毛利武彦

2023年3月13日 (月)

手術日決定 / 毛利武彦先生の絵、 新倉章子さん宅 / 遠藤さんと会う

新倉章子さんに私の恩師、毛利武彦先生の画集を買ったと言われてすごく嬉しくなって、久しぶりに先生の画集を開いて見ている。やはりこの深淵さはすごい。

『毛利武彦画集』(求龍堂)より 「花ー鎮魂」1986 188.0×285.0
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『毛利武彦画集』(求龍堂)より 「曲馬」1973 50M
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毛利先生は本当に厳しくて、愛情深くて、すべてにおいて際立っていて、先生に教わったことが私の一生の宝だ。

もうずいぶん昔、初めて国立がんセンターで甲状腺摘出の手術を受ける前日、同級生のTがお見舞いに来てくれて「毛利先生に電話しなさいよ。」と言ってくれた。

それで病院の公衆電話から電話して、先生の声を聞いたら、それまで平気だったのに急に泣いてしまった。

次の朝、私の頭頸科とは関係ない科の外科部長先生が病室に来て「〇〇科の外科部長の▽▽です!」と言われてびっくりしたが、

「慶応高校の毛利先生の教え子です!昨日、毛利先生から電話がかかってきて、励ましてやってくれって言われたから来ました。頑張って!元気出して!」と言われた。

とてもとてもありがたい思い出。

3月7日(火)

頭頸科でY本先生にPETの結果を聞いてから、呼吸器外科のY倉先生と面談。

手術の日について、年度末で人が入れ替わる時期なので不安定だが、やはり早い方がいいだろうということで24日、と言われる。

帰りに銀座の有楽町近くの花屋で紫とオペラ色のアネモネを買う。

帰宅したらY倉先生から電話があり、24日に確定しました、とのこと。「一緒にがんばりましょう!」と言われた。

3月9日(木)

遠藤さんと久しぶりに会う。一緒にお寿司を食べた。

12月に突然、左目が見えなくなり、失明すると言われ、いろんな病院に行ってたいへんだったとのこと。しかし何度か通って点滴を受けたら治ってきたという。眼底の動脈が詰まっていたとか。

手術の話をして、それから遠藤さんが高等小学校に入ったころの、戦争を話を聞いた。

遠藤さんは疎開をしていないので、空襲のリアルな話を。

それから私のふるさと、十二社(西新宿)に遠藤さんがお嫁に来た頃の新宿の様子を。新宿駅はまだ木の駅舎で、闇市がそこここに立ち、やくざが多かったそうだ。

遠藤さんは今年93歳だ。お互い腰が痛いのに、新しくできた阿佐ヶ谷区民センターに行ってみようということになり、結構な距離を歩いた。帰路は桃園川緑道を歩き、桃や早咲きの桜、沈丁花、雪柳などを見た。

3月10日(金)

水墨画家、新倉章子さんの中野のお宅の庭を見せていただきに行く。

スミレ、アネモネ、ムスカリ、アミガサユリ・・・さりげなく自然な感じで植えてあるのが素敵。

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春が来たんだなあ。もう梅は散って椿が満開。

ベンチに座ってお庭で摘んだミントのお茶をいただく。

病気の話、絵の話などいろいろ。

私の恩師、毛利武彦先生のことを拙著で知って興味を持ち、毛利先生の画集を購入されたと聞いて感激。

毛利武彦先生のことを「絵がすごい」「頭がいい」「いい先生」と言ってもらえるのは何より嬉しく誇らしい。

 

 

 

 

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2022年1月11日 (火)

毛利やすみさんと森久仁子さんのこと

2021年年末のことだが、記録しておこうと思う。

26日くらいに、森久仁子さん(春日井建さんの妹さんで、毛利武彦先生の従兄弟)からお電話があった。私の画集を受け取ったことについて。

森久仁子さんは、以前通り、とても快活で知的な話し方をされていたが、しかしコロナ禍になってしまってから2年、ほとんど外を歩いていない、と言われたことが心配だった。フェイスブックも、久仁子さんのほうから友人申請があったくらい、モバイルで積極的にやっていられたのに、今は機械が変わったらログインできなくなってしまったと。

久仁子さんに「やすみさんはお元気ですか」と尋ねると、「ええ、元気です。前みたいにものすごく元気って感じではないけど。」と。

そのあと、毛利やすみさん(恩師、毛利武彦先生の奥様)に年末、お電話した。以前ならやすみさんが出られたが、今回は、まず番号表示のアナウンスが流れ、そのあと彦丸さん(音楽家)が出られた。

やすみさんのお声は明るかったのでほっとした。私の画集を毛利先生の写真の横に飾ってくれていると。

「森久仁子さんにもお送りしました」と言うと、「ああ、久仁ちゃん!よかった!喜ぶと思うわ。久仁ちゃんは本当に本が大好きだもの。昔はふたりでしょっちゅう、いろんなところへ遊びに行って、歩き回ったの。」と。

春日井建さんのお話も出た。「建ちゃんはパーティーの時はいつも全身黒でびしっと決めててね。そういえばあなたもそうね。いつも黒ね。私が入っていくと、必ずねえさ~ん、て抱きしめてくれたの。」

「まさ子おばさま(春日井建さんのお母様)がお風呂で亡くなった時、毛利が何か抜けられない用事でお葬式に行けなったの。そしたら建ちゃんが、やすみねえさんだけでも来てほしいって言われて、新幹線に乗って行ったのね。そしたら『姉さん、姉さん』て泣いて私に寄り添ってくれて・・・。私が『まさこおばさまはオフィーリアになったのよ』って言ったら、『そうか。そうだね。姉さんありがとう』って。」

阿部弘一先生のことをお聞きしたら、うしお画廊での阿部先生と毛利先生の詩画集刊行パーティー(2019年6月10日)の時のことを鮮烈に覚えてらして、つい最近のことと思っておられるようだった。「阿部先生の息子さんも来られて、すごく元気よ。」と。

http://www.suiseisha.net/blog/?p=15714p

福山知佐子画集『花裂ける、廃絵逆めぐり』

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1月9日

画集に掲載した絵の購入申し込みをいただく(チューリップ、グドシュニクと、萎れたアネモネモナーク)。

ここ数日、スナウラ・テイラーの『荷を引く獣たち』(洛北出版)を読んでいるが、あいかわらず首と頭の付け根が痛くて、集中して読めない。

カラスウリ、アネモネ(ミスト)などのデッサン、水彩を描く。

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2019年6月12日 (水)

