7月22日
日隅一雄さんを偲ぶ会。11時40分頃東京会館に着く。すごい人だった。1000人~1500人超はいたように見えた。
木野龍逸さんのお話。
オーストラリア時代に、ゴーストツアーというのに日隅さんと一緒に行き、樹のくぼみなんかを見て、ほら、あそこに幽霊が見える、と言いながら進むようなゆるいものだったのだが、何年かしてから「木野君、あのゴーストツアーはすごく面白かったねえ。」と日隅さんに言われて、なんであんなものを?と思ったという話や、オーストラリアの編集部内で、誰と誰が付き合ってるという情報をなんで教えてくれなかった、と言っていて、割とスキャンダラスなことにも興味があったという話や、なんにも考えてなさそうだったのに、今度司法試験受けるわ、みたいなことを言って、受かるわけないのに、と思っていたら一回でしっかり受かっていて、この人は頭の出来が違うと思ったこと。夜中によく呼び出されてアントニオ猪木の店という騒がしい飲み屋に連れて行かれたり、英語の勉強になるから、と言われて歌舞伎町の女の人たちがいる店に連れて行かれたり(でもやっぱり英語の勉強にはならなかった)とか。
日隅一雄さんは仕事がすごくできる人、忙しい人なのにひょうひょうとしていて、どこにいても明るく、いろんな場面をすごく楽しむことのできる人だったのだと思う。

日隅一雄さんに面影が似ている弟さんのお話。話がうまくて人の心をつかむ才能も日隅さんに似ていることに胸を打たれた。

「兄は小さいころから、母に本を読んでもらうのが好きで、そのとき、本と一緒に必ず水を入れたコップを持って来ていました。それは、母の声が枯れたときに水を飲んで、本を読み続けてもらうためでした。兄は本当に読み物が好きで物心ついた頃には、寒いときは布団にもぐって、本や新聞を読んでいました。兄は動物も好きで、一緒に山に行ってマムシを家に持ち帰ったときは母にひどく怒られました。兄は、家族から見ても、謎の多い人物でした。勉強しているそぶりがまったくないのに、兄が非常に高い学歴だということは、きっとどこかで勉強していたのでしょう。私を喜ばせようと、大きなラジカセを買って、電車で福山まで持ってきてくれたり、将棋のときは何度でも待ってくれたり、本当に優しい兄でした。兄は運動のほうはあまり得意でなく、テニスをやろうと思い立ったこともあり、やってみたのですがまったくラケットに当たらず、二日で諦めました。お気づきのかたもおられると思いますが、趣味は型からはいるタイプです。亡くなったあと、部屋を整理したら、スキューバダイビングのスーツや、サックスなどが出てきて、いったいどのくらい練習できたのでしょうか。」(筆者の記憶で記述しているので、やや不正確です)というようなユーモアあふれる思い出話で、会場に笑いが起きた。
「母は私が十三、兄が十七のときに亡くなってしまい、父も2001年に亡くなり、そして兄も若くして亡くなってしまい、私一人になってしまいました。」という言葉に思わず涙、涙・・・・。周りでも静かにすすり泣く人たちがいた。
この弟さんの口から日隅一雄さんの思い出話を聞けたことは本当にありがたく感じた。
NHKフィル弦楽四重奏の厳かな生演奏の中、献花。

花の中の日隅一雄さん。黄色い花が控え目にはいっているのに少し慰められる感じがする。白いカーネーションを静かに捧げた。

献花を終えて、となりの立食会場に移動。日隅一雄さんの思い出展示コーナーに釘づけ。

依頼人のかたが手作りした「ヤメ蚊」の人形。アイディアも造形も、これを作った人はすごい。

顔も日隅さんにそっくり。ペンを口にくわえ、ノートを持ち、とてもよくできた人形だ。

幼少期の日隅一雄さん。らくだの前で。シャツがはみ出している。こういうの、たまらなく愛しく思える。

産経新聞社会部の記者だった頃、日隅さんが取材に使っていたカメラ。

オーストラリア時代に日隅さんが編集していた雑誌。

カラオケではじけ飛ぶ司法修習生 日隅一雄。(なんの曲だろう?)

