デッサンの基本

2020年6月30日 (火)

『デッサンの基本』34刷りとなりました

https://chisako-fukuyama.jimdofree.com/6-iris-rose-pansy-violet-etc/

6月の初めに『デッサンの基本』増刷、34刷となりました。

購入してくださったかたがた、読んでくださったかたがたに心より感謝申し上げます。

(受験のためのデッサンには傾向があると思いますが)デッサン(素描、スケッチ、写生)には正解の描き方はありません。

対象の姿、構造をよく知るためであれ、その魅力を紙に留めるためであれ、自分の外にあるものを見て描くことで、あらゆる意図を超えた未知のものに触れ得ることがデッサンの喜びではないでしょうか。

林檎の花(鉛筆デッサン、水彩、スケッチ)

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パンジー Pansy (鉛筆デッサン、スケッチ)
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猫 ちゅび(鉛筆デッサン スケッチ)
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薔薇 Rose (水彩)

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薔薇 Rose(鉛筆デッサン、スケッチ)

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2018年9月17日 (月)

『デッサンの基本』 第31刷り

9月17日

『デッサンの基本』(ナツメ社)増刷、31刷りになっています(5月15日に増刷のお知らせをいただいていましたが、記事にするのが遅れました)。

自分が気になったもの、心を動かされたものを、その時その時の感覚でとらえて描く「素描(デッサン)」や「スケッチ」は、楽しくて、思い出の記録にもなります。

マチエールに凝り、何か月も描き続け、どこを「絵の完成」とするのか、それ自体に苦しむことも面白いけれど、

見ているものの変貌、自分のものの見方の変化、そうした対象と自分の身体との関係性を、もっと短い時間で紙に残すことのできるデッサン(素描)は、なお面白いと思います。

私はデッサン(素描)というものを、言語ではとらえきれないものと関わる手立て、そこに在るものを発見する行為だと思っています。

私ににとって「絵」は、生命的なものとの交接、収奪ではなく受容、静かな愛情関係であり、その痕跡です。

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私がチューリップを好んで描くのは、世間一般に広く浅く共有されている「チューリップ」という言葉とそこから喚起されるイメージをはるかに超えた、劇的で妖しい変容を見せる花だからです。

丸くてかわいい観念の「チューリップ」ではない、自分が体験した奇妙な生命を描きたい。そういつも思っています。

なかなか花屋に出ないチューリップ「エステララインベルト」。4月5日に購入。

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(Tulip drawing, Dessin )
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上が4月6日、下が5月15日のチューリップ(エステラ・ラインベルト)。萎れてかさついていくことによって、妖艶に変身する。
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八重の少し萎れかけたフランスギク。
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濃い紫のアジサイ。
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植物の変容、緩やかな運動、微妙な色、細部の不思議に飽きることはない。

動物たちの愛らしい仕草にも限りなく魅せられ、飽きることはないです。

レッサーパンダ(ソラ。♀)の素描。ふっくら、おっとりしている。
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グルーミングするソラ。しっぽが長く、しっぽの先が細い。
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レッサーパンダ(ラテ。♂)の素描。
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くるりんしっぽで後ろ姿がかわいいラテ。
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レッサーパンダ(メイタ ♀)の素描。愛嬌たっぷり。生まれた時は男の子に間違えられていた仔。
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うちの猫、ちゅびが赤ちゃんだった頃の素描。

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(Cat drawing, Dessin)

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うちに来た日。まだ眼が見えていなかった頃のちゅび。
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おなかだけが張って、手足が恐ろしく細く、汚れていて、ネズミの子みたいだった。

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素描(スケッチ)と同時に、画面右下にはその時のちゅびの授乳、排泄の記録をメモした。

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きょうのちゅびの素描(デッサン)。やせているが筋肉質で重く、運動能力抜群の甘えん坊。

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2018年3月15日 (木)

『デッサンの基本』重版(第30刷り)

3月6日

『デッサンの基本』(ナツメ社)、3月6日に重版のお知らせをいただきました。

これで30刷りとなりました。

ご購入くださった方々、誠にありがとう存じました。

自分の眼で見たものを(勝手な妄想でなく)そのままに描いてみたいと思う人の参考に、少しでもなれたら幸いに存じます。

初心者のかたにも、鉛筆一本でも描ける、楽しい世界を知っていただけたらと思います。

最近描いたちゃびの素描。在りし日の写真を見て描きました。

ちゃびが亡くなってからずっと辛すぎて描くことができなかった。

これらの素描は、今、パラボリカ・ビスというギャラリーに展示しています。(これらの小品はおそらく第1期のみ、4月2日までで展示終了となります)

よろしければご覧いただけたら幸いです。

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2017年12月15日 (金)

