大野一雄

2015年10月20日 (火)

大野慶人「花と鳥 舞踏という生き方」 / 野毛

10月18日

「大野一雄フェスティバル2015『生活とダンス』」のなかの、大野慶人ダンス公演「花と鳥 舞踏という生き方」を見に、横浜のBankART Studio NYK へ。

すぐ裏に海を見渡すこの会場は、大野一雄先生が亡くなった時に、追悼の展示があった場所、大野慶人さんが黒いスーツを着た大野一雄先生の姿の指人形の踊りを演じるのを私が最後に見た場所だ。

3階のフロアに大野一雄先生にまつわる展示があり、その中に、今年6月19日に急逝された室伏鴻さんの写真と映像があった。

下の右側が室伏鴻さんの舞踏の写真。左は中西夏之の絵。(画像はすべてクリックすると大きくなります)

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下は舞踏の映像。室伏鴻ソロ作品「quick silver」の完全上映。

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大野一雄舞踏研究所で行われた大野先生のレクチャーを、映像とイヤホンからの音声で体験できるコーナーもあった。

下の画像、正面にあるのは、大野一雄先生がいつも座っておられたお気に入りの椅子。

これは妻有の河川敷で中川幸夫先生と「天空散華」を公演された時にも大野一雄先生が座っていた、

その踊りのあとも光と小雨に濡れ、赤や黄のチューリップの花びらにまみれて、暫し河原に置いてあった、白い塗りが剥落して緑色の下塗りが絵画のように出ている、素晴らしく美しい椅子だ。

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大野一雄舞踏研究所の模型と、その向こうに研究所の写真、それと研究所で実際に使われていた窓。
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開演を待っていたら、受付に笠井叡、久子夫妻があらわれる。

笠井久子さんとは、笠井叡、麿赤兒公演『ハヤサスラヒメ 速佐須良姫』にご招待いただいて以来、久しぶりにお会いできたので、すごく嬉しかった。しばしお話しする。

・・・

2時少し過ぎに開演。一番前のほぼ真ん中の座布団の席をとった。

演目は、まず「鳥」、そして土方巽が大野慶人さんのために振付けた三部作、土方巽三章(「死海」より)。クラウス・シュルツェの宇宙の暗黒に広がっていくような機械音にのせて、とても懐かしい踊りを見た。

・・・

衣装替えの幕間に、大野慶人さんが出演された映画「へそと原爆」(1960年、細江英公監督・脚本・撮影)が上映された。

この映画は、たった14分であるが、私には恐ろしく長く、筆舌に尽くしがたいストレスだった。

鶏を傷つけて、その鶏が海に逃げ込んで苦しみ悶え、死にゆくさまをえんえんと撮っている。

「舞踏」の起点に「燔祭」があったとしても、その映像に、なにかの「生贄」とか「供物」といった意味合いは読みとれないし、読みとる気にもならない。

あるいは、敗戦後まだ15年しか経っておらず、人や動物たちが大量に死んだ記憶も生々しいその時代に、たとえ一羽の鶏の命の重さなど感じられようもないとしてもだ、食うためでさえなく、映像作品として仕上げられる表現のために、それを殺すのは、私には受け入れられない。

それはメタファ―でもなんでもない、たんなる残虐行為だ。私はこの映画に限らず芸術家と呼ばれる(あるいは呼ばれたがる)者によくありがちな、そうした驕りを許せないと思っている。

映画の冒頭、土方巽の腕など身体の一部が映し出されるが、運動する人の足もとに、ふわっと白い鳥の羽根が飛んで来た時点で、ものすごく嫌な予感がしたので、そこからはできるだけ画面を見ないように下を向いていた。

細江英公の、土方巽や大野一雄を撮った多くの写真は、本当に素晴らしく魅了されるが、この映画には拒絶反応しか持てなかった。

・・・

私にとって吐き気と脂汗が出る地獄のストレスの14分の映画が終わり、

やがて耳をつんざくバッハの「トッカータとフーガ」のパイプオルガンの大音量とともに、山盛りの大振りな造花をのせた帽子、黒いドレスに白い綿レースのマント、ハイヒールのディヴィーヌ登場。

