芸術

2016年9月 4日 (日)

対論:未知のアントナン・アルトー 

9月2日

室伏鴻アーカイヴカフェ、SHYでのイヴェント「対論:未知のアントナン・アルトー」に(編集のOさんと)行ってきた。出演は宇野邦一さん、 鈴木創士さん、荒井潔さん、岡本健さん。

早稲田にある、かわいい小さな喫茶店は超満員。定員15名くらいと聞いていたのに、40人くらい(?)集まった。今日はひどく暑く、会場は熱気むんむん。

河出書房新社から『アルトー後期集成 2』が出たので、それに関わるお話。

写真は左から荒井潔さん、岡本健さん、鈴木創士さん、宇野邦一さん。

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私の心がすごく顫動した話は、

「ピエロ・デラ・フランチェスカの塵と光」

フランチェスカには光る不思議な粒子があると思う。色の中の色。色の外の色。

「アルトーは崩壊そのものを詩的体験としてつぶさに描き続けた」ということ。

「狂気と言われる状態で、同時にアルトー、ニーチェ、ゴッホははっきりとヴィジョンが見えていた」ということ。

「アルトーは常に書いていた。地下鉄でもデッサン、線を引いていた。ベケットも常に書いていた。散歩、息、食べ方、沈黙、すべてが文章になる稀有な詩人」ということ。

そして「アルトーは自分の経験の固有性が盗まれることを極端に嫌った。決して言語以前の世界を目指しているわけではない」ということ。

私は、共有不可能な固有の体験がどのようなものであるか想像しようともせずに、私の言葉のうわずみだけを有頂天で盗用したり、私の身体にかかる重圧を面白がって収奪した人間を殺してやりたいほど憎んでいる。

私は自分たちはなにひとつ身体に損傷を負わずに、当事者を置き去りにして「知のおしゃべり」を楽しむ人たちが大嫌いだ。なんでもすぐに「わかります、わかります」と言ってくる人が嫌いだ。

不安で心細く張りつめた真に自由の旅ではなく、「漫遊」をしてものを書く人が嫌いだ。

立ち止まって眼を凝らして見ることさえせずに、些末なことについて、さも何か感じたように大袈裟なそぶりをして見せる人が嫌いだ。神経が死んでいるのだと思う。

そういう体験がよみがえってきて、胸が焼けつくような感じがした。

・・・・

4人のかたがたのお話は、たいへん内容が濃く、私は聞き書きしていたが、A4の紙、3枚の表と裏にびっしり書いても足りなくて、そのあとは小さな余白に書き連ねた。

その聞き書きの中から、ほんの一部を自分のためのメモとして、ここに抜き書きしておきたい。

宇野邦一さん・・・

アルトーの生誕120年になり、アルトーの読み方はどんどんかわってきている。

アルトーは実験演劇の提唱者として世界中で読まれた時期があった。寺山修司は影響を受け、成功。

精神病院でデッサンとともに書き続けた400冊のノートに触発されて、デリダ、ドゥルーズ、ガタリなど新しい哲学が生まれた。

荒井潔さん・・・

第3巻(『アルトー後期集成 3』)、『カイエ』について。

フランスでも大きな動き。『カイエ全集』が2012年、2015年にまとめて出る。

第2巻(『アルトー後期集成 2』)、『手先と責苦』。最後の作品集。死後30年。反社会、反宗教。

乱暴な言葉も細心の注意を払って書かれている。何度も推敲。口述筆記。断片。

『冥府の臍』、『神経の秤』、あえて雑然。

3部構成と序文。1947。序文の語りが奇妙。非人称。予言者。

第1部「断片化」。8つの独立したテクスト。

息もたえだえに行われる文化。身体を持つ前に根絶やしにされたひとつの文化。

トーテム。手に負えない獣性の深い穴。私の殺されたトーテムたちを寄せ集める。

損傷された身体をなんとか再集結しようとしているみじめな胃袋。

人間以前のけもの。まだ生まれていないが、大地が与えてくれるであろうもの。

現存の文化の外に立つ。

文盲。神秘。人間の生まれていないトーテム。

ポポカテペトル。文化の再検討。人間と身体の根本から見直し。

一者と自我・・・己を見ない。

二者・・・常に見る。

鏡像という分身を拒絶。砕け散った、内側から生きられない身体。それを見る眼。死の模造。

ヨーロッパのシミュラークルを離れ、自分の生きた身体をもって横断する。

「家畜小屋の母たち」。ロートレアモンについての手紙。ふくれあがった魂の袋。血を流す肉色の袋。

6つ追記。女性たちが死体として。アフォリズムではない、ヴィジョン。私は見た。動詞。

フラグマンタシオン。「断片化」されたもの。間隙。

不可視の統一体。身体の作業。

第2部「書簡」。手紙の受け取り手は生き証人。相手に態度決定を迫る。

1.閉ざされた世界、夢、葛藤。

2.外界の人に訴える。

3.社会への反撃。言礫(ことつぶて)。アンテルジェクシオン。

第3部「言礫」。いわゆる正常な、しかし空疎な意味を削ぎ落とし、凝縮した言葉をちぎっては投げかける。

三幕の復讐ドラマ。出版計画がとん挫したことで一冊になった。書物が必然的にまとう身体構造が明らかになった・・・「残酷」。晩年、3という数字を激しく嫌悪。

『手先と責苦』。ノートの裏。構成主義的側面。論理を構築する。

ポール・テヴナン・・・意味で読めるものとしての『カイエ』。

ローラン・ド・ブルイエ(?)・・・読み方を3つくらいに分けた。1、理論でまとめる。2、反復になるが、これは正しいとつき従う。3、理性的な読み、つまづいて止まる。ブルイエとしては3。

アルトーは意味を突き抜けてしまうくらい意味がある人。極端に意味の人。身体の叫びなんだから意味なんて考えなくていい、というのは怠惰。

鈴木創士さん・・・

ポール・テヴナン、「わが心の娘たち」。女優。その娘、幼児、ドミニーヌ。晩年のアルトー、52歳、手をつないで幼稚園。

ジャック・リヴィエール。ガリマール社に詩を拒絶されたことを批判した書簡集。

思考ができない。ものを考えることの中心、思考の崩壊。生理的次元。

思考の中心には崩壊がある。過激。

『へリオガバルス』・・・構成、古典的。

『ヴァン・ゴッホ』・・・古典的とは言えないが理解できる。詩的だが、構文的にはおかしくない。

『タマウマラ』・・・メキシコ。人類学的な旅とは違う。ペヨーテ、ペヨトルの儀式に関わる。麻薬。コールリジ、ドラッグをしながらものを書くことにおいてアルトーに匹敵するのはバロウズ。

「この私の肉体という最悪。」「私の中へ脱臼。」

アルトー・・・自分自身の「中の外」へ出て行くため、分裂を繰り返す。「断片化」。

文化人類学者・・・自分自身の中に入る。

アンリ・ミショー。ヒッピー、中に入って拡大。

演劇的。演劇とはなにか。構成と分裂。極端にあらわれる。

ギリシャ悲劇の戯曲。

最後の『手先と責苦』。

寺山修司。この演劇を支配しているのは誰か。演劇によって演劇を(黒子が)ぶっつぶす。当時は、外で闘争やってるのに舞台でなにやってるんだろう、と腹がたったけれど、今にして思えば天才的。

日本の舞踏家たちへの影響。自分の中に出て行く。原理とのたたかい。

土方巽。「肉体の中にはしごをかけて降りて行く。」

全ての帝国は滅ぶ。アナーキー。古代原理の闘争。太陽神、アマテラス、アポロ。

『へリオガバルス』。アナーキーとは統一の感覚を持つことだ。塵の感覚でもある。

歴史はカオス。事物の分裂。事物の多様性。統一の感覚。

ルネサンス芸術。ルーカス・ファン・ライデン「ロトと娘たち」が演劇のイメージ。アルトーは近親相姦のこだわりも強い。火山の爆発。船が沈んでいる。

アンジェリコ、フランチェスカ、マンテーニャをルネサンスから分ける。

演劇・・・音声、身振り、ルネサンス的。

自身の身体がバラバラになって、また寄せ集める。

ルネサンス・・・ボッティチェリが思い浮かぶが、ボッティチェリはメディチ家を批判した坊さんを支持。晩年はバロック。渡辺一夫や大江健三郎のように人文主義と考えるのはよくない。