『デッサンの基本』第29刷

12月15日

12月8日に『デッサンの基本』第29刷りのお知らせをナツメ社さんからいただきました。

前回、第28刷り決定のお知らせをいただいたのは5月末でした。それからすぐ母が危ない状態になり、増刷についてブログに書けないまま、29刷りとなりました。

購入してくださったかたに、心より感謝申し上げます。

『デッサンの基本』の本が見知らぬどなたかのお役に立つことがあれば、これ以上に嬉しいことはありません。

もしデッサン(素描)に関する質問がありましたら、私のHPのコンタクトからメールいただけたら、私にわかることはお答えしたいと思っています。

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「デッサン」という言葉を、私は「自分の外にあるもの」をよく見て、感じて描く(自分勝手に頭の中で描かない)、といういうような意味にとらえています。

そういう意味では、「素描」も、「写生」も、「スケッチ」も、「ドローイング」も、(色をつけてもつけなくても)同じようなことだと思っています。

私は、「デッサン」(エチュウド)というものを、「本画」(タブロー)のための準備段階の絵であり「本画」より価値が低い、とはどうしても思えないのです。

古い優れた画家の仕事でも、「本画」(とよばれているようなもの)よりも、「デッサン」(素描)のほうに強烈に惹かれます。

例えば、ドラクロワも、私には、彼の油絵より、「デッサン」のほうがはるかに魅力的に思えるのです。

その他、ピサネロ、ロセッティ、ヤン・トーロップ、デゥーラー、クリムト、シーレ、フランツ・マルク、マネ、ゴヤ、スタンラン、ゲインズボロ、ラスキン、グウェン・ジョン、ポター、エドワード・リア、ロダン、ドガ、ロートレック、ゴッホ、ピカソ、ワイエス・・・デッサンに目を奪われる画家たちの名を思いつくままにあげても切りがないほどです。

私が「デッサン」に夢中になる理由は、「生命的なもの」をとらえたい、という欲求だと思います。

「デッサン」は、その「時間」を、より直接的にとらえているからです。

日常の中でとらえがたい「生命的なもの」の「時間」を、手作業によって、紙の上にとらえたもの(もしくは、とらえようとして逃したものの痕跡)が「絵」だと考えます。

日本の美大受験のためのデッサンは、すべての要素をくまなく平均的、客観的に描く、官僚的、権威主義的な方法と言えます。そのやりかたが絶対ではありません。

基本のやりかたを踏まえたあとで、自分の「物の見方」と、短い時間の中で端的にとらえる方法、生きた線を追求することが「デッサン」の醍醐味だと思います。

自分の理想としては、少ない線であっさり描いて、その時だけしか見ることのできない不思議なものが描けていたら一番よいと思います。

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毎年、12月末くらいから4月の最初くらいまで夢中で描いていたパロット系チューリップの素描。

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18年前に描いたチューリップ(ブラックパロット)・・・今見ると線が硬い。

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チューリップ(ブラックパロット)。

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チューリップ(モンテオレンジ)。

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小さなアネモネ。

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クルミとピーカンナッツ。小さくて手軽なモチーフで、曲線とリズム、鉛筆の強弱をつかむのが楽しいです。

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2017年5月18日 (木)

『デッサンの基本』 (ナツメ社) 第27刷 / 緘黙

5月15日

住宅街を歩くと、枯れかけたハゴロモジャスミンと、柑橘系(ザボンやミカン)の花の甘い香りと、薔薇の香りが風に混じっています。

『デッサンの基本』(ナツメ社)増刷、第27刷となりました。(本日、27刷目の本が、手元に届きました。)

購入してくださったかた、ありがとうございました。

どんなかたが『デッサンの基本』を手にとってくださったのだろう、といつも思いを巡らせています。

私が予想した人数をはるかに超えた人たちが、どこかで、この本をめくってくださっていることが、不思議でたまりません。

素描(デッサン)には、いろんなやりかたがあると思いますが、この『デッサンの基本』が、どこかで絵をかこうとするかたの、わずかなヒントやきっかけになれば、とても幸せです。

最近私が描いたもの。

4月3日の記事で写真を載せた、近所で思いがけずいただいた椿の花です。

http://chitaneko.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/index.html#entry-112790659

巨大輪椿(ツバキ)の素描着彩(デッサン)。

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フリージアの素描着彩(デッサン)。昔、フリージアと言えば、黄色と白のイメージでした。最近のフリージアの花色は多様。八重咲きも多く見られるようになりました。
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牡丹の素描着彩(デッサン)。散りかけの姿が美しいと思う。
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ちゃび(猫)の鉛筆素描(デッサン)。

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いつも私にくっついて眠るちゃび。
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「花」という言葉が花を覆い隠している

