6月10日
『デッサンの基本』(ナツメ社)が、また増刷となりました!これで第25刷となりました。
買ってくださったかた、ありがとうございます。
自分がつくった本を、どこかで読んで(見て)くれている誰かがいる、と思うと本当に嬉しく、ありがたく思います。
『デッサンの基本』が、どなたかのデッサン(素描)のためのヒントやきっかけになることがあれば、これほど喜ばしいことはありません。
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素描について
なにかを描こうと思う時、うまく描こうと思うことより、その対象のどこに惹かれるのかを「意識して」、それを大切に描くことだけが肝心だと思います。
私が敬愛するドイツの画家は言います、「私は愛するように素描する」と。
短い時間でなにかを素描するとき、もっとも大切な「自分がその対象に惹かれる理由」だけが描かれて、あとのものが抜け落ちてしまえば、最高に「絵」になるのに、と思う。
しかし、それがなかなか難しい。
「思い込み」を離れて「自分が見たものから導かれる線」を引くことが大切だと思います。
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素描や絵画をめぐる遠くて近い記憶
植物をよく見て、鉛筆の線だけの絵を描いて、楽しかった最初の記憶がある。
小学5年生のはじめに、新しく転任してきたY先生が担任になり、最初の授業が、自由に絵を描くというものだった。
皆、絵の具を使って思い思いに絵を描いたが、私はHBの鉛筆だけで、教壇の上の花瓶に活けられていたカーネーションの束を見ながら描くことに決めた。
私はその時一番前の席で、そのカーネーションのちまちました花の塊と細い茎、細いなよやかな葉をきれいだと思っていたからだ。
そして大雑把に省略してごまかさないで、できるかぎり細かく見たままを線で描く、というのをやってみたかったのだ。
カーネーションの花弁は複雑で、縁にギザギザがあって、茎も細くて節があり、葉の付け根も繊細すぎて、かたちをとるのがとても難しかった。
ひとつの花から描き始め、下のほうまで茎を追って線を引くうちに、葉のつきかたや茎の重なりなどの位置関係のつじつまが合わなくなってしまう。
見た通りに、ごまかさずに描こうとすればするほど、眼も頭も疲れて、とても苦しかったのを覚えている。
しかし同時に、そこに自分の眼の体験を確かに刻んだような達成感があった。
その時、全体のつじつまは合わなくても、自分が美しいと感じているもの、自分がカーネーションの中に見つけた「たくさんの細い線」を、自分なりに鉛筆で紙の上に残せたことに激しい喜びを覚えた。
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小学6年生の時、図工の先生が石井先生だったのは幸運だったと思う。
その日のテーマは「友だち」だった。花にかぎらずなんであれ細部に魅力を感じ夢中になってしまう私は、図工の時間内に絵を仕上げることができなかった。
石井先生は、そんな私に、(先生が採点したあと)、放課後、図工室に残って気がすむまで絵を仕上げていい、と言ってくださった。
私はそれから何日も居残りさせてもらうことで、友だちが着ている服の皺の微妙な反射の色を、じっくり時間をかけて描いた。私は机に向かう友達の後ろ姿を描いていた。
しーんと静かな図工室の絵の具や接着剤の汚れが染みついた、年季のはいった分厚い黒い木の机。そこでひとりぼっちで絵に集中できたのは本当に素晴らしい体験だった。
そこで、眼の体験に迷い込む喜びとともに、どこにこだわるのかで絵は無限に変わり、絵がいつ終わるのかを自分ではわからないことを知った。
「絵画鑑賞」の時間に、ダリの「記憶の固執(柔らかい時計)」や、ベン・シャーンの「赤い階段」を見せてくださったのも石井先生だ。小学生の時にこれらの絵から受けた衝撃は今もずっと残り続けている。
小学生だった自分を子ども扱いしないで美術の体験をさせてくださったことに、とても感謝している。
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10代、20代の頃はなかなか柔らかい線が引けなかった。高校3年生の一年間、美大受験予備校に通った弊害かもしれない。
今でも自在に線は引けなくて苦しいが、若い頃は今よりもっとゆっくりと、硬いたどたどしい線しか引けなくて不自由だった記憶がある。
「かたち」を一生懸命追っているので、けっこう集中力を要し、すごく疲れてしまう。
18歳の頃に描いたアジサイの素描。あたりをつけてから葉を描いている。

20歳くらいの時に描いたマーガレットの素描。これも「かたち」を一生懸命とっている。正円を基(もと)にしたかたちの花ではなく、めくれたり歪んだりする花びらのしなやかさを追う気持ちで描いているのだが、硬い線。

硬い、しなやかさが足りない。

20歳くらいの時に描いた八重のチューリップ、アンジェリーケの素描(鉛筆、色鉛筆)。自分なりに格闘して描いたが、硬い線。

昔から、八重のチューリップと、花の下にある葉とも花弁とも言えない部分に惹かれていた。神秘的な感じがするからです。

このアンジェリーケという種類は、薔薇や牡丹のように桃色の花弁が重なったとても豪華で華やかなチューリップだ。花弁の色の微妙な濃淡をよく見て描いた。


20歳の頃に描いたスプレー菊。薄ピンクの小さな花の中に微妙な色の変化を見つけることを意識して描いた。

描くことに疲れてしまって、描くことが苦しくつらくなってしまったことがよくあった。
「こういう描き方すると疲れるでしょう。」とも言われた。
しかし、「隅々までよく見たとおりに」、「自分が面白さを感じたままに」描きたかった。それは受験予備校で習ったやりかたではなかったが、「単純化したり、くずしたり」することにはなおさら興味を感じられなかった。
今も「見たとおりに」描きたいことに変わりはない。
見たものが絵の中で「運動」し、「変容」することは、「絵を崩す」こととは違う。
そして私は素描を「本画」のための「下描き」や「習作」とは考えない。
植物を描くとき、一瞬の「不安定さ」、「個体の有限な生」の中の「非限定的なもの、わからないもの」を描くことで、一枚の絵の中に「運動」を描くことができると思う。
今は、昔よりは疲れずに鉛筆で描くことができます。
ひとつの理由は、鉛筆を持つ手に力を入れ過ぎないでも線を引けるようになってきたからです。
昔は強く鋭い線に惹かれたけれど、今は以前よりずっと筆圧の弱いあえかな線を引くことや「描かない部分」に興味があるから、とも言える。