思いっきり艶やかに、たっぷりと。

すぐ近くの床から、私はライトに照らされるディヴィーヌの顔を見上げていた。

斜め上を切なく見上げ、失われたものを見つめるように小首を傾げるディヴィーヌ、慶人さんの眼と鼻の線は一雄先生そっくりだった。

時がねじれて空気が震えながら回転しているようだった。

ディヴィーヌが舞台の上のレースマントに顔を埋めるように倒れて、暗転のあと、今度は金色のアールデコ風のレースのドレスで登場。

そして「浜辺のうた」に合わせて、夢見る少女のように、時折スキップして踊る大野慶人。

「あした浜辺をさまよえば 昔のことぞしのばるる・・・」

長い長いピアノの間奏、もう涙がこぼれて止まらなかった。

盛大な拍手のあと、アンコールで華やかなタンゴ。

この曲は1998年の「世紀末からの跳躍 天道地動 土方巽とともに」(世田谷パブリックシアター)のとき、笠井叡さんと元藤燁子さんが踊ったタンゴの曲だ!

もしかしたら違う曲なのかもしれない(私はその曲名を知らない)が、私には、あのときの背筋を反らせ眉をそびやかしてリードする稀代の伊達男のような笠井叡と、嬉し恥ずかしそうに頬を上気させる長いドレスの元藤燁子のタンゴの踊りが鮮やかに見えたのだから。

もしかしたらあれは幻だったのかもしれない。舞踏とは、なんと胸に残る幻なのだろう。

大野一雄先生の踊りを夢中に見ていた頃のこと、あの時の緊張と興奮と胸が苦しくなるような痛み・・・、種村季弘先生もまだお元気で、あのシンポジウムの日、私は種村先生に赤いカンガルーポーの花束を渡した。いろいろと目をかけてくださったこと・・・、時が確実に過ぎていることがつきつけられて、どうしようもなく哀しかった。

それと同時に、大野慶人さんの中に大野一雄先生が生きているのを見て、なんとも言えない感動があった。

二度目のアンコールでは、慶人さんが演じる黒いスーツ姿の大野一雄先生の指人形が、「愛さずにはいられない」を踊った。

この曲は私の初個展のときに(私には予想だにできなかったことだが)、大野一雄先生が来場されて持参のカセットテープをかけて踊ってくださった曲で、私にとってはとても堪らない涙、涙の思い出の曲である。

大野一雄先生、そして種村季弘先生・・・、中川幸夫先生や若林奮先生も亡くなり、私の絵の直接の恩師、毛利武彦先生も亡くなった。私も母の介護などで身辺が慌ただしくなり、昔のようにいろんな舞台や展覧会に行くことも、本当に少なくなった。

私にとって心から尊敬し、愛する人たちが亡くなるたびに、私の身体は激しい損傷を受け、そこからうまく回復できなかった。

それとともに時代が急速に変わり、私の傷ついた身体が浅く軽く平準化された「言葉」に覆われていくことに、どう折り合いをつけたらいいのかわからなかったのだ。

偉大な師たちが私に残してくれたものをもって、私がこれからどう生きていけばよいのか、それを突きつけられるようで、たまらなく苦しかった。

舞台にいるときだけが「舞踏」なのではない。大野慶人さんは「舞踏という生き方」を生きている。

私も「絵描き」とは「生き方」なのだと思うし、そうありたい。

・・・

舞台が終わってから、見覚えのある大野先生のスタッフのかたと少しお話しした。そのスタッフのかたはきっと覚えていないだろうが、2003年の銀座エルメスギャラリーでの中川幸夫先生の展覧会に、大野一雄先生が車椅子で来られたときにお話しして以来なので、実に12年ぶりだ。

そのかたは長年、大野一雄先生の介護をされたかただが、今も大野先生宅の近くに住んで、ご本人も舞踏を続けていると聞いてじーんとした。

一階のカフェに大野慶人さんが降りて来たところで、一緒に記念撮影をしていただいた。

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ちなみに、下が1998年「土方巽とともに 天道地道」の公演後に一緒に撮っていただいた写真。大野慶人さんと。
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大野一雄先生と。
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いつも優しい笑顔で握手してくださった大野一雄先生。
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下は「土方巽とともに」最終日、出演者アンコールの華やかな踊りのあと、クロージングパーティーの時の笠井叡さんと。

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・・・

大野慶人さんの舞台を見た後、かつて大野一雄先生が細江英公さんに撮影された(この写真は本当に素晴らしかった)場所、根岸競馬場跡の建物を見たくて根岸に行った。

根岸の駅からはすごく美しい工場が見えた。

工場の反対側の小学校の横の山道を、落ちて行く夕陽の速度と競争して走って登ったら心臓が破れそうだった。

米軍施設横に森林公園があり、その入り口から競馬場の廃屋の3つの塔が見えた。もう暗くなりかけていたので、その方角だけを確認して、きょうは撮影を諦めてバスで日ノ出町へ向かった。

