若林奮

2016年3月10日 (木)

若林奮 日の出の森裁判 「緑の森の一角獣座」 / 太田快作 犬猫の殺処分ゼロ

2月27日

府中市美術館横の一本木通りから、府中基地跡の建物を臨む。

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府中市美術館「若林奮 飛葉と振動」展を、市川幸平さんと見に行く。(私が府中市美術館「若林奮 飛葉と振動」展を見に行くのはこれで二度目だ。)

市川さんは、若林先生が闘った日の出の森の「緑の森の一角獣座」にトラスト地の地権者のひとりとして関わっていた人で、若林先生が「緑の森の一角獣座」(ごみ処分場建設に反対し、予定地内のトラスト地につくった「庭」の作品)をつくるときに、「庭」づくりの手伝いをした人だ。

(神奈川県立美術館の水沢勉館長も、「緑の森の一角獣座」の材料を背負って峠を越えて運んだこと、それはたいへんな体力と労力のいる作業だったと、葉山美術館での若林奮展の時にお話しされていた。)

日の出の森裁判とは、東京都西多摩郡日の出町のごみ処分場建設(水源地に漏出するおそれのある有害物質について、明確な処理案をもたないまま進められた)に住民が反対した裁判である。

1981年 東京都日ノ出町、谷戸沢地区の最終処分場の受け入れを決定。

1984年 処分場周辺の井戸などから化学物質検出を都へ報告。住民、町へ処分場へのゴミ搬入中止などを要求。町議会で、処分組合へ安全対策を求める意見書案と基本的同意撤回の請願を審議。いずれも不採択。

1995年12月、若林奮は、日の出の森を訪ね、ごみ処分場建設に反対し、予定地内のトラスト地に「庭」の作品をつくる構想を始める。

1996年4月、作庭が始まり、庭は詩人吉増剛造により「緑の森の一角獣座」と名付けられた。若林奮は森の中の素材にこだわり、樹木や石を使い、森の中で「休息」するための石の椅子と机を置いた。

2000年10月、「緑の森の一角獣座」は、世界的なアーティスト、クリスト、ボロフスキー、ステラなどが抗議したにも関わらず、東京都による強制収用で消滅してしまった。

2003年10月10日、若林奮逝去。

日の出の森裁判の原告、田島征三さんのHPより「日の出の森からの手紙」

http://www.geocities.jp/djrnq642/saibann.html

日の出処分場の問題に取り組む市民のグループ「たまあじさいの会」のHP

http://tamaajisai.net/

「緑の森の一角獣座」のあったところには、現在、エコセメント工場ができたそうだ。

この「エコ」というのも欺瞞的なネーミングで、ゴミ全てを焼却し、焼却灰をセメントの原料とするという意味で環境汚染と温暖化が益々深刻になるシステムらしい。

昨年、市川幸平さんからいただいたメールを引用しておきます。

・・・・・・

たまエコセメント工場というのは、日の出二つ塚ごみ(第2)処分場に後から処分場が満杯にならない方策として、焼却灰を埋める代わりに焼却灰をセメント化するということで、若林さんの緑の森の一角獣座があった辺りにエコセメント工場が後から建設されました

エコなんて騙しです

ごみをセメントにするからエコ

でも焼却灰は燃やすことでものすごい毒物が濃縮されています

だから安全性は確かめられていないセメントで、高くつくし、いまだにその製品がどこへ流れて行ってるのかは不明です

3・11以後、瓦礫の焼却などを今までの法律からずっと緩い基準値に変えて燃やしてよいことにして日本列島に瓦礫をばらまき、燃やし、日本中にまんべんなく放射能がばらまかれていきました

日の出ごみ処分場のエコセメント工場でも、燃やされた高濃度の焼却灰は、エコセメント工場で24時間さらに加熱され、たくさんの水も使い「エコセメント」になっていきました

若林さんの『煙と霧』の作品世界と重なるのですが、エコセメント工場の煙突からは24時間、ばい煙が大気に吹いていて、それは毎朝の逆転層で山を下り、多摩川の川霧の風に乗って多摩川を下ったり上ったりしています

エコセメント工場が稼働した頃から、なぜか青梅の子どもたちの喘息が増えました
http://l.facebook.com/l/3AQGa-FvVAQHLamo-Fou7NGC4sGcNk0ACdw5QHk9PLavKlg/kanou-miyashiro.blog.so-net.ne.jp/2011-11-03

それから3・11以降は、日の出ごみ処分場やエコセメント工場のまわりの尾根付近で福島の次に高濃度の放射線量が検出されました

日の出ごみ処分場反対運動は日の出町に住んでいた絵本作家の田島征三さんたちが始めました

絵本の学校の講師だった征三さんに「幸平、青梅でも立ち上がってくれよ!」と講演会の壇上から名指しされ
青梅でも『青梅の水とごみを考える会』が生まれました

若林さんが亡くなった後で、ぼくらの会から、ぼくの絵で『ぐるぐるらいふ‐ごみゼロの青梅へ』という小冊子を出版しました

それが若林さんの緑の森の一角獣座と対になって日の出の森から生まれた社会への問いかけと提案でした

反対運動はつぶされ、裁判はことごとく挫折しました

3・11以降、日本の国のしたことは、すべて日の出の森でしたことと同じです

ごみゼロという言葉は死語になりました

そんな果てしない闘いのその先で、さてぼくらにはこれから何が出来るのかな?と思っています

・・・・・・

若林奮展は、府中市美術館の展示を終えて、次は浦和美術館で見ることができる。

うらわ美術館「若林奮 飛葉と振動」展

http://uam.urawa.saitama.jp/tenranjikai_doc.htm

2月22日

にゃんにゃんにゃんの「猫の日」ということで、TVで猫の特集があったらしい。

私が尊敬し、かつ日頃たいへんお世話になっている太田快作院長がTVタックルに出ていた。多頭飼育崩壊の特集。

避妊手術をしないで飼っていたら、数年で50匹くらいになったという家が放送されていて驚いた。赤ん坊の猫は6か月で成猫になり、一回のお産で4~6匹も産むということを知らなかったとしても、一回生まれたらそこで気づいて、それ以上は産ませないようにすると思うのだが。

犬猫は自然にしておくと子供を産んで5、6年で死んでしまう。長く一緒にいたければ避妊手術が必要という太田快作院長のお話。太田先生は今まで数千匹の野良猫の避妊手術をしてきた。

http://animal.doctorsfile.jp/h/40601/df/1/

あとから病院で聞いたが、太田先生はもっと長くお話しされていたのに、編集で随分カットされてしまったそうだ。本当に短くされていて残念だった。

空前の猫ブームとか、経済効果とかネコノミクスとか言われているのを聞くと、本当に複雑な気持ちになる。

まずは殺処分ゼロを目指すための避妊が大事だと思う。

皆がペットショップで血統書つきのを買う前に、保護された動物を飼うことを考えてくれたらいいのに。

一生大切に責任を持って世話するのは本当にたいへんだ。自分の身になにかあっても途中でやめられないことだから。

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2016年2月19日 (金)

府中美術館「若林奮 飛葉と振動」展 / Dissémination(ディセミナシオン)とPusteblume

2月9日

鵜飼哲さんと府中市美術館の「若林奮 飛葉と振動」展を見に行く。

2時に入り口で待ち合わせたが、1:30くらいに着いて、庭の「地下のデイジー」を見ていた。ひとりで、しゃがみこんで説明のプレートを読んでいたら、子供たちの団体が来た。

