彫刻

2016年2月19日 (金)

府中美術館「若林奮 飛葉と振動」展 / Dissémination(ディセミナシオン)とPusteblume

2月9日

鵜飼哲さんと府中市美術館の「若林奮 飛葉と振動」展を見に行く。

2時に入り口で待ち合わせたが、1:30くらいに着いて、庭の「地下のデイジー」を見ていた。ひとりで、しゃがみこんで説明のプレートを読んでいたら、子供たちの団体が来た。

「地下のデイジー」などの若林奮作品を見、学芸員さんの説明を聞いて、小中学生がなにを感じるのか、聞いてみたい気がした。

地下のデイジー(DAISY UNDERGROUND)若林奮。厚さ2.5cmの鉄板が123枚重なってできており、高さは3メートルを超えるそうだ。ただし、地表に出ているのは3枚分だけ、残りは全て地下に埋められている。

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地下にあるものを想像し、そのまわりのものを想像し、作者の思いを想像しなければ、何かを感じることは難しい作品。私は若林先生がどんな人だったか知っているから、非常に感じるものがあるが、作者を知らないで初めてこの作品を見た人はどう感じるのだろう。

ひととおり2階の若林奮展の展示を見てから、2時に鵜飼さんとロビーで会って、もういちど一緒に見た。

若林先生が「サンドリヨン・ブルー(シンデレラの青)」と呼んだ灰青色と、そのブルーと最も響きあうイエロー(花粉色の、硫黄色の、太陽の黄色)の、あまりにも強烈な繊細さが心に残る「振動尺(手許)」のドローイングたち。

これらのドローイングたちを見ると、いつもブルーデイジーという花を想い起こす。それと少女らしく柔らかい薄紅の雛菊。デイジーはDay's eye(太陽の目)。

4時頃、見終わってから、バスで武蔵小金井に行った。きょうは鵜飼さんは車ではなかったので、私の好きな庶民的な店、すし三崎丸でお酒を飲んだ。

私の誕生日が近いと言ったら、お祝いをしてくれた。

そのあと武蔵小金井の細い裏通りを歩き、小さなイタリアンバルに入ってワインを2杯ほど飲んだ。

デリダの動物についての話で、前から疑問に思っていたことを質問してみた。

「動物が絶対的他者だとすると、私とちゃびの関係のように、お互いがお互いの中に出たり入ったりできないんじゃないか、動物を絶対的にわからないものとしてしまうと、助けることができないんじゃないか」という疑問。

それに対して、鵜飼さんの説明は、

「ヨーロッパの「他者」という言葉にはふたつあって、「絶対的他者」(神)と、もうひとつの「他者」(隣人、他人、動物、植物というようなもの)という分け方だった。

それをデリダは、皆が「絶対的他者」で、神もその中のひとつにすぎない、というふうに言って、それまでの二分法を崩した。」

というものだった。

「サルトル、レヴィナスは、他者とは出あうもの、と言い、フッサールは。他者とは、無限に近づくことができるけれど出あえないものと言った。」(このあたり、だいぶお酒がまわっていたので私の記憶はあいまいです。)

私のもう一つの質問は、

「「散種」って男性的な言葉じゃないですか。なぜデリダはそんな言葉を使ったのですか?」という疑問。

鵜飼さんの説明は、

「デリダはその頃、植物や動物に関心があった。Dissémination(ディセミナシオン)には意味を散らすという意味がある。」

というものだった。

だったらDissémination(ディセミナシオン)は、私の愛するPusteblume(プーステブルーメ)のことだ。若林奮の花粉色の硫黄でもあるのかもしれない。

11時近くに帰宅。

2月11日

所用でS木R太と2時に会い、車で多摩丘陵のほうへ。着くのに2時間もかかった。

戻ってきたらもう8時半で、空腹で疲れていたので、華屋与兵衛によってもらって、そこで話した。ふたりとも「漁師のまかないサラダ」だけを頼んだ(お酒も飲まないので変な注文)。

また11時近くに帰宅。

2月16日

一級建築士のT川さんと会う。

2月18日

新宿三井ビルクリニックへ。腹部エコーと血液検査。

診断してくれた女医のA先生がかっこよかった。

風貌が一ノ関圭の「女傑往来」の高橋瑞子みたいだ。

2月19日

暖かい日。西新宿の家から新宿中央公園を通り、ワシントンホテルの脇の細道を抜けて、代々木を歩いてみた。

中央公園で、2004年頃に母と見た紅と白の絞りの桃の花を捜したが、見当たらなかった。早咲きの小さな桜が咲いていた。

中央公園は全面禁煙になり、ランチスペースもできていた。だが整備されすぎていて、自然な草木の繁茂がないのが淋しい。

甲州街道のビルとビルの隙間に存在する樹齢200年の「箒銀杏」(ほうきいちょう)の樹を発見して胸を打たれた。妖怪のような巨木だ。渋谷区内には、かつて巨木、銘木がたくさんあったが、戦争で失われ、開発で失われ、最後に残った名のついた巨木が、この「箒銀杏」らしい。

文化服装学院の裏の古い団地も、もう取り壊されそうになっていて、板が打ち付けてあった。

私の通った小学校の裏に古い団地がくっついていて、四季の花々が混然と咲き乱れていたのを見ていたせいか、古い団地にとても郷愁を感じてしまう。

・・・

9時頃、I工務店のジュリーから電話。

彼は非常に誠実で、あらゆるリスクを考慮してくれ、安請け合いをしない。彼は本当に信頼できる人だと思う。

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2015年11月27日 (金)

