芸術

2018年10月14日 (日)

ちゅびとチョビの記録 / イタリアの旅の記録8(9月24日)

10月13日(土)

ちゅびとチョビの記録。

きょうのチョビ。

600gを超えたので朝、病院で血液検査と一回目のワクチン完了。

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ワクチンをしてから数時間ぐったりしてミルクを飲まなくなったが徐々に回復。

3種のウイルスを体内に入れるので、ちっちゃくて弱い子は特にアレルギー反応が出ることが多いらしい。

10月14日(金)

きょうのちゅび。

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ゴロゴロゴロ・・・

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・・・・・

イタリアのチナミさんが送ってくださったアンジェロ・トリッカ(1817-1884)によるピエロ・デッラ・フランチェスカの肖像彫刻の画像。

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イタリアの旅の記録8

9月24日(月)

きょうは、私が十代の頃から憧れていて、もう実物を見る機会はないだろうと諦めていたピエロ・デッラ・フランチェスカを見に、アレッツォに連れて行ってくださるという恐ろしい日。

私はアレッツォに着く前から緊張していた。

アレッツォに向かう途中の車からの風景。チーロさんに遠いところまで運転していただき、たいへん申し訳ない。

名残りのヒマワリ畑と秋のだんだら雲。
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アレッツォに着き(バルでコーヒーを飲んでトイレを借り、いよいよ聖フランチェスコ教会へ。

坂道を上がり、聖フランチェスコ教会の裏側を見ただけで背中と腕のあたりがぞわぞわと粟だった。

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聖フランチェスコ教会の中。入場8ユーロ。ピエロ・デッラ・フランチェスカの部屋だけは制限時間30分となる。そのほかは何時間いてもよい。フラッシュ禁止で撮影可。

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中央祭壇には「十字架のキリストとその足に接吻する聖フランチェスコ」(1250-60年 マエストロ・ディ・フランチェスコ)。
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その奥の後陣にピエロ・デッラ・フランチェスカの「聖十字架伝説」(1447-1466年)。
天井。
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「聖木の礼拝・ソロモン王と芝の女王の会見」

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「十字架の発見と検証」。この幾何学的図形のある絵は、特に1400年代の絵とは思えない。宗教的な目的を超えて、謎めいて魅力的だ。
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「ヘラクリウス帝とホスロー王の戦い・ホスロー王の斬首刑」。
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とても不思議なことに気がついた。聖十字架の物語の絵の下に大理石のような模様がパネルのように描かれているのだ。
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その手描きの大理石模様の中に鳥や魚がいたのだ。これはすごく面白いと思った。
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ピエロ・デッラ・フランチェスカは絵画の中に斬新な面白さをこれでもか、というように詰め込んでいた。

遠近法や幾何学的構図を取り入れて、当時としては誰をも驚愕させるほど新鮮だったのだろう。

今現在から見ると、描きすぎていないことの気持ちよさ、単純化、明確化された形体、輪郭のリズムと色分けなど、絵画というもの本来の魅力、そのものに思えるのだ。

戦慄させる謎めいた表情。寓意的、天上的なるものと人間的なるもののせめぎ合い。キリスト教の歴史をよく知らない者から見て、ぞくっとするほど面白い。

くすんで落ち着いた色彩と澄明で清冽な色彩の響き合い。色の奥に幾重にも異なる色を含むこと。

怜悧な涼やかさと包み込むような温かさ、明晰さと素朴さを併せ持つ得も言われぬ魅力。

詩情とは何か、ということを問いかけられる。

ファサードになんの装飾もない質素な聖フランチェスコ教会の正面。

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ピエロ・デッラ・フランチェスカの「マグダラのマリア」が見られるドゥオモは午後3時まで休館していたので、それまでアレッツォの街を散歩。

脳天が焼かれるほど陽射しが強かったが、広場で急に黒雲からぽつぽつ雨。

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3時にドゥオモへ。

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一瞬、どこにピエロの絵があるかわからなかったので、教会内にあるお土産物屋のおばあさんに尋ねると「ここから2番目の柱の陰よ。こんな目立たないところにあるなんて嘆かわしいことよ。」(チナミさん訳)。

ひっそりとあった「マグダラのマリア」。

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チナミさんによると、この絵にはいろんな逸話があるそうだ。

「ピエロは、顧客(アレッツォの一番裕福な商人でありながら支払いを滞納していた)ルイジ・ジョバンニ・バッチへの腹いせから、彼の娘ボナンナを内密に、罪深きマグダラのマリアのモデルにした。

ところが想定外にピエロの弟、実直なマルコ(妻子ある名高い裁判官)がこの美しきボナンナに気も狂わんばかりになってしまった。(ピエロの介入により、幸いにも事が深刻化する前に落着。)

その約80年後、ジョルジョ・ヴァザーリが、ボナンナのひ孫、ニッコローザ・バッチとアレッツォのドゥオモで挙式、この絵にまつわる話を知る。

自分の親戚となった家の祖先に対するピエロの報復に、ヴァザーリは仕返しをするため、自分の著書のピエロの部分に根本的に修正を加え、多くの曖昧さを挿入し、ピエロの評価にダメージを与えた。」というようなことだそうです。

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単純化されてより清冽に見える伏目の表情、髪の毛の描き方など、さすがだった。グレーの中の白に近い光輪。影の部分の色に注意して見ていた。

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次に向かったのはピエロ・デッラ・フランチェスカが生まれ、晩年を過ごした町、サンセポルクロ。

サンセポルクロの町の手前にはタバコ畑が多かった。

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サンセポルクロ到着。ピエロ・デッラ・フランチェスカの家へ。ここは現在ピエロの研究所になっているらしい。陽気な学芸員さん。

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「手すりのこの部分は上半分は修復したけど、下半分は元来のものだから、数百年前にピエロが触っていたままよ。」(チナミさん訳)と学芸員さんに言われて、手すりに触る私。

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地下室へ。
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地下。井戸。
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下水と馬屋のようなにおいが生々しく残っている。
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地下ではピエロのスライド上映中。

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家の壁の装飾は非常にあっさり、細くなよなよと描かれていた。
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「日本から来たということをサイン帳に残していってね。漢字の名前、大好きだから。」(チナミさん訳)と学芸員さんはおっしゃった。

次に向かうのは市立美術館(元市庁舎の建物)。

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ピエロ・デッラ・フランチェスカのミゼリコルディアの多翼祭壇画「慈悲の聖母」。
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この顔。

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サンセポルクロの町を救った(イギリス軍の砲撃を思いとどまらせた)と言われるピエロ・デッラ・フランチェスカの「キリストの復活」。
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残念ながら修復前の画像(お借りしてきました)と見比べると、やはり修復前のほうが複雑な古色による重厚さ、深遠さ、微細なニュアンスがすごく美しい。修復後はすっきり軽くなりすぎている。

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ピエロ・デッラ・フランチェスカ、「聖ルドヴィーコ」。
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チナミさんが左手の甲にある傷のような印はなにか、と学芸員さんに尋ねた。単なるひび割れ、という応えだったが、とてもそうは見えない。

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ピエロ・デッラ・フランチェスカ、「聖ジュリアーノ」。背景の黒緑の中にある夥しい薄緑の線が気になった。時を経て出て来た傷なのだろうか。

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次に向かったのはピエロ・デッラ・フランチェスカの「出産の聖母」があるモンテルキ。

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モンテルキの「Madonna del Parto(出産の聖母」)美術館。
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左に見えるのが美術館。向かいの建物に標識の看板がくっついている。一番下の茶色い札に「Madonna del Parto(マドンナ・デル・パルト 出産の聖母)」とある。
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美術館の真向かいにあった、(看板が付いている)とても雰囲気のある古い建物は、チナミさんによると、

ピエロ・デッラ・フランチェスカの「Madonna del Parto(マドンナ・デル・パルト 出産の聖母)」がもともとあった場所から移される際に、所蔵場所の選択肢のひとつになった「聖ベネディクト教会」だそうだ。

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「Madonna del Parto(マドンナ・デル・パルト 出産の聖母)」は撮影禁止だった。

この1点だけに集中して対峙することで、より作品を深く強烈に味わうことができる。

ピエロの中でも特に美しい、素朴にして高貴、涼やかでいて温かい顔。

幾何学的に正三角形にも、正五角形にも、正六角形にも整えられている構図。色の左右交互対象。

非常に余計なものが無く、すっきりとしていて訴えるものが強烈で、戦慄を覚える作品。

車から振り返るモンテルキの町。
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名残惜しいモンテルキ。
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9月24日のちゅび。

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2018年10月 6日 (土)

ちゅびとチョビの記録 / イタリアの旅の記録 1(9月17日)

10月6日(土)