 「毛利武彦詩画集『冬の旅』出版記念展、阿部弘一先生朗読会

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/japanese-style-paintings-1-膠絵/

6月10日(月)大雨

チョビのことが心配だったが、病院に預けるのが(チョビが恐怖でおかしくなりそうなので)かわいそうで、結局、家にプフと2匹で置いたまま、銀座うしお画廊へ。

地下鉄の駅を出てから横殴りの強い雨で服も靴もびしょ濡れ。こんな天候の日に、無事来られるのだろうか、と阿部弘一先生のことがすごく心配になる。

画廊の入り口前で毛利先生の奥様のやすみさんとお嬢様とお会いする。奥様の体調も心配だったが、とてもお元気そうでよかった。

会場は多くの人で賑わっていた。

阿部弘一先生は雪のように頭が白くなってらしたが、背筋もすらっと伸びてお元気そう。笑顔が見られて感激。ご子息にご紹介くださった。

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毛利先生のスケッチ。銅版画のように黒くて端的な線と、その分量。本画を想定して思索的に描かれていることに注意して見ていた。

森久仁子さん(春日井建さんの妹で毛利先生の従妹さん)にも、久しぶりにお目にかかることができてありがたかった。陶芸をやっている息子さんと一緒だった。

16時から朗読会が始まる前、阿部先生と、毛利先生の奥様と、朗読する藤代三千代さんのほかは、ほとんど全員が床に座った。その時、「毛利先生の画集だから。」とおっしゃられて、自分も(ステージ用の椅子ではなく)床に座ろうとする阿部先生。

まず最初に阿部弘一先生から、毛利先生と初めて会った時のお話。戦争が終わってから、慶応高校が日吉にできて、そこで出逢ったそうだ。

毛利先生は生前、慶應高校に勤めて何よりも良かったことは阿部先生と出会えたこと、とよく言ってらした、と奥様から伺っている。

藤代三千代さんが何篇か朗読された後に、阿部弘一先生自らが朗読されるのを生でお聴きする、という素晴らしく貴重な経験をさせていただいた。

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肉声で阿部弘一先生の詩を聴くという初めての体験は、言葉が絵と音として強く胸に響いて来、予想を超えた新鮮な衝撃だった。

阿部先生の詩をもっとたくさんの人に知ってほしいと心から思った。

阿部弘一先生が、ご子息に私を紹介してくださるときに、『反絵』の本にふれて、私のことを「厳しい文章を書く人」と言ってくださったことが信じられないほどありがたかった。

「最近は本屋に行って詩の棚を見ても辛くなりますね。」と嘆いていらした。

「ポンジュって知ってる?僕の友人が訳してるんだけど。」と毛利先生がご自宅の本棚から一冊の詩の本を見せてくださったのは、私が大学を出て少しした頃。

父の借金に苦しめられていて、世の中のすべてが暗く厚い不透明な壁に閉ざされて息ひとつするのもひどく圧迫されて苦しく、ただひとつの光に必死にすがるように、敬愛する恩師の家を訪ねた日のことだ。

それから阿部先生の現代詩人賞授賞式に誘ってくださった時のことも素晴らしい想い出(そこでは息も止まりそうな大野一雄先生の舞踏(その出現)があった)。ずっと私は夢中で阿部先生の著書を読み、私の絵を見ていただいてきた。

私にとって阿部弘一先生は、毛利先生と同じく、昔からずっと畏れを感じる存在、とても緊張する相手で、気安く話ができるかたではない。

阿部先生のような方と出会えたことが信じがたい僥倖だ。

「次の本はもうすぐ出ますか?」と覚えていてくださることもすごいことだ。

阿部先生のご子息は水産関係の研究をしてらっしゃるそうで、私のことを「そうか!この人は一切肉食べないんだよ。だから魚のほうの研究はいいんだ!」と、先生が笑って言われたこと、「植物の名前を本当によく知ってるんだ。今度、庭の樹を見に来てもらわなきゃ。」と言ってくださったことも嬉しかった。

「草や樹がどんどん増えてなんだかわからなくなってる。誰かさんがどっかからとってきて植えるから。」とご子息も笑っていらした。

阿部先生は、前々から、大きくて重たい椿図鑑をくださるとおっしゃっている。とりあえず阿部先生のご自宅のお庭の、68種類もある椿の名札をつけるのに、その図鑑を見ながらやる必要がある。

毛利先生のお嬢様に、原やすお(昔のまんが家で、毛利先生の奥様のお父様)の大ファンだった話をしたら、とても驚いて喜んでくださった。

毛利先生の奥様のご実家に原やすおさんのたくさんの本や切り抜が保存してあって、お嬢様がもらうつもりでいたのに、亡くなった時に全部処分されていてショックを受けたそうだ。

上野にある国立国会図書館国際子ども図書館で、いくつかの作品を見ることができるとのこと。

阿部先生の新刊、詩集『葡萄樹の方法』を出された七月堂の知念さんともお話しできた。

http://www.shichigatsudo.co.jp/info.php?category=publication&id=budoujyunohouhou

記念撮影。阿部先生と毛利やすみさん。

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阿部弘一先生の向かって左にはべっているのが私。

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慶應高校の毛利先生の教え子のかたが持って来てくださったらしい当時の写真。

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1964年夏の毛利武彦先生。

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1962年、裏磐梯の毛利武彦先生。

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当時の阿部弘一先生。

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皆様お元気で、お目にかかれて本当に幸せでした。

 

 

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2016年5月26日 (木)

阿部弘一先生からの原稿 / 顔の湿疹

5月24日

詩人の阿部弘一先生より荷物が届く。たいへん大切なものだ。

阿部弘一詩集『測量師』、『風景論』などの原稿、それらの詩集の毛利武彦の表紙絵。

私の師である毛利武彦先生からの阿部弘一先生への長年にわたる書簡。

ていねいに分類して年代順にまとめて、それぞれを紙紐で結んであった。

これらは、拝読させていただいてから世田谷文学館に収めたいと思っている。

阿部先生に電話し、大切なお荷物を拝受したことを伝える。奥様の介護がたいへんなご様子だったが、とても久しぶりに阿部先生のお元気な声を聞けてほっとする。

阿部先生のお話によると、1948年に慶應義塾高等学校が発足したときから、毛利武彦先生は美術の教師を勤められ、その2、3年後に阿部先生は事務職として同校に勤められたそうだ。

