介護

2022年8月27日 (土)

E藤さんと会える、胃腸が治ってきた

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ヤマユリ(部分、銀箔、岩絵の具、膠)

2022年9月26日(月) ~ 10月2日(日)
吉祥寺の gallery re:tail で個展をします。
  
9月26日(月)  15:00~20:00(初日15時から20時まで)
9月27日(火) ~ 10月1日(土) 12:00~19:00
10月2日(日) 12:00~17:00(最終日17時まで)

よろしくお願いいたします。

8月20日

私の高円寺のお母さんのような存在のE藤さん(西新宿に住んでいた頃の母の友人で、そこから高円寺に引っ越して娘さん夫婦と同居)に久しぶりにお会いできて嬉しかった。

コロナ禍の状況が悪くなってからはずっとお会いしていなかった。

知人からいただいたお菓子を持って(私は甘いものを食べないのでもらっていただいた)自転車で伺う。家の前で少しおしゃべり。7月末にコロナに罹ってしまったことなどのご報告。

E藤さんはいつも明るく何があっても落ち着いていて、他人に親切で活動的だ。悲惨な戦争体験を持っておられることなども関係しているかもしれない。

E藤さんのご主人はずいぶん前に突然死された。朝、目が覚めたら亡くなっていたという。その時のことをE藤さんは「とにかくびっくりした」と言った。

私の母の亡くなる少し前、母が亡くなることが怖くて悲しくてものすごく思いつめていた私に、「(そういう時は)流れにまかせる」と言ってくれたのはE藤さん。どうにもならないことを必死で思いつめないこと。

E藤さんの同居していた娘さんは肝硬変で40代で亡くなり、私も葬儀に参列した。娘さんは長く闘病していたので、「心の準備はあった」とE藤さんは言った。

そして昨年末、同居していた娘さんのお婿さんが頭の血管が切れて倒れてしまい、90代のE藤さんが娘婿さんを介護することになった。このことを電話で聞いた時、私はものすごくショックを受けたのだが、E藤さんは「だいじょうぶよ。介護には慣れてるから。」と。

いろいろな手続きをしたり、病院やリハビリに付き添ったり。

すごく心配していたのだが久しぶりにお会いできたE藤さんはお元気で、まったく認知も衰えていず、「個展のはがきを持ってきたのかと思った。個展、ぜひ行くから知らせてね。」と。(涙)

「でもお忙しいでしょう?」と言う私に、「気晴らしも必要よ!ぜひ行くわ!」と。

本当にE藤さんはすごい。それからすぐに絵手紙のはがきを送ってくださった。

強いアザミの絵に「コロナも近づけぬ防衛力 この夏の心がまへはあざみです」という言葉。表書きには「先日はおいしいお菓子を有難とう御座居ました。アット云ふ間に頂きました。いつもすみません。病気したと聞き、驚きました。充分養生して体力を持ち治してください。少々痩せていらしたので心配です。作品展是非知らせて下さいね。お大切にね。」ときれいでしっかりした文字。

E藤さんが元気でいてくださることで、どんなに私が支えられているかしれない。

・・・

コロナ後遺症の胃腸の方はだいぶ良くなり、ほぼコロナ前の食欲に戻ったが、相変わらず固くないスープのようなものが食べやすい。

保護猫活動を続けておられる「猫スペースきぶん屋」さんを応援したくて、ベジニャンカレーを購入した。

https://kenkoshukan.stores.jp/items/6267b61c84ec6e29c7f8b8db

https://twitter.com/nekocafekibunya

猫スペースきぶん屋さんを知ったのは「癌と闘わずに」「猫と癌と諸々と。。」のmikaさんのブログからだ。

ベジニャンカレーは、私の好みでは断然、日陰茶屋チャヤマクロビのヴィーガンカレー(520円)よりもおいしい。チャヤのはカボチャがごろごろ入っているのが甘くて苦しかった。ベジニャンカレーはカボチャは入ってなくて赤ピーマンが入っている。

しかもベジニャンカレーは350円でお値打ち。殺される動物が少しでも減りますように。

玉ねぎを炒め、ベジニャンカレーを入れ、さらに私は、カレーパウダー、昆布出汁、ニンニクすりおろし、牛乳を加え、卵を落とし、ふにゃふにゃのマンナンご飯にかけて毎日夕方に食べる。

それといただいたひとつ1500円もする清水白桃を一日にひとつずつと、シャインマスカットを数粒ずつ食べている。

 

 

 

 

 

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2017年12月19日 (火)

森島章人さんから歌集刊行記念展へのお誘い  /  東中野、中野

12月16日

森島章人さんから丁寧に封書でお手紙が来ていた。

来年の2月から3月のいつかに、森島さんの歌集『あねもね・雨滴』刊行記念の展覧会をパラボリカでやるということ。そこに作品を出してくれないかとのこと。

私以外では、雑誌『夜想』の今野裕一さんが声をかけて作家さんたちを集めるそうだ。

森島さんの歌に喚起されるイメージでなにかできたらいいけれど・・・。

やる場所がパラボリカだということをふまえて、いつもの私とは違うやりかたでなにかやれたらいいのかもしれない、とも思う。

12月15日

遠くに住むデザイナーの友人、和美さんに、ちゃびが亡くなったことをなかなかメールで伝えられないでいた。

和美さんとは、何年もずっと、お互いの母親の介護のこと、猫の介護のこと、それらにまつわる悲喜こもごもをメールで会話していた。今までなんとかぎりぎりでがんばっていることを伝えてきたので、母が亡くなったことに続けて、ちゃびが亡くなったことを伝えることが辛かったのだ。

ひと月以上すぎて、メールで伝えると、

「たいへんなメールをいただきました。このメールが来るのをおそれていました。どんな慰めの言葉を書いていいのかわかりません。」という返事が来た。

和美さんも9年間で4匹の猫をみおくったが、「どの子たちもそれぞれが唯一の存在とはいえ、私の場合は他の猫たちがいることで救われているので、福山さんの心境はもっと深刻なものだろうと思います。」と。

美大時代の友人愛子ちゃんからも、「ちゃびさんは子供以上の存在なんだろうね。私は、飼ったことがなくてわからないんだけど、自分以上に愛おしい存在なんだろうなって。生きているからにはいつかはって思うと、ふっこがどうなるか凄く怖かった。」というメールが来た。

