阿部弘一

2016年5月26日 (木)

阿部弘一先生からの原稿 / 顔の湿疹

5月24日

詩人の阿部弘一先生より荷物が届く。たいへん大切なものだ。

阿部弘一詩集『測量師』、『風景論』などの原稿、それらの詩集の毛利武彦の表紙絵。

私の師である毛利武彦先生からの阿部弘一先生への長年にわたる書簡。

ていねいに分類して年代順にまとめて、それぞれを紙紐で結んであった。

これらは、拝読させていただいてから世田谷文学館に収めたいと思っている。

阿部先生に電話し、大切なお荷物を拝受したことを伝える。奥様の介護がたいへんなご様子だったが、とても久しぶりに阿部先生のお元気な声を聞けてほっとする。

阿部先生のお話によると、1948年に慶應義塾高等学校が発足したときから、毛利武彦先生は美術の教師を勤められ、その2、3年後に阿部先生は事務職として同校に勤められたそうだ。

もともと絵がお好きだった阿部先生は美術科の部屋を訪れ、毛利先生と親しくなられた。そして阿部弘一第一詩集『野火』を出されるときに毛利先生が装丁をしてくれることになったそうだ。

お二人とも学生だった時に戦争を体験され、戦争が終わった20歳代に知り合って、その後、一生親友となる。

阿部弘一の詩がもっと多くの人に読まれるように、願いをこめて書影をのせておきます。装幀、カバー絵はすべて毛利武彦。

阿部弘一第一詩集『野火』(1961年)奥付及び扉は「世代社」となっている。詩集『野火』の中身が刷り上がり、あとはカバーだけという時に、社名が「思潮社」に改称された。

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詩集『測量師』(1987年思潮社)。

この毛利先生の描いたたんぽぽの穂綿は、私の大好きな絵だ。

たんぽぽの穂綿を描いた絵は数多くあるが、さすがに毛利武彦は冠毛の描き方が非凡だと思う。もっとも不思議で、すべてをものがたる冠毛の形状と位置を選んで描かれている。
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詩集『風景論』(1996年思潮社)
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帯があるとわかりにくいが、左向きの馬の絵だ。遠くにも人を乗せて走る馬がいて、手前の馬のたてがみは嵐にたなびく草のようにも見える。

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この『風景論』で阿部弘一先生は第14回現代詩人賞を受賞された。

この授賞式に毛利先生ご夫妻に誘われて伺った私は、その会場で、間近に踊る大野一雄の「天道地道」を見て、魂を奪われた。

毛利やすみ先生から毛利武彦先生の書いた阿部弘一先生の受賞に寄せるお祝いの言葉の原稿を送っていただいているので、ここにのせておく。私は師毛利武彦の文字を見るたび、師の絵と同じ質の知性と美しさと力強さに圧倒されて胸が苦しくなってしまうのです。

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阿部弘一先生が翻訳された本にはフランシス・ポンジュ『物の見方』、『表現の炎』などがある。また思潮社の現代詩文庫『阿部弘一詩集』がある。

阿部先生と電話でお話しさせていただいてとても嬉しかったことは、『風景論』からあとの詩をまとめることについて、本にしたい、と確かにおっしゃったことだ。

「もし、まとめられたら。本にして知り合いに配りたいけど、みんな死んじゃったからなあ。ポンジュも亡くなったしね・・・。」とおっしゃられたが、未知の読者のために本をつくってほしい。「嶋岡晨はいるな。あいつは昔から暴れん坊だった。」とも。

阿部先生は、彫刻家毛利武士郎(私の師毛利武彦の兄弟)の図録や、巨大な椿図鑑も、「自分が持っていてもしかたないから、渡したい」と私におっしゃる。

椿図鑑は宮内庁がまとめたもので、宅急便では送れないほど巨大なのだそうだ。私などがいただいてよいのか自信がない。うちはすごく狭いので、貴重な大きな図鑑をきれいに見る大きな机もないし、大切に保管するスペースがないのだ。

