アゲハの幼虫の死 / HP(ホームページ)製作
2月13日
11日に降った雪で、ずっと大切に見守っていた金柑の木に住んでいたアゲハの幼虫が死んでしまった!木を確かめたら、どこにもいなくて、木の下に亡きがらを見つけた時の激しいショック!!
どこをどう考えても私のせいだ。雪になると聞いた瞬間にすぐに枝ごと折ってきて、飼育箱の中に保護すべきだったのに・・・今まで、ものすごく寒い日もなんとか生きていたので、雪で下に落とされることを瞬時に思いつかなかった。
ものすごい後悔と身体の痛みでおかしくなりそうだった。
11月に1齢だったところを見つけて、これから冬になるのにだいじょうぶだろうかと、毎日心配していたのに。もう最近は終齢に入っていたと思う。とても大きな緑の姿になっていたが、なかなか蛹にならなかった。蛹になっていれば雪にも耐えられたのだろうか。春まで蛹のまま耐えて、日の差す朝に飛べたのだろうか。
自責の念で泣きわめいてももう遅かった。あの子は私が見つけて、私だけが大切に見つめてきたのだから、「私の」幼虫であり、私が責任もって飛び立つ日まで見守らなければならなかったのに。
誰でもが「秘密の領域」の中で、自分だけの木を持ち、自分だけの草を持ち、自分だけの動物、自分だけの虫、自分だけの場所を持つ。その生命は誰にも理解されなくても大切に守らなければならない。
たまたまそこで出会ったものが大切なもの(人間以外の生命)だったら、その生命の重さをどう扱うかは完全にこちらがわの生き方(責任と感じるかどうか)に左右されてしまう。「問われる」のか「問われない」のかを決めているのはこちら側の身体だ。
他人と「解釈」や「感覚」がいかに違おうとも。その場所で「人倫」の遠近法が狂うのは、人の社会に生きているかぎり当たり前の軋轢だ。ここに他人と共有しきれない強烈な「秘密の領域」が生まれる。
ここで言っているのは趣味の話ではなくて、「生命」に関する話だ。人間が決めた殺していいものと殺してはいけないものの「法」の常識と、他者(人間以外)の生命との関わりの瞬間に激しく湧き上がるものは決して相容れることはない。
その身体感覚について、人間中心主義に反対する文献を軽く口にする人が、実際の肉の痛みをどれほど平準化して殺してしまうのかは、説明不能なほどの罪深さだと思う。
とにかく自分に対して許せなかった。ぐだぐだと泣くより何か自分を追い込む作業をしたかった。絵にのめり込むよりもっと、いつもの自分と違う追い込み方をするべきだと思った。それで直観的に思い立ってHPをつくることにした。
PCに触ってまだ3年のドシロウトの自分が、何か建設的に自分をさらす場所を自分一人の力でつくるのはいいことだと思った。
さっそく本を買ってきて、無料でできるHP製作にチャレンジしてみた。はじめてみたら集中できて朝までやっていた。
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