デッサンの基本

2016年11月14日 (月)

『デッサンの基本』 第26刷  次の本(画集)について

11月13日

9月末に『デッサンの基本』(ナツメ社)増刷のお知らせをいただきました。これで第26刷りとなります。

購入してくださったかた、本当にありがとう存じます。

なにか面白いものを見つけて、ありあわせの道具で描くことは、とても楽しいです。

また、描くことができない時も、ものをよく見る習慣がつくこと、そこからたくさんのことを感じ、記憶し、思い出し、味わえることは、それだけで楽しいことだと思います。

実際に絵を描くことによって、絶えず新しい発見があり、新しいアイディアがわいてきます。

描くことを通して、ものの見方が変わり、見ることの喜びが増すように思います。

『デッサンの基本』が、絵を描くことに興味がある人の、なにかの小さなきっかけ、ヒントに、もしお役に立つことがあれば、とてもありがたく嬉しいことです。

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10月29日(土)の夜、ちゃびに給餌していて、口の中にマグロを入れてあげるタイミングを間違い、牙で右手の人差し指を思い切り強く噛まれてしまい、大量出血。

(それにしてもマグロのお刺身をあげるようになってから、ちゃびの調子が戻ってきたので嬉しい!ドコサヘキサエン酸が脳神経に効いたのではないかと思っている。)

31日(月)の朝、病院に行き、抗生物質の錠剤と化膿止めの軟膏を出された。少し化膿し、すごく痛くて人差し指を使えないために、字も絵もうまくかけなくなってしまった。

PCのキーボードを打つにも人差し指が使えないために、変なところに力がはいり、右の上腕(三角筋?)が異常に凝った。

10日経ち、傷も治り、やっと絵が描けるようになりました。

最近描いた黄色いコスモス(イエローガーデン)の鉛筆デッサン(素描)。

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以前にデッサン(素描)したいろいろのコスモスから描いたコスモス水彩。コスモスによくいる青虫も、そのまま描いてみた。

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私の好きなコスモスは、薄曇りの薄い和紙をこしたような光の下で揺れているイメージ。または雨に濡れたコスモス。日が暮れかけたあわいの時間のコスモス。

私にとってのコスモスは、雨風に倒されてから起き上がったくねくねとうねった茎で、決してすっとまっすぐな茎ではない。

葉はちまちまと尖ったのは嫌いで、裂が少なくて刺繍糸のように長く優雅に伸びた葉のコスモスが好きだ。

自分にとって、もっとも心惹かれる佇まいのコスモスの絵を描きたくて、そこに近づきたくて、何枚も描いている。

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今、私は次の本を制作中です。

次は描き方の本ではなく、私がデッサン(素描)によってなにを見てきたかをまとめた本です。

これまで描き続けてきた植物の鉛筆デッサン(素描)の中から、一連の時間の流れと分断、なにを見るか、どのように見るかを考えながら百数十点を選び、それに素描着彩と銀箔を使った絵を加えたた画集です。

きょう、撮影のためにカメラマンに預けていたたくさんのスケッチブックとパネルに貼った絵の返却があった。

絵を撮影するにあたって、撮影する人との意思の疎通が非常に難しいことを知った。

特に銀箔を使った絵は、撮影する時の光の加減により、どんな色にも変わってしまう。どの部分(腐蝕の微妙なトーン、線の流れなど)を大切にするかを端的な言葉で重々伝えたつもりだが、まったく伝わらなかった。

絵の雰囲気をどう感受するかで、写真の撮り方も、プルーフの出し方もまったく違ってくる。

どのように(一般的な、あるいは文学的な)言葉で伝えようとも、絵をわからない人にはまったく共有されない。

どのようなトーン、コントラストでとらえたいかは、私の絵の雰囲気をよく知る人が撮影するか、作者である私自身が、CMYKに変換分解後の印刷用補正をしなければどうしようもないのだとわかった。

昔から信頼しているデザイナーのS・Kさんにメールで絵の印刷について質問した。

S・Kさんはやはり私が求めていることを理解してくれていて、非常にためになる話をいろいろ伺うことができた。

やはりカメラマンで印刷用の補正について詳しい人はあまりいないそうだ。 昔は補正のプロがいたが、今は商売にならないのでいなくなってしまったとのこと。

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2016年6月12日 (日)