種村季弘先生の『徘徊老人の夏』のカヴァーに使われた写真の場所、「都橋商店街」に行きたかったのだ。

下が種村季弘『徘徊老人の夏』(1997年、筑摩書房)のカヴァー。1964年の東京オリンピックのときに建てられたという、なめらかなカーヴもモダンな、怪しげなちっちゃな飲み屋がびっしり詰まった建物は、種村先生の好きそうな場所そのものだ。

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下が本日撮った都橋商店街。18年経って、お店の名前はほとんど変わってしまっていた。

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と思いきや、なんと種村先生のカヴァーで目立っている「バラエティショップ 北欧」の文字が、今は「かりゆし」になった店の赤いビニールの庇にうっすら残っていた!

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「MIYAKO BASHI 都橋商店街」というアーチ看板は無くなっていたけれど、ビルには文字がついていた。
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その後、野毛をうろつく。立ち飲みの店がたくさんあるが、若い人で賑わっていた。

「もみぢ」というとっても素敵な御菓子司(おんかしつかさ)を発見。Sdsc07269
その隣の二階の「サンドイッチ アイスクリーム 珈琲」という文字のある木枠の窓も素敵。

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「旧バラ荘」「元バラ荘」と書いてある不思議なかたちの建物。
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「野毛大仮装 世界発!野毛発!ハシゴ酒ハロウィン」と書いたポスターが貼ってある。

朝から何も食べていなかったが空腹を感じず、夢中でたくさんのものを見た一日だった。

帰りに種村先生がよくやってらしたように、駅の売店で缶ビールを買ってホームで飲もうと思っていたのに、みなとみらい線の駅の売店が閉まっていたので残念だった。

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2015年6月 2日 (火)

大野一雄先生命日 池田淑人画伯 / 鎌ヶ谷、船橋 

6月1日

きょうは大野一雄先生の命日。

大野一雄先生の思い出は、数々の公演を見に行った時のことや、踊りのレッスンを受けに行った体験など限りない。そして命日でなくても、植物の運動を見ている時に、ことさら大野先生の姿が胸に迫る。

私の初個展に来てくださった時の驚きが、とりわけ強烈だった。

画廊に電話がはいって、誰だろうと思いながら出たら、「お~のです。」と言われて、一瞬誰だかさっぱりわからず、「ええ?!」とびっくりしたのを思い出す。

「あなたの花の絵を見てね。踊りはね、すっすっと行っちゃいけない。苦しんで苦しんでね。手足を伸ばしきれないで、ぐぐっとね。一生懸命伸ばそうとして。あなたの絵の花も、苦しんで苦しんでぐぐっと手を伸ばしている。」と言ってくださったことをずっと記憶している

大野慶人さんといらした一雄先生は、カセットテープを持っていらして、エルヴィス・プレスリーの「Can't Help Falling In Love 」と マヘリヤ・ジャクソンの「I Believe」をかけて踊ってくださった。その時間が何分だったのか、わからない。永遠に止まったような感覚があった。

涙が流れた。

そのあと、大野一雄先生は、「私のおじさんも画家だったんです。」とおっしゃって池田淑人様の93歳の時の絵の図録(1979年、新宿小田急百貨店グランドギャラリー)をくださった。(画像はすべてクリックすると大きくなります)

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池田淑人さんは1886(明19)年生で1981(昭和56)年に亡くなった。

東洋的精神を油彩で描いたような、特異な画風だ。キリスト教の逸話を題材にとるなど、私の氏、毛利武彦と心が通じるところがある。非常に精神的で、削ぎ落とした造形を描くところは、ルオー的なところもある。下の画像の上側の「道化師」という絵がすごいと思った。
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下の画像、左ページの右側の「黒豹」も大好きな絵。

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池田淑人さんはチェリストでもあった。

「よしと」という名前を、大野慶人さんが受け継いだのかな、と思う。

5月30日

母の施設に夕食介助に行く。

1、2週間ほど前から母の口のまわりが赤くただれていたが、きょうは一層ひどかった。看護師さんに聞いたところ、食べ物の刺激でかぶれたらしいとのこと。

折しも、私の口のまわりが赤く荒れてしまったのと同時期である。母と私は皮膚が薄くてかぶれやすいところがそっくりだが、母も私も食べ物の刺激で口のまわりが荒れてしまったのは初めてだ。

