2月16日(月)
13日に恩師・毛利武彦先生の娘さんからメールをいただき、その前の日に毛利先生の奥様、やすみさんが亡くなられたと知った。
葬儀は家族のみで行うとのことで、本日、自由に対面ができるという安置室に伺った。
大変な時に、私などにまですぐにご連絡をいただき、恐縮だ。
ご家族が常にいるわけではないと書かれていたのでお会いできないと思っていたが、安置室に伺うと息子さんと娘さんがいらした。
やすみさんは棺ではなくて台の上に眠ってらっしゃる感じで、顔もつやつやされていた。
絵の関係のかたが何人も代わる代わる来られていた。
泣いてしまったが、やすみさんがお宅で猫と一緒にいる写真が飾られていて慰められた。
毛利家に動物がいる写真を見るのは初めてだ。
(庭の木に鳩の巣があったのに、いつのまにか無くなってしまって悲しい、というお葉書を毛利先生からいただいたことはあった。)
猫は毛利先生が亡くなったあとで拾ったという。息子さんも娘さんも猫好きなようでほっとした。

やすみさんは、亡くなるまでずっと息子さんがお世話されて、ご自宅で過ごされたという。
息子さんとちゃんと話すのはほとんど初めてで、
「毛利武彦先生は私にとって絵の師と呼べる唯一の先生です」と泣きながら言ったら、ちょっと驚いたような反応をされた。
「大学でも皆に敬愛されて畏れられていました。俗なものが嫌いで、言葉は少なくて、つまらないもにははっきり「見るべきところがない」と言われて、厳しい先生だったと思います。
私の個展の時に、お二人で来てくださってたんですけど、先生が入って来られると私は緊張で全身が震えてしまって・・・」
と言うと「僕は父から一度も叱られたことがないんですよ」と。
「え?」
「ほめられたこともない。父は絵のことに夢中で・・・」
家では学校でのことを話したことがない、と伺った。
息子さんの進む道にも「そんなに好きならやれば・・」という感じだったという。
もし絵に進んだのだったら厳しい言葉もかけられたのだろうか。
「厳しい先生だったんだって」と息子さんが妹さんに言われて、妹さんも「そうなんだ~」と・・・
実際に私がその絵も、ものの見方も、人格も尊敬していた直接の恩師は毛利武彦先生ひとりだけ。
(若林奮先生、大野一雄先生、種村季弘先生、中川幸夫先生、沢渡朔さん、谷川俊太郎さん、皆、私に光を与えてくださったが、画家ではない。毛利武彦先生は私の美大の恩師であり、特別な存在。)
毛利先生は厳しくても、こちらの成長を願わないような厳しさはひとつもなかったから。
毛利先生の言葉には詩的直観が溢れていて、その深みに共振するからこそ私は毛利武彦先生を心から信頼することができた。
2002年頃だったと思うのだが、銀座の画廊で個展をしたときに、毛利先生がご夫妻で来てくださって、その時も私は緊張でからだがガチガチになったが
画廊の壁面の絵を見渡した毛利先生が「世界が煽動している」と言ってくださった。そして
「だいじょうぶだ。絶対に美術館にはいるよ」と、ふと言われた。
私は驚いて言葉につまったが、
それから20年後にその絵が公立美術館に入った。毛利先生に心の中で報告した。
やすみさんはいつも電車の中で私の冷たい手を両手で温めてくれた。
いつも明るくて、誰にも気配りして優しくおおらかなかただったと思う。
いつだったかやはり電車の中でやすみさんに「毛利がね、おまえは皆から羨ましがられる立場なんだから、態度に気をつけなさいって言うのよ」と言われたことがある。
すごい!さすが毛利先生、と思った。そしてやすみさんの無邪気な正直さにも感心したものだ。
お宅に伺った時に、やすみさんが150号にサザエを2つ描いた小下図を作ったことがあった、と毛利先生が言われて
「やめてくれって・・・」と笑っていたのを思い出す。
やすみさんは「うふふふ・・・大きく描くのが好きなの」と楽しそうに笑っていた。
つい最近のことのように思い出す・・・私は毛利先生ご夫妻に素晴らしい時間をいただいていたと思う。
やすみさんとの最後のお別れを、このように小さな部屋で息子さんと娘さんとお話しできて過ごすのははありがたかった。
正直、もし葬儀をお知らせいただいて会食があったら、私には気づまりだったから。
その理由は、やはり20年少し前に銀座での私の個展に来て「こんなのは絵じゃない!絵の世界から出ていけ!」と真っ赤になって私を怒鳴りつけた人の顔を見たくないからだ。
その人は毛利先生ご夫妻の前では優秀な人だろうが、私のような者には脅しをかけるような人間。
しかも私の大学の先輩でもなく私が指導を仰ぐ立場でもなく、名前と絵は知っていたが話したこともなかった人で、私がどんな絵を描こうが、その人から恫喝される立場にない。
背に権力を持つ人間が持たない人間を潰そうとする、本当に卑劣だと思う。
私の個展でその人が帰ったあと、すぐに毛利先生のご親友だった詩人の阿部弘一先生が来られて、私がたった今怒鳴られた話をお伝えしたら
「一家をなしましたね」とほほ笑んで祝福してくれた。
私はその時に怒鳴られた一言一句を覚えている。
彼は私に「日本画の」絵の具の使い方が滅茶苦茶だ、と言った。だから「こんなものは絵じゃない」と。
「では、日本画の絵の具とはどういうものだと思われるんですか?」と私が尋ねた時、
彼は毛利先生が書かれていた絵の具についての覚書を、非常に雑に曲解して私にぶつけてきた。
彼はものを深く考えることができない。読解力もなければ論理的に話す能力もない。
あいにく、彼が滅茶苦茶だと言った私の絵の具の使い方は毛利先生にほめられたし、
毛利先生は私の絵に「フランスに見に行った人類最初の頃の洞窟壁画を思い出す」とも言ってくださった。
恫喝された時から3、4年経って、毛利先生が春季創画展でトークされる時に伺ったら、少し遠くから私を凄い目で睨みつけている人がいて、
私はその人の顔も覚えていなかったので、誰だっけ?なんで睨んでいるのだろう?と不思議で、少し経ってから、ああ、あの時の人だと気づいた。
そのくらい私はその人に興味がない。
彼は毛利先生のような詩的直観もないし、私は彼の絵を尊敬もしていない。
彼は私のような人間が毛利先生にかわいがられるのが許せなかったのだと思う。
なにを言われようとも、私にはほかの誰とも共有していない毛利先生との思い出、やすみさんとの思い出がある。