若林奮展「飛葉と振動」 葉山 水沢勉館長トーク2回目(後半)

11月23日

若林奮展「飛葉と振動」を見に神奈川県立近代美術館葉山へ。

8月22日に水沢勉館長の若林奮についての一回目のトーク(前半)があり、本日はその後半を聞きに行く。

8月に来たときは、たいへん混んでいてバスがなかなか進まなかった。あの時は日射しが眩しすぎて、外の景色を見られないほどだったが、きょうは小雨まじりの曇り。

美術館前でバスを降り、すぐ前に、なぜかバナナの花が咲いて、青い実もなっている庭を発見。素敵なので撮影。

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人気も少ない一色海岸に降りて、貝や流木を捜してみたが見つからなかった。

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きょうの海は、乳白、薄荷、青磁、灰色、フォスフォライト(燐葉石)。
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若林先生の展示、いくつかのドローイングの作品が展示替えになっていた。

・・・・

きょうの水沢勉館長のお話(聞き書きのメモより)。

若林奮(1936-2003)は9歳で終戦を迎え、50年代に青春だった。作品に戦争の影が強くある。

「多すぎるのか、少なすぎるのか?」(1970)

作品の上についたキズを船の航跡に見立てて、軍艦のような船を置いた。軍事的部品を連想させる作品群。不気味な想像をさせることが大事。

15歳でサンフランシスコ講和条約、日米、韓国との関係、50年から70年の安保闘争。国の政策に同調できないという意志が感じられる。

若林奮にとって彫刻とは、世界を発見する手立て、世界をよりよく体験する手段であり、若林奮は彫刻にすごく期待した。

彫刻が発動させてくれる世界。小さいほど世界全体がわかる。

「地表面の耐久性について」(1975)

重いものが地表面にしかない。平べったくて立ち上がらない彫刻は彫刻の歴史の中の禁じ手だった。

今までの彫刻では世界を知ることができないと若林は考えた。

(1930年代に生まれた彫刻家たちは立派な野外彫刻、モニュメントをつくった。それは高度経済成長のミッションだった。)

若林奮展の会場にはいって感じることは、若林奮は彫刻の量感を追求していないこと。

欠け落ちているものを取り入れようとしている。

「残り元素」(1965)

鉄を削ぎ落とすことは困難で、膨大なエネルギーを使っている。人間そのものの大事なものがこそげ落とされ、焼け落ちている恐ろしい感覚。

実体としてではなく、関係としての彫刻。

すべてのものが固定しない、揺らいでいる、振動、それを感じることが彫刻でどこまでできるか。

エジプト――永遠不変。王の威厳。モニュメンタル。

絶えず変化するものとしての鉄。

彫刻は変化しない石を欲しがるが、鉄が不安定だから選んだ。

変化の相に敏感になりながら見るべき。水の流れ、水に浮かんでいるもの、地中、ハエの息など彫刻と正反対のもの。

ハエから出ているか少女から出ているかわからない液体または気体。

1973年、36歳で鎌倉近代美術館新館を全部埋める大きな個展。あまりにも脚光を浴びて、このとき少し燃え尽きた。特に評価したのは柳原義達。

過去の作品を作り直したり、素材をリサイクルしたり、若林奮は素材を捨てることがなかった(ただし硫黄だけは産業廃棄物として、置いておくことができなかった)。いろんなものが繋がり、リメイクもされている。

どの段階で作品なのか、制作そのものも不安定。さらに版画、デッサンもある。

ドローイングは約9000点ある。

紙を圧縮した振動尺。制作の時間の層。直線的な流れの時間が複数ある。

制作態度がポリフォニック。

なにかをつくるように集約していくのではなく、ほどけた状態。

風景――世界にひろがっていくもの。彫刻がレファレンスとして関係性を持つ。暗黙のうちに呼び覚ます。

「大気中の緑に属するもの」

1984年ヴィエンナーレ。固定的な状態を持たない。2003年豊田市美。発展的にもう一度関係性を結びながらよみがえる。

「庭」――運命的に未完成。生成。天気、日々、刻々と変化。もっとも危うい不安定なもの。野外彫刻ではない。

風景を整えて美しい庭をつくるのではない。その中にはいると世界の見方が変わる。

庭も同時進行で制作していたもののひとつ。

セゾン高輪美術館軽井沢の庭・・・1980年代バブルの時。建物と庭が結びつくのを望んでいない。むしろまわりの広大な地形と結びつくため、斜面の角度が大事。

あえて下づらのところの厚さを見せて、それが置かれているように見えるための無垢の鉄。なぜ厚く重く、大地と一体化するか。

コンクリート1m流してある。地形そのもの、地下を含めて作品にはいっている。

美術館の建物とのアプローチに関して、セゾンとの軋轢。

階段があるが登ると警備員に注意される。周りの雄大な地形と関わりながら大地を感じるようにつくられている。

高原は霧が深く、鉄はすごい勢いで錆びる。鉄の不安定さが世界の構造とつながることを望んでいる。

地形そのものが彫刻を喚起する。地形を知るために彫刻をつくる。

歩いて行って体験する。

若林奮が木の枝一本を持って、「こんなものをつくる」と言ったことがある。道が植物の枝振りに似ていたのかもしれない。

若林奮は古典的な庭の研究も熱心だった。銀閣寺の岩が崩れた部分、通称「くずれ」が好きで、神慈秀明会の庭に、砂でつくるいくつかの三角、夕陽が当たる時光を感じる場所をつくろうとした。「100線」にも繰り返し出てくる、究極の「ヴァリーズ」のようなもの。

