舞踏

2016年1月22日 (金)

『デッサンの基本』(ナツメ社) 第23刷り / 昔の伊藤キムのクロッキー

1月18日

『デッサンの基本』(ナツメ社)の増刷のお知らせをいただきました。 第23刷りとなりました。

本当に嬉しく、ありがたいことです。

『デッサンの基本』を読んで(見て)くださった方が、鉛筆一本と紙一枚だけで始められる絵の面白さに興味を持ってくださったら、そして、ものを「よく見る」喜びを感じてくださったら、これ以上嬉しいことはありません。

最近の私は、昨年からずっと、今まで数十年描きためてきたデッサン(素描、素描着彩)の整理をやっています。

ものの変化に追いつこうともがいたり、記憶や体験の感触を含めて描いたものが、千枚くらいあります。

描いて忘れていたスケッチブックが発見されるたびに、その時に夢中で見ていたもの、心躍らせたもの、本当に好きだった(今も好きな)もの、その時だけしか体験できなかったものがよみがえってきて、なんとも言えない気持ちになります。

昔描いた人物クロッキーを発見。ダンサーの伊藤キムさんがヌードでムーヴィングをしてくれたところをクロッキーしたもの。(画像はすべてクリックすると大きくなります)

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伊藤キムさんはダンサーで振付師でもあり、美しいポーズ、体線の見せ方をよくわかっている人なので、その魅力に牽引されて夢中で描くことができた。

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伊藤キムさんの細くてしなやかな身体の動きのエロスを間近で見ることは恐ろしく素晴らしい。
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足の腱や筋がはっきり見えるほどに贅肉が削ぎ落とされた肢体。私は人体を描くのも、ダンスを見るのも、痩せてしなやかな人に強烈に惹かれる。
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休憩が終わるごとにムーヴィングの速度は高まっていき、最後はとても速いダンスとなった。
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私は植物を描くことが多いですが、身近にある植物の一枝を描くだけでも、そのものをよく見ると、とても描ききれないほど、たくさんの微妙な美しさや面白さを発見します。

同じ種類の植物にも個体差があり、変わったかたちのもの、花弁や花芯や葉や茎に趣のあるものをさがすことだけでも興味深い作業です。道端でも、生花店でも、そうした自分にとって稀れと感じるものに眼が惹かれます。

さらにそれぞれの生命は常に運動し、変化しているので、それを追うことは無限の劇を見るような感動があります。

その時に出会った植物を描くことは、その季節、その時の気温や光や、さらにその植物にまつわる親しい人との思い出も、その絵の中に残してくれます。

今の季節、街を歩くと、去年からの立ち枯れのセイタカアワダチソウが美しい。北風に磨かれた空に映えて、椿の花がとても鮮やか。紅梅白梅の香も素晴らしい。陽のあたる庭には水仙も咲いている。

枝に積もった雪をのせた赤い椿は一層鮮やかで風情がある。

以前描いた椿の素描着彩を載せます。

この椿は花芯の中に小さな花弁が混じっているところに面白さを感じて描いたもの。花弁も変則的な斑や絞りのものに惹かれます。

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この白地に赤の絞りの椿は、花の正面でなく、深緑の艶々した葉の隙間から見える花弁や、花の後ろ姿に美しさを感じて描いたもの。
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獅子咲き椿のねじれた花弁と絞り模様が面白くて描いた。

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こぶりな白い椿。

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薄桃色、八重咲きの乙女椿。花芯(しべ)が見えない。
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きょう、花屋さんにヒヤシンスの鉢植えが出ていた。

ヒヤシンスは赤(濃いピンク)と紫と白の鉢植えが多いのだが、私が毎年捜しているのは「ミオソテス」という薄紫のや、「デルフト・ブルー」という灰色がかった水色の、それと淡いアプリコット色の「オデッセウス」というヒヤシンス。

以前描いた薄紫のヒヤシンス。半透明なガラス質のような花を描くのが難しい。もっと光る花の質感が出るように、また描いてみたい。

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下は、花弁のふちが白く、内側に星のようにピンクの筋がはいったヒヤシンス。このときは固い感じで描いた。同じ花でも描きたいイメージによって描き方をかえて描きます。

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今年もいろんな素敵なものを見つけて、描いていきたいと思います。

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2015年10月20日 (火)

大野慶人「花と鳥 舞踏という生き方」 / 野毛

10月18日

「大野一雄フェスティバル2015『生活とダンス』」のなかの、大野慶人ダンス公演「花と鳥 舞踏という生き方」を見に、横浜のBankART Studio NYK へ。