友人と共同で預かっている野良猫の赤ちゃんチョビ(仮名)に会いに行く。かわいい盛り。

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真菌の感染が酷く(ちゅびの時よりも重症)、しっぽがずる剥け、手足と首の毛も抜けて禿げている。私がイタリアへ旅立った後、一時は下痢やくしゃみで(パルボかカリシか原因不明の)重篤かと懸念されたそうだ。

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お気に入りのぬいぐるみとチョビ。
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ケージ上にのぼり、前にこけて落ちそうになり、歯でネットを噛んで止めるチョビ。
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まだ離乳できず、一回目の3種混合ワクチンを打つこともできない。体重が軽すぎ、真菌用の抗生物質を飲ませることもできない。まだまだいろいろと手がかかり、心配はつきない。

このチョビを私が預かることになるかも。

・・・

(当たり前だが)ちゅびが大きくなっていた!私が帰宅してすぐは私の匂いを嗅ぎまくり、肌着をなめまくり。

夜になってやっとリラックスしたようでゴロゴロ言いまくり。ごはんを食べたあと、タタッと走って来て、どん!と私の膝に乗っかって甘えまくり。

10月6日のちゅび。

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10月5日(金)

ちゅび、15:20のうんこに虫が出る。

数カ月前に、一度だけ、うんこに半透明の薄黄色の細い線状のものが出た。動いていなく、切れた輪ゴムにそっくりだったので、輪ゴムを噛んで呑み込んだのだと思っていた。

今回もそれとそっくり同じ、だがとてもゆっくりだが動いていた(生命反応あり)。

・・・・・・

イタリアの旅(9月17日~10月3日)の記録1。

9月17日(月)

新宿発9:39の成田エクスプレスに乗るため、緊張して家を早く(8:40に)出すぎた。30分以上ホームで待つ。

成田発13:15アリタリア・イタリア航空ローマ行き。

機内食は、私は肉食がまったくできないため、シーフードを注文していた。朝6時に起きて以来、ミルクティーしか口にしていなかったので空腹だった。食事はとてもおいしかった。

特別食シーフード。白身魚のホワイトソース焼き。ふんわり柔らかいポテト添え。

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間食におにぎりかパニーニも出た。私はおにぎり(昆布入り)を選択。

夜が明けて朝の食事。これはすっきりさっぱりして私好みで、とてもおいしかった。

エビ、白身魚の蒸したの。小エビ、サーモンのマヨネーズあえ。グレープフルーツ、りんご、パン。

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夜7時にローマ着。不安でそわそそわしながら出口(ウシータ)へ。出口で待っている数十人の人々の中から千浪さんが飛び出して来て肩を抱いてくださった。

千浪さんとはこの時が初対面。

昨年、イタリアからSNSで連絡して来てくださり、そのあと毎日のようにメールを交わし、様々のこと、画家としての悩みや私生活の悩みも打ち明けて来たが、お会いしたのは初めてだ。

千浪さんのだんなさんチーロさんが高速を運転してくださり、長距離を車にのせていただいている間も申し訳なくて、緊張で胸がざわざわ。

お宅に着いたのは夜10時過ぎだったろうか。

想像などはるかに及ばない、中世の面影を残すの石でできた建物(1646年築の修道院の一部)のお宅、そして私が泊めていただくお部屋に驚愕。

とにかく昔のイタリアの田舎にタイムスリップしたような感覚だった。

私が2週間を過ごさせていただいたお部屋の一部。

壁は千浪さんがご自身でペイントされたそう。柔らかなアンティークの灯り。

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この部屋で私は、生き馬の目を抜くような東京都心の生活、そして羞恥も躊躇もない、あからさまな謀略と嫉妬に満ちたアートの世界とは180度異なる、イタリア中部ウンブリアとトスカーナの境界の丘陵の、豊かでおおらかな生活に触れさせていただいた。

17日間、普段の東京の生活では想像もできないものを見、たくさんの信じられないような体験をした。

そういう中で、私がおおらかに解放されていたかというと、やはりそうではなくて・・・、出会うものすべてに対して、どこに留意して見るべきか、その瞬間に何をつかむのか、それをどのように絵に生かすか、どのように記録するかを考えて、瞬間ごとに興奮と同時にかなり緊張していた。

日常と違う一期一会の体験を無為にしたくない、という思いで強い焦燥にかられてしまう。

これは宿痾のようなもの、というか私の性質だと思う。

4日に帰国してからも一日は興奮と緊張が解けずに胸がざわざわしていた。

それから変則的に睡眠をとり、普段の私のように日に何度もアールグレイのミルクティーを飲み、今、やっと少し身体が落ち着いてきた。

・・・

9月17日(友人宅にて友人撮影)のちゅび。

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2018年8月13日 (月)

ホームページが消えていた / 次の本、 アートへの拒絶反応

8月13日

午後3時前から激しい雷雨。

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8月9日に友人が教えてくれて初めて、自分のホームページが自分の名前で検索してもウェブ上に出てこないことに気づき、愕然。

過去のjimdoからのメールを検索して、ホームページへのアクセス方法が変わったことを知る。

昨年末から編集画面にお知らせが出ていたらしいが、ログインしていないのでまったく気づかず。

ずっとホームページを更新も確認もしていなかった自分のうかつさが嫌になった。

あらためてアカウントをつくらないといけないらしく、メールアドレスを確定するとドイツ語のページへとんだ。

(jimdoはハンブルクの会社だということに気づく。Horst Janssenの家を訪ねた懐かしいハンブルクだ。あの丘の上の小さな家・・・向こう岸がかすんで見えない灰色のエルベ川の景色が浮かぶ。)

とりあえずアカウントをつくり自分のホームページと接続した。が、名前で検索してもいっこうに出てこない。

グーグルコンソールに登録。プロパティの確認、HTMLタグがなんたら・・・でけっこうな手間がかかった。

ホームページがないと、初めて会う人に自分の絵を見てもらうことができない。

自分のやってきたことの証明とまでは言わないが、名刺がわりのものが消えてしまったようで、たいへん気落ちした。

言葉で「絵をかいています」と言っても、なにも伝わらない。絵をかいていることは重要でははなく、どんな絵をかいているかが重要だから。

私は、自分の仕事、絵を見てもらえなくて、ブログだけを見られることに、惨めで恥に耐えない感覚がある。

12日になって、やっと検索に出てくるようになった。

(ブログの横のバーにホームページのリンクが貼ってあります。クリックして見ていただけたら幸いです。)

・・

6月にちゅび(ぴょんすけ)がうちに来てから、次の本をつくる作業がずっとストップしていた。

(ゲラとカンプ。作業中。)
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ちゅびに夢中で、二度と来ない赤ちゃん時代を存分に胸に焼き付けたい、という思いが激しい。そのことに関してはなにも迷うことがない、素直な欲望だ。

仕事のほうがおろそかになるのは、本をつくることが自分にとって有益なことなのかどうか、気持ちが揺れてしまうからだ。

常に、本をつくってもなにになるのだろう、誰が手にとってくれるのだろう、理解してくれる人なんているのだろうか?という思いにふさがれてしまう。

ここ20年、私はアートと呼ばれるものやそのシーンに対する拒絶反応が、いよいよひどくなってしまった。

絵が大好きで、2歳から夢中で絵を描き続けてきたのに。

クソつまらなくて吐き気がするどころではなく、アートは、動植物や弱く小さいもの、はかないものと直接深く交わる私の力をむしろ抑圧してくる。私の身体は耐えがたいストレスを感じる。

私の生きる希望や活力を潰しに来るアートに、これ以上ないほどの憎悪を感じる。

アートのほうでも、私の仕事を認めることはないだろうが。

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なぜアートが気持ち悪いか。それはとどまるところを知らない自己顕示欲、自己愛そのものだからだ。

人間だけが持つ嫌らしさの権化だ。

他人の不幸を餌にして成り上がろうとする人たち。

「相手のために」「思いを込めて」という欺瞞。

自己利益のためなのに、「無償性」を騙る厚かましさ。

対峙するべき現実があるにもかかわらず、アートにかまけている、鈍くて傲岸な人たち。

アーティストもアート好きのスノッブもそうだ。

そこに金儲けが絡まり、計算高い人たちが群がり、アートシーンができあがる。

(いまだに「アートのためのアート」の信仰にしがみついている人たちについては、ここでも触れないでおく。)

たとえば、どこかの旅先で素敵な懐かしい景色を見つけても、そこに趣味の悪いアートが鎮座ましましていたら、パチンコ屋やキャバクラの看板よりもずっとずっと私は不快だ。

人工物のない荒涼とした光景、土と植物と動物だけの景色が私の憧れの心象だ。

私は、そこに在るものを鋭く見ることができる人、柔らかな感性を持つ人にしか憧れることはない。

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福島のヤノベケンジの件、アートを飾れば復興にプラスになる、みんなが喜ぶ、という馬鹿げた思い込みが気持ち悪い。