その計画が遂げられず、その場所が駐車場になり、「やる気がなくなった」と言っていた。

いくつかの石が置いてあるのは、関西から大阪城をつくるときに運ばなかった残念石を拾って持ってきた。

「緑の森の一角獣座」

ダイオキシンを出す日の出の森のゴミ処理場のトラスト運動として、若林さんもひと口地主となって庭的な作品をつくった。

バブルが終わり、誰もお金を出してくれなかった。名前はきれいだが、実際は緑はない。戦後の林野庁の失敗である杉林の立ち枯ればかりの荒廃した場所。

木の橋、石の椅子、石のテーブルがある。全部、森で見つけたものでつくってある。ボランティアが材料を持って、峠を登り下りして、何度も運ぶたいへんな労働でつくった。(水沢さんは44歳~48歳くらいに積極的に関わったが、体力的にきつかったそうだ。)

静かに座って、自然、世界を感じてほしい場所。

その頃の若林さんは「立ち上がること、起業が嫌だ。何かをするのは止めて静かに考えてほしい」と言っていた。

強制撤去の時、石ころひとつまで番号をつけられた。

「緑の森の一角獣座模型」(1996-1997)

まわりはゴミで銅版だけが残るイメージ、水没してしまうイメージなど、いくつもの未来のイメージをドローイングや模型にした。

その頃の若林さんはモンブランのダークブルーが好きだった。

囲いの銅板に、そこにあったはずの緑を描いた。巻いて保存されていた銅板、コイル状で銅線がまいてあり、そのまま展示できる状態だった。巻いてある状態は樹木そのままともいえる。

「カッパーペインティング」

溶剤で焼き付け塗装を解かしてしまった。

銅板にひとつひとつの樹の輪郭をなぞり、たがねで打った。失われたものへの追悼。

状況が変化したら、次のものへとつながることを考える。いろんなことがあり得る。ドローイング。可能性をさぐる不安的な意識。世界と複雑に複数で関わる。

霧島アートの森「4個の鉄に囲まれた優雅な樹々」

彫刻を拡大していって経済的なサポートを受けながら庭をつくるチャンス。2000年(緑の森が失われた時)につくりはじめる。森の中には入れない。四隅に無垢の鉄塊。結界。森を放置。鉄は錆びて無くなる。時間のものさし。

世界のモデル。動物、植物、世界との関係が模型としてある。鉄、造形されたものと樹と霧島の自然。思考が薄まらない。それを支えるのがデッサン、模型、ミイラのような自刻像(自刻像は、まだいくつもつくってあった)。

・・・

「何かを起こす、立ち上がる、ということが嫌だ。座って静かに考えてほしい」という若林先生の言葉が心に残った。

若林先生は「美術」というものを、「自然」とつながるものだと考えていた。

自分もその一部であるところの自然(自分の内部に見いだされる外部)と、そこから外へと広がっている自然に、揺れ動く距離を保ちながらもつながっているものをさして、若林先生は「美術の範疇にあるもの」「絵の範疇にあるもの」という言い方をしていたのだと思う。

講演が終わってから、水沢さんは、すぐに鎌倉館のほうのクロージングイヴェントに行かなければならない、とお忙しそうだったが、少しお話することができた。

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バスを渚橋のあたりで降り、逗子海岸で拾い物。波打ち際で桜貝をたくさん見つけた。とても薄くてはかなくて、濡れた砂の上から取り上げようとすると割れてしまうものもある。

風も冷たくなってきた中、楽しくて夢中で時間を忘れ、何度もしゃがんだり立ったりして貝を拾っていたら、足が冷えて筋肉痛に・・・これがあとでたいへんなことになった。

友人Gが金色のナミマガシワを拾って、自慢げに私にプレゼントしてくれた。桃色のや白のナミマガシワはたくさん持っているが、金色のは初めてなので感激。
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逗子駅近く、神社の横の道をはいる。この道が大好き。
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8月に来たとき、かわいい看板三毛猫が前に座っていた「夢」という店。右側には野菜を売る市場。「おいしいトマトいかがですか」と言われる。
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逗子銀座を端っこまで歩いた。「浜まで5分」という店があったので、本当に5分か夕闇の中を歩いた。10分以上はあった。逗子開成のまわり、ものすごいお屋敷がたくさんあるのでびっくり。

逗子銀座の端っこの店で生シラス海鮮丼(1200円)を食べた。

アクティーで座って帰路についたが、途中、信じられないことに太腿の外側が攣ってしまった。余りの痛さに、なんとか体勢を変えて直そうとしたら今度は反対側の太腿が痙攣。太腿の内側の筋肉も痙攣して、なかなかなおらず、強い痛みに全身汗だくになった。

私は副甲状腺を摘出しまっているので、血中のカルシウム濃度が低下するとテタニー(筋肉の攣り)が起きてしまう。きょうも、うっかりおなかをすかせたまま歩き過ぎてしまったのでテタニーになったみたい。