すぐ裏に海を見渡すこの会場は、大野一雄先生が亡くなった時に、追悼の展示があった場所、大野慶人さんが黒いスーツを着た大野一雄先生の姿の指人形の踊りを演じるのを私が最後に見た場所だ。

3階のフロアに大野一雄先生にまつわる展示があり、その中に、今年6月19日に急逝された室伏鴻さんの写真と映像があった。

下の右側が室伏鴻さんの舞踏の写真。左は中西夏之の絵。(画像はすべてクリックすると大きくなります)

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下は舞踏の映像。室伏鴻ソロ作品「quick silver」の完全上映。

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大野一雄舞踏研究所で行われた大野先生のレクチャーを、映像とイヤホンからの音声で体験できるコーナーもあった。

下の画像、正面にあるのは、大野一雄先生がいつも座っておられたお気に入りの椅子。

これは妻有の河川敷で中川幸夫先生と「天空散華」を公演された時にも大野一雄先生が座っていた、

その踊りのあとも光と小雨に濡れ、赤や黄のチューリップの花びらにまみれて、暫し河原に置いてあった、白い塗りが剥落して緑色の下塗りが絵画のように出ている、素晴らしく美しい椅子だ。

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大野一雄舞踏研究所の模型と、その向こうに研究所の写真、それと研究所で実際に使われていた窓。
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開演を待っていたら、受付に笠井叡、久子夫妻があらわれる。

笠井久子さんとは、笠井叡、麿赤兒公演『ハヤサスラヒメ 速佐須良姫』にご招待いただいて以来、久しぶりにお会いできたので、すごく嬉しかった。しばしお話しする。

・・・

2時少し過ぎに開演。一番前のほぼ真ん中の座布団の席をとった。

演目は、まず「鳥」、そして土方巽が大野慶人さんのために振付けた三部作、土方巽三章(「死海」より)。クラウス・シュルツェの宇宙の暗黒に広がっていくような機械音にのせて、とても懐かしい踊りを見た。

・・・

衣装替えの幕間に、大野慶人さんが出演された映画「へそと原爆」(1960年、細江英公監督・脚本・撮影)が上映された。

この映画は、たった14分であるが、私には恐ろしく長く、筆舌に尽くしがたいストレスだった。

鶏を傷つけて、その鶏が海に逃げ込んで苦しみ悶え、死にゆくさまをえんえんと撮っている。

「舞踏」の起点に「燔祭」があったとしても、その映像に、なにかの「生贄」とか「供物」といった意味合いは読みとれないし、読みとる気にもならない。

あるいは、敗戦後まだ15年しか経っておらず、人や動物たちが大量に死んだ記憶も生々しいその時代に、たとえ一羽の鶏の命の重さなど感じられようもないとしてもだ、食うためでさえなく、映像作品として仕上げられる表現のために、それを殺すのは、私には受け入れられない。

それはメタファ―でもなんでもない、たんなる残虐行為だ。私はこの映画に限らず芸術家と呼ばれる(あるいは呼ばれたがる)者によくありがちな、そうした驕りを許せないと思っている。

映画の冒頭、土方巽の腕など身体の一部が映し出されるが、運動する人の足もとに、ふわっと白い鳥の羽根が飛んで来た時点で、ものすごく嫌な予感がしたので、そこからはできるだけ画面を見ないように下を向いていた。

細江英公の、土方巽や大野一雄を撮った多くの写真は、本当に素晴らしく魅了されるが、この映画には拒絶反応しか持てなかった。

・・・

私にとって吐き気と脂汗が出る地獄のストレスの14分の映画が終わり、

やがて耳をつんざくバッハの「トッカータとフーガ」のパイプオルガンの大音量とともに、山盛りの大振りな造花をのせた帽子、黒いドレスに白い綿レースのマント、ハイヒールのディヴィーヌ登場。

思いっきり艶やかに、たっぷりと。

すぐ近くの床から、私はライトに照らされるディヴィーヌの顔を見上げていた。

斜め上を切なく見上げ、失われたものを見つめるように小首を傾げるディヴィーヌ、慶人さんの眼と鼻の線は一雄先生そっくりだった。

時がねじれて空気が震えながら回転しているようだった。

ディヴィーヌが舞台の上のレースマントに顔を埋めるように倒れて、暗転のあと、今度は金色のアールデコ風のレースのドレスで登場。

そして「浜辺のうた」に合わせて、夢見る少女のように、時折スキップして踊る大野慶人。

「あした浜辺をさまよえば 昔のことぞしのばるる・・・」

長い長いピアノの間奏、もう涙がこぼれて止まらなかった。

盛大な拍手のあと、アンコールで華やかなタンゴ。

この曲は1998年の「世紀末からの跳躍 天道地動 土方巽とともに」(世田谷パブリックシアター)のとき、笠井叡さんと元藤燁子さんが踊ったタンゴの曲だ!