デッサンは花という言葉を剥ぎ取って

花という得体の知れない存在に近づこうとする

紙の上にワープして

花は「花」という言葉から自由になる

花が生きるように沈黙のうちに線も生きる

それがデッサンではないか

(谷川俊太郎さんが書いてくださった『デッサンの基本』の帯文です。)

5月は「緘黙(かんもく)」の啓発月間だそうです。

前にも書きましたが、私は対人緊張が強すぎて、幼稚園から高校くらいまで、家族やごく親しい友人とは話せても、大勢の前ではほとんど話せませんでした。そういうふうに(特定の関係を除いて、)人前で話せない状態を「場面緘黙」というのだそうです。

私は子供時代、自分の自分の思ったことや考え、好き嫌いなどが、周囲からおかしく思われるのではないか、変に思われるのではないか、とあれこれ考えすぎて、悩んでばかりいて、学校で表に出すことが恥ずかしくて、なかなかできなかったのです。

幼稚園や学校で自分の意思を表明したくてもできなかったせいで、また、理不尽なことを拒否できなかったせいで、たいへん苦しい経験が山ほどありました。

緘黙気質の人は、他の人が気づかないことに敏感に気づいたりすることも多いのですが、一方で傷つくことも人一倍激しい傾向にあるのではないでしょうか。

心の痛みや苦しさを、外に表すことができない(表したくてたまらないのに、なぜか拘束されたように、どうしてもできない)ので、身体の中にどんどん鬱屈したものがたまってしまいます。

(私の場合、無言の反発力があり、なんとか不登校にもならず、大人になってからも精神科に通ったことはありません。)

私は今も対人緊張の傾向はありますが、初対面の人に、自分から話しかけることもできます。

私は幼稚園に行く前から、絵を描くことと本を読むことは好きだったのですが、私自身の体験から言えば、そのことがどこかで「場面緘黙」の苦しみと闘うことと結びついているように思えます。

そして、私がすっと愛おしく思ってきた動物たちと植物が私をたすけてくれました。

ものをよく見て描くということは、その時にはおしゃべりはいらない、そのものがそれ自身から訴えかけてくる魅力を、おしゃべりをやめて静かに聴きとるということです。

言葉では表しきれない魅惑に、もっと接近すること、愛するものに寄り添って描いた時間が、絵になることは、それだけで自分を支えることになっているように思います。

自分が気になるものを、何回も、繰り返し描くのです。自分も変わり、相手も変わっていく、自分の描く絵も変わっていく。

また、私は、よく散歩をしては、気になるもの、面白いものを見つけ、そこに何度も通って、時間とともに移ろう様子を見たりします。

そのもののどういうところに自分が惹かれているのか、自分の感覚に注意しながら見て、記憶するのです。

そういうことを繰り返しているうちに、いつのまにか、自分の好きなもの、嫌いなもの、自分の意志を表明できるようになってきました。

緘黙に苦しむかたたちは、そのような自分の感じたこと、考えたことを絵や文章などにかきとめておくことは、生きていく上で、おそらくとてもよいことだと思います。

絵を描いている時の私は、しゃべれないのではなく、誰ともしゃべりたくないから、絵に集中したいからしゃべらない。そういう沈黙の時間を持つことによって、自分が本当にしゃべりたいときにしゃべれないこともなくなってきたように思います。

そのものをよく見れば見るほど、終わりのない、休めない、苦しいデッサン(素描)にはいっていくことになるにせよ、とりあえずそれによって、私はある意味では強くなっていったのです。

緘黙気質の人に大切なことは、その鬱屈によって押し潰されないようにやっていくこと、自分を生存のほうに向かわせる、それぞれのやりかたを見つけることで、これについては、参考になるかはわかりませんが、自分の経験から思うことを、これからも少しずつブログに書いていけたら、と思っています。

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2016年11月14日 (月)

『デッサンの基本』 第26刷  次の本(画集)について

11月13日

9月末に『デッサンの基本』(ナツメ社)増刷のお知らせをいただきました。これで第26刷りとなります。

購入してくださったかた、本当にありがとう存じます。

なにか面白いものを見つけて、ありあわせの道具で描くことは、とても楽しいです。

また、描くことができない時も、ものをよく見る習慣がつくこと、そこからたくさんのことを感じ、記憶し、思い出し、味わえることは、それだけで楽しいことだと思います。

実際に絵を描くことによって、絶えず新しい発見があり、新しいアイディアがわいてきます。

描くことを通して、ものの見方が変わり、見ることの喜びが増すように思います。

『デッサンの基本』が、絵を描くことに興味がある人の、なにかの小さなきっかけ、ヒントに、もしお役に立つことがあれば、とてもありがたく嬉しいことです。

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10月29日(土)の夜、ちゃびに給餌していて、口の中にマグロを入れてあげるタイミングを間違い、牙で右手の人差し指を思い切り強く噛まれてしまい、大量出血。

