中川幸夫

2018年8月26日 (日)

映画『華 いのち 中川幸夫』

8月24日

ずっと見たかったけれど、(私が中川先生を愛しすぎていたので)見るのが怖くもあった中川幸夫先生の映画『華 いのち 中川幸夫』(監督 谷光章)を見に恵比寿の写真美術館へ。

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今年は中川先生の生誕100年だそうだ。

緊張して上映1時間前に会場に着いた。

映画が始まってすぐ、懐かしい中川先生の笑顔としゃべり声が胸にずんときて涙が出た。

ナレーターは山根基世と大杉漣。

奇をてらった演出はない、安心して見られるドキュメンタリー。

「天空散華」。明るい雨、満開のニセアカシアの白と緑の川辺、ヘリコプターのプロペラの強風に回転しながら落ちてくる赤、白、黄、オレンジのチューリップの花弁。

「皇帝円舞曲」にのせて舞う大野一雄先生のこの世のものではない紗がかかった輝き。

いつもの紺色のジャンパーを着た中川先生の感極まる笑顔。終わった瞬間、わあっと中川先生を囲む数人の人びとの中に私も映っていた。

「天空散華」終了時に私が撮った中川幸夫先生の写真。

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この時、私はツアーではなく、個人でホテルを予約して見に行った。朝、偶然、大野一雄先生たちと同じホテルだったことに気づいたのも素敵な思い出だ。

谷光章監督は、中川先生の祖父(隅鷹三郎 池坊讃岐支部長)が曽祖父(母親が中川先生といとこ)の親戚関係だそうだ。

監督は1969年、麻布のギャラリー青で見た「花坊主」に衝撃を受けた。初期の「花坊主」は、有名な写真のものとは違っていたとのこと。

上映後、実川暢宏さん(元自由が丘画廊オーナー)と監督とのトークショー。実川さんはデュシャン展やフォンタナ展を日本で初めてやった人。

かなりリアルな話が聞けた。

・・・(聞き書きなので言い回しは不正確だが)実川暢宏さんのお話のメモ。・・・

「77年頃、デュシャン展で瀧口修造さんに中川さんの『華』の本の写真を見せられた、瀧口修造さんは赤い花の汁が黒く変わること、水を加えると分解することにとても興味を持たれていた。

79年の瀧口修造さんの葬儀の時、中川さんは火葬場に行く車に乗らずに、作務衣を着て家の前を掃いていた、律儀な人だと思った。

中川さんはいけばなでは有名だったが、アートでは無名だったので、全国のいけばな信者に買ってもらえる平面作品を売れば巨額の富を得られると思った。

84年、「花楽」の展覧会では、中川さんがバスケットボール大の海綿がほしいといったので、スタッフがニューヨークまで買いに行った。いろんな紙を試し、中国の栄宝斎の画仙紙が一番良かったので西武デパートにあるだけ全部買った。

新潟の床の間一式の仕事が書のきっかけ(「雪月花」)。ごく初期の中川さんの書は、後期のとは違って、もっとみずみずしい(あまりつくらない)字だった。

アートフェアで中川さんの「花楽」が売られていたが、花汁だけしか使わなかったはずなのに墨が使われていたり、紙が違ったり、真贋が怪しいものがある。偽物はひたむきさがなく、うわべだけを真似しているような感じがする。

自分が40歳代後半、中川さんが60歳代半ばから70歳くらいの時に親しかったが、晩年の中川さんの作品は、80年代と違う。

プロデュースする人の方向にひきずられる大イベントになってしまった。中川さんが本当にやりたかったこととは違う気がする。

「天空散華」については、80年代から「そらから撒きたい」と言っていた。

80年代の作品が代表作とされ、今だに自分がつくった87年の「無言の凝結体」のパンフがよく使われる。

プロデューサーが中川さんを愛しているというのなら、晩年の仕事のきっちりしたパンフをつくるべきだ。」

・・・・・以上、実川さんのお話。・・・・・

中川先生は私の絵を見て「花をすごくよく見ている」と言ってくださった。すごくよく見て、知り尽くしていなければ描けない花の絵だといってくださったことがずっと私を支えている。

