原発

2016年8月31日 (水)

写真家、後藤真樹さんと打ち合わせ / 方南歌謡祭

8月25日

次の私の本のための絵の撮影について、写真家の後藤真樹さんと打ち合わせ。

特に箔をつかった作品について、なにを優先して撮影していただくか(銀箔のきれいな光の質感か、腐蝕部分の細かい線か、腐蝕部分の微妙な色か)、難しい問題がある。

また、写真をPCで調整しても、印刷物での再現は、それとはまったく違うノウハウになるそうだ。いろいろ想像して悩んでしまった。

・・・・

後藤さんは、座右宝刊行会代表として、書籍の執筆、編集、刊行も行っている。

座右宝刊行会という名称は、大正時代にさかのぼり、下のようないきさつがあるらしい。

(ホームページから引用します。)

「大正末期に作家・志賀直哉がコロタイプ印刷で作った自らの心眼に叶うものを集めた美術写真集「座右寶」を刊行する為に座右寶刊行會を創設しました。

大正15(1926)年に「座右寶」を刊行したのち、岡田三郎助氏の元で「時代裂」を刊行。その後、後藤眞太郎が引き継いで数々の文学書・美術書などを編集・出版。終戦の翌年、昭和21年には美術雑誌「座右寶」を創刊。

真太郎没後は、息子の後藤茂樹が引き継ぎ、美術全集の編集などを行い、日本の編集プロダクションの先駆けとなったが、1981年に解散。

現在の座右宝刊行会は、後藤眞太郎の孫にあたる写真家・後藤真樹が祖父と伯父の志のいくばくかを継ぎたいとして書籍の編集・出版を行っています。」

http://gotophoto.zauho.com/zauhopress/zauho.info.html

後藤さんとのご縁のきっかけは、私がハナ動物病院の待合室で、たまたま「座右宝」という薄い小冊子を見つけたことだ。

なんだろう?と読んでみたら快作先生の殺処分ゼロ運動のインタヴューと、高円寺ニャンダラーズ(猫レスキューのボランティアさんたち)のメンバーのかたの、福島での動物レスキューの現場体験を語る言葉がのっていた。

「福島被災猫レスキューの現場から」――西井えり(高円寺ニャンダラーズ)の全文は下のURLで読めます。

http://gotophoto.zauho.com/zauhopress/nishii-hisaineko.pdf

後藤さんは、たまたま被災猫の里親探しの活動に賛同し、譲渡会で出会った猫を引き取り、フクスケ(フクチン)と名付けた。

そして福島の警戒区域から保護された猫たちが、引きとった人々の元で幸せにくらしている姿をつづった物語つき写真集『おーい、フクチン! おまえさん、しあわせかい?――54匹の置き去りになった猫の物語』を刊行した。

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http://gotophoto.zauho.com/book/fukuchin.html

打ち合わせ中、フクチンは、うにゃ~お!うにゃ~お!と、すごく元気な声で、おしゃべりしてきていた。おなかがすいたみたい。フクチンは、ごはんをもらう前に、おすわりをして、お手!をする。

フクチンは福島で大けがをしたらしく、横隔膜が破れて内臓が肺を圧迫して呼吸ができなくて、内臓をもとに戻す大手術をしたそうだ。今は、そんなふうには全く見えないほど、元気だ。(ほかにアレルギー症状もあって、投薬によるコントロールが続いているそうだけど。)

後藤さんのお宅のまわりは、鬱蒼とした植物に囲まれていた。帰り道、コオロギたちが一斉に鳴いていた。もう秋だ。

8月27日

台風のせいで、雨がしとしと。その中、杉並区方南町の方南歌謡祭に行ってみた。

駅前の駐車場に、ステージカーが。その前に折りたたみ椅子をびっしり並べて、みんな雨合羽を着て座っていた。私は前から3番目の一番端っこの席。

熱心に見ているのは、70歳以上と思しき、元気なご高齢のかたが多いのにびっくり。駐車場の柵の外から、酔っぱらって大きな掛け声をかける男の人。柵によじ登る人。立ち見で煙草を吸っている人。全体的に、すごく自由というのか、無法地帯というのか、騒がしく、いなかっぽい雰囲気。

正直、高円寺の阿波踊りでは、考えられない感じだ。高円寺は、商店街の人の踊りが「芸能」まで高められているというのもあるが、観客も、もっと上品だ。

一番よかったのはフィンガー5の晃。歌もトークもすごくうまかった。

いきなり「・・・お祭りって、こんなんだっけ?」と。「なんか、すごく、いなかっぽいね。」とずばり。「すごい人だね。これ、お金とったらすごいけどね。タダだからね。」とも。

まずは「恋のダイヤル6700」。追っかけの人が10人くらい、最前列の真ん中に陣取っていてキャーッと黄色い(?)歓声。会場全体がすごい盛り上がり。「ここ、騒音対策、だいじょうぶ?俺、歌いながら帰ろうかと思っちゃった。」

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「個人授業」、晃の自作の沖縄ことばの歌も素晴らしかった。それから最後は「学園天国」。

彼はさすが、和製マイケル・ジャクソンとかつて言われただけのことはあって、歌唱から独自のソウルフルなものが伝わってくる。

(小学生にして、レコードデビューの時に、まわりの大人の耳がよくなくてつまらない、と言っていたらしい。)彼を見られたことは、とてもよかった。

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終わってから、方南通りを西永福まで歩いた。大宮八幡宮のあたりは人通りがなく、暗い湿った空気をふるわす虫の音がすごかった。

西永福の三崎丸で牡蠣のオイルづけや白子の天婦羅を食べ、生グレサワーを飲んだ。

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2014年6月16日 (月)

ドイツからの友人

6月13日

ドイツから2週間ほど日本に来ていたギャラリストの友人と会う。

6時過ぎに待ち合わせ。久しぶりだが、元気そうだった。

以前、東京で会った時、3.11関係のアートのイヴェントをドイツでやりたいから無償で手伝ってと言われ、この緊迫した状態の中でドイツに行く金と時間の余裕がないので、そんな金があるなら被災者を直に手伝うのに使ったほうがいい、そんなアートよりデモの時の工夫したプラカードのほうがずっとアートだと思う、と私が言って喧嘩になった。

今回会った彼は、アート以外のもろもろの仕事で自分の生活費をつくって、少し余裕があるそうで、以前よりずっと冷静でまともだった。

彼は現在の日本の状態、問題の深刻さについて知りたがっていて、原発の問題、言論への圧力と表現の自由、憲法の改正などについて質問してきた。それについて久しぶりに拙い英語で一生懸命伝えようと努力する機会をもらえたので楽しかった(どうしても伝えたいことを伝えようと必死にならない限り、漫然と勉強していても英会話は全然覚えられないからだ)。