もしかしたら違う曲なのかもしれない(私はその曲名を知らない)が、私には、あのときの背筋を反らせ眉をそびやかしてリードする稀代の伊達男のような笠井叡と、嬉し恥ずかしそうに頬を上気させる長いドレスの元藤燁子のタンゴの踊りが鮮やかに見えたのだから。

もしかしたらあれは幻だったのかもしれない。舞踏とは、なんと胸に残る幻なのだろう。

大野一雄先生の踊りを夢中に見ていた頃のこと、あの時の緊張と興奮と胸が苦しくなるような痛み・・・、種村季弘先生もまだお元気で、あのシンポジウムの日、私は種村先生に赤いカンガルーポーの花束を渡した。いろいろと目をかけてくださったこと・・・、時が確実に過ぎていることがつきつけられて、どうしようもなく哀しかった。

それと同時に、大野慶人さんの中に大野一雄先生が生きているのを見て、なんとも言えない感動があった。

二度目のアンコールでは、慶人さんが演じる黒いスーツ姿の大野一雄先生の指人形が、「愛さずにはいられない」を踊った。

この曲は私の初個展のときに(私には予想だにできなかったことだが)、大野一雄先生が来場されて持参のカセットテープをかけて踊ってくださった曲で、私にとってはとても堪らない涙、涙の思い出の曲である。

大野一雄先生、そして種村季弘先生・・・、中川幸夫先生や若林奮先生も亡くなり、私の絵の直接の恩師、毛利武彦先生も亡くなった。私も母の介護などで身辺が慌ただしくなり、昔のようにいろんな舞台や展覧会に行くことも、本当に少なくなった。

私にとって心から尊敬し、愛する人たちが亡くなるたびに、私の身体は激しい損傷を受け、そこからうまく回復できなかった。

それとともに時代が急速に変わり、私の傷ついた身体が浅く軽く平準化された「言葉」に覆われていくことに、どう折り合いをつけたらいいのかわからなかったのだ。

偉大な師たちが私に残してくれたものをもって、私がこれからどう生きていけばよいのか、それを突きつけられるようで、たまらなく苦しかった。

舞台にいるときだけが「舞踏」なのではない。大野慶人さんは「舞踏という生き方」を生きている。

私も「絵描き」とは「生き方」なのだと思うし、そうありたい。

・・・

舞台が終わってから、見覚えのある大野先生のスタッフのかたと少しお話しした。そのスタッフのかたはきっと覚えていないだろうが、2003年の銀座エルメスギャラリーでの中川幸夫先生の展覧会に、大野一雄先生が車椅子で来られたときにお話しして以来なので、実に12年ぶりだ。

そのかたは長年、大野一雄先生の介護をされたかただが、今も大野先生宅の近くに住んで、ご本人も舞踏を続けていると聞いてじーんとした。

一階のカフェに大野慶人さんが降りて来たところで、一緒に記念撮影をしていただいた。

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ちなみに、下が1998年「土方巽とともに 天道地道」の公演後に一緒に撮っていただいた写真。大野慶人さんと。
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大野一雄先生と。
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いつも優しい笑顔で握手してくださった大野一雄先生。
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下は「土方巽とともに」最終日、出演者アンコールの華やかな踊りのあと、クロージングパーティーの時の笠井叡さんと。

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・・・

大野慶人さんの舞台を見た後、かつて大野一雄先生が細江英公さんに撮影された(この写真は本当に素晴らしかった)場所、根岸競馬場跡の建物を見たくて根岸に行った。

根岸の駅からはすごく美しい工場が見えた。

工場の反対側の小学校の横の山道を、落ちて行く夕陽の速度と競争して走って登ったら心臓が破れそうだった。

米軍施設横に森林公園があり、その入り口から競馬場の廃屋の3つの塔が見えた。もう暗くなりかけていたので、その方角だけを確認して、きょうは撮影を諦めてバスで日ノ出町へ向かった。

種村季弘先生の『徘徊老人の夏』のカヴァーに使われた写真の場所、「都橋商店街」に行きたかったのだ。

下が種村季弘『徘徊老人の夏』(1997年、筑摩書房)のカヴァー。1964年の東京オリンピックのときに建てられたという、なめらかなカーヴもモダンな、怪しげなちっちゃな飲み屋がびっしり詰まった建物は、種村先生の好きそうな場所そのものだ。

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下が本日撮った都橋商店街。18年経って、お店の名前はほとんど変わってしまっていた。

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と思いきや、なんと種村先生のカヴァーで目立っている「バラエティショップ 北欧」の文字が、今は「かりゆし」になった店の赤いビニールの庇にうっすら残っていた!

