毛利武彦

2016年5月26日 (木)

阿部弘一先生からの原稿 / 顔の湿疹

5月24日

詩人の阿部弘一先生より荷物が届く。たいへん大切なものだ。

阿部弘一詩集『測量師』、『風景論』などの原稿、それらの詩集の毛利武彦の表紙絵。

私の師である毛利武彦先生からの阿部弘一先生への長年にわたる書簡。

ていねいに分類して年代順にまとめて、それぞれを紙紐で結んであった。

これらは、拝読させていただいてから世田谷文学館に収めたいと思っている。

阿部先生に電話し、大切なお荷物を拝受したことを伝える。奥様の介護がたいへんなご様子だったが、とても久しぶりに阿部先生のお元気な声を聞けてほっとする。

阿部先生のお話によると、1948年に慶應義塾高等学校が発足したときから、毛利武彦先生は美術の教師を勤められ、その2、3年後に阿部先生は事務職として同校に勤められたそうだ。

もともと絵がお好きだった阿部先生は美術科の部屋を訪れ、毛利先生と親しくなられた。そして阿部弘一第一詩集『野火』を出されるときに毛利先生が装丁をしてくれることになったそうだ。

お二人とも学生だった時に戦争を体験され、戦争が終わった20歳代に知り合って、その後、一生親友となる。

阿部弘一の詩がもっと多くの人に読まれるように、願いをこめて書影をのせておきます。装幀、カバー絵はすべて毛利武彦。

阿部弘一第一詩集『野火』(1961年)奥付及び扉は「世代社」となっている。詩集『野火』の中身が刷り上がり、あとはカバーだけという時に、社名が「思潮社」に改称された。

Sdsc08866

詩集『測量師』(1987年思潮社)。

この毛利先生の描いたたんぽぽの穂綿は、私の大好きな絵だ。

たんぽぽの穂綿を描いた絵は数多くあるが、さすがに毛利武彦は冠毛の描き方が非凡だと思う。もっとも不思議で、すべてをものがたる冠毛の形状と位置を選んで描かれている。
Sdsc08867

詩集『風景論』(1996年思潮社)
Sdsc08868

帯があるとわかりにくいが、左向きの馬の絵だ。遠くにも人を乗せて走る馬がいて、手前の馬のたてがみは嵐にたなびく草のようにも見える。

Sdsc08870

この『風景論』で阿部弘一先生は第14回現代詩人賞を受賞された。

この授賞式に毛利先生ご夫妻に誘われて伺った私は、その会場で、間近に踊る大野一雄の「天道地道」を見て、魂を奪われた。

毛利やすみ先生から毛利武彦先生の書いた阿部弘一先生の受賞に寄せるお祝いの言葉の原稿を送っていただいているので、ここにのせておく。私は師毛利武彦の文字を見るたび、師の絵と同じ質の知性と美しさと力強さに圧倒されて胸が苦しくなってしまうのです。

Sdsc08877


Sdsc08879

Sdsc08875

Sdsc08876

阿部弘一先生が翻訳された本にはフランシス・ポンジュ『物の見方』、『表現の炎』などがある。また思潮社の現代詩文庫『阿部弘一詩集』がある。

阿部先生と電話でお話しさせていただいてとても嬉しかったことは、『風景論』からあとの詩をまとめることについて、本にしたい、と確かにおっしゃったことだ。

「もし、まとめられたら。本にして知り合いに配りたいけど、みんな死んじゃったからなあ。ポンジュも亡くなったしね・・・。」とおっしゃられたが、未知の読者のために本をつくってほしい。「嶋岡晨はいるな。あいつは昔から暴れん坊だった。」とも。

阿部先生は、彫刻家毛利武士郎(私の師毛利武彦の兄弟)の図録や、巨大な椿図鑑も、「自分が持っていてもしかたないから、渡したい」と私におっしゃる。

椿図鑑は宮内庁がまとめたもので、宅急便では送れないほど巨大なのだそうだ。私などがいただいてよいのか自信がない。うちはすごく狭いので、貴重な大きな図鑑をきれいに見る大きな机もないし、大切に保管するスペースがないのだ。

私は椿の花が好きだが、椿図鑑に関しては、私より、その本にふさわしい人がどこかにいそうだ。

大切にしていたものを誰かに託したい、という気持ちを、私は私で、最近切実に感じることが多くなっている。

自分が持っているより、それを使って生き生きする人に、それを託したい、と思う気持ち。

私の持ち物(絵画作品や本)は、いったい誰がもらってくれるのだろう、と考えることがよくある。それを考えるとすごく苦しくなる。

・・・・・・・・・・・・・・・・

毎年、春になると苦しめられる顔の皮膚の乾燥と湿疹について。

昨晩、唇にプロペト(白色ワセリン)をべたべたに塗って寝たが、唇が痛いと同時に唇のまわりがかゆくて安眠できなかった。

朝、鏡を見たら口のまわりに真っ赤な痒い湿疹ができていた。

唇は皮が剥けて、縦皺がなくなるくらいパンパンに真っ赤に腫れあがり、唇の中にも爛れたような湿疹ができている。

プロペトとヒルドイドクリームを塗るがおさまらない。どんどんじくじくしてきて、爛れがひどくなってくる。

唇全体が傷のようになってしまい、痛くて口をすぼめたり広げたりすることができない。しゃべるのも食べるのも苦痛。口を動かさなくてもじんじんと痛い状態。

毎年、4月、5月になると皮膚が乾いてチクチク、ピリピリ痛み、特に唇が酷く乾燥して真っ赤に剥けてしまう。常に唇にべったりプロペトを塗っているのだが治らない。

きのうあたりから唇の荒れがますます酷く、歯磨き粉が口のまわりに沁みて涙が出るほど。味噌汁など塩分のあるものも沁みて飲めない。口にする何もかもが刺激物となり、皮膚が炎症を起こして爛れてしまったみたい。

紫外線にかぶれる体質なので5時30分頃を待ち、マスクをして皮膚科に行く。

タリオン(抗ヒスタミンH1拮抗薬)10mg朝夕

ビブラマイシン(抗生物質)100mg夕

ロコイド軟膏0.1パーセント

夕食はハンペンとパンケーキ、豆乳、ヨーグルトですませ、夜9時にタリオンとビブラマイシンを飲んだら、10時半には痛みと痒みが少しおさまってきた。

5月23日

31度。真夏のように暑い日。

このところ、ずっと顔が乾いて、特に唇が痛くてたまらない。

とにかく洗顔で顔をこするのをやめようと思い、2週間くらい日焼け止めも塗らないで夕方5時以降しか外に出ないようにしようと決めていた。

しかし今日は2時から書道の日だったので、紫外線吸収剤フリーの日焼け止めを塗って日傘を差して、1時半頃に出かけた。

その後、唇の痛みが酷くなり、まともに食事ができない。

夜中、寝ているあいだ、やたらに口のまわりがざらざらして痒い。寝ているあいだに顔を掻いてしまう。

|

2015年12月24日 (木)