『デッサンの基本』 第25刷 素描や絵画をめぐる遠くて近い記憶

6月10日

『デッサンの基本』(ナツメ社)が、また増刷となりました!これで第25刷となりました。

買ってくださったかた、ありがとうございます。

自分がつくった本を、どこかで読んで(見て)くれている誰かがいる、と思うと本当に嬉しく、ありがたく思います。

『デッサンの基本』が、どなたかのデッサン(素描)のためのヒントやきっかけになることがあれば、これほど喜ばしいことはありません。

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素描について

なにかを描こうと思う時、うまく描こうと思うことより、その対象のどこに惹かれるのかを「意識して」、それを大切に描くことだけが肝心だと思います。

私が敬愛するドイツの画家は言います、「私は愛するように素描する」と。

短い時間でなにかを素描するとき、もっとも大切な「自分がその対象に惹かれる理由」だけが描かれて、あとのものが抜け落ちてしまえば、最高に「絵」になるのに、と思う。

しかし、それがなかなか難しい。

「思い込み」を離れて「自分が見たものから導かれる線」を引くことが大切だと思います。

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素描や絵画をめぐる遠くて近い記憶

植物をよく見て、鉛筆の線だけの絵を描いて、楽しかった最初の記憶がある。

小学5年生のはじめに、新しく転任してきたY先生が担任になり、最初の授業が、自由に絵を描くというものだった。

皆、絵の具を使って思い思いに絵を描いたが、私はHBの鉛筆だけで、教壇の上の花瓶に活けられていたカーネーションの束を見ながら描くことに決めた。

私はその時一番前の席で、そのカーネーションのちまちました花の塊と細い茎、細いなよやかな葉をきれいだと思っていたからだ。

そして大雑把に省略してごまかさないで、できるかぎり細かく見たままを線で描く、というのをやってみたかったのだ。

カーネーションの花弁は複雑で、縁にギザギザがあって、茎も細くて節があり、葉の付け根も繊細すぎて、かたちをとるのがとても難しかった。

ひとつの花から描き始め、下のほうまで茎を追って線を引くうちに、葉のつきかたや茎の重なりなどの位置関係のつじつまが合わなくなってしまう。

見た通りに、ごまかさずに描こうとすればするほど、眼も頭も疲れて、とても苦しかったのを覚えている。

しかし同時に、そこに自分の眼の体験を確かに刻んだような達成感があった。

その時、全体のつじつまは合わなくても、自分が美しいと感じているもの、自分がカーネーションの中に見つけた「たくさんの細い線」を、自分なりに鉛筆で紙の上に残せたことに激しい喜びを覚えた。

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小学6年生の時、図工の先生が石井先生だったのは幸運だったと思う。

その日のテーマは「友だち」だった。花にかぎらずなんであれ細部に魅力を感じ夢中になってしまう私は、図工の時間内に絵を仕上げることができなかった。

石井先生は、そんな私に、(先生が採点したあと)、放課後、図工室に残って気がすむまで絵を仕上げていい、と言ってくださった。

私はそれから何日も居残りさせてもらうことで、友だちが着ている服の皺の微妙な反射の色を、じっくり時間をかけて描いた。私は机に向かう友達の後ろ姿を描いていた。

しーんと静かな図工室の絵の具や接着剤の汚れが染みついた、年季のはいった分厚い黒い木の机。そこでひとりぼっちで絵に集中できたのは本当に素晴らしい体験だった。

そこで、眼の体験に迷い込む喜びとともに、どこにこだわるのかで絵は無限に変わり、絵がいつ終わるのかを自分ではわからないことを知った。

「絵画鑑賞」の時間に、ダリの「記憶の固執(柔らかい時計)」や、ベン・シャーンの「赤い階段」を見せてくださったのも石井先生だ。小学生の時にこれらの絵から受けた衝撃は今もずっと残り続けている。

小学生だった自分を子ども扱いしないで美術の体験をさせてくださったことに、とても感謝している。

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10代、20代の頃はなかなか柔らかい線が引けなかった。高校3年生の一年間、美大受験予備校に通った弊害かもしれない。

今でも自在に線は引けなくて苦しいが、若い頃は今よりもっとゆっくりと、硬いたどたどしい線しか引けなくて不自由だった記憶がある。

「かたち」を一生懸命追っているので、けっこう集中力を要し、すごく疲れてしまう。

18歳の頃に描いたアジサイの素描。あたりをつけてから葉を描いている。

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20歳くらいの時に描いたマーガレットの素描。これも「かたち」を一生懸命とっている。正円を基(もと)にしたかたちの花ではなく、めくれたり歪んだりする花びらのしなやかさを追う気持ちで描いているのだが、硬い線。

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硬い、しなやかさが足りない。

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20歳くらいの時に描いた八重のチューリップ、アンジェリーケの素描(鉛筆、色鉛筆)。自分なりに格闘して描いたが、硬い線。

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昔から、八重のチューリップと、花の下にある葉とも花弁とも言えない部分に惹かれていた。神秘的な感じがするからです。

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このアンジェリーケという種類は、薔薇や牡丹のように桃色の花弁が重なったとても豪華で華やかなチューリップだ。花弁の色の微妙な濃淡をよく見て描いた。

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20歳の頃に描いたスプレー菊。薄ピンクの小さな花の中に微妙な色の変化を見つけることを意識して描いた。

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描くことに疲れてしまって、描くことが苦しくつらくなってしまったことがよくあった。

「こういう描き方すると疲れるでしょう。」とも言われた。

しかし、「隅々までよく見たとおりに」、「自分が面白さを感じたままに」描きたかった。それは受験予備校で習ったやりかたではなかったが、「単純化したり、くずしたり」することにはなおさら興味を感じられなかった。

今も「見たとおりに」描きたいことに変わりはない。

見たものが絵の中で「運動」し、「変容」することは、「絵を崩す」こととは違う。

そして私は素描を「本画」のための「下描き」や「習作」とは考えない。

植物を描くとき、一瞬の「不安定さ」、「個体の有限な生」の中の「非限定的なもの、わからないもの」を描くことで、一枚の絵の中に「運動」を描くことができると思う。

今は、昔よりは疲れずに鉛筆で描くことができます。

ひとつの理由は、鉛筆を持つ手に力を入れ過ぎないでも線を引けるようになってきたからです。

昔は強く鋭い線に惹かれたけれど、今は以前よりずっと筆圧の弱いあえかな線を引くことや「描かない部分」に興味があるから、とも言える。

 