東中野のチェーン店の居酒屋で夕食。

若い店員さんが皆、ジャニーズ事務所に所属しているのかと思うほど、明るくてかっこよく、愛想がよかったのでびっくり。煙草の煙が来ないところに親切に案内してくれたのは、(雰囲気が)KAT-TUNの田口くん似の男の子。また楽しくおしゃべりをしながら会計をしてくれたのは、(やはり雰囲気が)NEWSの手越くんに似た男の子だった。

すっかりさびれた細い商店街を歩いていた時に、大きな地震があったらしいが気がつかなかった。昔あった古本屋をめざしていたが、無くなっていた。

駅につくと地震のせいで電車が遅れていた。

5月29日

がんの定期検診に鎌ヶ谷の病院へ。

「なぜかまたやせてしまいました。」(昨年の夏は47kgあったのに、少しずつ落ちて今は42kg代)と言うと、主治医のA先生は「福山さんは仕事に夢中になるとすごく集中するからねえ・・・」と優しい言葉をかけてくれた。

「先生は何か運動はやっておられるんですか?」と尋ねると、すごく恥ずかしそうに「ぼくは、実は・・・水中ウォーキングやってます。」とにこっと笑って答える浅井先生、本当に昔から変わらない。優秀な外科医として有名なのに、なぜかシャイな感じの優しい先生。

きょうは不思議な天気だった。家を出た時は暑かったのに、雨になり、急激に気温が下がった。電車が大きな川を何度か横切る頃には、窓ガラスに雨滴が光っていて、灰色の大きな川が霧で霞んでいるのが見えた。

電車の窓からまるっきり灰色の景色を見て、ハンブルクのブランケネーゼのホルスト・ヤンセンの家から、細い道をエルベ川の岸に降りた時、霧で向こう岸が見えなかった幻想的な空気が思い出された。

診察が終わり、小雨の中を駅の方に歩く途中でシロツメクサの観察。さっそく四葉を見つけた。この鎌ヶ谷のあたりは、信じられないほど緑がないのだが、ほんのちょこっと残っていた空き地に、シロツメクサ、ハルジョオン、ニゲラが咲いていた。

狭い公園にラヴェンダーが咲いていた。

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アカツメクサの葉の上の露が光ってきれいだった。

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ローカル電車に乗って船橋に戻る途中の駅で少し散策。

樹と一体になっている家を発見。このあたりは味のある古い建物がなく、つい最近建ったらしい同じような外見の建売住宅がびっしり並んでいるので、本当に珍しくこういう個性的な家が残っていると嬉しくなる。

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これも何の建物なのかわからない不思議な廃屋。

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中に螺旋階段が見える。

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石を投げ込まれたのか、何か所もガラスが割れていて、そこに内側から紙を貼ってある。

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雨の中を歩き疲れ、船橋の雑居ビルのはしっこのお寿司屋さんで食事。遠くの地方を旅していて、さびれた町でふらっとはいった店のような場末感が素晴らしいほっとするお店。

愛想のいい年配の女性の店員さんが親切で、まだ5時前だからとサラダとアサリの味噌汁とデザートをサービスしてくれた。お寿司は全品135円というリーズナブルさで、ウニやイタヤ貝の貝柱を食べた。おなかいっぱい食べてなま絞りグレープフルーツサワーを飲んでも1400円ほどだった。

帰宅してちゃびを抱いて体重を計ったら、計46.5kg。ちゃび3.7kg(増えてる~)私42.8kgだった。

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2010年8月27日 (金)

大野一雄頌 触れる、立ちのぼる、けだもののフラボン

8月26日

現代詩手帖9月号 「総力特集 大野一雄――詩魂、空に舞う。」が送られてくる。

この本に書く機会をくれた編集長亀岡さんに感謝。

大野一雄先生についての文章を書かせていただくにあたって、相当の身体負荷がかかった。眼から入って来て自分の全身を震撼させる不思議、そのものを書きたかった。不可能だとわかっていても、それに近づきたかった。あの時点で、あの字数制限の中では、自分としては燃え尽きました。

笠井叡、笠井久子夫妻のインタビューが読めてよかった。個的な体験からのリアリティある言葉だった。

笠井叡さんは、大野一雄先生ご自身が凄絶な戦争体験について語った(また、口を閉ざした)言葉について、ジョルジョ・アガンベンの本にふれている。強制収容所の証言について、それほどの体験をしたときにはもう沈黙せざるを得ない、ということ。私がものすごく感銘を受けたアガンベンの「アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人」という本である。