それから私のことを、すごく芯が強い人だと。その強さ、恐ろしさ、妖しさを前面に出せ、と。

私の個展に来てくださった時の中川先生・・・おいしいと言ってコーヒーをおかわりしている笑顔。

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ほかのお客さんが来ませんように、と私はひどくどきどきしていた。中川先生を送って画廊の外まで歩き、ガソリンスタンドのところで笑顔で手を振る中川先生が焼き付いている。

いつだって、中川先生と一緒の瞬間をほかの誰にも邪魔されたくなくて、この時がずっと続きますようにと激しく願いすぎて、胸が苦しかった。

中野のアパートの細い階段。発砲スチロールに植えてあったムサシアブミ。手作りの郵便受け。部屋の中にかかっていたゲーテの肖像。ユニオンジャック。

中川先生のことを久しぶりに思い出し、涙が止まらなくなった。

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(瀧口修造追悼「中川幸夫献花オリーブ展」で。いたずらっぽい眼の中川幸夫先生)
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私にとって中川先生ほど魂が通じると感じた尊敬できる作家はいなかった。

しかし中川先生の作家魂とはかけ離れた金や権力や自己顕示欲の塊のような人が、先生にはりつくのを見るのが不快でたまらなくて、晩年のすべてのイベントを見に行く気にはとてもなれなかった。

(中川幸夫先生と私にはりついて作品の上っ面や言葉づかいなど、あらゆるものをことごとくパクり、自分のもののようにひけらかす精神のおかしいストーカーに6年間も悩まされたひどい経験もある。)

中川先生が丸亀に帰られてからは二度ほどお会いしに行った。それが最後。その時のフィルムが残っている。

それから私は自分の心の奥と本の中に中川先生を刻み、あまり思い出さないようにしていた。

映画が終わってから谷光監督にご挨拶し、恵比寿駅までの道をご一緒した。谷光監督がご親戚だということが嬉しく、ものすごく久しぶりに中川先生について話すことができた。

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2012年4月13日 (金)

中川幸夫 墨痕淋漓

4月9日、 11日

中川幸夫先生を思いながら川沿いを歩く。颶風起き、花の嵐。道の縁の濃い色の菫を探して歩いた。

中川先生の美しい書を、全身が一本の凛としたものに貫かれた仕草を思い起こしている。

墨痕淋漓。

「花」という未知のものに対峙する中川先生の言動、態度そのものが、余計なもののない花であった。

自分にはわからないものを追うとき、やってはいけないことを問うことだけがやるべきことであると思う。それは相手が植物であっても、動物であっても人間であってもそうだ。

予想していたことだが密葬であったことにとてもほっとしている。葬儀というものが、生き残った者の余計なおしゃべりによって、死者を悼む気持ちがずたずたに引き裂かれる場所であることを、もう厭というほど繰り返し経験したからだ。

中川先生の際立った書も、見ても何も感じない人もいる。優れたものが多くの人に好かれるわけではなく、むしろ際立てばそれだけ大衆から乖離するのは当然だ。気持ち悪いのは、何もわかっていないのに「わかる」とか「素晴らしい」と強弁する人だ。

この世には「畏怖」ということがわからない人がたくさんいる。畏れ、控えるというところにしか敬意は存在しないのだが、眼があれば、その人のやっていることを見たら恥を知るはずなのだが、廉恥というものがない。

自分がその人のすごさが何をもってすごいのか、その根本が全く理解できないので、隔絶を認めず、自分と大して変わらない人間だと思い込もうとする。実際には截然たる鴻溝があるのだが、ものすごい恐怖や緊張を感じることがない(感じたくない)。敬愛すると強弁しながら自分の場所に引きずり落とそうとし、わからないものを平準化して安心しようとする。自己愛の同語反復。その度を越した僭上と自己顕示が怖い。

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2012年4月 8日 (日)

中川幸夫

4月7日

中川幸夫先生が3月30日に逝ってしまったことを知る。93歳。新聞に小さく載っていたそうだ。

脳の中に映写機があって、くすむことのない陽の光に満ちた映像がいつも回っているように、中川幸夫先生と過ごしたときの数千の絵が繰り返し見える。

新中野の小さなアパートへ行く道。風呂屋に繋がれていた犬。神社の桜の古木。塀の片隅に咲いていたハルノノゲシ。古い家の木の看板。市場の跡。アパートの急な階段。発砲スチロールに植えられていた植物。ビニルのかかった手作りの郵便受け。ドアを開けたところにかかっていたユニオンジャック。