映画『神々の黄昏』。地球から500年遅れている。ルネサンスもそんなだったかも。ペスト。ダンテはフィレンツェに帰ると火あぶり。そうした状況で『神曲』は書かれた。

フランチェスカ・・・光。塵。知覚。バルテュス(アルトーが絶賛)への影響。

ものすごく繊細。

フランス人におけるアンティゴネー。ソフォクレス、エウリピデス。死ぬまでギリシャ悲劇を読んでいた。分裂と構成。

アルトーのひげを剃る人に『ヴァン・ゴッホ』を献呈。イヴリーの庭、庭師とよく話す。一般の人にはすごくやさしい。ユーモアの人。

カフカと少し似ている。日記ということ。

アルトーは常に書いていた。地下鉄でもデッサン、線を引いていた。ベケットも常に書いていた。散歩、息、食べ方、沈黙、すべてが文章になる稀有な詩人。

フーコー『狂気の歴史』。狂気とは営みの不在である。アルトー、ニーチェ、ゴッホはそれが同時に起こっている。

岡本健さん・・・

理性のありかたが疑問視される。20世紀は一世紀だけで、有史から19世紀までの戦死者の数をはるかに超える。優生――理性。

狂気、非理性の側から、理性が問い直される。

フーコー。狂気とは患者との関係性。反精神医学。

個人的体験。糞尿。恨み。この世の便器。

1歳8か月前の人間は五感のすべてを使い経験。その後、言葉以前の世界と融和させる。直接的経験。

言葉とは他者のもの。ズキズキ・・・判断を共有しているにすぎない。

自分の経験の固有性が盗まれる。固有性を維持するためにグロスバリ(?)言葉をつくる。

言語以前の世界を目指しているわけではない。自分の体験の独自性を盗まれないことを目指す。

展覧会の壁に視覚、聴覚、香り、ゴッホの絵。

「アルトー・モモ(子ども、ガキ)」。鼻たれ言葉のアルトー。言語をもって、言語を超えた世界をつくる。

言語の他者性。他者のなかで受肉して脅かす。

発語しているのは誰か。「キ・スイ・ジュ? 」(アンドレ・ブルトン『ナジャ』の書き出し)私とは誰か、私は誰を追っているのか。

私を名づけてくれる人。他者を排除するのではなく、名指す、名指される関係を再構築する。俺は俺の父、母。

宇野邦一さん・・・

出発点は初期の書簡。思考の不可能性。崩壊。身体の麻痺。若い頃の仕事、生き延びるため。

哲学の体験。既成のいかなる哲学とも似ていない。

崩壊と同時に構成。したたかに続ける。

ドゥルーズ『差異と反復』・・・思考のイメージ(ほとんど「表象」と同じ意味でつかわれている)が崩壊。「表象」がない思考が体験される。

アルトー・・・崩壊そのものを詩的体験としてつぶさに描き続けた。

マラルメ・・・自殺の危機。崩壊。新しい言語空間。アルトーとは似ていない。

アルトーは不可能性そのものから詩を生み出す。イメージをしっかりつかんでいる。崩壊を絵画のように描き出すことができた。

ドゥルーズの言うイメージとは違う意味。映画論の新たな独自のイメージとはひっかかる。

アルトーはあらゆる危機を生き延びた。新しい思考のかたちを提出できた。

「私の職業はカリカチュリスト(風刺画家)である。」

人間の顔はうつろな力、死の畑。身体とは一致したところがなく、顔を描くことをアカデミックであると批判を与えるのは馬鹿げている。

かたちをすりつぶしているにすぎない。顔は身体に対応していない。

人間の顔はフェズ(?聞き取り不明)を見つけておらず、それを発見するのは画家。永遠の死。

あるがままの顔面は、顔をさがしている。顔にその固有の線を返してやることで、画家が顔を救う。

アルトーにとって、デッサン、顔、死とはなにか。

アルトーの人類学。バリ島に行ってフィールドワークなどしていない。パリに来たバリの舞踏団。ヨーロッパ世界の外の生き方。読解。精神の中の運河。非人称化。

タマウマラ。山の岩石の上で責め苛まれる身体。記号の山。山なのか、私なのか。岩石そのものが苦しめられる身体。偽造された身体とともに生まれた。

被害妄想を突き進んでいく。そのまま受け取らないと。そのまま理解する。

テヴナン、統合失調に光をあてた一大叙事詩『アンチ・オイディプス』に激怒。ドゥルーズは臨床例ない。あまり自分のテリトリーから出ない。ガタリは臨床ともつきあっている。

『へリオガバルス』。太陽神信仰。論文のような小説。D.H.ロレンス、へリオガバルスに興味。精神分析を否定。両性。せめいぎあいは永遠に続く。

古代エトルリアはかなり不思議な文明、ローマは批判。

「スノードロップのような(清らかなみずみずしい)へリオガバルス」を批判したらだめだ。破廉恥、女装、乱交。

アニミズムとはなにか。動物と人間の境がない。すべてが主体。

レヴィ・ストロースの構造主義は、もうすっかり終わらざるを得ない時代。

客席から、「もっとわれわれにとって有意義な(「有益な」だったかもしれない)議論の枠組みを」みたいなサジェスチョンも入る。だが、アントナン・アルトーの失望と怒りの声を(彼の評伝から)ここに控えめに書き写して、今回のイヴェントの、私なりのささやかなまとめとしておきたい。

「彼らはいつでもなにかについて知りたがる。『演劇とペスト』についての客観的な会議なら許せるというわけだ。けれどわたしは彼らに経験そのものを、ペストそのものを与えてやりたい。彼らが恐怖を感じ、覚醒するように。」(アナイス・ニンの日記に残されたアルトーの言葉)

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・・・・

この室伏鴻アーカイヴカフェ、SHYには、室伏鴻さんが持っていたたくさんの本や、CDなどもあります。

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本は数千冊ありそう。ここにはいらなかったのもあるそうです。

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ほとんど考えられないくらい充実した現代思想に関する蔵書。多くの本の背には、室伏さんの自筆で書名と著者名が書かれています。
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室伏鴻さん所有のCD。やはりすごく多い。

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イヴェント後、室伏鴻アーカイヴカフェ SHYの窓を外から撮った写真。

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サインに応える鈴木創士さん。
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カフェに来た自分の記念写真を撮ってもらうのを忘れていたので、高田馬場へと向かう裏道できょうの記念に撮影。

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高田馬場の細い裏道が好きだ。「多摩旅館」と書いてある古い旅館があった。

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私の好きな階段。いつ来ても、また、この階段の上にはなにがあるのだろう、階段を上ったらいったい何が待っている(見える)のだろう、と思う場所。

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私は黒くくすんだ細い階段が大好きだ。セメントの狭い亀裂からのびているヒメジョオン。メヒシバ。オヒシバ。フェンスに絡まるヒルガオ。虫の声。

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2016年2月19日 (金)

府中美術館「若林奮 飛葉と振動」展 / Dissémination(ディセミナシオン)とPusteblume

2月9日

鵜飼哲さんと府中市美術館の「若林奮 飛葉と振動」展を見に行く。

2時に入り口で待ち合わせたが、1:30くらいに着いて、庭の「地下のデイジー」を見ていた。ひとりで、しゃがみこんで説明のプレートを読んでいたら、子供たちの団体が来た。

「地下のデイジー」などの若林奮作品を見、学芸員さんの説明を聞いて、小中学生がなにを感じるのか、聞いてみたい気がした。

地下のデイジー(DAISY UNDERGROUND)若林奮。厚さ2.5cmの鉄板が123枚重なってできており、高さは3メートルを超えるそうだ。ただし、地表に出ているのは3枚分だけ、残りは全て地下に埋められている。

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地下にあるものを想像し、そのまわりのものを想像し、作者の思いを想像しなければ、何かを感じることは難しい作品。私は若林先生がどんな人だったか知っているから、非常に感じるものがあるが、作者を知らないで初めてこの作品を見た人はどう感じるのだろう。

ひととおり2階の若林奮展の展示を見てから、2時に鵜飼さんとロビーで会って、もういちど一緒に見た。

若林先生が「サンドリヨン・ブルー(シンデレラの青)」と呼んだ灰青色と、そのブルーと最も響きあうイエロー(花粉色の、硫黄色の、太陽の黄色)の、あまりにも強烈な繊細さが心に残る「振動尺(手許)」のドローイングたち。

これらのドローイングたちを見ると、いつもブルーデイジーという花を想い起こす。それと少女らしく柔らかい薄紅の雛菊。デイジーはDay's eye(太陽の目)。

4時頃、見終わってから、バスで武蔵小金井に行った。きょうは鵜飼さんは車ではなかったので、私の好きな庶民的な店、すし三崎丸でお酒を飲んだ。

私の誕生日が近いと言ったら、お祝いをしてくれた。

そのあと武蔵小金井の細い裏通りを歩き、小さなイタリアンバルに入ってワインを2杯ほど飲んだ。

デリダの動物についての話で、前から疑問に思っていたことを質問してみた。

「動物が絶対的他者だとすると、私とちゃびの関係のように、お互いがお互いの中に出たり入ったりできないんじゃないか、動物を絶対的にわからないものとしてしまうと、助けることができないんじゃないか」という疑問。

それに対して、鵜飼さんの説明は、

「ヨーロッパの「他者」という言葉にはふたつあって、「絶対的他者」(神)と、もうひとつの「他者」(隣人、他人、動物、植物というようなもの)という分け方だった。

それをデリダは、皆が「絶対的他者」で、神もその中のひとつにすぎない、というふうに言って、それまでの二分法を崩した。」

というものだった。

「サルトル、レヴィナスは、他者とは出あうもの、と言い、フッサールは。他者とは、無限に近づくことができるけれど出あえないものと言った。」(このあたり、だいぶお酒がまわっていたので私の記憶はあいまいです。)

私のもう一つの質問は、

「「散種」って男性的な言葉じゃないですか。なぜデリダはそんな言葉を使ったのですか?」という疑問。

鵜飼さんの説明は、

「デリダはその頃、植物や動物に関心があった。Dissémination(ディセミナシオン)には意味を散らすという意味がある。」

というものだった。

だったらDissémination(ディセミナシオン)は、私の愛するPusteblume(プーステブルーメ)のことだ。若林奮の花粉色の硫黄でもあるのかもしれない。