今の日本でリベラルな表現をやろうとしたら、圧力がかけられる可能性が高い(もちろん影響力の少ない無名な作家は無視されるだけだが)、日本がそうした状況にある中で、日本国内ではないしろ、ドイツのギャラリーで何かやろうとしてもなかなか難しいので、今はアート以外の仕事をしながらギャラリーを維持して、今後どういう活動をするか考える、というような話だった。

「芸術」とはもともと反社会的なものの名前であるはずだ。しかし政治的な変革が依然として急務なときに、「アート」が表現のテーマや素材に現代的な社会問題を取り入れたぐらいでは、現実は何も変わらないし、ましてや「感覚の攪乱」には程遠い。

作品、あるいは作品行為(この言葉の用例については、天沢退二郎氏の「作品行為論」がもちろんよく知られているが、作品と行為を二分しないという意味で私は使わせてもらっている)において、テキストだけで充分なのに、と思ってしまうものをたくさん見てきたので、社会が危機的状況の時こそ、「アート」の価値とは何か、「現場」でのアジテーションやシュプレヒコールではなく、どうしても「アート」でなければならない必然はあるのか、と考えざるを得ない。

私にとって、一生、これだけあればいい、貧乏でもお金を出して買ってそばにおきたい、と思えるもの、見てよかったと思えるものはごくわずかだ。

いろいろな国の人たちが集まって合同で何かをつくる、というのをやりたいのだとまた言われたが、それは、原発問題、憲法問題など緊迫した余裕のない時に、なぜドイツのその場所に集まらなければならないのか、旅費をかけてそこで何かをやるその内容に意義がありるのか。皆の共同作業というそれだけの理由で、安易に自己満足に陥りやすい危険なアイディアだと思う。

彼がとりあえず何か意義あることをやりたがっているのはわかるのだが、彼の頭の中でそれが亡羊としていて、それが自己満足に陥らないためにはいろいろなアイディアや人手が必要だろう。

私の思考を頼りにしてくれているのは確かで、ベルリンも物価上昇中で、円安もあり宿代はどんどん上がっているので、来るときは自分の部屋に泊まっていい(自分は親の家に行くから)と言ってくれた。

帰りに「美味しんぼ」の本が見たいと言ったのでブックオフに連れていったが、最新刊はなかった。一番新しいので2010年刊のしかなかったが、パラパラとページをめくると、2010年にはもう六ヶ所村の汚染や築地の移転先の土壌汚染などの食物への影響の危険性を描いていたことに驚いた。この漫画を全然読んだことがなかったが、以前からしっかり社会派だった。

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2014年3月14日 (金)

福島の小児の甲状腺がん / 鈴木創士 『ザ・中島らも らもとの三十五光年』

3月14日

きょうの明け方(東京では気づかなかったのだが)、瀬戸内海西部の伊予灘を震源とする大きな地震があったらしい。愛媛の伊方原発や松江の島根原発に異状はなかったというが、「瀬戸内海は地震が少なく安全」というのは嘘だと思う。

3月11日の報道ステーションで、福島県で発生している小児甲状腺癌を大々的に報道していた。

通常100万人に1人から2人と言われるほど稀なはずの小児の甲状腺癌の発症が、現在、福島県では27万人中33人。

福島原発の事故由来の放射能と、当時18歳未満の福島の子どもたちに甲状腺癌が出たことには、国や県は因果関係は「考えにくい」と言っている。

子どもが実際に甲状腺癌になってしまった母親の苦悩。家族も親戚も「放射能の話、がんの話をするな」と言ってくるという。

18才未満の甲状腺癌の検査をやるのも、診断の権限も福島県立医大のみ、と県が決めているという。この県立医大の鈴木眞一教授は放射能と小児がんの因果関係に否定的。県立医大では患者自身の検査データについて、本人に説明も情報公開もしてくれない。

放射能と、小児の甲状腺癌の因果関係について、国が「考えにくい」と言っている根拠は、チェルノブイリの事故の直後、4年間は小児の甲状腺癌が出なかったからだと言っている。

しかし、番組がチェルノブイリを取材すると、事故当時(1986年)は精密に検査機械がなく、触診だったこと、精密な機械が手に入ったのは1989年~90年だったという証言が出てくる。事故4年後から爆発的に小児甲状腺癌が増えたのは、それまでは確実にデータが出る検査機械がなかっただけかもしれないという疑問が出てくる。

事故直後、被曝量を調査するために浪江町にはいっていた弘前大学の床波教授は、県からの圧力で、住民の被曝検査をやめさせられたという。つまりその時期の被曝データがないので、被曝量とがんの関連を証明できないようにさせられた。

実際に甲状腺癌になってしまった若い人や、その母親がものすごく不安になるのは当然なのに、福島県の行政も、県立医大の医師も、学校の教師も、癌と放射能と関連付けることに抵抗を見せ、放射能に怯える被曝者本人の口をふさごうとしていることがショックだった。

福島県から人口が流出することをおそれてか、県の物産が売れなくなることををおそれてか、健康被害に対する補償をしたくないからか、とにかく実際に癌になってしまった子どもに対して行政が酷い扱いをしている。そのことを報道してくれたのは画期的だったと思う。

この方たちが番組をわかりやすくまとめてくれています。

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-3607.html

http://saigaijyouhou.com/blog-entry-2007.html

甲状腺癌のうち、多くは乳頭癌という発育が遅い癌だが、年齢がいくと悪性の癌に転化することがあると言われている。

甲状腺癌で甲状腺を全摘してしまうと、甲状腺ホルモンがまったく分泌されなくなってしまう。甲状腺ホルモンは、全身の細胞の代謝に関わる重要なホルモンなので、無くては生命を維持できない。だから毎日甲状腺ホルモンの薬を飲むようになる。

また、甲状腺に隣接して副甲状腺という内分泌腺があり、これはカルシウムの吸収に関わっている。甲状腺癌を摘出する際に副甲状腺も摘出してしまうと、カルシウムが吸収できなくなるので、毎日ビタミンDを飲むようになる。

ビタミンDを飲んでいても、血中のカルシウム濃度が低くなり、手や足の指が攣る(テタニー)。私の経験では、長時間、食事をとらなかったりすると、手や足の指が硬く内側につっぱる感じで折れ曲がって、すごく痛い。もとに引っ張って戻してもすぐまた攣る。外にいる時にテタニーに襲われたら、とりあえず牛乳を買って飲むが、なかなか治らない。