そこにアートはいらない。なにかを置きたいなら大きな線量計を置けばいい。

自己都合のこじつけ解釈ができるオブジェなどむしろ邪魔だ。一つの局面でしかないにしろ、現実をそのまま多くの人に伝えることに力を注ぐべきだ。

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2018年3月 6日 (火)

平昌オリンピック ザキトワ メドベージェワ ほか

3月4日

だいぶ前に終わった平昌オリンピックについて個人的な感想とメモ。

スピードスケート女子が輝いていた。高木姉妹の、最大のライバルであり、かつ以心伝心の最高に信頼できるチームメイトでもある関係性が素晴らしかった。

小平奈緒の落ち着き。結城匡啓コーチが13年かけてカーボン素材のスケート靴を開発し続けてきたという話に感銘を受けた。

平野歩夢。彼には非常にエレガンスを感じた。

飛んでいる時の「表現」はもちろんだが、内向的なしゃべりかた。普段から24時間、自分のやるべきことについてよく考えている人だと思った。

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フィギュア。

アダム・リッポンがやっとオリンピックに出られて、彼の喜ぶ顔を見ることができて嬉しかった。彼は生き方、発言、すべて含めて本物の表現力を持った人。

SPは明るく遊び心も見せて色気たっぷりに、FPは生命のひたむきさをリアル、かつ幻想的に。FPの首をくっと曲げる鳥の仕草。野生の鳥の本能と洗練されたダンスの両方。

長洲未来は団体戦でトリプルアクセル成功。

彼女も表現がとても洗練された。名前を呼びあげられて手をふり、おじぎをする時の仕草が完璧に美しく演じられているのに感心した。

ネイサン・チェン。SPを失敗した原因は本人にしかわからないが、自国の利権の思惑のプレッシャーに潰されたのだとしたら皮肉だ。FPでの盛り上がりは素晴らしかった。

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田中刑事の表現が全日本の時よりはるかによくなっていると感じた。

たとえば肘の使い方だけでも、すごく柔らかく豊かになっていた。高橋大輔にみっちり教わったのだろうか。

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ザキトワのエキシ。「火のプリステス(女神官)」。

これは面白い。このエキシを自分で考えたのなら、彼女はきっとすごい才能があるに違いない。

非常にプリミティブな、生命の根源的なもの。アニミズム。資本主義にも、近代以前の私有制にもにからめとられない、まだいきいきとなまめかしかった初原の身体。

オリンピックという世紀の経済イベント、この歴史の終わりに資本主義の欲望が化け物のように膨れ上がった祭典で、金メダルを(図らずも)勝ち獲ったザキトワが、経済イベントとは対極の、はるか歴史のあけぼのの、人間とも動物ともつかない生命のおののきを表現するとは。

その動物は火におののき、火をあがめ、火と交感していた。

彼女は決してセクシーな女性を演じたかったわけではない。

彼女は「火のプリステス(女神官)というものを考えています。これ以上は言えません。」と答えた。

彼女自身、巨大な組織や、大人の思惑に巻き込まれていくなかで、なにものにも縛り付けられない生身の身体や生命、その発露のようなものを大切にしたいと願い、その自分の核にあるものを安い言葉でマスコミに汚されたくなかったのではないか。

ザキトワ自身が、なぜこのようなものを演じているのか明確に意識できていないのかもしれない。彼女の即物的な直観から生まれているようで興味深い。

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メドベージェワとザキトワの頂上決戦。

私の感覚ではショートはザキトワ、フリーはメドベージェワのほうがよかった。

メドベージェワはマイムの芝居が得意すぎて、それがかちすぎてしまうために、彼女自身のやむにやまれぬもの、内発的なものが見えにくい。

それによって、プログラム全体が芝居がかって見え、身体的、感情的なリアリティを共有しにくくなるきらいがある。

ザキトワは驚異の身体能力を無造作に見せる。ことさらに感情表現をしているわけではないが、雑味も含めてはつらつとした身体運動そのものの魅力がある。

フリーでは、初めてメドベージェワのなかの何かが破れてあふれ出すようなものが見えた。

アンナカレーニナの不安に追いつめられていく神経、そして破滅する人生に、メドベージェワ自身が否応なく呼応し、そこからどんなに逃れたくても乗り移らざるをえなくて苦悶してしているようだった。

極上の夢と、熱狂と、破滅にむかう恐怖、そして自分が鉄道に飛び込む幻を見てメドベージェワは泣き出したのかのように見えた。

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2017年12月28日 (木)

次の本の制作 カメラマンと打ち合わせ

12月28日

次に出す本に新たに加える絵画撮影のため、カメラマンさんにうちに絵を取りに来ていただいた。

既に以前、ほかのカメラマンに撮影してもらっている画像データが10年以上前の出版にしか対応できていないやりかた(保存形式など)であるということがわかった。

撮影済みデータと、今回新たに撮影してもらうデータを調整してもらうお願いをした。

出版、印刷のやりかた、それに対応するカメラマンのやりかたも、どんどん新しく変化しているらしい。

I井さんを信頼しておまかせする。

12月20日

昼から中野に出て造形材料と古本を買い、3時に阿佐ヶ谷でFと会う。

寒かったが、川北病院の裏の巨大な欅の古木を見、神明宮のあたりを少し歩いた。

小学校の金網のすぐ向こうに、丸い実が金色に光り、そこに薄茶色の枯れ蔓が絡みついていた。キカラスウリかと思ったら薔薇の実だった。その向こうにボール遊びをする子供が快活に踊っていた。

Fは、彼の母親と18歳で上京する時に別れ、それ以来、頻繁に交流することはなかった。亡くなってからは、自分が子どもだった頃の母親のことを鮮烈に思い出す、と言った。

私のように成人してからもずっと近くに母親がいたほうが稀なのかもしれない。ずっと近い関係であったほうが、亡くなった時に母親の記憶を思い出しにくい、と言われた。

そうかもしれない。

父が異常で、母や私に過度な負担を強いたせいで、私は少しでも母の苦しさを軽減したい、母を幸せにしたい、という思いに駆られて、必死になってきた。

必死になっていたことは覚えているのだが、その時々の具体的な母の様子が細かく思い出せない。

介護をずっとしてきたにも関わらず、母が危険な状態になった時から、私はなにか大切な母の記憶がどうしても思い出せないようなもどかしさに駆られ、苦しんでいる。

私は母が亡くなってから心身がおかしい。ちゃびが亡くなってから、さらに心身がおかしい。

母とちゃびが生きていた時には楽しく思えたことが楽しく思えない。今は、自分のために意欲を持つことが不可能に思える。

ただ生存のためにどうしたらいいのか、どうしたら生きていけるのか、それだけを真剣に考えている。

Fと知り合って、来年で20年になる。

歌人の森島章人さんからパラボリカ・ビスでの展示のお誘いがあったことを話した。

そしてステュディオ・パラボリカから復刊された雑誌『夜想』と、パラボリカ・ビスというギャラリーがどういう傾向で、どういう人たちをターゲットにしているのかを、それほど多くを知っているわけではないが、私が知っている範囲で、私なりに、Fに説明した。

FはPCもメールもやったことがない。インターネットで情報を知ることが一切ない人だ。現在の若い人たちの流行も、「アート」をめぐる現況も、ほとんどなにも知らない。

Fに対して、「ゴスロリ」の意味や、日本における「球体関節人形」の流行りなどのざっくりとした説明をした。

「それで、その展示、どうするの?やるの?」と聞かれたので、「だから、材料買って来たんでしょ。」と、あまり説明はせず、きょう買ってきた袋を見せた。なにをやるのかは、まだはっきり決めていない。

3時半、ひとまずカフェに入る。

まずFのために買っておいたメラトニンのサプリを渡した。眠剤がどんどん効かなくなってきて、かなり苦しんでいるそうだ。

私はちゃびがいなくなってから動悸や過緊張の肩凝りや頭痛にひどく苦しめられ、毎晩辛い記憶にうなされて安眠できないが、眠剤は飲んでいない。精神安定剤を飲むようになることが怖いので避けたい。

かつて私が、その並外れた芸術的才能ゆえに好きだった人が、「お金を貸して。」と言っては(返すはずもなく)、薬やたばこを買っていた。そのことが私の中で許せず、澱のように固まっているからだ。

Fは「バイラルメディア」や「Change.Org」、「Me Too」など、私がしゃべった単語をメモしていた。

今日の一番の目的、私が今作っている、次の本のカンプのようなもの(掲載順に絵を仮にならべたプリントの束)を見てもらった。

Fに最初に見てもらったおよそ3年前から、熟考の末、絵の量がはるかに増えている。それを見てどう感じるか、Fの感想を聞きたかった。

本に載せるための絵の撮影をいったんしてから、やはり自分の外に在るものに寄り添って描いた時間を取りこぼしては本をつくる意味がないと思い直し、これから新たに違うカメラマンに撮影を頼むことにした。