もともと絵がお好きだった阿部先生は美術科の部屋を訪れ、毛利先生と親しくなられた。そして阿部弘一第一詩集『野火』を出されるときに毛利先生が装丁をしてくれることになったそうだ。

お二人とも学生だった時に戦争を体験され、戦争が終わった20歳代に知り合って、その後、一生親友となる。

阿部弘一の詩がもっと多くの人に読まれるように、願いをこめて書影をのせておきます。装幀、カバー絵はすべて毛利武彦。

阿部弘一第一詩集『野火』(1961年)奥付及び扉は「世代社」となっている。詩集『野火』の中身が刷り上がり、あとはカバーだけという時に、社名が「思潮社」に改称された。

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詩集『測量師』(1987年思潮社)。

この毛利先生の描いたたんぽぽの穂綿は、私の大好きな絵だ。

たんぽぽの穂綿を描いた絵は数多くあるが、さすがに毛利武彦は冠毛の描き方が非凡だと思う。もっとも不思議で、すべてをものがたる冠毛の形状と位置を選んで描かれている。
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詩集『風景論』(1996年思潮社)
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帯があるとわかりにくいが、左向きの馬の絵だ。遠くにも人を乗せて走る馬がいて、手前の馬のたてがみは嵐にたなびく草のようにも見える。

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この『風景論』で阿部弘一先生は第14回現代詩人賞を受賞された。

この授賞式に毛利先生ご夫妻に誘われて伺った私は、その会場で、間近に踊る大野一雄の「天道地道」を見て、魂を奪われた。

毛利やすみ先生から毛利武彦先生の書いた阿部弘一先生の受賞に寄せるお祝いの言葉の原稿を送っていただいているので、ここにのせておく。私は師毛利武彦の文字を見るたび、師の絵と同じ質の知性と美しさと力強さに圧倒されて胸が苦しくなってしまうのです。

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阿部弘一先生が翻訳された本にはフランシス・ポンジュ『物の見方』、『表現の炎』などがある。また思潮社の現代詩文庫『阿部弘一詩集』がある。

阿部先生と電話でお話しさせていただいてとても嬉しかったことは、『風景論』からあとの詩をまとめることについて、本にしたい、と確かにおっしゃったことだ。

「もし、まとめられたら。本にして知り合いに配りたいけど、みんな死んじゃったからなあ。ポンジュも亡くなったしね・・・。」とおっしゃられたが、未知の読者のために本をつくってほしい。「嶋岡晨はいるな。あいつは昔から暴れん坊だった。」とも。

阿部先生は、彫刻家毛利武士郎(私の師毛利武彦の兄弟)の図録や、巨大な椿図鑑も、「自分が持っていてもしかたないから、渡したい」と私におっしゃる。

椿図鑑は宮内庁がまとめたもので、宅急便では送れないほど巨大なのだそうだ。私などがいただいてよいのか自信がない。うちはすごく狭いので、貴重な大きな図鑑をきれいに見る大きな机もないし、大切に保管するスペースがないのだ。

私は椿の花が好きだが、椿図鑑に関しては、私より、その本にふさわしい人がどこかにいそうだ。

大切にしていたものを誰かに託したい、という気持ちを、私は私で、最近切実に感じることが多くなっている。

自分が持っているより、それを使って生き生きする人に、それを託したい、と思う気持ち。

私の持ち物(絵画作品や本)は、いったい誰がもらってくれるのだろう、と考えることがよくある。それを考えるとすごく苦しくなる。

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毎年、春になると苦しめられる顔の皮膚の乾燥と湿疹について。

昨晩、唇にプロペト(白色ワセリン)をべたべたに塗って寝たが、唇が痛いと同時に唇のまわりがかゆくて安眠できなかった。

朝、鏡を見たら口のまわりに真っ赤な痒い湿疹ができていた。

唇は皮が剥けて、縦皺がなくなるくらいパンパンに真っ赤に腫れあがり、唇の中にも爛れたような湿疹ができている。

プロペトとヒルドイドクリームを塗るがおさまらない。どんどんじくじくしてきて、爛れがひどくなってくる。

唇全体が傷のようになってしまい、痛くて口をすぼめたり広げたりすることができない。しゃべるのも食べるのも苦痛。口を動かさなくてもじんじんと痛い状態。

毎年、4月、5月になると皮膚が乾いてチクチク、ピリピリ痛み、特に唇が酷く乾燥して真っ赤に剥けてしまう。常に唇にべったりプロペトを塗っているのだが治らない。

きのうあたりから唇の荒れがますます酷く、歯磨き粉が口のまわりに沁みて涙が出るほど。味噌汁など塩分のあるものも沁みて飲めない。口にする何もかもが刺激物となり、皮膚が炎症を起こして爛れてしまったみたい。

紫外線にかぶれる体質なので5時30分頃を待ち、マスクをして皮膚科に行く。

タリオン(抗ヒスタミンH1拮抗薬)10mg朝夕

ビブラマイシン(抗生物質)100mg夕

ロコイド軟膏0.1パーセント

夕食はハンペンとパンケーキ、豆乳、ヨーグルトですませ、夜9時にタリオンとビブラマイシンを飲んだら、10時半には痛みと痒みが少しおさまってきた。

5月23日

31度。真夏のように暑い日。

このところ、ずっと顔が乾いて、特に唇が痛くてたまらない。

とにかく洗顔で顔をこするのをやめようと思い、2週間くらい日焼け止めも塗らないで夕方5時以降しか外に出ないようにしようと決めていた。

しかし今日は2時から書道の日だったので、紫外線吸収剤フリーの日焼け止めを塗って日傘を差して、1時半頃に出かけた。

その後、唇の痛みが酷くなり、まともに食事ができない。

夜中、寝ているあいだ、やたらに口のまわりがざらざらして痒い。寝ているあいだに顔を掻いてしまう。

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2015年12月24日 (木)

毛利武彦先生の原稿と阿部弘一先生の書簡 / 西新宿

12月23日

わが師、毛利武彦先生の奥様から、レターパックが送られて来た。

なんだろう、と封を開けてみて、衝撃に打たれた。

詩人の阿部弘一先生から毛利武彦先生に宛てた手紙の束と写真、そして毛利先生の直筆原稿。その原稿は、おそらく阿部先生が現代詩人賞を受賞された時のスピーチのためのもの。