(それにしてもマグロのお刺身をあげるようになってから、ちゃびの調子が戻ってきたので嬉しい!ドコサヘキサエン酸が脳神経に効いたのではないかと思っている。)

31日(月)の朝、病院に行き、抗生物質の錠剤と化膿止めの軟膏を出された。少し化膿し、すごく痛くて人差し指を使えないために、字も絵もうまくかけなくなってしまった。

PCのキーボードを打つにも人差し指が使えないために、変なところに力がはいり、右の上腕(三角筋?)が異常に凝った。

10日経ち、傷も治り、やっと絵が描けるようになりました。

最近描いた黄色いコスモス(イエローガーデン)の鉛筆デッサン(素描)。

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以前にデッサン(素描)したいろいろのコスモスから描いたコスモス水彩。コスモスによくいる青虫も、そのまま描いてみた。

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私の好きなコスモスは、薄曇りの薄い和紙をこしたような光の下で揺れているイメージ。または雨に濡れたコスモス。日が暮れかけたあわいの時間のコスモス。

私にとってのコスモスは、雨風に倒されてから起き上がったくねくねとうねった茎で、決してすっとまっすぐな茎ではない。

葉はちまちまと尖ったのは嫌いで、裂が少なくて刺繍糸のように長く優雅に伸びた葉のコスモスが好きだ。

自分にとって、もっとも心惹かれる佇まいのコスモスの絵を描きたくて、そこに近づきたくて、何枚も描いている。

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今、私は次の本を制作中です。

次は描き方の本ではなく、私がデッサン(素描)によってなにを見てきたかをまとめた本です。

これまで描き続けてきた植物の鉛筆デッサン(素描)の中から、一連の時間の流れと分断、なにを見るか、どのように見るかを考えながら百数十点を選び、それに素描着彩と銀箔を使った絵を加えたた画集です。

きょう、撮影のためにカメラマンに預けていたたくさんのスケッチブックとパネルに貼った絵の返却があった。

絵を撮影するにあたって、撮影する人との意思の疎通が非常に難しいことを知った。

特に銀箔を使った絵は、撮影する時の光の加減により、どんな色にも変わってしまう。どの部分(腐蝕の微妙なトーン、線の流れなど)を大切にするかを端的な言葉で重々伝えたつもりだが、まったく伝わらなかった。

絵の雰囲気をどう感受するかで、写真の撮り方も、プルーフの出し方もまったく違ってくる。

どのように(一般的な、あるいは文学的な)言葉で伝えようとも、絵をわからない人にはまったく共有されない。

どのようなトーン、コントラストでとらえたいかは、私の絵の雰囲気をよく知る人が撮影するか、作者である私自身が、CMYKに変換分解後の印刷用補正をしなければどうしようもないのだとわかった。

昔から信頼しているデザイナーのS・Kさんにメールで絵の印刷について質問した。

S・Kさんはやはり私が求めていることを理解してくれていて、非常にためになる話をいろいろ伺うことができた。

やはりカメラマンで印刷用の補正について詳しい人はあまりいないそうだ。 昔は補正のプロがいたが、今は商売にならないのでいなくなってしまったとのこと。

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2016年6月12日 (日)