この日、拾った貝。桜貝と金色のナミマガシワ。その他もろもろの、ちっちゃいかけら。

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2015年8月26日 (水)

若林奮展「飛葉と振動」 葉山

8月22日

若林奮展「飛葉と振動」を見に神奈川県立近代美術館葉山へ。水沢勉館長のトークがあるのでこの日を選んだ。

とても敬愛していて、なにかと目をかけてくださっていた若林奮先生が亡くなった時、私はどうしていいかわからないほど悲しみ、動揺した。私にとって、現代に生きて「芸術」をやっていくことの精神的支柱がなくなってしまった。もう真っ暗闇で何の希望もないと思った。

私にとってそれほどの存在だった若林先生の大きな展覧会を見に行くのは久しぶりで、怖いような、緊張するような感じもあった。

水沢勉館長のトークは本当に的を射ていて、知的にも感覚的にも痺れるように素晴らしかった。

水沢勉さんには『あんちりおん3』にも、もったいない文章をいただいているが、本当に正直で信頼できる批評家だと改めて尊敬の念を強くした。

いくつかの作品の前でお話を聞きながら4つの大きな部屋を回る、全部で一時間ほどのトークだった。濃いお話ばかりだったので、私はA4ほどの紙に、小さい字で夢中でメモした。

その中からほんの一部を書きとめておく。

・・・・

水沢勉館長のお話(聞き書きメモより)――

若林奮の「振動」という概念は、世界は揺らいでいる、振動しているという意味で、60年代後半からのものだ。「もの」が震え続けているというのは、どういうことか。

「振動」という言葉は、もともとモニュメンタルなものだった「彫刻」とはなじまない。

しかし若林奮は、彫刻概念も「微妙ではかなく変化しているもの」としてとらえた。

若林奮の残したたくさんの仕事を見渡すと、試行錯誤しながら過去の経験が純化され、全体が「作品」となっているように見える。

極東の小さな国日本で、一番の基本に立ち戻りながら、若林奮が続けた、どれだけ彫刻の本質に迫れるかという困難な仕事は、戦後文化に批判的な問いを投げかけ続け、世界の文化に大きな貢献をした。

それは我々が存在しているある「長さ」、「世界の中に私たちがいる」ということに対しての問いを投げかけ続けている。

「自分の方へ向かう犬」(1997)

動物、植物、地形。彫刻をつくる主体とは。

鉄も液体になって気化する。鉄の雨の降ることもある。物質が安定していると思っているのは間違い。物質は微妙でアンバランス。

精確に知ること、世界がある程度わかること・・・「所有」

若林奮にとって「犬」は世界との距離感を我々に教えてくれるものだった。

古い傷ついた角柱の中に犬を彫ったものを埋め込んだ。水が角柱であるという設定(木は犬が泳いでいる泥のような水)。

犬が自分のほうに向かって泳いでくる。犬の時間と自分の時間の交錯。安定がほどけてゆく。

消失点のある遠近の安定とは異なる異質なものに気づく。

犬は身近にいて一番ものを教えてくれる存在。

若林奮において「やりたいことの核」は最初につかまれている。象徴的作品。

彫刻の長さはフィクション。

ポリフォニー。同時にいろんな音が流れている。

庭は放棄されて破壊されて終わるしかない。個体の生命体を超えて行く。

犬は分身だが自分ではない。

「犬から出る水蒸気」(1968)

どこから見るのが一番いいのかわからない。

むくむくとしたかたち。犬から出る水蒸気、エネルギーをどういう風に造形化できるか。

犬のしっぽ。4本の指の跡は、ものに触れる、触れた瞬間イマジネーションができるしるし。

おしり、しっぽのほうに指の跡をつけたのは、そちらのほうから始まるというしるし。

溶接の隈のようなもの。どうやって鉄の板でこんな作品をつくれるのか、見る人を驚かせた圧倒的な技術と迫力。

「中に犬・飛び方」(1967)とともに宇部と須磨での受賞作品。

「多すぎるのか、少なすぎるのか」

野外彫刻と自分の彫刻をどうつじつま合わせるのかの問題。

「3.25mのクロバエの羽」(1969)

万博公園にある。1970年万博、戦後復興に浮かれていた野外彫刻ブームへの疑問。パブリックな表現として受け入れられないものをつくった。

「69-56」

クロバエのデッサン。クロバエの飛ぶスピードによって空間が熱され、空気が圧を受けて変化する様子。水の塊が落ちてきてハエとぶつかるとどうなるか。

「69-79-A」

巨大なクロバエの頭。FRP強化プラスティック。人工的。丸みを帯びたつるっとした手仕事へのこだわり。

「地表面の耐久性について」(1975)