11時近くに帰宅。

2月11日

所用でS木R太と2時に会い、車で多摩丘陵のほうへ。着くのに2時間もかかった。

戻ってきたらもう8時半で、空腹で疲れていたので、華屋与兵衛によってもらって、そこで話した。ふたりとも「漁師のまかないサラダ」だけを頼んだ(お酒も飲まないので変な注文)。

また11時近くに帰宅。

2月16日

一級建築士のT川さんと会う。

2月18日

新宿三井ビルクリニックへ。腹部エコーと血液検査。

診断してくれた女医のA先生がかっこよかった。

風貌が一ノ関圭の「女傑往来」の高橋瑞子みたいだ。

2月19日

暖かい日。西新宿の家から新宿中央公園を通り、ワシントンホテルの脇の細道を抜けて、代々木を歩いてみた。

中央公園で、2004年頃に母と見た紅と白の絞りの桃の花を捜したが、見当たらなかった。早咲きの小さな桜が咲いていた。

中央公園は全面禁煙になり、ランチスペースもできていた。だが整備されすぎていて、自然な草木の繁茂がないのが淋しい。

甲州街道のビルとビルの隙間に存在する樹齢200年の「箒銀杏」(ほうきいちょう)の樹を発見して胸を打たれた。妖怪のような巨木だ。渋谷区内には、かつて巨木、銘木がたくさんあったが、戦争で失われ、開発で失われ、最後に残った名のついた巨木が、この「箒銀杏」らしい。

文化服装学院の裏の古い団地も、もう取り壊されそうになっていて、板が打ち付けてあった。

私の通った小学校の裏に古い団地がくっついていて、四季の花々が混然と咲き乱れていたのを見ていたせいか、古い団地にとても郷愁を感じてしまう。

・・・

9時頃、I工務店のジュリーから電話。

彼は非常に誠実で、あらゆるリスクを考慮してくれ、安請け合いをしない。彼は本当に信頼できる人だと思う。

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2015年12月10日 (木)

沼辺信一さんと会う 若林奮先生の思い出 

12月5日

川村記念美術館の元学芸員、沼辺信一さんとお会いした。

1時半に待ち合わせて高円寺のべジタリアンレストランVESPERAへ。

まず、若林先生の「振動尺」の展覧会をやるまでの経緯を話してくださった。

それから、若林先生ついての沼辺さんの思い出をうかがった。

沼辺さんのやった「振動尺をめぐって」が、若林先生の生前最後の展覧会になってしまった。展示作品の位置などを決める時、若林先生は病で来られず、沼辺さんが考えて配置したという。

展示について若林先生は非常に厳しい考えを持っていらっしゃったから、沼辺さんもさぞかし苦心されたことだろう。

私も、川村での、ガラス窓の外の光るスダジイの樹に向かって伸びている振動尺の鮮やかな記憶がある。すっきりとして記憶に残る展示だった。

沼辺さんの語った思い出で、最も印象的だったのは、若林先生が、美術館(川村ではない、それより前の)が作ったご自分の展覧会の図録について、大変怒っておられた、ということだ。

「作品の部分のクローズアップはいらない。どこをどのようにアップで見るかは、見る人が決めることだ。」というような発言は、いかにも若林先生らしい。

展覧会の図録をめぐってのエピソードは、もうひとつお聞きした。

沼辺さんは、川村記念美術館での「振動尺をめぐって」の展示の準備のために、1年ほど若林先生の御嶽のアトリエに通っていらした。

そのとき、本棚に並んでいた若林先生の展覧会の図録には、表紙が破られてなくなっているものが、いくつかあったという。そのわけを尋ねると、「嫌だから。見たくないから。」と若林先生はお答えになったそうだ。

若林先生はいつも、「余計なもの」を嫌われた。静かに「外」のものを感じることを阻害するもの、「自然」を傷つけ、圧し殺す、あまりに「人間的な、余計な」もののすべてを。

口数の少なさと、その何十倍もの大きな怒りを秘めた沈黙、若林先生のそういう不機嫌さに、今さらながら、ほれぼれする。

沼辺さんは遠方から長い時間をかけて来てくださったのだが、私からは、若林先生との思い出について、ほとんど話すことがなかった。というより、私が若林先生と「出会っていたこと」の意味を伝えることが不可能で、話せないと思った。

たくさんのお話をお聞きして、気がつくと、夜の11時過ぎになっていた。

・・・

若林先生の、息が詰まるような優しい思い出はいくつもあるが、私がもっとも感激したのは、やはり、若林先生がとても怒っておられた時だ。そのとき、ある表現について、とても怒っているということを私に話してくださった。

「あれはよくない!あの人も不潔な晩年になったものだ。」「だめだ!まったく私の言うことの意味が伝わっていない!」「あのおしゃべりはつまらない。あいつにはもう一切しゃべらせない!」

後になって、このことを誰かに話すと、たいていの場合、私が傷ついたと誤解して慰めているつもりなのか、「それは、ちょうど若林さんの体調が悪かったときだから」などと、私の伝えたかった体験の本質をうやむやにしようとする反応が返ってくるのだが、まったくお門違いだ。

若林先生は、私がいつも疑問に思っていること、違和感があってたまらないことを、はっきり言ってくれたのだ。私にとっては、あんなにも感激したことはない、もっとも大切な思い出だ。

若林先生が私に率直に話されたのも、そのことについて私も強い違和感を持っていることを、若林先生こそが良く理解してくださっていたからだ。

(このことは、いつかきちんと書かなければならないと思っている。)

静かにその前に佇んで「外」を感じて考えるための場に、それを妨げる「人間の表現」が立ちはだかる場合が、おうおうにしてある。

ごく微弱な声を掻き消し、微細なものの息の根を止めてしまう「表現」を山ほど知っている。

私は、自分の触覚的な顫動状態を妨げるものに、明らかに私に見えているものに対して、なかったことにしろと抑圧をかけてくるものに激しいストレスを感じる。

しかし私はそれをはっきりと言葉に表すことができない。あらゆる「表現」の前で二重に抑圧を感じる。

芸術をめぐってでさえ、あるいは芸術だからこそ、欺瞞や転倒のうえに、「なあなあ」とすべてをだらしなく許し合っていることがあまりに多い。そうしたものへの拒絶のしるしとして、若林先生は「限界」とか「領域」という言葉を使っていたのではなかったか。

人がなにかを表現することの根源をとらえようとしていたからこそ、その問題の核心から目を逸らさせるものに対してはいつも、若林先生は憤然と怒っていた。だから私は若林先生を心から信頼し、尊敬することができた。

若林先生は、私に「僕の考える絵の範疇にはいっているもの」という言葉をくださった。私の考える「絵の範疇」「美術の範疇」にはいっているものだけを大切にすればいいのだと。

(若林奮先生と銀座の展覧会のあとで  2000年銀座)
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2003年の2月の寒い日だったと思う。川村記念美術館「若林奮 振動尺をめぐって」に、私は詩人の吉田文憲といっしょに行った。そのときは、その年の10月に若林先生が亡くなるなんて、想像もできなかった。

「若林先生は・・・」と女性の学芸員さんに訪ねると、何日か前に杖をついていらした、と聞いた。それから、帰る前にその学芸員さんが追いかけてきて、「若林先生からお二人に。」と図録をいただいた記憶がある。

そのときのことを、吉田文憲は「見ること(読むこと)の暴力的な顕われについて――賢治作品、そして若林奮の「振動尺」、福山知佐子の絵にふれて」(『宮沢賢治 妖しい文字の物語』思潮社)という文章に書いていた。

そのなかには、「非人称の情動とは、それを肯定し、それを生き延びようとするときに直面する、存在の(むしろ生存の存亡の)危機のことである。」というくだりがある。

「馬鍬の下に咲く花、但し処刑機械としてではなく(むろんここではカフカを意識して)。」

そのあとに、私が以前、若林先生に宛てて書いた手紙が引用してある。

その手紙は、若林奮作品『所有・雰囲気・振動』を見た時に私の中に強烈に蘇ってくる幼い日の記憶――西新宿の古い欠けた石段に何時間も座り込んで、石の割れ目から生えているムラサキゴケやツメクサやカタバミを見ていた五、六歳の頃の思い出。それから現在、植物に対峙して私が何を見ているのかについて書いたものだ。

吉田文憲は、ここで「絶対的な裂け目」について書いている。

「――誰もがそれを見れるのではない。

――誰もがそれを読めるのではない。

――誰もがそれを読めるのではないということのために闘うべきだ。」

「――なにが見えたのか、と問うべきではない。なにが見えるようにされたのか、と問うべきだ。」

私が若林奮と出会っていたのは、その「絶対的な裂け目」のところ(「場所」とも「時」とも呼べない「そこ」)だと思っていたし、そう今も信じている。

12月9日

11月27日に鎌ヶ谷の病院に行ってから、ずっと微熱と頭痛。風邪薬を飲まないほうがいいのだが、時々、かあーっと熱が上がって吐きそうになる。

8日の夜、急に立っていられないほど熱が出、吐きそうになってから、きょうは1日3回、6時間おきに薬を飲んで作業した。

きょうはヴィジョンが浮かんで、今までの構成を大幅に変更した。

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2015年9月 8日 (火)