 

 

 

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2016年4月29日 (金)

一ノ関圭 手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞

4月28日

一ノ関圭先生が第20回手塚治虫文化賞のマンガ大賞を受賞!!おめでとうございます。

一ノ関先生は、私が子どもの頃から心酔していた本当に大、大好きな漫画家さんです。

あまりに一ノ関圭先生の絵に惚れこんでていた私は、『デッサンの基本』をつくる時に、どうしても先生のデッサンを本に載せたくて、先生にわがままを言ってお願いした。

そして一ノ関先生とお会いして、お話を伺う機会を得た。

一ノ関圭先生は、思っていたとおり、とても聡明なかた。余計なものがなく、正直で、寡黙で、才能のある人ならではの、自分の創作に集中する激しさを秘めておられるかただった。

体験と思考が収斂して、それが深いところに集中していく感じというのか、この人は本当にすごい人だと思わせる空気。

本当にかっこいいかたです。

「裸のお百」の掲載されている『ビッグゴールド』を今も持っている。

ものがたりの最後で、お百が黒死病(ペスト)になってしまったところの「見ないで!あたしを見ないで!見ないで!」というネームのシーン、『ビッグゴールド』掲載時はミケランジェロの「瀕死の奴隷」の絵になっていたと思う。それがコミックス(単行本)に収められた時は頭を抱えてうずくまる女性の身体の絵にかえられていた。

私が激しく一ノ関圭に惹かれた理由に、もちろんなまめかしい人物の線と表情と、濃やかな心理描写というのは大きいのだが、女の生きざま、特に今よりもっと女性にとって厳しく生きづらい時代に、女がおのれの生を燃やし尽くして生きるありさまを描いたものがたりに惹かれる。

「らんぷの下」、「だんぶりの家」、「女傑往来」など。

特に「だんぶりの家」は、幼い頃から誰よりも頭がよくて、活発で、きかん気で、意志が強く努力家の、「かんな」という女の子がとても魅力的で、彼女が数々の困難を乗り越えて女医の道を歩んでいく話と思いきや、あっさりと東北の飢饉のせいで亡くなってしまう、涙なくしては読めない話。

もうひとつ、一ノ関圭にひどく惹かれた理由は、「絵を志す」人を描き切ったことだ。

本物の絵描きが描かない限り、「絵を志す」ものの凄惨さが描けるはずもなく、今まで数限りなくあった「絵を志す」人がテーマのマンガ(たとえば昨今の美大生が主要な登場人物であるものなど)はまともに読めないものが多かった。

一ノ関圭だけがその凄惨さを描いた。

「らんぷの下」は、当時、才能があっても女が絵で身を立てていくには厳しい時代、青木繁を愛し捨てられた女が、自分の絵の才能を開花させることを捨てて、青木繁のライバルに身を捧げる話(結局破局するが)。

「黒まんとの死」は、同じ画塾に通う主人公が、「黒まんと」の絵の才能に心底嫉妬し、その嫉妬が「黒まんと」を死に追いやる話。

絵の才能がある者と、才能がない者の、いかんともしがたい差と、軋轢と、さらによしんば才能があったとしても報われなかったり、あっけなくこの世を去ってしまったりすることの無情を、一ノ関圭は描き切っているのだ。

(しかし一ノ関圭が描いた、絵の才能をもつ者に対するもたない者の嫉妬というテーマも、経済のもとになにもかも平準化されてしまう今の時代には、わかりにくいテーマになっているのかもしれない。)

「裸のお百」の主要人物「らくだ」(弥平)が作中で描いた絵(挑戦的な人体群像)が素晴らしいのに、黒田清輝だけが反対して白馬会の展覧会に飾られなかったことが、自分のことのようにショックだったので、どうしてもその絵を『デッサンの基本』に載せたかった。

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2016年1月22日 (金)

『デッサンの基本』(ナツメ社) 第23刷り / 昔の伊藤キムのクロッキー

1月18日

『デッサンの基本』(ナツメ社)の増刷のお知らせをいただきました。 第23刷りとなりました。

本当に嬉しく、ありがたいことです。

『デッサンの基本』を読んで(見て)くださった方が、鉛筆一本と紙一枚だけで始められる絵の面白さに興味を持ってくださったら、そして、ものを「よく見る」喜びを感じてくださったら、これ以上嬉しいことはありません。

最近の私は、昨年からずっと、今まで数十年描きためてきたデッサン(素描、素描着彩)の整理をやっています。

ものの変化に追いつこうともがいたり、記憶や体験の感触を含めて描いたものが、千枚くらいあります。

描いて忘れていたスケッチブックが発見されるたびに、その時に夢中で見ていたもの、心躍らせたもの、本当に好きだった(今も好きな)もの、その時だけしか体験できなかったものがよみがえってきて、なんとも言えない気持ちになります。

昔描いた人物クロッキーを発見。ダンサーの伊藤キムさんがヌードでムーヴィングをしてくれたところをクロッキーしたもの。(画像はすべてクリックすると大きくなります)

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伊藤キムさんはダンサーで振付師でもあり、美しいポーズ、体線の見せ方をよくわかっている人なので、その魅力に牽引されて夢中で描くことができた。