今さらながら、師、毛利武彦の筆跡のものすごさに圧倒される。知的で美しいというような形容をはるかに超えて、師の「絵」そのものだ。

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そして阿部弘一先生が毛利先生に宛てた、二人で詩画集をつくる計画の内容、装丁の相談の手紙。

阿部弘一先生が、フランシス・ポンジュの墓を訪ねた時の、青い海を背にした白いお墓の前での青年の阿部先生の写真。

この原稿、書簡、写真は、阿部先生が持っていらしたフランシス・ポンジュからの書簡などを追いかけるかたちで、世田谷文学館に保管してもらう予定である。

12月18日

長髪で美貌の一級建築士Sが、崩壊しそうな福山家の床下を見に来てくれた。

Sは、70年代の、まだ華奢だったジュリーをさらに女性っぽく、睫毛を長くして、鼻筋は丸ペンで引いた線のようにすうっとまっすぐに細く描いた感じ。

きょうのジュリーは作業着ではない。私服(ダウンジャケットにジーンズ)で汚れる作業をしてだいじょうぶなのか、と心配になる。

畳を上げるためにまず箪笥を移動。その瞬間、箪笥の後ろの罅がはいっていた壁が崩落。ものすごい土埃に「ギャーッ!!」と驚く私。

「土台の板が崩れたわけじゃないからだいじょうぶですよ。車から掃除道具持ってきますから。」と、てきぱきと処理するジュリー。

畳を上げてみて、猛烈に黴の臭気が漂う中、「これはまずい。床がこっちまでくっついてる。」とジュリー。

床板が大きくてはずせなかったため、一部を四角く電動のこぎりで切ることになった。

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板を打ちつけてある釘も古くて錆びていて、バールで引き抜こうとしても釘の頭がもげてしまう。

たいへんな作業だったが、素手で淡々とこなしていくジュリー。やっと床板の一部分を外すことができ、黴と埃で恐ろしく汚い床の上に、惜しげもなく私服で寝転んで床下を覗くジュリー。

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こんな汚くてたいへんな作業をしてくれるのか、とありがたく思うと同時に、いったいこの古い家をどのように修理、改築するのがいいのか暗澹とする。

12月7日

昔、西新宿でご近所だったEさんと「砂場」で昼食。

昔の西新宿の話、知り合いの消息を聞く。Eさんの若い頃の話も。

Eさんに会うたび、ご高齢になっても、どうしてこんなに若くて元気で頭がしっかりしているのだろう、と感動する。

八ヶ岳に行って来たお土産だと、甘いお菓子に興味のない私のために、ちびきゅうりの塩麹漬けをくれた(これがめちゃくちゃおいしかった)。

Eさんと話していて、長く忘れていた西新宿(昔の十二社)の商店街の記憶が蘇って来て、何とも言えない気持ちになる。

黒い土の上に部品が置いてあった瓦屋さん、少年まんが週刊誌を読みたくて通った甘味屋さん、水っぽい焼きそばとかき氷を食べたおでんやさん、楳図かずおの「おろち」に夢中になった貸本屋さん、ミセキというお菓子屋さん、ヒロセという魚屋さん、エビハラというパン屋さん・・・。

暗渠の脇にくっついていた平べったい小さな家たち。

西新宿が開発されるとともに商店街も無くなり、小学校、中学校の時の友人は皆、遠くに引っ越してしまった。大通りから少し引っ込んだ坂の上の私の実家だけがボロボロになって残っている。

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2015年7月 3日 (金)

阿部弘一先生のお宅訪問 毛利武彦先生の画 

6月27日

朝、雨だった。午前中に家を出、阿部弘一先生のお宅へ。

阿部弘一先生は詩人で、ポンジュの『物の味方』(1965)、『表現の炎』(1982)、フランシス・ポンジュ詩選』(1982)なども訳された方だ。詩集は『野火』(1961)、『測量師』(1987)、『風景論』(1995)などがあり、現代詩文庫にもはいっている。

玄関で『あんちりおん3』への寄稿の御礼を申し上げた。

玄関には、阿部弘一先生のご親友であり、私の師である毛利武彦先生の版画がいっぱい飾ってある。阿部先生の詩集の装丁は、最初の詩集『野火』より以前の、同人誌『軌跡』の時から毛利武彦先生が画を描いている。

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上の画像の、壁の上段真ん中の絵が阿部弘一先生『測量師』のカバーの絵。

タンポポの穂綿を決して丸く描かず、種子が離れていく時のもっとも面白い瞬間を描いていることに、徹底して俗を嫌った毛利武彦らしさがある。

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毛利先生は非常に厳しい師であったが、多くの教え子に慕われていた。

阿部弘一先生はというと、今時どこにもいないほど敵意と拒絶の意志を持って文壇・詩壇との関わりを断った詩人であり、人の集まるような場所に出向くことはない。

私の個展はずっと見ていただいているが、こうして、やや強引にだがお宅を訪ねることによって、久しぶりにお目にかかれてたいへん嬉しかった。

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大正9年、阿部先生のお母様が教職についた頃に弾いていたという古い貴重なオルガン。このオルガンや、阿部先生のご両親についての文章、フランシス・ポンジュ訪問記などのエッセイは、同人誌『獏』に書かれ、現代詩文庫『阿部弘一詩集』(1998)に納められている。

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阿部先生が弾くと、抵抗感と温かみのある本当に大きな風の声のような荘厳な音が広がった。
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このオルガンは引き取ってくれる演奏者を探しているということだ。
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阿部弘一先生は椿がたいへんお好きで、椿の樹だけで70本もあるという古い庭を案内してくださった。

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椿の中では、やはり侘助が一番好きだと言われた。いくつかの椿の樹は紅を帯びた艶やかな実をつけていた。足もとには可憐なヒメヒオウギが咲いていた。

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美しい苔にまみれた梅の樹。「あなたは苔が好きなんだよね。」と笑って言われた。

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この日、たいへんなものをお預かりしてしまった。阿部弘一先生の詩集の装丁のために描かれた毛利武彦先生の画だ。

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上の画像は毛筆で書かれたあまりに美しい毛利武彦先生の文字。

下の画像は、使われなかった装丁案の画(黒い背景にヒメジョオンの花が白く描かれている)と、阿部弘一詩集『測量師」の中から、毛利武彦先生が抜き書きしたもの。

そこから 退いていった海

そこで氾濫しかえれなくなった河

砂になった水

そこにまだ到着していなかった 

人間の声          (「幻影」より)