毛利武彦先生の原稿と阿部弘一先生の書簡 / 西新宿

12月23日

わが師、毛利武彦先生の奥様から、レターパックが送られて来た。

なんだろう、と封を開けてみて、衝撃に打たれた。

詩人の阿部弘一先生から毛利武彦先生に宛てた手紙の束と写真、そして毛利先生の直筆原稿。その原稿は、おそらく阿部先生が現代詩人賞を受賞された時のスピーチのためのもの。

今さらながら、師、毛利武彦の筆跡のものすごさに圧倒される。知的で美しいというような形容をはるかに超えて、師の「絵」そのものだ。

Sdsc07674

Sdsc07677

そして阿部弘一先生が毛利先生に宛てた、二人で詩画集をつくる計画の内容、装丁の相談の手紙。

阿部弘一先生が、フランシス・ポンジュの墓を訪ねた時の、青い海を背にした白いお墓の前での青年の阿部先生の写真。

この原稿、書簡、写真は、阿部先生が持っていらしたフランシス・ポンジュからの書簡などを追いかけるかたちで、世田谷文学館に保管してもらう予定である。

12月18日

長髪で美貌の一級建築士Sが、崩壊しそうな福山家の床下を見に来てくれた。

Sは、70年代の、まだ華奢だったジュリーをさらに女性っぽく、睫毛を長くして、鼻筋は丸ペンで引いた線のようにすうっとまっすぐに細く描いた感じ。

きょうのジュリーは作業着ではない。私服(ダウンジャケットにジーンズ)で汚れる作業をしてだいじょうぶなのか、と心配になる。

畳を上げるためにまず箪笥を移動。その瞬間、箪笥の後ろの罅がはいっていた壁が崩落。ものすごい土埃に「ギャーッ!!」と驚く私。

「土台の板が崩れたわけじゃないからだいじょうぶですよ。車から掃除道具持ってきますから。」と、てきぱきと処理するジュリー。

畳を上げてみて、猛烈に黴の臭気が漂う中、「これはまずい。床がこっちまでくっついてる。」とジュリー。

床板が大きくてはずせなかったため、一部を四角く電動のこぎりで切ることになった。

Sdsc07643

板を打ちつけてある釘も古くて錆びていて、バールで引き抜こうとしても釘の頭がもげてしまう。

たいへんな作業だったが、素手で淡々とこなしていくジュリー。やっと床板の一部分を外すことができ、黴と埃で恐ろしく汚い床の上に、惜しげもなく私服で寝転んで床下を覗くジュリー。

Sdsc07644

こんな汚くてたいへんな作業をしてくれるのか、とありがたく思うと同時に、いったいこの古い家をどのように修理、改築するのがいいのか暗澹とする。

12月7日

昔、西新宿でご近所だったEさんと「砂場」で昼食。

昔の西新宿の話、知り合いの消息を聞く。Eさんの若い頃の話も。

Eさんに会うたび、ご高齢になっても、どうしてこんなに若くて元気で頭がしっかりしているのだろう、と感動する。

八ヶ岳に行って来たお土産だと、甘いお菓子に興味のない私のために、ちびきゅうりの塩麹漬けをくれた(これがめちゃくちゃおいしかった)。

Eさんと話していて、長く忘れていた西新宿(昔の十二社)の商店街の記憶が蘇って来て、何とも言えない気持ちになる。

黒い土の上に部品が置いてあった瓦屋さん、少年まんが週刊誌を読みたくて通った甘味屋さん、水っぽい焼きそばとかき氷を食べたおでんやさん、楳図かずおの「おろち」に夢中になった貸本屋さん、ミセキというお菓子屋さん、ヒロセという魚屋さん、エビハラというパン屋さん・・・。

暗渠の脇にくっついていた平べったい小さな家たち。

西新宿が開発されるとともに商店街も無くなり、小学校、中学校の時の友人は皆、遠くに引っ越してしまった。大通りから少し引っ込んだ坂の上の私の実家だけがボロボロになって残っている。

|

2015年7月 3日 (金)

阿部弘一先生のお宅訪問 毛利武彦先生の画 

6月27日

朝、雨だった。午前中に家を出、阿部弘一先生のお宅へ。

阿部弘一先生は詩人で、ポンジュの『物の味方』(1965)、『表現の炎』(1982)、フランシス・ポンジュ詩選』(1982)なども訳された方だ。詩集は『野火』(1961)、『測量師』(1987)、『風景論』(1995)などがあり、現代詩文庫にもはいっている。

玄関で『あんちりおん3』への寄稿の御礼を申し上げた。

玄関には、阿部弘一先生のご親友であり、私の師である毛利武彦先生の版画がいっぱい飾ってある。阿部先生の詩集の装丁は、最初の詩集『野火』より以前の、同人誌『軌跡』の時から毛利武彦先生が画を描いている。

Sdsc06171_2
上の画像の、壁の上段真ん中の絵が阿部弘一先生『測量師』のカバーの絵。

タンポポの穂綿を決して丸く描かず、種子が離れていく時のもっとも面白い瞬間を描いていることに、徹底して俗を嫌った毛利武彦らしさがある。

Sdsc06291

毛利先生は非常に厳しい師であったが、多くの教え子に慕われていた。

阿部弘一先生はというと、今時どこにもいないほど敵意と拒絶の意志を持って文壇・詩壇との関わりを断った詩人であり、人の集まるような場所に出向くことはない。

私の個展はずっと見ていただいているが、こうして、やや強引にだがお宅を訪ねることによって、久しぶりにお目にかかれてたいへん嬉しかった。

Sdsc06180
大正9年、阿部先生のお母様が教職についた頃に弾いていたという古い貴重なオルガン。このオルガンや、阿部先生のご両親についての文章、フランシス・ポンジュ訪問記などのエッセイは、同人誌『獏』に書かれ、現代詩文庫『阿部弘一詩集』(1998)に納められている。

Sdsc06181

阿部先生が弾くと、抵抗感と温かみのある本当に大きな風の声のような荘厳な音が広がった。
Sdsc06183

このオルガンは引き取ってくれる演奏者を探しているということだ。
Sdsc06186
阿部弘一先生は椿がたいへんお好きで、椿の樹だけで70本もあるという古い庭を案内してくださった。

