2013年3月29日 (金)

最後の阿佐ヶ谷住宅 桜

3月28日(木)

桜が散る前に阿佐ヶ谷住宅まで歩いてみる。壊されているのを見るのが怖かったのだが、植木を刈ったりしていたが本格的な破壊はしていなかった。

大好きな場所での最後の桜が見られた。やはり前川國男はすごい。建築家というのも素晴らしい才能の人間と汚らわしい奴とが設計したものにはっきり表れる職業だと思う。

緑地の中をS字にカーブする道、174戸のテラスハウスも知れぞれの庭も均一な形状ではなくいろんな個性があり、さまざまな場所が入り混じって個別でもあり融合してもいる、すべてが有機的にうごめいている生きもののような場所だった。

テラスハウスの前の錆びたブランコの柱と片側の枝を切られたアシンメトリーの桜の樹。

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この三角形の枝振りが好きだった。平屋のテラスハウスの前の庭にはシロツメクサとタンポポが咲いた。

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阿佐ヶ谷住宅案内図と桜。

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ひろびろとした原っぱを前に気持ちが落ち着くこの構図を幾度の春、見たことだろう。

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草木が茂った小道がいくつもあった。(きょうはだいぶ草木を刈られてしまってはいたが。)それそれが違う雰囲気を持ち、この小道をくぐり抜けたらどこに行くのだろうと思わせた。

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南天、椿、棕櫚、雑然として生き生きした草木の中を抜けるとぽっかりした空間があるようにつくられている。

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このあたり、「蛇のひげ」の茂みから出てきた大きな蛇と出会った場所。

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いつも静かだった一角。

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団地とテラスハウスの中を通るバスも通る道。

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団地の庭。梨の花が香気を放っていた。錆びた手すりも共鳴していた。

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山桜はもう散っていたが梨の花は今が盛り。

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李(すもも)の樹は花が散って新緑になっていた。日差しが強烈になる頃、たわわに実る李を見せてくれた大好きな樹。この李の樹にくっついた家には子供がいた。

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李の樹の横にも優しくうねる細い小道があった。蕗の薹の花がいっぱい。

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阿佐ヶ谷住宅の後ろはすぐ善福寺川。今年もまた、「あいおい橋」からのの桜を見ることができた。

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小学生の男の子から「すみません。この近くにロケットみたいな公園ありますか?」と尋ねられ、私はわからなかったのだが、通りすがりのご婦人が「ここからだと随分歩くわよ。大宮八幡のちょっと手前。」と言った。ロケットのかたちの遊具があるの善福寺緑地公園のことらしい。

善福寺川から一歩はいるとすぐ団地。お母さんを車椅子に乗せて桜を見せている男の人がいた。

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阿佐ヶ谷住宅の魅力は、植物に覆われた空間。たくさんの「裏」と「陰」と「隙間」。均質でなくそれぞれが個性的な個々の場所の融合。

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この薄い陰になる小道も美しかった。くぐり抜ければ真ん中の広場に出る、その裏にあるだけで静かな陰影の小道。

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広場を子どもが駆けていた。いつも桜が満開の時期でもあまり人がいなくて、ひろびろしているのも好きだった。

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この家も周りの植木などが一段とおしゃれで好きだった場所。

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その近くに、いつも阿佐ヶ谷住宅で会う猫ちゃん。友達を見つけてしのびよる。

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いつも同じ場所で仲良しの、いつもの2匹だ。

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6月には眩しいほど鮮やかな立葵が咲いていた45番の棟の前。今はハナニラ。

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45番の棟を桜並木側から見た風景。裏が表でもあり、さまざまな光の質があった。

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小さなわんこが家に帰りたくないとむずかって強力に抵抗していた。

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大好きな古木の桜並木。

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桜に限らないが、大好きな草木を大好きな人とふたりで見られた記憶ほど素敵なものはない。

桜の花吹雪、川面の花筏(はないかだ)。春女苑、ジシバリ(地縛り)、モジズリ(ネジバナ)、シロツメクサ(白詰草)、菫、藤、ミモザ、スモモ(李)、花桃、柘榴、獅子柚子・・・・

一緒に見た人、写真を撮ってくれた人、写真を撮らせてくれた人、静かで美しい時間をありがとう。

3月27日(水)

N病院。Y院長から「ごめ~ん。お母さん、きょう転んじゃったあ。」と言われる。レントゲンを撮ったが怪我はなしとのこと。

3月26日(火)

12時~3時の約束なのに11時30分に配送業者から「外で待ってます」との電話が来て焦る。ついに新しい冷蔵庫が来た!!!

木曜から死にそうになるくらいの荷物(主に絵のパネル)の大移動と掃除を続けて、やっと終わった。昼からビールもどきを買ってきて新しい冷蔵庫に入れてみる。そして飲んじゃっている。

3月25日(月)

母の骨折入院以前の訪問診療の主治医に処方を出してもらえないので、N病院退院直後にN診療所で診察を受けて処方を出してもらえないかをN病院の3Fのメディカルソーシャルワーカーに尋ねるようにケアマネさんに言われたので、そのとおり電話で尋ねる。

初めて電話で話したが、3FのMSWのSは2FのMSWのKさんと違って感じが悪く冷たかった。(電話中なので電話が終わったら電話させます、と言われてから一時間以上、。痺れをきらして電話してみたらすぐ出るとか。)