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伊藤キムさんの細くてしなやかな身体の動きのエロスを間近で見ることは恐ろしく素晴らしい。
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足の腱や筋がはっきり見えるほどに贅肉が削ぎ落とされた肢体。私は人体を描くのも、ダンスを見るのも、痩せてしなやかな人に強烈に惹かれる。
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休憩が終わるごとにムーヴィングの速度は高まっていき、最後はとても速いダンスとなった。
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私は植物を描くことが多いですが、身近にある植物の一枝を描くだけでも、そのものをよく見ると、とても描ききれないほど、たくさんの微妙な美しさや面白さを発見します。

同じ種類の植物にも個体差があり、変わったかたちのもの、花弁や花芯や葉や茎に趣のあるものをさがすことだけでも興味深い作業です。道端でも、生花店でも、そうした自分にとって稀れと感じるものに眼が惹かれます。

さらにそれぞれの生命は常に運動し、変化しているので、それを追うことは無限の劇を見るような感動があります。

その時に出会った植物を描くことは、その季節、その時の気温や光や、さらにその植物にまつわる親しい人との思い出も、その絵の中に残してくれます。

今の季節、街を歩くと、去年からの立ち枯れのセイタカアワダチソウが美しい。北風に磨かれた空に映えて、椿の花がとても鮮やか。紅梅白梅の香も素晴らしい。陽のあたる庭には水仙も咲いている。

枝に積もった雪をのせた赤い椿は一層鮮やかで風情がある。

以前描いた椿の素描着彩を載せます。

この椿は花芯の中に小さな花弁が混じっているところに面白さを感じて描いたもの。花弁も変則的な斑や絞りのものに惹かれます。

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この白地に赤の絞りの椿は、花の正面でなく、深緑の艶々した葉の隙間から見える花弁や、花の後ろ姿に美しさを感じて描いたもの。
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獅子咲き椿のねじれた花弁と絞り模様が面白くて描いた。

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こぶりな白い椿。

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薄桃色、八重咲きの乙女椿。花芯(しべ)が見えない。
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きょう、花屋さんにヒヤシンスの鉢植えが出ていた。

ヒヤシンスは赤(濃いピンク)と紫と白の鉢植えが多いのだが、私が毎年捜しているのは「ミオソテス」という薄紫のや、「デルフト・ブルー」という灰色がかった水色の、それと淡いアプリコット色の「オデッセウス」というヒヤシンス。

以前描いた薄紫のヒヤシンス。半透明なガラス質のような花を描くのが難しい。もっと光る花の質感が出るように、また描いてみたい。

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下は、花弁のふちが白く、内側に星のようにピンクの筋がはいったヒヤシンス。このときは固い感じで描いた。同じ花でも描きたいイメージによって描き方をかえて描きます。

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今年もいろんな素敵なものを見つけて、描いていきたいと思います。

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2015年5月18日 (月)

『デッサンの基本』第22刷り 猫の素描

5月18日

4月24日 に『デッサンの基本』(ナツメ出版企画)第22刷りとなるお知らせをいただいた。3月に第21刷りのお知らせが来たばかりだったのでとても驚いた。

デッサン(素描)に興味を持ってくれて、私の書いた本を読んでくれるかたがいること、こんなに嬉しいことはありません。買ってくださったかたに心より感謝です。

何かをするための手段として、デッサン(素描)の必要性にかられて買ってくださったかたも多いと思います。

私自身に関して言えば、年齢を重ねるごとに、手段としてではなく、デッサン(素描)そのものの奥深さへの興味は強くなるばかりです。

私の言っている「デッサン」とは、美大受験のためのデッサンのようなものではなく、アントナン・アルトーや、ジャコメッティが描くようなデッサンをも含めた、各自それぞれのやりかたのデッサン(素描)――自分の外にあるものを見て描いた線描という意味です。

何度も書いていますが、私自身は「本画」(タブロー)と「習作」(デッサン、スケッチ、素描などと言われるもの)を分けるのは便宜上の分類以上の意味がないと思っています。

偉大な画家と言われる人たちの残したもので、いわゆるその人の「様式」が固まる過渡期の絵や、むしろ「覚書」のように残されている素描にこそ素晴らしい魅力があり、価値があると感じています。

最近の私は、相変わらずというか、もっぱら枯れた植物とちゃびを描いています。

猫を描くのはとても難しい。

偉大なる先達が残している素晴らしいデッサン(素描)を見ると、自分の力のなさに萎縮してしまって、ますます描けなくなってしまう。

また、これは特殊な事情だけれども、うちのちゃびは、普通の猫とどうやら体型と顔が違う。動物病院で逢うよそのうちの猫の皆さんは、ちゃびよりずっと顔も長く、鼻が長くて鼻筋が通っている。骨格もわかりやすくしっかりしている。

ちゃびは、顔が長くない。鼻が短くて小さく、眼が大きい。身体は小さいが骨格は華奢で、皮がぷよぷよしていて体型が丸い。だから描くとシリアスにならず、まんがっぽくなってしまう。

ということなどを考えながら描いた最近の素描。まずはとても惹かれる偉大な先達の素描を模写してみた。

フランツ・マルク(ドイツ、1880-1916)の猫の模写(左)とヤン・ヴァン・バイク・ミエル(フランドル、1599-1664)とされている猫の模写。

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下はスタンラン(フランス、1859-1923)の猫の素描の模写。