「すごくいいね。あなたにしか見えないもの、あなたにしかできないことだ。」とFは言った。

私は「そう言ってくれるのはFさんと、この世であと2人くらいだけどね。」と真面目に応えた。

Fは、私のことを「生涯でもっとも影響を受けた人だ」と言った。目のつけどころ、ものの見方、どれもが驚異で、私と散歩しているだけで、ほかの誰と歩くのともまったく違う世界が見える、と。

とりわけFがいる、「高踏的」とも形容してかまわないだろう文学の世界は、言葉を言葉で批評することだけですべてが回っているからだと思う。

彼らが思う「見る」ということと、私がものを見ることとは、言葉の意味などでなく、おそらく体験の内実が違う。

「アート」の世界はさらに絶望的なまでに自分の殻に閉じこもった病んだ精神が、自明なまでにそこでは主流になっているからだと思う。

私と関わり、影響を受けてから出した本のほとんどすべてで賞をとった、とFは言う。

私はおよそ賞といったものに縁がないが、Fがもらった最初の賞金で、カニを食べに行ったことを忘れていた。5万円くらいかかったという、私にとって人生で最も贅沢な会食だったのに、そういう楽しい記憶を私は忘れていることがすごくもったいない。

5時半に食事ができる場所に移り、私は「七田」を飲んだ。

そこで初めてFに、なかなか口に出せなかったこと、ちゃびが11月に亡くなったことを告げた。話しているうちに、涙がまた溢れてきた。

Fは「そのことが気になっていたけど、なかなか聞けなかった。」と言った。

私はちゃびのいない世界で、なにひとつ自分の魂が高揚することがない。

そのことは、この世の誰にも信憑できることではないと思っている。

「愛情に際限がない」という言い方がもっとも私にあっている、とFは言った。性格がお母さんとすごく似てるんでしょ、と。

「精神疲労で頭が朦朧として回転が悪くなっている」と言ったら、「そんなことはない、昔から少しも変っていない」と言ってくれた。

それから最近興味深かった映画や漫画の話をした。Fは今日私が買ってきた漫画を借りたいと言った。まだその漫画を味わい尽くしていなかったので、私は貸すのを断わった。

12月11日

今年最後の書道。

「高談娯心」(楽廣)。「高尚なる談論をして心をたのしませる事」と本部からのお手本にある。

先生のお手本。

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私の書いた字。こうして写真に撮ってみると起筆の角度がおかしい(少し寝すぎている)。次から気をつけようと思います。

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今まで半年くらい、ふたつに割れてどうしようもない筆を使って書いていたので、そうとうな徒労があった。先日、安い(1600円くらいの)筆を新調したら、今までの苦労は何だったのかと思うほど楽に書けるようになった。

一度割れてしまった筆は、先生に筆の洗い方が不十分と言われ、どんなに洗っても元には戻らず、むしろぱさぱさになって余計割れるようになった。

昔、小学生の時、そんなに必死に筆を洗った覚えがなく、それでも数年同じ筆を使っていたような気がするので、もしかしたらむしろ洗いすぎだったのか?

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2016年9月 4日 (日)

対論:未知のアントナン・アルトー 

9月2日

室伏鴻アーカイヴカフェ、SHYでのイヴェント「対論:未知のアントナン・アルトー」に(編集のOさんと)行ってきた。出演は宇野邦一さん、 鈴木創士さん、荒井潔さん、岡本健さん。

早稲田にある、かわいい小さな喫茶店は超満員。定員15名くらいと聞いていたのに、40人くらい(?)集まった。今日はひどく暑く、会場は熱気むんむん。

河出書房新社から『アルトー後期集成 2』が出たので、それに関わるお話。

写真は左から荒井潔さん、岡本健さん、鈴木創士さん、宇野邦一さん。

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私の心がすごく顫動した話は、

「ピエロ・デラ・フランチェスカの塵と光」

フランチェスカには光る不思議な粒子があると思う。色の中の色。色の外の色。

「アルトーは崩壊そのものを詩的体験としてつぶさに描き続けた」ということ。

「狂気と言われる状態で、同時にアルトー、ニーチェ、ゴッホははっきりとヴィジョンが見えていた」ということ。

「アルトーは常に書いていた。地下鉄でもデッサン、線を引いていた。ベケットも常に書いていた。散歩、息、食べ方、沈黙、すべてが文章になる稀有な詩人」ということ。

そして「アルトーは自分の経験の固有性が盗まれることを極端に嫌った。決して言語以前の世界を目指しているわけではない」ということ。

私は、共有不可能な固有の体験がどのようなものであるか想像しようともせずに、私の言葉のうわずみだけを有頂天で盗用したり、私の身体にかかる重圧を面白がって収奪した人間を殺してやりたいほど憎んでいる。

私は自分たちはなにひとつ身体に損傷を負わずに、当事者を置き去りにして「知のおしゃべり」を楽しむ人たちが大嫌いだ。なんでもすぐに「わかります、わかります」と言ってくる人が嫌いだ。

不安で心細く張りつめた真に自由の旅ではなく、「漫遊」をしてものを書く人が嫌いだ。

立ち止まって眼を凝らして見ることさえせずに、些末なことについて、さも何か感じたように大袈裟なそぶりをして見せる人が嫌いだ。神経が死んでいるのだと思う。

そういう体験がよみがえってきて、胸が焼けつくような感じがした。

・・・・

4人のかたがたのお話は、たいへん内容が濃く、私は聞き書きしていたが、A4の紙、3枚の表と裏にびっしり書いても足りなくて、そのあとは小さな余白に書き連ねた。

その聞き書きの中から、ほんの一部を自分のためのメモとして、ここに抜き書きしておきたい。

宇野邦一さん・・・

アルトーの生誕120年になり、アルトーの読み方はどんどんかわってきている。

アルトーは実験演劇の提唱者として世界中で読まれた時期があった。寺山修司は影響を受け、成功。

精神病院でデッサンとともに書き続けた400冊のノートに触発されて、デリダ、ドゥルーズ、ガタリなど新しい哲学が生まれた。

荒井潔さん・・・

第3巻(『アルトー後期集成 3』)、『カイエ』について。

フランスでも大きな動き。『カイエ全集』が2012年、2015年にまとめて出る。

第2巻(『アルトー後期集成 2』)、『手先と責苦』。最後の作品集。死後30年。反社会、反宗教。

乱暴な言葉も細心の注意を払って書かれている。何度も推敲。口述筆記。断片。

『冥府の臍』、『神経の秤』、あえて雑然。

3部構成と序文。1947。序文の語りが奇妙。非人称。予言者。

第1部「断片化」。8つの独立したテクスト。

息もたえだえに行われる文化。身体を持つ前に根絶やしにされたひとつの文化。

トーテム。手に負えない獣性の深い穴。私の殺されたトーテムたちを寄せ集める。

損傷された身体をなんとか再集結しようとしているみじめな胃袋。

人間以前のけもの。まだ生まれていないが、大地が与えてくれるであろうもの。

現存の文化の外に立つ。

文盲。神秘。人間の生まれていないトーテム。

ポポカテペトル。文化の再検討。人間と身体の根本から見直し。

一者と自我・・・己を見ない。

二者・・・常に見る。

鏡像という分身を拒絶。砕け散った、内側から生きられない身体。それを見る眼。死の模造。

ヨーロッパのシミュラークルを離れ、自分の生きた身体をもって横断する。

「家畜小屋の母たち」。ロートレアモンについての手紙。ふくれあがった魂の袋。血を流す肉色の袋。

6つ追記。女性たちが死体として。アフォリズムではない、ヴィジョン。私は見た。動詞。

フラグマンタシオン。「断片化」されたもの。間隙。

不可視の統一体。身体の作業。

第2部「書簡」。手紙の受け取り手は生き証人。相手に態度決定を迫る。

1.閉ざされた世界、夢、葛藤。

2.外界の人に訴える。

3.社会への反撃。言礫(ことつぶて)。アンテルジェクシオン。

第3部「言礫」。いわゆる正常な、しかし空疎な意味を削ぎ落とし、凝縮した言葉をちぎっては投げかける。

三幕の復讐ドラマ。出版計画がとん挫したことで一冊になった。書物が必然的にまとう身体構造が明らかになった・・・「残酷」。晩年、3という数字を激しく嫌悪。

『手先と責苦』。ノートの裏。構成主義的側面。論理を構築する。

ポール・テヴナン・・・意味で読めるものとしての『カイエ』。

ローラン・ド・ブルイエ(?)・・・読み方を3つくらいに分けた。1、理論でまとめる。2、反復になるが、これは正しいとつき従う。3、理性的な読み、つまづいて止まる。ブルイエとしては3。