その後、ケアマネのMさんに電話で相談。

再びN病院に電話。この前の面談に同席してくれた看護師のUさんをお願いしたがきょうは休みで、かわりにYさんが聞いてくれる。Yさんはお顔がわからないが優しい人。

入院以前にショートでずっとお世話になっている施設K苑のKさん、SホームのHさんに、電話で介護度が急に上がったので特養のほう、よろしくお願いしますと言う。

その後、手持ちの余っている薬を確認したら8週間分ほどあったので、老健FのOさんに電話。N病院の出してくれる薬2週間分と合わせて、なんとかその期間だけでも入所させてもらえるようにお願いする。とりあえず即、申し込み書類を書いてくれと言われる。会議で審査するとのこと。

もし老健Fに3か月入れたとしても、その後はどこに行けるのだろう。

夕方、母の夕食の介助にN病院に行く。冷蔵庫買い替えのために三日N病院に行けなかったら、もう、すごい量の洗濯物がたまっている。

Y院長あての手紙に、母の薬のあまりがあった件と前の訪問診療の主治医の薬に関する意見のファクシミリのコピーを添えて、療法士のKさんに伝え、看護師のMさんに手紙を託す。

3月24日(日)

Hちゃんが来てくれて新しい冷蔵庫を部屋に入れるための荷物の大移動。ほとんど場所を占めているのは絵のための紙を張った木製パネル。

冷蔵庫の後ろ側を拭いたり、急な大掃除で筋肉痛。

夕方7時頃、新宿に出る。ヨドバシでシャープの人にいろいろ尋ねる。結局シャープの157cmのものを買う。

疲れ果て、gewaと登り亭でうなぎを食べる。懐かしい店。小さい頃、よくおばあちゃんが連れて来てくれた。昔はこげ茶色の木の素材のイメージの店だった気がするのだがインテリアは変わっていた。うなぎなんて高騰してもう二度と食べられないと思っていたのだが、登り亭は急な値上げ後、また値下げしたらしい。

3月23日(土)

溶けたエビを炒めたが、大好物のエビが、エビだけだと気持ち悪くて食べられない。

3月22日(金)

母の骨折入院前の主治医(訪問)にファクシミリでたずねたら、今定期的に訪問診療していないので、制度上、老健のための薬は処方できないとのこと。これで老健の3か月の薬の処方をお願いするために無理に一時帰宅させる意味は無くなった。

新宿のヨドバシカメラに冷蔵庫を見に行く。左ドアがないこと、大きすぎるか小さすぎるかで140cmくらいの高さの品がないことにショック。LABI、ビックカメラと廻るが無い。すごく疲労。

小さい冷蔵庫では私に絶対必要である花を花瓶ごと入れるスペースがない。大きすぎる冷蔵庫は電子レンジを載せられない。

3月21日(木)

母の主治医が院長のY先生にかわってから初めての面談。

母のリハビリは3点について成果があがっているとのこと。認知状態、食事(手作業、咀嚼、嚥下)、歩行(車椅子から立ち上がって移動の訓練)。

N病院はリハビリ専門なので3か月で出なければならない。転院後どうするのか決めてほしいと言われる。

院長Y先生は前の主治医のように病院の都合で、絶対帰宅しなければならないとは言わなかった。今の状態では自宅で家族が介護するのは無理だと思うと言った。

老健に3か月入るとしても、N病院では2週間しか薬の処方ができないとのこと。骨折する前の主治医に薬について意見を聞いてほしいとのこと。

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菫の鉢の土に氷をのせてあげようと思って冷凍庫を開けたら、氷が解けていた。冷凍食品全部が解けていた。え?!という感じだが、いきなり冷蔵庫の冷やす力が切れている。冷蔵部分の灯りだけが点いている状態。とりあえず百均で保冷バッグを買ってきて、クイーンズで保冷剤をいっぱいもらって来て溶けたエビを冷やした。

Hちゃんに電話したが留守。深夜来てくれて冷蔵庫を動かして電源の確認するのを手伝ってくれる。牛乳を2本預かってもらう。

冷凍庫の中のナウマン化したさまざまな商品を捨てる。それでも、どうしても捨てられないものは・・・・・・

銀座O画廊の個展に来てくださった鈴木清順監督がくださったマキシムのチョコレートとか――いただいたの、もう8年くらい前だっけ・・・・・??清順先生が80歳を超えた頃だと思う。

鈴木清順さん、お歳を召しても全然変わらず、すごくセクシーで、かわいくて、頭がキレて、天才肌で、気取らなくて、大好きな人だ。清順先生と言葉を交わした瞬間の時間、本当に、思い出すだけで好きすぎてかーっとなる。

愛するホルスト・ヤンセンの愛娘ランメ(カトリン)さんがくれたチョコレートも箱ごととってある。ホルスト・ヤンセンの教師アルフレート・マーラウが箱のデザインをしたチョコだと言って私にくれたのだ。

「1947年にわたしの教師アルフレート・マーラウは、わたしが偉大な素描家になるだろうといった。」というホルスト・ヤンセンの言葉が残っている。才能のある教え子に出会えることは、教師にとっては千載一遇の幸せ。生徒にとっても一生に初めての素晴らしい瞬間。マーラウはヤンセンほど有名にならなかったが、マーラウもすごい見る眼のあった人だと思う。

笠井久子さんに私の個展の時にいただいたデメルの猫の舌というチョコレートも、なんかもったいなくて食べられなくてずっと箱ごととっておいた。意外とブルームも出ずにチョコは劣化していないみたい(まだイケル)。

3月20日(木)

N病院。すごくかわいい療法士のK・Hさんに声をかけられる。きょう、母を屋上の花壇に連れて行ってくれたそう。誠実なだけでなくチャーミングなK・HさんにP.Tを担当していただいていることは本当に幸せだ。

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2013年3月10日 (日)