私は椿の花が好きだが、椿図鑑に関しては、私より、その本にふさわしい人がどこかにいそうだ。

大切にしていたものを誰かに託したい、という気持ちを、私は私で、最近切実に感じることが多くなっている。

自分が持っているより、それを使って生き生きする人に、それを託したい、と思う気持ち。

私の持ち物(絵画作品や本)は、いったい誰がもらってくれるのだろう、と考えることがよくある。それを考えるとすごく苦しくなる。

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毎年、春になると苦しめられる顔の皮膚の乾燥と湿疹について。

昨晩、唇にプロペト(白色ワセリン)をべたべたに塗って寝たが、唇が痛いと同時に唇のまわりがかゆくて安眠できなかった。

朝、鏡を見たら口のまわりに真っ赤な痒い湿疹ができていた。

唇は皮が剥けて、縦皺がなくなるくらいパンパンに真っ赤に腫れあがり、唇の中にも爛れたような湿疹ができている。

プロペトとヒルドイドクリームを塗るがおさまらない。どんどんじくじくしてきて、爛れがひどくなってくる。

唇全体が傷のようになってしまい、痛くて口をすぼめたり広げたりすることができない。しゃべるのも食べるのも苦痛。口を動かさなくてもじんじんと痛い状態。

毎年、4月、5月になると皮膚が乾いてチクチク、ピリピリ痛み、特に唇が酷く乾燥して真っ赤に剥けてしまう。常に唇にべったりプロペトを塗っているのだが治らない。

きのうあたりから唇の荒れがますます酷く、歯磨き粉が口のまわりに沁みて涙が出るほど。味噌汁など塩分のあるものも沁みて飲めない。口にする何もかもが刺激物となり、皮膚が炎症を起こして爛れてしまったみたい。

紫外線にかぶれる体質なので5時30分頃を待ち、マスクをして皮膚科に行く。

タリオン(抗ヒスタミンH1拮抗薬)10mg朝夕

ビブラマイシン(抗生物質)100mg夕

ロコイド軟膏0.1パーセント

夕食はハンペンとパンケーキ、豆乳、ヨーグルトですませ、夜9時にタリオンとビブラマイシンを飲んだら、10時半には痛みと痒みが少しおさまってきた。

5月23日

31度。真夏のように暑い日。

このところ、ずっと顔が乾いて、特に唇が痛くてたまらない。

とにかく洗顔で顔をこするのをやめようと思い、2週間くらい日焼け止めも塗らないで夕方5時以降しか外に出ないようにしようと決めていた。

しかし今日は2時から書道の日だったので、紫外線吸収剤フリーの日焼け止めを塗って日傘を差して、1時半頃に出かけた。

その後、唇の痛みが酷くなり、まともに食事ができない。

夜中、寝ているあいだ、やたらに口のまわりがざらざらして痒い。寝ているあいだに顔を掻いてしまう。

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2015年12月 6日 (日)

阿部弘一先生のお母様のオルガン / 宮益坂ビルディング

12月3日

阿部弘一先生が、かねてより受け入れ先を思案されていた(私にもそのことについて相談をされていた)、お母様の使っていた古いオルガンが、十一月十二日(奇しくも阿部先生のお父様の八十八回目の命日)に横浜の某宅にもらわれていった、とのお手紙に返事を書いていた。

「生涯傍らにあった「母のオルガン」とこのような形で別れてしまって間違っていなかったのか、爾来果てしない寂寥感に陥っています。」との手紙の言葉に、どうお返事を差し上げたらいいかわからなかった。

それで、素朴な色鉛筆で、二日かけてちまちまと、阿部先生のお宅の、訪れた客をまっ先に迎えてくれる位置におかれていた、オルガンの絵を描いた。

製作年大正十五年(山葉オルガン・第七号) 製作№179407(通し№)。

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オルガンの後ろの壁には毛利武彦先生の版画(蟹、たんぽぽの穂綿など)が幾つも飾られていた。