あまりにも重い体験をしたとき、人は言葉を失う。感覚や感情を言葉に置換できない。それは、個の体験であり、他とは共有不可能な、声にならない声にしかならない。逆に言えば、その記憶を反芻しようとしたら自分の身体を損傷するほどのたいへんな経験なしに、知識として持っている所詮他人事にすぎない凄惨さについては、人は技巧をつくした言葉をえんえんと語ることができる。

私は(今までの自分の経験として)そういう「場」にあって、余計なおしゃべりをする人に異常なほどストレスを感じる。

誰かの文章を読むとき、私は文字面の技巧にはまったく興味がなく、そのひとの身体だけに興味がある。そのひとが言葉以前に、どんな身体の状態の極みに触れたのか。どんな言語化不能な体験を、(それをのぞまなくても、暴力的に)受容したのか。そのひとの「眼」が本当はどんな世界を見たのか。

言葉でつくろえない段階を、私はやはり「眼」で見てしまう。他人の文章を読んでいても、「視覚」を通した身体でしか受容できない。

体験の重さ、身体の受容能力の強烈さは、隠しようもなく、言語に現れる(はずだ)、と思っている。

大野一雄先生の実際の介護日誌とヘルパーに入ったお弟子さんたちの言葉を読めたのはすばらしいことだと思う。これは、本当に価値がある、私にとって必要な言葉。

私にとって必要なのは、最先端の言語ツールを駆使した言葉ではなく、言葉ではとても捉えきれない身体。凄絶な体験をくぐりぬけて透き通って来た身体。

それは私自身の身体がいつも死と近いところにいるからであり、さらに近親者の死に近いところで介護の責任を負う身であるからである。

この理由において、外(言葉の外側にある個の身体、他者の身体)を持たない言葉、狭いジャンルの中でしか価値を持たないもの、装飾過剰、権力志向、偽倫理、目立ちたがり過剰、自分の作品についての自信過剰、売り込み過剰、つまらないおしゃべり過剰などに激しい嫌悪感を抱く身体になってしまった。(頭で諫めても身体が反応するのでコントロール不能。)

大野一雄先生は、私を根源的なところで、いつも泣かせてくれた。本当に大切なひとでした。

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2010年8月14日 (土)

大野一雄頌 /  夏草 

8月13日

「触れる、立ちのぼる、けだもののフラボン――大野一雄頌」のゲラの校正を送る。

夜NHK芸術劇場の大野一雄追悼番組を見て、がっくり。短い。てきとうすぎる。なんじゃこりゃ。ディヴィーヌだけでもじっくり見せてほしい。本当になんのためのNHKなのか。

8月12日

台風の影響で強風、雨模様。

母を東新宿のMに迎えに行く。戸山団地の周辺。秋にあんなにさがしても会えなかったトゲトゲの薊。大きな黒い首を垂れた向日葵。マンダリンオレンジ色の黄花コスモス。マゼンタの白粉花(夕化粧)。立ち枯れの薄茶のヒメムカシヨモギと同じ根から青々と伸びた今年のヒメムカシヨモギ。草色がセルリアンブルーと灰色に燃えている。七色の小さなビーズのようなヤブカラシの花。小雨の中、アブラゼミが必死で鳴いている。

白粉花(オシロイバナ)のなんともいえない淡い優しい香り。かよわい漏斗型の花に見える部分は、実際は萼らしい。白地に赤紫のまだらのものが特に好きだ。夏になったらこの花の匂いを嗅がずにはおれない。

空は灰鼠。暴風。地平線ぎりぎりの空が、白金と黄金と石灰色の幾重もの細い層にぎらっぎらっと燃えていた。

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2010年8月11日 (水)

大野一雄 池田淑人 / ロジェ・ジルベール=ルコント

8月10日

谷昌親さんにいただいた「ロジェ・ジルベール=ルコント 虚無へ誘う風」をやっと読み終えた。

1907-1944 彼が大野一雄先生よりも1年あとに生まれたと思うと不思議な感じである。

「わたしは書いたり描いたりする権利をけっして見者にしか認めはしないだろう。すなわち、完璧に、そして意識的に絶望していて、「啓示=革命」の名を受け取った者にしか、あらゆるものに反抗すべく訓練され、承諾とは無縁の人間、出口を探しても、人類という限界のなかには見出すべくもないと確実に知っている人間にしか。」