『デッサンの基本』 第15刷 / ドクハラ、N病院の事務局長に直訴した話

3月6日 

『デッサンの基本』(ナツメ社)第15刷となりました。

買ってくださったかた、置いてくださった本屋さんにに心より感謝です。

「デッサン」とは何か――いろんな考え方、描き方がありますが、鉛筆で描く素描について、初めての人にも人にもなるべくわかりやすく説明した本です。

これから「デッサン」をやってみようかな、と思うかた、仕事上「デッサン」が必要なかた、本を見ていただけたら幸いです。

最近、私は季節がら、チューリップの花の素描をたくさん描いています。

チューリップの花が「サイタ、サイタ・・・」と童謡に歌われるような花ではなく、妖しくて奇妙な魅惑的な花だと思えるのは、最初にそのまったく甘くない不思議な匂いをかいでから。

それからその不思議な曲線を鉛筆の線でていねいに素描してみてからです。

ただ見ているとき、写真を撮るときにもわからないことが実際に描いてみるとわかる、今まで見えなかったものが見えてきて、どんどんいろんなことが見えてくる、といことが素描(デッサン)にはあります。

そうすると描く意味がわかってきて、漫然と見るのではなく、何を描くのか、何を見ているのかが初めてわかってきます。

自分の感情や頭の中で勝手につくりあげるのではなく、自分の外側にあるものをよく見て、そこから受容する、というのがデッサンの基本のように思います。

最近の鉛筆素描、チューリップ(エステラ・ラインヴェルト)。

眼で細部を追いながら鉛筆の線を引いていると、写真に撮るよりもずっと自分の身体の記憶、自分の肉体の中に花の経験が残ると感じる。

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チューリップ(パロット・キング)。開花して散る寸前。

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アプリコット・パロットよりも黄色が濃いチューリップだが、その鮮やかな色を水彩で塗ったものと、鉛筆の線だけのものと、両方描き残した。

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鉛筆の線描のときは、植物の生きている運動に目がいっている。描いているうちに植物が動いているのがよくわかる。

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これまで1か月近く、私がすごく苦しんでいた母の主治医のドクハラについて。勇気をもって医療ソーシャルワーカーに主治医を替えてもらいたいと訴えたが3階の看護師長に訴えを握りつぶされ、さらに勇気をもって病院事務局の事務長に直訴したら替えてもらえたいきさつ。

3月6日

N病院に母の夕食介助に行くと、院長のY先生に声をかけられ、母は難病指定を受けているのかと聞かれた。

パーキンソン病の難病指定を受けていると答えると、「そうですか、難病の患者さんだってことが皆に共有されてなかったので。」と言われて、そんな重要なことが認識されていなかったのか、とびっくりした。

そういえば面談の時に、前の主治医Nに「パーキンソン病じゃなくて症候群でしょ?」と妙なことを言われたのだ。前のH外科病院からの引き継ぎはどうなっているんだろう。

また、「前の主治医Nが母の薬メネシットを1日4錠出しているが、僕の考えではあの体重で4錠は多いと思う。減らす方向で考えたい。」と院長先生に言われた。

母は入院前はずっと1日2錠だったのに、N医師に増やされていたこともそのとき初めて知って驚いた。今どういう処方をしているのか説明してくれるだけでも、主治医を替えてもらって本当に良かったと思った。

さらに、前の主治医Nに、母のことを「データに異常ないのに苦しい苦しいって騒いで狼少年だ。2階にいる時(自分んの担当ではない時)に苦しくなってくれればいいのに。」という暴言を吐かれた件について、

「CTを診たら胸水が溜まってたんで。心臓が苦しかったんだと思う。」と言われた。

いったい何?!という感じだ。ちゃんとデータに出てるんではないか。N医師に対する怒りと嫌悪感が収まらないが、Y院長は、いわばN医師の誤診を認めてくれているわけで、正直に言ってくれることに非常に信頼感を覚えた。医者どうしは非を認めないでかばい合うと聞いていたので。

Y院長は「身体状態もだいぶ良くなってきたと思う。手引き歩行できるくらいまでがんばりましょう。」と言ってくれた。

今まですごく苦しかったが、思い切って主治医変更を訴えて本当によかった。このY院長を信じてがんばりたい。

これまでの経過まとめ。

2月7日

母が2階の一般病棟から3階のリハビリ病棟に移された際、胸が苦しいと言って苦しみだした。私が4時30分ごろ行くと酸素マスクをつけて寝ていた。

担当の看護師さんから「顔が真っ赤になって胸が苦しいと言っていたから心筋梗塞かと思ったが、CT、心電図などに異常なく、血圧は188に上がっていた。」と説明を受ける。

2月15日

3階に移ってからの主治医、Nと初めての面談。看護師長も横にいるがずっと記録を書いている。

母が胸が苦しいと言ったことについて「苦しい苦しいってデータには出てないのに狼少年だ。」と言われたのでびっくりした。母は嘘をつかない。

「リハビリの効率が悪い。話が通じない。変なことばかり言うのよ!」と悪しざまにののしられた。母はパーキンソンで認知症で、少し譫妄があるが、それがののられるようなことなのだろうか。N医師はすごくイライラしている様子で認知症があると面倒だからもう家にさっさと帰ってもらいたい、という言い方。

N医師はリハビリの専門医なので、自分の業績が効率よく上がらない患者はいやなのかと思う。N医師への怒りと同時に、変に逆らったら母がどういう扱いを受けるかわからないのでどうしたらいいかと胸が苦しくなる。