分身残酷劇「カリガリ博士」 / 高田馬場喫茶店らんぶる跡 

9月6日

一糸座公演分身残酷劇「カリガリ博士」(鈴木創士原作、才目謙二脚本・演出)の千穐楽を観に、高田馬場ラビネストへ。

http://www.acephale.jp/news/news.html

満員だった。早めに行って一番前の椅子の真ん中の席で観た。

暗闇の中から、地面をつきあげてくる低い不穏な音楽。

空を飛ぶ二人のカリガリ博士人形の夢にうなされる、人間のカリガリ博士。

十貫寺梅軒演じるカリガリは、おなかに重い脂肪の塊を巻いている。この役は見た目も、高いハスキーな声もアラーキーによく似ている。悪のようで、滑稽で哀れで愛嬌もあるカリガリ。

笛田宇一郎演じるオドラデクは歪んだ扉の枠から覗き、すべてを見ている。

薬中のおしゃれな人形チェザーレは、見るのはいつも他人の夢であり、たえず眠っていることは全く眠っていないのと同じ、と嘆く。

田村泰二郎演じる人形に化けた女優または女優に化けた人形は、私は私の夢しか見ないの、私は夢見るフランス人形ってね、と言いつつチェザーレを追いかける。

金髪の美しい人形ウルリケは、カリガリを刺そうとして失敗し、自殺してしまう。

観終わってみると、クラインの壺のような劇だった。ただ、なによりウルリケの名が、壺の表面についた小さな傷のように心に残った。

(ドイツ赤軍のウルリケ・マインホフ。彼女がオルデンブルク出身と知って、ますます興味がわいた。オルデンブルグは、私が5年前に訪ねた、ホルスト・ヤンセンが幼少期に過ごした家がある町だ。)

・・・

高田馬場へ歩く途中で、谷正親先生に出会った。早稲田大学の安保法制反対のデモの帰りだそうだ。

・・・

上着を忘れたことに気づいて、あとからラビネストに戻った。

熱演した三人の役者さんが、地べたに座って休んでいた。劇場の中では、舞台や美術を片づけるのでとんてんかんてん忙しく作業していた。

「上着あってよかったね。」と役者さんに声をかけられたので、「かっこよかったです!」と言ったら「1m50cmのおなかつけてるのに?」とにこっと笑ってくれた。この三人の役者さんは、すごく味のある人たちだ。

・・・・・

高田の馬場と言えば、私の大好きな場所がある。かつて喫茶店「らんぶる」があった跡の横の階段。しばらく来なかったが、まだ壊されていなかったことに感涙だった。

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この罅割れたいびつな階段と、無造作に生えてくる夏草の生命力が、たまらなく愛おしい。

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私の大好きなヒメムカシヨモギ、ノボロギク、ハルノノゲシ、メヒシバ、エノコログサ、まだ潰されていなかったんだね、と涙がでてきてしまう。

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その時、どこからかフッと忍者のように忍び寄る猫あり。

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まだ若い敏捷な白黒ぶちの猫。
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廃屋の屋根の上を慣れている様子で移動。

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カラスウリに覆われている廃屋の屋根の

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ある穴を目指して来たようで、

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ある一点から中に入って行った。私の生まれた家も、こんな風によく猫がはいっているようなので、猫の賢さに納得。どうか長生きしてほしい。
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この階段を上から見るとこんな感じ。

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かつて古い煉瓦の素敵な喫茶店「らんぶる」があった場所。この喫茶店には学生の頃の田中真紀子も通ったという話を聞いた。

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空き地にはマツヨイグサ(宵待ち草、月見草)と、やはりどこにでも生えるメヒシバとエノコログサが茫々に生えている。黄ばんだ大谷石の上にはヨウシュヤマゴボウとワルナスビ。雨に濡れて色が濃くなり、光るセメント。

こういうところが、私の原風景である。幼い私が一日中、飽きもせず植物に触り、小さな虫を見つけ、石のかけらを集めたりしていた場所。

都会の片隅の、端っこの、誰も関心を持たない、私にとっては宝物でいっぱいの場所。

8月28日

がんの定期健診のため鎌ヶ谷の病院へ。

電車は川を四つ越えて行く。四つめの川のほとりに20羽ほどのサギがいた。

電車の高架の上から見る不思議な螺旋階段のある廃屋は健在。いつか降りて歩いてみたいと思ういくつかの駅。

「福山さんは夏バテするとすごくやせちゃうからね。」と言われた。浅井先生はあいかわらず優しくて落ち着いていて素敵だった。

都心では見ることのないイオンに入ってみた。グリーンアイのオーガニック紅茶を4箱買って帰った。無農薬紅茶の中ではグリーンアイのものが安いので。

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2015年7月16日 (木)

鵜飼哲さんと多摩川を歩く  表現について

7月5日

小雨が上がって曇り。最近、陽に当たると湿疹が出てしまうので、私にとっては絶好の散歩日和だった。

鵜飼哲さんと多摩川を歩く。

中央線から西武多磨川線に乗り換えたとたん、線路沿いの夏草はぼうぼうに茂り、景色は急に昔の片田舎のように懐かしい感じになる。

3時に終点で電車を降りると、すぐに広い川べりに出る。是政橋の上から、向こうに見えるのは南武線の鉄橋。沢胡桃の樹には青い実がびっしり生っていた。

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日の当たる土手にはアカツメクサとヒメジョオンが多く咲いていた。

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下はアカツメクサの変わり咲き。とても淡い赤紫色の花。

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下は、めずらしい(たぶん)ヒメジョオンの変わり咲き。花弁(舌状花)の部分が大きく、紫色でとてもきれいだった。画像の真ん中の小さな白い花が本来のヒメジョオン。
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この先が行き止まりの突端まで歩いた。

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大丸(おおまる)用水堰。水の浅い場所にたくさんの水鳥がいた。望遠レンズを持っていないので写真にはうまく撮れなかったが、白鷺(ダイサギ)は多数、大きな青鷺が写真に写っているだけでも6羽。この辺りには鳶もいるらしい。

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これがアオサギ。

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道が行き止まりになる突端で野鳥を見てから、道を引き返す。


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ハルシャギク(波斯菊)と姫女苑。
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是政橋を戻り、駅側の岸へ。

青々と茂った草叢にヤブカンゾウ(籔萱草)の花が咲いていた。Sdsc06322

ヤブカンゾウには、同じ季節に咲くキスゲやユウスゲのようなすっきりした涼やかさや端正な美しさはないが、花弁の質感がしっとりと柔らかく厚みを持ち、少しいびつに乱れた様子が野性的で絵になる花だと思う。

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土手を下り、先ほど水鳥がいたところへと反対の岸を歩く。
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一面、なんとも可憐なハルシャギク(波斯菊)の野原が続く。ハルシャという発音がなんとも柔らかくフラジルな感覚を誘うが、波斯とはペルシャのこと。蛇の目傘にそっくりなのでジャノメキクともいうらしい。

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ここらへんは、川岸に降りてしまうとあまり周辺の建物も見えず、果てない草原にいるような、うんと遠くに来たような気持ちになる。

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草原を奥へと進むと、薄紫のスターチスに似た小さな花をつけた背の高い野草が多くなる。

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イネ科の薄茶色の細い線とハルシャギクの黄色い点とが震えて戯れている空間に、ギシギシの焦げ茶色の種子が縦にアクセントをつけている絵。

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多摩川が支流に分かれている場所。多摩川の本流は、きょうは水かさが増して烈しく流れていたが、この場所は水流が静かだった。鯉だろうか、大きな黒っぽい魚がゆったり泳いでいた。

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堰のところまで行って水鳥を見た。しばらくセメントで固めた斜めの土手に座っていたが、河が増水して速くなっているのが怖かった。

そのあと2m以上もあるススキの中を分けて道路まで戻った。ススキの青い刃が鋭くて手や顔が切れそうで怖かった。道なきススキの中を行く途中、幾度かキジくらいの大きさの茶色っぽい鳥が慌てて飛び立った。

車道に出ると美しく剥落した壁を発見。古い建材倉庫だった。

私は人の手によって描かれた絵よりも、自然の中のマチエールに惹かれる。

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これも私の眼には美術作品と見える水色のペンキと赤茶の錆の対比が鮮やかな柵。
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この日、3時に鵜飼さんに会ってから、ずっと話しながら歩いた。時には小さく、時には弾丸のように私は話していたと思う。

まずデリダも書いている動物についてのこと、非肉食についてのこと。

鵜飼さんは昨年から一年間パリに行っておられたが、フランスでは、最近、動物に関する議論は盛んにおこなわれているという。

今まで人間が殺して食べて当然、人間が搾取して当然だった動物の生に対して疑問を呈する意見が多数あがってきているということだ。

しかし一方で、今まではお洒落できれいな客間の裏側に隠されていた動物の(頭の)解体方法などを、わざわざポスターを貼って、食事をする客に得意気に図解して見せる日本のフランス料理店の話もした。すべてをあからさまにして、それが当たり前のこととするのが今時のトレンドなのかもしれない。

話題にのぼったそのレストランでは、そうしたポスターを見て、猛烈な吐き気を催す私のような人間もいることをまったく考慮していない。店のオーナーは、感覚的に動物を殺して食べることに拒絶反応を示す人間がいることを認めていない。

肉食をする人も、自分で屠殺しなければならないことになれば、もう食べなくなるだろう・・・というのは、もはや幻想に過ぎない。犬や猫を目に入れても痛くないほど可愛がっている人が、豚や牛に関しては、自分で殺してでも食べるのだろう。

「食べなくては生きてはいけない、動物だって他の動物を殺して食べているんだ・・・」そのくらい人間の語る言語は無意味なおしゃべりと化し、疑問を挟むものを生かす余地がない。