「地下のデイジー」などの若林奮作品を見、学芸員さんの説明を聞いて、小中学生がなにを感じるのか、聞いてみたい気がした。

地下のデイジー(DAISY UNDERGROUND)若林奮。厚さ2.5cmの鉄板が123枚重なってできており、高さは3メートルを超えるそうだ。ただし、地表に出ているのは3枚分だけ、残りは全て地下に埋められている。

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地下にあるものを想像し、そのまわりのものを想像し、作者の思いを想像しなければ、何かを感じることは難しい作品。私は若林先生がどんな人だったか知っているから、非常に感じるものがあるが、作者を知らないで初めてこの作品を見た人はどう感じるのだろう。

ひととおり2階の若林奮展の展示を見てから、2時に鵜飼さんとロビーで会って、もういちど一緒に見た。

若林先生が「サンドリヨン・ブルー(シンデレラの青)」と呼んだ灰青色と、そのブルーと最も響きあうイエロー(花粉色の、硫黄色の、太陽の黄色)の、あまりにも強烈な繊細さが心に残る「振動尺(手許)」のドローイングたち。

これらのドローイングたちを見ると、いつもブルーデイジーという花を想い起こす。それと少女らしく柔らかい薄紅の雛菊。デイジーはDay's eye(太陽の目)。

4時頃、見終わってから、バスで武蔵小金井に行った。きょうは鵜飼さんは車ではなかったので、私の好きな庶民的な店、すし三崎丸でお酒を飲んだ。

私の誕生日が近いと言ったら、お祝いをしてくれた。

そのあと武蔵小金井の細い裏通りを歩き、小さなイタリアンバルに入ってワインを2杯ほど飲んだ。

デリダの動物についての話で、前から疑問に思っていたことを質問してみた。

「動物が絶対的他者だとすると、私とちゃびの関係のように、お互いがお互いの中に出たり入ったりできないんじゃないか、動物を絶対的にわからないものとしてしまうと、助けることができないんじゃないか」という疑問。

それに対して、鵜飼さんの説明は、

「ヨーロッパの「他者」という言葉にはふたつあって、「絶対的他者」(神)と、もうひとつの「他者」(隣人、他人、動物、植物というようなもの)という分け方だった。

それをデリダは、皆が「絶対的他者」で、神もその中のひとつにすぎない、というふうに言って、それまでの二分法を崩した。」

というものだった。

「サルトル、レヴィナスは、他者とは出あうもの、と言い、フッサールは。他者とは、無限に近づくことができるけれど出あえないものと言った。」(このあたり、だいぶお酒がまわっていたので私の記憶はあいまいです。)

私のもう一つの質問は、

「「散種」って男性的な言葉じゃないですか。なぜデリダはそんな言葉を使ったのですか?」という疑問。

鵜飼さんの説明は、

「デリダはその頃、植物や動物に関心があった。Dissémination(ディセミナシオン)には意味を散らすという意味がある。」

というものだった。

だったらDissémination(ディセミナシオン)は、私の愛するPusteblume(プーステブルーメ)のことだ。若林奮の花粉色の硫黄でもあるのかもしれない。

11時近くに帰宅。

2月11日

所用でS木R太と2時に会い、車で多摩丘陵のほうへ。着くのに2時間もかかった。

戻ってきたらもう8時半で、空腹で疲れていたので、華屋与兵衛によってもらって、そこで話した。ふたりとも「漁師のまかないサラダ」だけを頼んだ(お酒も飲まないので変な注文)。

また11時近くに帰宅。

2月16日

一級建築士のT川さんと会う。

2月18日

新宿三井ビルクリニックへ。腹部エコーと血液検査。

診断してくれた女医のA先生がかっこよかった。

風貌が一ノ関圭の「女傑往来」の高橋瑞子みたいだ。

2月19日

暖かい日。西新宿の家から新宿中央公園を通り、ワシントンホテルの脇の細道を抜けて、代々木を歩いてみた。

中央公園で、2004年頃に母と見た紅と白の絞りの桃の花を捜したが、見当たらなかった。早咲きの小さな桜が咲いていた。

中央公園は全面禁煙になり、ランチスペースもできていた。だが整備されすぎていて、自然な草木の繁茂がないのが淋しい。

甲州街道のビルとビルの隙間に存在する樹齢200年の「箒銀杏」(ほうきいちょう)の樹を発見して胸を打たれた。妖怪のような巨木だ。渋谷区内には、かつて巨木、銘木がたくさんあったが、戦争で失われ、開発で失われ、最後に残った名のついた巨木が、この「箒銀杏」らしい。

文化服装学院の裏の古い団地も、もう取り壊されそうになっていて、板が打ち付けてあった。

私の通った小学校の裏に古い団地がくっついていて、四季の花々が混然と咲き乱れていたのを見ていたせいか、古い団地にとても郷愁を感じてしまう。

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9時頃、I工務店のジュリーから電話。

彼は非常に誠実で、あらゆるリスクを考慮してくれ、安請け合いをしない。彼は本当に信頼できる人だと思う。

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2015年12月10日 (木)

沼辺信一さんと会う 若林奮先生の思い出 

12月5日

川村記念美術館の元学芸員、沼辺信一さんとお会いした。

1時半に待ち合わせて高円寺のべジタリアンレストランVESPERAへ。

まず、若林先生の「振動尺」の展覧会をやるまでの経緯を話してくださった。

それから、若林先生ついての沼辺さんの思い出をうかがった。

沼辺さんのやった「振動尺をめぐって」が、若林先生の生前最後の展覧会になってしまった。展示作品の位置などを決める時、若林先生は病で来られず、沼辺さんが考えて配置したという。

展示について若林先生は非常に厳しい考えを持っていらっしゃったから、沼辺さんもさぞかし苦心されたことだろう。

私も、川村での、ガラス窓の外の光るスダジイの樹に向かって伸びている振動尺の鮮やかな記憶がある。すっきりとして記憶に残る展示だった。

沼辺さんの語った思い出で、最も印象的だったのは、若林先生が、美術館(川村ではない、それより前の)が作ったご自分の展覧会の図録について、大変怒っておられた、ということだ。

「作品の部分のクローズアップはいらない。どこをどのようにアップで見るかは、見る人が決めることだ。」というような発言は、いかにも若林先生らしい。

展覧会の図録をめぐってのエピソードは、もうひとつお聞きした。

沼辺さんは、川村記念美術館での「振動尺をめぐって」の展示の準備のために、1年ほど若林先生の御嶽のアトリエに通っていらした。

そのとき、本棚に並んでいた若林先生の展覧会の図録には、表紙が破られてなくなっているものが、いくつかあったという。そのわけを尋ねると、「嫌だから。見たくないから。」と若林先生はお答えになったそうだ。

若林先生はいつも、「余計なもの」を嫌われた。静かに「外」のものを感じることを阻害するもの、「自然」を傷つけ、圧し殺す、あまりに「人間的な、余計な」もののすべてを。

口数の少なさと、その何十倍もの大きな怒りを秘めた沈黙、若林先生のそういう不機嫌さに、今さらながら、ほれぼれする。

沼辺さんは遠方から長い時間をかけて来てくださったのだが、私からは、若林先生との思い出について、ほとんど話すことがなかった。というより、私が若林先生と「出会っていたこと」の意味を伝えることが不可能で、話せないと思った。

たくさんのお話をお聞きして、気がつくと、夜の11時過ぎになっていた。

・・・

若林先生の、息が詰まるような優しい思い出はいくつもあるが、私がもっとも感激したのは、やはり、若林先生がとても怒っておられた時だ。そのとき、ある表現について、とても怒っているということを私に話してくださった。

「あれはよくない!あの人も不潔な晩年になったものだ。」「だめだ!まったく私の言うことの意味が伝わっていない!」「あのおしゃべりはつまらない。あいつにはもう一切しゃべらせない!」