アルトーは意味を突き抜けてしまうくらい意味がある人。極端に意味の人。身体の叫びなんだから意味なんて考えなくていい、というのは怠惰。

鈴木創士さん・・・

ポール・テヴナン、「わが心の娘たち」。女優。その娘、幼児、ドミニーヌ。晩年のアルトー、52歳、手をつないで幼稚園。

ジャック・リヴィエール。ガリマール社に詩を拒絶されたことを批判した書簡集。

思考ができない。ものを考えることの中心、思考の崩壊。生理的次元。

思考の中心には崩壊がある。過激。

『へリオガバルス』・・・構成、古典的。

『ヴァン・ゴッホ』・・・古典的とは言えないが理解できる。詩的だが、構文的にはおかしくない。

『タマウマラ』・・・メキシコ。人類学的な旅とは違う。ペヨーテ、ペヨトルの儀式に関わる。麻薬。コールリジ、ドラッグをしながらものを書くことにおいてアルトーに匹敵するのはバロウズ。

「この私の肉体という最悪。」「私の中へ脱臼。」

アルトー・・・自分自身の「中の外」へ出て行くため、分裂を繰り返す。「断片化」。

文化人類学者・・・自分自身の中に入る。

アンリ・ミショー。ヒッピー、中に入って拡大。

演劇的。演劇とはなにか。構成と分裂。極端にあらわれる。

ギリシャ悲劇の戯曲。

最後の『手先と責苦』。

寺山修司。この演劇を支配しているのは誰か。演劇によって演劇を(黒子が)ぶっつぶす。当時は、外で闘争やってるのに舞台でなにやってるんだろう、と腹がたったけれど、今にして思えば天才的。

日本の舞踏家たちへの影響。自分の中に出て行く。原理とのたたかい。

土方巽。「肉体の中にはしごをかけて降りて行く。」

全ての帝国は滅ぶ。アナーキー。古代原理の闘争。太陽神、アマテラス、アポロ。

『へリオガバルス』。アナーキーとは統一の感覚を持つことだ。塵の感覚でもある。

歴史はカオス。事物の分裂。事物の多様性。統一の感覚。

ルネサンス芸術。ルーカス・ファン・ライデン「ロトと娘たち」が演劇のイメージ。アルトーは近親相姦のこだわりも強い。火山の爆発。船が沈んでいる。

アンジェリコ、フランチェスカ、マンテーニャをルネサンスから分ける。

演劇・・・音声、身振り、ルネサンス的。

自身の身体がバラバラになって、また寄せ集める。

ルネサンス・・・ボッティチェリが思い浮かぶが、ボッティチェリはメディチ家を批判した坊さんを支持。晩年はバロック。渡辺一夫や大江健三郎のように人文主義と考えるのはよくない。

映画『神々の黄昏』。地球から500年遅れている。ルネサンスもそんなだったかも。ペスト。ダンテはフィレンツェに帰ると火あぶり。そうした状況で『神曲』は書かれた。

フランチェスカ・・・光。塵。知覚。バルテュス(アルトーが絶賛)への影響。

ものすごく繊細。

フランス人におけるアンティゴネー。ソフォクレス、エウリピデス。死ぬまでギリシャ悲劇を読んでいた。分裂と構成。

アルトーのひげを剃る人に『ヴァン・ゴッホ』を献呈。イヴリーの庭、庭師とよく話す。一般の人にはすごくやさしい。ユーモアの人。

カフカと少し似ている。日記ということ。

アルトーは常に書いていた。地下鉄でもデッサン、線を引いていた。ベケットも常に書いていた。散歩、息、食べ方、沈黙、すべてが文章になる稀有な詩人。

フーコー『狂気の歴史』。狂気とは営みの不在である。アルトー、ニーチェ、ゴッホはそれが同時に起こっている。

岡本健さん・・・

理性のありかたが疑問視される。20世紀は一世紀だけで、有史から19世紀までの戦死者の数をはるかに超える。優生――理性。

狂気、非理性の側から、理性が問い直される。

フーコー。狂気とは患者との関係性。反精神医学。

個人的体験。糞尿。恨み。この世の便器。

1歳8か月前の人間は五感のすべてを使い経験。その後、言葉以前の世界と融和させる。直接的経験。

言葉とは他者のもの。ズキズキ・・・判断を共有しているにすぎない。

自分の経験の固有性が盗まれる。固有性を維持するためにグロスバリ(?)言葉をつくる。

言語以前の世界を目指しているわけではない。自分の体験の独自性を盗まれないことを目指す。

展覧会の壁に視覚、聴覚、香り、ゴッホの絵。

「アルトー・モモ(子ども、ガキ)」。鼻たれ言葉のアルトー。言語をもって、言語を超えた世界をつくる。

言語の他者性。他者のなかで受肉して脅かす。

発語しているのは誰か。「キ・スイ・ジュ? 」(アンドレ・ブルトン『ナジャ』の書き出し)私とは誰か、私は誰を追っているのか。

私を名づけてくれる人。他者を排除するのではなく、名指す、名指される関係を再構築する。俺は俺の父、母。

宇野邦一さん・・・

出発点は初期の書簡。思考の不可能性。崩壊。身体の麻痺。若い頃の仕事、生き延びるため。

哲学の体験。既成のいかなる哲学とも似ていない。

崩壊と同時に構成。したたかに続ける。

ドゥルーズ『差異と反復』・・・思考のイメージ(ほとんど「表象」と同じ意味でつかわれている)が崩壊。「表象」がない思考が体験される。

アルトー・・・崩壊そのものを詩的体験としてつぶさに描き続けた。

マラルメ・・・自殺の危機。崩壊。新しい言語空間。アルトーとは似ていない。

アルトーは不可能性そのものから詩を生み出す。イメージをしっかりつかんでいる。崩壊を絵画のように描き出すことができた。

ドゥルーズの言うイメージとは違う意味。映画論の新たな独自のイメージとはひっかかる。

アルトーはあらゆる危機を生き延びた。新しい思考のかたちを提出できた。

「私の職業はカリカチュリスト(風刺画家)である。」

人間の顔はうつろな力、死の畑。身体とは一致したところがなく、顔を描くことをアカデミックであると批判を与えるのは馬鹿げている。

かたちをすりつぶしているにすぎない。顔は身体に対応していない。

人間の顔はフェズ(?聞き取り不明)を見つけておらず、それを発見するのは画家。永遠の死。

あるがままの顔面は、顔をさがしている。顔にその固有の線を返してやることで、画家が顔を救う。

アルトーにとって、デッサン、顔、死とはなにか。

アルトーの人類学。バリ島に行ってフィールドワークなどしていない。パリに来たバリの舞踏団。ヨーロッパ世界の外の生き方。読解。精神の中の運河。非人称化。

タマウマラ。山の岩石の上で責め苛まれる身体。記号の山。山なのか、私なのか。岩石そのものが苦しめられる身体。偽造された身体とともに生まれた。

被害妄想を突き進んでいく。そのまま受け取らないと。そのまま理解する。

テヴナン、統合失調に光をあてた一大叙事詩『アンチ・オイディプス』に激怒。ドゥルーズは臨床例ない。あまり自分のテリトリーから出ない。ガタリは臨床ともつきあっている。

『へリオガバルス』。太陽神信仰。論文のような小説。D.H.ロレンス、へリオガバルスに興味。精神分析を否定。両性。せめいぎあいは永遠に続く。

古代エトルリアはかなり不思議な文明、ローマは批判。

「スノードロップのような(清らかなみずみずしい)へリオガバルス」を批判したらだめだ。破廉恥、女装、乱交。

アニミズムとはなにか。動物と人間の境がない。すべてが主体。

レヴィ・ストロースの構造主義は、もうすっかり終わらざるを得ない時代。

客席から、「もっとわれわれにとって有意義な(「有益な」だったかもしれない)議論の枠組みを」みたいなサジェスチョンも入る。だが、アントナン・アルトーの失望と怒りの声を(彼の評伝から)ここに控えめに書き写して、今回のイヴェントの、私なりのささやかなまとめとしておきたい。

「彼らはいつでもなにかについて知りたがる。『演劇とペスト』についての客観的な会議なら許せるというわけだ。けれどわたしは彼らに経験そのものを、ペストそのものを与えてやりたい。彼らが恐怖を感じ、覚醒するように。」(アナイス・ニンの日記に残されたアルトーの言葉)

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・・・・

この室伏鴻アーカイヴカフェ、SHYには、室伏鴻さんが持っていたたくさんの本や、CDなどもあります。

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本は数千冊ありそう。ここにはいらなかったのもあるそうです。

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ほとんど考えられないくらい充実した現代思想に関する蔵書。多くの本の背には、室伏さんの自筆で書名と著者名が書かれています。
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室伏鴻さん所有のCD。やはりすごく多い。