帰宅してからケアマネさんに電話で相談。人間性を信頼できないので主治医を交代を相談すべきと言われる。

2月18日

15日は金曜だったので、18日月曜にメディカルソーシャルワーカーさんに相談。主治医を替えられるかは3階の師長の権限による、と言われ、返事待ち。

2月25日

もう一度、ソーシャルワーカーさんに駄目押しで主治医変更をお願い。

2月26日

母の食事介助中、3階の看護師長Tに声をかけられ、「きのう相談室に行かれましたか。」と言われる。

看護師長Tは何食わぬ顔で「次の面談希望日は」と言うので「主治医を替えてくれないかぎり、次の面談には応じられません。家族としては受け入れられません。」と言うと、「規則ですから。じゃあ3月8日でいいんですね。」と平然。

母の目の前で冷笑するような無感覚な態度をされて背中にどっと汗が噴き出してきた。

さすが面談の時N医師がヒステリックに母の病状をののしっているときに、一度も顔を上げず平然と記録を書いていただけある。医師のやることは絶対で患者や家族の気持ちなど無視。冷淡かつ事務的にことを進める人だ。

師長がこんな態度では、もう打つ手はないんじゃないか、と絶望的な気持ちになる。しかし患者に対してまるで思いやりのないN医師には母をまかせられないし、二度と話したくなかった。

この嫌な感じ、病院組織という権力に立ち向かえるのか、という不安でいっぱい。

病院を出るとき、玄関に病院の責任者の名前が張り出してあったので、苦情はこちらまで、と書かれていた事務局長のケイタイをメモして帰る。

夜、病院長Y先生と事務局長Aさんに渡すための直訴状をワープロで書く。

2月27日

5時、N病院事務局長Aさんと話す。

病院の向かいの薬局の建物が建友会の建物で、その2階の会議室に呼ばれた。管理師長のHさん(優しそうな女性)も立ち会ってくれた(立ち会いの人が来てくれるのは安心)。

ことによっては事務局長も病院の非は一切認めず、患者家族は泣き寝入り、ということになって、今よりもっと悪い状況になるかもしれないと思い、非常に緊張していた。

Aさんは話が通じる人で、「それは人権侵害に当たりますね。」とはっきり言われた。

「患者家族と医師の信頼関係がないと無理ですね。主治医を替えられない決まりというのは綱領に書いてあるわけではなく、皆がそういうことを言い出したらきりがないからという意味で、理由がある場合は替えるべきです。」と言ってくれた。

「このたびはNが大変失礼なことを言って申し訳ありませんでした。」と謝ってくれた。

文書に残すためAさんに書いてきた手紙を渡し、院長にも直接話すのはどうか、と尋ねると「医者どうしはかばい合う傾向にあるから、それがいいのかわかりません。」と言われる。これも正直な発言。

N病院は全国的組織である民医連の持っている病院だそう。

その後母の夕食介助をしながら私が赤ん坊のときの母と私の写真を母に見せていたら、院長先生が来て「あれ、昔の写真、いいね~、僕の娘なんて僕にそっくりなんだから~。」と笑って話しかけてきたので、手紙を渡そうか、どうしようか、とどきどきしたがやはり渡せなかった。

2月28日

事務局長Aさんから電話。午前中に話して主治医を院長先生に替えてくれたとのこと。

とりあえず突破!

安心というより、しばらくは胸の嫌な緊張が収まらない感じ。しかしやるべきことはやったのだ。

 

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2013年1月31日 (木)

チューリップ(モンテ・オレンジ)水彩素描 

2月7日

ここ2週間ほど日を追って描いていたチューリップの素描(クリックすると大きくなります)。時系列は上から順番。

オレンジの八重のチューリップはモンテ・オレンジ。少し花弁が尖っている赤の八重のチューリップは、名前不明。全部で10本。

1月24日の開きかけ。チューリップは同花被花(萼と花弁の区別のはっきりした異花被花に対し、萼と花弁の区別のない花。内側3枚の花びらが花弁で外側3枚が萼)。

特に八重咲きやパロット咲きのチューリップには、萼のような葉のような花びらのようなものがついていることが多い。そういう奇形に美しさを感じるので、そういう個体をよく選んで買っている。(画像はクリックすると大きくなります)

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チューリップの花の裏側のツヤとガラスのように張った感じ。

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モンテ・オレンジと赤い八重のチューリップの正面。花弁に雄蕊がくっついていたり、花弁だが蕊だかわからない状態に混じったもの多数。

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花びらが開いて逆反りになって少しつっぱったような力の線に美しさを感じる。

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つっぱった力がしなだれてきた頃。個体によっては乾いて縮れてきた。

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かさかさ、ぱらぱらになった頃。

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夕方N病院へ。3Fのリハビリ病棟に移ったと聞いて、快復に向かったのかと期待したのに個室にいて鼻から酸素吸入していたのでショックを受ける。朝10時に移動させてから顔が真っ赤になり、心筋梗塞かと思ったが、血圧が188まで上がっていた、あとは脳にも血液にも異常なし、と言われた。

私が着いた時にはしっかりしていて、私に「起こして。」と言った。私の手を両手で握って、「かわいそうに氷みたい。代わってあげられればいいのに。私は寝てばっかりいるから温かいのに。」と言った。

食事の許可が出たので食べさせるが、クリップみたいなもので指に留めている酸素濃度を計測する機械の数値が95まで下がったら呼び出しボタンを押してください、と看護師さんに言われる。

食事中、なんとかおかずと林檎のすりおろしを食べたが、途中で眠ってしまう。そのあと少し譫妄。食べ物が口に入ったまま起きないので看護師さんに言うと、強く起こしたが起きないので口の中に棒の先にスポンジが着いたものを入れて掻き出そうとしたが口を開けない。チューブで吸引しようとしたが嫌がる。そのあと一瞬眼が開いたのでお茶を飲ませてなんとか口の中の食べ物を嚥下させる。