後になって、このことを誰かに話すと、たいていの場合、私が傷ついたと誤解して慰めているつもりなのか、「それは、ちょうど若林さんの体調が悪かったときだから」などと、私の伝えたかった体験の本質をうやむやにしようとする反応が返ってくるのだが、まったくお門違いだ。

若林先生は、私がいつも疑問に思っていること、違和感があってたまらないことを、はっきり言ってくれたのだ。私にとっては、あんなにも感激したことはない、もっとも大切な思い出だ。

若林先生が私に率直に話されたのも、そのことについて私も強い違和感を持っていることを、若林先生こそが良く理解してくださっていたからだ。

(このことは、いつかきちんと書かなければならないと思っている。)

静かにその前に佇んで「外」を感じて考えるための場に、それを妨げる「人間の表現」が立ちはだかる場合が、おうおうにしてある。

ごく微弱な声を掻き消し、微細なものの息の根を止めてしまう「表現」を山ほど知っている。

私は、自分の触覚的な顫動状態を妨げるものに、明らかに私に見えているものに対して、なかったことにしろと抑圧をかけてくるものに激しいストレスを感じる。

しかし私はそれをはっきりと言葉に表すことができない。あらゆる「表現」の前で二重に抑圧を感じる。

芸術をめぐってでさえ、あるいは芸術だからこそ、欺瞞や転倒のうえに、「なあなあ」とすべてをだらしなく許し合っていることがあまりに多い。そうしたものへの拒絶のしるしとして、若林先生は「限界」とか「領域」という言葉を使っていたのではなかったか。

人がなにかを表現することの根源をとらえようとしていたからこそ、その問題の核心から目を逸らさせるものに対してはいつも、若林先生は憤然と怒っていた。だから私は若林先生を心から信頼し、尊敬することができた。

若林先生は、私に「僕の考える絵の範疇にはいっているもの」という言葉をくださった。私の考える「絵の範疇」「美術の範疇」にはいっているものだけを大切にすればいいのだと。

(若林奮先生と銀座の展覧会のあとで  2000年銀座)
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2003年の2月の寒い日だったと思う。川村記念美術館「若林奮 振動尺をめぐって」に、私は詩人の吉田文憲といっしょに行った。そのときは、その年の10月に若林先生が亡くなるなんて、想像もできなかった。

「若林先生は・・・」と女性の学芸員さんに訪ねると、何日か前に杖をついていらした、と聞いた。それから、帰る前にその学芸員さんが追いかけてきて、「若林先生からお二人に。」と図録をいただいた記憶がある。

そのときのことを、吉田文憲は「見ること(読むこと)の暴力的な顕われについて――賢治作品、そして若林奮の「振動尺」、福山知佐子の絵にふれて」(『宮沢賢治 妖しい文字の物語』思潮社)という文章に書いていた。

そのなかには、「非人称の情動とは、それを肯定し、それを生き延びようとするときに直面する、存在の(むしろ生存の存亡の)危機のことである。」というくだりがある。

「馬鍬の下に咲く花、但し処刑機械としてではなく(むろんここではカフカを意識して)。」

そのあとに、私が以前、若林先生に宛てて書いた手紙が引用してある。

その手紙は、若林奮作品『所有・雰囲気・振動』を見た時に私の中に強烈に蘇ってくる幼い日の記憶――西新宿の古い欠けた石段に何時間も座り込んで、石の割れ目から生えているムラサキゴケやツメクサやカタバミを見ていた五、六歳の頃の思い出。それから現在、植物に対峙して私が何を見ているのかについて書いたものだ。

吉田文憲は、ここで「絶対的な裂け目」について書いている。

「――誰もがそれを見れるのではない。

――誰もがそれを読めるのではない。

――誰もがそれを読めるのではないということのために闘うべきだ。」

「――なにが見えたのか、と問うべきではない。なにが見えるようにされたのか、と問うべきだ。」

私が若林奮と出会っていたのは、その「絶対的な裂け目」のところ(「場所」とも「時」とも呼べない「そこ」)だと思っていたし、そう今も信じている。

12月9日

11月27日に鎌ヶ谷の病院に行ってから、ずっと微熱と頭痛。風邪薬を飲まないほうがいいのだが、時々、かあーっと熱が上がって吐きそうになる。

8日の夜、急に立っていられないほど熱が出、吐きそうになってから、きょうは1日3回、6時間おきに薬を飲んで作業した。

きょうはヴィジョンが浮かんで、今までの構成を大幅に変更した。

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2015年11月27日 (金)

若林奮展「飛葉と振動」 葉山 水沢勉館長トーク2回目(後半)

11月23日

若林奮展「飛葉と振動」を見に神奈川県立近代美術館葉山へ。

8月22日に水沢勉館長の若林奮についての一回目のトーク(前半)があり、本日はその後半を聞きに行く。

8月に来たときは、たいへん混んでいてバスがなかなか進まなかった。あの時は日射しが眩しすぎて、外の景色を見られないほどだったが、きょうは小雨まじりの曇り。

美術館前でバスを降り、すぐ前に、なぜかバナナの花が咲いて、青い実もなっている庭を発見。素敵なので撮影。

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人気も少ない一色海岸に降りて、貝や流木を捜してみたが見つからなかった。

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きょうの海は、乳白、薄荷、青磁、灰色、フォスフォライト(燐葉石)。
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若林先生の展示、いくつかのドローイングの作品が展示替えになっていた。

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きょうの水沢勉館長のお話(聞き書きのメモより)。

若林奮(1936-2003)は9歳で終戦を迎え、50年代に青春だった。作品に戦争の影が強くある。

「多すぎるのか、少なすぎるのか?」(1970)

作品の上についたキズを船の航跡に見立てて、軍艦のような船を置いた。軍事的部品を連想させる作品群。不気味な想像をさせることが大事。

15歳でサンフランシスコ講和条約、日米、韓国との関係、50年から70年の安保闘争。国の政策に同調できないという意志が感じられる。

若林奮にとって彫刻とは、世界を発見する手立て、世界をよりよく体験する手段であり、若林奮は彫刻にすごく期待した。

彫刻が発動させてくれる世界。小さいほど世界全体がわかる。

「地表面の耐久性について」(1975)

重いものが地表面にしかない。平べったくて立ち上がらない彫刻は彫刻の歴史の中の禁じ手だった。

今までの彫刻では世界を知ることができないと若林は考えた。

(1930年代に生まれた彫刻家たちは立派な野外彫刻、モニュメントをつくった。それは高度経済成長のミッションだった。)

若林奮展の会場にはいって感じることは、若林奮は彫刻の量感を追求していないこと。

欠け落ちているものを取り入れようとしている。

「残り元素」(1965)

鉄を削ぎ落とすことは困難で、膨大なエネルギーを使っている。人間そのものの大事なものがこそげ落とされ、焼け落ちている恐ろしい感覚。

実体としてではなく、関係としての彫刻。

すべてのものが固定しない、揺らいでいる、振動、それを感じることが彫刻でどこまでできるか。

エジプト――永遠不変。王の威厳。モニュメンタル。

絶えず変化するものとしての鉄。

彫刻は変化しない石を欲しがるが、鉄が不安定だから選んだ。

変化の相に敏感になりながら見るべき。水の流れ、水に浮かんでいるもの、地中、ハエの息など彫刻と正反対のもの。

ハエから出ているか少女から出ているかわからない液体または気体。

1973年、36歳で鎌倉近代美術館新館を全部埋める大きな個展。あまりにも脚光を浴びて、このとき少し燃え尽きた。特に評価したのは柳原義達。

過去の作品を作り直したり、素材をリサイクルしたり、若林奮は素材を捨てることがなかった(ただし硫黄だけは産業廃棄物として、置いておくことができなかった)。いろんなものが繋がり、リメイクもされている。

