映画『華 いのち 中川幸夫』
8月24日
ずっと見たかったけれど、(私が中川先生を愛しすぎていたので)見るのが怖くもあった中川幸夫先生の映画『華 いのち 中川幸夫』(監督 谷光章)を見に恵比寿の写真美術館へ。
緊張して上映1時間前に会場に着いた。
映画が始まってすぐ、懐かしい中川先生の笑顔としゃべり声が胸にずんときて涙が出た。
ナレーターは山根基世と大杉漣。
奇をてらった演出はない、安心して見られるドキュメンタリー。
「天空散華」。明るい雨、満開のニセアカシアの白と緑の川辺、ヘリコプターのプロペラの強風に回転しながら落ちてくる赤、白、黄、オレンジのチューリップの花弁。
「皇帝円舞曲」にのせて舞う大野一雄先生のこの世のものではない紗がかかった輝き。
いつもの紺色のジャンパーを着た中川先生の感極まる笑顔。終わった瞬間、わあっと中川先生を囲む数人の人びとの中に私も映っていた。
「天空散華」終了時に私が撮った中川幸夫先生の写真。
この時、私はツアーではなく、個人でホテルを予約して見に行った。朝、偶然、大野一雄先生たちと同じホテルだったことに気づいたのも素敵な思い出だ。
谷光章監督は、中川先生の祖父(隅鷹三郎 池坊讃岐支部長)が曽祖父(母親が中川先生といとこ)の親戚関係だそうだ。
監督は1969年、麻布のギャラリー青で見た「花坊主」に衝撃を受けた。初期の「花坊主」は、有名な写真のものとは違っていたとのこと。
上映後、実川暢宏さん(元自由が丘画廊オーナー)と監督とのトークショー。実川さんはデュシャン展やフォンタナ展を日本で初めてやった人。
かなりリアルな話が聞けた。
・・・(聞き書きなので言い回しは不正確だが)実川暢宏さんのお話のメモ。・・・
「77年頃、デュシャン展で瀧口修造さんに中川さんの『華』の本の写真を見せられた、瀧口修造さんは赤い花の汁が黒く変わること、水を加えると分解することにとても興味を持たれていた。
79年の瀧口修造さんの葬儀の時、中川さんは火葬場に行く車に乗らずに、作務衣を着て家の前を掃いていた、律儀な人だと思った。
中川さんはいけばなでは有名だったが、アートでは無名だったので、全国のいけばな信者に買ってもらえる平面作品を売れば巨額の富を得られると思った。
84年、「花楽」の展覧会では、中川さんがバスケットボール大の海綿がほしいといったので、スタッフがニューヨークまで買いに行った。いろんな紙を試し、中国の栄宝斎の画仙紙が一番良かったので西武デパートにあるだけ全部買った。
新潟の床の間一式の仕事が書のきっかけ(「雪月花」)。ごく初期の中川さんの書は、後期のとは違って、もっとみずみずしい(あまりつくらない)字だった。
アートフェアで中川さんの「花楽」が売られていたが、花汁だけしか使わなかったはずなのに墨が使われていたり、紙が違ったり、真贋が怪しいものがある。偽物はひたむきさがなく、うわべだけを真似しているような感じがする。
自分が40歳代後半、中川さんが60歳代半ばから70歳くらいの時に親しかったが、晩年の中川さんの作品は、80年代と違う。
プロデュースする人の方向にひきずられる大イベントになってしまった。中川さんが本当にやりたかったこととは違う気がする。
「天空散華」については、80年代から「そらから撒きたい」と言っていた。
80年代の作品が代表作とされ、今だに自分がつくった87年の「無言の凝結体」のパンフがよく使われる。
プロデューサーが中川さんを愛しているというのなら、晩年の仕事のきっちりしたパンフをつくるべきだ。」
・・・・・以上、実川さんのお話。・・・・・
中川先生は私の絵を見て「花をすごくよく見ている」と言ってくださった。すごくよく見て、知り尽くしていなければ描けない花の絵だといってくださったことがずっと私を支えている。
それから私のことを、すごく芯が強い人だと。その強さ、恐ろしさ、妖しさを前面に出せ、と。
私の個展に来てくださった時の中川先生・・・おいしいと言ってコーヒーをおかわりしている笑顔。
ほかのお客さんが来ませんように、と私はひどくどきどきしていた。中川先生を送って画廊の外まで歩き、ガソリンスタンドのところで笑顔で手を振る中川先生が焼き付いている。
いつだって、中川先生と一緒の瞬間をほかの誰にも邪魔されたくなくて、この時がずっと続きますようにと激しく願いすぎて、胸が苦しかった。
中野のアパートの細い階段。発砲スチロールに植えてあったムサシアブミ。手作りの郵便受け。部屋の中にかかっていたゲーテの肖像。ユニオンジャック。
中川先生のことを久しぶりに思い出し、涙が止まらなくなった。
(瀧口修造追悼「中川幸夫献花オリーブ展」で。いたずらっぽい眼の中川幸夫先生)
私にとって中川先生ほど魂が通じると感じた尊敬できる作家はいなかった。
しかし中川先生の作家魂とはかけ離れた金や権力や自己顕示欲の塊のような人が、先生にはりつくのを見るのが不快でたまらなくて、晩年のすべてのイベントを見に行く気にはとてもなれなかった。
(中川幸夫先生と私にはりついて作品の上っ面や言葉づかいなど、あらゆるものをことごとくパクり、自分のもののようにひけらかす精神のおかしいストーカーに6年間も悩まされたひどい経験もある。)
中川先生が丸亀に帰られてからは二度ほどお会いしに行った。それが最後。その時のフィルムが残っている。
それから私は自分の心の奥と本の中に中川先生を刻み、あまり思い出さないようにしていた。
映画が終わってから谷光監督にご挨拶し、恵比寿駅までの道をご一緒した。谷光監督がご親戚だということが嬉しく、ものすごく久しぶりに中川先生について話すことができた。
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