もしも災害などで、甲状腺ホルモンの薬を飲めなくなったら、何日くらい生命を維持できるのかわからないが、薬はどこへ行くのにも持っていたほうがいいのかもしれない。

3月10日

毛利やすみ先生からお知らせのはがきをいただいていた展覧会を見に、日本橋高島屋へ。

やすみ先生の作品は暗い、でも暖かい月夜に、紅薔薇と水色のオキシペタラム(ブルースター)の花束が宙に浮かんでいる絵だった。

花束に結んだリボンが非常に丁寧に描かれている。

亡くなってしまった大切な人・・・毛利武彦先生たちに捧げられているのだと思った。

3月7日

鈴木創士さんが『ザ・中島らも らもとの三十五光年』(河出文庫)を送ってくださった。『中島らも烈伝』にさらにその後の文章と対談を加えた本だ。

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「らもは稲垣足穂の「歴史に対して垂直に立つ」って考え方が好きで、つまり当時の新左翼のマルクス主義のように、水平的に集団的に時間を動かすということが嫌いだったわけ。だからなんとかしてに垂直に飛ぶ、というかむしろ、スカラベか蝸牛のようにのろのろ上昇するやり方を見つけなければならなかった。そこで最初に出会ったのがヘンリー・ミラーとセリーヌだったわけです。」

「たしかにまったく矛盾なしに、結果でもなく、ましてや原因でもなく、何かの薄い皮膜のように、破れそうで破れない、何かおかしなもの、何か奇妙なもの、あるいは何かの結晶のように硬質で、愛に満ちたもの、あるいは軽くて、ゆるやかで、精妙で、繊細なものがそこにはたしかに存在するのだと思う。らもの本を読むことがそういうものであってくれれば僕もいいと思う。」

「俺はいま神学に興味があるんだ、スコラ哲学だよ。」、と鈴木さんが言って、「それはそれは」とらもさんが応える。鈴木さんがドゥンス・スコトゥスが気に入っている話をして、らもさんがその話につきあいながら、「でもおまえ、あいかわらず頭ワイてるんとちゃうか?」と笑う。

大人になってもそういう友がいるというのは―鈴木創士さんが15歳の時に中島らもと出会って、中島らもが死んでしまうまで、三十五年もずっと濃い付き合いが続いたということはすごいことだと思う。そして中島らもが亡くなって十年経っても、今も濃いつながりがあるということも稀有なことだ。

私にも大切な友がいる。しょっちゅう会うわけではないが、決して裏切らず、真夜中に電話しても話を聞いてくれるような友。虚栄が嫌いで、優しくて、才能溢れる友が。

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2012年7月22日 (日)

日隅一雄さんを偲ぶ会 /  種村季弘先生 「“外部”がない」

7月22日

日隅一雄さんを偲ぶ会。11時40分頃東京会館に着く。すごい人だった。1000人~1500人超はいたように見えた。

木野龍逸さんのお話。

オーストラリア時代に、ゴーストツアーというのに日隅さんと一緒に行き、樹のくぼみなんかを見て、ほら、あそこに幽霊が見える、と言いながら進むようなゆるいものだったのだが、何年かしてから「木野君、あのゴーストツアーはすごく面白かったねえ。」と日隅さんに言われて、なんであんなものを?と思ったという話や、オーストラリアの編集部内で、誰と誰が付き合ってるという情報をなんで教えてくれなかった、と言っていて、割とスキャンダラスなことにも興味があったという話や、なんにも考えてなさそうだったのに、今度司法試験受けるわ、みたいなことを言って、受かるわけないのに、と思っていたら一回でしっかり受かっていて、この人は頭の出来が違うと思ったこと。夜中によく呼び出されてアントニオ猪木の店という騒がしい飲み屋に連れて行かれたり、英語の勉強になるから、と言われて歌舞伎町の女の人たちがいる店に連れて行かれたり(でもやっぱり英語の勉強にはならなかった)とか。

日隅一雄さんは仕事がすごくできる人、忙しい人なのにひょうひょうとしていて、どこにいても明るく、いろんな場面をすごく楽しむことのできる人だったのだと思う。

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日隅一雄さんに面影が似ている弟さんのお話。話がうまくて人の心をつかむ才能も日隅さんに似ていることに胸を打たれた。

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「兄は小さいころから、母に本を読んでもらうのが好きで、そのとき、本と一緒に必ず水を入れたコップを持って来ていました。それは、母の声が枯れたときに水を飲んで、本を読み続けてもらうためでした。兄は本当に読み物が好きで物心ついた頃には、寒いときは布団にもぐって、本や新聞を読んでいました。兄は動物も好きで、一緒に山に行ってマムシを家に持ち帰ったときは母にひどく怒られました。兄は、家族から見ても、謎の多い人物でした。勉強しているそぶりがまったくないのに、兄が非常に高い学歴だということは、きっとどこかで勉強していたのでしょう。私を喜ばせようと、大きなラジカセを買って、電車で福山まで持ってきてくれたり、将棋のときは何度でも待ってくれたり、本当に優しい兄でした。兄は運動のほうはあまり得意でなく、テニスをやろうと思い立ったこともあり、やってみたのですがまったくラケットに当たらず、二日で諦めました。お気づきのかたもおられると思いますが、趣味は型からはいるタイプです。亡くなったあと、部屋を整理したら、スキューバダイビングのスーツや、サックスなどが出てきて、いったいどのくらい練習できたのでしょうか。」(筆者の記憶で記述しているので、やや不正確です)というようなユーモアあふれる思い出話で、会場に笑いが起きた。

「母は私が十三、兄が十七のときに亡くなってしまい、父も2001年に亡くなり、そして兄も若くして亡くなってしまい、私一人になってしまいました。」という言葉に思わず涙、涙・・・・。周りでも静かにすすり泣く人たちがいた。

この弟さんの口から日隅一雄さんの思い出話を聞けたことは本当にありがたく感じた。

NHKフィル弦楽四重奏の厳かな生演奏の中、献花。
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花の中の日隅一雄さん。黄色い花が控え目にはいっているのに少し慰められる感じがする。白いカーネーションを静かに捧げた。
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献花を終えて、となりの立食会場に移動。日隅一雄さんの思い出展示コーナーに釘づけ。

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依頼人のかたが手作りした「ヤメ蚊」の人形。アイディアも造形も、これを作った人はすごい。
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顔も日隅さんにそっくり。ペンを口にくわえ、ノートを持ち、とてもよくできた人形だ。

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幼少期の日隅一雄さん。らくだの前で。シャツがはみ出している。こういうの、たまらなく愛しく思える。

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産経新聞社会部の記者だった頃、日隅さんが取材に使っていたカメラ。

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オーストラリア時代に日隅さんが編集していた雑誌。

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カラオケではじけ飛ぶ司法修習生 日隅一雄。(なんの曲だろう?)
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新人弁護士 日隅一雄。

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2012年6月。入院中なのに事務所に笑顔で出勤。
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本当にたくさんの人に愛された人だなあ、と感じる。同僚の弁護士さんが言っていたが、日隅さんは「人の悪口を言わない、愚痴を言わない、自分のプライヴェートのことを話さない」人だったという。

