11月18日
冷たいセメントのような灰色の曇り時々雨の日。冬の気配が濃くなってきている。
朝、書留が届いたのでなにかと思ったら、阿部弘一先生からのお香典だったのでとても驚いた。
気安くお話しできるような間柄ではないのだが、3日前に私が出した年賀欠礼状が届いてすぐに、私などにお香典をくださるとは、本当に恐縮するばかりだ。
手紙に「お母様のご逝去を心よりお悼み申し上げます。また、“ちゃび”まで・・・・・、ご心痛の程、ただただお察し申し上げるばかりです。どうぞお体を大切にされますよう・・・・・。」とあった。
「ちゃび」のことまで書いてくださっていることが嬉しく、ありがたすぎて、涙。
目上のかたに出す年賀欠礼状に、ちゃびのことを書いていいのか少し躊躇いがあったのに、一番書くことを懸念した阿部先生が、真っ先にちゃびのことまで悼んでくださったことに痛み入る。
阿部弘一先生は、私の師、故毛利武彦先生のご親友で、とても尊敬する詩人だ。
私が美大を卒業して2、3年の頃、父の借金を負い、疲弊して、もう絵を続ける気力も失いかけ真っ暗な闇の中で迷っていた頃、毛利先生のお宅に伺った時のことだ。
「ポンジュって知ってる?僕の友人が訳しているんだけど…。」最初、そんなふうに、毛利先生は阿部先生のことを教えてくださった。
そして毛利先生のお宅で私は阿部先生と初めて出会った。その時に阿部先生は私が持参したスケッチブックの中の椿の絵を気に入ってくださった。
2001年に祖母が亡くなった時にも、阿部先生からクリーム色のチューベローズ(月華香)や青と白のアネモネが美しく盛られたお花が届いて、あまりにも驚いたことがあった。
阿部先生が私のような者をこのように気にかけてくださることは、大きな喪失の淵にある時、とても信じられないほどありがたい。
阿部弘一先生。1978年4月、ヴァレリーの眠る海辺の墓地(フランス、セート)で。

私の最初の個展の時の阿部先生と私。

11月17日
ちゃびのことをとてもかわいがってくれて、私が家を留守にするときに、ちゃびと一緒に留守番していてくれた友人Nちゃんから長距離電話。
ちゃびが亡くなった直後から2回目の電話だ。Nちゃんも「あんなかわいい子はどこにもいないよね。」と言って泣いてくれた。
Nちゃんはかつて近くに住んでいて、ちゃびのことを長年、すごく愛してかわいがっていてくれた。わかりすぎるので、あまり言葉もなく、ただ電話口で一緒に泣いた。
ちゃびはよくNちゃんを踏み台にして、高い棚のてっぺんに駆け上がったりしていたこと、なんにでもよくじゃれて、疲れを知らずに遊びまわっていたこと。元気で、暴れん坊で、愛嬌たっぷりだったちゃびのことを覚えていてくれて嬉しい。
Nちゃんが一緒に留守番していてくれた時、私の帰宅する気配を待って、ちゃびはいつも落ち着かなかった、と言っていた。
・・
母が亡くなってすぐ、私が寝込んでいる時に、クール宅急便(冷凍ではなく冷蔵)を送ってきた人がいた。段ボール箱を開けたら、ジップロックに煮物などの手料理がいくつか入っていて、おまけに肉を使ったものあったので、すごく困惑した、という話をNちゃんにしてみた。
私は(動物を愛するために)肉食だけは(反射的に吐いてしまうくらい)どうしてもできない、と何度もはっきり伝えているのに、「友達だから手料理を送ったのに…」と言われた、という話をして、「どう思う?」と聞いてみた。
Nちゃんは「異常に気持ち悪い。肉食できないことって、本人にとってものすごく重要なここだよね。」と言った。
私は「もちろん、私の人生で最も重要なことのひとつ。」と応えた。
「友達なら、相手が肉が食べられないことを覚えていてくれるはずでしょう。それに肉が入っていなかったとしても、手作り料理をジップロックに入れて送るなんて不潔で気持ち悪すぎる。そんなの食べられるわけないのに。」と言ってくれた。