あの最高に晴れやかな笑顔。はにかんだ顔。驚いた顔。とても表情豊かで、率直だった。

抜群に頭のいい人だった。話が端的で回転が速くて面白いことが大好きで、その言葉と表情に私は魅せられた。いたずらっぽい冗談を言って、私が大きく反応して驚いたり笑ったりすると嬉しそうに笑っていた。

非常にはっきりと人の批判をされることもよくあった。そういうときの的確で短い言葉にも、いつも感心したものだ。くだらないことが嫌いで、厳しくて、愛らしいひとだった。

ものすごく洗練されたかっこよさを持つ人で、高い集中力とともに、余計なものがなくて、抜群に色気があった。痺れるような圧倒的な才能だった。

あの中川先生の人となりがすべてわかるような、背筋のぴんと伸びた、雨の音や木々の匂いまで香り立つような美しい文字。

大野一雄先生の「花」(新宿パークタワー)のときだったろうか。大野さんの踊る姿のポスターの上に、中川先生が思いっきり大胆に、花の匂いが強烈に迸るように書いた展示用の題字を、公演後にいただいたことがあり、飾らずに大切にとってある。

銀座のF画廊の個展に来ていただいたときの中川先生。「コーヒー大好き!」とおいしそうにお変わりする姿。ガソリンスタンドの前で手を振る姿。S画廊のあとで行った中華料理店。少しお酒を飲んでいる中川先生。二人で帰る地下鉄の中での会話。信濃川河川敷のときの中川先生。全身雨に濡れて、達成感に満ちた笑顔。O画廊のときの中川先生。新中野の坂を下りてくる中川先生。

毎日中川先生のことで胸がいっぱいになって、好きで好きでたまらないときを過ごした。

中川幸夫先生がいなくなったことは、まだ実感がわかないが、これで若林奮先生、種村季弘先生、大野一雄先生、毛利武彦先生に次いで、心底敬愛できる最後の人を失ってしまった。もう絵を見ていただくとき、緊張で身体の震えが止まらなくなることもない。脳天を貫くような喜びもない。

今はただ、中川先生との記憶を大切に反芻したい。どんな花も中川先生に捧げることは僭越だから、記憶の中でずっと会話していたい。

4月6日

母を迎えにKに行く。帰りのタクシーの中から中央公園の満開の桜を見た。

買い物と食事をさせ、8時頃西新宿の家を出たら、ちらほら雨雪。

母が死んでも葬式は無し。骨はお墓に入れず家に置く。という点では父とぴったり意見が一致した。

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2011年10月11日 (火)

中川幸夫 花 メルロ=ポンティ

10月10日

中川幸夫の花についての文章をずっと思考している。

彼と会って話していたとき、どんなに全身がどきどきしたか、彼のひとこと、ひとことの深みに、どんなに痺れたか。彼はいつもとびきり面白いことを考えて実行していた。立ち姿さえかっこよかった。彼の才と、あのチャーム、あの強烈な生命力に触れてしまうと、ほかのどんな男もひどく退屈に感じてしまうほど。

そもそも「花」とは何か。茎の先端にあって目をひくもの。裂けて、反りかえり、しなだれ、朽ちるもの。花の死はいつ始まるのか。花のスペクタクルとは。

中川幸夫は「前衛というのは好みません」「もっと自分との距離が短くて、それを純粋に」と語っている。「現物から掴むのよ。」と私に何度も言っていた。

植物自体が、芽吹くときにも、種子のときにも、生の運動と同時に死や破砕の運動を含んで変化し続けるものであり、その時間の中での、彼と花との出会いかた、彼のその花の時間の切り取りかたは、中川幸夫の極めて個人的な、身体的なものである。