『デッサンの基本』 第25刷 素描や絵画をめぐる遠くて近い記憶

6月10日

『デッサンの基本』(ナツメ社)が、また増刷となりました!これで第25刷となりました。

買ってくださったかた、ありがとうございます。

自分がつくった本を、どこかで読んで(見て)くれている誰かがいる、と思うと本当に嬉しく、ありがたく思います。

『デッサンの基本』が、どなたかのデッサン(素描)のためのヒントやきっかけになることがあれば、これほど喜ばしいことはありません。

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素描について

なにかを描こうと思う時、うまく描こうと思うことより、その対象のどこに惹かれるのかを「意識して」、それを大切に描くことだけが肝心だと思います。

私が敬愛するドイツの画家は言います、「私は愛するように素描する」と。

短い時間でなにかを素描するとき、もっとも大切な「自分がその対象に惹かれる理由」だけが描かれて、あとのものが抜け落ちてしまえば、最高に「絵」になるのに、と思う。

しかし、それがなかなか難しい。

「思い込み」を離れて「自分が見たものから導かれる線」を引くことが大切だと思います。

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素描や絵画をめぐる遠くて近い記憶

植物をよく見て、鉛筆の線だけの絵を描いて、楽しかった最初の記憶がある。

小学5年生のはじめに、新しく転任してきたY先生が担任になり、最初の授業が、自由に絵を描くというものだった。

皆、絵の具を使って思い思いに絵を描いたが、私はHBの鉛筆だけで、教壇の上の花瓶に活けられていたカーネーションの束を見ながら描くことに決めた。

私はその時一番前の席で、そのカーネーションのちまちました花の塊と細い茎、細いなよやかな葉をきれいだと思っていたからだ。

そして大雑把に省略してごまかさないで、できるかぎり細かく見たままを線で描く、というのをやってみたかったのだ。

カーネーションの花弁は複雑で、縁にギザギザがあって、茎も細くて節があり、葉の付け根も繊細すぎて、かたちをとるのがとても難しかった。

ひとつの花から描き始め、下のほうまで茎を追って線を引くうちに、葉のつきかたや茎の重なりなどの位置関係のつじつまが合わなくなってしまう。

見た通りに、ごまかさずに描こうとすればするほど、眼も頭も疲れて、とても苦しかったのを覚えている。

しかし同時に、そこに自分の眼の体験を確かに刻んだような達成感があった。

その時、全体のつじつまは合わなくても、自分が美しいと感じているもの、自分がカーネーションの中に見つけた「たくさんの細い線」を、自分なりに鉛筆で紙の上に残せたことに激しい喜びを覚えた。

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小学6年生の時、図工の先生が石井先生だったのは幸運だったと思う。

その日のテーマは「友だち」だった。花にかぎらずなんであれ細部に魅力を感じ夢中になってしまう私は、図工の時間内に絵を仕上げることができなかった。

石井先生は、そんな私に、(先生が採点したあと)、放課後、図工室に残って気がすむまで絵を仕上げていい、と言ってくださった。

私はそれから何日も居残りさせてもらうことで、友だちが着ている服の皺の微妙な反射の色を、じっくり時間をかけて描いた。私は机に向かう友達の後ろ姿を描いていた。

しーんと静かな図工室の絵の具や接着剤の汚れが染みついた、年季のはいった分厚い黒い木の机。そこでひとりぼっちで絵に集中できたのは本当に素晴らしい体験だった。

そこで、眼の体験に迷い込む喜びとともに、どこにこだわるのかで絵は無限に変わり、絵がいつ終わるのかを自分ではわからないことを知った。

「絵画鑑賞」の時間に、ダリの「記憶の固執(柔らかい時計)」や、ベン・シャーンの「赤い階段」を見せてくださったのも石井先生だ。小学生の時にこれらの絵から受けた衝撃は今もずっと残り続けている。

小学生だった自分を子ども扱いしないで美術の体験をさせてくださったことに、とても感謝している。

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10代、20代の頃はなかなか柔らかい線が引けなかった。高校3年生の一年間、美大受験予備校に通った弊害かもしれない。

今でも自在に線は引けなくて苦しいが、若い頃は今よりもっとゆっくりと、硬いたどたどしい線しか引けなくて不自由だった記憶がある。

「かたち」を一生懸命追っているので、けっこう集中力を要し、すごく疲れてしまう。

18歳の頃に描いたアジサイの素描。あたりをつけてから葉を描いている。

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20歳くらいの時に描いたマーガレットの素描。これも「かたち」を一生懸命とっている。正円を基(もと)にしたかたちの花ではなく、めくれたり歪んだりする花びらのしなやかさを追う気持ちで描いているのだが、硬い線。

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硬い、しなやかさが足りない。

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20歳くらいの時に描いた八重のチューリップ、アンジェリーケの素描(鉛筆、色鉛筆)。自分なりに格闘して描いたが、硬い線。

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昔から、八重のチューリップと、花の下にある葉とも花弁とも言えない部分に惹かれていた。神秘的な感じがするからです。

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このアンジェリーケという種類は、薔薇や牡丹のように桃色の花弁が重なったとても豪華で華やかなチューリップだ。花弁の色の微妙な濃淡をよく見て描いた。

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20歳の頃に描いたスプレー菊。薄ピンクの小さな花の中に微妙な色の変化を見つけることを意識して描いた。

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描くことに疲れてしまって、描くことが苦しくつらくなってしまったことがよくあった。

「こういう描き方すると疲れるでしょう。」とも言われた。

しかし、「隅々までよく見たとおりに」、「自分が面白さを感じたままに」描きたかった。それは受験予備校で習ったやりかたではなかったが、「単純化したり、くずしたり」することにはなおさら興味を感じられなかった。