私にとって、肉料理は動物たちを殺すことに変わりない。、
私はもともと肉食をしないが、よりによって母が亡くなったばかりの時に、肉の手料理を送り付けられることは耐えがたかった。どうしてこんなに余計なことをするのだろうと思った。
さらに「いらないならクール便で実家に転送してほしい」と言われたんだけど・・、と伝えると、「その人は完全におかしい。」とNちゃんは言った。
過去にも何度かあったが、大切な人が亡くなって、私が心身ともに一番弱っているような時にかぎって、「福山さんのために」と言って、エゴの塊の自己承認欲求をぶつけて、ずかずか踏み込んでくる人たちがいる。
私にとって異常なストレスでしかない。
たとえば、恩師である毛利武彦先生が亡くなって、私が泣くのと吐くのをくり返している時に、面識もない他人であるにもかかわらず、自分が私と毛利先生の重要な関係者だという勝手な妄想で、「師の死に捧げるオマージュ」なる安い創作物を送りつけてきたN・S。
彼は一方的に憧れる相手に同一化して自分が「芸術家」になった妄想で有頂天になる精神の病だ。(彼から受けた耐えがたいストレスの経験について、いずれブログに書くつもりだ。)
あるいはまた、父が亡くなった時に、よく知りもしない他人の親について自分の意見を書いて送りつけてきて、私が「私はあなたの意見を必要としていません」と返答しても、何度も「自分の意見を聞け」と強要してきたI・S。彼女は私よりひと回り以上も年下だ。
相手を理解する気がなく、ただ一方的に自分がやりたいことをやって「ほめろ」「ありがたがれ」と押しつけて、私に甘えようとしてくる他人が、ものすごく気持ち悪い。
彼らは自己愛が強すぎ、現実の解釈が歪んでいる。
私は相手を拒絶しないように見えるらしく、そういう人たちからターゲットにされる経験がとても多い。そういう人たちは自分の言動が相手に嫌がられるということを認めない。彼らは私とすごく親しくて、自分のやることはすべて私が喜ぶ、と思い込んでいる。
そういう人たちを無視しても通じなくて被害が甚大になるので、最近は、端的に「そういうことをやられるのは私は苦痛です」ということだけはしっかり伝えるようにしている(伝えても理解しない人がいるので困るが)。
Nちゃんは過去にそういう人たちから私が受けた被害をよく知っているので、とても心配していてくれた。
Nちゃんに話せてちょっと楽になった。
11月16日
実家にあった古い電話番号簿が見つかったので、新潟市に住む従妹(母の妹の子)のA子ちゃんに電話してみた。
私が大学生の頃、母と新潟に遊びに行った時のこと、また、そのあと新宿の私のうちにA子ちゃんのほうから遊びに来てくれた時のことなどをよく覚えていて、話してくれた。
とりわけ母のことをよく覚えていてくれたことが嬉しかった。母は、弟である叔父とともに、新潟にいる叔母とも、とても仲がよかった。
A子ちゃんが一時、東京で暮らしていた時、母がA子ちゃんの様子を見に行ったそうだ。近くの中華屋で一緒にチャーハンを食べ、母が「これ、ラードがはいってるから嫌い。」と言っていた、と。そんな些細なエピソードを話してもらえることが今は嬉しい。
A子ちゃんのお母さん(私の母の妹)は神経質で、子どもに少しうるさく文句を言いすぎる性格だったようで、A子ちゃんは「おばさんが自分の母親だったら、うまくいったと思う。」と言った。
A子ちゃんが「正江おばさんには安心して母の愚痴を言えてました。」と言ってくれたことがとても嬉しかった。
母は私には感情を激しくぶつけてくることも多くあったが、母は私にはなにを言ってもだいじょうぶと思っていたから、それくらい私を信頼していたのだと思う。
母の死亡後の手続きに区役所に行って書類をもらった時、母の戸籍に「四女」と書いてあったのに驚いた。
母の兄妹は全部で9人か10人あったらしい。