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「MIYAKO BASHI 都橋商店街」というアーチ看板は無くなっていたけれど、ビルには文字がついていた。
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その後、野毛をうろつく。立ち飲みの店がたくさんあるが、若い人で賑わっていた。

「もみぢ」というとっても素敵な御菓子司(おんかしつかさ)を発見。Sdsc07269
その隣の二階の「サンドイッチ アイスクリーム 珈琲」という文字のある木枠の窓も素敵。

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「旧バラ荘」「元バラ荘」と書いてある不思議なかたちの建物。
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「野毛大仮装 世界発!野毛発!ハシゴ酒ハロウィン」と書いたポスターが貼ってある。

朝から何も食べていなかったが空腹を感じず、夢中でたくさんのものを見た一日だった。

帰りに種村先生がよくやってらしたように、駅の売店で缶ビールを買ってホームで飲もうと思っていたのに、みなとみらい線の駅の売店が閉まっていたので残念だった。

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2014年9月14日 (日)

「種村季弘の眼 迷宮の美術家たち」展

9月13日

板橋区立美術館「種村季弘の眼 迷宮の美術家たち」展へ。

午後2時より大野慶人さんの舞踏があるので、家を12時頃出る。きょうは陽射しがとても強い。(写真はクリックすると大きくなります)

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地下鉄赤塚駅に着き、地図を見ようとすると、外国人に声をかけられ、板橋区立美術館への行き方を聞かれる。一緒にタクシーに乗った。彼はボブと言って、アメリカから来た大野慶人さんのお弟子さんだそうだ。ボブはタクシーの中で、10年くらい前に大野一雄さんと慶人さんと上星川の幼稚園のクリスマスにサンタクロースとその仲間として出演した時の写真などを見せてくれた。
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展示は、マニエリスム、ナンセンス、悪魔、ノイエザハリヒカイト、世紀末芸術、贋物、覗き箱、日本のアングラ・・・などなど種村先生が紹介した美術家たちの作品をいっぱい集めてある。

2時に大野慶人さんが仮面をつけて薔薇をたずさえて登場。全部で4曲くらいだったろうか。慶人さんの舞踏を見るのは久しぶりだ。お元気そうでよかった。

新宿パークタワーの大野一雄さんの舞台で最初にかかった曲、バーバーのアダージョ。慶人さんが踊る後ろの窓越しに森が見え、木々の隙間から強い陽の光が輝いて見えていた。

(2001年、パークタワーの大野一雄織部賞受賞記念公演は最高だった。中川幸夫先生もお元気で、中川先生直筆の書が入ったポスターをいただいて帰った。)

日本で「舞踏」が誕生したのが1959年。その頃、大野慶人さんは10代、種村さんは20代だったそうだ。

土方巽は最初、外国人に肉体コンプレックスがあってオイルを塗ったりして筋肉を大きく見せていた、しかしある時秋田から帰ってきたらすごく痩せていて、「秋田は寒いからやせちゃった。」と言って、それから体を白塗りにしたとか。

土方巽のうめき声のテープをかけて、「土方さんはうめき声をやってから、おもしろかった?ってきくんですね。あのひとはさめてるんですね。」というような話で会場を笑わせていた。

種村季弘先生のことを想うと胸がいっぱいになって涙が出てしまう。ものすごく繊細で、優しくて、しかも正直なかたで、とてもかわいがってくださった。これは2000年、種村先生が泉鏡花賞を受賞された時の「立春の宴」(学士会館)の写真。

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帰りは地下鉄赤塚駅までてくてく歩いた。久しぶりに陽射しが強くて喉が渇いた。

知らない街を歩く時、必ず古い素敵な建物や、草の生えた場所、車の入れないような細い道をさがしてしまう。

赤塚駅近くの古い歯科の建物。
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オヒシバ、メヒシバ、エノコログサや薄紫の野菊の生い茂る線路沿いの細い坂道を歩く。