では これが解なのか 

風よ 野を分けて行くものよ

だが 私たちにどうして

死と生と この涼しい風のひと吹き

の意味とを 識別することができる

だろう             (「夏」より)

            一昨年 ひめじおんの風播を試みて失敗してしまったのです

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『測量師』の中に幾度か「ヒメジョオン」ということばがでてくる。

阿部先生の未刊行詩編の中にも「ヒメジョオン」という詩がある。その「ヒメジョオン」という詩から少し抜き書きしてみる。

盲目の私たちのあかるすぎる視野いちめんに

おまえはそよぐ

おまえの無数の白い花でさえひろがりの果てで風にまぎれ

私たちの何も見えぬ視野をいっそう透き通らせて行く

それはかつて誰のまなざしの世界であったのだろう

夏の野に突然おまえを浮かび上がらせはるかな風を誘い出し

その広がりのままおまえから夏のおまえの野から不意に視覚をそむけてしまったのは

一体誰なのだろう そしておまえの野と向きあっている私たちのとは別の

もっと大きいどんな盲目にいまそのひとは耐えているのだろう どんな

内部の暗闇の星につらぬかれて深く視野の叫びを秘めているのだろう

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下の画像は『測量師』の別丁扉。

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下の画像は、その原画。

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下の2枚は、同じ別丁扉に使われなかった画。
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下の画像は、昭和31~32年頃、阿部弘一先生が28~29歳の時に、つくっていた文芸同人誌『軌跡』の表紙。

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下が毛利武彦先生の原画。よく見ると線の方向や人物らしき影の位置が違うので、下の画から、さらにヴァリエを制作して『軌跡』の表紙としたようだ。
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阿部弘一先生にたいへん貴重なものを預かったこと、私の心から尊敬する詩人がそれを私に託してくださったことはありがたいが、重い。

大切なものを保存、保管してくれるところがないこと、それを保管しても、誰が読み継いでいくのかということ。

私も、自分が何かを書いて、たいへんな思いをして本を作っても、誰が読んでくれるのだろうか、と常に考えている。絵を描いても、それを廃棄しなければならないかもしれないことを常に考える。

私の鬱の原因のほとんどが、この問題に起因する。

6月26日

アマゾンが本を2割引きで販売する話、大手出版取次業が倒産した話のニュース。

出版不況の閉塞感、絶望感に鬱々としてくる。

本当に読まれるべきもの、残すべきものが残せないで、一般に売れる本、つまり気晴らし的なものしか売れない世の中は恐ろしい。

6月25日

夕方、阿部弘一先生の家を訪ねたがお留守だった。

和田堀給水塔は、不思議な城のような、強烈に惹きつける古い建造物だ。一番古い部分は大正13年につくられたらしい。この敷地内にはいって自由に撮影できたらどんなにいいだろうと思ったが、残念なことに今は壊されているところで、柵の外からしか撮影できなかった。

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初めて降りたこの駅は不思議な場所だった。駅前に、ほんの少しだが戦後闇市のような小さな長屋のような食べ物屋が連なり、そのほかはこれと言った商店街はない。

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住宅街を歩く途中、ぽつんとある銭湯を見つけた。その壁にオロナミンCの錆びた看板が残っていた。

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下は裏から見たところ。
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小田急線の方へと歩いて行くと、先ほどの闇市とは対照的な、巨樹の影に瀟洒な建物が続く恐ろしいほど豪奢なお屋敷町となる。

木々は100年以上は生きていそうであり、「昔はあそこらへんは風のまた三郎が出て来そうなところでした。」と阿部弘一先生がおっしゃっていた。

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大きな熟れた実をつけた李の樹があったので撮っていたら、著名な批評家Hさんのお宅だった。

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2015年6月 7日 (日)

毛利やすみ展 森久仁子様、 春日井建

6月3日

師、毛利武彦の奥様、毛利やすみさんの絵を見に銀座の画廊へ。

銀座の中心あたり、大きなビルが無くなっていたせいで、昔はすっと目的地に行けたのに風景に違和感があって、不覚にも迷ってしまった。2時過ぎに着いたら、画廊はお客さんで混んでいた。

森久仁子様(早熟の天才歌人、春日井建の妹君で、毛利先生の従妹)にお声をかけていただく。久しぶりに対面、またお目にかかりたいとずっと願っていたので、運よくお会いできて感激する。

久仁子さんは、古いスケッチブックを持参されていて、毛利武彦先生が戦後すぐに描いたという幼い久仁子様の素描や、17歳のふくよかな少女の久仁子様を描いた素描など、たいへん貴重な絵を私に見せてくださった。

毛利武彦先生30歳の頃の、先生らしい力強く温かい太い鉛筆の線に感動した。

若い頃の春日井建さんと久仁子さんを建さんのご友人が描いた素描もあった。建さんが私が本で見たお顔とそっくりに描けていたのでびっくり。

森久仁子さんは、しゃべりかた、立居振舞が素敵で、それに文字も恐ろしく美しくて魅力的なかただ。少し話しただけでも、明るくて頭がよくて周りへの気遣いがスマートで、こんな人はなかなかいないと感じる。

さすが毛利先生の従妹で、春日井健さんの妹さん、と感動する。

春日井建は、利発で文学や芸術にも造詣の深い妹をどんなに愛したことだろう。

春日井建歌集には、幾度か毛利武彦先生の絵が装丁に使われている。

下は第七歌集『白雨』(1999年短歌研究社)。この装丁では毛利先生の絵の上に大きな文字と原画にはない斜線がかかっているのが私としては残念だ。

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カヴァーの絵は毛利武彦「ひとりの騎手」(1976年 40F)。

実際は微妙な色彩を含みながら石に刻んだような堅牢な空間を持つ抵抗感のある画だ。下の画像は『毛利武彦画集』(求龍堂)。

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「薄明のもののかたちが輪郭をとりくるまでの過程しづけし」

「日表の水の雲母(きらら)をおしわけて水禽の小さき胸はふくらむ」

「この春に夫を亡くせし妹と母をともなふ日照雨(そばへ)なす坂」

「つ、と翔びて、つ、つと尾羽を上下する鶺鴒を点景としての川の床」

「木漏れ日にみどりの水分(みくまり)渦なせり母は別れをいくつ見て来し」

「目とづれば乳の実あまた落ちつづく狂はずにをられざりし祖父かも」

「朔の月の繊きひかりが届けくる書けざるものなどなしといふ檄」

下は第八歌集『井泉』(2002年砂子屋書房)。春日井建の咽喉に腫瘍が見つかったときに作った歌が収めてある。

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カヴァーの絵は毛利武彦「公園の雪どけ」(1987年 50F)。