新人弁護士 日隅一雄。

2012年6月。入院中なのに事務所に笑顔で出勤。

本当にたくさんの人に愛された人だなあ、と感じる。同僚の弁護士さんが言っていたが、日隅さんは「人の悪口を言わない、愚痴を言わない、自分のプライヴェートのことを話さない」人だったという。
最後の日、耐え難い痛みで救急車で病院に行ったときの診断は、がんが腸を突き破って、腸の内容物が外に出て腹膜炎を起こしている、と言われたそうだ。そうなるまで痛みを我慢して仕事を続けられた人間がいた、ということが奇跡だ。
亡くなる直前に入稿したという新刊『国民が本当の主権者になるための5つの方法』を買った。そのあとがきに、海渡さんの言葉で、日隅さんから民主主義の実験に命を賭けたい、次の衆議院選挙に出たいという相談を受けていたと書いてある。杉並区八区で、という具体的なことも。本当にどこまでも意欲的な人であり、まさか12日に亡くなるとは本人も思っていなかったのだろう。本当に日隅さんが選挙に出ていたらすごく盛り上がったろうなあ、と思う。
余人をもっては代えがたい才気煥発、行動力があり、かつ謙虚な人、鮮やかでしなやかで、しかもかわいい人だったと思う。本当に素敵な人だったなあ。
閉会時になり、日隅一雄さん思い出コーナーの写真を去りがたく見ていたら、若い人に声をかけられた。私のブログを読んできょうここに来た、と言われ、『デッサンの基本』(私の書いた本)を見せられて、あまりに驚いて思わず泣いてしまった。
二十歳の学生さんだという。廊下の椅子でしばらく話していた。私のブログを最初から全部読んでくれていると言う。
一般的に平準化されてしまう感覚でなく、いつもなにか身体に触れるもの、異質なものを言語化したくて、それをいつかどこかで誰かが見てくれるかもしれない、という僅かな望みを持って書いているのだが、誰かに届くことはほとんど不可能のようにいつも感じながらやっているので、実際に読んでくれた人に会えたことに心底驚いた。
なんと私の敬愛する師、毛利武彦追悼展まで見に行ってくれたという。アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人』まで読んだとか。言葉にするのが難しい何かが伝わったのだとしたらすごいことだ。
本当に、本当に驚いた。感謝します。
7月21日
治療院で偶然開いた週刊ポストに大好きな種村季弘さんの思い出記事が載っていたので、そこだけコピーしてもらった。
「松田哲夫の愉快痛快人名録 ニッポン元気印時代」というコーナー。種村先生は超長電話好きな人だったという話。
確かに会話はすらすらと続いていたな。まさに「博覧強記」。少しも嫌味がなく、スパッスパッと実名をあげての痛快な批評で、回転が速くて、臨機応変で、すごくチャーミングだった。実名をあげての批判だったからこそ、先生は欺瞞的なところがなくて、真に信用できる人だと思えた。そして種村先生ほど思いやりがあって、こちらをリラックスさせようと気遣ってくださるようなかたもないくらい、繊細であたたかなお人柄だった。頭が良すぎるせいなのか、勘が良くて濃やかで、無神経なところがまったくない人だった。
種村季弘先生からじかにお電話をいただいて、新聞連載の先生のエッセイの挿画をやってほしいと言われたときは、夢のような気がした。本当に幸せだったなあ(涙)。
松田哲夫さんの文章から引用。80年代初頭のある日の長電話。「若い世代の書き手には蓮見重彦の文章の亜流が多くてね、読みにくいったらないね」「ああいう文章には“外部”がないんだよ。“内部”でうごめいているだけなんだな。それは、今の時代、時間的にも空間的にも“外部”がなくなりつつある時代だからなんだよ」「新しい秩序が見えてこない、“内部”が肥大した時代には“秘めたるもの”も意味をなさなくなる。文学にとっても最も不幸な時代なんだと思うね」「“内部”だけで育っていくと、決して大人にならない子どもばかりの世の中になっていくんだろうね・・・・・・」
今は80年代初頭ではないが、不思議なほど自己展開している人、勝手な自己肥大を人に認めろと脅迫的に強要してくる人が多いように思う。肥大した自己イメージでの独善や要求を、打診されることもなく、他人に勝手にずけずけとやられてしまう。自分には非常に価値があるから自分のやることは相手に喜ばれて当然と思っている人に何人もあった。
