ジャコメッティ

2011年8月15日 (月)

若林奮 ジャコメッティ

8月15日

2003年の冬、川村記念美術館で見た若林奮の「――振動尺をめぐって」の記憶をたどったりしていたら眠れなくなってしまった。

川村記念美術館はとても遠かった。フランク・ステラがたくさんあった。それから私の大好きなヴォルス。マーク・ロスコの本物(はじめて見た)は予想よりも胸に響いた。若林奮の「振動尺(手元)」の恐ろしいほどの美しさ。

「何故、現在彫刻をつくり、絵を描こうとするのか。何故、できた作品に違いがあり、そのいくつかは私を魅了するものであり、他はそうでないのか、といったことから始まる、多くの疑問」と若林奮は言った。

この意味は、美術の歴史をまっとうに背負って、脳みそを使ってやるなら、もう現在彫刻や絵としてできるものはないということなのだと思う。

川村記念美術館で、たくさんのフランク・ステラの実物を見たときはなんだろうと思ったが、本人の言葉を読めば、何も考えずに実物の劣悪なコピーを描いているものよりははるかに共感できるということになる。やはり先鋭な言葉が重要ということだろうか。

時代は刻々と変わる。作家の立ち位置も作業のありかたも刻々と変わる。

スタティックなもの、スタイルを決めてやっているようなもの、生きている植物の運動を殺すようなものにものすごい嫌悪とストレスを感じる。

「すべての芸術作品と、何であれ直接的な現実とのひらきが、あまりにも大きくなってしまった。実際、わたしはもはや現実にしか関心を持っていない。」(ジャコメッティ『ジャコメッティ 私の現実』)

私が出会って、少しでも関わりを持っていた巨大な才能の人は、現実だ。若林奮さんにしろ、中川幸夫さんにしろ、毛利武彦先生にしろ、研ぎ澄まされた仕草と短い言葉の中に、端的にすべてがあった。対峙したときの、そのリアルな時間にまさるものはない。

その体験の強烈さに比べると夥しい美術作品も、小説も映画も、まったくリアルでない。

若林奮は個的身体感覚としての地層の傾斜や視覚的に感じる距離の変化、空間のずれや切断、領域などに対して、常に意識が向いていて、過敏に身体が違和を察知するようになっていた。関心による習慣は拡大し、身体感覚はどんどん鋭敏になる。ものの見方はどんどん直観的になり、瞬間で判断がくだされるようになる。

たえず特異なものに出会っていた。これが共感の要因であり、異常な魅惑である。こういう人たちとつきあってしまうと、この眼がない人との会話が苦痛で堪らなくなる。

『I.W――若林奮ノート』などを幾度も読み返すと、文章の中では極力不確かなことは書かないようにされ、あまりにも言葉を厳密にするために一般言語に共訳不可能な言語で書かれているが、その実はものすごく正直である。韜晦ではない。精確に言葉にしようとして言語が固有のものにならざるを得ないのだ。

若林奮の口から名指しの批判、激しい怒りの発言を幾度か聞いた。その中には、まさに私に聞いてくれ、と言っているものもあった。そのとき、心底、若林さんを尊敬できる、信頼できると感じて胸が熱くなった。あの燃え上がるような敬愛と共感の時間を繰り返し思い起こしている。

ジャコメッティも絵空事でない現実の過酷さを見つめていた。知的であるためにクールにリアルに特異と過酷な現実の両方を行き来する。その作業の場として、作品の削り取られた部分にに含まれる灰色と黒と埃のアトリエがある。

朝8時から昼まで眠り、母を迎えに東中野へ。母の病気が進行している。おかずを買い家に戻る途中、近所の水色と黄金色の眼を持つ大きな白猫が木の塀の前で寝ていた。私が近づくとすりすりして甘えてきた。

中央公園の脇道を通って駅に向かうとき、何千匹もの蝉の声が大滝のように降っていて欅の並木に反響し緑の空気全体が振動していた。石垣の上の笹の茂みに、数えきれない蝉の抜け殻。多くはお尻を上にして笹の茎にくっついていた。人間のつくったものでないものの素晴らしさに、わあっと声が出るほど胸が震えた。

夜、終戦記念日の特集で、クローチェを読んでいて国家主義に反対し自由がなければ生きる意味がない、やがて自由が勝利する(日本が敗戦する)というような言葉をひそかに書き残しながら特攻隊で命を奪われた学生のドキュメンタリー映像を見た。

現在、自由なはずなのにあらゆる人間的なものの過剰から苛々を感じる。人間のつくる美術を見て、かえって固定観念の抑圧を受けて強い苛立ちを覚えることが多いのはなぜなのだろう。人間のつくったものでないものと触れ合っていたほうがずっと自由でいられるのだ。少なくとも私はそうだ。古壁のシミを見ているほうがずっと楽しいし興奮する。ごく一部の大好きな作家の作品を除いては。

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