Sdsc06189

椿の中では、やはり侘助が一番好きだと言われた。いくつかの椿の樹は紅を帯びた艶やかな実をつけていた。足もとには可憐なヒメヒオウギが咲いていた。

Sdsc06190

美しい苔にまみれた梅の樹。「あなたは苔が好きなんだよね。」と笑って言われた。

Sdsc06192

この日、たいへんなものをお預かりしてしまった。阿部弘一先生の詩集の装丁のために描かれた毛利武彦先生の画だ。

Sdsc06223
上の画像は毛筆で書かれたあまりに美しい毛利武彦先生の文字。

下の画像は、使われなかった装丁案の画(黒い背景にヒメジョオンの花が白く描かれている)と、阿部弘一詩集『測量師」の中から、毛利武彦先生が抜き書きしたもの。

そこから 退いていった海

そこで氾濫しかえれなくなった河

砂になった水

そこにまだ到着していなかった 

人間の声          (「幻影」より)

では これが解なのか 

風よ 野を分けて行くものよ

だが 私たちにどうして

死と生と この涼しい風のひと吹き

の意味とを 識別することができる

だろう             (「夏」より)

            一昨年 ひめじおんの風播を試みて失敗してしまったのです

Sdsc06226

『測量師』の中に幾度か「ヒメジョオン」ということばがでてくる。

阿部先生の未刊行詩編の中にも「ヒメジョオン」という詩がある。その「ヒメジョオン」という詩から少し抜き書きしてみる。

盲目の私たちのあかるすぎる視野いちめんに

おまえはそよぐ

おまえの無数の白い花でさえひろがりの果てで風にまぎれ

私たちの何も見えぬ視野をいっそう透き通らせて行く

それはかつて誰のまなざしの世界であったのだろう

夏の野に突然おまえを浮かび上がらせはるかな風を誘い出し

その広がりのままおまえから夏のおまえの野から不意に視覚をそむけてしまったのは

一体誰なのだろう そしておまえの野と向きあっている私たちのとは別の

もっと大きいどんな盲目にいまそのひとは耐えているのだろう どんな

内部の暗闇の星につらぬかれて深く視野の叫びを秘めているのだろう

Sdsc06230

下の画像は『測量師』の別丁扉。

Sdsc06293
下の画像は、その原画。

Sdsc06232

下の2枚は、同じ別丁扉に使われなかった画。
Sdsc06233


Sdsc06234
下の画像は、昭和31~32年頃、阿部弘一先生が28~29歳の時に、つくっていた文芸同人誌『軌跡』の表紙。

Sdsc06243

下が毛利武彦先生の原画。よく見ると線の方向や人物らしき影の位置が違うので、下の画から、さらにヴァリエを制作して『軌跡』の表紙としたようだ。
Sdsc06242

阿部弘一先生にたいへん貴重なものを預かったこと、私の心から尊敬する詩人がそれを私に託してくださったことはありがたいが、重い。

大切なものを保存、保管してくれるところがないこと、それを保管しても、誰が読み継いでいくのかということ。

私も、自分が何かを書いて、たいへんな思いをして本を作っても、誰が読んでくれるのだろうか、と常に考えている。絵を描いても、それを廃棄しなければならないかもしれないことを常に考える。

私の鬱の原因のほとんどが、この問題に起因する。

6月26日

アマゾンが本を2割引きで販売する話、大手出版取次業が倒産した話のニュース。

出版不況の閉塞感、絶望感に鬱々としてくる。

本当に読まれるべきもの、残すべきものが残せないで、一般に売れる本、つまり気晴らし的なものしか売れない世の中は恐ろしい。

6月25日

夕方、阿部弘一先生の家を訪ねたがお留守だった。

和田堀給水塔は、不思議な城のような、強烈に惹きつける古い建造物だ。一番古い部分は大正13年につくられたらしい。この敷地内にはいって自由に撮影できたらどんなにいいだろうと思ったが、残念なことに今は壊されているところで、柵の外からしか撮影できなかった。

Sdsc06156


Sdsc06157


Sdsc06158



Sdsc06207


Sdsc06209


Sdsc06219

初めて降りたこの駅は不思議な場所だった。駅前に、ほんの少しだが戦後闇市のような小さな長屋のような食べ物屋が連なり、そのほかはこれと言った商店街はない。

Sdsc06155

住宅街を歩く途中、ぽつんとある銭湯を見つけた。その壁にオロナミンCの錆びた看板が残っていた。

Sdsc06151

下は裏から見たところ。
Sdsc06152
小田急線の方へと歩いて行くと、先ほどの闇市とは対照的な、巨樹の影に瀟洒な建物が続く恐ろしいほど豪奢なお屋敷町となる。

木々は100年以上は生きていそうであり、「昔はあそこらへんは風のまた三郎が出て来そうなところでした。」と阿部弘一先生がおっしゃっていた。

Sdsc06195

Sdsc06197

大きな熟れた実をつけた李の樹があったので撮っていたら、著名な批評家Hさんのお宅だった。

Sdsc06204

|

2015年6月 7日 (日)

毛利やすみ展 森久仁子様、 春日井建

6月3日

師、毛利武彦の奥様、毛利やすみさんの絵を見に銀座の画廊へ。

銀座の中心あたり、大きなビルが無くなっていたせいで、昔はすっと目的地に行けたのに風景に違和感があって、不覚にも迷ってしまった。2時過ぎに着いたら、画廊はお客さんで混んでいた。

森久仁子様(早熟の天才歌人、春日井建の妹君で、毛利先生の従妹)にお声をかけていただく。久しぶりに対面、またお目にかかりたいとずっと願っていたので、運よくお会いできて感激する。

久仁子さんは、古いスケッチブックを持参されていて、毛利武彦先生が戦後すぐに描いたという幼い久仁子様の素描や、17歳のふくよかな少女の久仁子様を描いた素描など、たいへん貴重な絵を私に見せてくださった。

毛利武彦先生30歳の頃の、先生らしい力強く温かい太い鉛筆の線に感動した。

若い頃の春日井建さんと久仁子さんを建さんのご友人が描いた素描もあった。建さんが私が本で見たお顔とそっくりに描けていたのでびっくり。

森久仁子さんは、しゃべりかた、立居振舞が素敵で、それに文字も恐ろしく美しくて魅力的なかただ。少し話しただけでも、明るくて頭がよくて周りへの気遣いがスマートで、こんな人はなかなかいないと感じる。