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イヴェント後、室伏鴻アーカイヴカフェ SHYの窓を外から撮った写真。

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サインに応える鈴木創士さん。
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カフェに来た自分の記念写真を撮ってもらうのを忘れていたので、高田馬場へと向かう裏道できょうの記念に撮影。

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高田馬場の細い裏道が好きだ。「多摩旅館」と書いてある古い旅館があった。

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私の好きな階段。いつ来ても、また、この階段の上にはなにがあるのだろう、階段を上ったらいったい何が待っている(見える)のだろう、と思う場所。

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私は黒くくすんだ細い階段が大好きだ。セメントの狭い亀裂からのびているヒメジョオン。メヒシバ。オヒシバ。フェンスに絡まるヒルガオ。虫の声。

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2016年2月19日 (金)

府中美術館「若林奮 飛葉と振動」展 / Dissémination(ディセミナシオン)とPusteblume

2月9日

鵜飼哲さんと府中市美術館の「若林奮 飛葉と振動」展を見に行く。

2時に入り口で待ち合わせたが、1:30くらいに着いて、庭の「地下のデイジー」を見ていた。ひとりで、しゃがみこんで説明のプレートを読んでいたら、子供たちの団体が来た。

「地下のデイジー」などの若林奮作品を見、学芸員さんの説明を聞いて、小中学生がなにを感じるのか、聞いてみたい気がした。

地下のデイジー(DAISY UNDERGROUND)若林奮。厚さ2.5cmの鉄板が123枚重なってできており、高さは3メートルを超えるそうだ。ただし、地表に出ているのは3枚分だけ、残りは全て地下に埋められている。

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地下にあるものを想像し、そのまわりのものを想像し、作者の思いを想像しなければ、何かを感じることは難しい作品。私は若林先生がどんな人だったか知っているから、非常に感じるものがあるが、作者を知らないで初めてこの作品を見た人はどう感じるのだろう。

ひととおり2階の若林奮展の展示を見てから、2時に鵜飼さんとロビーで会って、もういちど一緒に見た。

若林先生が「サンドリヨン・ブルー(シンデレラの青)」と呼んだ灰青色と、そのブルーと最も響きあうイエロー(花粉色の、硫黄色の、太陽の黄色)の、あまりにも強烈な繊細さが心に残る「振動尺(手許)」のドローイングたち。

これらのドローイングたちを見ると、いつもブルーデイジーという花を想い起こす。それと少女らしく柔らかい薄紅の雛菊。デイジーはDay's eye(太陽の目)。

4時頃、見終わってから、バスで武蔵小金井に行った。きょうは鵜飼さんは車ではなかったので、私の好きな庶民的な店、すし三崎丸でお酒を飲んだ。

私の誕生日が近いと言ったら、お祝いをしてくれた。

そのあと武蔵小金井の細い裏通りを歩き、小さなイタリアンバルに入ってワインを2杯ほど飲んだ。

デリダの動物についての話で、前から疑問に思っていたことを質問してみた。

「動物が絶対的他者だとすると、私とちゃびの関係のように、お互いがお互いの中に出たり入ったりできないんじゃないか、動物を絶対的にわからないものとしてしまうと、助けることができないんじゃないか」という疑問。

それに対して、鵜飼さんの説明は、

「ヨーロッパの「他者」という言葉にはふたつあって、「絶対的他者」(神)と、もうひとつの「他者」(隣人、他人、動物、植物というようなもの)という分け方だった。

それをデリダは、皆が「絶対的他者」で、神もその中のひとつにすぎない、というふうに言って、それまでの二分法を崩した。」

というものだった。

「サルトル、レヴィナスは、他者とは出あうもの、と言い、フッサールは。他者とは、無限に近づくことができるけれど出あえないものと言った。」(このあたり、だいぶお酒がまわっていたので私の記憶はあいまいです。)

私のもう一つの質問は、

「「散種」って男性的な言葉じゃないですか。なぜデリダはそんな言葉を使ったのですか?」という疑問。

鵜飼さんの説明は、

「デリダはその頃、植物や動物に関心があった。Dissémination(ディセミナシオン)には意味を散らすという意味がある。」

というものだった。

だったらDissémination(ディセミナシオン)は、私の愛するPusteblume(プーステブルーメ)のことだ。若林奮の花粉色の硫黄でもあるのかもしれない。

11時近くに帰宅。

2月11日

所用でS木R太と2時に会い、車で多摩丘陵のほうへ。着くのに2時間もかかった。

戻ってきたらもう8時半で、空腹で疲れていたので、華屋与兵衛によってもらって、そこで話した。ふたりとも「漁師のまかないサラダ」だけを頼んだ(お酒も飲まないので変な注文)。

また11時近くに帰宅。

2月16日

一級建築士のT川さんと会う。

2月18日

新宿三井ビルクリニックへ。腹部エコーと血液検査。

診断してくれた女医のA先生がかっこよかった。

風貌が一ノ関圭の「女傑往来」の高橋瑞子みたいだ。

2月19日

暖かい日。西新宿の家から新宿中央公園を通り、ワシントンホテルの脇の細道を抜けて、代々木を歩いてみた。

中央公園で、2004年頃に母と見た紅と白の絞りの桃の花を捜したが、見当たらなかった。早咲きの小さな桜が咲いていた。

中央公園は全面禁煙になり、ランチスペースもできていた。だが整備されすぎていて、自然な草木の繁茂がないのが淋しい。

甲州街道のビルとビルの隙間に存在する樹齢200年の「箒銀杏」(ほうきいちょう)の樹を発見して胸を打たれた。妖怪のような巨木だ。渋谷区内には、かつて巨木、銘木がたくさんあったが、戦争で失われ、開発で失われ、最後に残った名のついた巨木が、この「箒銀杏」らしい。

文化服装学院の裏の古い団地も、もう取り壊されそうになっていて、板が打ち付けてあった。

私の通った小学校の裏に古い団地がくっついていて、四季の花々が混然と咲き乱れていたのを見ていたせいか、古い団地にとても郷愁を感じてしまう。

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9時頃、I工務店のジュリーから電話。

彼は非常に誠実で、あらゆるリスクを考慮してくれ、安請け合いをしない。彼は本当に信頼できる人だと思う。

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2015年12月10日 (木)

沼辺信一さんと会う 若林奮先生の思い出 

12月5日

川村記念美術館の元学芸員、沼辺信一さんとお会いした。

1時半に待ち合わせて高円寺のべジタリアンレストランVESPERAへ。

まず、若林先生の「振動尺」の展覧会をやるまでの経緯を話してくださった。

それから、若林先生ついての沼辺さんの思い出をうかがった。

沼辺さんのやった「振動尺をめぐって」が、若林先生の生前最後の展覧会になってしまった。展示作品の位置などを決める時、若林先生は病で来られず、沼辺さんが考えて配置したという。

展示について若林先生は非常に厳しい考えを持っていらっしゃったから、沼辺さんもさぞかし苦心されたことだろう。

私も、川村での、ガラス窓の外の光るスダジイの樹に向かって伸びている振動尺の鮮やかな記憶がある。すっきりとして記憶に残る展示だった。

沼辺さんの語った思い出で、最も印象的だったのは、若林先生が、美術館(川村ではない、それより前の)が作ったご自分の展覧会の図録について、大変怒っておられた、ということだ。

「作品の部分のクローズアップはいらない。どこをどのようにアップで見るかは、見る人が決めることだ。」というような発言は、いかにも若林先生らしい。

展覧会の図録をめぐってのエピソードは、もうひとつお聞きした。

沼辺さんは、川村記念美術館での「振動尺をめぐって」の展示の準備のために、1年ほど若林先生の御嶽のアトリエに通っていらした。

そのとき、本棚に並んでいた若林先生の展覧会の図録には、表紙が破られてなくなっているものが、いくつかあったという。そのわけを尋ねると、「嫌だから。見たくないから。」と若林先生はお答えになったそうだ。

若林先生はいつも、「余計なもの」を嫌われた。静かに「外」のものを感じることを阻害するもの、「自然」を傷つけ、圧し殺す、あまりに「人間的な、余計な」もののすべてを。

口数の少なさと、その何十倍もの大きな怒りを秘めた沈黙、若林先生のそういう不機嫌さに、今さらながら、ほれぼれする。

沼辺さんは遠方から長い時間をかけて来てくださったのだが、私からは、若林先生との思い出について、ほとんど話すことがなかった。というより、私が若林先生と「出会っていたこと」の意味を伝えることが不可能で、話せないと思った。

たくさんのお話をお聞きして、気がつくと、夜の11時過ぎになっていた。

・・・

若林先生の、息が詰まるような優しい思い出はいくつもあるが、私がもっとも感激したのは、やはり、若林先生がとても怒っておられた時だ。そのとき、ある表現について、とても怒っているということを私に話してくださった。