初期のオブジェから次の段階へ。野外彫刻のひとつのありかたとして。

「大気中の緑に属するもの」ヴェネツィア・ビエンナーレ。

世界との関わりを表現する試み。小金井から見える丹沢の風景。「日本の風景でなければいけない。」若林奮の「原風景」、体験。

風景、自然そのものが作品になる。開かれた作品。

「庭」

リヒトゥング・・・光がそそいでいる状態。ハイデガー、「存在の明るみに出会う」、「ロゴスのすみか」、森の中、「杣道」にそこだけ光がそそいでいる場所。

「100線」No20、33,47

ポケットに入れて持ち運べる彫刻。砂で作った波。

「緑の森の一角獣座」

敗北するのはわかっていた。どういうかたちで種をまくか。

霧島アートの森「4個の鉄に囲まれた優雅な樹々」

ドローイング・・・習作的なものとビジュアル的な完成予定図のようなものの二種類がある。

花盛りの森、完成図。

・・・・

トークが終わり、少し水沢さんとお話をし、もう一度じっくりと全作品を見てまわったあと、別室で「霧島アートの森」に関する若林先生のインタヴュー映像を見た。

久しぶりにお会いしたような強烈な感覚に打たれ、しばらくそこを動けなかった。若林先生は若々しく、背が高くて少し猫背で、姿が美しく、声が抜群によく、決して朗々とではなく、ぼそぼそと、精確に誠実に話す姿は昔のままだった。

4回繰り返して見て、若林先生が話していることをほぼ全てメモした。

その中の核心は、次の言葉にあると思う。

「人間の美術はすばらしいものだと思うのですが、人間がわからない部分とか人間の手に負えないものがあるということを我々は気づかなければならないと思っている」

「本来、こういうものは作者の名がなくなってもいいのかもしれない」

「作品として尊敬というより、生きている植物に対する尊敬というものを持ってほしい」

・・・・

若林奮の作品は、初めて見る人には非常にわかりづらい。なにかの似姿をつくっているのではなく、単に抽象的なオブジェをつくっているのでもないからだ。

若林奮は、むしろ彫刻には成り得ないものを彫刻にしようとした。

たとえば犬の似姿(外形)をつくるのではなく、犬の出している水蒸気や、犬の飛び方のほうを彫刻の題名にした。

若林奮の考察は、残された膨大なドローイングからも、たどることはできるだろう。それは思いつきや、ましてや思いこみでも、勝手な妄想でもありえず、誠実であればあるほど終わりがなく、恐ろしいほど緻密になっていく「手の思惟」が描くものだ。

しかしそのドローイングも、何が描いてあるのかを完全に理解することなど誰にもできない。

むしろ若林奮のメッセージは、かなり乱暴に言えば「安易にわかったと思うな」「やりたいことをやるのではなく、やってはいけないことを考えろ」ということだと思う。

若林奮の作品には、人が実際は何もわかってはいないのに、わかったような気になって、言葉で自己防衛しながら安易に欲望を満たしていく傲慢さへの痛烈な批判がある。

「判ると思える部分は膨大な量の判らない部分を含めて考えなければならない」(「対論・彫刻空間」より」)

若林奮が、他の芸術家がやっていることに対して「あれはよくないですよ!」とはっきり名指しで、激しい怒りをこめるように、私に言ったことが(少なくとも二人について)ある。その時、その正直さと、私にはなぜ怒っているのか説明をしなくても通じると思ってくれていることに、とても感動した。

私が実際に若林奮に会って話した時間というのは、もしかしたら若林奮からすれば、ほんのわずかな瞬間でしかなかったかもしれないが、そうした時間のうちにあっても、若林先生は、若輩の私に対して、まるで一人前の作家であるかのように扱い、敬語を使って話してくださったことに驚き、感激した。

不遜に聞こえるかもしれないが、人間だけのための、人間だけに向けての「アート」の世界が苦手で、動物、植物のほうに気持ちが向いているところで以心伝心のようなところはあったと思う。

佐谷画廊の打ち上げで食事に行って隣に座った時、箸袋に、そのとき若林先生が飼っていた二匹の猫の名前と、それぞれ何で遊ぶのが好きかを書いてくれた。

若林飛葉(比葉)―エアキャップ好
   振―――――猫ジャラシ好

私はそれを大切にとっておいた。「飛葉」(ぴよう)と「振」(ぷり)という名は、まさに今回の展覧会の題名でもある。

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その時、「前の猫は、霧と煙という名前でした。以前、僕の展覧会の題名で「霧と煙」っていうのがあったんですよ。それについて、いろんな批評家がね、「霧と煙」っていったいなんだろうってね、いろいろ書いたんです。うちの猫の名前なのにね。」と若林先生はくすっと笑って言った。

それから若林先生は「猫を大切にしてくださってありがとうございます」という手紙とともに猫の写真を送ってくださった。

若林先生は、なにをやっても「美術」や「絵」になる、という認め方はしなかったと思う。非常に厳密に、「ぼくが思う絵の範疇に入っている」という言い方をした。

「僕は、自分が撮られた写真ね、自分の顔が嫌いなんです。なぜなら、僕は、いつも非常にいかつい、しかめっ面をしているから。でもあなたと一緒に撮られた写真はね、僕は優しい顔をしている。だからあなたと一緒に映っている写真の自分の顔は好きなんです。」と言ってくださった若林奮先生。

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「僕、服のモデルをね、やったんですよ。その写真を福山さんにぜひ、お見せしなきゃ。」と少し恥ずかしそうにおどけるように言っていた若林先生の顔と声が何度も蘇ってきて涙が出てきた。

・・・

若林奮「地表面の耐久性について」という野外彫刻とともに。画面左側の短い辺のほうが正面。そちらから見るのが正しいが、植込みがあるので正面側からは撮れなかった。

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美術館の裏手に、海へと続く細い素晴らしい路地があった。しみのある壁のうしろから、もう焦げはじめた夏の木々がせり出していて、細長い空間に光がそそいでいた。