さすが毛利先生の従妹で、春日井健さんの妹さん、と感動する。

春日井建は、利発で文学や芸術にも造詣の深い妹をどんなに愛したことだろう。

春日井建歌集には、幾度か毛利武彦先生の絵が装丁に使われている。

下は第七歌集『白雨』(1999年短歌研究社)。この装丁では毛利先生の絵の上に大きな文字と原画にはない斜線がかかっているのが私としては残念だ。

Sssdsc05988

カヴァーの絵は毛利武彦「ひとりの騎手」(1976年 40F)。

実際は微妙な色彩を含みながら石に刻んだような堅牢な空間を持つ抵抗感のある画だ。下の画像は『毛利武彦画集』(求龍堂)。

Sdsc05989
「薄明のもののかたちが輪郭をとりくるまでの過程しづけし」

「日表の水の雲母(きらら)をおしわけて水禽の小さき胸はふくらむ」

「この春に夫を亡くせし妹と母をともなふ日照雨(そばへ)なす坂」

「つ、と翔びて、つ、つと尾羽を上下する鶺鴒を点景としての川の床」

「木漏れ日にみどりの水分(みくまり)渦なせり母は別れをいくつ見て来し」

「目とづれば乳の実あまた落ちつづく狂はずにをられざりし祖父かも」

「朔の月の繊きひかりが届けくる書けざるものなどなしといふ檄」

下は第八歌集『井泉』(2002年砂子屋書房)。春日井建の咽喉に腫瘍が見つかったときに作った歌が収めてある。

Sdsc06039

カヴァーの絵は毛利武彦「公園の雪どけ」(1987年 50F)。

この絵ははっとするほど斬新な構図で、冬の公園の水の中に棲んでいる噴水の垂直の躍動と、それに対比して水面に水平に浮かぶ雪の静けさを描いている。下の画像は『毛利武彦画集』(求龍堂)。

Sdsc05990

「エロス――その弟的なる肉感のいつまでも地上にわれをとどめよ」

「冬瓜の椀はこび来る妹よ患(や)みてうるさきこの兄のため」

「表情は怯えをらねど顫へたる膝を見たりき額のそとの膝」

「ひとりきなふたりきなみてきなよってきな 戻らぬ子供を呼ばふ唄とぞ」

「外敵より身を守るため天上に生くるといへり宿痾のごとし」

「細き枝を風に晒せる柳葉のさながら素描といふ感じして」

春日井建の歌は、言葉は強靭だが、非常にか弱いもの、脆弱なもの――植物、鳥、光などの微細な運動を見つめているところ、歳を重ねても少年らしい傷つきやすさが失われないところが、私の感覚を激しく揺さぶる。

・・・

たくさんいたお客さんが一段落したところで毛利やすみさんと記念撮影。お元気でおかわりなくて嬉しい。

Sdsc05979

Sdsc05982

この「神無月」という毛利やすみさんの絵は、非常に黙想的で素晴らしかった。赤いアネモネ一輪とワレモコウと葡萄と鳩笛がテーブルの上にあり、月夜の闇に溶け込んでいるのだが、すべてが追悼の祈りに捧げられているように見える。

青い色は空間が透明になりすぎて使うのが難しいのだが、やすみさんは青を使ってもそこに何ものかが充満して漂う空間を描くことができるのがすごいと思う。

私はなかなか着る機会のないアンティークの刺繍のブラウスに、自作のスズランのコサージュを着けて行った。実は画廊にはいる直前の雨に打たれて、真っ白いブラウスにコサージュの緑色が溶け出して移染してしまったので、黒い上着を脱ぐことができなかった。(そのアンティークブラウスは、帰宅してすぐ色がついた箇所を漂白剤につけたらきれいになりました。)

やすみさんにも「トイレの棚に置いてください」とシロツメクサのコサージュを持参した。布花のコサージュ、とてもお好きだそうで、帽子につけてくださったので良かった。

|

2014年6月 3日 (火)

毛利武彦の世界 第3回追悼・回顧展「都市風景」 成川美術館 / 富山のチューリップ 

6月1日

師毛利武彦の展覧会を観に箱根へ。

朝10時40分のロマンスカーで箱根湯本へ。6月なのに真夏のように暑い日。私は自律神経失調で体温調節がうまくできず、さらに紫外線アレルギーで顔に湿疹ができたことが幾度もあるので、すでにしんどい。

湯本からバスで真昼間、仙石原高原に着くが、陽射しがきつすぎてススキ野原まで歩けない。せめて川のせせらぎを感じに、近くの橋のたもとまで歩くが、暑くて頭が痛くなり、しかたなく宿で涼んでいた。

夕方6時20分頃、ようやく外に出る。すっかり涼しくなった人気のない道を歩き、楽しみにしていた仙石原のススキ野原へ。まず道の右側に仙石原湿原があらわれる。


Sdsc03390

その道をはさんで向かい側になだらかな丘の仙石原のススキ野原。

Sdsc03403

走って登っている写真が気に入ったのでモノクロにしてみた。

Sdsc03395

右手に湿原、左手にススキ野原の丘が続く道。

Sdsc03414

仙石原湿原植物群の碑。
Sdsc03413

湿原の囲いの木の柵が素敵だった。

Sdsc03417

Sdsc03418

夕飯はビュッフェ形式。揚げ茄子がおいしすぎて何回もおかわりした。あと写真にはないが小アジの干物がさすが本場のおいしさだった。
Sdsc03419

6月2日

11時にチェックアウトしてバスで芦ノ湖畔の桃源台まで出る。湖の岸辺を散歩していたら、すごくおっとりしたかわいい猫ちゃんと出会う。

Sdsc03424

めちゃくちゃかわいい~。
Sdsc03429

貸しボート屋さんの猫だったらしい。すぐそばに昼寝しているもう一匹のかわいいキジ猫ちゃんが。

Sdsc03432

芦ノ湖の貸しボート屋さんのボートと遠くに見える海賊船。

Sdsc03433

桃源台から12時5分発の芦ノ湖スカイラインバスで箱根町へと向かう。840円で絶景が楽しめるスカイラインバスは一日に片道4本しかなく、今まで乗れる機会がなかったのだが、今回初めて体験できた。標高1000mの尾根を行くので車内に涼しい風が入ってきて爽快感抜群。

残念ながら三国峠の絶景ポイントでは薄曇りのため、富士山がはっきり見えなかったが、肉眼では画像右上の雲の下に富士山の姿を確認できた。

Sdsc03435

箱根町に着いてから、日盛りを避けて、旧箱根街道杉並木へ。1618年に幕命によって植えられたと言われる樹齢400年の杉たち。
Sdsc03443

山の上から水が落ちてくる場所。
Sdsc03447

下に向けて曲がって伸びた不思議な杉の枝。

Sdsc03455

杉並木を抜けたところにあるお土産屋さんのかわいい二匹のわんこと。

Ssdsc03461
成川美術館の入り口の手前にある古い身代わり地蔵尊。
Sdsc03467

ついに目的の箱根成川美術館に到着。毛利武彦の世界 第3回追悼・回顧展「都市風景」。

Sdsc03494

個人的に今回の都会風景の中で、特に感動したのは、「公園の雪どけ」(下の画像のパンフレット左ページ右上)と「知られぬ風景」だった。

Sdsc03499_2


Sdsc03501

「公園の雪どけ」は、噴水の根本だけを描いて、華やかに破裂する噴水の上部は雪が浮かぶ水の中に写った像であること、この創意はやはりすごいと思う。銀箔を幾重にも貼った垂直に躍動する水の表現に見入ってしまった。