「あれはよくない!あの人も不潔な晩年になったものだ。」「だめだ!まったく私の言うことの意味が伝わっていない!」「あのおしゃべりはつまらない。あいつにはもう一切しゃべらせない!」

後になって、このことを誰かに話すと、たいていの場合、私が傷ついたと誤解して慰めているつもりなのか、「それは、ちょうど若林さんの体調が悪かったときだから」などと、私の伝えたかった体験の本質をうやむやにしようとする反応が返ってくるのだが、まったくお門違いだ。

若林先生は、私がいつも疑問に思っていること、違和感があってたまらないことを、はっきり言ってくれたのだ。私にとっては、あんなにも感激したことはない、もっとも大切な思い出だ。

若林先生が私に率直に話されたのも、そのことについて私も強い違和感を持っていることを、若林先生こそが良く理解してくださっていたからだ。

(このことは、いつかきちんと書かなければならないと思っている。)

静かにその前に佇んで「外」を感じて考えるための場に、それを妨げる「人間の表現」が立ちはだかる場合が、おうおうにしてある。

ごく微弱な声を掻き消し、微細なものの息の根を止めてしまう「表現」を山ほど知っている。

私は、自分の触覚的な顫動状態を妨げるものに、明らかに私に見えているものに対して、なかったことにしろと抑圧をかけてくるものに激しいストレスを感じる。

しかし私はそれをはっきりと言葉に表すことができない。あらゆる「表現」の前で二重に抑圧を感じる。

芸術をめぐってでさえ、あるいは芸術だからこそ、欺瞞や転倒のうえに、「なあなあ」とすべてをだらしなく許し合っていることがあまりに多い。そうしたものへの拒絶のしるしとして、若林先生は「限界」とか「領域」という言葉を使っていたのではなかったか。

人がなにかを表現することの根源をとらえようとしていたからこそ、その問題の核心から目を逸らさせるものに対してはいつも、若林先生は憤然と怒っていた。だから私は若林先生を心から信頼し、尊敬することができた。

若林先生は、私に「僕の考える絵の範疇にはいっているもの」という言葉をくださった。私の考える「絵の範疇」「美術の範疇」にはいっているものだけを大切にすればいいのだと。

(若林奮先生と銀座の展覧会のあとで  2000年銀座)
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2003年の2月の寒い日だったと思う。川村記念美術館「若林奮 振動尺をめぐって」に、私は詩人の吉田文憲といっしょに行った。そのときは、その年の10月に若林先生が亡くなるなんて、想像もできなかった。

「若林先生は・・・」と女性の学芸員さんに訪ねると、何日か前に杖をついていらした、と聞いた。それから、帰る前にその学芸員さんが追いかけてきて、「若林先生からお二人に。」と図録をいただいた記憶がある。

そのときのことを、吉田文憲は「見ること(読むこと)の暴力的な顕われについて――賢治作品、そして若林奮の「振動尺」、福山知佐子の絵にふれて」(『宮沢賢治 妖しい文字の物語』思潮社)という文章に書いていた。

そのなかには、「非人称の情動とは、それを肯定し、それを生き延びようとするときに直面する、存在の(むしろ生存の存亡の)危機のことである。」というくだりがある。

「馬鍬の下に咲く花、但し処刑機械としてではなく(むろんここではカフカを意識して)。」

そのあとに、私が以前、若林先生に宛てて書いた手紙が引用してある。

その手紙は、若林奮作品『所有・雰囲気・振動』を見た時に私の中に強烈に蘇ってくる幼い日の記憶――西新宿の古い欠けた石段に何時間も座り込んで、石の割れ目から生えているムラサキゴケやツメクサやカタバミを見ていた五、六歳の頃の思い出。それから現在、植物に対峙して私が何を見ているのかについて書いたものだ。

吉田文憲は、ここで「絶対的な裂け目」について書いている。

「――誰もがそれを見れるのではない。

――誰もがそれを読めるのではない。

――誰もがそれを読めるのではないということのために闘うべきだ。」

「――なにが見えたのか、と問うべきではない。なにが見えるようにされたのか、と問うべきだ。」

私が若林奮と出会っていたのは、その「絶対的な裂け目」のところ(「場所」とも「時」とも呼べない「そこ」)だと思っていたし、そう今も信じている。

12月9日

11月27日に鎌ヶ谷の病院に行ってから、ずっと微熱と頭痛。風邪薬を飲まないほうがいいのだが、時々、かあーっと熱が上がって吐きそうになる。

8日の夜、急に立っていられないほど熱が出、吐きそうになってから、きょうは1日3回、6時間おきに薬を飲んで作業した。

きょうはヴィジョンが浮かんで、今までの構成を大幅に変更した。

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2015年9月 8日 (火)

分身残酷劇「カリガリ博士」 / 高田馬場喫茶店らんぶる跡 

9月6日

一糸座公演分身残酷劇「カリガリ博士」(鈴木創士原作、才目謙二脚本・演出)の千穐楽を観に、高田馬場ラビネストへ。

http://www.acephale.jp/news/news.html

満員だった。早めに行って一番前の椅子の真ん中の席で観た。

暗闇の中から、地面をつきあげてくる低い不穏な音楽。

空を飛ぶ二人のカリガリ博士人形の夢にうなされる、人間のカリガリ博士。

十貫寺梅軒演じるカリガリは、おなかに重い脂肪の塊を巻いている。この役は見た目も、高いハスキーな声もアラーキーによく似ている。悪のようで、滑稽で哀れで愛嬌もあるカリガリ。

笛田宇一郎演じるオドラデクは歪んだ扉の枠から覗き、すべてを見ている。

薬中のおしゃれな人形チェザーレは、見るのはいつも他人の夢であり、たえず眠っていることは全く眠っていないのと同じ、と嘆く。

田村泰二郎演じる人形に化けた女優または女優に化けた人形は、私は私の夢しか見ないの、私は夢見るフランス人形ってね、と言いつつチェザーレを追いかける。

金髪の美しい人形ウルリケは、カリガリを刺そうとして失敗し、自殺してしまう。

観終わってみると、クラインの壺のような劇だった。ただ、なによりウルリケの名が、壺の表面についた小さな傷のように心に残った。

(ドイツ赤軍のウルリケ・マインホフ。彼女がオルデンブルク出身と知って、ますます興味がわいた。オルデンブルグは、私が5年前に訪ねた、ホルスト・ヤンセンが幼少期に過ごした家がある町だ。)

・・・

高田馬場へ歩く途中で、谷正親先生に出会った。早稲田大学の安保法制反対のデモの帰りだそうだ。

・・・

上着を忘れたことに気づいて、あとからラビネストに戻った。

熱演した三人の役者さんが、地べたに座って休んでいた。劇場の中では、舞台や美術を片づけるのでとんてんかんてん忙しく作業していた。

「上着あってよかったね。」と役者さんに声をかけられたので、「かっこよかったです!」と言ったら「1m50cmのおなかつけてるのに?」とにこっと笑ってくれた。この三人の役者さんは、すごく味のある人たちだ。

・・・・・

高田の馬場と言えば、私の大好きな場所がある。かつて喫茶店「らんぶる」があった跡の横の階段。しばらく来なかったが、まだ壊されていなかったことに感涙だった。

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この罅割れたいびつな階段と、無造作に生えてくる夏草の生命力が、たまらなく愛おしい。

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私の大好きなヒメムカシヨモギ、ノボロギク、ハルノノゲシ、メヒシバ、エノコログサ、まだ潰されていなかったんだね、と涙がでてきてしまう。

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その時、どこからかフッと忍者のように忍び寄る猫あり。

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まだ若い敏捷な白黒ぶちの猫。
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廃屋の屋根の上を慣れている様子で移動。

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カラスウリに覆われている廃屋の屋根の

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ある穴を目指して来たようで、

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ある一点から中に入って行った。私の生まれた家も、こんな風によく猫がはいっているようなので、猫の賢さに納得。どうか長生きしてほしい。
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この階段を上から見るとこんな感じ。

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かつて古い煉瓦の素敵な喫茶店「らんぶる」があった場所。この喫茶店には学生の頃の田中真紀子も通ったという話を聞いた。

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空き地にはマツヨイグサ(宵待ち草、月見草)と、やはりどこにでも生えるメヒシバとエノコログサが茫々に生えている。黄ばんだ大谷石の上にはヨウシュヤマゴボウとワルナスビ。雨に濡れて色が濃くなり、光るセメント。

