10月10日
中川幸夫の花についての文章をずっと思考している。
彼と会って話していたとき、どんなに全身がどきどきしたか、彼のひとこと、ひとことの深みに、どんなに痺れたか。彼はいつもとびきり面白いことを考えて実行していた。立ち姿さえかっこよかった。彼の才と、あのチャーム、あの強烈な生命力に触れてしまうと、ほかのどんな男もひどく退屈に感じてしまうほど。
そもそも「花」とは何か。茎の先端にあって目をひくもの。裂けて、反りかえり、しなだれ、朽ちるもの。花の死はいつ始まるのか。花のスペクタクルとは。
中川幸夫は「前衛というのは好みません」「もっと自分との距離が短くて、それを純粋に」と語っている。「現物から掴むのよ。」と私に何度も言っていた。
植物自体が、芽吹くときにも、種子のときにも、生の運動と同時に死や破砕の運動を含んで変化し続けるものであり、その時間の中での、彼と花との出会いかた、彼のその花の時間の切り取りかたは、中川幸夫の極めて個人的な、身体的なものである。
花は生きものであり、匂いを持ち、水分と強く関係し、動いているものであり、それをどう生けようと、決してスタティックな造形とは考えられない。
中川幸夫の花は花の文化史やいけばなの文化史のなかだけで語るべきでない。
中川幸夫は絶えず、どんな解釈にも決まりごとにも染まっていない「なま」の、花を見てきた。その花と見つめあい触れ合う交接の中から凄烈な異貌の花が生まれた。
花を見、花から見つめられるるまなざしを持つものにだけ見える花。
その花は言語媒ではない。動物媒だ。
……………
「つまり、ただ楽しむだけの芸術などというものはない。すでに整えられている観念を別のかたちで結び合わせたり、すでに見られた形態を示したりすることによって、人を楽しませるものを作りあげることはできる。このような二次的な絵画や音楽が一般には、文化というものだと思われている。
バルザックやセザンヌが考える芸術家は、開化した動物であることに満足していない。そもそものはじめから、文化を引き受け、それを新たに築きあげる。最初の人間が語ったように語り、かつて誰ひとり描いたことがなかったかのごとく描くのである。
その場合、表現とは、すでに明白になっている思考の翻訳ではありえない。なぜなら、明白な思考とは、われわれのなかで、あるいは他の人びとによって、すでに語られた思考であるからだ。」
「セザンヌの不安動揺や孤独は、本質的な意味では、彼の神経組織によってではなく、彼の作品によって説明されるのである。」――メルロ=ポンティ「セザンヌの疑惑」粟津則雄訳