根こそぎの欲望がそれと結びついた経済のうちで肯定される。

そのことと無関係であるはずはないが、現在、日本の一億人の誰もがアーティストであり、誰もが表現者である。その中で商業主義の波にのるものと、そこからこぼれたものがいるだけだ。いずれにしろ美術批評も無駄なおしゃべりに堕してしまっているように見える。

ナルシシズムの増殖が安易で、そのスピードが極めて速い時代であり、誰も実作の「質(作者と呼ばれるものの身振り、その無言が指し示すなにか)」について問おうとしていない。

大学から人文系の学部をなくそうという動きまであるということだ。あまりに酷い世の中だ。

もし今、ランボーが詩人として登場しても、時代はランボーと彼の才能を埋もれさせてしまうだろう。ランボーの詩が残ることはないだろう・・・、と鵜飼さんは言った。

6時過ぎに鵜飼さんの車にのせてもらい、大沢のレストランに移動した。

レストランではパエリヤを注文した(一切の肉や肉の出汁を入れないように頼んで)。

鵜飼さんが私の本『反絵、触れる、けだもののフラボン』と、できたばかりの『あんちりおん3』を持ってきてくださっていたのに感激したが、私の性分として悲観的なため、すごく申しわけないような恥ずかしいような気持ちになった。

レストランのラストオーダーをとりに店員さんがまわって来たのが10時半、それからもまだ話していた。(当たり前だが、鵜飼さんが車なので、私も一滴もお酒を飲んでいない。喉が渇いて、氷のはいった水を何倍も飲んでいた。)鵜飼さんが家まで車で送ってくださった。家に着いたのは12時近かっただろうか。

3時から8時間以上話していたようだ。すべてが私にとって重要な話であり、記憶に強く残るが、そのほとんどの内容が非常に書くことが難しくて、このブログには書くことができない。

7月4日

きょうも高校時代からの友人みゆちゃんと会う。

まず(初めての)「カラオケの鉄人」に午前中11時から行ってみたが、ここはすこぶる安くて良かった。

ポップコーンなどの二人分のおつまみを無料でつけてくれて会員登録代は330円、それで30分90円。一見ホスト風の派手なお兄さん二人は、話し方はとても丁寧で親切。

みゆちゃんが私のリクエスト、フランソワーズ・アルディ(Françoise Hardy)をしっかり練習してきて歌ってくれた。

私の大好きな「もう森になんか行かない」(Ma Jeunesse Fout Le Camp )は難しくて無理、ということで「さよならを教えて」(Comment Te Dire Adieu?)をフランス語で歌ってくれた。科白の部分が、すごくかっこよくて感激。

「私って一度始めたことはずっと続くみたいなの。だから大学は大したことなかったけど、その頃から習ってるフランス語は今も習ってる。この歌、フランス語の先生とカラオケ行って発音直してもらったの。」とさらっと言うみゆちゃんは、やっぱりすごくかっこいい。

その夜、youtubeでフランソワーズ・アルディの曲をたくさん聞いて、画像を見ていた。つくりすぎない、甘すぎない、媚びない、さりげないスタイルはやはりかっこよかった。

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2015年3月23日 (月)

布花 発熱 / ちゃび

3月23日

まだ少し熱。頭痛がするのでタイレノールを飲んで書道へ。

外に出たら思ったより寒くて、書道教室で席についてから、どんどん熱が上がってきている感覚があった。

顔が熱くて頭がぼーっとして真っ直ぐに字が書けない。だが、私は指に力が入る悪い癖があるのに、きょうはまったく指に力が入らないという良い効果もあった。

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夕方、ちゃびの輸液。

「美意延年」(楽しいことをして寿命を延ばす)ということで、きのうの布花が増殖した。

初めてなので華奢なものをつくってみたが、次はもっと耽美的な花を足して、最終的には、シックな紫系のコサージュをつくる予定。

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スミレは試しに多彩な色のヴァリエを作ってみた。

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私の大好きな小説、カポーティの「無頭の鷹」でDJが枕元に留めて寝た菫は、私の頭の中では4、5本の濃い紫のイメージだ(実際は欧米のスミレはニオイスミレだから、日本のスミレと違って薄紫だろうけれど)。

次は黒に近い深い紫のスミレを作ろうと思う。

3月22日

少し熱が下がってきて、激しい頭痛はなくなったが、吐き気と動悸あり。きのうよりだいぶ元気になったので、布花を作って遊んだ。

初めて、なんとなく作ってみた布花の試作。

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10年以上前にアンティーク屋さんで買った紫の作家もののコサージュを、3年前に落としてしまい、けっこうなショックを受けて、ずっと同じようなものをさがしていたが、雰囲気が似ているのはどこにもなかった。

ならば自分で作ろう、と最近思い立って、白い布をグラデーションに染めて作ってみた。

スミレも試しに作ってみた。スミレ、ノジスミレ、タチツボスミレ。こては使わずにつくった。茎は布を染めて巻いた。

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3月21日

ちゃびの輸液の日だが、私の熱下がらず。計っていないが8度くらいの感じ。

ちゃびはここ2日間便秘気味で、そのせいか、朝、カリカリ(腎臓サポ)を丸いかたちのまま、水飲み場に吐いてあった(なぜか噛まないで飲み込んでいる!?)。

私は熱で首と後ろ頭がすごく痛い。

午後、歩いて2分くらいの店に行って、道具を買って、帰宅して、その袋をどこに置いたかわからなくてずっと捜していた。結局、まだかばんに入っていたままだったのだが、それくらい頭がぐらぐらしていた。

その後、苦しくて動けず、夕方まで寝ていた。

ちゃびの輸液と薬はなんとか成功。

12時、6時、深夜12時にタイレノールを飲んだ。深夜1:30に動悸を鎮めるためレキソタン1mg。

・・・

熱に浮かされながら、いろんなイメージが頭にぐるぐる渦巻いていた。

幼い頃に見たイメージをずっと覚えている。くり返し、そこに記憶が引き戻される。

海岸で貝殻や木切れを拾っている記憶。紅色、緋色、樺色のヒオウギという貝殻を拾っている夢をよく見る。漂流物を拾っている時は、本当に夢中になる。

幼い頃、いつも観察していた苔の記憶。苔の下のミミズ。苔の上の露の光。

古い鏡の曇った色。

洋裁をしていた母の知り合いが、小学生の私にくれた錆びた金具のついた、黒くくすんだガラスのブローチ。緑青のざらついた感触。

黒紫のチューリップの決して甘くない香り。

記憶の感触とイメージ。その何に惹かれたのか、そのものの感触を蘇らせるきっかけとしての断片。

象徴としての断片があれば記憶は蘇る。が、その感触を他人に伝えるためには。。

・・・

私の性格は常に、すごく乱暴なのと、緻密で細やかなのとが同居している。

誰にも邪魔されたくない領域があり、私のやりかたで徹底しないと自分の感覚が満足できない作業があり、そのほかはだらしない。

同時にたくさんのアイディア、欲、が沸き起こってきて、眼の奥に見えるものが溢れかえって、しょっちゅう頭が混乱しがちになる。作業しながらそれを削り落としていく。

やってみれば途端に興味がなくなることもある。

3月20日

深夜から頭が痛く、明け方、汗びっしょりで額から流れ落ちていた。気がつくと熱が高かった。

どこが痛むか観察してみると、頭の付け根、特に左、こめかみ、眼の奥と眼の周りの骨のあたりが猛烈に痛い。時々脳天の百会と言われるところの少し横が痛い。

咳は全然ないが、少々痰が出、血が混じっている。動悸。

たんぱく質を摂ろうと思い、牡蠣を乾煎りしてオリーブオイルをかけて食べたが、猛烈な吐き気に襲われて吐いてしまった。紅茶も無理。

それからずっと寝ていた。

・・・

葉のところにピンクの花被片(実は萼)があるアネモネ・モナーク。

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この花も葉のところに青紫のの花被片がある(アネモネ・モナーク)。

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3月19日

きょうのちゃび。

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かわいい少女のよう・・・

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この初夏に18才になるちゃび。

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くねりん
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くねりん

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あにゃにゃにゃ~~ん ごろにゃ~!
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この夜、ちゃびの輸液。

この時は私も元気だったが、夜中から朝にかけてどんどん頭が痛くなって、額から汗が流れ出した。

3月18日

中野に買い出しに行く。

早稲田通りの方、戦前の家屋が残っていた。きょうはカメラを持っていなかった。

「住友」にひとりではいり、天婦羅としらすおろしを食べた。

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2014年12月29日 (月)

父が亡くなった / 心の病 / 差額ベッド

12月29日

きょう、また新たに父が生前にやった悪行が判明して、ショックと同時に、吐き気をともなう怒りが湧いてきた。

父が死んだ時、というより父が何度めかの痰がつまり、もうただ眠っているような、会話できない状態になった時は、すごい後悔に襲われた。

もっといろいろしてあげたかった、という後悔ではない。

父は、異常に自分勝手で、家族のお金を平気で盗むような人で、私は小さい頃から数限りなくひどい目に遭わされてきたから、正直、進んで父の介護をしたいとは思えなかった。

ただ、私が生まれる前のこと、父の子どもの頃のこと、肺結核になった17歳から片肺をとった25歳までに父が何を考えていたのか、結核で死にかかる前は何になりたかったのか、聞いておけばよかったと思ったのだ。