私がどれほどのダメージを受けるか、どれくらいおかしくなるかわかってくれていた友人がありがたかった。

12月12日

母のお世話になった施設へ最後の精算に行く。

駅からの階段を降りて道を渡ったところ、染物屋さんの工場の前にいつも寝ていた猫が亡くなったという貼り紙があり、花と食べ物が供えられていた。

14歳だったという。外猫にしてはすごく長生きだが、最期は交通事故だそうで、とても残念だ。

私が母の施設へ向かうこの横断歩道で、たまたま車道のほうへ出てきているこの子を、よいしょっと抱き上げて染物屋さんの前に運んでいる人を見かけていた。

地域の人に愛されていろんな名前で呼ばれていたらしい。

施設に着き、受付に行って、ケアマネのK島さんを待つ間に、母との思い出が溢れてきて、もう涙が出てきてしまった。

母が施設から病院に移る直前に買った介護用の室内履きや未使用の紙おむつなど、まだ新しくて使えるものをもらっていただいた。

最後の精算の書類に記入してからも涙。涙。

母とちゃびが死んでしまうことが怖くて、あまりに張りつめていた時が終わったが、少しも解放された感覚がなく、ただ悲しい。

そのあと友人と中野の裏道を歩く。

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駅前に2匹でつながれていた犬。とても人懐っこくて、しゃがんだら飛びついてきて、口をなめられた。けだもののぬくもりと匂い、息づかいが身体いっぱいになだれ込んで、たまらなくなる。

たまにこんなふうに往来につながれている犬に出会うが、「飼い主」は人目につくところにほっておいて心配じゃないのかと不思議だ。私なら、不安で、怖くて、とてもできない。しっぽや手足をカラーリングされているのも身体に悪いのじゃないかと心配。

少なくとも、カラーリングが、犬自身のためになること、犬の身体によいこと、犬にとって心地よいことにはなっていないのは確かだ。

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私は動物に対して「癒される」という言葉を使うことができない。相手に対して愛おしさと心配が激しすぎるからだ。「癒される」というのは、生きている存在に対して使う時、非常に手前勝手な収奪の言葉だと思う。そういう人間中心的な言葉遣いが嫌いだ。

鎧神社。オオミズアオの色の錆びた鉄の扉。薄青とチャコールグレーの混じった風景に酵公孫樹の山吹色が映えていた。

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昔の西新宿にあったような古いアパートと敷石。家の玄関までをコンクリートで固めないで、雑草が息をする土の上にこの石を置いただけの細い道が好きだ。

(この画像、何度やり直しても画像が勝手に横に倒れてしまうのでそのままにしてあります。)

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東中野のムーンロード。大きな塊のアーチになった羽衣ジャスミン。冬でも緑の葉が茂っている。4月にはここは白い花の香りでむせかえるだろう。

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懐かしい雰囲気の中野の仲道通り。「文化堂」というレコード屋も健在。20年くらい前に、この入り口にあった「めりけん吉田」というとても面白い看板の古道具屋でブリヂストンの中古自転車を買った。

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「新鮮 蔬菜」と書いてある八百政の看板。「蔬」というのはキノコという意味らしい。ここでも季節外れの丸葉朝顔の葉が青々と生い茂っている。東京では冬も完全な立ち枯れにはならない。

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2017年7月16日 (日)

母のこと、介護のふりかえり / 毛利やすみさんの展示、 原やすお 

7月12日

母はまだ存命。

母との日々を振り返るために、自分の書いた過去のブログを読んでいた。

母が認知症とパーキンソン病による身体の不自由が進行しつつある時、介護の時間、母と一緒に過ごす時間、私はその瞬間には母のことしか考えていなかった。

母の介護をしている時の私は本当にそこに集中していたので、早く家に帰って自分の仕事をしなくちゃ、という急くような思いはまったく浮かんでこなかった。

まだ母が少し歩けた頃、母と私は陽の色や温度を感じ、植物を見、落ちている実や落ち葉を拾った。

それは私にとって純粋な体験の時間、静かな幸せの時間だった。

母を抱えて歩くとき、すれ違う年配の人に、にこにこしながら「孝行してくださいね~。」などとよく声をかけられた。

転倒しないようにと母のこわばってきた身体を支えて歩くので、私はいつも緊張していた。.

帰宅するとはじめて、自分の身体にこんなに負荷がかかっていたのかと思うほど、肩や背中や腰が痛んだ。だが、母を抱えている時はまったく痛みを感じなかった。

母がまだ要介護3だった2011年の暮れから翌年の正月まで、介護サービスがお休みの時は、本当に母が死ぬかと思い、緊迫していた。

2012年末、母が転倒して大腿部を骨折してからは、食事介助などがたいへんだった。

介護制度の矛盾により、次の入所先が決まらず、薬を処方してくれる主治医もなくなり、先が見えない不安で押しつぶされそうになって、日に何度も吐くほど疲弊していた時期もあった。

・・・

母の介護の大雑把なまとめ(私自身のための備忘録)

2007年から2009年、母はだんだんと具合が悪くなり、震顫(しんせん)が出てきて、ぐったりと横になっていることが多くなった。

しかし実家に帰ると、祖母の仏壇には必ず母が摘んだみずみずしい野の花がさしてあった。

玄関にある昔母が使っていた古いミシンの上には、秋には紅色の桜や楓の落ち葉が飾ってあった。

母が調理ができなくなってきたので、私が調理したものを実家に持参して食べさせるようになった。大根、人参、里芋などの根菜と厚揚げを柔らかく煮たもの、私の自家製のつみれなどが母は好きだった。

2007年には、大学の同級生の美貌のTが亡くなったことを私が告げると、母は「あんなにきれいなのに、もったいないねえ」と涙をこぼしていた。認知症の始まりの時期だったが、まだ温かい感情は死んでいなかった。

2008年4月。四谷3丁目で展示(私に強引に展示を要請した主催者本人から信じられない(凝った手口で)酷い妨害を受ける)。

8月くらいから(モデルさがしはその前の3月くらいから)ずっと、私は『デッサンの基本』という本を必死でつくっていた。『デッサンの基本』は2009年7月に発売された。

2009年には、(認知症のまだらボケはあったにせよ、)桜の木の絵を描いている人が映っているテレビを見て、「桜の枝にしてははまっすぐすぎる。桜の枝ってあんなにまっすぐのは少ないでしょう?」と私に言うほど母の認知はしっかりしていた。

この頃は東京医大の脳神経科に母を連れて行っていた。2時間も待たされ、その間いつも母は疲れてぐったりしてソファで横になっていた。

調子がよさそうな時は、母を支えながら散歩して一緒に花を摘んだり、落ち葉を拾ったりした。

2009年8月に、介護保険申請のために区役所の人が来訪。8月に依頼した診断書をY医院のY先生が10月まで隠匿していた(Y先生は精神的に不安定で、その後、Y医院は閉院)。介護認定が出たのはそのあと。

