい前から急に食が細くなり、秋バテかな?と思ったが、ゴロゴロ言っているし、水は飲んでいるし、具合悪い感じでもないので様子を見ていた。
しかし丸1日以上、なんにも食べないのはおかしいので、すごく不安になって、H動物病院に電話してみた。水は飲んでいるか、おしっこの量は、など聞かれ、高齢なのでもっとも考えられるのは腎臓が悪くなっていることで、なるべく早く来た方がいいと言われた。
きょうは私の乳がんの再検査の日で、時間がどうなるかと思ったが、夕方急いで帰宅して行くことにした。
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さて、区の健診を受けた新宿のクリニックにて乳がんの再検査。カルテをつくったりするのにけっこう時間がかかった。「この前撮ったのと別の角度で、もう一度マンモグラフィ撮りますか?嫌なら先生と相談で。」と言われ「相談させてください。」と応える。
まず臨床検査師の人にエコーを撮られる。検査の時、いつも「くすぐったいかもしれません。」と言われるが、私の場合は押されたりこすられたりすると痛いので緊張する。
画像を何枚も撮られ、ピッピッと音がして、見ると検査師の人が気になるところにやたらしるしを付けているので「そんなにいっぱい疑わしいスポットが?」と思い全身から汗が出てきた。
先生の診察でもう一度右胸のエコー。気になるのはマンモに写っている右胸の白いところ。だがエコーと触診ではだいじょうぶそうなので、乳腺がここに飛んでるだけかもしれない、と言われる。水がたまっている細かいふくろはたくさんあるが、それは問題なし。
3か月後にまたエコーをし、その時は両胸のマンモもしっかりやって検査しましょう、とのこと。そこで疑わしかったら細い針を刺して細胞診。さらに疑わしかったら太い針を刺して、確定になったら全身麻酔の手術だそうだ。
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5時すぎ帰宅して、ちゃびを病院に連れて行く準備。タクシーでH動物病院へ。
H動物病院は最近新しくできた病院で、高円寺ニャンダラーズへの協力や、殺処分をなくす講演や、一貫して動物愛護の活動をしている院長さんだという記事を読んでいたので、何かあったらここに行くと決めていて場所の下見をしておいたところだ。
H動物病院に着いてびっくり。玄関の前にも、中にもびっしり待っている人と、大きな犬がいっぱい。こんなに混んでいる動物病院を初めて見た。おむつをして床に寝ている犬もいた。
ちゃびはほとんど外に出たことがないので、緊張してかわいそうだったのだが、まわりにいる犬や猫をキャリーの中から観察しているようだった。
ちゃび2800g。昔から小柄だ。診察台の上に乗せられるちゃびは、本当に怯えているので「ちゃび~、だいじょうぶよ~」と上半身を抱いて撫でながら・・・しかし25ccも採血されて痛がるちゃびを見て私もどきどきして汗まみれに。
検査結果が出るまで再び待合室で待機。お客さんはひっきりなしに来て、ちゃびよりも先輩の21歳という猫ちゃんも来た。
結果、腎臓が悪くて脱水症状を起こしている、と言われ、皮下点滴をしてもらう。明日はH動物病院は休みなので、これで食欲が出なかったらどうしよう、と不安にかられる。心臓も弱っていると言われ、飲ませられたらやってください、と薬を3錠出された。
いつまでも赤ちゃんの時と変わらずに、紐にじゃれて走ったり、パイルヘアゴムを飛ばすとキャッチしたりしているちゃびが、実際は人間に換算できないくらい歳をとっているということをつきつけられたようで、胸が苦しくてたまらない。
帰宅すると7時45分。とにかく何か柔らかいちゃびが食べそうなものを、と8時閉店の店へ走る。店はもう片付けをしていたが「すみませ~ん!」と飛び込んで「銀のスプーンプレミアム 三ツ星グルメ15歳以上用」というのを2種類とまたたび粉を買った。
ちゃびは、皮下注射の液がたまったところが脇の方にぷよぷよぶら下がっていた。お願いだから元気になって!!と涙が出る。
深夜、ちゃびに「銀の・・・」を袋からしぼってあげてみたら、食べた!!!すごくおねだりするようにして完食!
総合栄養食のほうは少ししか食べなかったが、まずはよかった。これからいろいろ気をつけてあげないといけない。
最近のちゃび。これは9月3日。すごく元気だった。