父の子どもの頃、青年の頃のことを聞いておかないと、私の知っている記憶、母や私がどれほど父に辛酸をなめさせられてきたのか、それが無駄に消えてしまうような気がした。

どういう風に育ったらあんな人間になるのか、理解することは不可能だが、それでも、もっと聞いておくべきだったと思う。そして私は、出来うる限り、すべてを書きたかったのだ。

父は祖母と祖父の本当の子ではない。

祖母は、父とは正反対。おおらかでおとこぎがあって明るくて美人で、とても人に好かれる人だった。私の大好きな太陽のような祖母が、私とまったく血がつながっていないことを母から聞いたときはすごくショックだった。

私は、祖母の素晴らしい遺伝子を持っていない。祖母は99歳近くまで生きた。

父はギャンブル依存症で、母や子供の頃の私をよく殴っていた。私にとって父は私に対して何かを与えてくれたり、保護してくれる人ではなく、私を不安の底に突き落として目茶苦茶にするような人だった。

幾度も父の異常性格のしりぬぐいをさせられた。怒りと吐き気で頭がおかしくなりそうな体験が山ほどあった。晩年まで、父の自分勝手さと異常性格はなおらなかった。

ただ、そのことが私の「もののみかた」をつくったのは確かだ。

このことは、また詳しく書きたいと思う。

12月28日

代々幡斎場にて、午後二時、父を火葬する。

ル・レーヴ(夢見る)という名のピンクの百合、ブルーなんとかという名の紫の蘭、ベージュのガーベラ、薄荷色のカーネーション、黄色と白のスプレー菊。スイートピー。

きのう、高円寺中の花屋やスーパーを廻って買い集めた花を棺に入れた。正月用の花束ばかりで、自分が買いたい花を探すのもひと苦労だった。

地方のお葬式で、火葬したあと、骨が人体のかたちのまま出されてきて、その骨を拾うのも、何回もさせられた経験があり、それがショックで怖くて吐きそうだったで、今回も心配だったのだが、

骨はざっくり混ぜられた状態で、四角いかねでできたものに入っていて、「弔事ですので、お骨は一回のみで。」という火夫さんのご指導のもと、二人一組で、あっさり一回つまんで終わったのでよかった。

「仏様が手を合わせているようなかたちなので喉仏といいます。」という説明。

おばあちゃんの時も代々幡だったような気がする。きょうと同じような感じだったのだろうか、あの時よりも、もっとあっさりとすんだような感じだった。

・・・・

今回の直葬で、都内にある代々幡、堀之内、落合などの火葬場は全部「東京博善」という会社の直営であり、火葬だけで一律59000円かかることを知った。

そのほかに骨壺約13000円、このふたつは絶対にかかる。その他保管料一日につき約8000円、火夫や事務、運転手さんへの心付け。

上記の斎場への支払いのほかに、葬儀社に頼まなければならないものは、棺、寝台車、納棺料、ドライアイス、案内の人件費などで、これが80000円くらい。

で、役所への手続きも自分でやり、棺に入れる花も自分で買って持って行き、写真もなしで、合計170000円くらいだったと思う(妹が明細を持って行ったので私の手元にないが、だいたいそのくらい)。

都内で直葬を考えている人の参考までに書きました。

12月26日

父が危ないと連絡を受け、I病院へ。

午後3時2分死亡。

泣き崩れる妹の背中をさすってやって、もう(妹は)十分介護したよ、という言葉を何回もかける。

妹はちょっとおかしいのだ。嘘つきで酷い人間だった父にべったりだったのだ。なぜかというと、妹は私のように、父の借金返済のために青春を滅茶苦茶にされた過去がない。妹はその時、まだ中学生だった。

しかし父の借金返済の時に母と私がどれだけ過酷な労働をしていたか、家族が心身ともに追い詰められておかしくなっている、その異様な事態に気づいていないはずはなく、妹がその原因である父にべったりになって母や私に少しもいたわりの気持ちがないことが異常なのだ。

妹は父と似ている。自己中心的で自分のだらしなさをすべて他人のせいにするところ。依存症で、ちょっとでも優しい言葉をかけると際限なくだら~っと甘えてくるところ。社会性や公平性がなく、自分に甘い人間にだけべったりくっつこうとするところ。

妹はアルコール依存症だと思う。酒が入ると完全におかしい。普通の酔い方ではない。まったく話が通じなくなり、一方的にへらへら笑ったり、激情的に怒ったり泣き出したり。

それだけでなく、アルコール依存症になってから、過去の記憶がいいように勝手に歪められている。 アルコール依存症について調べると「他罰的になる」という特徴があるので、もともとの性格がアルコールによって助長されているらしい。

私は、父から与えらえてきた精神的、肉体的外傷や、嫌悪感や、いろいろあるのだが、若い頃の母が(だまされて)すごく好きになった人だし、とにかく母がかわいそうで、激しく嗚咽してしまった。

・・・・

そのあと、泣きはらした顔で差額ベッドのことについて、病院側に言わなければならなかった。くたくたに疲れていたが、やはり、おかしいと思ったからだ。

「福祉保健局の人に話を聞いて、決まりでは家族が望んだのでない差額ベッド代、病院の方の都合でいれられた個室代は家族に請求してはいけないはずです。」という内容のことを言ったら、I院長は、

「あなたは決まりって言うけど、これは決まりの問題じゃなくて、公序良俗の問題だ。」

と言った。その「公序良俗」という言葉が、疲れた頭に、すごく印象に強く残っている。

つまり、「公序良俗」に反しているのは、私のほうだとと言いたかったのだろうか?

それとも「公序良俗」という語を出してきたわけは、病院側が家族に圧力をかけても、それは法的には規制されるようなことではない、やってもいいことなんだ、と言いたかったのか。

たぶん後のほうだろう。

「福祉保健局の誰がそう言ったの?メモしたいから名前教えて。」とも言われた。

I院長は「この件について僕に決定権はない。看護部長に聞かないとわからない。」と言い(嘘だと思う)、廊下で看護部長を待っていたら「会計に言ってくれ」と言われ、会計に行ったらソーシャルワーカーが出てきて、「でも妹さんは了解したんですよね。ちょっと確認してきます。」と言われ、

「妹は精神的に参っています。患者に何をされるかわからないと思ったので、怖くて了承したと言っています。それでも電話で了承しただけで差額ベッド代の金額を明示した紙に家族がサインしてない限り、家族に支払い義務はないと福祉保健局に聞いています。」とこたえた。

家族が死んだ直後で、ただでさえ胸がざわざわしている時に、病院総出でプレッシャーをかけられたけど、言うべきことは言わないといけないのでがんばった。

それで一応の解決をみた後、死者を囲んでぐったりしている家族のところへ、がちゃっと個室の扉を開けてI院長が入って来た。(はぁ~~・・・まだ、何か?・・・と私は下を向いていた。)

「お父さんは片肺だけでよく頑張ったと思います。いや、皆さんが随分、落ち込んでいるようだからね、私もこう見えて学生時代は鬱だったんですよ。」などから始まる演説があった。「鬱にならない秘訣はね。少しずつがんばること。」とか「皆さんの連携がうまくとれていないところがあるからね。」とか・・・

(残念ながら私は鬱病じゃない。依存症でもない。脅しやすかしでコントロールされるような人間じゃない。ぐったり疲れているように見えるのは差額ベッドの件で病院側に不当な支払いを要求された心労のせいなんですよ、と言いたかった。)

補足すると、この病院は看護師さんは親切だった。

とにかく老衰で亡くなりそうな患者を個室に移された場合、それは治療上の都合であるから、家族に支払い義務はない。

病人を介護している人、「差額ベッド代」で検索してみてください。

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2014年10月31日 (金)

ちゃび 生命 表現

10月31日

このところ、何日かおきにちゃびがほとんど何も食べてくれない日が3回くらいあり、その日の夜の私は本当に生きた心地がしない。何を試みても食べてくれなくて、ずっと具合悪そうに静かにしている夜、ちゃびがこのまま死んでしまう恐怖で背中と首がひきつれ、心臓が痛くなる。

きょう、朝6時すぎにビフィズス、ファイバー、コラーゲン、ビオフェルミンとガスター、ベトメディンを飲ませた。錠剤は相当嫌がってうまく吐き出してしまうのでたいへんだ。

8時すぎから「銀のスプーン15歳」を少量ずつ何回も食べた。

それから本当に小さなうんこ2つ。

私が2時半から出かけ、3:50に帰宅したら、また1つうんこしてあった。

それで胃腸がすっきりしたのか、絵の具箱の上で、私と眼があうだけでごろごろ爆発。なでるとごろにゃあ!ごろにゃあ!とずっと2時間も言いっぱなし。

ああ、生きてる・・・また久しぶりに、今の瞬間は快調。

毎日、嫌がるのを無理に心臓の薬を飲ませて、一日おきに輸液して、その時は逃げられるけれど、調子がよくなると必ずゴロゴロ言いながら私のひざに乗ってくる。具合がいいときは本当にべったり甘えん坊だ。

きょうのちゃび。この写真、全部、ごろごろ言いっぱなし状態。

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最近、鼻の毛がはげてきたのも心配。

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嬉しいの~。
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やはり、脳ではないと思う。食べてうんこできたあとは、こんなにも気持ちよさそうなのだから、頭痛などがあるとは考えられない。

10月30日

このところ、ちゃびの体調(食欲)は減退のまま戻らない。吐き気止め、胃腸薬、制酸剤、乳酸菌、食欲増進剤を駆使して(毎日すべてをやっているわけではなく、日によって選択して)、なんとか乗り切っているが、ちゃびがまったく食べてくれない日は私は一睡もできない。

ちゃびが2日もほとんど食べず、24時間あらゆることを試みても、それが3日目になった時は、ちゃびが死んでしまう恐怖で、頭も身体もおかしくなりそうだ。私の神経はそうとう参っているのかな、と思う。

きのう、ちゃびを抱いてTANITAの電子体重計に乗り、ええ!?と真っ青になる。46.7kg。

ちゃびは恐ろしくやせてしまったのかとぞっとしたら、私の体重が43.5kgに減っていた。ちゃびは3.2kg(ほんとかな・・・?)