阿部先生と私が知り合ったのは、阿部先生がわが師(「モン・メートル」)毛利武彦のご親友だったからだ。私がまだ大学を出て間もない頃、毛利先生の御宅で、「僕の友人がポンジュを訳してるんだけど・・・」と本を見せていただいたのが最初だ。

阿部弘一先生のように、ほとんど完全に「俗世との通路を断った」表現者に、私は他に会ったことがない。

阿部先生のオルガンについては、現代詩文庫の阿部弘一詩集収載のエッセイがある。阿部先生にとって、それが、いかに大切な記憶を蘇えらせる「風の音」を鳴らしたかが、そこに書かれている。

阿部弘一先生は、1927年、羽根木に生まれた。阿部先生のお父様は昭和二年十一月十二日、三十二歳で病没。その時、阿部先生は生まれたばかりだった。

昭和二十年二月、阿部先生は十七歳で陸軍予科士官学校に入学した。それは、「出征と同断」だったという。「当時大久保にあった陸軍兵器行政本部技術嘱託として勤務していた」お姉さまが、大久保駅まで阿部先生を見送られたそうだ。

「それから一か月後の三月十日、さらに五月と、米軍機の徹底した空爆によって文字通り東京の町は焦土と化した。」

「米軍機の空爆の合間を縫うようにして」、陸軍予科士官学校にお母様とお姉さまが面会に来られた日のことを、阿部先生は次のように回想する。

「晴れた春の日曜日の武蔵野の原・・・・・・。練兵場にはヒメジョオンが萌え、ひばりのさえずりさえ聞こえていたではないか。すべて戦争という巨大な蟻地獄の時の斜面の幻影に過ぎなかったかのように。」

阿部先生の詩に繰り返し出てくるヒメジョオンが記憶に強烈に刻まれる。

戦争末期、阿部先生のお母様とお姉さまは、山形に疎開した。「疎開早々、田圃の真中で米軍機の機銃掃射を受け」、「そして二週間後、あっけなく戦争は終った」という。

お姉さまもまた、「昭和二十五年、戦争中に感染した肺結核のため、二十五歳で聖処女のように亡くなってしまった。」

「がらんとした」羽根木の御宅の玄関には、お母様の「オルガンだけがポツンと残されていた。」

「母は、姉が亡くなると、歎きのあまり、永い間オルガンに手を触れるような生活はみずからに許さないようであった。しかし、嫁が来、孫が生まれた頃になると、乞われるままに、いかにも荘重な曲の一部(おそらくは若い頃多少得意としていた曲であったかもしれない)を、硬くなった指をかばいながら、戯れに二、三度弾くようなことがあった。」

そして阿部先生は、思い出深いオルガンを、1990年代になって、修理に出された。

「その音色は、七十年余も昔の風の音を取り戻していた。正真正銘の風の音だ。亡くなった父母も姉も帰らないが、風がいかに人を蘇えらせ風景を蘇えらせることか。」(「母のオルガン」――無常という尋常2 「獏」二十八号、1994年9月)

「無情という尋常」。古いかけがえのない記憶を蘇えらせてくれる音や匂いが、どんなに大切なものか、私もわかっているつもりだ。

人はなぜ、文章を書き、絵を描くのか。

12月4日

渋谷ウエマツ画材のセールに行き、宮益坂ビルディングで行われている社長の講習に寄った。

この昭和28年築の、日本初の公営分譲マンションも、今年いっぱいで壊されるそうだ。

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社長の食事制限のことが気になり、お渡ししようとサプリを買っていたのに、玄関に忘れて来てしまった。風で熱があるせいでへまばかりやっている。社長の方が私よりはずっと元気そうだ。

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2015年7月 3日 (金)

