メルロ=ポンティ

2011年10月25日 (火)

『デッサンの基本』 第11刷り / メルロ=ポンティ

10月25日

『デッサンの基本』の重版の知らせが来る。第11刷り。

とにかく嬉しい。次に出す本のことで悩みは尽きないが、『デッサンの基本』はその時点でできるかぎりのことをやった本だったので、自分でも好きな本であり、買ってくださるかたがあることが心からありがたい。

人物デッサンのモデルを毎日毎日探して、何カ月も町で人物ウォッチングをやっていたのは、とても楽しいどきどきした思い出。

このところ、みすず書房のメルロ=ポンティ・コレクションの『間接言語と沈黙の声』を毎日くり返し読んでいる。

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2011年10月11日 (火)

中川幸夫 花 メルロ=ポンティ

10月10日

中川幸夫の花についての文章をずっと思考している。

彼と会って話していたとき、どんなに全身がどきどきしたか、彼のひとこと、ひとことの深みに、どんなに痺れたか。彼はいつもとびきり面白いことを考えて実行していた。立ち姿さえかっこよかった。彼の才と、あのチャーム、あの強烈な生命力に触れてしまうと、ほかのどんな男もひどく退屈に感じてしまうほど。

そもそも「花」とは何か。茎の先端にあって目をひくもの。裂けて、反りかえり、しなだれ、朽ちるもの。花の死はいつ始まるのか。花のスペクタクルとは。

中川幸夫は「前衛というのは好みません」「もっと自分との距離が短くて、それを純粋に」と語っている。「現物から掴むのよ。」と私に何度も言っていた。

植物自体が、芽吹くときにも、種子のときにも、生の運動と同時に死や破砕の運動を含んで変化し続けるものであり、その時間の中での、彼と花との出会いかた、彼のその花の時間の切り取りかたは、中川幸夫の極めて個人的な、身体的なものである。

花は生きものであり、匂いを持ち、水分と強く関係し、動いているものであり、それをどう生けようと、決してスタティックな造形とは考えられない。

中川幸夫の花は花の文化史やいけばなの文化史のなかだけで語るべきでない。

中川幸夫は絶えず、どんな解釈にも決まりごとにも染まっていない「なま」の、花を見てきた。その花と見つめあい触れ合う交接の中から凄烈な異貌の花が生まれた。

花を見、花から見つめられるるまなざしを持つものにだけ見える花。

その花は言語媒ではない。動物媒だ。

……………

「つまり、ただ楽しむだけの芸術などというものはない。すでに整えられている観念を別のかたちで結び合わせたり、すでに見られた形態を示したりすることによって、人を楽しませるものを作りあげることはできる。このような二次的な絵画や音楽が一般には、文化というものだと思われている。

バルザックやセザンヌが考える芸術家は、開化した動物であることに満足していない。そもそものはじめから、文化を引き受け、それを新たに築きあげる。最初の人間が語ったように語り、かつて誰ひとり描いたことがなかったかのごとく描くのである。

その場合、表現とは、すでに明白になっている思考の翻訳ではありえない。なぜなら、明白な思考とは、われわれのなかで、あるいは他の人びとによって、すでに語られた思考であるからだ。」

「セザンヌの不安動揺や孤独は、本質的な意味では、彼の神経組織によってではなく、彼の作品によって説明されるのである。」――メルロ=ポンティ「セザンヌの疑惑」粟津則雄訳

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2007年6月22日 (金)

「人間は動物より愚かか」 ドミニク・レステル

6月21日

1時半くらいに哲学者の鵜飼哲氏から電話があって、 きょう6時から日仏会館でドミニク・レステル氏(動物行動学者、 哲学者)の講演がある、とお誘いを受ける。

内容は、とても良かった。日仏会館の6階なんて初めて行 ったけれど、集まったのは20人くらいで、ほとんどフランス人 で、快活で機知に富んで、雰囲気は最高だった。

講演を聴いていて何回も笑うなんて久しぶりだった。

 *高い知性をもつ作家が、愚かなベストセラー作家のまねを

 しようとしても、なかなかできない。(ヤン・エルスター)

 

6月22日

今日は夏至。やっと雨がふった。

一ツ橋大の鵜飼ゼミに、ドミニク・レステルの講演を聞きに行く。

 「さまざまな自己に面する動物の顔たち」

*人間に固有なものを経緯しない哲学的人間学はどういうものか。

メルロ=ポンティが、「間動物性」(間主観性だけでなく)と言った、というところが非常に気になったが、鵜飼さんに訊く勇気がなかった。

 

自転車置き場のところで摘んだ、熟した桑の実を見せるのが精いっぱいだった。

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                              薔薇の顔(The Face of Rose)

 

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