ちゃびをよく見ていると、食べられない原因は吐き気で間違いないと思う。

昨日、ほとんど眠れない中でとぎれとぎれに見た夢も悪夢だった。私が自分で自分の首に輸液の太い針を突き刺している。はっきりと首に痛みがあった。夜、睡眠中もその針を刺していないといけないのに針が抜けてしまう、針が布団の上に落ち、血が出る。針は何かに触れたら雑菌がついて感染症を起こすから替えないといけないのに、私はその針をまた自分の首に刺す。ぶつっと音がして、確かに痛い。

27日の月曜、H動物病院が終わり間際に、切れたベトメディンをもらいに行き、先生に相談した。

先生は、とにかく食べなすぎるのがおかしい、ちゃびは腎不全に関しては食欲廃絶するような数値ではないと言う。先生の実家の猫は23歳でもよく食べていて、たまに眼が落ち窪んた時(脱水症状)の時に輸液しているくらいだと言う。

ちゃびには一日おきに輸液して、心臓の薬ベトメディンも(1/2を朝晩の処方に対して1/4を夜一回になってしまっているが)飲ませている。

先生は、肺水腫があっても、もう吸収されているはずだし、吐き気の原因は他にあると思う。脳炎か脳腫瘍かもしれない、それを調べるには、東大病院に行くか、西荻の動物センターに行くか・・・脳はMRIを撮るしかなくて全身麻酔になる、動物センターなら何回か通いになり、東大なら一回ですむが、東大の医学生皆が見ている中で検査すると言う。

全身麻酔について帰宅してから調べたが、それ自体が老猫には危険だし、ちゃびのストレスを想像しただけでぞっとしてしまう。

脳炎かも、とあたりをつけてステロイドを10日くらい投与するか、と言われて、それもやはり怖かった。腎不全にステロイド・・・やっていいのか決心がつかない。

いろいろ検索して、たくさんの症例を読み、ものすごく悩んだが、なんとかだましだまし、いろんな薬を使って、このまま(少しでも食べさせることに重点をおいて)やっていくしかないのじゃないかと思う。

それから今使っている薬の製薬会社何社かに電話して、ずっと常用、他の薬と併用していいのかを訊いた。(ドエテスジャパン、親切。第一三共、感じ悪かった。ベーリンガー・インゲルハイム、親切。)

ベトメディンはカルシウムイオンチャネル拮抗剤ではなく、だからセレニアとの併用はだいじょうぶだそうだ。また、ベトメディン自体も、カルシウムイオンチャネル拮抗剤と一緒に飲むと効果が弱まる可能性があるとのこと。

第一三共のガスターは、年配の男性が出て、人間の薬だから動物病院の先生に聞いてください、と感じ悪い言い方をされた。たしか昔、ガスターで白血病になった患者が数名いて、そのニュースから、私自身は胃酸過多だがH2ブロッカー系の胃薬は避けていたのだ。動物病院の先生は飲ませたほうがいいと言っているが、毎日はやめようかと思っている。

・・・・

私はすべてのことがちゃびに集中し、歩いていてもちゃびの元気でかわいかった記憶に胸ふさがれて涙がこぼれる。

ちゃびが以前喜んで食べていたエディブルフラワーをスーパーで見かけても、ついこのあいだまであんなに元気だったのに、と涙が出てきてしまう。

その状態で、「表現」とはなにかをずっと考えている。

がんで自分が死ぬかもしれないと思った時、何を描くのか、何を書くのか、何を発表すべきなのか、すごく考えた。

それでもまだ、見るほうはなんとなくゆるく幅を持って見ていたのだが。

今、ちゃびが死ぬかもしれない時、今現在の話題のアートとか、本当に苦痛でしかない。ただただうるさく、不快に感じる。反時代的なものしか許容できない。

私の描くもの、書くものは(今までと変わらず)生命に関するもの、人間中心ではないものしか考えられない。

そして何かの「象徴」「比喩」「イコン」「物語」ではなく、何かわからないもの、人間的な言語では語れないもの、そのものにしか関心が持てない。

このことについては、あらためて書こうと思う。

・・・

陽射しが眩しい真昼間。ちゃびは窓の桟のところで日向ぼっこをしたあと、暑くなって薄暗い台所の床で寝そべって身体をさました。そのあとドーナツ座布団で寝ている。私が触れると大きくゴロゴロ。

先週の月曜(10月21日)、セルシンに反応せず、もうだめかと思ったら火曜の朝4時半から食べだした。その日は一日中、断続的に食べてくれた。

水曜は夜まで食べず、セレニア1/2で吐き気を止めたら、夜遅くから勢いよく食べだした。

木曜、元気に私を起こしておねだりはするが、少ししか食べない。

そして金曜、三日ぶりに雨が止んだので、私は新宿区役所と東新宿保健センターに、母の難病医療券の申請に出かけた。その夜から、またちゃびは食べなくなった。(うんこはしている)

土曜、朝元気に私を起こしておねだり。だが、あげても食べない。この日はほんの少しジュレとウエットをなめただけ。

日曜、朝7時、少し唾液を吐いた。セレニアを1/4。午後2時セレニア1/4。私の膝の上に乗ってきてゴロゴロずっと甘える。午後4時セルシン2、3mmのかけら。メラーゼ1/4。夜9時に輸液140ml(輸液は一日おきに130~170mlほどやっている)、ベトメディン(毎日やっている)セレニア1/4をやったら、9時40分頃、少し元気になっておしゃべりを始めたが、ジュレを少しなめただけ。

今思えば、最初からセレニア16mgの1/2をやっていればよかったのだが。

これでもう三日、ほとんど何も食べていないという絶望感、ちゃびが死んでしまうという恐怖で、この夜は一睡もできなかった。

そのまま月曜(きのう)の朝4時すぎになって、どうか薬を吐かないで、と願いながらセレニア1/2を飲ませたら、震えている。具合悪そう。口をペロペロする吐き気の仕草が収まるまで30分以上。落ち着いたのを見て6時に、祈るような思いで、久しぶりにぺリアクチン1/8(17日に譫妄のような興奮が出たのでぺリアクチンをやめていたのだが、このところセルシンに頼っていたので変えてみた)。

すると朝6:55、食べに行った。私は食べているのを見たらどっと疲れが出て眠ってしまった。

11時に私が起きたら、シーバとジュレ、ひと皿完食。ねこ元気ウエットも半袋ほど。午後4時、私が外から帰宅したら新たにあげたシーバとジュレ食べてあった。私のひざの上で甘えたあと、さらに肩に飛び乗って甘える。

その日の夕方、H動物病院の終わり間際に、ベトメディンをもらいに行き、先生に相談した。

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2014年10月11日 (土)

沢渡朔「少女アリス」

10月10日

沢渡朔さんからお知らせのはがきをいただいていた「少女アリス」展(ギャラリーFm)のオープニングレセプションへ。だいぶ元気にはなったが、ちゃびが心配なのでHちゃんに見ていてもらって出かけた。

沢渡朔さんは私が多感な中学生、高校生の頃、初めて本当に夢中になった写真家で、ぼろぼろになるまで写真集『少女アリス』のページをめくった。

そしてサマンサという少女の、夢のような金髪のほつれを、少ししかめっつらの顔を、幾度鉛筆で描いたことだろう。3Hの鉛筆で、おそるおそるたどっても、とうてい描けやしなかった。画像は私の持っている『少女アリス』。

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写真=沢渡朔

少女に贈る詩=瀧口修造、谷川俊太郎

思い出のアリス アリスの思い出 /少女たちへの手紙/掌編/オドロキ・モモノキ式写真機=ルイス・キャロル/高橋康也訳 

装丁・題字・レイアウト=堀内誠一 

帯文=種村季弘 

という信じられないほど豪華な顔ぶれの本です。また少女時代の私は沢渡さんの「撮影日録」にも強烈に惹きつけられた。

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沢渡さんの『少女アリス』『海から来たアリス』『ナディア』、この3冊は私が少女の時に出会って、どんなに年をとっても、幾度見返しても色あせない写真集です。「詩とメルヘン」に掲載された「遠くにいるアリス」(文=別役実/写真=沢渡朔)も胸が痛むほどに忘れ得ぬ作品だ。

恵比寿西口の坂を上がる途中、植物が浸食したとてもおしゃれな建物の中にギャラリーがあった。
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昔の原宿の同潤会アパートなんかを思い出す。(あそこは建て替えて、どうしてあんなにひどいものになってしまったんだろう。)
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ギャラリーの建物の入り口。

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ギャラリー内は撮影禁止なので「少女アリス」展の看板の前で撮るしかなかった。

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今回の展示は、『少女アリス』が刊行されてから40年という年月を経て、当時、ハッセルブラッド(スウェーデン製の六×六判カメラ)で撮影された300本のポジフィルムから、新たにアザーカットのみで構成しなおした写真集刊行(河出書房新社)にあわせて開かれたものだそうだ。

ちなみに、本はまだつくっている最中だそうで、会場で予約してきた。

40年前のポジフィルムは、その年月とともに変化し、不思議な青色の蛍のような光をまとっていた。少女の頃の私が夢中になった魅惑はさらに増し、この時代だからこそ強烈に惹きつけてくるようだ。

狭い会場の中に溢れる人々。私もお顔だけは知っている有名写真家、女優、俳優、業界の人たちがひしめきあっていて、端っこの壁ぎわで沢渡さんにご挨拶する機会を待っていた。

沢渡さんは皆に囲まれて大忙しなのに、人波をぬって私のほうに寄ってきて、そっと肩に手をかけてくれた!