2月6日

雪は予想より少なく、雨に変わった。寒い日。駅の向こうの花屋に行く途中で耳がキンキンに冷えてズキズキした。

八重のピンクのチューリップ(フラッシュポイント)と白地に紫のすじのはいったチューリップ(フレミングフラッグ)を買う。

2月5日

N病院での介護認定に立ち会う。きょうは夕食時も傾眠で眼が開かないままだったのでどうしようかと思いながら食べさせる。カリウムとカルシウムの補給のため昆布の顆粒(無塩)を食事に混ぜる。

食事50分くらい経ってから眼が開く。急に調子がよくなり、おかゆを自分で完食。

2月4日

N病院。夕食時調子がよく、母の小さかった頃の母の両親のことなどよくしゃべる。母は麻の糸をつくって染め、機を織って着物をつくっていたこと。父はすごい根気と丁寧さをもってきめ細かい炭を焼いていたこと。父の名前の話で、母がすごく久しぶりに笑ったのを見た。

TVの画面で、小田原の海に立った大きな虹の映像を見て、「きれい」と母が言った(ここ5年くらい母がTV画面に反応したことがなかったので嬉しかった。)

2月3日

N病院。母に昔の写真を見せたら反応があった。私の赤ん坊のときの写真や母の母と5才の私が母の生家の庭の池でお皿を洗っている写真など。久しぶりに話が通じているので涙が出た。(やはり栄養不足で神経回路が悪かったのかと思う。)

夕食、1時間以上かかったが、入院後初めての完食。最後は自分でスプーンでおかゆを食べることができた。

2月2日

N病院へ。妹は、母に対して、愛情や同情や共感がないのであれば介護するふりなんてしないでほしいと思う。本人の感覚では自覚がないのだろうが。

狸小路の子猫たちが飲み屋のウィンドウの前の棚のところに座っていた。かわいがられているなら本当に良かった。

夜。K・Tに電話。気持ちが通じない人だというストレスで気分が悪くなったら、胃の下のほうが痙攣して夕食を全部嘔吐。頭痛に耐えて寝る。

2月1日

昨日歩き廻ったせいか筋肉痛。治療院ですごく硬くなっていると言われる。

6時にN病院へ。なんとかおかずのみ完食。いろいろ苦しそうでたいへんだった。

8時頃帰宅してからきょう初めての食事。きのう読んだ本につられて、柚子の香りのする天婦羅蕎麦をつくる。

1月31日

母の病室へのG歯科の訪問診療に立ち会うため、4時にN病院へ。

診療後、6時まで中野ブロードウェイをうろつく。3Fで探していた某漫画家の1970年頃のコミックスを315円で発見。あまり見たことがないレア本なので購入。その後、水木しげるのレターセットや工作キット、楳図かずおのTシャツなどを見、ドイツ製のビザーレのポストカードをチェックし、大好きなコサージュ作家の作品やミリアム・ハスケルのネックレスやローズ・オニールのQPを見、地下に降りて昭和の雰囲気そのままの商店街を見て歩いた。8段もある390円のソフトクリームや、スナックと飲み物セットで300円のお店や、いろんな鉱物結晶を売るお店を眺めて歩いた。

暮れた狸小路の蕎麦屋の横にに3匹の赤ちゃんの野良猫がいた。どうかかわいがられていますように。

6時にN病院に戻り、母に夕食を食べさせる。なんとかおかずのみ完食。

1月30日

宮沢賢治『蜘蛛となめくじと狸』から『寓話 洞熊学校を卒業した三人』への変貌。

これは生き物が生き物を食って大きくなろうとする残虐な殺戮の話だが、「なるほどそうしてみると三人とも地獄行きのマラソン競争をしていたのです。」という一行で終わる初期の『蜘蛛となめくじと狸』のほうが、私の心には強く響いた。

1月29日

母、転院。9時30分にH病院へ行き、会計清算。ケアマネのMさんが書類を届けに来てくれる。Mさんは顔中に怪我。大雪の後の凍結した上をいつものように自転車で走って転倒し、同じくH病院でCTを撮ったそうだ。介護の仕事も命がけだ。

10時に介護タクシーが来る。中川幸夫先生が住んでいた近くを通り、紅葉山下を通って中野へ。N病院まで6020円。母がレントゲンを撮っているあいだ壁に貼られたN病院便りを見ていると、反原発デモに手作り横断幕で参加しているリハビリ職員さん達の写真があった。12時から昼食を50分かけて母に食べさせる。おかずのみ完食。

そのあとピザの店で休んだが、きのう眠れなかったせいで喉を通らない。

1月27日

25日にベルリンからメールがあり、新年の挨拶とスカイプで話したいと書いてあった。忙しいので、まず用件をメールで書いてください、と返事すると返事が来ない。

他人から一方的に甘えられること、理不尽な要求をされることが、もう本当にうんざりなので、用件のみを聞くようにすることが今年の決意。

1月26日

母の夕食の介護に行くと、向かいのベッドのマーガレットさんに呼ばれ、左手にキスされた。1947年くらいに日本に来た宣教師さんらしい。

1月24日

名古屋のいずみ画廊の小山さんより藤田嗣治展のご案内に添えて丁寧なお便りをいただく。「浅田真央さんは、2年前、世界選手権で不調だった時、小塚崇彦君といっしょに食事しました。テレビで見るとおりの聖女でした。」とのこと。

1月23日

チューリップ(モンテ・オレンジ)を買う。

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2012年11月10日 (土)