最後の日、耐え難い痛みで救急車で病院に行ったときの診断は、がんが腸を突き破って、腸の内容物が外に出て腹膜炎を起こしている、と言われたそうだ。そうなるまで痛みを我慢して仕事を続けられた人間がいた、ということが奇跡だ。

亡くなる直前に入稿したという新刊『国民が本当の主権者になるための5つの方法』を買った。そのあとがきに、海渡さんの言葉で、日隅さんから民主主義の実験に命を賭けたい、次の衆議院選挙に出たいという相談を受けていたと書いてある。杉並区八区で、という具体的なことも。本当にどこまでも意欲的な人であり、まさか12日に亡くなるとは本人も思っていなかったのだろう。本当に日隅さんが選挙に出ていたらすごく盛り上がったろうなあ、と思う。

余人をもっては代えがたい才気煥発、行動力があり、かつ謙虚な人、鮮やかでしなやかで、しかもかわいい人だったと思う。本当に素敵な人だったなあ。

閉会時になり、日隅一雄さん思い出コーナーの写真を去りがたく見ていたら、若い人に声をかけられた。私のブログを読んできょうここに来た、と言われ、『デッサンの基本』(私の書いた本)を見せられて、あまりに驚いて思わず泣いてしまった。

二十歳の学生さんだという。廊下の椅子でしばらく話していた。私のブログを最初から全部読んでくれていると言う。

一般的に平準化されてしまう感覚でなく、いつもなにか身体に触れるもの、異質なものを言語化したくて、それをいつかどこかで誰かが見てくれるかもしれない、という僅かな望みを持って書いているのだが、誰かに届くことはほとんど不可能のようにいつも感じながらやっているので、実際に読んでくれた人に会えたことに心底驚いた。

なんと私の敬愛する師、毛利武彦追悼展まで見に行ってくれたという。アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人』まで読んだとか。言葉にするのが難しい何かが伝わったのだとしたらすごいことだ。

本当に、本当に驚いた。感謝します。

7月21日

治療院で偶然開いた週刊ポストに大好きな種村季弘さんの思い出記事が載っていたので、そこだけコピーしてもらった。

「松田哲夫の愉快痛快人名録 ニッポン元気印時代」というコーナー。種村先生は超長電話好きな人だったという話。

確かに会話はすらすらと続いていたな。まさに「博覧強記」。少しも嫌味がなく、スパッスパッと実名をあげての痛快な批評で、回転が速くて、臨機応変で、すごくチャーミングだった。実名をあげての批判だったからこそ、先生は欺瞞的なところがなくて、真に信用できる人だと思えた。そして種村先生ほど思いやりがあって、こちらをリラックスさせようと気遣ってくださるようなかたもないくらい、繊細であたたかなお人柄だった。頭が良すぎるせいなのか、勘が良くて濃やかで、無神経なところがまったくない人だった。

種村季弘先生からじかにお電話をいただいて、新聞連載の先生のエッセイの挿画をやってほしいと言われたときは、夢のような気がした。本当に幸せだったなあ(涙)。

松田哲夫さんの文章から引用。80年代初頭のある日の長電話。「若い世代の書き手には蓮見重彦の文章の亜流が多くてね、読みにくいったらないね」「ああいう文章には“外部”がないんだよ。“内部”でうごめいているだけなんだな。それは、今の時代、時間的にも空間的にも“外部”がなくなりつつある時代だからなんだよ」「新しい秩序が見えてこない、“内部”が肥大した時代には“秘めたるもの”も意味をなさなくなる。文学にとっても最も不幸な時代なんだと思うね」「“内部”だけで育っていくと、決して大人にならない子どもばかりの世の中になっていくんだろうね・・・・・・」

今は80年代初頭ではないが、不思議なほど自己展開している人、勝手な自己肥大を人に認めろと脅迫的に強要してくる人が多いように思う。肥大した自己イメージでの独善や要求を、打診されることもなく、他人に勝手にずけずけとやられてしまう。自分には非常に価値があるから自分のやることは相手に喜ばれて当然と思っている人に何人もあった。

得意満面だったり、関係ない他人に延々とと自分語りや不満をぶつけてきたり、「他者」がいないのだ。こちらが相手に激しい嫌悪感やストレスを抱くとはまったく想像しない。自分を応援してくれるのが当然と勝手に思っていて、賞賛しろと脅迫してきたり、無償の労働や金を要求してきたり・・・。意見を言ってくれ、というから、正直に言ったら激昂されてしまう。私の体調が悪いとか、今、介護でくたくただと言っても、全く耳を貸してくれず、自分の要求だけを脅迫的にぶつけてくる。絡まれると神経がズタズタになってしまう。もちろん私が相手を好きで尊敬していれば、私が相手の才能や人柄に魅了されたのなら、できる限りのことはしてあげたいが、その反対だからできない。表現としてやってはいけないこと、余計なことや越権行為を一方的にされていると感じてしまうので、気持ち悪さばかりがつのる。このまま行けばどんどんエスカレートして好きなように行動されてしまうという恐怖を感じる。(そういう人たちは熱情精神病というのか、セクハラの感覚に似ている。)

「他者」がいないことは「外部」がないとも言えるのではないか。過去にはものすごい人、ものすごい美しいことをやったり、つくったりしている人がいるのに、その人たちの絵や文章や書を見ても、自分との落差にショックを受けて謙虚になるどころか、妄想的に自己を優れた人物に同一化させて瞬時にやりたがる人、どう見てもただ汚いぐちゃぐちゃとやったものに大そうにに自分のサインを入れて得意気に送りつけて来て、それを喜べと強制してくる人とか、どんな精神構造なのか全く理解できない。(本当に自分の表現が良いものと信じているなら自分のブログに載せてたくさんの人に見せるべきだと思う、その汚いものを私個人に送り付けられることがひどく傷つく。そんなものを喜ぶほど私は眼が節穴な人間、甘い人間だと思われているのだろうか。)まともな自己認識がないのか、不安だから何かを強い力で遮断しているのか――たぶん遮断しているのだと思う。

他者の声に耳をすますどころか、都合の悪いことは聞かないで自画自賛をわめきたてたり、すり替えをしてしまう。人生において最も厳粛な場所、私にとって自分の親より大切な師を亡くした絶望の場面にさえ、まるででしゃばるチャンスとばかりにずかずかと師を知らない赤の他人の一方的な自己顕示欲が土足で上がりこんでくる。厳格で思索的だった師(陳腐さ、一般的な概念を徹底して嫌ったことこそが師の凄絶な生きざまだったわけだが、)に対して勝手に捧げる、献じると言って陳腐極まりない軽薄な言葉、師を貶めるような造形パフォーマンスをやりたがりの他人が無断で割り込ませてくるのは不遜や無礼という言葉を越えている。(親友は、それを見て「かわいそうに。殺してやりたいと思うだろうね。」と私に言った。「脳に欠陥がある人なのかもしれない。」と。)