2010年。4月、恩師、毛利武彦が亡くなる。私はショックで著しく体調を崩した。9月末、ドイツへ。

(この頃から精神的におかしいパクリストーカーに数年張りつかれ、私はうつ病になりそうなほどのストレスを受ける。)

2011年。3月11日の震災の後、「放射能が怖いので、ちゃび(猫)を連れて一時だけ九州あたりまで避難しようかと思う」と父の前で言ったら、母は急に正気に戻ったように「行きなさい!私たちのことなんてかまわなくていいのよ。若い人は避難したほうがいいに決まってる!」と言ったので、父も驚いて笑う。(母はこの時、普段は認知症傾向であまり話は通じなかったのに重要な場面で急に覚醒!)。

この頃、母をタクシーでショートステイに連れて行った後も、一緒に塗り絵をしたり、散歩に連れ出したりで、私は結局夕方5時過ぎまで施設にいることもあった(戸山の施設は人手不足だったので私にすぐに帰ってほしくなくて長くいてほしがっていた)。

2011年、私は『反絵、触れる、けだもののフラボン』の原稿を必死で書いていた。デイケアのほか、北新宿のK、東新宿のM、西早稲田のF、下落合のSなどのショートステイに、私が母をタクシーで送り迎えしていた。

11月頃から池袋のA,、文京区のHなどの老健の面談で忙しかった。転倒の危険が高いという理由でどこからも断られた。

2011年の暮れから翌年の正月、介護サービスが休みで、自宅に通いでの介護がものすごくたいへんだった。寒い部屋でほっておかれている母が今にも死んでしまいそうだった。

2012年。この頃は1か月のロングステイに行っている。溜まった洗濯物は、私が途中、取りに行って洗濯していた。1か月預かってもらうと、身体のリハビリにはよいが、母の認知症は進むようだった。

叔父夫婦が突然実家に来訪。母はもう、すごく柔らかいものしか呑み込めないのに、あらかじめ状態を聞かずに鰻を買って来られて、私はすごく困った。5mmか1cmまで細かくして、指で小骨をとってすごく小さい一口ずつにして食べさせるのに時間がかかった。

母の食事を介助中の私に、叔父たちは、将来の自分たちの参考に、介護サービスについての情報を聞かせてくれ、と言ってきた。私はなんとか説明したが、内心、心身共に来客に疲れきっていて、もうエネルギーがなくて、口を開くのもしんどかった。

今、余裕もなく目の前の介護に集中している私に、まだ元気で介護の必要のない人たちが、自分の未来のための情報を聞いてくるのがイライラした。聞きたければ行政に聞けばいいのに、とこの時は思った。

しかし叔父が2016年に癌で急死していたことを2017年に叔母に聞き、私はショックで悶絶。実の父の性格が異常なので、私は(私の母を大切にしてくれる、母のすぐ下の弟の)叔父に、ものすごく精神的に頼っていたことを自覚する。

2012年7月、『反絵、触れる、けだもののフラボン』の初校ゲラの校正を水声社へ提出。

この頃、私はよく朝まで仕事をしていた。9月21日、『反絵、触れる、けだもののフラボン』の最終打ち合わせ。第3稿をもらう。

この頃、母が高熱を出したり、転倒して怪我をしたりでたいへんだった。

2012年12月12日。母がトイレで支えていた父とともに転倒、大腿部を骨折。

12月18日、母、全身麻酔の手術。一時、炎症を起こして40度の熱を出し、死にかかる。

もうだめかと思い、妹を病院によぶ。久しぶりに会った妹の、「もう、うるさい!」と言ってすぐに帰ってしまった態度に、私はショックと怒りが収まらなかった。

2013年。3月に母の介護度が3から5になる。

リハビリで入院していたN病院で、N女医からドクハラを受ける。

母が苦しそうに痛みを訴えたことを「なにも具合悪くないくせに大騒ぎして、まるでオオカミ少年だ!」とN女医に言われた。

「変なことばかり言うのよ!譫妄があってリハビリの効率が悪い。さっさと家に帰ってほしい。」と私は面談で直接、N女医から罵倒された。

実際は胸水がたまっていて母は苦しんでいた。パーキンソン病(難病指定)だという前の病院からのカルテにも、N女医はちゃんと目を通していなかった。

私は、母の担当医を変更してくれるように看護師長とメディカルソーシャルワーカーに何度もお願いしたが、いくら言っても完全に無視された。看護師長はこちらの話をまったく聞かず鉄面皮、MSWは一度も顔を見せてさえくれなかった。

結局、私はN病院の事務局長まで直訴に行った。

この事件は私の心身にとって、ものすごく大きなストレスとなった。

事務局長はN女医の態度を「人権侵害にあたる」と認めてくれた。

母の主治医がN女医から院長にかわり、院長の診断書により、母は4月に身体障碍者一級になった。

N病院の3か月のリハビリ入院からの転院先を探して、いくつも老健の面談に奔走したが、どこも断られ、私は不安と疲労で追い詰められた。

2013年5月8日に板橋の老健Eに入所。Eへは、私は池袋から歩いて食事介助(と歯磨き)に通った。この頃、母は傾眠が酷い日があったが、調子がいい日は懐かしい歌を歌ったり、昔の写真を見て笑ったりもしていた。

ここでも、3か月すぎたら次の転院先を探せ、と迫られてたいへんだった。

また、持参した薬が8月の頭でなくなってしまう問題に悩んだ。入居中の老健は経営上の都合で薬は出せない、N病院はリハビリ病院だから最大1か月分しか薬は出せない、以前の在宅の主治医はもう主治医ではないので処方できない、と言われた。

つまり介護保険制度の矛盾により、どこからも薬を出してもらえないと言われ、心身ともに追い詰められて、私は極限まで疲労していた。

7月25日、府中の郊外の特養Tを見学。27日に書類審査を通り、決断を迫られたが、母の終の棲家として決心がつかず、悩んだすえお断りする。

8月17日、第一希望だった北新宿のK苑から「待機」になった連絡をいただく。

10月24日、K苑へ入所。

7月8日

母がいよいよ亡くなる時に来て、もっと母の幸せのために尽くしてあげればよかった、という後悔と不全感で、非常に心が乱れていた。

そうしたら、母の在宅介護の時(数年前)のケアマネのMさんから、たいへん心のこもったメールをいただいた。

母が最初に介護認定を受けてケアマネさんのお世話になり始めたころ(6年くらい前)、認知症は進みつつあったが、まだ受け答えもはっきりしていて、「私はパパが大好きだから、ずっと一緒にいたいけど、パパは私のことを迷惑だと思ってるんでしょう?」と父に言ったそうだ。