この撮影をした次の日に、まさにこの路地から自動車道路に出た場所で死亡ひき逃げ事故があったニュースに驚いた。美術館前の車道は曲がっていて視界が開けていないので、一色海岸あたりに行く人は飛び出してくる車に細心の注意をしてほしい。

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海へ向かう途中に再び美術館の敷地に裏から入れる入口があり、砂の上に遺棄されている転覆した船のようなオブジェが素敵だったので、そこで休んだ。

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あまりにも濃い内容の展示と素晴らしいトークに、五感は激しく刺激され、快感と感動があると同時に、午前中から家を出て、5時の閉館までずっと見ていたせいか、とても疲労した。

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脹脛が幾度も攣りそうになった。廃船のオブジェのうしろにヒメムカシヨモギが咲いていた。
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美術館の生け垣のあいだから、か細いタカサゴユリが首を伸ばして、真っ白な花を咲かせていた。この百合は生け垣の下にいては光が届かないので、健気にも高く背を伸ばして咲いたのだ。

塀と木々に挟まれた狭い路地から眩しすぎる海が見えたが、強烈な光が怖い。私は日陰のひょろひょろっとした植物が好きだ。
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日光が苦手なので茶店の影に隠れるようにして、一瞬だけ浜に出た。貝殻を拾いたかったのだが、なかったのですぐ戻った。きょうは遊泳禁止だそうだが人は多かった。

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バスで逗子駅まで戻った。路地に堂々とした看板三毛猫を発見。

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市場が終わって休憩しているお父さん。古いお米屋さんとお食事処の猫。「あっ、ねこだよ!」と赤い服の女の子が叫びながら通って行った。
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鎌倉で途中下車し、駅ビルの気どらない店で夕方6時に、この日最初の食事。

そのあと暗くなった御成町あたりを少しだけ歩いた。私の好きな古い図書館の建物の屋根の上にちっちゃな朧月が乗っかっていた。

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2010年7月11日 (日)

毛利武彦 / 若林奮

7月10日

毛利武彦展を見に(2回目)練馬区立美術館に行く。雨のほうが気持ちが落ち着くのだが暑い日。

昔の素描(柳)の紙の端の文字。「於 不忍池 1,5 根津時代 六日 凍ラズ 浮藤島 池心と遊び暉燦々たり」…おそらく戦前(18歳から22歳)の素描。

《広場の鳩》……やはり鳩よりも鳩の羽根が動かす空気のほうを描いている。

《残雪》…… 黒緑青の粗い岩絵の具の使いかた、箔のちぎりかたが詩的に感じる。

《冬日》…… 井の頭公園の池に見える。桜の幹と枝は凍てついて厳しいフォルムを見せているのに、霞がかかっている。すべてが灰色がかった寒色の景色。冬の日なのにボートの数がやけに多い。この世のものではない風景。

《サウロの回心》……落下。それを驚きもせず静かに見つめる左の黒い馬。赤い地。馬の股のすきまを削っていく赤銅の山の稜線。落ちる人の背を横切る(支える)水平の黒い水。落ちる人の足は光っている。脇の空へすべって遠ざかる水金の鳩。

5時くらいに毛利先生のお嬢様みはるさんがいらっしゃって、声をかけてくださった。お会いできて嬉しかった。

毛利先生が亡くなったことを、正直、まだしっかり受け止められない。考えてしまうと相当心身がおかしくなりそうなのだが、先生のご家族に会うと、先生が生きておられるような、ありがたい気持ちになる。

興奮したせいか、前回忘れてきた傘をまた、持って帰るのを忘れてしまった。傘立ての鍵をずっと持っている(すみません)。

7月9日

若林奮についての文章を毎日苦しみながら書いている。うらわ美術館の展示のあとの、報告カタログに載っている若林さんの発言を幾度も噛みしめるように読んでいる。それから「現代の眼」や川村記念美術館のカタログなどなど……。

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2010年7月 6日 (火)

若林奮 / 宮西計三展

7月5日

宮西計三展の最終日(『夜想』のギャラリー、「パラボリカ・ビス」)に行って来る。

久しぶりに宮西計三と会ったが、一時期より元気そうで、歯も補修されていてよかった。

昔、私があげたホルベインの透明水彩をまだ使ってくれていた。あいかわらずの鉛筆と丸ペンとインクと、たまに透明水彩のみの画材。生活もいろいろたいへんだが、ライヴ(「Onna」というバンド)をするのが息抜きと言う。

旧いつきあいであり、「頭上に花をいただく物語」から「エステル」の頃、懇意にしていた。私は彼の絵を描く動作の一部始終を見ていたので、その気の遠くなるような作業の時間を貫いてぶれない最初の、制作の前のイメージの強度と、その欲求のパッシオンに打たれ、本物(死語)の絵描き魂を見ていたものだった。

「バルザムとエーテル」(まんが)の後半のほうで、線の筆勢がなくなって、線の流れに必然性が無くなってきて、ぐねぐね、ちまちまして来た(と私には見える)時、どうなることかと心配したが、また流線の勢いを持ちなおして来たようだ。

私が持っている原画。(写真の精度が悪いですが、クリックしてみてください。全部「点描」で描いてあります。)