そこは自分の自己表現欲望が立ち入ってよい(それが許される)場所ではない、そこに他人があがりこむ余地はないということ、もし、何かオマージュのようなものを捧げる立場の人がいたとしても、自分はその立場にある人間ではない、ということがわからないのだろうか。余計な表現をするほうは自己陶酔してどんどん気持ちよくなっていき、されるほうは耐え難い汚い澱のようなものが胸に溜まっていく。(汚らわしいものが入ってくる感覚がぬぐえず、どうしてこんな厭な思いをさせられなければならないのかわからない。こんなことを一方的にされる筋合いはないと思う。)

つまりは他者の美しい行為と自分のやっている醜悪な行為の区別がつかないということは致命的なことだと思う。

自分がやってることが良いことだと自分で勝手に信じて許可なく相手にそれをやってしまう。そこには「懐疑」が無い(自分が傷つくような認識は遮断)。この世には自分の経験や想像力からはとても及ばないような自分の計り知れない「他者」、価値観が違う他者がいるということをわかろうとしない。自分と違う言葉、自分とは違うものに触れている言語を話す人間がいることを認めようとしない。すごい人がいても畏れを感じて静かにするのではなく、敬愛という言葉を軽々に使って自分のわかるレヴェルの範囲に引きずり落としてなんでも自己肯定のツールにしてしまう。すぐ有頂天になったり、べったりしがみついてきたり、異常なほど自分に甘い人。そこには他人との「距離」というものが存在しない。

沈黙して遡行できる能力がなければ。

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2012年7月 2日 (月)

7月1日新宿原発やめろ野田やめろデモ!!!! / 日隅一雄

7月2日

CBCnewsで新宿の「原発やめろ野田やめろデモ!!!!」が報道されたとのこと。NHKニュース7でも報道されたらしい。

http://www.cbc.ca/news/world/story/2012/07/01/japan-nuclear.html?cmp=rss

肉体的疲労はあってもデモに出ることは決して無駄ではないと思う。地元の反原発デモに出ておかないと、やるべきことをやらない気がし、気持ちが済まない気がする。

きょう、「日隅一雄さんを偲ぶ会」のご案内の封書をいただいた。7月22日。悲しくて泣けてしまうだろうが、どうしても出なければ気がすまないだろう。

きょうは胸がきりきり苦しい日だった。介護のこと、お金のことで、心配なこと、どうなるかわからない問題が出てきて不安で泣けてきた。

役所関係の手続きに関して、「悲観してもしかたないから、とにかくやってみること」と言ってくれる親友、私のやろうとしている仕事(絵と文章)について「悩むところが間違ってる。誰にも理解されなくても、とにかくやるべきなんだよ、その価値があるんだよ。」と言ってくれたもう一人の親友に感謝。

7月1日

雨模様の中、「原発やめろ野田やめろデモ!!!!」に参加のため新宿西口中央公園へ。

雨の中、どうなるのかと思ったが広場にはびっしり人が詰まっていた。皆、傘をさしているが、元気に踊る人もいる。

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5時に出発。甲州街道を通ってルミネの交差点へ。

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サザンテラスに渡る橋の上から見ているたくさんの人、カメラを向ける人に手を振るデモ隊。

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新宿南口前を通る。雨の中、「ねたのよい」のサイケデリックなサウンドが炸裂。

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新宿御苑の横を通る。マンションのベランダから手を振ってくれている人がいて、デモ隊もそれにこたえ手を振っていた。日隅一雄さんもここらへんの新宿御苑前のマンションに住んでいたんだなあ・・・と胸が痛む。

道を左折し、まさに日隅一雄さんがいた法律事務所のあたりを通る。いくつかの食べ物屋さんの人たちが店の前でプラカードを持って応援してくれていた。

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丸井の前の道をアルタのほうへ戻る。

アルタ前に帰ってきたら6時30分くらいでもう集会は始まっていた。

福島瑞穂氏のスピーチ。

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社会学者小熊英二氏のスピーチ。大飯原発は再稼働されるでしょう。でも、将来的には原発は無くなります、という話。ここで失望せずに抗議の声を上げ続けて行こうということだと思う。

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アイドル藤波心のスピーチと歌。藤波心もそうだが、制服向上委員会の女の子も、「皆同じような放送しかしないのだからNHKの放送時間を短縮する、それから民法の放送時間も短縮する、セブンイレブンを本来の営業時間に戻すなどをしたらいい」と節電のためのアイディアを述べるなど、とてもしっかりしていた。

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ラッパー「悪霊」のパフォーマンスで「原発やめろ!再稼働やめろ!」と雨の中全員で声を上げる。

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松本哉氏のスピーチ。柄谷行人氏が書いた野田首相退陣要求声明文を読み上げる。きょう柄谷行人が来て自身で読み上げてくれると期待していたのでちょっと残念だった。

野田退陣要求デモ記者会見における、柄谷行人氏の談話草稿

http://associations.jp/archives/1925

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アノニマスからのヴィデオメッセージとやらがアルタの画面上に映され、機械音声のメッセージが。Vフォー・ヴァンデッタに出ていた仮面(ガイ・フォークスの仮面)。

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「原発やめろ野田やめろデモ!!!!」にアノニマスがメッセージ。日本に引っ越して来て、家具は素人の乱で買った(スコシマケテモライマシタ)って !?

http://www.youtube.com/watch?v=AKpkowBnTic

雨で傘が邪魔になりながらも皆8時30分ごろまでがんばって原発反対、大飯原発再稼働反対の思いを叫んでいた。

このあとルミネエストの上で休んで帰った。アルタ前広場からすぐ駅にはいったところにあるドイツ居酒屋ベルクがデモ帰りの人であふれていた。

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2012年6月30日 (土)

官邸前デモ 6月29日

6月29日

首相官邸前デモへ。先週報道ステーションでかなりまともに報道してくれたせいか、5時30分に国会議事堂前駅に着くと、すでに駅中のトイレに長蛇の列が。

先週はずっと列の中にいて「再稼働反対!」を叫んでいたが、今回はデモの大きさの全体を見たかったので、まずデモの先頭に行ってみる。立ち止まって写真を撮れる状態ではないのでそのまま横断歩道を渡り向かい側の歩道から撮影。きょうは向い(議事堂側)の歩道もすでに人がいっぱい。TV局の取材も朝日とTBSとフジとNHKのカメラを見かけた。

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列の中ほどを向いの歩道から撮影 (写真はすべてクリックすると大きくなります)

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列はどんどん伸びて財務省上の交差点を右折し六本木通りへ。もう一つの列は霞が関方面へ。向かいの歩道の人もぎゅうぎゅうづめになり、その列は国会議事堂正門のほうへと伸びた。

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デモの向かい側、議事堂側の歩道もいっぱい。
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六本木通りに曲がる角のあたり、激しいシュプレヒコール。