友人たちの言葉・・・「妥協なき純粋さを示す、明るく澄んだ青い眼をしていて、口は官能的で、すらりと鼻筋が通り、両性具有を思わせる細くなめらかな顔つきで、身体はひょろりとしていた」「自然にウェーヴがかかった髪をしていて、ロマン派的な外観がなんとも印象深い」「天才少年というロマン派的観念から思い浮かべる顔をしていたのは彼だけ」「謎めいた微笑」「並外れた話し方」「傍から見ていてもすばらしかった」

「才能にも容姿にも恵まれた天使のような存在」が「自分の誕生の手前」の世界に住み、麻薬で早世するまで。

ロジェ・ジルベール・ルコントが言った「全体」は、若林奮が言っていた「全体」のことだと思う。ロジェ・ジルベール・ルコントの「虚無」は、なにもない、なにも感じない空無とは違う。「全体」に達する可能性ということ。人間の閾を出るということ。

「芸術のための芸術」ではなく、「全体のための芸術」。「芸術は目的ではないし、目的にはなりえないが、それは芸術と呼べるものがただひとつしかないからだ。」

5年前に貸していた大野一雄先生の本を返してくれたJ(故郷に帰っている)から長い近況のメールが来た。当時学生で、173cm49kgの華奢で敏感で頭の回転の速い美少年だったが、強く元気に生きているようで嬉しかった。

8月9日

小雨模様。早起きして母を東新宿のMへ送る。帰りに新宿駅まで歩く途中、偶然「小泉八雲記念公園」と書かれた小さな門を発見。オリーヴの樹が植えられているくねっとした細い道を入ると、金色のマリーゴールドや薄紫と白のルリマツリが雑草とともに咲き乱れ、廃園の趣があった。その中に野良猫が3匹。ホームレスのおじさんが数名。まひるまの天気雨。

ジュンク堂で、「大野一雄 百年の舞踏」と「大野一雄 年代記 1906-2010」を買う。

チェロを抱いた池田淑人(叔父さん)の写真が載っていた。「中学時代に渡米。19年間アメリカを放浪し、詩作とチェロと絵画を学ぶ。帰国後は画業に専念。氏の存在は一雄に大きな影響を与えた」とある。その池田淑人さんの資料をいただいたことに胸がつまる。

8月8日

日曜美術館の宮崎進を見ていた。後半、霧島アートの森の紹介があり、森の中に点在する彫刻をさめた眼で見ていたら、いきなり若林奮先生の作品が出て来た。茶色く錆びた立方体が映った瞬間、録画ボタンを押したら、若林先生本人が出てきたので心臓がばくばくした。あの、なんともいえない、静かにくぐもったように響く声。あの深さ。

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2010年8月 6日 (金)

大野一雄頌――触れる、立ちのぼる、けだもののフラボン

8月6日「大野一雄頌――触れる、立ちのぼる、けだもののフラボン」を入稿。しばし、緊張を解きたくて、ひとり、ビールもどきで乾杯。

家の近くの金柑の花が、枯れたと思ったのにまた咲いている。柑橘系の花の淡く優しい香り。5月に花期をむかえたものは、もう2センチくらいの濃い緑の果実になっているのに、同じ枝の中に、今頃、遅れて花開いているものがあるのが不思議である。

ここ2週間ほど、大野一雄先生の、昔録画したVTRや、「稽古の言葉」や「舞踏譜」や「夜想」や、その他もろもろの大野一雄先生の言葉を読んでいた。

私の個展のときに、おみやげに持ってきてくださった画家のおじ様(お母様の兄弟)の個展の図録「池田淑人展」(1979新宿小田急グランドギャラリー)の図録や、大野一雄先生直筆メモのあるパンフレットや……。

もったいない。苦しい。

今さらながら胸がつまる。同じ時代に生きて、お会いできただけでも幸運なのだが、亡くなられたことが今だに受け入れ難く……。もう二度とあんな人には会えないのだという悲しみに心が塞がれる。

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2010年8月 3日 (火)

大野一雄

8月3日

このところずっと大野一雄先生の本を読んだり、昔録画したVTRをくり返し見たりしていた。

今まで大野一雄先生について、たくさんの人が書いている。私なりに何かを書くとしたらどうなるのか……私が大野一雄先生からいただいたものとは何か。私の眼の中に飛び込んできたものとは何か。私が書くのだから、当然「論」ではない。

きょう、ようやく、少し書けた。もちろん不十分ではあるが……書くことは、今まで私が何をしてきたのか、何を見てきたのか厳しく問われる場でもある。

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2010年8月 1日 (日)