この絵ははっとするほど斬新な構図で、冬の公園の水の中に棲んでいる噴水の垂直の躍動と、それに対比して水面に水平に浮かぶ雪の静けさを描いている。下の画像は『毛利武彦画集』(求龍堂)。

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「エロス――その弟的なる肉感のいつまでも地上にわれをとどめよ」

「冬瓜の椀はこび来る妹よ患(や)みてうるさきこの兄のため」

「表情は怯えをらねど顫へたる膝を見たりき額のそとの膝」

「ひとりきなふたりきなみてきなよってきな 戻らぬ子供を呼ばふ唄とぞ」

「外敵より身を守るため天上に生くるといへり宿痾のごとし」

「細き枝を風に晒せる柳葉のさながら素描といふ感じして」

春日井建の歌は、言葉は強靭だが、非常にか弱いもの、脆弱なもの――植物、鳥、光などの微細な運動を見つめているところ、歳を重ねても少年らしい傷つきやすさが失われないところが、私の感覚を激しく揺さぶる。

・・・

たくさんいたお客さんが一段落したところで毛利やすみさんと記念撮影。お元気でおかわりなくて嬉しい。

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この「神無月」という毛利やすみさんの絵は、非常に黙想的で素晴らしかった。赤いアネモネ一輪とワレモコウと葡萄と鳩笛がテーブルの上にあり、月夜の闇に溶け込んでいるのだが、すべてが追悼の祈りに捧げられているように見える。

青い色は空間が透明になりすぎて使うのが難しいのだが、やすみさんは青を使ってもそこに何ものかが充満して漂う空間を描くことができるのがすごいと思う。

私はなかなか着る機会のないアンティークの刺繍のブラウスに、自作のスズランのコサージュを着けて行った。実は画廊にはいる直前の雨に打たれて、真っ白いブラウスにコサージュの緑色が溶け出して移染してしまったので、黒い上着を脱ぐことができなかった。(そのアンティークブラウスは、帰宅してすぐ色がついた箇所を漂白剤につけたらきれいになりました。)

やすみさんにも「トイレの棚に置いてください」とシロツメクサのコサージュを持参した。布花のコサージュ、とてもお好きだそうで、帽子につけてくださったので良かった。

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2014年6月 3日 (火)

毛利武彦の世界 第3回追悼・回顧展「都市風景」 成川美術館 / 富山のチューリップ 

6月1日

師毛利武彦の展覧会を観に箱根へ。

朝10時40分のロマンスカーで箱根湯本へ。6月なのに真夏のように暑い日。私は自律神経失調で体温調節がうまくできず、さらに紫外線アレルギーで顔に湿疹ができたことが幾度もあるので、すでにしんどい。

湯本からバスで真昼間、仙石原高原に着くが、陽射しがきつすぎてススキ野原まで歩けない。せめて川のせせらぎを感じに、近くの橋のたもとまで歩くが、暑くて頭が痛くなり、しかたなく宿で涼んでいた。

夕方6時20分頃、ようやく外に出る。すっかり涼しくなった人気のない道を歩き、楽しみにしていた仙石原のススキ野原へ。まず道の右側に仙石原湿原があらわれる。


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その道をはさんで向かい側になだらかな丘の仙石原のススキ野原。

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走って登っている写真が気に入ったのでモノクロにしてみた。

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右手に湿原、左手にススキ野原の丘が続く道。

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仙石原湿原植物群の碑。
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湿原の囲いの木の柵が素敵だった。

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夕飯はビュッフェ形式。揚げ茄子がおいしすぎて何回もおかわりした。あと写真にはないが小アジの干物がさすが本場のおいしさだった。
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6月2日

11時にチェックアウトしてバスで芦ノ湖畔の桃源台まで出る。湖の岸辺を散歩していたら、すごくおっとりしたかわいい猫ちゃんと出会う。

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めちゃくちゃかわいい~。
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貸しボート屋さんの猫だったらしい。すぐそばに昼寝しているもう一匹のかわいいキジ猫ちゃんが。

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芦ノ湖の貸しボート屋さんのボートと遠くに見える海賊船。

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桃源台から12時5分発の芦ノ湖スカイラインバスで箱根町へと向かう。840円で絶景が楽しめるスカイラインバスは一日に片道4本しかなく、今まで乗れる機会がなかったのだが、今回初めて体験できた。標高1000mの尾根を行くので車内に涼しい風が入ってきて爽快感抜群。

残念ながら三国峠の絶景ポイントでは薄曇りのため、富士山がはっきり見えなかったが、肉眼では画像右上の雲の下に富士山の姿を確認できた。

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箱根町に着いてから、日盛りを避けて、旧箱根街道杉並木へ。1618年に幕命によって植えられたと言われる樹齢400年の杉たち。
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山の上から水が落ちてくる場所。
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下に向けて曲がって伸びた不思議な杉の枝。

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杉並木を抜けたところにあるお土産屋さんのかわいい二匹のわんこと。

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成川美術館の入り口の手前にある古い身代わり地蔵尊。
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ついに目的の箱根成川美術館に到着。毛利武彦の世界 第3回追悼・回顧展「都市風景」。

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個人的に今回の都会風景の中で、特に感動したのは、「公園の雪どけ」(下の画像のパンフレット左ページ右上)と「知られぬ風景」だった。

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「公園の雪どけ」は、噴水の根本だけを描いて、華やかに破裂する噴水の上部は雪が浮かぶ水の中に写った像であること、この創意はやはりすごいと思う。銀箔を幾重にも貼った垂直に躍動する水の表現に見入ってしまった。

「知られぬ風景」(下の画像の右上)は、毛利先生には珍しく日輪の表現に色泊を使っている。その日輪の周りの艶消しの粒子の細かい絵の具の表現、ほぼ左右対称にして、日輪のアクセントと黒緑青の並木のつくる三角形の微妙なバランス、淡い金と黒緑青と白の響きがすごいと思った。

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最も不思議だったのは今回のパンフレットには載っていないが「屋上風景」だった。鉄塔に舟型の乗り物が四つ、チェーンでぶら下がっていて回転するデパートの屋上にあるような遊具が描かれている。