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遠くの空に積乱雲。西日が射してきた。

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裏道。キクイモが満開だった。キクイモはオオハンゴンソウと似ているが、オオハンゴンソウのほうは葉が裂になっているので区別できる。
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白と紅の混じった絞りのオシロイバナ。この匂いが夏の名残り。

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9月12日

切ったほうの声帯が左とわかったので、Sクリニックに星状神経ブロック注射に行ってみた。

久しぶりで結構筋肉が固くなっていたので、針を刺した時に、針の痛みというよりはびーんとくる筋肉痛のような感覚があった。

甲状腺切除の手術で左の声帯を切っているので、神経ブロック注射は右にはしないように、右に打つと気道閉塞になるとがんの主治医に言われた旨、報告すると、M医師は、「声帯じゃなくてはんかい神経でしょう。」と言った。「反回神経」というものらしい。

「切ったこと隠してました?」と言われ「は?」と思った。隠すわけない。甲状腺切除したことは初診の時に申告しているが、声帯切除のことは聞かれなかったし、「反回神経」なんて言葉は今初めて聞いた。それで毎回右に打っていて、気道が塞がって本当に苦しい思いを何回もしたが、「息が苦しくなる時はよく効いている」というような説明しか看護師さんから受けていなかった。

9月9日

母の施設へ行く。

とても親切な職員Oさんに「きょうは元気でしたよ~。」と言われて嬉しい。

夕食介護し、お茶のみを残し完食。差し入れの「極みプリン」も完食。食べている途中から傾眠になってしまったのでお茶を飲めなかったのだけが残念。

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2013年1月22日 (火)

吉岡実 『土方巽頌』

1月21日

ここ数日、吉岡実の『土方巽頌』をゆっくり読み返していた。読み終えて、ちょうどきょう一月21日が土方巽の命日であることに気づいた。

この本を読むと、1967年から1986年の吉岡実の日記から、当時、土方巽と吉岡実の周りに、その時代を代表する綺羅星のような詩人、前衛芸術家、批評家たちがいかに集っていたかが生々しくわかる。

公演や授賞式のあとの延々とした飲み歩き。今の時代ではとても考えられない芸術家の狂騒。

また、世界でも類を見ない「舞踏」というものの草創期の様子が想像できる。最初は舞踏の身体は白塗りではなく、黒塗りだったという興味深い証言もあった。

私がその当時大人だったら、見に行ったろうか、と考える。身体表現としての「舞踏」は非常に興味があるが、初期の土方巽の、鶏を生贄に捧げるような「燔」「犠」の儀式は、私は絶対に受け入れられない。演出のために実際に動物を殺すのは、芸術とは正反対の行為だと思う。だから、そういうことをやるかもしれないと知っていたら、絶対に私は行かないだろう。

いくつか観た土方巽のフィルムと、持っている写真集の中の、筋と骨格だけの緊張感に充ちた肉体とポーズを見るだけで十分すぎるくらい伝わってくる。

1998年の「土方巽とともに 天道地道」の公演を思い出す。大野一雄先生も種村季弘先生もお元気だった。胸が痛くなるような思い出・・・・・・。

種村季弘+吉増剛造+吉田文憲のシンポジウム、種村先生は「とげぬき」の少年の話をされたのを覚えている。少年が無意識に何気ない仕草で足に刺さったとげを抜いているから、その姿は美しい、自分が美しいと見られていると少年が意識したら、その姿は美しくもなんともなくなってしまう、と。その日、種村先生にカンガルーポーの赤い奇妙な花のはいった花束を渡した・・・。

それにしても土方巽の言葉はすごい。言葉が、そのまま土方巽の舞踏そのものを生きていて、それはつまり、日常の生の時間が、そのまま身体言語であり、舞踏である。

大野一雄先生もそうだったが、何かをつくっているわけでも、表現しているわけでもない。存在自体が特異で、言葉は常に詩的な箴言であり、強烈に人を惹きつける。

「外と内とかがフランスあたりの哲学ではやってるらしいけれど、もともと外が内側なんですね。内側は皮で外側が内臓、これを二十年前から私は言っています。内側が包む、外側が包まれる内臓なんだよっていう思考があたりまえの考え方だったんですよ。」(土方巽)

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2012年12月 1日 (土)

ハヤサスラヒメ 速佐須良姫 笠井叡 麿赤兒

11月30日

笠井久子さんのお誘いを受け、笠井叡×麿赤兒 天使館、大駱駝艦公演の「ハヤサスラヒメ」を観に、世田谷パブリックシアターへ。なかなかない公演だから、ぜひ観て、という久子様の言葉通り、すごいものであった。