阿部弘一先生のお宅訪問 毛利武彦先生の画 

6月27日

朝、雨だった。午前中に家を出、阿部弘一先生のお宅へ。

阿部弘一先生は詩人で、ポンジュの『物の味方』(1965)、『表現の炎』(1982)、フランシス・ポンジュ詩選』(1982)なども訳された方だ。詩集は『野火』(1961)、『測量師』(1987)、『風景論』(1995)などがあり、現代詩文庫にもはいっている。

玄関で『あんちりおん3』への寄稿の御礼を申し上げた。

玄関には、阿部弘一先生のご親友であり、私の師である毛利武彦先生の版画がいっぱい飾ってある。阿部先生の詩集の装丁は、最初の詩集『野火』より以前の、同人誌『軌跡』の時から毛利武彦先生が画を描いている。

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上の画像の、壁の上段真ん中の絵が阿部弘一先生『測量師』のカバーの絵。

タンポポの穂綿を決して丸く描かず、種子が離れていく時のもっとも面白い瞬間を描いていることに、徹底して俗を嫌った毛利武彦らしさがある。

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毛利先生は非常に厳しい師であったが、多くの教え子に慕われていた。

阿部弘一先生はというと、今時どこにもいないほど敵意と拒絶の意志を持って文壇・詩壇との関わりを断った詩人であり、人の集まるような場所に出向くことはない。

私の個展はずっと見ていただいているが、こうして、やや強引にだがお宅を訪ねることによって、久しぶりにお目にかかれてたいへん嬉しかった。

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大正9年、阿部先生のお母様が教職についた頃に弾いていたという古い貴重なオルガン。このオルガンや、阿部先生のご両親についての文章、フランシス・ポンジュ訪問記などのエッセイは、同人誌『獏』に書かれ、現代詩文庫『阿部弘一詩集』(1998)に納められている。

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阿部先生が弾くと、抵抗感と温かみのある本当に大きな風の声のような荘厳な音が広がった。
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このオルガンは引き取ってくれる演奏者を探しているということだ。
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阿部弘一先生は椿がたいへんお好きで、椿の樹だけで70本もあるという古い庭を案内してくださった。

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椿の中では、やはり侘助が一番好きだと言われた。いくつかの椿の樹は紅を帯びた艶やかな実をつけていた。足もとには可憐なヒメヒオウギが咲いていた。

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美しい苔にまみれた梅の樹。「あなたは苔が好きなんだよね。」と笑って言われた。

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この日、たいへんなものをお預かりしてしまった。阿部弘一先生の詩集の装丁のために描かれた毛利武彦先生の画だ。

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上の画像は毛筆で書かれたあまりに美しい毛利武彦先生の文字。

下の画像は、使われなかった装丁案の画(黒い背景にヒメジョオンの花が白く描かれている)と、阿部弘一詩集『測量師」の中から、毛利武彦先生が抜き書きしたもの。

そこから 退いていった海

そこで氾濫しかえれなくなった河

砂になった水

そこにまだ到着していなかった 

人間の声          (「幻影」より)

では これが解なのか 

風よ 野を分けて行くものよ

だが 私たちにどうして

死と生と この涼しい風のひと吹き

の意味とを 識別することができる

だろう             (「夏」より)

            一昨年 ひめじおんの風播を試みて失敗してしまったのです

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『測量師』の中に幾度か「ヒメジョオン」ということばがでてくる。

阿部先生の未刊行詩編の中にも「ヒメジョオン」という詩がある。その「ヒメジョオン」という詩から少し抜き書きしてみる。

盲目の私たちのあかるすぎる視野いちめんに

おまえはそよぐ

おまえの無数の白い花でさえひろがりの果てで風にまぎれ

私たちの何も見えぬ視野をいっそう透き通らせて行く

それはかつて誰のまなざしの世界であったのだろう

夏の野に突然おまえを浮かび上がらせはるかな風を誘い出し

その広がりのままおまえから夏のおまえの野から不意に視覚をそむけてしまったのは

一体誰なのだろう そしておまえの野と向きあっている私たちのとは別の

もっと大きいどんな盲目にいまそのひとは耐えているのだろう どんな

内部の暗闇の星につらぬかれて深く視野の叫びを秘めているのだろう

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下の画像は『測量師』の別丁扉。

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下の画像は、その原画。

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下の2枚は、同じ別丁扉に使われなかった画。
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下の画像は、昭和31~32年頃、阿部弘一先生が28~29歳の時に、つくっていた文芸同人誌『軌跡』の表紙。