しかし、それは屋上の遊具ではなく、船が浮かんでいる港の風景なのかもしれない。たまたま鉄塔が手前にあって幻想的な想像を掻き立てる情景になっているのかもしれない。

それが都会の屋上の遊具を描いた絵なのか、港を描いた絵なのかは、見る者の見方にまかせられる。

成川美術館を出て、バス停でバスを待つ間、すぐ隣に「賽の河原」があることを発見。昔、この地は地蔵信仰の霊地で、たくさんの石仏、石塔が湖畔に並んでいたそうだ。こんなふうにまとめられてしまっているのが悲しい。

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6月なのにまだ咲いている春女苑と石仏。

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バスで箱根湯本まで出、湯本富士屋ホテルで遅い昼食をとり、川沿いにある早雲山の林を探索してみた。日差しが強い中、ここは鬱蒼としているが藪蚊が多かった。

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木漏れ日の斑模様。

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早川にアオサギが来ていた。

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5時前のロマンスカーで新宿に戻った。通路を挟んで対象位置の席に座っているかっこいいカップルが話している言葉がドイツ語に聞こえて、懐かしさを覚えた。男性の膝に頭を乗せて眠っている短パンで長いなま脚をさらしている女性が、とてもナチュラルで美しい人だったので見とれてしまった。

・・・・・・

5月31日(木)

ネットで私のチューリップの絵を見つけてくださった富山県花卉球根組合のFさんから連絡をいただく。

チューリップを心から愛し、実際にチューリップを栽培しているかたから連絡をいただくなんて、本当に嬉しい。

富山県花卉球根農業組合のHPはこちらから。

http://www.tba.or.jp/

5月30日(金)

母に会いに行く。きょうは前回とは対照的に、わりとはっきりしていた。無事夕飯を完食させた後、前回食べさせられなかった桃のゼリーといつもの極(きわみ)プリンを食べさせた。

国産桃ゼリーの桃がとてもシャキシャキとして硬かったので、お皿にあけて、スプーンで極小さく切断するのがたいへんだった。

髪の毛もきれいにショートに切ってもらっていた。とにかく、前回のようにぐったりしていなかったので本当に良かった。

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2013年9月18日 (水)

腫瘍マーカー / 阿佐ヶ谷 / 『反絵、触れる、けだもののフラボン』 絵画 

9月22日

4月に桜の写真を撮ったのが最後で、ずっと怖くて行けなかった阿佐ヶ谷住宅のほうまで歩く。

ガラスを抜かれた抜け殻の団地がいくつかあったが、ほとんど何も無くなっていた。

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暗渠の狭い道をたどって帰る。忍冬の茂みに、また狂い咲きの花を見つけた。

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きょうのちゃび。

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9月20日

鎌ヶ谷の病院に定期健診に行く。船橋まで地下鉄東西線とJRを乗り継いで行くと450円、JRだけで行くより170円も安いことを知る。船橋からは東武野田線という非常にローカルな路線に乗る。

「元気でしたか?しばらく会わないと元気にしてるかな・・・と思って。」とA先生に言われて嬉しい。最初の主治医、A先生に一生ついていくために、2時間近くかけて鎌ヶ谷まで来ている。

6月に採った血液とレントゲンの結果を聞き、腫瘍マーカーの値が、今までで初めて上がった、と言われて驚く。今までは300くらいだったのに、今回、急に836。

一瞬、動揺したが、A先生は、「レントゲンの画像は以前と変わっていない、もしもほかに転移したとしたら、最初からあったレントゲン画像の影も増えているはずだから、病院がかわったから、検査方法に誤差が出たんじゃないかと思います。」と言った。触診の感じもかわっていない、ということで、とりあえず、きょう再び3本採血することになる。

採血室に行くと、ベテランぽい優しい看護師さんで、すごく丁寧だった。M.Hさん。お名前を覚えた。

「すごくかわいいわんちゃんね~。」と言われて「ありがとうございます。」と笑った。私の大好きなGeorge.E.S.Studdy(1878‐1948)のBonzoという犬のキャラクターのTシャツを着ていたのだ。こんな犬です↓(これは9月23日に阿佐ヶ谷の「赤いトマト」で撮った写真。)

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George.E.S.Studdyは、Louis Wain(1860 - 1939)と同じくらい本当に絵がうまい人で(ちなみに二人とも、今読んでいるベルグソン1859-1941と同時代人だ・・・)、同じくらい強烈に私が好きな絵描きで、イギリスのアンティーク市がきっかけで、かれこれ18年くらいBonzoの古いグッズを集めている。古いAnnual Book、ヴィンテージの絵葉書、塩胡椒入れなどなど。このTシャツは、最近、日本で出たもの。

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歩道の銀杏の実が、もう黄土色に熟して落ちている。葉はまだ青々としているのに。

9月19日

午後3時、母の今いる施設に新宿区の施設の相談員Hさんが面談に来る。

真の満月が見られる中秋の名月ということで、夜、7時半くらいから川沿いのグラウンドまで歩いた。私のカメラでは月にピントが合わなかった。

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川の上にさーっと大きな流れ星が落ちるのを見た。よく見ると、この写真にも、向日葵の左下に小さな流れ星が写っているようだ。

どこを歩いても紅と薄クリーム色の彼岸花が満開だった。夕闇の中に白粉花の匂いがしていた。いろいろと狂い咲きの花が増えているが、彼岸花だけは毎年正確に咲いている。

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9月18日

すーっと透き通るような秋晴れの日。

我が師、 毛利武彦先生の奥様、やすみ先生から遅い残暑見舞いのお返事、やすみ先生の創画展出品作の絵葉書2枚(枯れた紫陽花のと、闇夜のアネモネの)にびっしりお便りを書いてくださったものを郵便受けに発見して感激した。

私の書いた本『反絵、触れる、けだもののフラボン』をいつも机の上に置いて夜中に何度も読み返してくださっているとのこと。やすみ先生と私とは摘む花が共通していること。

私が書いた毛利先生に関しての文章を読むと、毛利先生が私に向けて語ったことがやすみ先生にも伝わってきて、泣きながら絵を描いた、と書いてあった。

それから、もっと、ブログには書けないありがたいお言葉も・・・・。

変な言い方かもしれないが、自分が書いた文章が、自分で思っているよりも、誰かに伝わっているのかもしれない、と思う瞬間、本当に不思議な気がして、えっっ?!と驚いてしまう。

それは、読んでくれた誰かが私に感想を伝えてくれたり、誰かが感想を書いてくれたのを私が偶然発見したりする瞬間に起きる驚異だが、基本的に私は悲観的で、自分の言葉が誰かに伝わるとはあまり思えないのだ。