個展 キッドアイラックアートホール 11,7~12

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11月7日

1階は劇場、3階と4階は信濃デッサン館の収蔵品からいくつかの大正時代の画家の素晴らしいデッサンが展示してあります。

私の個展している5階の小さなギャラリーは、以前「高間筆子美術館」だったところ。筆子さんは大正時代に二十一歳で夭折した画家です。

http://www.kidailack.co.jp/?page_id=2

オープンいの一番でいらしてくださったのは平凡社の清水壽明さん。今回の本の最初の部分の英訳をしてくださった佐藤亨先生が最後までいらしてくださって、いろいろお話しできたのには感動した。佐藤先生は絵も写真もわかるかただった。そしてKIDの建物が引っ越していたので、迷いに迷ってたどり着いたという毛利武彦先生の奥様との対面に涙。毛利先生を思い起こすのは、やはり銀箔の腐蝕の作品シリーズだとのこと。卵型の新作には、創るのではなく生まれるものの凄さについての言葉。

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11月8日

U社の社長さん、お忙しいから無理と思っていたのにに来てくれた!みすずの浜田優さんと一橋大の鵜飼哲さんにはスライドまで見ていただいた。

11月9日

U社の社長さんのご紹介で、慶応高校美術部時代の毛利先生の教え子だという車さんが来られた。それから、ブログをずっと見ていてくれて、このためにわざわざ仙台から来てくださったと言うTさん。ありがとうございます。

11月10日

個展、半分終わり、あと3日間となりました。

私は毎日1時から8時まで会場にいるので、気がむいたらぜひおいでください。

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きょうはいろんな人がいらした。K美術館の越沼さん。それから旧友も。私の高校の部活(音楽系)の大先輩のKさんの教え子で美大の1年生だというNさんが、黙って、私になんの質問もせずにじっと絵を見ていてくれたことが心に残った。

堀内宏公さんの「ものの断片をそのまま見せる、そのリアリティ」という言葉。本をすでに書店で少し立ち読みしてくださったそう。文章についても、絵や写真についてもそうで、批評というなんらかの分類や位置づけをする言葉が不可能だ、というような言葉をいただいて胸が詰まった。

早稲田大も谷昌親先生もいらしてくださった。谷先生はシュルレアリスムの専門家なのに、デカルコマニーの技法など尋ねても決して得々と語ったりしない謙虚な人だ。

そして19歳のころ、一緒にバンドをやっていたベーシストのN君。オリジナル曲でラジオ番組に出た時のバンドのテープを今も聴いているという。部活でふざけあっていた高校生の頃の感覚でしか相手を見られない不思議。

11月11日

きょうはあいにくの冷たい雨の日曜日となりましたが、意外にもたくさんのかたがたに来ていただき、すごく嬉しかった。

ブログを見ていてくれたという、姿も知らず、しかし本当にネットの向こうにいてくれて、遠くにいて繋がっていてくれたかたが、実際に会場にきてくださったこと、本当に嬉しく、胸が痛かった。いつもブログを書くとき、もちろん見知らぬ誰かに向けて書いているのですが、誰かが読んでくれているかもしれない、と思うことができない。なんだか、誰か見てくれる人なんているのかな~、と思いながら、無心で書いているので、ネットで発信していたことを誰かが気に留めていてくれたことに泣けてしまった。旧友にも会えたし、本当に良い人たちと会えている幸せに涙が出そうになっった一日でした。

明日はいよいよ個展の最終日。私は1時からラスト6時まで会場にいます。6時からは片づけやってます。気が向いたら会いに来てください。

ちなみに、私は、初めての個展のときから、自分の個展のときには、必ず全日、全開廊時間、会場にいるようにしています。休憩とかしてるあいだに、大切なお客様が来られたら困るから、後悔しないようにいつもいます。

久しぶりに会えた穂村弘さんと。眼のこと、心配だったのだが、元気そうでよかった。

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すごい売れっ子になっちゃったんで、私のからは緊張してメールも電話もできなくなっちゃったんだけど、淡々として正直なしゃべりかた、昔と変わってないね。

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点眼液の副作用で、彼の目はフランス人形の目のように睫毛が濃く長くなっていた。とりあえず、写真をうpしてもよいと許可をもらった穂村弘さんの画像を載せました。

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11月12日

プロジェクターで壁上部にスライドを上映。

曲はベルリンの街の写真にはHuman expression “ Every Night”(1966)

http://www.youtube.com/watch?v=DdHS8omO4OY

Stefanの写真にはアファナシェフ演奏のドビュッシー「雪の上の足跡」

http://www.youtube.com/watch?v=lhBPO6XJoJA

とグリーグ「孤独なさすらい人」

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もう終わると思うと淋しい最終日。函館から写真家の高橋亜希ちゃんが来る。久しぶりに会えて、彼女が元気できれいになっていたのがすごく嬉しかった(彼女にもすごくたいへんなことがあったから心配していたのだ)。

高校の大先輩のKさんが来てくださったことに本当に驚いた。Kさんも身内の介護ですごく忙しく、とんぼ返りなのに、遠いところから車で来てくださった。

もうとうに私のことを忘れているだろうな、と思っていたような人が来てくれる・・・・個展というのは不思議なイヴェントだ。

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2012年5月21日 (月)

味戸ケイコさん個展 / 罌粟、薔薇

5月19日

味戸ケイコさんの『夢違』(恩田陸の新聞連載小説)挿絵原画展を見に銀座のSAgalleryへ。

294点あった。これはほしい、と思ったものは2点とも売約済みだった。青緑がかった銀色の雲の切れ目の中に入っていく少女のスカートと足だけが見えるもの、ブランコに揺れている少女の影が地面に映っているもの。味戸さんに聞いたら、ブランコのほうは作者蔵とのこと。