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下が毛利武彦先生の原画。よく見ると線の方向や人物らしき影の位置が違うので、下の画から、さらにヴァリエを制作して『軌跡』の表紙としたようだ。
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阿部弘一先生にたいへん貴重なものを預かったこと、私の心から尊敬する詩人がそれを私に託してくださったことはありがたいが、重い。

大切なものを保存、保管してくれるところがないこと、それを保管しても、誰が読み継いでいくのかということ。

私も、自分が何かを書いて、たいへんな思いをして本を作っても、誰が読んでくれるのだろうか、と常に考えている。絵を描いても、それを廃棄しなければならないかもしれないことを常に考える。

私の鬱の原因のほとんどが、この問題に起因する。

6月26日

アマゾンが本を2割引きで販売する話、大手出版取次業が倒産した話のニュース。

出版不況の閉塞感、絶望感に鬱々としてくる。

本当に読まれるべきもの、残すべきものが残せないで、一般に売れる本、つまり気晴らし的なものしか売れない世の中は恐ろしい。

6月25日

夕方、阿部弘一先生の家を訪ねたがお留守だった。

和田堀給水塔は、不思議な城のような、強烈に惹きつける古い建造物だ。一番古い部分は大正13年につくられたらしい。この敷地内にはいって自由に撮影できたらどんなにいいだろうと思ったが、残念なことに今は壊されているところで、柵の外からしか撮影できなかった。

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初めて降りたこの駅は不思議な場所だった。駅前に、ほんの少しだが戦後闇市のような小さな長屋のような食べ物屋が連なり、そのほかはこれと言った商店街はない。

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住宅街を歩く途中、ぽつんとある銭湯を見つけた。その壁にオロナミンCの錆びた看板が残っていた。

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下は裏から見たところ。
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小田急線の方へと歩いて行くと、先ほどの闇市とは対照的な、巨樹の影に瀟洒な建物が続く恐ろしいほど豪奢なお屋敷町となる。

木々は100年以上は生きていそうであり、「昔はあそこらへんは風のまた三郎が出て来そうなところでした。」と阿部弘一先生がおっしゃっていた。

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大きな熟れた実をつけた李の樹があったので撮っていたら、著名な批評家Hさんのお宅だった。

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2011年6月19日 (日)

「毛利武彦先生を偲ぶ会」 阿部弘一 フランシス・ポンジュ

6月18日

夕方7時より東京駅八重洲口近くの居酒屋で師、、毛利武彦を偲ぶ会。

自分自身がまったく画壇と関係なくアウトサイダーなので今の美大の教授や先輩後輩と顔を合わせるのが場違いで苦痛なのだが、ひとつだけ素晴らしかったことがある。

尊敬する詩人、阿部弘一先生と久しぶりにお話できたことである。

阿部弘一先生は恩師、毛利武彦先生の60年来のご親友であり、フランシス・ポンジュの翻訳もされている。幾度がお会いして、ずっと個展にも来てくださっている。阿部弘一先生に絵を見られることは、自分の程度を見透かされる思いでたいへん緊張せざるを得ない。阿部先生、と声をかけることさえ躊躇われる。俗なことの大嫌いな、厳しくも背筋のすっと伸びた美しい佇まいの詩人である。

自分が大学を出て3年のとき、絵の下図を持って師、毛利武彦の自宅を訪ねたことがある。大学卒業と同時に親の借金で絵を諦めて就職と同時に他に二つのバイトに振りまわされて、もう疲弊しまくりで人生が嫌になっていたころ、それでも、絵と完全に離れてしまうこと、毛利先生と完全に切れてしまうことが怖くて、もう一度だけ毛利先生に絵を見てほしくて、師の家を訪ねた。