また、ケアマネさんが父と話すと、やきもちをやいたりもしたそうだ。(私はまったく気がつかなかった。)

認知症になってからの母は、父にされた長年の酷い仕打ちを忘れて、最初に父に出会った頃の恋する女に戻っていたようだ。

私は、自分が20歳頃に父に負わされた大きな借金の凄惨な記憶や、父が死んでからも出てきた私を苦しめ続ける数々の悪行の後始末のことで、母が幸せな結婚をしたとは思えなかった。

実際、しっかりしていた頃の母と私は、異常性格の父の暴力に対して、共闘する同志のようなところがあった。

しかし母にとっては、父に出会った頃は、駆け落ちしたほどの大恋愛だったのだ。私が生まれてから、父は思いやりのない性格になった、と母はよく私に言っていた。

母が祖母の介護を終えて、パーキンソン病の苦しみが始まるまでの7年間くらいは、父と二人でよく出歩いていた。この頃は母は幸せだったと思いたい。

過去のブログを読み返してみれば、自分で今思うよりは、私は母の介護をよくやっていたようだ。

施設に迎えに行ってから、家で食事を用意して、介助して、薬を飲ませて、ストレッチやマッサージなどして、4時間から5時間くらいかかることもあった。

母はまったく贅沢をしない人だった。もっとおいしいものを食べさせてあげればよかったと悔やんでいたのだが、まだ嚥下が悪くない頃は、私は自分が一番おいしいと思うケーキなども買って行っていたみたいだ(私自身はひとりではケーキや甘いものを食べない)。

すっかり忘れていたが、私は母が好きそうなものも、サプリも、母のために当時、思いついたことはやっていたようだ。

7月7日

母が高熱で倒れて入院してから1か月が過ぎた。

7月1日

母が死ぬ緊迫感で、このところずっと心身ともに疲弊している。

恩師、毛利武彦の奥様である毛利やすみさんの絵の展示を見に、銀座へ。

やすみさんは、本当にかわらずお元気だったので、とても嬉しかった。

とにかくやすみさんに、阿部弘一先生が毛利先生から送られた手紙やスケッチなどの収蔵先を探しておられることを改めて伝え、世田谷文学館は厳しそうだが、どうしたらいいか、と聞いたのだが、あまり深く考えておられないようだった。

ただ、「慶応で働いたことで、ただひとつすごくよかったことは阿部先生と出会えたことだって毛利が言ってたわ。」とやすみさんがおっしゃったことが、私の胸を打った。

この日、やすみさんのお父様も画家(漫画家)だったことを知る。

そのやすみさんのお父様の名前が「原やすお」だと聞いて、雷に打たれたようになってしまった。

私が、もの心つくかつかないかの時に、家のお客さんの誰かが私にくれた集英社の『とんち曾呂利』という漫画、私が生まれて最初に夢中になったまんがの作者が、その「原やすお」だった。

いつの間にかその本は失くしていたが、大人になった私は、どうしてももう一度読みたくて、「そろりしんざえもん」(曾呂利新左衛門)という名前だけで何十年も探していた。なかなか見つからなかったところへ、思いがけず、親友が探し出してきて、去年の私の誕生日にプレゼントしてくれたばかりだった。

まさか、やすみさんのお父様だったとは。もっと早くに言ってほしかった。それにしても不思議なご縁だ。

森久仁子さん(毛利武彦先生の従妹で、歌人の春日井建の妹さん)にお会いしたかったのだが、つい先ほど帰られたという。

会場は、うしお画廊というところだった。銀座6丁目のみゆき画廊が2016年になくなっていたことも、私は知らなかった。

正直、毛利やすみさんのほかは、阿部弘一先生と森久仁子さんにだけ、私は会いたかった。

自分が絵を描いていて、それについての本も書いているのに、私は美術、絵画の周りを取り巻く人たちと会うことほどストレスになることはない。画廊を出てから、本当に立っていられないほど疲弊して苦しくなった。

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鈴木創士さんと、何度かメールのやりとりをさせていただいた。鈴木さんもこの春にお母様を亡くされた。「お母さんはきっと全部わかっていますよ。」というお優しい言葉をいただいて、少し落ち着いた。

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2017年6月22日 (木)

母のこと

6月21日(水)

朝から強い雨。午前11時に遠藤さん(西新宿で私の幼少時から母と親しくしてくださっていたかた)宅へ。

道すがら雨でスカートがびしょ濡れになり、ふくらはぎから足が冷えてつりそうになった。

足は冷えているのに自律神経失調で掌や手の甲から汗がふきだし、動悸と肩凝りではあはあ言っている私に、遠藤さんはツボ押しをしてくれた。まったくどちらが高齢者かわからない。

遠藤さんのご両親は若くして亡くなったそうだ。お父さんは終戦の翌年に。遠藤さんは西新宿の家でご主人の両親を自分の親と思って介護したという。

ご主人のお姉さんの介護もお嫁にきてすぐから30年やった。亡くなった時にうちの母がお香典をもって遠藤さん宅に伺った時のことを、感慨深く覚えているそうだ。

遠藤さんは空襲で逃げ惑った経験、焼け野原の東京や、昭和20年代の新宿についても話してくれ、とてもありがたかった。

また、教師になりたかったのに、そのころの教員試験は健康重視で、背が低く痩せていることで合格は諦め、銀行に勤めたこと。その後、九州の炭鉱を経営する親戚に請われてお手伝いさんに行ったこと、お母さんが倒れて東京に戻り、後に務めた出版社でご主人と出会ったことなど。

一緒に昼食をとった(店はサラリーマン男性でいっぱいで、少しうるさくて落ち着かなかった)あと、遠藤さんは区のボランティア活動へと地下鉄で出かけて行った。そのあとには夕方に娘さんのいる病院へ行くそうだ。

3時すぎ、クリニックで星状神経ブロック注射を受ける。暴風雨になったせいか、2、3人しか待合室にいなかった。このクリニックがこんなにすいているところを見たのは初めてだ。

6月20日(火)

朝、遠藤さんから電話があり、明日伺う約束。

午前中に動物病院にちゃびの輸液や薬を買いに行く。

夏至近い真昼間の日射し。私の好きな折れ曲がった細い路地。

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雨を恋しがる紫陽花。
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看板娘のハナちゃんの写真を撮らせていただいた。触れさせてもらうと、非常に力をもらえる。

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私が小学校2年の時に飼っていたスピッツ系のミックスのチロに顔がよく似ていて、感傷的になり、涙・・・。死ぬほど愛していたチロは私が小学校6年の時に死んでしまった。