「知られぬ風景」(下の画像の右上)は、毛利先生には珍しく日輪の表現に色泊を使っている。その日輪の周りの艶消しの粒子の細かい絵の具の表現、ほぼ左右対称にして、日輪のアクセントと黒緑青の並木のつくる三角形の微妙なバランス、淡い金と黒緑青と白の響きがすごいと思った。

Sdsc03504

最も不思議だったのは今回のパンフレットには載っていないが「屋上風景」だった。鉄塔に舟型の乗り物が四つ、チェーンでぶら下がっていて回転するデパートの屋上にあるような遊具が描かれている。

しかし、それは屋上の遊具ではなく、船が浮かんでいる港の風景なのかもしれない。たまたま鉄塔が手前にあって幻想的な想像を掻き立てる情景になっているのかもしれない。

それが都会の屋上の遊具を描いた絵なのか、港を描いた絵なのかは、見る者の見方にまかせられる。

成川美術館を出て、バス停でバスを待つ間、すぐ隣に「賽の河原」があることを発見。昔、この地は地蔵信仰の霊地で、たくさんの石仏、石塔が湖畔に並んでいたそうだ。こんなふうにまとめられてしまっているのが悲しい。

Sdsc03469

6月なのにまだ咲いている春女苑と石仏。

Sdsc03470

バスで箱根湯本まで出、湯本富士屋ホテルで遅い昼食をとり、川沿いにある早雲山の林を探索してみた。日差しが強い中、ここは鬱蒼としているが藪蚊が多かった。

Sdsc03481

木漏れ日の斑模様。

Sdsc03485

早川にアオサギが来ていた。

Sdsc03492

5時前のロマンスカーで新宿に戻った。通路を挟んで対象位置の席に座っているかっこいいカップルが話している言葉がドイツ語に聞こえて、懐かしさを覚えた。男性の膝に頭を乗せて眠っている短パンで長いなま脚をさらしている女性が、とてもナチュラルで美しい人だったので見とれてしまった。

・・・・・・

5月31日(木)

ネットで私のチューリップの絵を見つけてくださった富山県花卉球根組合のFさんから連絡をいただく。

チューリップを心から愛し、実際にチューリップを栽培しているかたから連絡をいただくなんて、本当に嬉しい。

富山県花卉球根農業組合のHPはこちらから。

http://www.tba.or.jp/

5月30日(金)

母に会いに行く。きょうは前回とは対照的に、わりとはっきりしていた。無事夕飯を完食させた後、前回食べさせられなかった桃のゼリーといつもの極(きわみ)プリンを食べさせた。

国産桃ゼリーの桃がとてもシャキシャキとして硬かったので、お皿にあけて、スプーンで極小さく切断するのがたいへんだった。

髪の毛もきれいにショートに切ってもらっていた。とにかく、前回のようにぐったりしていなかったので本当に良かった。

|

2013年9月18日 (水)

腫瘍マーカー / 阿佐ヶ谷 / 『反絵、触れる、けだもののフラボン』 絵画 

9月22日

4月に桜の写真を撮ったのが最後で、ずっと怖くて行けなかった阿佐ヶ谷住宅のほうまで歩く。

ガラスを抜かれた抜け殻の団地がいくつかあったが、ほとんど何も無くなっていた。

Sdsc01937

暗渠の狭い道をたどって帰る。忍冬の茂みに、また狂い咲きの花を見つけた。

Sdsc01947

きょうのちゃび。

Sdsc01927


Sdsc01929

9月20日

鎌ヶ谷の病院に定期健診に行く。船橋まで地下鉄東西線とJRを乗り継いで行くと450円、JRだけで行くより170円も安いことを知る。船橋からは東武野田線という非常にローカルな路線に乗る。

「元気でしたか?しばらく会わないと元気にしてるかな・・・と思って。」とA先生に言われて嬉しい。最初の主治医、A先生に一生ついていくために、2時間近くかけて鎌ヶ谷まで来ている。

6月に採った血液とレントゲンの結果を聞き、腫瘍マーカーの値が、今までで初めて上がった、と言われて驚く。今までは300くらいだったのに、今回、急に836。

一瞬、動揺したが、A先生は、「レントゲンの画像は以前と変わっていない、もしもほかに転移したとしたら、最初からあったレントゲン画像の影も増えているはずだから、病院がかわったから、検査方法に誤差が出たんじゃないかと思います。」と言った。触診の感じもかわっていない、ということで、とりあえず、きょう再び3本採血することになる。

採血室に行くと、ベテランぽい優しい看護師さんで、すごく丁寧だった。M.Hさん。お名前を覚えた。

「すごくかわいいわんちゃんね~。」と言われて「ありがとうございます。」と笑った。私の大好きなGeorge.E.S.Studdy(1878‐1948)のBonzoという犬のキャラクターのTシャツを着ていたのだ。こんな犬です↓(これは9月23日に阿佐ヶ谷の「赤いトマト」で撮った写真。)

Sdsc01942

George.E.S.Studdyは、Louis Wain(1860 - 1939)と同じくらい本当に絵がうまい人で(ちなみに二人とも、今読んでいるベルグソン1859-1941と同時代人だ・・・)、同じくらい強烈に私が好きな絵描きで、イギリスのアンティーク市がきっかけで、かれこれ18年くらいBonzoの古いグッズを集めている。古いAnnual Book、ヴィンテージの絵葉書、塩胡椒入れなどなど。このTシャツは、最近、日本で出たもの。

Sdsc01934

歩道の銀杏の実が、もう黄土色に熟して落ちている。葉はまだ青々としているのに。

9月19日

午後3時、母の今いる施設に新宿区の施設の相談員Hさんが面談に来る。

真の満月が見られる中秋の名月ということで、夜、7時半くらいから川沿いのグラウンドまで歩いた。私のカメラでは月にピントが合わなかった。

Sdsc01920

川の上にさーっと大きな流れ星が落ちるのを見た。よく見ると、この写真にも、向日葵の左下に小さな流れ星が写っているようだ。

どこを歩いても紅と薄クリーム色の彼岸花が満開だった。夕闇の中に白粉花の匂いがしていた。いろいろと狂い咲きの花が増えているが、彼岸花だけは毎年正確に咲いている。

Sdsc01924

9月18日

すーっと透き通るような秋晴れの日。

我が師、 毛利武彦先生の奥様、やすみ先生から遅い残暑見舞いのお返事、やすみ先生の創画展出品作の絵葉書2枚(枯れた紫陽花のと、闇夜のアネモネの)にびっしりお便りを書いてくださったものを郵便受けに発見して感激した。