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下の左上は、フランスのスタンランやイギリスのルイス・ウェイン(1860-1939)と同じ頃にドイツで生まれ、素晴らしく魅力的な猫たちのポストカードをたくさん描いたアルトゥール・ティーレ(1860-1936)の笑っている猫の顔の模写。右下はスタンランの模写。

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下はホルスト・ヤンセンの猫の模写。

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そして下はうちのちゃびの素描。

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下は何週間も冷蔵庫に入れて観察していたオールドローズ。

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これからもっと萎びて枯れていく様子を描こうと思って机の上に置いていたら、私がちょっと眼を離したすきにちゃびが薔薇を滅茶苦茶に散らせていた(食べていないか心配)。

動物病院に行った帰り道で、舗道の植え込みの中に咲いていた去年の立ち枯れのキク科の雑草。

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5月16日

ハナ動物病院にちゃびの薬と輸液をもらいに行く。輸液のための21Gの針が「前回もらったのは、それ以前と違い、とても短かった」と快作先生に報告する。「21Gに関しては長いのと短いのとの二種がある」と聞き、次からは「貫通しにくい」という理由で短い方を選んだ。

快作先生の実家の猫ちゃん、2週間くらい前に23歳で亡くなった、と聞いた。

最期の頃は2kgにも満たないくらいとてもやせていたけれど、自分でご飯も食べ、トイレにも行っていたそうだ。

亡くなったと聞いてとても淋しい。永遠に生きるわけじゃない、と知っていても悲しい。でも猫で23歳というのは素晴らしくがんばったと思う。

5月13日

宇野亞喜良さんの少年と少女が(馬の)脚になっている馬の絵について、「この絵とともに、馬に寄り添う淋しそうな少年の挿絵があった物語の本を、昔持っていた記憶がある。」と私が書いたことに対して、K美術館(現在休館)の越沼正さんよりメールをいただいた。

「今江祥智『海いろの部屋』理論社1971年初版、同『海の日曜日』実業の日本社1966年初版 あたりではないかと思います。

今江祥智は『海いろの部屋』の「あとがき」で書いています。絵本『あのこ』や長編『海の日曜日』同様に美しい世界でわたしの作品世界をひろげてくださったことを深謝しています。」

とのことだが、残念ながら私は『海の日曜日』という本も持っていない。

私の持っている『宇野亜喜良の世界』(1974)という画集に、その馬の絵が載っていて、その絵はそれまでの宇野さんのエロティークで攻撃的なイラストとは趣が違い、まさに胸に突き刺さるような深い詩情で見る者を釘づけにする。

その絵の強烈な印象と、昔観た「エクウス」という馬と少年の劇の印象が混じりあって、私の脳裏に宇野さんのタッチの絵ができてしまっていたのかもしれない。

この『宇野亜喜良の世界』の巻末に載っている宇野さんの若い頃の写真が抜群にかっこいい。私の大好きな沢渡朔さんの撮影で、宇野さんは、がりがりに痩せていて、すごくおしゃれ。サングラスをしている写真は少し笠井叡に似ている。

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2015年3月11日 (水)

『デッサンの基本』 (ナツメ社)第21刷り 素描着彩(ダブルフレミングパロット、ミステリアスパロット)

3月11日

『デッサンの基本』(ナツメ社)第21刷りが決まりました!

買ってくださった皆様に心より感謝します。

きょうは震災があった日。2011年の3月11日に『デッサンの基本』9刷りが決まったメールが届いて、喜んでいた時に、あの地震が来て、現実を受け入れがたいような恐怖が始まった。

いろいろと現実の過酷さは続くが、自分が見たもの、体験したものの記憶を持ち続けたくてデッサン、素描、スケッチ、というものを生活の一部にしている。

最近描いた素描着彩。

チューリップ チャト Tulip Chato 紫がかったピンクの八重。花被片のピンクと白と緑の筋の対比が魅力的。左下のはバイキング Vikingのつぼみ。

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チューリップ  マリージョー Tulip mary Joe 黄色の大輪八重。モンテオレンジ Monte Orange オレンジの八重。

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チューリップ バイキング Tulip Viking  赤の八重。

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チューリップ バイキング Tulip Viking。右上のはチャト Chato。

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チューリップ ダブルフレミングパロット Tulip Double Flaming Parrot

フレミングパロットの八重(ダブル)。今年初めて手に入れて描くことができたが、茎が帯化していたり、花被片(花弁と萼が区別できない)が、さらに葉と区別できない状態になっているのを見て、非常に興奮した。

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チューリップ ダブルフレミングパロット Tulip Double Flaming Parrot
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チューリップ ミステリアスパロット Tulip Mysterious Parrot
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チューリップ ミステリアスパロット Tulip Mysterious Parrot ふちが白い赤紫、モーブ色の大輪。ブラックパロットよりも肉厚で、ごつごつしていると同時に華麗。

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チューリップは、花被片が内側3枚、外側3枚の六角形の花だが、ミステリアスパロットは、特に外側の花被片にある緑の突起の部分にすごく惹かれる。下の画像の緑の部分です。植物学ではこの突起を何というのだろうか。

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チューリップ ミステリアスパロット Tulip Mysterious Parrot 

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チューリップ ミステリアスパロット Tulip Mysterious Parrot 

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税務署へ用紙をとりに、陽射しの春めいた昼の裏道を歩いた。