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議事堂側からデモ列側の歩道はもういっぱいなので渡らないでくださいと誘導され、国会議事堂正門の横断歩道まで遠回りして渡りデモ列に混じって撮影。子供も何人も来ていた。すごい騒がしさなのにみんな泣いたりしないでえらい。
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この外国人さんのイラストがうまい。プラカードのセンスのよい人に惹きつけられてしまう。

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この報道の人たちはドイツの人たちかな?と勝手に想像。
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中央分離帯でひとり撮影する外国人。
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ものすごく大きくてかっこいい蛇腹のカメラ。
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もう一度議事堂側の歩道に戻り撮影。

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議事堂側の歩道もすし詰めで、官邸前のほうに戻りたくてもなかなか動けない。
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Sdsc00064議事堂側の歩道を少しずつ官邸前方向に戻り、途中で中央分離帯の植え込みの端っこに上がる。長く伸びていたデモ隊の列が少しずつ官邸前へと動いてきた。

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女子高生らしき人もお母さんと来ていた。

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官邸前に押し寄せていく人の波。「再稼働反対!!」のうねりのような声。

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きょうの記念撮影。

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車道が人で埋め尽くされていく。

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人が押し寄せ、車道を完全に占拠。

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ちっちゃな赤ちゃんもいる。

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まさに市民の怒りのデモ。

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思いっきり叫んだ。

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人々が「再稼働反対!!!」と叫びながら官邸前に押し寄せる中、収集がつかないためか少し早めにきょうはこれで終了との指示が出た。

終了直後の官邸前交差点。

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赤坂見附まで歩いて先週と同じくサイゼリヤで休んで帰宅。高円寺に着いたら、デモの人混みの中で私が目を引かれていた猫のデザインのTシャツを着た人が、同じ電車から降りてすぐ前を歩いていたのでびっくり。

家に着いたら強烈な筋肉痛が来た。肩も首も背中も脇も腰も足も。

6月27日

これまで使っていたソニーのデジタル一眼レフが重くて肩が痛くてたまらず、右手を高く上げながらの撮影では本当に右肩が壊れてしまう危機感から、ヨドバシカメラで小型一眼カメラを買った。軽量重視と迷ったが、少し重めでもセンサーがデジタル一眼レフカメラと同じくらい大きいソニーNEX-5Nにした。

最初の試し撮りはちゃび。画質は鮮明である。背景にあるのは「薔薇と猫」の絵。

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昔から筋肉がないのでカメラは重労働だが、最近本当にこれはヤバイと思うくらい肩も腰も痛い。治療院でも、いつ腰の筋膜断裂になってもおかしくない硬さ、と言われる・・・

気温6度の中、デジタル一眼レフとタムロンの90ミリマクロとビデオカメラを全部しょってひとり歩き廻っていたドイツでの撮影が信じられない。(ダウンコートが肩へのクッションになったのだろうか?)気が張っているときだけ元気でそれが終わると寝込むのはいつものことだ。

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2012年6月20日 (水)

6月22日 首相官邸前デモ

6月22日

首相官邸前の原発再稼働抗議デモに行く。

17:30頃、地下鉄国会議事堂駅を出ると、通りはもう長~い行列。先頭のほうは団子になっていて、一番前に陣取った少人数の右翼グループとせりあっていた。

きのう描いたプラカードを雨にそなえてビニル袋に入れ、日隅一雄さんへの敬意の気持ちで腕にオレンジ色のものを巻いて参加。

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長い列の後ろにつく。横に議事堂が横に見える位置。すごい数の人たちがぞくぞくと横を過ぎて最後尾に並んでいく。

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歩道が狭く、少しでも立ち止まると注意されるので写真がまともに撮れない。

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画面右のプラカード、日隅一雄さんの写真だ。

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6時少し過ぎたころだろうか、一人の女性が警官4人くらいに両手足をつかまれ、仰向けの大の字にされたまま、かつがれてデモ列の後ろ方面に運ばれていった。女性は「再稼働反対!」と叫び続けていた。

山本太郎さんが横を通って列の後ろのほうへ。

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Sdsc07044_2人の数がどんどん増えるので途中、警官がすごいスピードで赤いコーンを持って走り。車道にコーンを並べてデモの道を広くした。ツツジの植え込みをまたいで車道のほうまでデモが埋め尽くしたが人はどんどん増え、「再稼働反対!」の声も大きくなっていった。

いつものデモの時のように歩道橋の上や段差のあるところから撮れないので全体の人数がつかみにくいが、すごい熱気だった。女子高校生のような若い人も来ていたのが嬉しかった。

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初めから終わりまでずっと「再稼働反対!」のシュプレヒコールが地鳴りのように鳴り響いていた。

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8時。解散直後、官邸前交差点を渡ったところ。

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8時になっても人の数が減ることはなかったが、きょうはこれで解散です、また次回がんばりましょう、とのアナウンスを聞き、混雑する国会議事堂前駅を避けて赤坂見附まで歩いた。自民党本部の横の道、参議院議長公邸の横の道、真っ暗で人気が無くぞっとする静けさ。赤坂見附の駅前のサイゼリヤで休んでから帰宅。

帰宅後、報道ステーションでかなりちゃんと報道していたので驚く。古館伊知郎が寺島実郎の語りに対して「私、生意気ですが寺島さんとまったく意見が違っていて、」と、はっきりつっこんだのがとてもよかった。

報道ステーション 首相官邸前デモに45000人!

http://www.youtube.com/watch?v=dTuHOAW0DVM

6月19日

母を迎えにMへ。蒸し暑い日。

夏至近い夕方。大好きな花園は少し小さくなっていたが混沌として美しかった。白いホタルブクロ(カンパニューラ・プンクタータ)、赤紫の百合、光る立葵。

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母に水羊羹、カボチャのサラダ、牛乳などをスプーンで一口づつ食べさせ、のどの痞えが落ちるように背中を叩き、薬を飲ませ終えるともう7時。

三井ビルの蕎麦屋に入ったら煙くて苦しかった(もう二度と行かない)。

ヨドバシカメラで21年前の掃除機に合う紙パック、エアコン、炊飯器、レンズなどを見ていたらあっという間に9時。すごく疲れ、帰宅してからやたらと手の指やひざ裏の筋肉が攣った(テタニー)。




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2012年6月17日 (日)

日隅一雄 オレンジ革命 / がんセンター

6月17日

今、TBS「報道の魂」「バッヂとペンと~日隅一雄の闘い~」を見終えた。

12日に日隅さんが亡くなったあと、14日のNPJの対談企画「敵は天下りシステムにあり」は予定時間通り、植草一秀さん(元大蔵省勤務)、天木直人さん(元外務官僚)に急遽岩上安身さんを加えて追悼企画として行われた。

