ギャラリー十二社ハイデでのデッサン教室・「絵」の話
ギャラリー十二社ハイデのデッサン教室
12月は、6日(土)17時~と20日(土)17時~ 各2時間となります。
参加ご希望のかたはギャラリー十二社ハイデのHPの問い合わせからメールください。
11月29日(土)
ギャラリー十二社ハイデでのデッサン教室。
新宿西口中央公園の木々の色づき。後ろに都庁が見えます。
かわいいかたちの十二社熊野神社前交番。ギャラリー十二社ハイデでは、ここから徒歩3分くらいのところです。
今日初めて参加のK君には自分の手を描いてもらった。
K君は美大生なのでちゃんと描ける人なのだが、余計な塗りを入れないで、必要最小限のかたちのかわり目のタッチと
繊細な骨格、皮膚の立体感に添った皺だけで人の手の感じを出すように描いてもらいました。
微妙なニュアンス、生命的な皮膚感を大事にしたい。

I君はケイトウ(鶏頭)。この花は柔らかくてギザギザもこもこした質感を2Bの鉛筆でガシガシ描いてもらった。
垂れ下がったフリルの曲線部分と光っているエッジ、暗い穴のような部分を強調して描きます。
アケミさんには薔薇を描いてもらった。
この薔薇には花弁とも葉とも判別できない緑色の筋のあるものがついていた。
私はそういう畸形の花に巡り合えると幸運と思う。
私は花屋でそういう変形の花を選んで買う。
そういう奇妙で独特な部分を持っているのが、花の真実だから。
そういうところに面白さや美しさを感じるから。
アケミさんは「ええ!?そうなの?そういう畸形がない花を選んで描くのかと思ってた」と。
花のどういうところに「美しさ」や「それらしさ」を感じるかは非常に微妙なところだが、そこに画家の体質や神経が出るのではないだろうか。
アケミさんが別の絵画教室で、ビニールやプラスチックでできた果物や造花をモチーフに描いていたと聞いて愕然としたが、
工業製品の造花には畸形や個体の個性が無い。
一般になんとなくそれっぽく見える単純化した記号を造形化したものを描いて、それで満足できるのは、本物を見てもその程度の絵しか描けないからなのだろう。
「現代アート」の行為として、あえて造花を描く、という意図ががはっきりしているのなら理解できるが、そうでなくてそんなモチーフを出されたら、私なら爆発してしまうだろう。
・・
終わってからK君と新宿駅方面へ歩き、絵の話をした。道沿いの樹々に年末恒例のネオンがキラキラしている。
それから西口のカフェで9時半まで話した。
K君もいろいろ悩んでいるみたいだ。
「自分が本当にやりたいことを追求していったとしても、他者に認められなければ、自分が本当にやりたいことはなんなのかもわからなくなってきてしまう」と言ったら
K君は「そのとおりです」と言った。
自分の悩みや苦しみを表現しても、それは「自己表現」にしかならず「表現」未満だ。
絵画は絵画として成り立たなければならない。
そして「芸術」である「絵画」には、必ず「問いかけ」が存在している。
美大時代、私は決して楽しい学生生活ではなかった。
入学してすぐに、とんでもないところに来てしまったと思った。
純粋に信じて絵に打ちこめた予備校(高3)時代が懐かしかった。
私の場合は絵の世界の構造のようなものが見えてしまったから。
そんな業界に自分が入ってやっていけるはずもないと思ったし、今でも18歳の時のその直観は正しかったと思っている。
美大なんかに入ったら悩むのは当たり前だろう。
自分が絵になんの(どういう)価値があるのか、絵なんか描いていていいのか、
そもそも「絵を描く」ということがどういうことなのか、
それを考えないで、ただ楽しく描いている人の絵は、たぶん絵未満なのだと思う。
恩師、毛利武彦は、絵になっていないものを「見るべきところがない」と言った。
若林奮先生は「絵になっているか、なっていないか。あなたのは絵になっています」と言った。
今の私には、ほぼ明晰にそれが見えていると思う。
若い頃からよく「絵が好きなら○○も好きでしょう」とか「絵が好きなら○○を見に行くといいよ」などと人に言われて戸惑った経験があるが、
本当に絵が好きならば、絵未満のものに全く興味がないし、むしろストレスになるのだ。
真っ赤なポリの造花を「素敵でしょう?」と言われているのを同じく、絵のまがいものを見ることはストレスになる。
アートフェアに行った時、作者の名前を見ないで、作品に強く惹かれたものだけ、その近くに行って名前を確認すると、すべてもう亡くなっている画家だった。
その作家の世に知られている画風でないものもあったが、燦然と、絵として存在してた。
具象、抽象、コラージュに関わらず歴然としていた。
そして私がすごい画家だと認める人たちは、全員、その人独特の詩的言語もすごいということ。
私の感覚では、その人の言葉を読んだ(聞いた)時点で、どの程度の絵を描く人なのか知れてしまう。
言葉がばからしいと感じた人の絵は、やはり絵未満でしかない。
「絵」を描くということは全身の運動であり、総合芸術だということ。
すごい絵を描ける人はすごい詩的文章を書けるし、詩的映像や写真も撮れるし、すべてに対して慧眼でありラジカルである、と私は思っている。
すごい絵には哲学的な「問いかけ」がある。
たぶん私が志向しているのはとうにこの世に存在しない「芸術家」というもので、私は結局そういう人にしか興味を惹かれないのだ。
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