ちょっと歩かなかったうちに、私の好きだった建物が、少なくともふたつ、無くなっていたのでショック。

ひとつは古い木の家の二階の窓まで届く大きな仙人掌(サボテン)があった家。庭の中ではなく道に面して生えていたその巨大仙人掌は、いつもきれいに花が咲いていた。そこまで立派に育った仙人掌を見たことがなかったので、とても稀少ですごいな、と思っていたのに。

もうひとつは、『福井桂子全詩集』(かまくら春秋社)の本の装丁をしたとき、福井桂子さんに捧げるイメージで、どうしても立ち枯れの可憐な花を描きたくて、雪の降る日にモチーフになる植物を捜して歩いた。その日、やっとなんとか、種のついた立ち枯れの雑草を見つけた場所の、奥の古いアパート。

私の愛する古い味わいのある家と、手入れされるでもなく、さりげなくそこに咲いている植物たちが、どんどん破壊されていく。それはしかたないことだとしても、淋しい。

その近所の、毎年見に行っているフェンスに絡んだ忍冬(スイカズラ)は、健在だった。その横のしゃれたハーブの教室の看板はなくなっていた。

税務署の廊下で用紙を選んでいる時、「皆さん、きょうは大震災の日です。まもなく2時46分なので、黙祷をお願いします。作業中のかたも、ご起立願います」というアナウンスがあった。

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ちゃびの輸液パックや薬をもらいに動物病院へ。

この前のワクチンの抗体検査の結果を聞いた。基準値が100のところ、300もあった。意外にもすごく効いている、ということでほっとした。

マイクロチップのこと、質問したら、また大きな震災が来ることも考えて、入れたほうがいいと勧められた。高齢だから躊躇していたが、そんなに痛くないのなら今度やってもらおうかと思う。

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2015年3月 9日 (月)

アネモネ、チューリップ素描/ コスタリカのヴァレリオさん

2015年3月9日

最近描いていた花の素描(デッサン)のまとめ。

1月14日 アネモネ。赤い花弁に緑色の筋がきれいだった。が、着彩の時間がなかった。

いつか水彩で着色しようと思う。

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1月19日 アネモネ。花の開き方が均一でなく、花弁の一部だけが下がってきたところが面白いと思った。

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1月14日 チューリップ モンテオレンジ。鮮やかなオレンジ色の八重。

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1月16日 チューリップ モンテオレンジ。茎が柔らくて、しなるのが魅力。

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1月16日 チューリップ モンテオレンジ 

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1月23日に描いたチューリップ プリティプリンセス(だったような気がする)と2月1日、2月4日のチューリップ アプリコットパロット。ねじれて躍動感と力の方向性が出て来た。

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2月11日 チューリップ アプリコットパロット

ぷっくりしていたアプリコットパロットの花弁が萎れて、乾いて細くなったのが面白い。
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3月3日~9日

久しぶりに、コスタリカのヴァレリオさんからメールが来て、やりとりしていた。

以前にも書いたが、ヴァレリオさんは、私の絵を持っている、と、突然、コスタリカからfacebookを通じて連絡してきてくれた人で、最初、なにかの冗談かと思ったが、画像を見たら本当に、すごく昔の私の絵(サイン入り)だったので仰天した。

昔々、(私はとうに忘れていたのだが)ベルギーの作曲家にプレゼントしたいから、とある音楽家に頼まれて描いた絵が、その作曲家が亡くなってベルギーから海を越えてコスタリカの古物商のもとに渡り、ヴァレリオさんの手元に行ったらしい。

ヴァレリオさんも花が好きなので、遠い海の向こうの店で私の絵を見つけて買ってくれた。こんなことがあるのだろうか、と本当に信じられない不思議な縁です。

3月3日に来たメールは、スペイン語と英語が溶解して合体した不思議な単語でできた文だったので、よくわからないところもあった(それがまた面白い)。

ヴァレリオさんが、若い日本女性と会ったと言う話。サンホセのヴァレリオさんの家の近くに国立大学があって、そこに日本人の若い女性が日本語を教えに来ているそうだ。その女性はJICA(国際協力機構)のメンバーとしてコスタリカに行っているらしい。

コスタリカの季節は、雨季と乾季のふたつしかなくて、もうそろそろ雨季だそうだ。

ヴァレリオさん宅の庭に咲く、コスタリカの国花の画像を送ってくれた。

日本にいると、蘭が自然に咲いている状態をほとんど見ることは無いが、庭の樹の幹に寄生して優雅に咲いている紫の蘭。カトレアに似ているけれど、20輪くらいも豪勢に花がついているので、違うのかな、と思ったら、やはりカトレアだった。

蘭の女王と言われる、まさに華麗なカトレアがコスタリカの国花。

ヴァレリオさんが私に送ってくれる花の画像は珍しいものばかり。

遠い遠いコスタリカに、もし、行けるチャンスがあったら、花や鳥や動物や虫の写真を撮りまくるだろうと思う。

コスタリカには信じられないような鮮やかな動植物が生息している。

世界一美しい鳥と言われる、エメラルド色の羽と長い尾と、黄緑の冠と深紅の胸を持つケツァール。

赤、青、黄の極彩色のオウムやインコ(まさにエドワード・リアが10代で描いた、私の大好きな瑞々しい水彩素描の、夢のように美しいオウムやインコが!)。

さまざまなかわいいハチドリ、真っ赤な体に足だけが真っ青なイチゴヤドクガエル、・・・。

なんとも愛らしい様子のナマケモノ、アリクイ、ノドジロオマキザル、リスザル、クモザル、イグアナなどの動物も、もし遭遇したら、写真を撮ることができなくても、この眼でじかに見ることができただけで、嬉しくて興奮して心臓が苦しくなりそう。