それをニコ生で見ていたとき、日隅さんのことは決して忘れない、という声とともに、「革命を起こそう」、日隅さんが東電会見で汚染水の海への放出に一人で立ち向かった4月4日に身に着けていた服の色にちなんで「オレンジ革命」という書き込みが沸き起こった。「オレンジ革命」という名は2004年ウクライナの大統領選挙の結果に対しての抗議運動が有名だが、日隅さんを思う革命の名でもいいと思う。

日隅さん本人も前のNPJの対談のとき「静かな革命を」という言葉を使っていたように思う。

6月19日が太宰治の「桜桃忌」なら、6月12日は日隅一雄さんの「オレンジ忌」だ。

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15日に首相官邸前に集まる大飯原発再稼働抗議行動がどうなったのか気になっていたのだが、TVではまったく報道されていなかったのに、youtubeには様子がちゃんとあがっていたので感動した。11000人が集まったという。

http://www.youtube.com/watch?v=WCr6rMpvDic

TVで報道されなくても、抗議する人たちは消えないで増えていくだろう。日本中に広がっていくだろう。日本人が怒らない国民性だなんてことはないのだから。

15日は身体が苦しすぎていけなかったが、6月22日の抗議行動には行きたいと思う。できればなにかオレンジ色のものを身に着けて行けたらいいと思う。

http://twitnonukes.blogspot.jp/

6月15日

きのう、日隅一雄さんの追悼番組をニコ生で見たあと、いろいろな思いが押し寄せてきて眠れなくなってしまい、悶々と朝を迎える。悲しい。とても淋しい。なんともいえない苦しい気持ち。

ガンセンターの予約の日なので12時に家を出る。暑い日。日差しが苦しい。

前回の血液検査の結果、腫瘍マーカーはいつもと同じで通常の人とは一桁違うが手術前の半分。しかしなぜか血中のT3がいつもの2倍になっている、と言われてびっくり。つまり甲状腺ホルモンが高すぎる状態で、それが続くと心臓がまいってしまう、と言われた。「どきどきして苦しくありませんか?」と言われて、そういえばそんな感じもあったけれど、春から夏に向かうときの自律神経の乱れだと思い我慢していた。

今の状態を調べるため、また4本血液を採られた。大した量ではないのだろうけれど、気分的に「もったいない」というか、血圧が下がるような感覚があって、少しぐったり。眠っていないせいもあり、外に出ると暑さが苦しい。歌舞伎座の裏の蕎麦屋で冷たいなめこおろし蕎麦を食べた。

味戸ケイコさんにご案内をいただいた展覧会を見に東銀座から銀座みゆき通りへ歩く。

みゆき通りの看板の上にかわいい猫がいて、周りで皆が写真を撮っていた。

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みゆき(御幸?)通りという名前と可愛い猫の組み合わせが人気。

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ギャラリー悠玄。味戸さんの絵は2階にあった。絵本に使われた大きな鉛筆画がよかった。

宇野亜喜良の絵は「どっぺるべんがー」が良かった。あと鳥と魚と薔薇と少女と少年のピンク色の絵。宇野亜喜良は絵の中に巧みに文字を入れていたが、字も抜群にうまく、さすがにお洒落にまとめてあった。

向かいの画廊でたまたまやっていた藤田嗣治とユトリロ展を見た。フジタの猫。蒔絵筆の最高に細いのを使ったような線で油彩で描いてあるもの、むしろ、墨でない鉄線描に惹かれる。

手前に黒い眠り猫、後ろに目をむいた白猫の鉛筆画は、手前の黒猫だけはしっかり見て克明に描いた感じ、後ろの白猫は作品全体の構図のリズムをつくるためにデッサンの記憶のみでささっとあとから描き入れたように見える。

ボッティチェリのプリマヴェーラの本歌取り。後ろ向きのぐちゃっと乱れた細い鹿の子ユリに目が行った。

帰宅してからすごく疲れて眠ってしまった。

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2012年6月14日 (木)

日隅一雄さん逝去

6月14日

きのう、日隅一雄さんが6月12日午後8時28分、がん性腹膜炎で亡くなったことを知る。ものすごいショック。

12日の朝、痛みで救急で運ばれて、その日の夜亡くなったらしい。10日にも講演をされていたというし、ツイッターもブログもずっと変わらず明晰であったので、なんで今?と、まだ信じられない感じである。

6月17日深夜TBS「報道の魂」で日隅一雄さんのドキュメンタリー放送「バッジとペンと~日隅一雄の闘い~」

http://www.tbs.co.jp/houtama/

ニコ生 NPJの日隅一雄連続対談企画 

http://live.nicovideo.jp/watch/lv96637398?ref=grel

ニコ生 今日10時から日隅一雄追悼番組

日隅さんは昨年5月に胆嚢がんステージ4で余命半年の宣告を受けたが、実際講演や対談などで間近で見る日隅さんは非常に生き生きとして、痩せてはいたが顔色もきれいだったので、余命半年宣告の日から1年が過ぎ、まさか今逝ってしまわれるとは予想できなかった。ご本人もそうは思わなかったと思う。腫瘍マーカーのうちのひとつの値が3月末から比較して、4月末には下がっていたことが心強い、とブログに書かれていた。「治る見込みがあって痛みに耐えるのと、治る見込みがほとんどない中で痛みに耐えるのとでは大きな違いがある」と。まだまだがんばれると思っておられたはずだ。

本当に信頼できる人、尊敬できる人が、またがんで死んでしまった。しかし凄絶な闘病のなかであらゆる治療やペインコントロールを試しながらも、最後まで入院せずにこんなにも精力的に行動し続けることができた人はあまり聞いたことがない。それだけ意思と気力の強い人だったということ、限界を超えて行動した人ということなのだろうか。

私が日隅さんを知ったのは最初はtwitterだった。@yamebunというtwitter nameのその人の言葉が端的で的を射ており、その人が地元新宿にいることからフォローを始めた。その後、東電会見での雄姿を見て、この人がyamebunこと「情報流通促進計画」の人か、と思った。問題点を明確にして、相手がこたえをうやむやにして逃げられないように言葉を厳密に選んで質問する態度、抗議すべきときは迫力をもって引き下がらないこと、理不尽なことをなし崩しにされないために情報を精査していくやりかた。日隅さんは本物のジャーナリスト、というより本物のアクティヴィストだと思った。

新聞記者から弁護士になった日隅さんのブログの文章は法的に精確な説明をしているために読みづらい部分もあった。しかし文学的に巧みな文を書きながら言語的達成のみで、身体的にはまったく他人事な人たちを何人も見てきた私にとっては、本当に身体の生きた、意思と行動の人だった。

実際講演や対談などに行ってみると、話している合間に見せるシャイな笑顔が最高にチャーミングな人であった。話のところどころに人を笑わせて、皆が笑うと本当に嬉しそうにしていた。柔和な笑顔と、理不尽なことを追及するときの鋭さや激しさのギャップが魅力で、人をすごく惹きつける人であった。