今も「見たとおりに」描きたいことに変わりはない。

見たものが絵の中で「運動」し、「変容」することは、「絵を崩す」こととは違う。

そして私は素描を「本画」のための「下描き」や「習作」とは考えない。

植物を描くとき、一瞬の「不安定さ」、「個体の有限な生」の中の「非限定的なもの、わからないもの」を描くことで、一枚の絵の中に「運動」を描くことができると思う。

今は、昔よりは疲れずに鉛筆で描くことができます。

ひとつの理由は、鉛筆を持つ手に力を入れ過ぎないでも線を引けるようになってきたからです。

昔は強く鋭い線に惹かれたけれど、今は以前よりずっと筆圧の弱いあえかな線を引くことや「描かない部分」に興味があるから、とも言える。

 

 

 

 

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2016年4月29日 (金)

一ノ関圭 手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞

4月28日

一ノ関圭先生が第20回手塚治虫文化賞のマンガ大賞を受賞!!おめでとうございます。

一ノ関先生は、私が子どもの頃から心酔していた本当に大、大好きな漫画家さんです。

あまりに一ノ関圭先生の絵に惚れこんでていた私は、『デッサンの基本』をつくる時に、どうしても先生のデッサンを本に載せたくて、先生にわがままを言ってお願いした。

そして一ノ関先生とお会いして、お話を伺う機会を得た。

一ノ関圭先生は、思っていたとおり、とても聡明なかた。余計なものがなく、正直で、寡黙で、才能のある人ならではの、自分の創作に集中する激しさを秘めておられるかただった。

体験と思考が収斂して、それが深いところに集中していく感じというのか、この人は本当にすごい人だと思わせる空気。

本当にかっこいいかたです。

「裸のお百」の掲載されている『ビッグゴールド』を今も持っている。

ものがたりの最後で、お百が黒死病(ペスト)になってしまったところの「見ないで!あたしを見ないで!見ないで!」というネームのシーン、『ビッグゴールド』掲載時はミケランジェロの「瀕死の奴隷」の絵になっていたと思う。それがコミックス(単行本)に収められた時は頭を抱えてうずくまる女性の身体の絵にかえられていた。

私が激しく一ノ関圭に惹かれた理由に、もちろんなまめかしい人物の線と表情と、濃やかな心理描写というのは大きいのだが、女の生きざま、特に今よりもっと女性にとって厳しく生きづらい時代に、女がおのれの生を燃やし尽くして生きるありさまを描いたものがたりに惹かれる。

「らんぷの下」、「だんぶりの家」、「女傑往来」など。

特に「だんぶりの家」は、幼い頃から誰よりも頭がよくて、活発で、きかん気で、意志が強く努力家の、「かんな」という女の子がとても魅力的で、彼女が数々の困難を乗り越えて女医の道を歩んでいく話と思いきや、あっさりと東北の飢饉のせいで亡くなってしまう、涙なくしては読めない話。

もうひとつ、一ノ関圭にひどく惹かれた理由は、「絵を志す」人を描き切ったことだ。

本物の絵描きが描かない限り、「絵を志す」ものの凄惨さが描けるはずもなく、今まで数限りなくあった「絵を志す」人がテーマのマンガ(たとえば昨今の美大生が主要な登場人物であるものなど)はまともに読めないものが多かった。

一ノ関圭だけがその凄惨さを描いた。

「らんぷの下」は、当時、才能があっても女が絵で身を立てていくには厳しい時代、青木繁を愛し捨てられた女が、自分の絵の才能を開花させることを捨てて、青木繁のライバルに身を捧げる話(結局破局するが)。

「黒まんとの死」は、同じ画塾に通う主人公が、「黒まんと」の絵の才能に心底嫉妬し、その嫉妬が「黒まんと」を死に追いやる話。

絵の才能がある者と、才能がない者の、いかんともしがたい差と、軋轢と、さらによしんば才能があったとしても報われなかったり、あっけなくこの世を去ってしまったりすることの無情を、一ノ関圭は描き切っているのだ。

(しかし一ノ関圭が描いた、絵の才能をもつ者に対するもたない者の嫉妬というテーマも、経済のもとになにもかも平準化されてしまう今の時代には、わかりにくいテーマになっているのかもしれない。)

「裸のお百」の主要人物「らくだ」(弥平)が作中で描いた絵(挑戦的な人体群像)が素晴らしいのに、黒田清輝だけが反対して白馬会の展覧会に飾られなかったことが、自分のことのようにショックだったので、どうしてもその絵を『デッサンの基本』に載せたかった。

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2016年1月22日 (金)

『デッサンの基本』(ナツメ社) 第23刷り / 昔の伊藤キムのクロッキー

1月18日

『デッサンの基本』(ナツメ社)の増刷のお知らせをいただきました。 第23刷りとなりました。

本当に嬉しく、ありがたいことです。

『デッサンの基本』を読んで(見て)くださった方が、鉛筆一本と紙一枚だけで始められる絵の面白さに興味を持ってくださったら、そして、ものを「よく見る」喜びを感じてくださったら、これ以上嬉しいことはありません。