「母もちゃびも死んだら、私どうなっちゃうんだろう、と思って・・・」と看護師さんに言うと「まだ死んでないですよね!」と言われた。

確かに快作先生の動物病院では、毎日、毎時間、命を救うことと、動物と愛情関係を生きることに集中していて、悲しみにとらわれている暇はない。

私のように喪失の悲しみにばかりとらわれていたら生きていけない。だけれど最近はずっと心がセンシティヴになりすぎていて苦しい。

母のいるY病院のソーシャルワーカーさんから電話。K病院(療養型で費用は高いところ)も受け入れ可だと言われた。

3:30近くの婦人科(初診)へ。いろいろ子宮体癌のリスクについて脅かされて吐きそうになった。

4:37母の入院しているY病院へ。5時過ぎ、主治医のK・S先生と話す。K・S先生は経鼻栄養には否定的だったが、意外にもCV(中心静脈栄養)に関してはやってもいいんじゃないかと思う、と言われた。

ものすごく神経が疲れた一日だった。阿佐ヶ谷の魚のお店で日本酒を飲む。

6月19日(月)

母の入院しているY病院のソーシャルワーカーさんから、母の転院の受け入れ先として、T病院はOK、I病院は現在の末梢点滴ができなくなったらCVへの移行を承諾することが条件と言われる。

どちらも気持ち的には受け入れがたい。

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私の甲状腺癌の定期健診に鎌ヶ谷の病院へ。12時前に家を出て、2時前に着く。

ここ一週間以上、私がずっと苦しんでいる頭皮神経痛、肩こり、動悸、不安、不眠について話したら、甲状腺ホルモン値が高すぎるのかもしれない、と言われた。

(私は甲状腺を摘出しているので、チラジンという甲状腺ホルモン剤を毎日飲んでいる。)

急遽、血液検査で3本採られた。1時間後、結果は、やはり血中の値が高めだったとのことで、薬の量を少し減らすことになった。甲状腺ホルモンの必要量は夏の暑さも関係していて、暑くて代謝が盛んな時は薬の必要量が低くなるとのこと。

精神安定剤は依存性があるので増やさないほうがいいとのこと。今、朝の動悸の時と入眠時にレキソタンを1mgずつ飲んでいる。

4時過ぎに会計が終わる。最近、夜眠れないせいか、帰りの電車の中でがく、がく、となるのが嫌なのに起きていられず何度も「がく」、と眠りに落ちてしまった。

6月18日(日)

イタリア在住の日本人女性のかた(Cさん)から、以前から私の絵と文章を見ていてくださるというメッセージが届いた。海外からのこのようなメッセージをいただくことはほとんどないので、信じられなくて、最初、なにかのいたずらかと思った。

すごく精神的に苦しく悲しい時なので、とても励まされた。

・・

JR駅近くの自転車集積所に行ったが、私の自転車はなかった。

駅前交番で話を聞くと、20年前の自転車の登録番号はもう警察に保存されてなく、見つかるのは絶望的だそうだ。

水曜に乗って、マンションの駐輪場に入れたことは覚えている。それ以外に、どこに乗り忘れたのか思い出せない。自分の記憶力に不安を覚えた。私が緊張して動揺しているからなのだろうか?

サドルをつけてくれたKサイクルのおじいさんに相談し、中古自転車3台に試乗させてもらった。やはりブリヂストンの緑の自転車を選んで買った。

6月17日(土)

私はよく何かを紛失する。そして、どうしようもなく探し物が不得意だ。

小さいときから、母に「私の欠点てなんだと思う?」と聞くと「整理整頓が不得意。失くしものが多い」と言われていたことを思い出していた。

朝から数時間、新しいPCの設定のためのマイクロソフトの認証番号のカードを捜していて、ごちゃごちゃした机周りに見つからず、疲れて絶望しかかっていた時、PCの入っていた段ボール箱の底から見つかった。

今まで何度も段ボール箱をひっくり返して振っていたのに見えなかった。だが、結局あった。

夕方5時、予約していたほぐし系マッサージに行こうと、マンションの自転車置き場に行くと、自転車がなかった。

14日水曜に遠藤さん宅まで乗って以来、乗った記憶がない。母のことで動揺していて、記憶が飛んでしまっているのだろうか。

日時の記憶があいまいだが、私が自転車で行く可能性のあるスーパーとクリニック、整骨院、動物病院の駐輪場を全部くまなく見て廻ったが、私の自転車はなかった。

(夕刻、青く沈んだ闇の中で街路のクチナシ(梔子)が白く浮き上がって匂っていた。その枝を手折り、流し台のところに生けたら、台所中が甘く湿った香りに満たされた。)

20年以上も乗っているブリヂストンの白い自転車だ。昔、中野にあった「めりけん吉田」というリサイクル屋で買った。

昔、アパートの駐輪場に置いていたのにサドルだけ盗まれてしまったことがあり、母が捨てられていた自転車の引き裂かれたサドルを引き抜いてつけてくれたのを思い出していた。

その後、近所のKサイクルという自転車修理のお店のおじさんが、引き裂かれたサドルを見て「うちにブリヂストンのサドルあるよ。」と1000円でつけてくれた。おじさんは「錆びてもブリヂストンはいい。最近の外国製のはアルミだから、ぶつかったらすぐにつぶれる。」と、その自転車をほめてくれていた。

ぎいぎい言うが私の身体に似合いの昔なじみの自転車だった。

6月16日(金)

朝、昨日母の転院先希望として伝えたM園から、「痰の吸引が多い」という理由で断られたという電話をソーシャルワーカーさんからいただいた。

引き続きK病院、E病院、I病院に面接希望と伝えたが、もう、こちらで選ぶ余裕はなく、どこでも入れてくれるところに行くしかないのかな、と思う。 

4、5日前から頭の耳の上のところの表皮が、ずきずき強く傷んでたまらない。ストレスからくる頭皮の神経痛らしい。

3日前くらいから不正出血がある。生理の時のような、肩がひどく凝って、どうしようもなく眠くて重くてだるい感じがある。もしも子宮癌や卵巣癌だとたいへんなので、とりあえず婦人科の予約をした。

鎌ヶ谷の病院から電話をいただいた。今日は(甲状腺癌の定期)診察日だったと教えてくださり、次の予約を月曜にとりますか、と言われた。母のことで頭がいっぱいなので自分の癌の診察に遠くまで行く気になれないのだが、一応、予約を入れていただいた。

新しく購入したPCのメール設定などをやっていたら、6月18日までに認証しないとメールも無効になる、という警告が来ていた。マイクロソフトに電話したら認証番号(が書いてある紙)自体が製品なので、それを失くしたならどうしようもない、と(けっこう冷たく、呆れたように)言われた。認証しなければPCの中には、もともとメールやWordがはいっていないのだと気づいた。