こういうところが、私の原風景である。幼い私が一日中、飽きもせず植物に触り、小さな虫を見つけ、石のかけらを集めたりしていた場所。

都会の片隅の、端っこの、誰も関心を持たない、私にとっては宝物でいっぱいの場所。

8月28日

がんの定期健診のため鎌ヶ谷の病院へ。

電車は川を四つ越えて行く。四つめの川のほとりに20羽ほどのサギがいた。

電車の高架の上から見る不思議な螺旋階段のある廃屋は健在。いつか降りて歩いてみたいと思ういくつかの駅。

「福山さんは夏バテするとすごくやせちゃうからね。」と言われた。浅井先生はあいかわらず優しくて落ち着いていて素敵だった。

都心では見ることのないイオンに入ってみた。グリーンアイのオーガニック紅茶を4箱買って帰った。無農薬紅茶の中ではグリーンアイのものが安いので。

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2015年7月16日 (木)

鵜飼哲さんと多摩川を歩く  表現について

7月5日

小雨が上がって曇り。最近、陽に当たると湿疹が出てしまうので、私にとっては絶好の散歩日和だった。

鵜飼哲さんと多摩川を歩く。

中央線から西武多磨川線に乗り換えたとたん、線路沿いの夏草はぼうぼうに茂り、景色は急に昔の片田舎のように懐かしい感じになる。

3時に終点で電車を降りると、すぐに広い川べりに出る。是政橋の上から、向こうに見えるのは南武線の鉄橋。沢胡桃の樹には青い実がびっしり生っていた。

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日の当たる土手にはアカツメクサとヒメジョオンが多く咲いていた。

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下はアカツメクサの変わり咲き。とても淡い赤紫色の花。

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下は、めずらしい(たぶん)ヒメジョオンの変わり咲き。花弁(舌状花)の部分が大きく、紫色でとてもきれいだった。画像の真ん中の小さな白い花が本来のヒメジョオン。
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この先が行き止まりの突端まで歩いた。

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大丸(おおまる)用水堰。水の浅い場所にたくさんの水鳥がいた。望遠レンズを持っていないので写真にはうまく撮れなかったが、白鷺(ダイサギ)は多数、大きな青鷺が写真に写っているだけでも6羽。この辺りには鳶もいるらしい。

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これがアオサギ。

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道が行き止まりになる突端で野鳥を見てから、道を引き返す。


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ハルシャギク(波斯菊)と姫女苑。
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是政橋を戻り、駅側の岸へ。

青々と茂った草叢にヤブカンゾウ(籔萱草)の花が咲いていた。Sdsc06322

ヤブカンゾウには、同じ季節に咲くキスゲやユウスゲのようなすっきりした涼やかさや端正な美しさはないが、花弁の質感がしっとりと柔らかく厚みを持ち、少しいびつに乱れた様子が野性的で絵になる花だと思う。

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土手を下り、先ほど水鳥がいたところへと反対の岸を歩く。
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一面、なんとも可憐なハルシャギク(波斯菊)の野原が続く。ハルシャという発音がなんとも柔らかくフラジルな感覚を誘うが、波斯とはペルシャのこと。蛇の目傘にそっくりなのでジャノメキクともいうらしい。

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ここらへんは、川岸に降りてしまうとあまり周辺の建物も見えず、果てない草原にいるような、うんと遠くに来たような気持ちになる。

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草原を奥へと進むと、薄紫のスターチスに似た小さな花をつけた背の高い野草が多くなる。

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イネ科の薄茶色の細い線とハルシャギクの黄色い点とが震えて戯れている空間に、ギシギシの焦げ茶色の種子が縦にアクセントをつけている絵。

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多摩川が支流に分かれている場所。多摩川の本流は、きょうは水かさが増して烈しく流れていたが、この場所は水流が静かだった。鯉だろうか、大きな黒っぽい魚がゆったり泳いでいた。

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堰のところまで行って水鳥を見た。しばらくセメントで固めた斜めの土手に座っていたが、河が増水して速くなっているのが怖かった。

そのあと2m以上もあるススキの中を分けて道路まで戻った。ススキの青い刃が鋭くて手や顔が切れそうで怖かった。道なきススキの中を行く途中、幾度かキジくらいの大きさの茶色っぽい鳥が慌てて飛び立った。

車道に出ると美しく剥落した壁を発見。古い建材倉庫だった。

私は人の手によって描かれた絵よりも、自然の中のマチエールに惹かれる。

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これも私の眼には美術作品と見える水色のペンキと赤茶の錆の対比が鮮やかな柵。
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この日、3時に鵜飼さんに会ってから、ずっと話しながら歩いた。時には小さく、時には弾丸のように私は話していたと思う。

まずデリダも書いている動物についてのこと、非肉食についてのこと。

鵜飼さんは昨年から一年間パリに行っておられたが、フランスでは、最近、動物に関する議論は盛んにおこなわれているという。

今まで人間が殺して食べて当然、人間が搾取して当然だった動物の生に対して疑問を呈する意見が多数あがってきているということだ。

しかし一方で、今まではお洒落できれいな客間の裏側に隠されていた動物の(頭の)解体方法などを、わざわざポスターを貼って、食事をする客に得意気に図解して見せる日本のフランス料理店の話もした。すべてをあからさまにして、それが当たり前のこととするのが今時のトレンドなのかもしれない。

話題にのぼったそのレストランでは、そうしたポスターを見て、猛烈な吐き気を催す私のような人間もいることをまったく考慮していない。店のオーナーは、感覚的に動物を殺して食べることに拒絶反応を示す人間がいることを認めていない。

肉食をする人も、自分で屠殺しなければならないことになれば、もう食べなくなるだろう・・・というのは、もはや幻想に過ぎない。犬や猫を目に入れても痛くないほど可愛がっている人が、豚や牛に関しては、自分で殺してでも食べるのだろう。

「食べなくては生きてはいけない、動物だって他の動物を殺して食べているんだ・・・」そのくらい人間の語る言語は無意味なおしゃべりと化し、疑問を挟むものを生かす余地がない。

根こそぎの欲望がそれと結びついた経済のうちで肯定される。

そのことと無関係であるはずはないが、現在、日本の一億人の誰もがアーティストであり、誰もが表現者である。その中で商業主義の波にのるものと、そこからこぼれたものがいるだけだ。いずれにしろ美術批評も無駄なおしゃべりに堕してしまっているように見える。

ナルシシズムの増殖が安易で、そのスピードが極めて速い時代であり、誰も実作の「質(作者と呼ばれるものの身振り、その無言が指し示すなにか)」について問おうとしていない。

大学から人文系の学部をなくそうという動きまであるということだ。あまりに酷い世の中だ。

もし今、ランボーが詩人として登場しても、時代はランボーと彼の才能を埋もれさせてしまうだろう。ランボーの詩が残ることはないだろう・・・、と鵜飼さんは言った。

6時過ぎに鵜飼さんの車にのせてもらい、大沢のレストランに移動した。

レストランではパエリヤを注文した(一切の肉や肉の出汁を入れないように頼んで)。

鵜飼さんが私の本『反絵、触れる、けだもののフラボン』と、できたばかりの『あんちりおん3』を持ってきてくださっていたのに感激したが、私の性分として悲観的なため、すごく申しわけないような恥ずかしいような気持ちになった。

レストランのラストオーダーをとりに店員さんがまわって来たのが10時半、それからもまだ話していた。(当たり前だが、鵜飼さんが車なので、私も一滴もお酒を飲んでいない。喉が渇いて、氷のはいった水を何倍も飲んでいた。)鵜飼さんが家まで車で送ってくださった。家に着いたのは12時近かっただろうか。

3時から8時間以上話していたようだ。すべてが私にとって重要な話であり、記憶に強く残るが、そのほとんどの内容が非常に書くことが難しくて、このブログには書くことができない。

7月4日

きょうも高校時代からの友人みゆちゃんと会う。

まず(初めての)「カラオケの鉄人」に午前中11時から行ってみたが、ここはすこぶる安くて良かった。

ポップコーンなどの二人分のおつまみを無料でつけてくれて会員登録代は330円、それで30分90円。一見ホスト風の派手なお兄さん二人は、話し方はとても丁寧で親切。

みゆちゃんが私のリクエスト、フランソワーズ・アルディ(Françoise Hardy)をしっかり練習してきて歌ってくれた。

私の大好きな「もう森になんか行かない」(Ma Jeunesse Fout Le Camp )は難しくて無理、ということで「さよならを教えて」(Comment Te Dire Adieu?)をフランス語で歌ってくれた。科白の部分が、すごくかっこよくて感激。

「私って一度始めたことはずっと続くみたいなの。だから大学は大したことなかったけど、その頃から習ってるフランス語は今も習ってる。この歌、フランス語の先生とカラオケ行って発音直してもらったの。」とさらっと言うみゆちゃんは、やっぱりすごくかっこいい。

その夜、youtubeでフランソワーズ・アルディの曲をたくさん聞いて、画像を見ていた。つくりすぎない、甘すぎない、媚びない、さりげないスタイルはやはりかっこよかった。

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