どの段階で作品なのか、制作そのものも不安定。さらに版画、デッサンもある。

ドローイングは約9000点ある。

紙を圧縮した振動尺。制作の時間の層。直線的な流れの時間が複数ある。

制作態度がポリフォニック。

なにかをつくるように集約していくのではなく、ほどけた状態。

風景――世界にひろがっていくもの。彫刻がレファレンスとして関係性を持つ。暗黙のうちに呼び覚ます。

「大気中の緑に属するもの」

1984年ヴィエンナーレ。固定的な状態を持たない。2003年豊田市美。発展的にもう一度関係性を結びながらよみがえる。

「庭」――運命的に未完成。生成。天気、日々、刻々と変化。もっとも危うい不安定なもの。野外彫刻ではない。

風景を整えて美しい庭をつくるのではない。その中にはいると世界の見方が変わる。

庭も同時進行で制作していたもののひとつ。

セゾン高輪美術館軽井沢の庭・・・1980年代バブルの時。建物と庭が結びつくのを望んでいない。むしろまわりの広大な地形と結びつくため、斜面の角度が大事。

あえて下づらのところの厚さを見せて、それが置かれているように見えるための無垢の鉄。なぜ厚く重く、大地と一体化するか。

コンクリート1m流してある。地形そのもの、地下を含めて作品にはいっている。

美術館の建物とのアプローチに関して、セゾンとの軋轢。

階段があるが登ると警備員に注意される。周りの雄大な地形と関わりながら大地を感じるようにつくられている。

高原は霧が深く、鉄はすごい勢いで錆びる。鉄の不安定さが世界の構造とつながることを望んでいる。

地形そのものが彫刻を喚起する。地形を知るために彫刻をつくる。

歩いて行って体験する。

若林奮が木の枝一本を持って、「こんなものをつくる」と言ったことがある。道が植物の枝振りに似ていたのかもしれない。

若林奮は古典的な庭の研究も熱心だった。銀閣寺の岩が崩れた部分、通称「くずれ」が好きで、神慈秀明会の庭に、砂でつくるいくつかの三角、夕陽が当たる時光を感じる場所をつくろうとした。「100線」にも繰り返し出てくる、究極の「ヴァリーズ」のようなもの。

その計画が遂げられず、その場所が駐車場になり、「やる気がなくなった」と言っていた。

いくつかの石が置いてあるのは、関西から大阪城をつくるときに運ばなかった残念石を拾って持ってきた。

「緑の森の一角獣座」

ダイオキシンを出す日の出の森のゴミ処理場のトラスト運動として、若林さんもひと口地主となって庭的な作品をつくった。

バブルが終わり、誰もお金を出してくれなかった。名前はきれいだが、実際は緑はない。戦後の林野庁の失敗である杉林の立ち枯ればかりの荒廃した場所。

木の橋、石の椅子、石のテーブルがある。全部、森で見つけたものでつくってある。ボランティアが材料を持って、峠を登り下りして、何度も運ぶたいへんな労働でつくった。(水沢さんは44歳~48歳くらいに積極的に関わったが、体力的にきつかったそうだ。)

静かに座って、自然、世界を感じてほしい場所。

その頃の若林さんは「立ち上がること、起業が嫌だ。何かをするのは止めて静かに考えてほしい」と言っていた。

強制撤去の時、石ころひとつまで番号をつけられた。

「緑の森の一角獣座模型」(1996-1997)

まわりはゴミで銅版だけが残るイメージ、水没してしまうイメージなど、いくつもの未来のイメージをドローイングや模型にした。

その頃の若林さんはモンブランのダークブルーが好きだった。

囲いの銅板に、そこにあったはずの緑を描いた。巻いて保存されていた銅板、コイル状で銅線がまいてあり、そのまま展示できる状態だった。巻いてある状態は樹木そのままともいえる。

「カッパーペインティング」

溶剤で焼き付け塗装を解かしてしまった。

銅板にひとつひとつの樹の輪郭をなぞり、たがねで打った。失われたものへの追悼。

状況が変化したら、次のものへとつながることを考える。いろんなことがあり得る。ドローイング。可能性をさぐる不安的な意識。世界と複雑に複数で関わる。

霧島アートの森「4個の鉄に囲まれた優雅な樹々」

彫刻を拡大していって経済的なサポートを受けながら庭をつくるチャンス。2000年(緑の森が失われた時)につくりはじめる。森の中には入れない。四隅に無垢の鉄塊。結界。森を放置。鉄は錆びて無くなる。時間のものさし。

世界のモデル。動物、植物、世界との関係が模型としてある。鉄、造形されたものと樹と霧島の自然。思考が薄まらない。それを支えるのがデッサン、模型、ミイラのような自刻像(自刻像は、まだいくつもつくってあった)。

・・・

「何かを起こす、立ち上がる、ということが嫌だ。座って静かに考えてほしい」という若林先生の言葉が心に残った。

若林先生は「美術」というものを、「自然」とつながるものだと考えていた。

自分もその一部であるところの自然(自分の内部に見いだされる外部)と、そこから外へと広がっている自然に、揺れ動く距離を保ちながらもつながっているものをさして、若林先生は「美術の範疇にあるもの」「絵の範疇にあるもの」という言い方をしていたのだと思う。

講演が終わってから、水沢さんは、すぐに鎌倉館のほうのクロージングイヴェントに行かなければならない、とお忙しそうだったが、少しお話することができた。

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バスを渚橋のあたりで降り、逗子海岸で拾い物。波打ち際で桜貝をたくさん見つけた。とても薄くてはかなくて、濡れた砂の上から取り上げようとすると割れてしまうものもある。

風も冷たくなってきた中、楽しくて夢中で時間を忘れ、何度もしゃがんだり立ったりして貝を拾っていたら、足が冷えて筋肉痛に・・・これがあとでたいへんなことになった。

友人Gが金色のナミマガシワを拾って、自慢げに私にプレゼントしてくれた。桃色のや白のナミマガシワはたくさん持っているが、金色のは初めてなので感激。
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逗子駅近く、神社の横の道をはいる。この道が大好き。
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8月に来たとき、かわいい看板三毛猫が前に座っていた「夢」という店。右側には野菜を売る市場。「おいしいトマトいかがですか」と言われる。
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逗子銀座を端っこまで歩いた。「浜まで5分」という店があったので、本当に5分か夕闇の中を歩いた。10分以上はあった。逗子開成のまわり、ものすごいお屋敷がたくさんあるのでびっくり。

逗子銀座の端っこの店で生シラス海鮮丼(1200円)を食べた。

アクティーで座って帰路についたが、途中、信じられないことに太腿の外側が攣ってしまった。余りの痛さに、なんとか体勢を変えて直そうとしたら今度は反対側の太腿が痙攣。太腿の内側の筋肉も痙攣して、なかなかなおらず、強い痛みに全身汗だくになった。

私は副甲状腺を摘出しまっているので、血中のカルシウム濃度が低下するとテタニー(筋肉の攣り)が起きてしまう。きょうも、うっかりおなかをすかせたまま歩き過ぎてしまったのでテタニーになったみたい。

この日、拾った貝。桜貝と金色のナミマガシワ。その他もろもろの、ちっちゃいかけら。

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2015年8月26日 (水)