混乱している頭で認証番号が書いてあるカードを捜したが見つからず、ひどく疲れてしまった。

6月15日(木)

11時25分に家を出、11時39分の総武線に駆け乗り、11時55分くらいに母のいるY病院に着いきた。

母のベッドのところに、もうK島さん(母の入所している特養のケアマネさん)はいらしていた。

「お忙しいところをわざわざすみません。」と頭を下げてから、「お聞きしたいことがあるのですが、私の妹と会ったことはありますか?」と尋ねた。

「ありません。」という答えをきいて、ああ、やっぱり妹は母の面会に来たこともないのだな、と思い、その瞬間、自分でも予測しなかったことなのだが、急に激しい悲しみに襲われて、つーっと涙が垂れてきてしまった。

「すみません。まだ泣いたことはなかったんですけど、最近ずっと緊張していたので。」と言いながら涙が溢れて止まらなかった。

「母が、もう最期だ、ということを実の妹にはまだ知らせてないんです。妹は母の介護をやってくれなかったので。妹に会わなければならないと思うと、胸がざわざわして怖いんです。」とK島さんに言った。

12時くらいと言われていたが、担当の先生が来るのが遅かったので、K島さんについ母や父、妹のことを話してしまった。

・・

母は、これまで何度も、もうだめかと思うような時があった。私が通いで自宅介護していた時に、トイレで転倒して脚の付け根を骨折した。H外科病院での手術直後、40度以上の高熱が出て、もう死んでしまうのかと思った。

その時、バタバタとあわただしく担当医と二人の看護師さんが母のところにかけつけて、私は「廊下にいてください」と言われ、ああ、母の最期だと思った。

私の連絡を受けて、妹が病院に来た。久しぶりに会う妹に私が勢い込んで「あ、今ね、すごくたいへんだったのよ!40度の熱が出てね。本当に死ぬかと思った。」と告げると、妹は心配するどころか「なに?ああ!うるさいなあ、もう!」と不機嫌そうに言って帰ってしまったことが忘れられない。そのことがずっと、私のなかで妹を許せない傷として残った。

昔は母と私に甘えきっていた妹だ。妹は過去に、自分が困った時は私にさんざん長電話をして甘えたり、私の家に来て、私に泣きついたりしていた。私は長年、妹のわがままや愚痴を許容してきた。

母がパーキンソンの身体的不自由と認知症に少しずつ侵されていったここ8年くらいと時を同じくして、妹は精神的におかしくなっていた。妹は、母がどんなに必死で働いて私と妹を養ってくれたか、どんなに愛情深かったかも忘れてしまっていた。

ギャンブル依存で母や祖母の金を盗み続け、多額の借金を祖母と母と私に負わせて、私を癌にし、さんざん苦しめ続けたた父を、妹は「子供のときに自分と遊んでくれた」から大好きだと言い、その借金のために必死で働かされた母と私のことを、「子供のときに自分と遊んでくれなかった」から憎んでいると言った。

母を(私が通いで)介護していた時、母に食べさせるために野菜と豆腐の煮物などをつくって実家に行くと、母が寒い部屋に寝かされたままほったらかしにされて震えていて、隣の父の部屋から、(子供連れの)妹の酔っ払った甲高いはしゃぎ声がうるさく響いていたのが忘れられない。

父と妹は、外面はよく、身内に対してだけ際限なく甘え、卑劣なマネをするところがそっくりだ。

・・

担当医が来てK島さんと一緒に病状説明を聞いた。小さな肺の炎症はあるが、肺炎というほどではない。尿路感染だと思われる熱も下がってきた。嚥下反応はあるが呑み込めていないので、口からの栄養は危険。療養型の病院への転院先をさがすこと。

そのあと、デイルームでK島さんとお話しした。転院先が決まったら施設の車で、母の荷物ごと運んでくださるとのこと。ありがたい。

母がK園に入る2か月前に、府中の特養から入所のお声がかかって「現在700人待ちで、これを断ったら最後かもしれないですよ。」と言われ、私はすごく迷って苦しんだが、ケアマネのMさんや新宿の特養A園のTさんに相談して、K園(私と母の住まいに一番近い新宿区の特養)からお声がかかるまでもう少し待ってみる選択をしたことなどをK島さんに話した。

「そんなことがあったんですね。」とK島さんは聞いてくださった。

最後に母がK園ですごせたこと、K島さんをはじめ、ほかのスタッフの皆さんにお世話になれたことは幸せだ。今まで、たいへんなこともあったが、どこかに必ず親切にしてくれる人と出会えていた。

母がずっと何十年も必死に働いて、祖母が家事をやって一家を支えてくれたこと、祖母と母は信頼しあい支えあっていて、あんなにいいおばあちゃんを捨てることだけはできないと母が言って、(父がだらしない性格のせいで大きな借金を背負った時も)父と離婚しなかったことなども話した。

K島さんに(K島さんはお忙しいのにたいへん申し訳なかったのだが、)母のこと、父のこと、私の口から、ついことばが漏れ出てしまい、聞いていただいたら、それまでのやり場のない不安や暗い気持ちが、だんだん落ち着いてくるのがわかった。

今、この状況が私は悲しくてたまらないのだが、過去のことを考えると、理不尽なことに対して私なりには精一杯やってきたような気もして、これ以上どうしようもなかったのだ、過去には確かに母の幸せな瞬間も、充実した瞬間もあったのだ、という気持ちになり、少しだけ落ち着けた。

6月14日(水)

朝、遠藤さんから電話があった。「お母さん、どう?」と言ってくださった。私もずっと(西新宿での母の昔馴染みの)遠藤さんを恋しく思っていた。

遠藤さんも入院中の娘さんのお見舞いに行くので、帰宅してから夕方、私が遠藤さん宅に伺う約束をした。

・・

Y病院の母に会いに行くと、看護師さんから2回のソーシャルワーカー室に行くように言われた。その瞬間、なにを言われるのかわかった。(早く転院してほしいということだ)

療養型の病院を3つ提示された。

・・

4時過ぎに帰宅し、5時に自転車で遠藤さん宅に行った。

遠藤さん宅では誰も飲む人がいないというビールを冷蔵庫から出してくださった。

「本当にあなたのお母さんはよく働いたわよねえ。」と言ってくれた。

施設に持っていっていて食事介助しながらよく母に見せていたアルバムを遠藤さんにも見ていただいた。生まれたばかりの私と祖父、祖母、母と一緒に写っている黒塀の場所は、料亭藤本の系列のお店だと教えてくれた。