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点描で時間をかけたから価値があるわけではなく、そのパッシオンの源の「眼」がすごい(と感じる)から惹かれるのであり、宮西計三の絵には、思いつきのアバンギャルドや、「ちょっとした真実味や、たいして意味のない発見」ではなかった。堅牢にしてほとばしるものがあった。描かなくては生きていけない本当に少数の人間だったのだ。

線が非常にのびやかだった頃の宮西計三作品。(クリックしてみてください。)

「よろこびふるえる」(「少年時代」けいせい出版)より。

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私が望むのは宮西計三の「線」が死なないこと。

「おとぎの空」(1985)(「頭上に花をいただく物語」フロッグ社)より。 白と黒のバランスも美しい。(写真の精度悪いですがどうぞクリックしてみてください。)

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ちなみに、私たちがつくっている同人誌「あんちりおん」の1号も宮西計三の表紙で、中には「宮西計三の言葉抄」が載っています。(一部1000円。残部僅少。もし興味のあるかたはTwitterで連絡ください。)

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夜、また若林奮の資料を読んでいた。若林奮は難解だと言われていて、誰もが「わからない」のに評価されている。私は本人を知っているので、人物の魅力に惹かれすぎていて、そこをさっぱりと差し引いて作品の魅力だけを言葉にするのは、なかなかに困難である。

作品自体は、そのタイトルから具象物(たとえばデイジーという花)を連想するのは、普通に考えて無理だと思う。けれど、自分の身体の「個人的体験」から、若林さんの身体の「個人的体験」を想像することはできるような気がする。そこから「彫刻」に到る道筋を想像することは可能な気がする。しかし、それはまったく一般的には共有されないことだと思う。

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2010年7月 4日 (日)

若林奮 Dog Field

7月3日

多摩美術大学美術館、若林奮 Dog Field展に行く。

http://www.tamabi.ac.jp/museum/exhibition/default.htm

鍵岡正謹さん(岡山県立美術館長)のお話「思索する犬と彫刻家」を聞く。

いくつかの若林作品について、「さっぱりわからない」という感想も含めて、誠実なお話だったと思う。鍵岡さんのお名前だけは知っていたが直接講演を聞くのは初めてだったが、感じのよい方だと感じた。

若林奮さんのドローイングには、いつも刺激を受ける。

「わかる」とは簡単に言えない難解さを持ちながら、なお共感するものがあって、見飽きることがない。

なぜ惹かれるのか、そのことをなんとか言葉にしたくて、若林さんの過去に書いたものや、対談の発言を毎日読んでいる。

若林さんの言葉について、一回や二回読んだだけでは、それがどういうことなのか、どういう状況で、どんな身体の状態で、どんなふうに感じた体験なのか、想像するのは容易くない。

誰かの「言葉」を読む。人それぞれに読み方は違う。その「言葉」が生まれた「体験」「身体」を想像するには、想像する側の「身体」が、それぞれのやりかたで感覚「体験」を積むことで変わって来る。「感覚」と「感情」も切り離すことはできない。

「触覚的」になにかを捉えるために「視覚的」な感覚をきっかけにする。もちろん、音や香りや温度や光や風や湿度やいろいろな要素が同時に関わり、そのときの身体の状態すべてが刻々と変化しているのだから、感じたことを「言葉」にするのは困難である。

その困難さに立ち向かうとき、そこで言葉が崩壊するのは必然だとしても、それでもいかにいんちきくさいことをしないか、をいつも考えている(と感じられる)人が好きである。(たとえば、セリーヌの「嘘」は、「いんちき」ではない。)

私が猛烈にストレスを感じるのは、何も感じていない(と、私には感じられる)のに、上手な「言葉」だけがすらすら口をついて出てくるような、不誠実な、饒舌な「言葉」なのである。「言葉」だけが「主体」を伴わずにしゃべり続ける。「言葉」が「身体」を偽装するとき、たくさんの動物たちが惨殺される。

若林さんが一貫してしゃべっていたことを確かめたくて、うらわ美術館のときの資料や昔の図録などを引っ張り出して見ていたら明け方になっていた。

興奮した勢いでワールドカップサッカーの試合を見た。アルゼンチンかわいそう…スペインは応援していたので勝って嬉しかった。

7月2日

今頃、雨の中に、白い小さな柑橘の花が咲いている。夏蜜柑も文旦も朱欒も5月に強く匂って、一週間くらいで散っていたので、不思議だなあと思ったら、金柑の花である。

柑橘の花は、その果実と異なって、まったく酸味のない、きれいな香りである。はごろもジャスミンよりも上品な感じ。どこかの王女が愛したというネロリ(たしかビターオレンジの花の香水)もこんな匂いなのだろうか。

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2010年5月 4日 (火)

若林奮 ゆりの樹 Liriodendron tulipifera

5月4日

若林奮が好きだった(と思う)樹、ゆりの樹の花咲く季節がやってきた。

2002年豊田市美術館での若林奮展に行ったとき、「所有・雰囲気・振動――ゆりの樹による集中的な作業」(1984)というのを見た。これはゆりの樹の葉を一枚一枚そのままなぞって、銅板をその葉のかたちに切り抜いたものを、大きい葉から順にきれいに重ねて束ねて、四角い木の彫刻の穴に収めてある。

それから「「大気中の緑色に属するもの」Ⅱ(1986)という作品の大きな銅板のかたすみにLiriodendron tulipiferaと刻んであったとき、胸が苦しいほど震えた。