「アメノウズメのダンスは闇を光に変え」、「ハヤサスラヒメは光輝く闇をもって、人のすべてを受胎以前の闇の中に引き戻す。」

闇の中に浮かび上がる上半身裸に銀ラメの黒いロングパンツの笠井叡。それに向かって客席後方からにじり寄るプラチナ色のラメのボンバーヘッドに、やはり裾がラメの白いロングドレスの麿赤兒。

そして笠井叡率いる天使館の四人は、皆ガリガリの手足の長い美少年であり、金髪振り乱しし、白い薄布のスカートを翻し、のけぞりながらふわっと飛翔と回転を繰り返す天上的な踊り。

それに対する麿赤兒率いる大駱駝艦の四人は、皆筋骨隆々のずんぐりした男臭い体型と大きな坊主頭を持ち、全身白塗りで、大地をだんだん!と踏みしめ、痙攣するような踊り。

四人ずつのグループが、それぞれグループごとに体型(骨格や筋肉のつきかた)だけでなく、顔つきまで似ていることに驚いた。(表情のつくりかたで顔ができていくということなのだろうか。)

ベートーベンの第九、全楽章にのせて、ふたつの練り上げあれ研ぎ澄まされた個性がぶつかりあい、錯綜する。

笠井叡は攻撃的ながら少し茶目っ気もある踊り。麿赤兒は動きを抑えて表情を見せる踊り。

中盤、衣装を替えた二人は笠井叡はピンクの短めのチュチュとレオタード、麿赤兒は黒の長めのチュチュでかわいくコケティッシュに絡み合った。

終盤はオイリュトミーの女性群も登場で「喜びの歌」で大いに盛り上がる。

今回の公演はそれぞれの50年間やってきたことがお二方の今の身体そのものに顕われ、その才能の成果がお弟子さんたちにもつぶさに顕われいた、その対比や緩急、意外性など楽しめる舞台だったと思う。

また、特に驚愕したのは、久しぶりに見る笠井禮示さんの身体が、以前よりずっと削ぎ落とされ骨格標本のように細くなりながら、動きの切れがすごくなっていたことだった。あの細身でよく激しく動ける、と思う限界ぎりぎりを見せられたような気がした。

また、私の隣の隣の席に、昔から好きな俳優さん、若松武史(昔の名前は若松武)がいた。彼は黒いタートルのイメージだが、そのまんま黒いタートルセーターを着ていて、微笑しながら拍手している仕草にすごくどきどきした。(正確に言うと、私が子供のころは色気がありすぎる俳優で少し苦手だったのだが、お互いに歳を取るにつれて、個性的ですごくかっこいいと思うようになった。)

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家に帰るとちゃびが淋しがっていた。ひとりぼっちにしてごめん。

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余談だが、なかなか使う機会のないアンティークのEUGENE(ユージーン)のブローチをして行った。ユージーンはミリアム・ハスケルの工房にいて後に独立した人で、1950年代、わずか10年足らずで工房を閉めたため、作品は数が少ないという。これは一目惚れして買ったブローチ。黒いガラスに絡みついた薊の花の形象がすごく気に入っている。

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2012年11月27日 (火)

台湾花王アタック「ベルサイユの庭園」

11月27日

台湾花王のアタックの今年5月に発売された期間限定バージョンの液体洗剤。この絵を描いたので、販促グッズを台湾から送ってもらいました。

なんと「ベルサイユの宮殿」という豪華な名前だったと、きのう、メールでうかがいました。洗剤を買うとかわいい手帳がもらえるというので、大ヒットで、すぐ売り切れたそう。「一匙靈」「凡爾賽花園浪漫香氛洗衣精」というのが台湾の商品名。これがポスター。

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薔薇と菫の香りがついている手帳。

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裏には私のサインがのってます。
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中身にも薔薇のイラストがはいっている。かわいい手帳を集めていた小学生のころを思い出して嬉しくなった。

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これはドラッグストアなんかにぶら下げるポップでしょうか。
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台湾のショッピングサイトには」まだのってるのだが・・・洗剤、使ってみたかったなあ。

http://shopping.pchome.com.tw/?m=item&f=exhibit&IT_NO=DAAK04-A63565061&SR_NO=DAAK04

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2010年8月27日 (金)

大野一雄頌 触れる、立ちのぼる、けだもののフラボン

8月26日

現代詩手帖9月号 「総力特集 大野一雄――詩魂、空に舞う。」が送られてくる。

この本に書く機会をくれた編集長亀岡さんに感謝。

大野一雄先生についての文章を書かせていただくにあたって、相当の身体負荷がかかった。眼から入って来て自分の全身を震撼させる不思議、そのものを書きたかった。不可能だとわかっていても、それに近づきたかった。あの時点で、あの字数制限の中では、自分としては燃え尽きました。