今思えば5年や10年のブランクも耐えられると思えるが、卒業と同時に眠る時間もないほど働き詰めの生活が3年続けば、そのころの若くて激しい焦燥で満ち満ちた自分には、もう一生絵は描けない(勘が戻らない)、取り返しがつかないような、お先真っ暗な気持ちになっていた。

毛利武彦先生のアトリエ、渋い落ち着いた木の風合い、大きな書棚。なぜか詩の話をした。夭折した幾人かの好きな詩人、村山槐多や矢沢宰の話をして、師は、「もう、歳を追い越しちゃっただろ。」と言った。今、思えば、学徒出陣で二十歳前後で亡くなった芸大の同級生のことを思われていたのだと思う。

ふいに、「あなたの一番好きな詩人は、レミ・ド・グールモンじゃないの?」と言われて髪の毛が逆立つほど驚いた。その当時夢中になっていた詩人を、なぜいきなり当てられたのかわからなかった。「なぜですか?」と眼を丸くする私に「そう思った。」と毛利武彦は笑った。

「僕の友達がフランシス・ポンジュを訳してるんだけど、知ってる?」と毛利先生は本棚から阿部弘一先生訳のポンジュ詩集を取り出して私に見せた。それが、阿部弘一先生とポンジュを知った最初であった。それから、阿部弘一先生の『測量師』『風景論』『野火』』という詩集や、阿部先生訳のポンジュの『表現の炎』『フランシス・ポンジュ詩選』『物の味方』などを読むようになった。

阿部弘一先生が『風景論』で現代詩人賞を受賞された時、毛利先生ご夫妻が授賞式に誘ってくださって、そこで大野一雄氏の奇跡的な舞いがあった。あとで大野一雄先生に「現代詩人賞のときの、あの踊りはものすごかったですね。」と言ったら、大野先生は「ああ、あのときは、すごくうまくいったのね。」と答えられた。そんなことも強烈な思い出として残っている。

2011年6月18日、阿部弘一先生の奥様やお嬢さんのご様子を伺った。人が歳を取って行くということ。定年から始めた弓道もずっと続けられているそうだ。

「娘を見るとあなたのことを思い出すんですよ。お元気かなあ、と。」と言われて、「お嬢さん、私よりお若くてまだかわいいですよね。」と言ったら「いや、同じくらい。ちょっとだけあなたのほうがおっきいかな。」と言われた。

次の個展の予定を尋ねられて「原発事故のあとで、正直絵が描けなくなりました。」と言ったら、「私くらいかと思ったら福山さんもですか・・・・私もそろそろ立ち直らなきゃならないと思ってはいますが。」と言われた。

「戦争のような地獄の体験は、もう生きているうちには二度とないと思ってましたけど、またありましたね。本当に、生きていると、何が起きるのかは、わからないね。」と阿部先生は言われた。

それから、去年ベルリンに行った話をしたら、阿部先生は勇気がありますね、と笑っておられた。阿部先生もドイツのフランクフルトからスエーデン、フランス、イギリスと大学を3カ月回られたことがあるそうだ。それから私が18歳のころ、初めて毛利先生に逢った頃の話をした。

私が恋い焦がれた偉大な才能の人、そして私の絵を認めてくれた偉大な師、若林奮さんが亡くなり、種村季弘さんが亡くなり、中川幸夫さんが遠くに行き、毛利武彦先生が亡くなった。毛利先生が亡くなったとき、あまりの哀しみで私の身体の細胞がだいぶ死んでしまった感じがする。今、絵を見せるのが恐ろしいのは阿部弘一先生だけだ。

阿部弘一先生、初めてお会いした頃より髪が白くなった。けれど静かに麗しい佇まいで。

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