若林奮展「飛葉と振動」 葉山

8月22日

若林奮展「飛葉と振動」を見に神奈川県立近代美術館葉山へ。水沢勉館長のトークがあるのでこの日を選んだ。

とても敬愛していて、なにかと目をかけてくださっていた若林奮先生が亡くなった時、私はどうしていいかわからないほど悲しみ、動揺した。私にとって、現代に生きて「芸術」をやっていくことの精神的支柱がなくなってしまった。もう真っ暗闇で何の希望もないと思った。

私にとってそれほどの存在だった若林先生の大きな展覧会を見に行くのは久しぶりで、怖いような、緊張するような感じもあった。

水沢勉館長のトークは本当に的を射ていて、知的にも感覚的にも痺れるように素晴らしかった。

水沢勉さんには『あんちりおん3』にも、もったいない文章をいただいているが、本当に正直で信頼できる批評家だと改めて尊敬の念を強くした。

いくつかの作品の前でお話を聞きながら4つの大きな部屋を回る、全部で一時間ほどのトークだった。濃いお話ばかりだったので、私はA4ほどの紙に、小さい字で夢中でメモした。

その中からほんの一部を書きとめておく。

・・・・

水沢勉館長のお話(聞き書きメモより)――

若林奮の「振動」という概念は、世界は揺らいでいる、振動しているという意味で、60年代後半からのものだ。「もの」が震え続けているというのは、どういうことか。

「振動」という言葉は、もともとモニュメンタルなものだった「彫刻」とはなじまない。

しかし若林奮は、彫刻概念も「微妙ではかなく変化しているもの」としてとらえた。

若林奮の残したたくさんの仕事を見渡すと、試行錯誤しながら過去の経験が純化され、全体が「作品」となっているように見える。

極東の小さな国日本で、一番の基本に立ち戻りながら、若林奮が続けた、どれだけ彫刻の本質に迫れるかという困難な仕事は、戦後文化に批判的な問いを投げかけ続け、世界の文化に大きな貢献をした。

それは我々が存在しているある「長さ」、「世界の中に私たちがいる」ということに対しての問いを投げかけ続けている。

「自分の方へ向かう犬」(1997)

動物、植物、地形。彫刻をつくる主体とは。

鉄も液体になって気化する。鉄の雨の降ることもある。物質が安定していると思っているのは間違い。物質は微妙でアンバランス。

精確に知ること、世界がある程度わかること・・・「所有」

若林奮にとって「犬」は世界との距離感を我々に教えてくれるものだった。

古い傷ついた角柱の中に犬を彫ったものを埋め込んだ。水が角柱であるという設定(木は犬が泳いでいる泥のような水)。

犬が自分のほうに向かって泳いでくる。犬の時間と自分の時間の交錯。安定がほどけてゆく。

消失点のある遠近の安定とは異なる異質なものに気づく。

犬は身近にいて一番ものを教えてくれる存在。

若林奮において「やりたいことの核」は最初につかまれている。象徴的作品。

彫刻の長さはフィクション。

ポリフォニー。同時にいろんな音が流れている。

庭は放棄されて破壊されて終わるしかない。個体の生命体を超えて行く。

犬は分身だが自分ではない。

「犬から出る水蒸気」(1968)

どこから見るのが一番いいのかわからない。

むくむくとしたかたち。犬から出る水蒸気、エネルギーをどういう風に造形化できるか。

犬のしっぽ。4本の指の跡は、ものに触れる、触れた瞬間イマジネーションができるしるし。

おしり、しっぽのほうに指の跡をつけたのは、そちらのほうから始まるというしるし。

溶接の隈のようなもの。どうやって鉄の板でこんな作品をつくれるのか、見る人を驚かせた圧倒的な技術と迫力。

「中に犬・飛び方」(1967)とともに宇部と須磨での受賞作品。

「多すぎるのか、少なすぎるのか」

野外彫刻と自分の彫刻をどうつじつま合わせるのかの問題。

「3.25mのクロバエの羽」(1969)

万博公園にある。1970年万博、戦後復興に浮かれていた野外彫刻ブームへの疑問。パブリックな表現として受け入れられないものをつくった。

「69-56」

クロバエのデッサン。クロバエの飛ぶスピードによって空間が熱され、空気が圧を受けて変化する様子。水の塊が落ちてきてハエとぶつかるとどうなるか。

「69-79-A」

巨大なクロバエの頭。FRP強化プラスティック。人工的。丸みを帯びたつるっとした手仕事へのこだわり。

「地表面の耐久性について」(1975)

初期のオブジェから次の段階へ。野外彫刻のひとつのありかたとして。

「大気中の緑に属するもの」ヴェネツィア・ビエンナーレ。

世界との関わりを表現する試み。小金井から見える丹沢の風景。「日本の風景でなければいけない。」若林奮の「原風景」、体験。

風景、自然そのものが作品になる。開かれた作品。

「庭」

リヒトゥング・・・光がそそいでいる状態。ハイデガー、「存在の明るみに出会う」、「ロゴスのすみか」、森の中、「杣道」にそこだけ光がそそいでいる場所。

「100線」No20、33,47

ポケットに入れて持ち運べる彫刻。砂で作った波。

「緑の森の一角獣座」

敗北するのはわかっていた。どういうかたちで種をまくか。

霧島アートの森「4個の鉄に囲まれた優雅な樹々」

ドローイング・・・習作的なものとビジュアル的な完成予定図のようなものの二種類がある。

花盛りの森、完成図。

・・・・

トークが終わり、少し水沢さんとお話をし、もう一度じっくりと全作品を見てまわったあと、別室で「霧島アートの森」に関する若林先生のインタヴュー映像を見た。

久しぶりにお会いしたような強烈な感覚に打たれ、しばらくそこを動けなかった。若林先生は若々しく、背が高くて少し猫背で、姿が美しく、声が抜群によく、決して朗々とではなく、ぼそぼそと、精確に誠実に話す姿は昔のままだった。

4回繰り返して見て、若林先生が話していることをほぼ全てメモした。

その中の核心は、次の言葉にあると思う。

「人間の美術はすばらしいものだと思うのですが、人間がわからない部分とか人間の手に負えないものがあるということを我々は気づかなければならないと思っている」

「本来、こういうものは作者の名がなくなってもいいのかもしれない」

「作品として尊敬というより、生きている植物に対する尊敬というものを持ってほしい」

・・・・

若林奮の作品は、初めて見る人には非常にわかりづらい。なにかの似姿をつくっているのではなく、単に抽象的なオブジェをつくっているのでもないからだ。

若林奮は、むしろ彫刻には成り得ないものを彫刻にしようとした。

たとえば犬の似姿(外形)をつくるのではなく、犬の出している水蒸気や、犬の飛び方のほうを彫刻の題名にした。

若林奮の考察は、残された膨大なドローイングからも、たどることはできるだろう。それは思いつきや、ましてや思いこみでも、勝手な妄想でもありえず、誠実であればあるほど終わりがなく、恐ろしいほど緻密になっていく「手の思惟」が描くものだ。

しかしそのドローイングも、何が描いてあるのかを完全に理解することなど誰にもできない。

むしろ若林奮のメッセージは、かなり乱暴に言えば「安易にわかったと思うな」「やりたいことをやるのではなく、やってはいけないことを考えろ」ということだと思う。

若林奮の作品には、人が実際は何もわかってはいないのに、わかったような気になって、言葉で自己防衛しながら安易に欲望を満たしていく傲慢さへの痛烈な批判がある。

「判ると思える部分は膨大な量の判らない部分を含めて考えなければならない」(「対論・彫刻空間」より」)