毛利先生の奥様が、私の書いた毛利先生に関する文章を大切に読んでくださっていると思うと、苦労して本を出したかいがあったと思われ、ものすごく嬉しいが、同時に信じられなくて、畏れと恐縮で身体が縮み上がるような気がする。

3日ほど前に、読書メーターに『反絵、・・・』の感想を書いてくださった人が何人かいるとのメールをいただき、それを見てびっくりしたばかりだった。まったく見知らぬ人に、感想をいただける不思議、それは私にとってたいへんうれしいことです。

私は絵も文章も、しばらく時間が過ぎて、自分がそれをつくったことを忘れたころにならないと、自分で自分を評価することができない。誰でもそうかもしれないが、私は特に自分のつくったものを不安に思う傾向が強い。

すごく緊張や不安が強いと言うことは、絵でも文章でも、それを終える瞬間が見極められないということでもある。

18才で美大に入った時は、絵を描くことが苦痛でたまらなかった。

価値評価のわからない不分明な世界に入ったのだ。

絵を描いているとき、自由だなんてとても思えなかった。苦痛で、恥ずかしくてたまらない絵をほめてくれたのは、毛利先生と、早くに亡くなったA先生・・・・。今思うと、あの時ほめられなければ絵をやめていた。自分では自分の絵がいいと思えなかったんだから。

9月17日

台風18号が去って陽が射した。

2日ほど前、近所の金柑の花が、今年5回目の満開になっていた。その樹についたアゲハ蝶の蛹が、嵐で落ちていないか心配だったのだが、無事だったのでほっとした。幼虫も元気でいた。お願いだから無事に羽化してほしい。

小さい頃、アゲハを卵から育ててかえすのに夢中になって、緑色の幼虫がかわいくて鼻のあたまにのせたりしていた(「気持ち悪~い」とか言う女子には心底頭にきたのを覚えている)。

9月15日

台風18号。

いくつかの古い映画のDVDを観る。

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2012年12月13日 (木)

毛利武彦 第二回追悼・回顧展 「天地幻生」 /  母の転倒、大腿部骨折

12月11日

毛利武彦の世界 第二回追悼回顧展「天地幻生」成川美術館の初日を明日に控え、箱根へ。

LIBIDO “all my hope is gone”(曲は成田未宇の最高傑作。成田未宇は肺がんで若くして亡くなったそうです。)の風景を体験しに大涌谷でロープウェイを降り、遊歩道へ。

http://www.youtube.com/watch?v=y1QkXtdcQ70 (2分過ぎたくらいからここの風景です)

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大涌谷は1000mより高く、冷たい空気に耳が痛い。硫黄の煙で目と喉がひりひりする。

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12月12日

朝9時半ごろ強羅を発つ。10時過ぎに芦ノ湖畔の成川美術館へ。(美術館窓からの風景)

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毛利先生の奥様とお会いできる。(お目にかかりたいために朝早く行ったのだが。)

「たんぽぽ」(銅版画)・・・ たんぽぽの枯れた小花(しょうか)がまだ頭についたまま、丸く開ききる寸前の綿毛(冠毛)。冠毛が飛翔するまえに、ほかの冠毛に引っかかって、まだ離れずにいる瞬間。

画面下には葉を、正面の硬い形象ではなく、ぎざぎざのひとつひとつに動きのある曲線の表情を見、ななめ横から見たしなる柔らかいフリルのように細い線の輪郭のみで描いた。

この、ありふれた蒲公英(たんんぽぽ)の花の、誰もが見過ごしてしまうもっとも微妙で「詩」のある仕草を選んで描き、たった二輪の花(冠毛)とあっさりとした曲線で葉をそえて「絵」にする鋭い感覚こそが、師 毛利武彦そのものである。

「孔雀」(銅版画)・・・わたしががんで闘病したときに送ってくださった作品と同じものの試し刷り(プロベドルック)。

「幽谷」・・・幽谷とは人跡未踏の奥深い谷のことであるが、この谷は幻滝でありながら凄絶なリアリティを持って存在し、儚と確たる造形、未知なるもの、わからないものでありながら、個人の記憶に深く訴える。

幻想画であるといったときに問われるものは、内的なものの境地であり、その幻想の造形の質である。単に個人の見る幻が強烈な幻想として他者をも引き込むことは稀である。重要なのはどれほど「人間」的な決まり事を離れた「なにか」であるかということ。

甲斐駒ケ岳の裏の精進の滝にモチーフに得たと書いてあるが、石灰質のような水と白い垂直の滝、黒い岩、さらにジグザグに流れる水の躍動、それらは具象としての解釈以前に直線と曲線、落下するものとそれに拮抗するもの、破砕するもの、流動するものなどの組み合わさった抑揚を持つ硬質な造形であり、風景ではなくあらゆるものに変容する。

具象としての滝が変容するのが龍である必然はない。

師 毛利武彦は滝を好んで描いたが、ホルスト・ヤンセンの滝の絵と、滝の絵のタイトルではないが彼の「スヴァンスハル逆めぐり」という版画連作のタイトルを思い浮かべていた。

具象から心象へ、ある解釈(意味)から違う視角(意味)へ。また幻想から実在へと逆めぐりするリアリティ。そこにあるのは「行き来する」あるいは「同時に見る」「眼」である。

「桜春秋屏風」・・・桜を描く人は多いが、秋の紅葉の桜を描く人は少ない。

何よりも桜の枝の隙間にのぞく黒い水とも黒い空気とも言えない妖しい空間が、毛利武彦の桜だと思う。

枝振りも、よくある類型的な花鳥画の桜とはまったく異なる。ある力学を持ち、しなり、うねり、空間を突き破る。春と秋の桜屏風は黒く腐蝕した銀の穴(水)で異空間を繋がる。

「春暁」・・・黙思的な鳩。ぬくもりを持つ肌色の空間に白い花の樹。花序が毬のようになっていること、莟に赤味がないことから、この花は梨だと思われる。

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母が転倒して大腿部骨折したとの連絡を受け、旅行から自宅に戻らずそのまま新宿のH病院へ。5時半過ぎに着く。

夜勤担当の看護師の対応が非常に事務的で冷たかったので、不安になる。きょうは怪我についての説明を聞けないとのこと。

帰宅してから身体が弱った者の全身麻酔のリスク(気管閉塞による死亡)について調べ、非常に不安にかられる。

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