9月7日のちゃび。私の薬袋にはいって、穴があいてるところから顔を出してみていた。

9月15日のちゃび。ちょっと食が細い気がしたが、普通に元気だった。うんこ少量。


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動物について、
Bに「日本では、私が肉を食べられないと言うと攻撃してくる人がいる。外国ではすんなり通るのに。」と言ったら、
「欧米では狩猟民族の歴史が2000年以上続いていて、その中で逆に動物を殺して食べることに反対する人たちも出て来、さらにいろんな考え方も出てくる。日本では肉食の歴史が浅く、いろんな議論も全く成熟していないから」と言われて、なるほどと思った。
欧米ではベジタリアンというと卵やミルクはOKの人が多いようで、完全に動物を食べない人をヴィーガンという。さらに進んで、人間生活のあらゆる面で、動物を利用することを完全にやめるべきとする人たちがいて、過激な活動をしていたりする。
言葉にするのは困難だが、私が思うのは、すべてを厳格にしようと理屈で考えていくのはよくないということだ。すべてを単純に分類していくと感覚はどんどん死んでいく。それは身体感覚から発するものではなくなって、「信条」「イデオロギー」になって硬直する。
しかし、常に感じながら何かに向き合うということは、非常にしんどいことだ。だからほとんどの人はあるやりかた、やりすごしかたを覚える。
一度線引きをし、分類したものごとが決まり事になり、ルーティーンになると、本当の微妙さ、誠実さ、割り切れない感情は死んでしまう。
そういうふうに思うのは私が「活動家」ではないからだ。「活動家」であれば、現実に対しての有効性を考えるのは当然だ。
たとえばH病院の先生だって、犬猫の殺処分ゼロの運動をしている人たちだって、肉食をしないかどうかはわからない。犬猫をかわいがっている人でも牛豚鶏の命にはほとんど関心がないのは、まあ一般的だと思う。いろんな関わり方、考え方はあるが、自ら実践として活動している人たちについては尊敬せざるを得ない。
日本などでは「文化」的に習慣化し、固着してしまった「牛、豚、鶏は食べ物であり、そこに生き物に対するシンパシーは不要」という意識を根底から問い直すことは一般的には難しいのだろう。
もちろん肉食している人でも尊敬する人、大好きな人はいるし、肉食を絶対しないという人でも好きになれない人はいる。
かわいがられる動物と、殺される動物、殺されるために飼育される動物の区分、その差が激しすぎることが、本当に恐ろしいことなのだが・・・裕福すぎる人間と、命を尊重されない人間の差が激しすぎること以上に、その理不尽は途方もない。
私個人に関して言えば、最初に身体感覚が肉食を拒否し、その後で言葉が来た。
最初にいわゆる肉を食べられなくなったのはたぶん4、5歳のころだ。気持ち悪くて吐きそうになったのだ。その頃から、家には犬も猫もいた。
動物が自分に近い存在であり、個性(個々の生命)を持つこと、かわいがっている犬や猫と食肉にされる動物はいったいどこが違うのだろうか、という問題意識がはっきり(言語化)したのは、もっと後になってからだ。
問題意識はさらに強く身体を変化させるので、意識してからは、動物を殺すのは厭だという感覚、肉食に吐き気を覚える感覚は、相互作用でどんどん強くなっていった。
たとえば牧場などで、牛や羊と遊びながらその横で肉を食べる観光や、食べ物としての動物のユーモラスな戯画、そういった、文化的コードによる一見のどかで無垢な環境への翻訳が、私にはとても怖いのだ。特に「仔羊」や「仔牛」という名前のつく料理があるのを見ると、ものすごく怖い。仔羊や仔牛を見て、触れて、本当にかわいいと思ったことがあるからだ。
私の場合、その恐怖によって、肉を焼く煙やにおいでも吐きそうになるし、ハム、ベーコンなどの加工品や、ラード、ブイヨンなどの出汁、チキンと一緒に揚げたポテトなどもまったくだめだ。
かと言って、「ロハス」や「マクロビ」などの言葉が好きかと言われると好きではない。「ロハス」は経済用語だし、「マクロビ」は別に動物への思いやりがあるわけではなく、ただ自分の美容と健康のために称揚している人が多いからだ。
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話は少しずれるが、たちが悪いのは、頭がよくて言語操作に長け、最初から懐疑的無関心のうちにいる人たちだと思う。「偽の問題意識」でディスカッションし、一見、微細なところまで踏み込んで考えているふりをするが、実際は多くの議論が本質的なところで無関心をさらしている。
たとえば虐殺や飢えをテーマにした講演や展示をしたすぐ後に、関係者で焼肉三昧の宴会をする人たち。せめてそのイヴェント直後だけでも慎めばいいのに、それすらできない。彼らは、ただ知的遊戯を楽しんでいるのであり、虐殺する者、される者の話をしながら、少しの吐き気も感じない。