花は生きものであり、匂いを持ち、水分と強く関係し、動いているものであり、それをどう生けようと、決してスタティックな造形とは考えられない。

中川幸夫の花は花の文化史やいけばなの文化史のなかだけで語るべきでない。

中川幸夫は絶えず、どんな解釈にも決まりごとにも染まっていない「なま」の、花を見てきた。その花と見つめあい触れ合う交接の中から凄烈な異貌の花が生まれた。

花を見、花から見つめられるるまなざしを持つものにだけ見える花。

その花は言語媒ではない。動物媒だ。

……………

「つまり、ただ楽しむだけの芸術などというものはない。すでに整えられている観念を別のかたちで結び合わせたり、すでに見られた形態を示したりすることによって、人を楽しませるものを作りあげることはできる。このような二次的な絵画や音楽が一般には、文化というものだと思われている。

バルザックやセザンヌが考える芸術家は、開化した動物であることに満足していない。そもそものはじめから、文化を引き受け、それを新たに築きあげる。最初の人間が語ったように語り、かつて誰ひとり描いたことがなかったかのごとく描くのである。

その場合、表現とは、すでに明白になっている思考の翻訳ではありえない。なぜなら、明白な思考とは、われわれのなかで、あるいは他の人びとによって、すでに語られた思考であるからだ。」

「セザンヌの不安動揺や孤独は、本質的な意味では、彼の神経組織によってではなく、彼の作品によって説明されるのである。」――メルロ=ポンティ「セザンヌの疑惑」粟津則雄訳

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2011年1月23日 (日)

中川幸夫 自華像

1月22日

中川幸夫「自華像」展を見に行く。

原宿の若者たちの雑踏を避けるため、代々木のほうから千駄ヶ谷を通って散歩し、裏道から神宮前に出た。

代々木駅の古いしみだらけのガードレールをくぐって右の細い裏道に入り、昭和30年代からあるような平屋の家の横を通り、新宿御苑の柵の外から、柵の中の歳とってひねこびたスダジイや、いくつもの乳を持った銀杏や、背の高い欅の木々、真冬のツワブキ(石蕗)の穂綿をのぞきながら歩き、千駄ヶ谷門の近くから大きく右に曲がった。

能楽堂のあたりから外苑中学校を通って神宮前へ。豪華な新しい建物の中に混じって、古くからある小さなつましい木造の家がまだ壊されずに残っている。木の塀に滲んだ長い時間のつくった色と模様に惹きつけられ、幾度も立ち止まって見入ってしまう。

枯れた芭蕉の木のある廃庭。絡まってはびこった白茶けたカラスウリの蔓の中に、誰にもかえりみられないいくつもの朱の実が燃えるように輝くのを見た。人ひとりやっと通れるような裏道。空き地の隅で食べ物をもらっているキジ猫。古いハウスのような白いペンキの剥げた木の家。屋根を突き破って健在の緑青色のヒマラヤ杉。高円寺にも似ている小さな古着屋がいっぱいの路地を迷いながらVACANTに着いた。

久しぶりに中川先生の大きな写真と対面。

中川幸夫の活けた薔薇、中川幸夫の撮った薔薇はどうしてこんなにも深紅なのだろう。深く深く艶やかで、少しも派手すぎず、ずしりとくるのに甘い。激烈でありながら柔らかい。怖くて甘くて触れがたい究極の赤だ。赤い薔薇をもっとも俗から遠いところで撮れるひと。

中川先生とのあまりにも強烈な思い出が迫ってくる。あの最高の笑顔。憎悪と すべてを跳ね返す先の祝祭と。

交わされた言葉と同時に何を見たのか。その瞬間の空気の感覚。陶酔とともに最も痛みに過敏になる瞬間の記憶、記憶。

献花の薔薇の匂い、コーヒーの匂い、煮物の匂い、墨の匂い、冬の寒い部屋、ガソリンスタンドの前で大きく手を振る姿、地下鉄の中の会話、錆びた鉄の階段、絵具だらけのズボン、ユニオンジャックの旗、ゲーテの肖像、大きな力強い指・・・。

清楚で優しい花にならなくていい、と師、中川幸夫は言った。「あなたのその奔放さと怖さをね、もっと前面に出したほうがいい。妖しくて恐ろしい花をね。」と。

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Einmalige Blume unvermerkt von den Bienen

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Die ungeweinte Tränen

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