最近の私は、昨年からずっと、今まで数十年描きためてきたデッサン(素描、素描着彩)の整理をやっています。

ものの変化に追いつこうともがいたり、記憶や体験の感触を含めて描いたものが、千枚くらいあります。

描いて忘れていたスケッチブックが発見されるたびに、その時に夢中で見ていたもの、心躍らせたもの、本当に好きだった(今も好きな)もの、その時だけしか体験できなかったものがよみがえってきて、なんとも言えない気持ちになります。

昔描いた人物クロッキーを発見。ダンサーの伊藤キムさんがヌードでムーヴィングをしてくれたところをクロッキーしたもの。(画像はすべてクリックすると大きくなります)

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伊藤キムさんはダンサーで振付師でもあり、美しいポーズ、体線の見せ方をよくわかっている人なので、その魅力に牽引されて夢中で描くことができた。

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伊藤キムさんの細くてしなやかな身体の動きのエロスを間近で見ることは恐ろしく素晴らしい。
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足の腱や筋がはっきり見えるほどに贅肉が削ぎ落とされた肢体。私は人体を描くのも、ダンスを見るのも、痩せてしなやかな人に強烈に惹かれる。
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休憩が終わるごとにムーヴィングの速度は高まっていき、最後はとても速いダンスとなった。
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私は植物を描くことが多いですが、身近にある植物の一枝を描くだけでも、そのものをよく見ると、とても描ききれないほど、たくさんの微妙な美しさや面白さを発見します。

同じ種類の植物にも個体差があり、変わったかたちのもの、花弁や花芯や葉や茎に趣のあるものをさがすことだけでも興味深い作業です。道端でも、生花店でも、そうした自分にとって稀れと感じるものに眼が惹かれます。

さらにそれぞれの生命は常に運動し、変化しているので、それを追うことは無限の劇を見るような感動があります。

その時に出会った植物を描くことは、その季節、その時の気温や光や、さらにその植物にまつわる親しい人との思い出も、その絵の中に残してくれます。

今の季節、街を歩くと、去年からの立ち枯れのセイタカアワダチソウが美しい。北風に磨かれた空に映えて、椿の花がとても鮮やか。紅梅白梅の香も素晴らしい。陽のあたる庭には水仙も咲いている。

枝に積もった雪をのせた赤い椿は一層鮮やかで風情がある。

以前描いた椿の素描着彩を載せます。

この椿は花芯の中に小さな花弁が混じっているところに面白さを感じて描いたもの。花弁も変則的な斑や絞りのものに惹かれます。

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この白地に赤の絞りの椿は、花の正面でなく、深緑の艶々した葉の隙間から見える花弁や、花の後ろ姿に美しさを感じて描いたもの。
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獅子咲き椿のねじれた花弁と絞り模様が面白くて描いた。

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こぶりな白い椿。

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薄桃色、八重咲きの乙女椿。花芯(しべ)が見えない。
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きょう、花屋さんにヒヤシンスの鉢植えが出ていた。

ヒヤシンスは赤(濃いピンク)と紫と白の鉢植えが多いのだが、私が毎年捜しているのは「ミオソテス」という薄紫のや、「デルフト・ブルー」という灰色がかった水色の、それと淡いアプリコット色の「オデッセウス」というヒヤシンス。

以前描いた薄紫のヒヤシンス。半透明なガラス質のような花を描くのが難しい。もっと光る花の質感が出るように、また描いてみたい。

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下は、花弁のふちが白く、内側に星のようにピンクの筋がはいったヒヤシンス。このときは固い感じで描いた。同じ花でも描きたいイメージによって描き方をかえて描きます。

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今年もいろんな素敵なものを見つけて、描いていきたいと思います。

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2015年5月18日 (月)

『デッサンの基本』第22刷り 猫の素描

5月18日

4月24日 に『デッサンの基本』(ナツメ出版企画)第22刷りとなるお知らせをいただいた。3月に第21刷りのお知らせが来たばかりだったのでとても驚いた。

デッサン(素描)に興味を持ってくれて、私の書いた本を読んでくれるかたがいること、こんなに嬉しいことはありません。買ってくださったかたに心より感謝です。

何かをするための手段として、デッサン(素描)の必要性にかられて買ってくださったかたも多いと思います。

私自身に関して言えば、年齢を重ねるごとに、手段としてではなく、デッサン(素描)そのものの奥深さへの興味は強くなるばかりです。

私の言っている「デッサン」とは、美大受験のためのデッサンのようなものではなく、アントナン・アルトーや、ジャコメッティが描くようなデッサンをも含めた、各自それぞれのやりかたのデッサン(素描)――自分の外にあるものを見て描いた線描という意味です。