生で見ると、ていねいに重ねた鉛筆のタッチの肌合いがよくわかる。薄暗い懐かしい記憶を呼び起こしてくれる淡い光と影。

味戸さんは茶色のワンピースの胸に、野の花の小さな花束をつけていた。細い銀のシリンダーのような、水を入れて生花を挿せるブローチ。初めてお会いした時から少しも変わらない。静かで清楚で濃やかな雰囲気の少女のようなかた。

閉廊時間を過ぎ、そのあといくつかの馴染みの画廊を見に行ったら、いくつか無くなっていた。銀座も刻々と変わっている。

5月20日

母の洗濯物を取りにFへ。その前にお気に入りの場所で植物と遊んだ。

花弁のふちが黒紫のレースになった枯れかけの薔薇が美しいと思う。

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俯いた薔薇の顔(かんばせ)。
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秘密の花園。

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萎れかけたジャーマンアイリス。

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衰微とともに曲線に表情が現われるジャーマンアイリス。
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茎からねばねばした液を分泌するムシトリナデシコの蜜を吸う揚羽。

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この場所はひっそりとして、日本じゃないみたいに感じる。

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ゴジュウカラか、きれいな声で鳥が鳴き続けている。

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花弁のふちが黒紫になった雛罌粟。
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群れの中で、枯れかけた花の美しさばかりに目が留まる。

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雛罌粟の朱の花弁の上に散り零れた黒紫の花粉を見ていた。

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2012年4月23日 (月)

アネモネ Anemone

4月23日

アネモネ。はないちげ。ぼたんいちげ。風の花。風の薔薇。(クリックすると拡大します)

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アネモネの花弁に見えるところ(本当は萼)に走る緑のすじ。赤の中に鮮烈に走る黄緑。

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紫のすじが脈にそって走るアネモネを描きたかった。
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葉の部分に紅色の花弁(本当は萼)が混じるアネモネ。

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茎が激しく捩じれている白い花のアネモネ。

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アネモネの茎の捩じれの微妙な変化を刻々と追った。

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母を西早稲田のFに送る。いろいろ気をもむこと、気疲れすることがいっぱいだが、少しずつ素描はできている。

アネモネと自分の関係性と個人的記憶のための素描。

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2012年4月20日 (金)

スミレ すみれ 菫 /  S社 

4月17日

S社に行く。後楽園の駅を降りたらそこら中にたんぽぽが満開。道の端には至るところノジスミレ、ニオイスミレ、タチツボスミレ。パレットナイフの形の葉と濃い紫の花の「スミレ」(私はハート形の葉でなく、パレットナイフ形のスミレが特にに好きだ)はなかったが、大好きな菫にたくさん会えた。

最近ずっとスミレとアネモネを描いている。

ゆうぎり」というスミレ 菫 相撲取草(すもうとりくさ)

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これもユウギリスミレ。実際の絵はもう少し赤味のある紫。葉はもっと青味の強い緑。

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ユウギリスミレとアマナスミレとスミレ

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昔買ったままになっていた小さな額のために描いたスミレとユウギリスミレ

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Viola mandshurica 上と同じもうひとつの額のためのスミレのヴァリアント。

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スミレの素描

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2012年4月13日 (金)

中川幸夫 墨痕淋漓

4月9日、 11日

中川幸夫先生を思いながら川沿いを歩く。颶風起き、花の嵐。道の縁の濃い色の菫を探して歩いた。

中川先生の美しい書を、全身が一本の凛としたものに貫かれた仕草を思い起こしている。

墨痕淋漓。

「花」という未知のものに対峙する中川先生の言動、態度そのものが、余計なもののない花であった。

自分にはわからないものを追うとき、やってはいけないことを問うことだけがやるべきことであると思う。それは相手が植物であっても、動物であっても人間であってもそうだ。

予想していたことだが密葬であったことにとてもほっとしている。葬儀というものが、生き残った者の余計なおしゃべりによって、死者を悼む気持ちがずたずたに引き裂かれる場所であることを、もう厭というほど繰り返し経験したからだ。

中川先生の際立った書も、見ても何も感じない人もいる。優れたものが多くの人に好かれるわけではなく、むしろ際立てばそれだけ大衆から乖離するのは当然だ。気持ち悪いのは、何もわかっていないのに「わかる」とか「素晴らしい」と強弁する人だ。

この世には「畏怖」ということがわからない人がたくさんいる。畏れ、控えるというところにしか敬意は存在しないのだが、眼があれば、その人のやっていることを見たら恥を知るはずなのだが、廉恥というものがない。

自分がその人のすごさが何をもってすごいのか、その根本が全く理解できないので、隔絶を認めず、自分と大して変わらない人間だと思い込もうとする。実際には截然たる鴻溝があるのだが、ものすごい恐怖や緊張を感じることがない(感じたくない)。敬愛すると強弁しながら自分の場所に引きずり落とそうとし、わからないものを平準化して安心しようとする。自己愛の同語反復。その度を越した僭上と自己顕示が怖い。

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2012年4月 8日 (日)

中川幸夫

4月7日

中川幸夫先生が3月30日に逝ってしまったことを知る。93歳。新聞に小さく載っていたそうだ。

脳の中に映写機があって、くすむことのない陽の光に満ちた映像がいつも回っているように、中川幸夫先生と過ごしたときの数千の絵が繰り返し見える。

新中野の小さなアパートへ行く道。風呂屋に繋がれていた犬。神社の桜の古木。塀の片隅に咲いていたハルノノゲシ。古い家の木の看板。市場の跡。アパートの急な階段。発砲スチロールに植えられていた植物。ビニルのかかった手作りの郵便受け。ドアを開けたところにかかっていたユニオンジャック。