一緒に行った友人も驚いていたが、沢渡さんほど偉ぶらない気どらない天才を見たことがない。ファッション業界や芸能界にも近いところで長年仕事をされているのに、そういうぎらぎらした感じがなくて、感覚的で繊細で正直で、本当に余計なものをまっとていない、いつまでも青年のままの、とにかくかっこいい人だ。

沢渡朔さんと「少女アリス」展会場の入り口で(カメラが苦手な友人が撮った)。さりげなく肩に腕をやってくれる沢渡さんに感激。

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沢渡さんとの出会いは、私の初個展の時、まさか来てくれるとは思わずにご案内を出したら見に来てくださって、私は少女の時からの憧れの人と出会えて身体が震えた。

それから私の撮影をしてくださると言われ、「事務所に電話して。」と言ってくださったのだが、私はそんな恐ろしいことが信じられず、電話などとてもすることができずに5、6年が過ぎた。

私の何回目かの個展に来てくださった時、沢渡さんが「撮影のこと、決めないとどんどん時が過ぎちゃうからさあ。きょう決めちゃおう。」と言われて中野のデルソル(イタリアン)で予定を決めたのを覚えている。私の絵の横に展示できるような写真にしたい、撮影は私の好きな場所で、と言ってくださった。

撮影の日は3月の初めで、小雨模様の骨が痛むような寒い日だった。車で、私の大好きな廃墟に行った。撮られている時、お互いの心の中にだけあって説明などできない世界を、沢渡さんがどんどん顫動させていくように感じた。私は何も意識しないでよかった。あんなにすごい新鮮な体験は二度とないだろう。めまいがするような記憶だ。

古い壁、錆、雫、枯れ蔓、ガラス、ほこり、濡れた土、新芽、襤褸、沢渡さんには何も言わなくても通じるのだ。

11月にも銀座で展示をすると伺った。その時、またお会いするのを楽しみに。

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2014年9月17日 (水)

青紫のベロア / 戸山 諏訪町 / 文学

9月15日

友人Bと戸山を散歩する。

新宿駅で午後3時頃の丸ノ内線に乗って、東新宿で降り、副都心線に乗り換えて東新宿へ。降りてしばらくしてから、ものすごく思い出のあるお気に入りのジャケットを電車に忘れたことに気づいてうろたえてしまった。

東新宿駅の忘れ物係りに届け、捜してもらったが見つからなかった。ものすごくショック。

私にとっては、亡くなってしまったあまりに大切な人たち、若林奮先生、種村季弘先生、毛利武彦先生と会うとき、そして日隅一雄さんのパーティーの時など、特別の時に着ていた一張羅といえるジャケットだったので、すごくショック。高円寺の庶民的な店で2900円で買ったものだが、個人的には濃密な記憶が詰まっている。

とりあえず気持ちを休めようと、なにか似たようなものはないか検索してみたが、青紫のベロアのジャケットはオークションにもどこにもなかった。(似たような古着でもどこかで売っていたら教えてください!)

昔、大切な友人の授賞式にて、私が着ていた青紫のベロアジャケットの写真です

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気を取り直して戸山の片隅の私の大好きな小さな花園に行く。

前は春と初夏に来て、ニゲラ、デルフィニウム、アイリス、ハナビシソウ、薔薇などが咲き乱れていた。今は枯れた向日葵に百日草、彼岸花、鶏頭、それに小さな葡萄など、秋の気配に満ちていた。

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彼岸花は赤いのと、白いのと、薄黄色の花が咲いていた。

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これは白でなく薄黄色の彼岸花。

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百日草はいろんな色の花がいっぱい。
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この鶏頭は赤ではなく、おしゃれなワイン色。
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薄荷の繊細な薄紫の花。

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いろんな花と雑草の陰にひっそりとかわいい葡萄が実っていた!色のグラデーションが微妙でとてもきれい。

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紅蜀葵(こうしょっき)、またの名は紅葉葵(もみじあおい)。ヨモギやヤブカラシなどの雑草が刈り取られすぎていないところがとても素敵だと思う。

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箱根山の頂上近くにある教会と、数百年も生きていると見える大欅を見、かつて731部隊の人体実験の証拠となる人骨が出たという戸山公園を抜け、国立感染症研究センターの脇の道を下り、早稲田のほうへ。

早稲田通りを高田馬場方面へ歩く。ここはかつて素敵な昭和の喫茶店「らんぶる」が会った場所。

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「らんぶる」が無くなってとても淋しいが、夏草が彩っていてくれることに少し慰められる。
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「らんぶる」のすぐ横の私の大好きだった古い階段。
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早稲田通りから少し左にはいった諏訪町あたり。古い階段を上ると真っ直ぐな細い道がある。ついこの前来た時は、この写真左側には小さな古いアパートがあったのに壊されていた。

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この細い道を行くと薄ピンクの塀に沿って野生の草花が咲いている。塀の罅割れの穴からドクダミや薄荷が伸びて花をつけているのは、フラワーアレンジメントやへたな生け花より美しいと思う。


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抽象画のような錆びた板。

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これも、素晴らしいタッチ、見事なマチエールの絵に見えるが、地下鉄のホームの柱。人間が意図的に作ったのではないもののほうに絵画的な感動を覚える。

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Bに「私は文学がまったくわからないのかもしれない。現代的だと言われ評価されている作品を読んでも、面白いどころかものすごいストレスを感じることが多いから。私にはみんなが評価するものを理解する能力がない。」と言ったら、

「理解できないのは悪いこととは言えない。」

「今は、表現のすべてがやられつくされた、新しい表現はもうないと言われる時代で、何かをやろうとするとアイロニカルにならざるを得ない。アイロニカルとは些末なところに価値を見いだす「身振り」であり、現実、実質と向き合うより文化的対象と向き合っているから。しかしアイロニーはアイロニー以上の価値を生まない。」と言われた。

アイロニーとは、対象と距離がないとできないことで、私のように関わっている存在すべてが同じ強度になってしまう人間にはできない、と。

たとえばある詩人が旅をしている文章を読んでも、どうしても私には彼がなにかを見たり、発見したりしていると思えない、と言ったら「彼は、歩くことによっての暴力的な驚きではなく、一定の価値を獲得している文化的対象(たとえば芭蕉など)を読み直し、再解釈することをしているから。ひかれた文脈のレールの中でものを言っている。」と言った。

私が見ているものや対象との関わり合いについて、過去に、ある文学者が知的言語によって攻撃や抑圧をしてきたことについて、「彼らは征服欲、支配欲で商売をしている。自分がわからないものを否定して勝ったような気になる。それをやらないと彼らは商売にならないんだ。」と。

Bは私なんかと違って、20代の時から著名な文学者たちと関わりがあり、刺激しあう仲間がいた。そのことを私はずっとうらやましく思っていた。しかしBに「あなたと知り合ってから「本物」の人たちと会えた。あんなに近い距離で話せるなんて有り得ないことだ。それはあなたが常にそういう志向性を持っているからだと思う。」と言われて驚いた。

9月14日

母のいる施設の敬老の日イベント。

バイキングが11時30分から、というので行ってみたら、高い帽子をかぶっったホテルのシェフみたいな人が3人も来ていて、中央のテーブルに豪華なオードブルなどが並べられていたのでびっくり。

母に料理をとってあげないといけないと思って来たのだが、母には職員さんが柔らかくしたものを持ってきてくれた。バイキングと言っても、立ち上がって自由にとる人はいなくて、それぞれに職員さんが彩りよく盛り合わせて持ってきてくれるので、きょうはたくさんの人手がいるようだ。

テリーヌ2種、ブロッコリーとアスパラのゼリー寄せ、グラタン、ハンバーグ、松茸ご飯(おかゆ)、お吸い物、ミニケーキ、など。

食堂ではシェフの人たちが、フライパンから炎を上げてステーキを焼いて見せるパフォーマンスで拍手が上がっていたが、私は肉を焼くにおいが苦手で、本当に吐きそうになってしまうので、廊下の家族用のテーブルで母に食事介助した。

途中、母は傾眠になってしまい、松茸ご飯だけ残りそうになったが、せっかくのハレの日のごちそうなんだからと、お吸い物でさらにゆるく溶いて、ゆっくり食べさせた。時間はかかったが完食。食べ終わってから眼が覚めたようだ。

近くに残る古い店の建物。「マルマス味噌」の看板が蔦に埋もれている。

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きょうは陽射しの強い日だった。

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