毛利武彦  / 大野一雄追悼の会の山百合

7月31日

7月が終わろうとしている。7月17日に大野一雄先生の追悼の会で、いただいて帰った祭壇の上に活けてあった山百合。暑さに萎れてしまうのかと思ったが、毎日氷をやって水切りしたら、3日目に蕾がひとつ開いた。それから、毎日ひとつずつ開いた。夜中に蕾が割れて、明け方には花弁が反り返って大きく開花した。

一本混じっていた黄色のハイブリッドのほうが茎も太く、いただいて帰ったその夜からどんどん開花して元気だったのに、4日目くらいから散ってしまった。ところが山百合のほうは最初ぐったりしていたのに息が長く続いた。野生種だからなのだろうか。

私は山百合がすごく好きだ。花弁の黄色い帯とまだらがたまらない。花屋にある純白のカサブランカも美しいが、もっとも凄味のある美を殺してしまっている感じがする。

毎日、細部を記憶に留めながら写真を撮った。

いつ葯が開くのか、花冠が開くと柱頭はどう変化するのか。

暑さで、だんだん茎の力も無くなって、あえなく首から落ちてしまう蕾もあった。蕾の中の花糸は花が開くまでは波状に曲って、伸びるのを待っているのだった。

毎日、大野一雄先生の踊りの映像を見、大野一雄先生の書いた言葉を読んでいた。

あの日から2週間、そのあいだ13の花が開いた。(写真はクリックすると大きくなります)

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7月29日

5年くらい前に友人に貸した「夜想」の「暗黒舞踏特集」や土方巽の写真集が返ってきた。もうだいぶ時が経ってしまったし、友人も引っ越したので、すぐには返ってこないだろうと諦めていたのに、メールを送ってすぐに反応があった。

悲観的になって、催促すら躊躇ってしまい、メールできない日々が続いたのに、友人の方はちゃんとしていてくれた!それで、感激して、ちょっと鬱が晴れるような気分になった。

私よりずっと、整理整頓きちんとされている、いびつでない性格ということなのでしょうか……。

7月18日

毛利武彦先生の軌跡展(練馬区立美術館)に行く(3回目)。また新たな気持ちで師の作品を見た。そのとき、また新たな感覚で、発見したことを鉛筆でメモした。

毛利武彦先生と大野一雄先生の思い出。

あまりにも強烈に、私の身体に沁み込んだ感覚。

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2010年7月18日 (日)

大野一雄の会

7月17日

「ブラヴォー!大野一雄の会」。大野先生を思い、感謝を捧げる会。

6月にこの会のことを伺ってから、ずっと緊張しながらこの日を待っていた。この日、自分の身体がどういうふうになるのか、心配もあり……

3時すぎに家を出、5時前に着いた。水辺のホール。写真、ポスター、衣装の展示。今さらながら、衣装が奔放で妖艶で素晴らしい。今にも生きて踊り出しそうだ。

展示を見ているとき、まだ、大野一雄先生が亡くなったような気がしなかった。いつもの展示を見ているようだった。だから、懸念していたように、どうしようもなく悲しみにふさがれてしまうことはなかった。

献花のための鮮やかなガーベラを渡されて、祭壇の前に進む。

(右側席から見た祭壇)真ん中に山百合。手前に黄色の百合。紅色の百合。

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(左側席から見た祭壇) 祭壇の上のドレスは深い牡丹色のシフォンの上に海老茶色のシフォンを幾重にも重ねた鮮やかなスカート。(アルヘンチーナ頌の衣装)。

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献花をするとき、中央の写真を見て、少し心が動揺した。大野一雄先生は今どこにいるのだろうか? 

献花の時の花は、いつも、白は嫌だと思う。この日、渡されたのも、(白いのもあったのに)私のはマゼンタピンクの花だったから、ほっとして、渡してくれた人に感謝した。

そのあと、また会場を回っていろいろな展示や、弔電などを見ていた。(ちなみに、私の弔電も約30の展示弔電の中に選ばれました。)

笠井叡さんの奥様、久子さんと久しぶりにお会いでき、お話しできた。お元気そうで良かった。

6時近くなって、席に座り、緊張してきた。(6時から献杯があるのです。)左側の前の方の席に座っていたら、すぐ前に大野慶人さんが控えていらして、慶人さんの黒いスーツを見ると、胸が痛くなる感じがした。