私の書いた本『反絵、触れる、けだもののフラボン』をいつも机の上に置いて夜中に何度も読み返してくださっているとのこと。やすみ先生と私とは摘む花が共通していること。

私が書いた毛利先生に関しての文章を読むと、毛利先生が私に向けて語ったことがやすみ先生にも伝わってきて、泣きながら絵を描いた、と書いてあった。

それから、もっと、ブログには書けないありがたいお言葉も・・・・。

変な言い方かもしれないが、自分が書いた文章が、自分で思っているよりも、誰かに伝わっているのかもしれない、と思う瞬間、本当に不思議な気がして、えっっ?!と驚いてしまう。

それは、読んでくれた誰かが私に感想を伝えてくれたり、誰かが感想を書いてくれたのを私が偶然発見したりする瞬間に起きる驚異だが、基本的に私は悲観的で、自分の言葉が誰かに伝わるとはあまり思えないのだ。

毛利先生の奥様が、私の書いた毛利先生に関する文章を大切に読んでくださっていると思うと、苦労して本を出したかいがあったと思われ、ものすごく嬉しいが、同時に信じられなくて、畏れと恐縮で身体が縮み上がるような気がする。

3日ほど前に、読書メーターに『反絵、・・・』の感想を書いてくださった人が何人かいるとのメールをいただき、それを見てびっくりしたばかりだった。まったく見知らぬ人に、感想をいただける不思議、それは私にとってたいへんうれしいことです。

私は絵も文章も、しばらく時間が過ぎて、自分がそれをつくったことを忘れたころにならないと、自分で自分を評価することができない。誰でもそうかもしれないが、私は特に自分のつくったものを不安に思う傾向が強い。

すごく緊張や不安が強いと言うことは、絵でも文章でも、それを終える瞬間が見極められないということでもある。

18才で美大に入った時は、絵を描くことが苦痛でたまらなかった。

価値評価のわからない不分明な世界に入ったのだ。

絵を描いているとき、自由だなんてとても思えなかった。苦痛で、恥ずかしくてたまらない絵をほめてくれたのは、毛利先生と、早くに亡くなったA先生・・・・。今思うと、あの時ほめられなければ絵をやめていた。自分では自分の絵がいいと思えなかったんだから。

9月17日

台風18号が去って陽が射した。

2日ほど前、近所の金柑の花が、今年5回目の満開になっていた。その樹についたアゲハ蝶の蛹が、嵐で落ちていないか心配だったのだが、無事だったのでほっとした。幼虫も元気でいた。お願いだから無事に羽化してほしい。

小さい頃、アゲハを卵から育ててかえすのに夢中になって、緑色の幼虫がかわいくて鼻のあたまにのせたりしていた(「気持ち悪~い」とか言う女子には心底頭にきたのを覚えている)。

9月15日

台風18号。

いくつかの古い映画のDVDを観る。

|

2012年12月13日 (木)

毛利武彦 第二回追悼・回顧展 「天地幻生」 /  母の転倒、大腿部骨折

12月11日

毛利武彦の世界 第二回追悼回顧展「天地幻生」成川美術館の初日を明日に控え、箱根へ。

LIBIDO “all my hope is gone”(曲は成田未宇の最高傑作。成田未宇は肺がんで若くして亡くなったそうです。)の風景を体験しに大涌谷でロープウェイを降り、遊歩道へ。

http://www.youtube.com/watch?v=y1QkXtdcQ70 (2分過ぎたくらいからここの風景です)

Sdsc00558

大涌谷は1000mより高く、冷たい空気に耳が痛い。硫黄の煙で目と喉がひりひりする。

Sdsc00564_3

12月12日

朝9時半ごろ強羅を発つ。10時過ぎに芦ノ湖畔の成川美術館へ。(美術館窓からの風景)

Sdsc00579


毛利先生の奥様とお会いできる。(お目にかかりたいために朝早く行ったのだが。)

「たんぽぽ」(銅版画)・・・ たんぽぽの枯れた小花(しょうか)がまだ頭についたまま、丸く開ききる寸前の綿毛(冠毛)。冠毛が飛翔するまえに、ほかの冠毛に引っかかって、まだ離れずにいる瞬間。

画面下には葉を、正面の硬い形象ではなく、ぎざぎざのひとつひとつに動きのある曲線の表情を見、ななめ横から見たしなる柔らかいフリルのように細い線の輪郭のみで描いた。

この、ありふれた蒲公英(たんんぽぽ)の花の、誰もが見過ごしてしまうもっとも微妙で「詩」のある仕草を選んで描き、たった二輪の花(冠毛)とあっさりとした曲線で葉をそえて「絵」にする鋭い感覚こそが、師 毛利武彦そのものである。

「孔雀」(銅版画)・・・わたしががんで闘病したときに送ってくださった作品と同じものの試し刷り(プロベドルック)。

「幽谷」・・・幽谷とは人跡未踏の奥深い谷のことであるが、この谷は幻滝でありながら凄絶なリアリティを持って存在し、儚と確たる造形、未知なるもの、わからないものでありながら、個人の記憶に深く訴える。

幻想画であるといったときに問われるものは、内的なものの境地であり、その幻想の造形の質である。単に個人の見る幻が強烈な幻想として他者をも引き込むことは稀である。重要なのはどれほど「人間」的な決まり事を離れた「なにか」であるかということ。

甲斐駒ケ岳の裏の精進の滝にモチーフに得たと書いてあるが、石灰質のような水と白い垂直の滝、黒い岩、さらにジグザグに流れる水の躍動、それらは具象としての解釈以前に直線と曲線、落下するものとそれに拮抗するもの、破砕するもの、流動するものなどの組み合わさった抑揚を持つ硬質な造形であり、風景ではなくあらゆるものに変容する。

具象としての滝が変容するのが龍である必然はない。

師 毛利武彦は滝を好んで描いたが、ホルスト・ヤンセンの滝の絵と、滝の絵のタイトルではないが彼の「スヴァンスハル逆めぐり」という版画連作のタイトルを思い浮かべていた。

具象から心象へ、ある解釈(意味)から違う視角(意味)へ。また幻想から実在へと逆めぐりするリアリティ。そこにあるのは「行き来する」あるいは「同時に見る」「眼」である。