若林奮が、他の芸術家がやっていることに対して「あれはよくないですよ!」とはっきり名指しで、激しい怒りをこめるように、私に言ったことが(少なくとも二人について)ある。その時、その正直さと、私にはなぜ怒っているのか説明をしなくても通じると思ってくれていることに、とても感動した。

私が実際に若林奮に会って話した時間というのは、もしかしたら若林奮からすれば、ほんのわずかな瞬間でしかなかったかもしれないが、そうした時間のうちにあっても、若林先生は、若輩の私に対して、まるで一人前の作家であるかのように扱い、敬語を使って話してくださったことに驚き、感激した。

不遜に聞こえるかもしれないが、人間だけのための、人間だけに向けての「アート」の世界が苦手で、動物、植物のほうに気持ちが向いているところで以心伝心のようなところはあったと思う。

佐谷画廊の打ち上げで食事に行って隣に座った時、箸袋に、そのとき若林先生が飼っていた二匹の猫の名前と、それぞれ何で遊ぶのが好きかを書いてくれた。

若林飛葉(比葉)―エアキャップ好
   振―――――猫ジャラシ好

私はそれを大切にとっておいた。「飛葉」(ぴよう)と「振」(ぷり)という名は、まさに今回の展覧会の題名でもある。

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その時、「前の猫は、霧と煙という名前でした。以前、僕の展覧会の題名で「霧と煙」っていうのがあったんですよ。それについて、いろんな批評家がね、「霧と煙」っていったいなんだろうってね、いろいろ書いたんです。うちの猫の名前なのにね。」と若林先生はくすっと笑って言った。

それから若林先生は「猫を大切にしてくださってありがとうございます」という手紙とともに猫の写真を送ってくださった。

若林先生は、なにをやっても「美術」や「絵」になる、という認め方はしなかったと思う。非常に厳密に、「ぼくが思う絵の範疇に入っている」という言い方をした。

「僕は、自分が撮られた写真ね、自分の顔が嫌いなんです。なぜなら、僕は、いつも非常にいかつい、しかめっ面をしているから。でもあなたと一緒に撮られた写真はね、僕は優しい顔をしている。だからあなたと一緒に映っている写真の自分の顔は好きなんです。」と言ってくださった若林奮先生。

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「僕、服のモデルをね、やったんですよ。その写真を福山さんにぜひ、お見せしなきゃ。」と少し恥ずかしそうにおどけるように言っていた若林先生の顔と声が何度も蘇ってきて涙が出てきた。

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若林奮「地表面の耐久性について」という野外彫刻とともに。画面左側の短い辺のほうが正面。そちらから見るのが正しいが、植込みがあるので正面側からは撮れなかった。

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美術館の裏手に、海へと続く細い素晴らしい路地があった。しみのある壁のうしろから、もう焦げはじめた夏の木々がせり出していて、細長い空間に光がそそいでいた。

この撮影をした次の日に、まさにこの路地から自動車道路に出た場所で死亡ひき逃げ事故があったニュースに驚いた。美術館前の車道は曲がっていて視界が開けていないので、一色海岸あたりに行く人は飛び出してくる車に細心の注意をしてほしい。

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海へ向かう途中に再び美術館の敷地に裏から入れる入口があり、砂の上に遺棄されている転覆した船のようなオブジェが素敵だったので、そこで休んだ。

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あまりにも濃い内容の展示と素晴らしいトークに、五感は激しく刺激され、快感と感動があると同時に、午前中から家を出て、5時の閉館までずっと見ていたせいか、とても疲労した。

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脹脛が幾度も攣りそうになった。廃船のオブジェのうしろにヒメムカシヨモギが咲いていた。
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美術館の生け垣のあいだから、か細いタカサゴユリが首を伸ばして、真っ白な花を咲かせていた。この百合は生け垣の下にいては光が届かないので、健気にも高く背を伸ばして咲いたのだ。

塀と木々に挟まれた狭い路地から眩しすぎる海が見えたが、強烈な光が怖い。私は日陰のひょろひょろっとした植物が好きだ。
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日光が苦手なので茶店の影に隠れるようにして、一瞬だけ浜に出た。貝殻を拾いたかったのだが、なかったのですぐ戻った。きょうは遊泳禁止だそうだが人は多かった。

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バスで逗子駅まで戻った。路地に堂々とした看板三毛猫を発見。

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市場が終わって休憩しているお父さん。古いお米屋さんとお食事処の猫。「あっ、ねこだよ!」と赤い服の女の子が叫びながら通って行った。
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鎌倉で途中下車し、駅ビルの気どらない店で夕方6時に、この日最初の食事。

そのあと暗くなった御成町あたりを少しだけ歩いた。私の好きな古い図書館の建物の屋根の上にちっちゃな朧月が乗っかっていた。

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2012年10月 9日 (火)

個展 新しい本 若林奮

10月8日

所持している額と写真用フレームのチェックのため、預かってもらっている友人の事務所へ。

写真用のフレームは、中に、以前一度だけ展示した写真がはいっていて、すごくいっぱい。絵画用の額もいっぱい。中身を入れ替えるだけで、もう一生買わなくていいな、と思う。マットだけ精妙に絵の形に合わせてカットしてもらえば。

世界堂に行き、新作の素描のために紙を6種類ほど買う。今までたまっていて展示するかわからない多数の作品の保存用ポートフォリオも買う。大きな平面作品を入れようかと思っていたポスターパネルは、安っぽく見えるので購入をやめた。それなら額なし、パネルなしで裸で展示したほうがいいと・・・。

遅く帰宅したらデザイナーさんから個展案内ハガキのデータのPDFが届いていて焦った。制作年と地図の修正あり。

そう、1か月前なのに、まだ個展のハガキができていないのである。デザイナーさんのせいでなく、自分のせい。早くに頼んでなかったから。

新しい本の最終校正がまだ入稿されていない。最後の最後、今一度、読み返す必要があるので。

個展の成功(何を持って成功と言うのかは本当に自分の感覚でしかないのだが、やってよかった、素敵な人、感覚が合う人と一瞬でも触れ合えた、という感覚でしょうか)と本が後悔なく仕上がること、そして数人でも興味を持ってくれる人が買ってくれるということ、しか今の望みはない。

前の個展は対人関係で本当につらい嫌な体験が残ってしまったので。

やってよかった、と自分で感じること、本当にそのほかのことは何も望んでいない。

2日前、胸が痛くなるような感じがあった。いろんなことが時間不足で、いっぱいいっぱいで、すごく不安で苦しかった。この不安の感じがすごく強くなって、自分で抑制できなくなると過呼吸とかパニック障害になるのかなあ、と想像したりした。

本を出すにしろ、個展をやるにしろ、誰に強制されたわけではなく、自分が自主的にやるんだと思うと、こんなものでいいのか、もっと、自分の極限はここではないのではないか、すごく恥ずかしいことをやってしまっているのじゃないか、という不安にかられる。

1日経って、自分の過去の作業を確認しだしたら少し落ち着いた。やっぱり過去に撮っていた写真も、そのセレクションも、今でも同じものを選ぶと思う、と確認したら自分の最大限の力はこんなものだ、と安心できた。

自分の限界でしか、ことはなされない。しかし、限界とはどこなのか。後悔しないように努力したいだけだ。

今回の新しい本の中で、一番書くことと校正に苦心惨憺したのは若林奮へのオマージュである。あとは中川幸夫と毛利武彦について。取材をして調べ上げたわけではなく、自分の体験して知っている範囲で書くことはひどく不安だが、そういう書き方を選んだ。