妹には母を見送ったあとはもう会わないほうがいいね、と言われた。こう言ってもらえるのはほっとする。「家族なんだから仲良くしなきゃ」と他人に言われるほど苦しいことはない。

6月12日(月)

家を出た時は曇り空だった。紫陽花は雨を恋しがって少ししなだれていた。

12時45分に母の病棟着。

看護師さんに、「もしできるなら今日から栄養(食事)って先生から伺ってたんですけど。どうでしょうか。」と尋ねると、今日から車椅子に乗せていただいたそうで、昼は食事を試みるそうだ。

ベッドに寝ている母を車椅子に乗せていただき、ナースステーションの中のテーブルでキャロットゼリーなるものを看護師さんからスプーンで口に入れていただいた。

まずはスプーンを口の中に入れて、頬の内側をスプーンの裏側で刺激。それからひと口。

目は薄く開いているようだが傾眠で、呑み込みが悪い。なんとか2口、3口、飲み込んだが、あんまり反応がない。

「とりあえず食事は止めて、お散歩されますか?」と言われて、母の車椅子を押して、談話室へ。

窓から新宿の高層ビルを見せる。「わかる?新宿のビルだよ。」と言うと「うん。」と返事。その時、目を射るような6月の光が街に射した。陽に輝く空とビルを見せて、母に話しかけていた。

母が私を生んだ頃から、ずっと見慣れた新宿の高層ビル街だ。自宅から新宿駅に出る時は、いつも中央公園の脇道と、住友ビル、三井ビルの横を通り、地下道を抜けて歩いた。

それから西病棟の端っこの窓まで連れて行って、「見える?」と6月の雲を見せる。やはり母は「うん。」と言う。

数分経ってから、今度は東病棟のどん詰まりまで、ゆっくり車椅子を押して、「わかる?電車が通ってるの。」と。

「うん。」と言ってくれることが幸せ。母の命がまだあることが幸せ。もう、それしかない。

叔父が亡くなっていたことのショックが、私の身体に沁みて、私の神経はそうとうおかしくなりつつある。

私は、元気すぎるくらい口くるさくていろいろ心配してくれる叔父を(離れているからこそ楽だと思いながらも)すごく信頼していて、、今まで意識できなかったけれど、精神的に、叔父の判断力を、すごく頼りにしていたのだな、と今更ながら、涙とともに自覚する。

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2017年6月11日 (日)

母の入院と叔父、叔母の死

6月10日

6日水曜の朝に母が施設から大きな病院に入院した。このところ熱が出ることが多かったが、いよいよ唾の嚥下が悪く、施設では夜間看護できる体制がなく、危険だからだ。

それから母の死のことを考えて、不安と緊張で首と肩と背中が固まって、ずっと胃と心臓が痛い。

ずっと母を心配してくれて、支えてくれた東京にいる叔父(母の弟)にだけはお知らせしようと、昨日の夜、電話をした。

別人のようにすごく疲れてかすれた声で、おばが出た。

「おじさん、もうお休みになっちゃいました?」と聞いたら、「あのねえ、あなたに言わなきゃならないと思ってたんだけど、・・・お父さんね、去年の4月に亡くなったのよ。」と言われて、まったく意味が理解できなかった。

「ええっ!?・・・なんで!?」と、ただ反射的に声が出た。

去年の2月の終わりに膵臓がんが見つかり、4月1日に亡くなったという。「痛くはなかったんだけど、あっというまで・・・」とおばは泣いていた。

おばには私の家の電話番号がわからなかったらしい。「はがきで知らせるべきだったんだけど・・・」と、それもできないほど、おばは心労で疲れていたらしかった。

母と叔父はずっと仲がよくて、叔父は私の父に苦しめられていた母を、ずっと心配して、よくしてくれていた。病的に金遣いが荒い(ギャンブル依存)の父と、堅実な叔父は正反対の性格だった。

母と似て神経が細く、男には珍しいくらいの心配症で、いろんなことが気になる性格の叔父だった。とにかく生真面目で一生懸命な人だった。

私によく「くれぐれも姉の介護を頼んだよ。知佐子なら安心だ。」と言ってくれていた叔父だ。

父の直葬の時も、叔父は母を苦しめた父を許せないから、と火葬場にには来ず、父への香典ではなく母の介護金として私にお金を送ってくれた。

私は叔父が元気でいてくれること、叔父だけはなにがあっても母のことを思っていてくれて、昔の母のこともよく覚えていてくれることがありがたかった。それがずっと母を介護する私の心の支えになっていた。

叔父は、母と私にとって、長年にわたる父からの虐待、借金地獄との壮絶な闘いをわかっていてくれている、この世でただ一人の、信頼できる肉親だったのだ。

たったひとりの頼れる叔父が、もうこの世にいないことが信じがたかった。

ものすごい喪失感と不安で目の前が真っ暗になり、吐き気がした。

おばも「私がもっと早くに気づいてあげていたら。もっとよくしてあげていたら、と思うと苦しくて・・・。」と泣いていた。叔父とおばは、お互いに神経が細くて余計なことを考えてしまうタイプで、よくぶつかって不機嫌になったりしていたのだという。もっと一緒に楽しくすごせばよかった、とおばは悔いていた。

私は必死で動揺を抑え、一生懸命おばを慰めた。

小学生の頃の叔父宅の思い出、自宅付近に咲いていた花、叔父やおばがその頃好きで聴いていたレコードのことなどを話すと、おばは「知佐子ちゃんは本当に記憶力がいいわね。なぐさめてくれてありがとう。」と言っていた。

電話を切ったあと、ものすごいさびしさと苦しさで胸のざわざわが酷かった。胸骨のあたりと胃が激しく痛んだ。

あんなに元気で頭がしっかりしていて、心配性で口うるさかった叔父が母より先に、あっけなく死んでいたことがすごくショックだった。自分がとり乱しておかしくなりそうなのを、ぐっとこらえていた。

そして今日、昼におばから電話があった。

田舎の叔母(母の妹で、叔父の姉)が、今日、亡くなったという。しかも叔父と同じ膵臓がんだったという。

無常ということ。

おばも、叔母から叔父の田舎時代の思い出など、まだ聞けると思っていたのに、それが完全になくなったことがすごい喪失感でたまらないと言っていた。

おばも、今さらながら、叔父がなにを考えていたのか、なにに必死になっていたのか、もっと聞いておけばよかった、話しておけばよかったと悔やんでいるのだ。

誰かがどんなに苦しんで精いっぱい生きてきたのか、それを知っていてくれる人も、また死んでしまう。

もう亡くなってしまった人に対して、もっとああすればよかったのに、と後悔で自分を責めることの際限ない苦しみに陥ることが、私はすごく恐ろしかった。そこにはまり込まないように、どうにか必死で耐えた。