「桜春秋屏風」・・・桜を描く人は多いが、秋の紅葉の桜を描く人は少ない。

何よりも桜の枝の隙間にのぞく黒い水とも黒い空気とも言えない妖しい空間が、毛利武彦の桜だと思う。

枝振りも、よくある類型的な花鳥画の桜とはまったく異なる。ある力学を持ち、しなり、うねり、空間を突き破る。春と秋の桜屏風は黒く腐蝕した銀の穴(水)で異空間を繋がる。

「春暁」・・・黙思的な鳩。ぬくもりを持つ肌色の空間に白い花の樹。花序が毬のようになっていること、莟に赤味がないことから、この花は梨だと思われる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

母が転倒して大腿部骨折したとの連絡を受け、旅行から自宅に戻らずそのまま新宿のH病院へ。5時半過ぎに着く。

夜勤担当の看護師の対応が非常に事務的で冷たかったので、不安になる。きょうは怪我についての説明を聞けないとのこと。

帰宅してから身体が弱った者の全身麻酔のリスク(気管閉塞による死亡)について調べ、非常に不安にかられる。

|

2012年8月17日 (金)

毛利武彦

8月17日

毛利武彦先生の奥様から絵葉書が来ていた。毛利先生の,だいぶ散った後の、ほとんど赤い萼しか枝に残っていない桜の絵。白く見える花弁は数枚のみ。暗い枝振りと暗い若葉。空間は黒く沈潜している。いわゆる「日本人」一般の持っている桜のイメージとはかけ離れた、厳しく、派手さや軽やかさや明るさがなく、けれど美しい、確かに存在するある「時」を生きている桜。

「この作品は福山さんの世界に通じる思いです」と書いてあった。

終戦の日、15日に、先日知り合ったばかりの二十歳の学生さんからメールが来ていた。一年前の今日、終戦の日に(探していた)毛利武彦画集を神保町の古本屋で見つけて買ってくれたとのこと。

そしてその画集のあとがき、「二十年も経って、この画集を古本屋の店頭に見かけた若い画学生の誰かは、果してこれを買うだろうか、と思ってもみなかったことを、ふと考えたりしているところであります。」という毛利武彦の言葉を読み、あまりにもその瞬間につながっていたことにすさまじいものを感じざるを得なかった、と。

彼は画学生ではないが、毛利先生がその画集を出された1991年からちょうど20年後の2011年に、自分がその画集を買ったことが偶然とは思えない、と。(つまり毛利先生が退官されて、あの画集を出した1991年の翌年に彼は生まれたのだな。)

この便りは本当に私にとって衝撃的だった。なぜなら、敬愛する師、毛利武彦の絵は、あまりに通俗から遠く、決して一般に好まれると思えなかったから。私が毛利先生の作品と人格を痛いほど敬愛していても、そのすごみや厳しさは一般の人にも関心を引くとは思えず、むしろわかりにくい絵だろうと思うからだ。

その1991年の退官のときに、毛利先生は「腐れ胡粉」の話をされた。二十歳そこそこで戦争で亡くなったご親友が、出征する前に胡粉(白い貝の粉の絵の具)を膠で溶いて練ったものを壺に入れて床下に埋めていったもので、こうしてねかせると化学変化を起こして塗ったあと剥落しにくくなるそうで、それを先生は四十年以上、ご親友の形見として手つかずでとっておいたが、『花――鎮魂』という桜の絵にそれを使った。そしてご親友に擬して散っていく花びらを三片描きそえた。そして先生はその形見の胡粉を使い残して死ぬことはできない、と言われた。

二十歳で戦争で亡くなった画学生時代のご親友の無念を毛利先生が一生をかけて背負い、毛利先生が亡くなったあとの大きな喪失の痛みに私が耐え、私は巨大な師のなにものも背負えるような器量も才もないけれども、師のすごさ、厳しさについてほんの少しでも言葉に書き残せたら、と思い、今、新しい本を作っている。そして今、二十歳の学生さんが毛利先生に関心を持ってくれたことは本当に不思議な縁である。

『デッサンの基本』に載せさせていただいた師の素描と言葉がきっかけになって、それまで毛利先生を知らなかった若い人が、師の絵を見てくれるようになるとしたら、師の絵から何かすごいものを感じることがあるとしたら、奇跡としか言いようがないありがたい気持ちです。

          *

4時に母をKに迎えに行く。きょうは比較的元気なほうだった。帰りのタクシーの中で、「ずっと変わらないのはお母さんよ。」と言われ、「誰?うちの(亡くなった)おばあちゃんのこと?」と聞いたら、「柏崎のお母さん。今でもいつもはっきり顔が見えるの。」と言った。母の母は私が6歳くらいのときに田舎で亡くなっている。

ポテトサラダをスプーンの背でなめらかになるまですり潰して一口ずつ食べさせた。それと冷えた林檎ジュースに漢方薬をとかして少しずつ。とてもおいしいと言った。

この頃、私のことをよく母の実の妹の名で呼ぶ。若いときにとてもよく似ていたそうで区別がつかないそうだ。

8月16日

Tさんの家に校正紙を届けにうだるような熱気の中を歩いた。6時すぎ。西の空は明るいトルコ石の色なのに、雲は灰色がかった暗い群青色。雷雨の上がった後のこういう特殊な雲をなんとかと言う・・・と、さっきお天気解説の森田さんが言っていたのにTVから離れて着替えていたのでよく聞こえなくて残念だった。

歩いているうちに空はどんどん藍色に沈んでいった。窓の明かりが黄色く浮かびあがっててくる。2階まで届く大きな仙人掌のある家の玄関口の横に大輪のマツヨイグサが開いていて、レモン色に浮き上がって見えた。いつも気になっていた白い貝殻をびっしりくっ付けた大きな茶色の甕が玄関の前にある小さな木造の家の窓が開いていて、眩しい黄色の明かりが見えた。誰かが夕食の支度をしていることがほっとする。

校正紙を届けてから、夕闇の中を団地のほうへ歩いて行った。私の好きな半分切られた古い桜の木は青葉が茂っていて、ツクツクボウシが大きく鳴いていた。

李の木はどうなったか見たかったのだが、暗くて見えなかった。

団地の給水塔。

Simgp3756

汗で頭や背中や、手の甲までびっしょり。書源でしばらく本を眺めてから8時すぎに帰宅。

|

2011年10月 3日 (月)

毛利武彦 花輪和一 秋の贈り物

10月3日

毛利武彦先生の奥様から絵葉書が2枚届く。芦ノ湖の成川美術館での毛利先生回顧展の時の感想ノートが届き、私の感想文を読んでくださったそうだ。

台風近い曇り日に、人の少ない美術館の静けさの中で、いつまでも対峙していた毛利武彦の絵の記憶。奥さまも最終日近い日にずっと床に座って見ておられたとのこと。

Sdsc05972

Sdsc05967

花輪和一氏から小包が届く。開けたら鮮やかな、今年最初の七竈(ナナカマド)の実。七度竈に入れても燃えないとか。

電話すると、札幌も急に寒くなり、きょうは手稲山の頂上が白く見えたという。最近まで夏だったのに、まだ紅葉もしていないのに、もう山の上が白くなるなんて異常だと言っていた。