若林奮の言葉を読めば、つまりは、ものを見て、感じている普段の自分の絶え間ない生を断面として切り取ったものが作品となる、ということだ。

何か表現するものを持っているとか、作品を作り上げる、という考えかたはおかしいということ。

逆に考えれば、常に絶え間なく何かを見て、何かを感じ、思考している人間の、その生の時間そのものが興味深くなければ、それのどこを切り取っても、別に面白い作品はならないということだ。生そのものが常に新鮮な眼と思考で継続している人間でなければ、作品も、その人の言葉も、何も面白くないということ。

この考えはとても共感できると思う。

結局、この人は普段どんな世界を見て、どんなことを心底感じているのだろう、この人の情熱はどこにあるのだろう、と興味を持てない人には、私は全然興味を持てないのだな。つまりは作者の生ということ。

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2012年3月26日 (月)

表現 アート

3月26日

22日、木曜の夜、ベルリンから来たギャラリストに会ってからずっと苛々していた。

彼自身まったく他者のこと、彼の知り合いや、まして日本のフクシマのことなど考えているわけもなく、自分の利益のこと、自分の仕事の延命のことしか頭にないのに、お題目をフクシマとすることで、何らかの良いことをしていると思いたがっていること、その計画に誰もボランティアでサポートしないことを怒っていること、その勘違いに頭に来ていた。

誰も無料奉仕したくないのは当然だ。自分がクリエイティブな人間だと言うなら、独りで、誰にも甘えないで、誰にも見てもらえなくても、誰にも評価されなくてもやるべきだ。それなのに10人はいないとできないとか、自分が被害者かのような言い方。

こう態度の被害に私は何度も遭遇したことがある。責任は自分にない、主体は自分ではない、と言いながら、他人を犠牲にして、お手柄だけは自分のものにしようとする態度。どうにでも解釈(評価)は見る人にまかせる、と言いながら非常に人間的、一般的な記号を読ませようとする軽薄さ。

好むと好まざるとに関わらず私たちはポストモダンの空気を吸って生きている。価値判断を先送りし、断片化し、つまり「なんでもあり」の世界。

何でもあり、と言いながら後付けの解釈を期待する。一般的解釈(似非倫理)はもっとも共有されやすい欺瞞だ。

いつ「ここ」が「そこ」になるかわからない恐怖を生きられないならやめるべきだ。

「なんでもあり」の、いわばそのアナーキーな状態に投げ出されてあること、人間の規範を抜け出て、人間でないものになること、そこを生きられないものはすべて芸術表現として何の価値もないと思う。

若林奮はそれをわかっていて旧石器時代の洞窟壁画に立ち返って、その場所、その遠い視線から今現在を焼き尽くした。

彼のやったことは現世的価値では測れない。

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2011年8月15日 (月)

若林奮 ジャコメッティ

8月15日

2003年の冬、川村記念美術館で見た若林奮の「――振動尺をめぐって」の記憶をたどったりしていたら眠れなくなってしまった。

川村記念美術館はとても遠かった。フランク・ステラがたくさんあった。それから私の大好きなヴォルス。マーク・ロスコの本物(はじめて見た)は予想よりも胸に響いた。若林奮の「振動尺(手元)」の恐ろしいほどの美しさ。

「何故、現在彫刻をつくり、絵を描こうとするのか。何故、できた作品に違いがあり、そのいくつかは私を魅了するものであり、他はそうでないのか、といったことから始まる、多くの疑問」と若林奮は言った。

この意味は、美術の歴史をまっとうに背負って、脳みそを使ってやるなら、もう現在彫刻や絵としてできるものはないということなのだと思う。

川村記念美術館で、たくさんのフランク・ステラの実物を見たときはなんだろうと思ったが、本人の言葉を読めば、何も考えずに実物の劣悪なコピーを描いているものよりははるかに共感できるということになる。やはり先鋭な言葉が重要ということだろうか。

時代は刻々と変わる。作家の立ち位置も作業のありかたも刻々と変わる。

スタティックなもの、スタイルを決めてやっているようなもの、生きている植物の運動を殺すようなものにものすごい嫌悪とストレスを感じる。

「すべての芸術作品と、何であれ直接的な現実とのひらきが、あまりにも大きくなってしまった。実際、わたしはもはや現実にしか関心を持っていない。」(ジャコメッティ『ジャコメッティ 私の現実』)

私が出会って、少しでも関わりを持っていた巨大な才能の人は、現実だ。若林奮さんにしろ、中川幸夫さんにしろ、毛利武彦先生にしろ、研ぎ澄まされた仕草と短い言葉の中に、端的にすべてがあった。対峙したときの、そのリアルな時間にまさるものはない。

その体験の強烈さに比べると夥しい美術作品も、小説も映画も、まったくリアルでない。

若林奮は個的身体感覚としての地層の傾斜や視覚的に感じる距離の変化、空間のずれや切断、領域などに対して、常に意識が向いていて、過敏に身体が違和を察知するようになっていた。関心による習慣は拡大し、身体感覚はどんどん鋭敏になる。ものの見方はどんどん直観的になり、瞬間で判断がくだされるようになる。

たえず特異なものに出会っていた。これが共感の要因であり、異常な魅惑である。こういう人たちとつきあってしまうと、この眼がない人との会話が苦痛で堪らなくなる。

『I.W――若林奮ノート』などを幾度も読み返すと、文章の中では極力不確かなことは書かないようにされ、あまりにも言葉を厳密にするために一般言語に共訳不可能な言語で書かれているが、その実はものすごく正直である。韜晦ではない。精確に言葉にしようとして言語が固有のものにならざるを得ないのだ。

若林奮の口から名指しの批判、激しい怒りの発言を幾度か聞いた。その中には、まさに私に聞いてくれ、と言っているものもあった。そのとき、心底、若林さんを尊敬できる、信頼できると感じて胸が熱くなった。あの燃え上がるような敬愛と共感の時間を繰り返し思い起こしている。

ジャコメッティも絵空事でない現実の過酷さを見つめていた。知的であるためにクールにリアルに特異と過酷な現実の両方を行き来する。その作業の場として、作品の削り取られた部分にに含まれる灰色と黒と埃のアトリエがある。

朝8時から昼まで眠り、母を迎えに東中野へ。母の病気が進行している。おかずを買い家に戻る途中、近所の水色と黄金色の眼を持つ大きな白猫が木の塀の前で寝ていた。私が近づくとすりすりして甘えてきた。

中央公園の脇道を通って駅に向かうとき、何千匹もの蝉の声が大滝のように降っていて欅の並木に反響し緑の空気全体が振動していた。石垣の上の笹の茂みに、数えきれない蝉の抜け殻。多くはお尻を上にして笹の茎にくっついていた。人間のつくったものでないものの素晴らしさに、わあっと声が出るほど胸が震えた。

夜、終戦記念日の特集で、クローチェを読んでいて国家主義に反対し自由がなければ生きる意味がない、やがて自由が勝利する(日本が敗戦する)というような言葉をひそかに書き残しながら特攻隊で命を奪われた学生のドキュメンタリー映像を見た。

現在、自由なはずなのにあらゆる人間的なものの過剰から苛々を感じる。人間のつくる美術を見て、かえって固定観念の抑圧を受けて強い苛立ちを覚えることが多いのはなぜなのだろう。人間のつくったものでないものと触れ合っていたほうがずっと自由でいられるのだ。少なくとも私はそうだ。古壁のシミを見ているほうがずっと楽しいし興奮する。ごく一部の大好きな作家の作品を除いては。

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2011年8月12日 (金)