得意満面だったり、関係ない他人に延々とと自分語りや不満をぶつけてきたり、「他者」がいないのだ。こちらが相手に激しい嫌悪感やストレスを抱くとはまったく想像しない。自分を応援してくれるのが当然と勝手に思っていて、賞賛しろと脅迫してきたり、無償の労働や金を要求してきたり・・・。意見を言ってくれ、というから、正直に言ったら激昂されてしまう。私の体調が悪いとか、今、介護でくたくただと言っても、全く耳を貸してくれず、自分の要求だけを脅迫的にぶつけてくる。絡まれると神経がズタズタになってしまう。もちろん私が相手を好きで尊敬していれば、私が相手の才能や人柄に魅了されたのなら、できる限りのことはしてあげたいが、その反対だからできない。表現としてやってはいけないこと、余計なことや越権行為を一方的にされていると感じてしまうので、気持ち悪さばかりがつのる。このまま行けばどんどんエスカレートして好きなように行動されてしまうという恐怖を感じる。(そういう人たちは熱情精神病というのか、セクハラの感覚に似ている。)
「他者」がいないことは「外部」がないとも言えるのではないか。過去にはものすごい人、ものすごい美しいことをやったり、つくったりしている人がいるのに、その人たちの絵や文章や書を見ても、自分との落差にショックを受けて謙虚になるどころか、妄想的に自己を優れた人物に同一化させて瞬時にやりたがる人、どう見てもただ汚いぐちゃぐちゃとやったものに大そうにに自分のサインを入れて得意気に送りつけて来て、それを喜べと強制してくる人とか、どんな精神構造なのか全く理解できない。(本当に自分の表現が良いものと信じているなら自分のブログに載せてたくさんの人に見せるべきだと思う、その汚いものを私個人に送り付けられることがひどく傷つく。そんなものを喜ぶほど私は眼が節穴な人間、甘い人間だと思われているのだろうか。)まともな自己認識がないのか、不安だから何かを強い力で遮断しているのか――たぶん遮断しているのだと思う。
他者の声に耳をすますどころか、都合の悪いことは聞かないで自画自賛をわめきたてたり、すり替えをしてしまう。人生において最も厳粛な場所、私にとって自分の親より大切な師を亡くした絶望の場面にさえ、まるででしゃばるチャンスとばかりにずかずかと師を知らない赤の他人の一方的な自己顕示欲が土足で上がりこんでくる。厳格で思索的だった師(陳腐さ、一般的な概念を徹底して嫌ったことこそが師の凄絶な生きざまだったわけだが、)に対して勝手に捧げる、献じると言って陳腐極まりない軽薄な言葉、師を貶めるような造形パフォーマンスをやりたがりの他人が無断で割り込ませてくるのは不遜や無礼という言葉を越えている。(親友は、それを見て「かわいそうに。殺してやりたいと思うだろうね。」と私に言った。「脳に欠陥がある人なのかもしれない。」と。)
そこは自分の自己表現欲望が立ち入ってよい(それが許される)場所ではない、そこに他人があがりこむ余地はないということ、もし、何かオマージュのようなものを捧げる立場の人がいたとしても、自分はその立場にある人間ではない、ということがわからないのだろうか。余計な表現をするほうは自己陶酔してどんどん気持ちよくなっていき、されるほうは耐え難い汚い澱のようなものが胸に溜まっていく。(汚らわしいものが入ってくる感覚がぬぐえず、どうしてこんな厭な思いをさせられなければならないのかわからない。こんなことを一方的にされる筋合いはないと思う。)
つまりは他者の美しい行為と自分のやっている醜悪な行為の区別がつかないということは致命的なことだと思う。
自分がやってることが良いことだと自分で勝手に信じて許可なく相手にそれをやってしまう。そこには「懐疑」が無い(自分が傷つくような認識は遮断)。この世には自分の経験や想像力からはとても及ばないような自分の計り知れない「他者」、価値観が違う他者がいるということをわかろうとしない。自分と違う言葉、自分とは違うものに触れている言語を話す人間がいることを認めようとしない。すごい人がいても畏れを感じて静かにするのではなく、敬愛という言葉を軽々に使って自分のわかるレヴェルの範囲に引きずり落としてなんでも自己肯定のツールにしてしまう。すぐ有頂天になったり、べったりしがみついてきたり、異常なほど自分に甘い人。そこには他人との「距離」というものが存在しない。
沈黙して遡行できる能力がなければ。