あの最高に晴れやかな笑顔。はにかんだ顔。驚いた顔。とても表情豊かで、率直だった。

抜群に頭のいい人だった。話が端的で回転が速くて面白いことが大好きで、その言葉と表情に私は魅せられた。いたずらっぽい冗談を言って、私が大きく反応して驚いたり笑ったりすると嬉しそうに笑っていた。

非常にはっきりと人の批判をされることもよくあった。そういうときの的確で短い言葉にも、いつも感心したものだ。くだらないことが嫌いで、厳しくて、愛らしいひとだった。

ものすごく洗練されたかっこよさを持つ人で、高い集中力とともに、余計なものがなくて、抜群に色気があった。痺れるような圧倒的な才能だった。

あの中川先生の人となりがすべてわかるような、背筋のぴんと伸びた、雨の音や木々の匂いまで香り立つような美しい文字。

大野一雄先生の「花」(新宿パークタワー)のときだったろうか。大野さんの踊る姿のポスターの上に、中川先生が思いっきり大胆に、花の匂いが強烈に迸るように書いた展示用の題字を、公演後にいただいたことがあり、飾らずに大切にとってある。

銀座のF画廊の個展に来ていただいたときの中川先生。「コーヒー大好き!」とおいしそうにお変わりする姿。ガソリンスタンドの前で手を振る姿。S画廊のあとで行った中華料理店。少しお酒を飲んでいる中川先生。二人で帰る地下鉄の中での会話。信濃川河川敷のときの中川先生。全身雨に濡れて、達成感に満ちた笑顔。O画廊のときの中川先生。新中野の坂を下りてくる中川先生。

毎日中川先生のことで胸がいっぱいになって、好きで好きでたまらないときを過ごした。

中川幸夫先生がいなくなったことは、まだ実感がわかないが、これで若林奮先生、種村季弘先生、大野一雄先生、毛利武彦先生に次いで、心底敬愛できる最後の人を失ってしまった。もう絵を見ていただくとき、緊張で身体の震えが止まらなくなることもない。脳天を貫くような喜びもない。

今はただ、中川先生との記憶を大切に反芻したい。どんな花も中川先生に捧げることは僭越だから、記憶の中でずっと会話していたい。

4月6日

母を迎えにKに行く。帰りのタクシーの中から中央公園の満開の桜を見た。

買い物と食事をさせ、8時頃西新宿の家を出たら、ちらほら雨雪。

母が死んでも葬式は無し。骨はお墓に入れず家に置く。という点では父とぴったり意見が一致した。

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2012年1月18日 (水)

薔薇 / 介護

1月17日

買ってきた薔薇をただぼーっと描こうとしたらほとんどの花がすでにちゃびにかじられていた。

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1月16日

介護認定のため1時に家を出る。2時過ぎにケアマネさんと入れ替わりで叔父夫妻が来る。叔父夫妻は母とは10年以上会っていないいないと思う。私は叔父とは6年ぶりくらい、叔母とは20年くらい会っていない。「今、新宿だから今から行く」と言われ・・・。

父は「医者に行ってくるから。」と言って(予想どおり)逃亡。それから2時間半くらい外をうろついて帰らなかった。

叔母がすごくきれいで高級そうな身なりで廃屋みたいな掃除もされてないボロ家に来たこと、叔父が、母はまだなんでも食べられると思って鰻のひつまぶしを買ってきたこと、私も介護用の実用的な格好でまったく身なりにかまっていないことなどがなんとも気まずいというのか、どうしたらいいのかわからなかった。

叔父は兄妹の情があり、まだ母にわずかでも認識力があるうちに会っておこうと思ったのだろう。夫妻は自分たちの最期のときにそなえて介護や医療のことも聞きたがっていた。介護の実態やシステムについていろいろ正直に話したが、当事者でない人に話すのはすごく自分としてはしんどいことだ。どういう立場で何を話すのか、(母のためには)病状の実際を自分が話していいのか、内心目まぐるしく考えて、ものすごく気疲れした。

叔母は私が1cm大くらいに鰻をちぎって、指で小骨をとって母の口に入れているのを見て、「すごく情がある。自分は親の介護もしたことがないので、絶対そんな風にはできないと思う。私だったらほかのやらなきゃいけないことを考えたりして気持ちがせかされる」と言った。「介護している瞬間はほかのこととか何も考えていない」と言ったら「集中力があるのよね」と言ってすごく驚いていた。う~ん、?どうなんだろう。実際、母といるときは眼の前の母のことしか考えていない。帰宅してから自分の現実が襲ってくるし、身体の痛みが襲ってくるのは確かだ(計画的に体力の配分ができない)。「私は自分の子供にこんなにはしてもらえないわ」と叔母が涙目になったりして、そんなにびっしり毎日やっていないのに感心されると自分としてはすごく後ろめたいし・・・。

私が子供だった頃は叔父が転勤のたびに母は私と妹を連れて叔父のところに遊びに行った。私は忘れていたが、どこに行っても私は絵の具を借りて窓から見える景色の絵を描いていたそうだ。

叔母に言われて気付いたのは、母は私には「生活(掃除、生理整頓)がまともでない」とよく小言を言っていたが、叔父や叔母から見たら滅茶苦茶に大らかで放任の子育てだった(実際働いていたので躾にまで気が回らなかったのだが、それが私にはよかった)ということだ。

7時過ぎに帰宅してから疲れで吐き気と頭痛に襲われた。が、母が弟夫妻が来たことがわかって嬉しそうにしていたのと、鰻をすごくおいしいと食べていたので良かったと思う。

6時間以上留守にしていたので、ちゃびが私の衣類袋から靴下などいっぱい引っ張り出して床に広げて、その中にうんこをしていた。

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