Sdsc05962

Sdsc05963

いけばな作家の中野正三さんからは、今年の秋の最初の果実の赤ワイン煮の瓶詰が届く。洋梨や林檎やオレンジ、無花果にジンジャーやベイリーフなどのスパイスも利いていて大人の味。

Sdsc05961

通りに木犀の匂いが漂っている。体調不良も戻りつつあり、本格的な秋が始りそう。

自分のための最近の体調メモ

9月19日 脱原発6万人集会のあいだ、貧血で真っ暗になる。9月22日~23日 貧血 その後胃痛の日々が続く。9月28日 朝、水を一口飲んだら強く嘔吐。頭痛、首痛がひどい。休んで薬を飲もうとしても激しく嘔吐。クリニックで抗生物質と吐き気止めと眩暈止めの点滴。熱は胃炎のせい、動悸は脱水症状と言われる。9月30日、10月1日点滴。タイプロトン、サクロフト、フォリクロン、デアノサート。

きょうは、わりと調子良い。

|

2011年9月 2日 (金)

毛利武彦の世界 第1回追悼・回顧展 成川美術館 / 味戸ケイコ K美術館

8月31日

師毛利武彦の追悼・回顧展を見に芦ノ湖畔へ。9時27分新宿発の列車に乗る。箱根湯本で箱根登山バスの案内所に行くとそこで成川美術館の割引券を販売していた。旧道経由のバスが来ていたが、山道経由のバスを選んで乗る。

バス停の数にすると28個。途中、上底倉、蛇骨野、猿の茶屋、笛塚、曽我兄弟の墓、六道地蔵、双子茶屋などの魅力的な名のバス停を通る。成川美術館は元箱根港のバス停前すぐだった。

「独りの騎手」。石灰石のように堅牢に感じさせる画面。写真ではよくわからないが実物を見ると、斜めに傾いた黒い人物の顔はかなりの表情を持っている。「使者と命名したい気持もあった。」と添えられた師の言葉。

「公園の冬」。「公園のベンチは、ひらかれたものでありながら、逆に孤独の象徴に化す。池は不在の領域の耳である。」という師の言葉に、あらためて毛利武彦が自分の師であって本当に良かったと心底思う。闇に溶け込む裸木には古い電信柱のように寂しいものの背後にくねるように寄り添う妖気の細枝も在る。黒い池の底に金の陽が棲んでいる。

「花――鎮魂」「華厳」「蝕」 三部作として描かれたものを一同に見る。「蝕」の筆致、特に「花――鎮魂」にくらべても勢いのある枝の筆致をずっと見つめていた。

限られた一生の中での、限られたほんの偶然の巡り合わせが、どんなにありがたく恐ろしいことか。毛利武彦が自分の師であって本当に良かった。毛利先生に出会うことなく、ほかの画家に師事していたら、今の自分がどうなっていただろうかと考えると恐ろしい気がした。その違い、一生があまりにも違ってしまう出会いはあまりにも決定的だ。

成川美術館を出て、しばし芦ノ湖畔の枯れ紫陽花や霧に煙る山を見て散歩。まだ8月だが周りの数件しかない食堂のうち半分くらいが閉まっていた。食事せずに三島行きのバスに乗ることにした。

Ssdsc05627

Ssdsc05629

廃墟と化した箱根芦ノ湖美術館。 シャガールやゴッホが収蔵されていたらしい。

Ssdsc05630

東海バスで箱根の山を越える。山道の道路の際にぽつぽつ咲いている白百合(葉の細いシンテッポウユリ?)を数えながら。峠から煙る山々と三島の町が展望でき、最高に気分は良かった。

2時ころ三島に着き、荷物を置いて散歩。桜エビのかき揚げの蕎麦を食べる。大きな欅が生えた富士山の溶岩の記念碑のところから富士山の湧水の中の道を通って、ひなびた裏通りを眺めながら梅花藻の池まで歩く。

Ssdsc05631

Ssdsc05632

古くていい感じの三島広小路駅。

Ssdsc05633

湧水の中を歩いて行ったら不思議な「ヘルス銀座」発見。

Ssdsc05634

藪甘草

Ssdsc05636

台風が近づく目まぐるしい天気。堆積した雲の表情が素晴らしい。梅花藻の池についたとき、黒雲からぽつぽつと雨。

三島梅花藻(ミシマバイカモ)の池。

Ssdsc05637

9月1日

台風が近くにいるので雨模様。降ったりやんだり天気雨の空。

Ssdsc05638

10年以上前から行きたかった味戸ケイコさんの70年代からの作品を集めたK美術館に行くため駅前のバスターミナルに行く。2時間に1本くらいしかバスがないのを知りショック。蒸し暑い駅舎の中で1時間ほど待つ。

玉井寺というバス停から歩き、正午過ぎにK美術館に着く。

味戸ケイコさんの原画をガラス額をはずして見せてもらえて大感激!!私の大好きな「ほたる」の闇の中にぼおっと光る貨物列車の絵、「あのこがみえる」の原画全部などなど貴重な作品を生で見る。

紙(ボード)の肌理にのった鉛筆の黒のざらざらしたニュアンスがすごい。モノトーンの鉛筆画の中でも、ところどころ(黒煙の粒子の質が違う)青っぽいニュアンスの鉛筆の色があったり、夕暮れの宵闇の濃さをものすごい濃やかな丹念な塗り重ねで描いてあったり、そのデリケートな鉛筆の使われ方が非常に感受性に訴える。

「あのこがみえる」は、最初昼の淡い光と柔らかい雲から始まって、夕焼け雲の光と影のコントラストのエッジがぎらぎらして、最後は藍色の闇に光が吸収されてしまうまで、雲の陰影だけで、初々しい出会いから記憶に変わるまでまでが描かれている。

味戸ケイコさんの描く少女はいつも淋しそうな眼でこちらを見つめているか、うつむいて顔が影になっているか。その内向する感じ、線の細さ、嵩のないからだ、背景の雲の反射、自分が少女だったころから、まるで言語化不能の秘密を共有するように感じる絵本の画を描く人。

三島の駅から3時過ぎの電車に乗って帰った。窓から海を見た。種村季弘先生と歩いた山道の記憶が鮮明だった。線路脇の夏草の中に見える野生の白百合は武蔵小杉を過ぎるころまで点々と咲いていた。

|