ユリノキの学名はリリオデンドロン チューリッピフィラである。「チューップみたいな花を持つユリの樹」と、学名にふたつ花の名がはいっている。(dendoronはギリシャ語で樹の意味)

チューリップみたいな形の花に3枚の萼片があり、花弁は6枚で、黄緑色にオレンジ色のすじまだらが入っている。

葉は半纏のようなかたちなのでハンテンボクとも呼ばれる。葉の裂が偶数なのである。なんとも不思議な植物。

――若林奮へのオマージュ―― (2004年図書新聞に福山知佐子が書いた文章から抜粋)

  共約不可能、 個人の領域、 「概念」によらないこと、 「真実の根拠」

  「考察」よりも「事実」を重視、 

  「自分の現在と最初期の接近を考え、その間にある歴史を不要としたい」 

  人間中心主義から最も遠い場所

                                                     二〇〇二年二月三日、神宮前ナディッフで行われた前田英樹氏との対談におけるI・Wの姿を、私は忘れることができない。

その対談が始まる前、長方形の机の一端の席に座り肘をついたI・Wは、テーブルの脚のひずみを激しく感受し、ポケットから鍵の束を取り出した。ほとんど見分けがつかなく思えるような六、七枚の鍵の微妙な薄さの違いを一枚ずつ順番に実に精妙な仕草で机の脚と床のわずかな隙間に差し入れ、そのわずかな隙き間に最も適応してすっと机を黙らせる一枚を探っていた。

そのときのI・Wの顔は険しいとも厳しいとも神経質なのとも少し違う、人が限りなく細やかな神経と経験によって、その手技でしか成し得ない奇跡的な手仕事の運動の一瞬のただ中にいる時の、緊張と充溢と、少し困ったように見える顔だった。

最前列にいた私は、その手つきと最終的に選ばれた鍵の、その差し入れ方の微妙さに目が釘づけになった。その鍵は先端の一方の角を斜めに、鍵全体の五分の二ほどの深さだけ差し入れてあった。

もしその一枚の鍵がなかったら、I・Wはその席の不安定さに耐えてそこに留まることは到底できなかっただろう。――I・Wほどもののわずかな傾斜、それを支える地面のバランス、空間の充満、歪み、ずれ、そういったものとの振動を身体そのものの生きる場として「実感」的に感受していた人間はいないだろうから。

まず「個人、自分自身という個人を元にしている、ということから始めなければいけない。」(「対論・彫刻空間――物質と思考」若林奮×前田英樹)とI・Wは語っている。

他の多くの人と共通しているとは思えないような、自分自身の鮮烈な記憶、あるものへのこだわり、興味、くり返し想像してしまうこと、強く自分を捉えて離さない何か、その「ほとんど個人の領域」と思える経験を「貯えて行く過程で何かに気づく」そうやって「自分の内側と外側の関係を結びつけていく」それが彫刻の方向に向かうのはそのあとのことだという。

ごくごく「個人的な」経験から、物質、空間、距離、温度、物量、傾斜などについての意識が生まれ、思考は深まり、迷い、揺れ動き、それらのことに深く感応するようになる。その共約不可能な「個人的な」ことから始めない限り、その重荷を負わない限り、物質や空間について身をもって知ることにはならないだろうし、そうしなければ「この世界の実在の根底(前田英樹)を開くことはできないだろう。――それがI・Wの「直感的な経験」の教えてくれる信念であり、唯一の方法であった。

I・Wのようにかくも思考と同時に生成する触覚的な経験、視覚的経験の「実感」を大事にした人はいなかった。そして見えていない範囲のことを見たことにしない、触覚的に把握できる範囲を限定すること、その限定される範囲をこそ探すことにかくも徹底的にこだわった人はいなかったと思う。I・Wほど「全体の中にある一部分を考える」ことによって「概念」ではない「自然」、その「全体」にちかづこうとした人はいなかった。自分がわかる範囲を限定するということ、それは彫刻家にとっての「真実の根拠」の問題である――とI・Wは述べている。

「概念」によらないこと、このことを現在(いま)どれくらいの人が実行でこるだろうか、それはほとんど知覚の不可能性の領域を横切っていくようなことだろう。私たちは自らの眼で見たこともないことを知っているような気になってしまう。言葉に置き換え、言葉という解読格子を使って対象物を理解したり解釈したりすることに慣れている私達は、自らの身体をその中に――たとえば洞窟の暗闇の中に置いてみることなく、自らは安全なところにいて何かをすぐわかったことにしてしまう。

――中略――

人間が最初に絵を描いた時のこと、その時の状況(―中略―)絵や彫刻の成り立ちの時と現在(いま)と継続しているものについて考える。それをさらに過激化し、徹底的に考えるためにI・Wはあえて「自分の現在と最初期の接近を考え、その間にある歴史を不要にしたい」と書いている。

この言葉の重さを深く受けととめねばならない。

若林奮が一貫してやってきたことは「人間も自然の一部である」ということ、「生命は人間だけに代表されるものではない」ということ―――

それをある意味で人間中心主義からは最も遠い場所で、人間の世界の外に投げ出されてある物象と身体の倫理と気象に則して厳密に思考し、それにあるかたちを与えようとしたことだ。いま若林作品を眼の前にする時――それは生成する振動尺の(それが深い生命原理に支えられてあるような)ほとんど奇跡の手技のように思えるのである。

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