笠井叡、笠井久子夫妻のインタビューが読めてよかった。個的な体験からのリアリティある言葉だった。

笠井叡さんは、大野一雄先生ご自身が凄絶な戦争体験について語った(また、口を閉ざした)言葉について、ジョルジョ・アガンベンの本にふれている。強制収容所の証言について、それほどの体験をしたときにはもう沈黙せざるを得ない、ということ。私がものすごく感銘を受けたアガンベンの「アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人」という本である。

あまりにも重い体験をしたとき、人は言葉を失う。感覚や感情を言葉に置換できない。それは、個の体験であり、他とは共有不可能な、声にならない声にしかならない。逆に言えば、その記憶を反芻しようとしたら自分の身体を損傷するほどのたいへんな経験なしに、知識として持っている所詮他人事にすぎない凄惨さについては、人は技巧をつくした言葉をえんえんと語ることができる。

私は(今までの自分の経験として)そういう「場」にあって、余計なおしゃべりをする人に異常なほどストレスを感じる。

誰かの文章を読むとき、私は文字面の技巧にはまったく興味がなく、そのひとの身体だけに興味がある。そのひとが言葉以前に、どんな身体の状態の極みに触れたのか。どんな言語化不能な体験を、(それをのぞまなくても、暴力的に)受容したのか。そのひとの「眼」が本当はどんな世界を見たのか。

言葉でつくろえない段階を、私はやはり「眼」で見てしまう。他人の文章を読んでいても、「視覚」を通した身体でしか受容できない。

体験の重さ、身体の受容能力の強烈さは、隠しようもなく、言語に現れる(はずだ)、と思っている。

大野一雄先生の実際の介護日誌とヘルパーに入ったお弟子さんたちの言葉を読めたのはすばらしいことだと思う。これは、本当に価値がある、私にとって必要な言葉。

私にとって必要なのは、最先端の言語ツールを駆使した言葉ではなく、言葉ではとても捉えきれない身体。凄絶な体験をくぐりぬけて透き通って来た身体。

それは私自身の身体がいつも死と近いところにいるからであり、さらに近親者の死に近いところで介護の責任を負う身であるからである。

この理由において、外(言葉の外側にある個の身体、他者の身体)を持たない言葉、狭いジャンルの中でしか価値を持たないもの、装飾過剰、権力志向、偽倫理、目立ちたがり過剰、自分の作品についての自信過剰、売り込み過剰、つまらないおしゃべり過剰などに激しい嫌悪感を抱く身体になってしまった。(頭で諫めても身体が反応するのでコントロール不能。)

大野一雄先生は、私を根源的なところで、いつも泣かせてくれた。本当に大切なひとでした。

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2010年8月14日 (土)

大野一雄頌 /  夏草 

8月13日

「触れる、立ちのぼる、けだもののフラボン――大野一雄頌」のゲラの校正を送る。

夜NHK芸術劇場の大野一雄追悼番組を見て、がっくり。短い。てきとうすぎる。なんじゃこりゃ。ディヴィーヌだけでもじっくり見せてほしい。本当になんのためのNHKなのか。

8月12日

台風の影響で強風、雨模様。

母を東新宿のMに迎えに行く。戸山団地の周辺。秋にあんなにさがしても会えなかったトゲトゲの薊。大きな黒い首を垂れた向日葵。マンダリンオレンジ色の黄花コスモス。マゼンタの白粉花(夕化粧)。立ち枯れの薄茶のヒメムカシヨモギと同じ根から青々と伸びた今年のヒメムカシヨモギ。草色がセルリアンブルーと灰色に燃えている。七色の小さなビーズのようなヤブカラシの花。小雨の中、アブラゼミが必死で鳴いている。

白粉花(オシロイバナ)のなんともいえない淡い優しい香り。かよわい漏斗型の花に見える部分は、実際は萼らしい。白地に赤紫のまだらのものが特に好きだ。夏になったらこの花の匂いを嗅がずにはおれない。

空は灰鼠。暴風。地平線ぎりぎりの空が、白金と黄金と石灰色の幾重もの細い層にぎらっぎらっと燃えていた。

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2010年8月11日 (水)