6時になり、細江英公さんのお言葉「大野先生に向けて」があり、そのあと、慶人さんの舞踏(大野一雄先生の姿の指人形を踊らせる)があった。

1曲目はマヘリア・ジャクソンの「I blieve」。2曲目はプレスリーの「好きにならずにいられない」。(この歌は慶人さんのお兄さんが歌われた。)くしくも、私の個展のときに踊ってくださったのと同じ曲目であった。思いが溢れてきた。慶人さんの張りつめた真剣なまなざし。細かく震えながら命を躍動させる指人形。つーっと涙が流れた。終わった時、会場から、ブラボー!の声があがった。すごい拍手。

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アルヘンチーナ頌、第一部のデヴィーヌ(ジャン・ジュネの、糞尿の海にはまって死んだ老男娼)の衣装。

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大野一雄先生ご愛用の椅子。椅子の上に座椅子が乗っていた。

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日本伝統文化振興財団のディレクター(ポール・グリフィスの『ジョン・ケージの音楽』の翻訳者でもいらっしゃる)堀内宏公さんとも初めてお会いした。感じのよいかただった。

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会も、もう終わりに近づき、慶人さんと、スタッフのかたにご挨拶に行った。名前を言うと、スタッフのかたが、驚いたように、お渡しするものがあるので、ちょっと待っててください、と言われた。なんだろうと思って受付の方に行くと、『大野一雄 稽古の言葉』の本を出されて、ページをめくると、本扉の裏に大野一雄先生の私宛のサインがしてあった。

「これが見つかったので…」と言われて、もう耐えきれずに泣いてしまった。

1997年の本である。いつ書いてくださったのか。わからない。ありがたく、何か消えないもの、生命としてずっとつながっていかざるを得ないものを感じた。

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それから、慶人さんのところに、もう一度お礼に行った。「一雄先生は、長生きされたと思うんですけど、それでも、好きすぎて、まだ信じられません……慶人先生、どうか長生きしてください。本当にありがとうございました。」とやっと言って、恥ずかしいけれども、このときは我慢できずに嗚咽してしまい、慶人さんの肩に顔をうずめるような感じになってしまった。慶人さんは「ありがとう。ありがとう。」と噛みしめるような感じで言ってくださった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってしまった。

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泣いた顔の記念写真。アルヘンチーナ頌のポスターと。

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NYKホールの入口に咲いていた朱の鬼百合。祭壇の上に飾ってあった山百合をいただいて帰った。家に着いたらすぐに氷水に活けた。いつまでもずっと百合の香りが消えなかった。(写真は全てクリックすると大きくなります)

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2010年6月 7日 (月)

大野一雄 / 毛利武彦

6月7日

私の師、毛利武彦の軌跡展が、7月19日まで練馬区立美術館で開催されています。

休館日 月曜(ただし7月19日は開館) 観覧料無料http://www.city.nerima.tokyo.jp/manabu/bunka/museum/

約20点ということなので、少ないような気がしますが(もっと見たい)……体調の良い日に行こうと思う。

「狂気から知性が生まれるとしても不思議ではありません。しかし知性から狂気は生まれません。できたならば、狂気のなかに深く入り込んでいることを願っています。」

「他人ごとのように踊りを見るな。犠牲じゃなくて、何かをやってあげる。なんとかしてあげたい。だけどこれでは気持ちだけであって迫力がない。気が狂わんばかりの気持ちが踊りを決定的にする。」

「顔は微笑みを浮かべる。顔に微笑みが浮かぶ。しかし内部では猛り狂っている。そんななかで稽古ができたら、こんな幸いなことはない。この微笑みは悪鬼の形相だ。悪魔は決してすざまじい顔つきで登場しない。微笑みを浮かべながら登場するんだ。かつてみたこともないような美しさと、鉄のような硬質のものと、まったく反対のような相貌、姿を持っている。悪魔の傷跡は表面にはけっして現れないものだ。かさぶたが外側にこびりついていないで、中のほうにかさぶたがこびりついている。」――大野一雄 「稽古の言葉」

「コンクリートと抒情なんかは、分けて考えられるものではなくて、一つの世界の中にある。抒情は、大事にされないというか、一段低く見られる傾向があるけど、私は沢山の生死の中から命が成立するように、コンクリートの中に、あるいはそれと重なって、抒情もまた成立しているのだと思います。抒情とコンクリートに完全分離した中で、狂気としてそれらを冷静にたぎらせるのなら、話は別です。耐えられないほどの抒情にふれたいと思っています。死にたくなるほどの抒情を。死にたくなる。生きたくなる。泣きたくなる。遊びたくなる。」――大野一雄「舞踏譜」

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