花輪和一 反原発 若林奮

8月12日

きょう、福島県内の農林水産業関係者約3000人が東電本社前で抗議デモのニュース。

花輪和一よりもらった手紙を読み返していた。

「反!原発」をテーマに10月に札幌芸術の森美術館で「アートから出て、アートに出よ。」という展覧会に出品する絵を現在描いているそう。

手紙の内容は痛快。さすが花輪さん、と惚れ惚れする。

「キレイぶりっこ、アカデミズムぶりっこ、芸術ぶりっこ」の絵が大嫌いとのこと。

「描き終わったカケジクを福島原発の見える所まで持参し、そこの路上に広げ、(絵の描いた面を下にして)思いきり踏んづけ、ボロボロにして、津波の中からひろってきたような状態の姿で出品してやりたいと思うが、」(気持はそうだが実際どうやるのかは思案中)

電話で、原発の欺瞞で殺された動物たちに対する怒りをぶつけあい、また、こんな状態でも関係なく、何も考えずにつまらない絵を描いて商売している人たちへの胸糞悪さをぶちまけあった。

「花輪さんの個展だったら見に行きたいけど、ほかの人が出ると思うと(誰が出るのか知らないが)、想像しただけでもう無理。」と私は言った。

あまり何も感じずにいろんな展覧会を見に行けたのは、いつの頃だったろうか?記憶にあるのは18歳の頃、今ならおぞ気だつような大嫌いな画家の絵があっても、その前をスルーして好きなものだけを見た。今ほど嫌悪を感じるものが少なかった(何もわかってなかったのだと思う)。

今は、歳月が堆積して、良いものと悪いものをたくさん見て、人生が濃くなったせいか、厭なものを見ると厭なものが身体に入ってくるような気がして、直接的な激しいストレスを感じる。「生きれば生きる程、読むべき本は増え、考えるべきことは積み重なる」ということが少しはわかったてきたのかもしれない。

吐き気がするような絵(または立体やパフォーマンス)とはどんなものかと言うと、「収奪」としか言いようがないもの。うまい下手は関係ない。むしろ手慣れていない頼りない線には魅力を感じる。

嫌いなのは手癖がついていて、紋切り型のものの見方と技巧が固着したもの。陳腐で、なんの疑問も怯えも感じずに絵を描くのが好きだと言う手慣れた人を見ると吐き気がする。生きている動植物の生命をコンクリづけにしていくような塗り固めた絵。現代美術の問題の重荷を背負わない自覚なき自己表現。

またはテキストだけがあれば作品はいらないもの。口先だけの倫理。身体感覚なしのパフォーマンス。

若林奮の言葉を借りれば、自分の「外」と関係がないものである。

ベルリンのアートフェアで、その場で鉛筆一本で記憶の風景を描いていた6歳の子供の絵を見たときの衝撃を思い出す。彼には鈍さがなかった。さり気なくて、鋭くて、危うかった。

それが記憶であったとしても外を見ようとしているもので、常に柔軟に変化するもの、類型でないもの、形式化されないもの、また、ある種の過敏さ、過激さに惹かれる。これは、まさにそういう人間の生き方に惹かれるということだ。

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↑花輪和一が送ってくれた北海道新聞(夕刊)「原発の毒火はいらない」

さすが地方紙。個性的で面白い記事が載せられるのはいい。

10月からの展示に出すものはこれよりさらに過激になるという絵の構想を聞いた。

若林奮が生きていたら、どんな行動を起こしたかと毎日考えながら、彼の残した難解な言葉を繰り返し読んでいる。何十回、何百回と読んでも、やはりすごい言葉だと思う。いわゆる文学者にも、美術批評家にも書けない言葉。唯一無二の思考力と実践力。

作品として「何ができるか」よりも「何ができないか、何をしてはいけないか」を問うこと。

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2011年7月24日 (日)

若林奮 人間でないもの

7月23日

ここ数日ずっと若林奮についての文章を書いている。

その前はずっと困難に耐えながら師毛利武彦についての文章を書いていたのだが、それよりもさらに困難で、ほとんど不可能なことをやっている。

若林奮は『彫刻』(この「彫刻」の定義がおそろしく難しい。オブジェではないものだとすると過去の日本の彫刻などはすべて彫刻でもなんでもないことになりそうである。)をつくっていたのであり、若林奮の残した言葉は、ほとんど共訳不能の言葉、彼の個人的感覚、個人的体験、秘密の領域に属する言葉だから。

わからないこと、不明のことを知識や情報で知ったことにしない、という若林奮の徹底した思考にそって何かを書こうとしたら、いかに誠実に自分の限界を書くかということになるだろう。

若林奮が自分が自然の一部だということを確実に知るために、「人間に興味を持たないようにする」と言ったラジカルさが、あまりに私を魅惑する。

人間でないものの表面と自分の表面の間にある空間(対象も自分も含まない空間)をはかろうとした、そのためには人間に興味を持たないことは必然となる。

「彫刻では表面を決定しなければならないが、表面は決定し得ないのです。」「また物質の表面は無いと考えざるを得ないと思う。」

7月21日

ポンジュ、ジャコメッティ、メルロポンティ、その他、6冊の本を並行して読みながら若林奮について書いている。若林奮と比較したらはるかにジャコメッティの文章はわかりやすいのである。若林奮をある程度でも(身体的に)理解できる人なんてこの世にいるのだろうか?

7月20日

台風の影響で蒸し暑い雨。次に出す本の話でYと会う。数冊の本を濡れないように胸に抱きしめて傘をさして歩くのがたいへんだった。

「負の思想」の話。「普遍」なんていうのはもっともクズな言葉だとYは言った。一般には理解不能な突出した「個的感覚」しかないのだと。

一瞬で嫌悪感を感じるものに近づかないこと。退屈だと思うこと、ストレスを感じることにつき合わないこと。死んだ人にしか熱狂できなくても、仮にこう質問したら、その人はこう答えるだろうと想像してやっていけ、とYは言った。

Yは私の数百倍は本を読んでいる(と思う)が、「用語」を一切使わない会話で、考えていること、このところ思っていたことがものすごいスピードで確実に伝わる。そして悩んでいたいろいろな煩雑なことにスパッと答えてくれる貴重にしてありがたい尊敬できる親友。

花屋に珍しい野生のヤマユリが売られていたので買って帰った。すばらしい匂い。ユリではヤマユリとカノコユリが一番好きだ。雄蕊を取られた百合はかわいそうで厭だ。

7月16日~7月18日

3連休で映画のDVDを20枚以上観る。(1枚50円だったから。)映像のセンス、台詞の符牒、エピソードの深み、役者のチャーム、いろいろ比較して見た。どうしてもこれは許せない、0点よりはるかに下、最悪!!!と叫びたいようなのもありました。

7月13日

映画のDVDを3枚借りる。

7月12日

斎藤恵子さんの詩集「海と夜祭」の装丁の画像を編集するためにデザイナーIさんの自宅へ。2色分解した画像をPCのソフトでいろいろ変化させてみるのをやらせてもらって、とても楽しかった。

デザイナーさんらしいとてもおしゃれなご馳走(ベジタブルペーストのカナッペ、オオナメコのチーズ焼き、ブリのグリル、トマトとミョウガの甘酢漬け、ワインなどなど)をいただく。

深夜、震災以来連絡がつかなかった今宮城県にいる友人Jに連絡がつき、skypeで動画つき会話。とにかく生きていてくれてよかった。

近所の人もたくさん津波で亡くなったという。

彼と初めて会ったとき彼はまだ21歳くらいで学生だったが、頭の回転の速さと、見解がはっきりしていて感覚的かつ理知的でおもしろい会話は健在だったので嬉しかった。話のキモが説明なしにすっと通じて直観的で的確な答えが返ってくる。私が名をあげた幾人かの著者も読んでいた。こうでないと、私はストレスで人と付き合うのが苦痛で堪らなくなってしまうのだな。

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