コスタリカは小さな国で、環境保護先進国と言われ、全国土の4分の1が、国立公園と自然保護区らしい。死ぬまでに行けるかな、もし行けたらすごいな・・・。

ヴァレリオさんは、私が寝ぼけた顔でちゃびとふとんに寝ている写真を、ツイッターのお気に入りに登録してくれていた。

地球の裏側に住んでいる人が、ちゃびと私の写真を見ていてくれることが不思議でならない。

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2014年11月11日 (火)

『デッサンの基本』(ナツメ社) 第20刷り

11月11日

『デッサンの基本』(ナツメ社)が第20刷りとなりました!

買ってくださったかたがた、本当にありがとうございました!

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デッサン(素描、写生、スケッチ)の基本とはなにか、これを言うのはとても難しいと思います。

「デッサン」「素描」「写生」「スケッチ」、どんな言葉を使ってもいい(その差異を言葉の上で厳密にしてみてもあまり意味はない)と思うのですが、「見て描く」ということは、今の時代にはとても重要な意味があると思います。

今の時代は、100年前、50年前よりも、ずっと自分の外に「在るもの」を受動する身体能力、外に「在るもの」との関係性、そのリアリティが欠落した時代だと感じるからです。

こういうことを言うと、必ず「自分の外に何かが在るのかどうかはわからない」という人がいるけれども、私は、自分の外の、自分以外の生命との関わりの中でしか自分の生を感じられないと思っています。

私にとってデッサン(素描、写生、スケッチ)とは「自分の外にあるもの――特に、自分以外の生命、生命的な傾向のもの」を、どう感受するのかを確かめる、あいまいな時間を伴った手作業です。

有限な時間と身体を持つ私が、その中で出会う私の外に在る生命的なものを、どうとらえ、どう描くのか、その描き方は、いろいろなやりかたがあると思います。

一瞬、一瞬が過去になっていくなかで、「見たものを見たままに描く」ということは、それ自体に矛盾を含んでいます。

「見る」とは「主客未分」の混沌のなかで「見る」ことでしょう。

ここを描きたいというポイントさえ描ければ、紙の端から端まで埋める必要もないし、自分がやりたいタッチで良いのだと思います。

もちろん私自身も、ここをとらえたいという欲求どおりに鉛筆を自在に操ることができるわけではなく、失敗ばかりですが、何かと向き合って描いた時間は、その時の自分の気持ちや身体の状態とともに、紙の上に定着され、かけがえのないものになるような気がします。

さらに言えば、私は絵を「具象」と「抽象」、「本画」と「習作」に分けることもおかしいと思っています。

多くの画家において、最初のデッサン(素描、写生、スケッチ)が、作品よりはるかに力強く、美しく、生き生きと感じさせることは多い。それは初めの直観の切迫した何かなのでしょう。

『デッサンの基本』第20刷りの記念になにか絵をupしたかったので、初心を忘れないために、私の美大受験前に描いた古い素描(静物着彩)をのせてみます。

自分の高校時代の素描には、ろくなものがないですが、制限された時間の中で、与えられたモチーフのどこに気持ちを入れて描くことができるかを探して描いていたと思います。

Sdsc04460

上の絵は、モチーフにボウリングのピンがあるのが、なんか変で嫌でした。

高校の授業が3時頃に終わってから、走って電車に乗って予備校に行った、不安で慌ただしい毎日の感覚がよみがえって来ます。

Sdsc04463

美大受験のための予備校で描かせられるデッサンは、ひとつの「型」、ひとつの「制度」であって、決してこのやりかたが一番正しいというわけではないと思います。

今は、自分の描きたいところはどこなのか、もっと端的に表せるようなデッサンを、そしてその中に時間を描きたいと思っています。

 

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2014年5月21日 (水)

『デッサンの基本』(ナツメ社)第19刷り

5月21日

『デッサンの基本』増刷のお知らせ。第19刷りとなりました。

とても、とても嬉しいです。買ってくださったかた、心よりありがたく存じます。

個人的には、最近、非常に体調が悪く、首や肩や背中が凝り固まって痛くて、仕事に集中できない状態なのですが、苦心して作った本が今も生命を持って、少しずつ売れているということに、本当に感動を覚えます。

予めとらわれている観念を突き破るように「見る」こと、そのものを生まれて初めて「見る」ように「見る」こと、そこから「個人」の「デッサン(素描)」が生まれてくるように思います。

私は「本画(タブロー)」と「デッサン(ドローイング、スタディ、素描、習作、写生)」を区別することにあまり意味があるとは思わないが、過去の偉大な画家たちの仕事について、あえて区別するとしたら、「本画」よりも断然「デッサン」のほうに惹かれる。

(自立した作品として完成を目指した「本画」以上に、)そこに自分の外側に在るものに触れた驚異や感動があるからだと思う。

デッサンとは、自分の外側に在るものを見たり、触れたり、耳を澄ましたり、匂いを感じたりしてそれに近づき、記録しようとする受動的な表現のことだと思います。

過去の偉大な画家たちのデッサンを見ると、いかに彼らが自分の外側にあるわけのわからないものを感知し、それをつかまえて紙の上に定着させる能力にたけていたかがわかる。

外側にあるものと関わることは、この世界を深く味わい、生きる時間を濃くする方法だと思います。

昼顔に巻き付かれる春女苑の素描(数年前、今の季節に描いたもの)。

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古いスケッチブックをめくると、描いたことを忘れていた素描が新鮮に見える。自分が描いたことを忘れて、あるものとして絵と出会うと、初めてその絵が見えてくる。