大野一雄 池田淑人 / ロジェ・ジルベール=ルコント

8月10日

谷昌親さんにいただいた「ロジェ・ジルベール=ルコント 虚無へ誘う風」をやっと読み終えた。

1907-1944 彼が大野一雄先生よりも1年あとに生まれたと思うと不思議な感じである。

「わたしは書いたり描いたりする権利をけっして見者にしか認めはしないだろう。すなわち、完璧に、そして意識的に絶望していて、「啓示=革命」の名を受け取った者にしか、あらゆるものに反抗すべく訓練され、承諾とは無縁の人間、出口を探しても、人類という限界のなかには見出すべくもないと確実に知っている人間にしか。」

友人たちの言葉・・・「妥協なき純粋さを示す、明るく澄んだ青い眼をしていて、口は官能的で、すらりと鼻筋が通り、両性具有を思わせる細くなめらかな顔つきで、身体はひょろりとしていた」「自然にウェーヴがかかった髪をしていて、ロマン派的な外観がなんとも印象深い」「天才少年というロマン派的観念から思い浮かべる顔をしていたのは彼だけ」「謎めいた微笑」「並外れた話し方」「傍から見ていてもすばらしかった」

「才能にも容姿にも恵まれた天使のような存在」が「自分の誕生の手前」の世界に住み、麻薬で早世するまで。

ロジェ・ジルベール・ルコントが言った「全体」は、若林奮が言っていた「全体」のことだと思う。ロジェ・ジルベール・ルコントの「虚無」は、なにもない、なにも感じない空無とは違う。「全体」に達する可能性ということ。人間の閾を出るということ。

「芸術のための芸術」ではなく、「全体のための芸術」。「芸術は目的ではないし、目的にはなりえないが、それは芸術と呼べるものがただひとつしかないからだ。」

5年前に貸していた大野一雄先生の本を返してくれたJ(故郷に帰っている)から長い近況のメールが来た。当時学生で、173cm49kgの華奢で敏感で頭の回転の速い美少年だったが、強く元気に生きているようで嬉しかった。

8月9日

小雨模様。早起きして母を東新宿のMへ送る。帰りに新宿駅まで歩く途中、偶然「小泉八雲記念公園」と書かれた小さな門を発見。オリーヴの樹が植えられているくねっとした細い道を入ると、金色のマリーゴールドや薄紫と白のルリマツリが雑草とともに咲き乱れ、廃園の趣があった。その中に野良猫が3匹。ホームレスのおじさんが数名。まひるまの天気雨。

ジュンク堂で、「大野一雄 百年の舞踏」と「大野一雄 年代記 1906-2010」を買う。

チェロを抱いた池田淑人(叔父さん)の写真が載っていた。「中学時代に渡米。19年間アメリカを放浪し、詩作とチェロと絵画を学ぶ。帰国後は画業に専念。氏の存在は一雄に大きな影響を与えた」とある。その池田淑人さんの資料をいただいたことに胸がつまる。

8月8日

日曜美術館の宮崎進を見ていた。後半、霧島アートの森の紹介があり、森の中に点在する彫刻をさめた眼で見ていたら、いきなり若林奮先生の作品が出て来た。茶色く錆びた立方体が映った瞬間、録画ボタンを押したら、若林先生本人が出てきたので心臓がばくばくした。あの、なんともいえない、静かにくぐもったように響く声。あの深さ。

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2010年8月 6日 (金)

大野一雄頌――触れる、立ちのぼる、けだもののフラボン

8月6日「大野一雄頌――触れる、立ちのぼる、けだもののフラボン」を入稿。しばし、緊張を解きたくて、ひとり、ビールもどきで乾杯。

家の近くの金柑の花が、枯れたと思ったのにまた咲いている。柑橘系の花の淡く優しい香り。5月に花期をむかえたものは、もう2センチくらいの濃い緑の果実になっているのに、同じ枝の中に、今頃、遅れて花開いているものがあるのが不思議である。

ここ2週間ほど、大野一雄先生の、昔録画したVTRや、「稽古の言葉」や「舞踏譜」や「夜想」や、その他もろもろの大野一雄先生の言葉を読んでいた。

私の個展のときに、おみやげに持ってきてくださった画家のおじ様(お母様の兄弟)の個展の図録「池田淑人展」(1979新宿小田急グランドギャラリー)の図録や、大野一雄先生直筆メモのあるパンフレットや……。

もったいない。苦しい。

今さらながら胸がつまる。同じ時代に生きて、お会いできただけでも幸運なのだが、亡くなられたことが今だに受け入れ難く……。もう二度とあんな人には会えないのだという悲しみに心が塞がれる。

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