NPJの連続対談(岩波アネックス)に行った日の、サプライズの49歳のバースデイケーキを前にした日隅さんの顔、海渡雄一さんとの合同出版記念パーティーのときの皆に囲まれた日隅さんの顔、新宿のジュンク堂での木野さんとの対談のときの日隅さんの顔、忘れられない。本当にすごい人、魅力的な人だった。

初めてNPの連続対談に行ったとき、至近距離から日隅さんを見て身体が震えた。弁護士会の人に、「写真撮影はしてもいいでしょうか。」と聞いて、その人が日隅さんに尋ねてくれたとき、「まったくかまいません。まったくOKです。」と言ってくださった仕草が今も眼の中をぐるぐると廻っている。

4月25日に短いけれどメールの返事をいただいた。個人的にはそれが最後になった。

NPJ連続対談のときの日隅一雄さん

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新宿ジュンク堂での木野龍逸さんとの対談のときの日隅一雄さん

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49歳のお誕生日の日隅一雄さん

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13日にショックで動揺しながら寝て14日の明け方夢を見た。海辺で、日隅さんと彼の親しい弁護士仲間さんたちと一緒に砂浜を歩いていた。波がキラキラ光って、眩しいけれど灼熱の陽光ではなく、気持ちのよい天気だった。日隅さんのニュースを見てとても心配したのだけれど、やっぱりだいじょうぶだったんですね、と思いながら無言で後について歩いていた。日隅さんは元気そうに「だいじょうぶです。」とにこっとしていつもの柔和な調子で言った。誰かの弾くピアノの音が聞こえ、その音に合わせて波間に虹色の光がひとつずつ力強く光っていた。目が醒めてからもやはり亡くなったことが信じがたかった。

6時30分からNPJの連続対談を予定通りのテーマでやったのを見た。

10時からのニコ生の追悼番組で、きょう火葬になったことを知った。肉親が弟さんだけらしいこと、親族の希望で広島県福山市で親族のみでお葬式をすること。福島瑞穂さんのお話で社民党から立候補する気があったようなことも知った。まだまだやるべきことがたくさんあり、痛みはきつくても意欲満々で、本人も病気が今急変するとは思っていなかったこと・・・。

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2012年5月 8日 (火)

日隅一雄 連続対談第六回 宮台真司 模擬コンセンサス会議

5月8日

日隅一雄 連続対談第六回 ゲスト宮台真司 模擬コンセンサス会議「原発存廃」。

前回行けなかったので今回は岩波アネックスに行こうと思っていたが、PMSの頭痛、腰痛で行けなかったのでニコ生で見る。

http://www.ustream.tv/recorded/22442403

今回は日隅さんと宮台真司氏の対談ではなく、特別企画、模擬コンセンサス会議であったが、模擬の原発存続の専門家役(パネラー)の江藤貴紀氏がちょっとたどたどしく、途中で笑い出したりしたのでニコ生のコメントが騒然となったりした。

江藤貴紀氏は、調べてみると、実は事故後いち早く行政訴訟を起こしたすごい人らしい。昨年3月に東京大学法科大学院を卒業し、4月7日には訴状を提出したとある。

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1106/09/news014.html

途中で笑いが抑えられなかったのは自分の信条と逆のことを訴える演技をしているのが気恥ずかしくなってしまったのだろうか。

宮台真司氏は市民パネルのいくつかの設問の会議の後で意見を述べた。専門家パネルの言う残余(未規定)のリスク、ブラックアウトと原発災害では、どちらが制御可能か。日本以外の国ではどの電力、どの電源を買うのか選べる、ピーク時をずらすと割引があるなどの供給メカニズムがある。すぐにでも発送電分離しないと、ほかの発電事業者が参入できない。短期的にこの夏を乗り切るかについても、ピークをずらすインセンティブメカニズムによってかなりやれる。経産省の出してくる計算ベースは現在の産業構造を完全に維持する場合の計算であり、ナンセンス。発送電分離をし、皆がディマンド・リスポンス型の行動をするようになれば産業構造も変わる。社会がどう変わるかを考えて損得を考えるべき。というような話。

梓澤さんの話。原発をどうしても廃止したいという気持ちは、福島の人たちの犠牲の上に自分たちの生活が成り立っていることが許せない、という良心のありかたである。原発は犠牲を織り込み済みのシステムである。

模擬コンセンサス会議の結論。

「原発存廃については廃止すべきである。その理由は、電力供給量、不足量のデータの信用性を判断することは難しい。そもそも電力が足りるか否かの議論は、原発存廃に直結する論点ではない。足らす努力を社会全体ですべきである。

代替エネルギー確保は実績がなく、省エネ社会への産業構造の転換も容易ではないが、エネルギー構造を変えれば、産業構造も変わらざるを得ず、原発を廃止すれば経済成長も止まるという鵜呑みにはできない。

再稼働の是非については、技術的、科学的側面だけでなく、倫理的、感情的な側面を検討して判断すべきである。その際、私たちは福島の現実のことを忘れてはならない。」

8時40分くらいに日隅さんと宮台氏の感想。日隅さんは、腸の狭窄の痛みがひどく、あまり一般には知られていないリリカという疼痛に効く薬を始めたそうだ。副作用の眠気がきついと書いていたが、きょうは声が元気そうでよかった。

宮台氏の話。コンセンサス会議の基本目的は科学の民主化である。専門家にまかせないこと。有識者会議はどういうメンバーを選んだかで役人たちの計画したシナリオどおり99パーセント決まる。未規定なリスクに対しては「センティメント」が決めるのでよい。原発の未規定なリスクについてゴーというのは無責任すぎる。

5月7日

飯田橋の警視庁遺失物センターへ。失くしものは見つからなかった。

そのあと神楽坂を散歩。映画館飯田橋ギンレイホールは、入場料が高くなっていたがまだあった。学生のころ一人で2本立て映画を見に来た。寺山修司の映画を見ていて痴漢にあって一瞬ぞーっとしてトラウマになったり。ギンレイホールの裏にはくららというポルノ映画館。「女囚さそり」のポスターが貼ってあった。

神楽坂に横に走る細い細い脇道。

うねる階段の途中の塀の上にいた可愛い猫。神楽坂にふさわしいしゃれた着物の布の紐を首に巻いている。

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人なつっこく、撫でるとすりすりしてくる。

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赤城神社の近くから牛込のほうまでずっと真っ直ぐ伸びる坂道。

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若葉、若草が匂う横道。後ろに見晴湯の煙突。

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坂が終わり、大通りに出るまで歩いた。大通りは情緒のない広い道。新潮社の横を回り。飯田橋の駅まで戻った。昭和40年代から残っていた古い家並は破壊されてマンションになっている。
帰宅してから私が外出すると淋しがって大騒ぎするちゃびをたっぷり抱きしめた。

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