何度も書いていますが、私自身は「本画」(タブロー)と「習作」(デッサン、スケッチ、素描などと言われるもの)を分けるのは便宜上の分類以上の意味がないと思っています。

偉大な画家と言われる人たちの残したもので、いわゆるその人の「様式」が固まる過渡期の絵や、むしろ「覚書」のように残されている素描にこそ素晴らしい魅力があり、価値があると感じています。

最近の私は、相変わらずというか、もっぱら枯れた植物とちゃびを描いています。

猫を描くのはとても難しい。

偉大なる先達が残している素晴らしいデッサン(素描)を見ると、自分の力のなさに萎縮してしまって、ますます描けなくなってしまう。

また、これは特殊な事情だけれども、うちのちゃびは、普通の猫とどうやら体型と顔が違う。動物病院で逢うよそのうちの猫の皆さんは、ちゃびよりずっと顔も長く、鼻が長くて鼻筋が通っている。骨格もわかりやすくしっかりしている。

ちゃびは、顔が長くない。鼻が短くて小さく、眼が大きい。身体は小さいが骨格は華奢で、皮がぷよぷよしていて体型が丸い。だから描くとシリアスにならず、まんがっぽくなってしまう。

ということなどを考えながら描いた最近の素描。まずはとても惹かれる偉大な先達の素描を模写してみた。

フランツ・マルク(ドイツ、1880-1916)の猫の模写(左)とヤン・ヴァン・バイク・ミエル(フランドル、1599-1664)とされている猫の模写。

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下はスタンラン(フランス、1859-1923)の猫の素描の模写。

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下の左上は、フランスのスタンランやイギリスのルイス・ウェイン(1860-1939)と同じ頃にドイツで生まれ、素晴らしく魅力的な猫たちのポストカードをたくさん描いたアルトゥール・ティーレ(1860-1936)の笑っている猫の顔の模写。右下はスタンランの模写。

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下はホルスト・ヤンセンの猫の模写。

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そして下はうちのちゃびの素描。

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下は何週間も冷蔵庫に入れて観察していたオールドローズ。

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これからもっと萎びて枯れていく様子を描こうと思って机の上に置いていたら、私がちょっと眼を離したすきにちゃびが薔薇を滅茶苦茶に散らせていた(食べていないか心配)。

動物病院に行った帰り道で、舗道の植え込みの中に咲いていた去年の立ち枯れのキク科の雑草。

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5月16日

ハナ動物病院にちゃびの薬と輸液をもらいに行く。輸液のための21Gの針が「前回もらったのは、それ以前と違い、とても短かった」と快作先生に報告する。「21Gに関しては長いのと短いのとの二種がある」と聞き、次からは「貫通しにくい」という理由で短い方を選んだ。

快作先生の実家の猫ちゃん、2週間くらい前に23歳で亡くなった、と聞いた。

最期の頃は2kgにも満たないくらいとてもやせていたけれど、自分でご飯も食べ、トイレにも行っていたそうだ。

亡くなったと聞いてとても淋しい。永遠に生きるわけじゃない、と知っていても悲しい。でも猫で23歳というのは素晴らしくがんばったと思う。

5月13日

宇野亞喜良さんの少年と少女が(馬の)脚になっている馬の絵について、「この絵とともに、馬に寄り添う淋しそうな少年の挿絵があった物語の本を、昔持っていた記憶がある。」と私が書いたことに対して、K美術館(現在休館)の越沼正さんよりメールをいただいた。

「今江祥智『海いろの部屋』理論社1971年初版、同『海の日曜日』実業の日本社1966年初版 あたりではないかと思います。

今江祥智は『海いろの部屋』の「あとがき」で書いています。絵本『あのこ』や長編『海の日曜日』同様に美しい世界でわたしの作品世界をひろげてくださったことを深謝しています。」

とのことだが、残念ながら私は『海の日曜日』という本も持っていない。

私の持っている『宇野亜喜良の世界』(1974)という画集に、その馬の絵が載っていて、その絵はそれまでの宇野さんのエロティークで攻撃的なイラストとは趣が違い、まさに胸に突き刺さるような深い詩情で見る者を釘づけにする。

その絵の強烈な印象と、昔観た「エクウス」という馬と少年の劇の印象が混じりあって、私の脳裏に宇野さんのタッチの絵ができてしまっていたのかもしれない。

この『宇野亜喜良の世界』の巻末に載っている宇野さんの若い頃の写真が抜群にかっこいい。私の大好きな沢渡朔さんの撮影で、宇野さんは、がりがりに痩せていて、すごくおしゃれ。サングラスをしている写真は少し笠井叡に似ている。

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