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きのうに引き続き星状神経ブロック注射を打ってもらった後に治療院に行った。麻酔は効いていると感じるが、それでも首も背中もがちがちだと治療院で言われる。

 

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2014年3月26日 (水)

『デッサンの基本』 第18刷り / 猫のデッサン(素描)

3月26日

先日、『デッサンの基本』増刷のお知らせがありました。これで第18刷りとなります。

買ってくださった方に、本当に心より感謝です。

デッサン(素描)とは、この世にあるものとつながる手段、そのものへの愛しさを手作業によって確認する、深く味わうひとつの方法だと思います。

デッサンを始めたばかりの初心者の人、苦手な人に、もし何かアドバイスを言えるとしたら、「最初は、見た通りにうまく描けなくて苦しくても、素直に正直に見えるままを描くこと、自分勝手にごまかしたり歪めたりして「自己表現」に逃げないこと」だと思います。

ものをよく見ないで、わざと歪めて、または簡略化して描いて満足するくせがついてしまうと、いつまでもデッサンの「基本」が身につきません。

自在か自在でないかよりも、誠実にものをよく見た、気取りや嘘がないデッサンにはものすごく価値があると思います。

デッサンのモチーフにはいろいろなものがありますが、たとえば植物には、それぞれの種類によっての基本構造があります。知的な作業ですが、枝分かれや葉のつき方の決まりを観察して、自分の描いた絵が間違っていないか確認しながら描くことも重要かと思います。

この世には、自分はものをよく見ている、そのものに対する愛情がたっぷりある、と思い込んでいる人がたくさんいます。けれど実際に描いてみると、たくさんの新鮮な発見があり、今までどんなにそのものをちゃんと見ていなかったかがわかるはずです。

自分が追っている「もの」に、どこまでも自分の絵が「追い付けない」と苦しむ能力のある人はうまくなると思います。

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最近描いた素描。チューリップ(ブラック・パロット)。黒紫の捩じれた花弁と、細身の葉の曲線がなんともエレガントな花。

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チューリップ(エステラ・ラインベルト)。パロット系のチューリップの中では、花弁が肉厚で丸みがあり、花が大きい。

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チューリップ(ミステリアス・パロット)。パロット系の中でも花弁がごつごつしていて非常に描き甲斐がある花。

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ミステリアス・パロットは花弁の縁の裂も切れ込みが深く、あでやか。

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いつも花を描くことが多いですが、身近な対象として猫も描いています。過去に猫を描いた偉大な画家が多いので、そういう絵を見るとすごすぎて萎縮してしまいます。

猫を描いた名画を残した画家の中でも、特に猫を描いたデッサン(素描、ドローイング、スタディ)に限って見てみると・・・

猫を描くのが素晴らしくうまい偉大な画家で、私がまず思いつくのはかつてパリのル・シャ・ノワールのポスターを描いたスタンラン(Théophile Alexandre Steinlen)です。

スタンランは社会派(社会悪を痛烈に批判する)の絵も数多く描いた、とても芯の強い画家ですが、猫をこよなく愛し、彼の残した数えきれないほどの猫の素描は背筋が痺れるほど素晴らしいと思う。彼の残した猫の彫刻にも並々ならぬ愛情とデッサン力がうかがえる。

そしてやはり猫と言えばルイス・ウェイン(Louis Wain)です。彼は、眼の大きい擬人化された猫の絵で有名だが、初期の猫の素描における観察力は凄まじい。

ビアトリクス・ポター(Beatrix potter)。彼女も擬人化した動物のキャラクターで有名だが、幼い頃からの博物学者としての素描には少しの甘さもない。

ロダンの愛人だったグエン・ジョン(Gwen John)も素晴らしい猫の素描をいくつも残している。

第一次世界大戦で39歳で亡くなったフランツ・マルク(Franz Marc)は、ドイツ表現主義の激しい色彩の絵を描いたが、彼の残した猫の素描(インク・ドローイング)は、体温も運動も伝わってくるほど愛情にあふれている。

ドラクロワ(Eugène Delacroix)、ロートレック(Henri Toulouse-Lautrec)やマネ( Édouard Manet)もすごい猫の素描を残しているが、古くてあまり知られていないところでは、テオドール・ジェリコー(Théodore Géricault)の猫の素描が異様に野性的で素晴らしく、ピサネロ(Pisanello)の猫は、1400年代に描かれたとは思えない精妙さと魔力がある。

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さて、偉大な画家の話のあとに僭越ですが、私の描いた習作、うちのちゃびの素描。この一枚目の絵が端的に描けて一番うまくいった。

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生きて動いているものを描くときは、うまく描けなかったところは無理にうめないでそのまま空白にして、どんどん今見えるところを描きます。

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トラ縞の質感はけっこう難しい。

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ちゃびは最近ますます私にべったりで、日常の買い物以上に家を空けると、帰宅時に「ぐるるるぁあ、ぐるるるぁあ」と爆音を上げながらしがみついてくる。

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