・・・

夕方4時、予定通り、以前に母のケアマネさんだったMさんと新宿で待ち合わせ。

久しぶりに会うMさんはたいへん忙しいお仕事のせいか、少しやせたように見えた。父が死ぬ前に新宿の病院でお会いして以来だ。

Mさんも年月の感覚がないと言っていたが、私も父の病院でMさんと会った時の6月の光と、植物は覚えていても、それが何年前のことだか思い出せない(たぶん3年前だが、もっと昔のような気もする)。

目的の飲み屋に行く道すがら、母が入院したこと、叔父、叔母の死について話した。

Mさんと話すことで、私はしばし落ち着いていることができた。とてもありがたかった。

そういう苦しみがあるということを、ただ知っていてくれる人がいる、信じられる人が知っていてくれる、と思うことは、耐えていくための大きな支えになるものだ。

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2017年4月27日 (木)

クロアゲハ 菫 牡丹  母のこと

4月23日

17日にも、母が夕方から熱を出したと施設から電話があり、心臓がどきどきしたが、座薬により、次の日には熱が下がったとのことで、またもたすけていただいた。

去年と同じように牡丹を見せに、母を近くのお寺に連れていきたいと思い、おとといぐらいから、母の体調を施設に問い合わせていた。

今朝、副施設長から、「最近は痰がらみが多いのと、夕方に熱を出すので、朝10時前に短い時間なら外出可能」という電話をいただいた。

皆が一番恐れていることは、痰がらみ(おそらく、パーキンソンで喉の筋肉がこわばっていることも原因のひとつ)で窒息することで、私もそれが怖かった。

母本人が、外出したいと私に言っているわけではないので、無理して連れ出しても、私の自己満足のために、危険が増すだけかもしれないと思い、車椅子で連れ出すのを諦めた。

夕方に、去年、母と行った寺に寄ってから、母に会いに行った。

去年と同じ場所に咲く、濃い紫の花で尖った葉のスミレ。私も母も大好きな花。

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お寺の牡丹は黄色い花のほかは満開だった。

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去年も魅せられた珍しい斑の牡丹。
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ふくよかで甘い薄紫の牡丹。

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母は、最近、傾眠と喉のこわばりが強くなってきて、食べられる量が減ってきている。

高齢で、パーキンソンで、もうそんなに長く生きられないことは自然なことで、肉親との別離も、たぶん親との別れの経験が幼少期だったりして、思い出せないような人もいるので、誰にでもあることなのだが、母が死ぬのが怖くて、胸が締め付けられ、身体が震えるような感じがする。

私は親しい人の死に、ものすごく苦しむ。そういうことにすごく弱い。

他人の感じ方を私が把握できるわけではないので、私が特に激しいとはいえないのかもしれないが、大切な人の死を知った時や、お葬式などの場面で、私は泣き過ぎて吐いたり、全身が痛くて、苦しすぎて卒倒しそうになったことが何度かある。

悲しみが強い身体的苦痛になり、全身がおかしくなるのだ。

感情の奔流にのまれやすいのだと思う。母もそういうところがあった。母もすごく涙もろかった。

母に認知症が少しずつ出てきて、介護するようになってから、ある日、母をショートステイに送って行くタクシーの中で、母がふとしゃべった。

「親が決めた結婚相手がいたのよ。近所の真面目な大工の人。その人と一緒に東京に出されたの。でも好きな人ができて飛び出したの。夜、鞄一つ持って、新橋の駅で。」と。

情熱的で激しいところが、私は母に似たのだ。

それにしても、田舎育ちで地味で生真面目な母が、駆け落ちまでして惚れた相手が、一見、ものをよく心得た優男だが、実は異常なほどわがままで、ギャンブル依存で浪費家で、母や私を殴る蹴るしていた父だ。

今になっても、父のようなろくでもない男に母が惚れないでくれていたら、と思うこともしばしばだ。

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東中野から中野まで、線路沿いの道を歩く。去年の立ち枯れの植物が私は好きだ。たくさんのことを思い起こさせてくれる。
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アスファルトの割れ目から、旺盛なタンポポ。
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そしてすごく美しいものが静かにそこにいた。

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クロアゲハ。弱っているのだろう。けれどストローのように伸びた口はしっかりタンポポの花の中に突き刺さっていた。
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ほとんど緑にかわった桜。まだ花びらが舞っていた。

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夕焼けに向かって錆びた線路が伸びていた。子どもの頃、無性に遠くに行きたかった気持ちがよみがえる。

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空地へと続くハルジオンの咲く細い道。なにか未知のものがひそんでいそうな片隅の風景。

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4月22日

西新宿で私の幼少期から母と親しくしてくださっていた遠藤さんの絵手紙の展示を見に、新宿中央公園のギャラリーへ。

遠藤さんの米寿を祝う絵手紙「新宿花の会」のかたたちの作品。

「新宿花の会の頼れるお母さん いくつになっても向上心持ちつづけている貴女のように年を重ねたい」「どなたにも気づかいが半端ではない人」などという言葉が贈られている。

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遠藤さんの日美絵画受賞作品(於国立新美術館)

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遠藤さんは、本当に米寿とは信じられないほどお若くて(実年齢より20歳くらい若く見える)、とても頭の回転が速くて、温かくて、聞き上手で、素晴らしい人だ。少しも押し付けがましくなく、相手の心によりそってくださる。私よりずっとエネルギッシュなかただ。

私の母とはもう会話ができない状態なので、遠藤さんを、もうひとりの心の母のように思っている。ずっとお元気でいてほしい。

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2017年2月17日 (金)

絵の再生 / S・Yさんと会う / M・Mさんと会う / 母また熱 /ネットと電話、どうにか復活

2月16日

以前に絵を買っていただいたS・Yさんに、お借りしていて再生した絵を引き渡す。

〈薔薇の貌〉(2012)

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以前から気になっていた完全禁煙のヴィーガンカフェに行って一緒にランチを食べた。

天井からたくさんのドライフラワーがぶら下がっているこぎれいな店。

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この店の中にはとてもドライフラワーが多いのだが、一か所だけ生のチューリップが活けてあることに、とても眼を惹かれた。

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紅花のドライフラワーの隣に、葉がなくて丈の短い生のチューリップが活けてあった。沈んだ黒紫色の花と、その補色の快活な黄色の花と、八重の華麗な花と。

私にとってチューリップは特別に反応してしまう花。かわいく明るいイメージではなく、妖しく謎めいたイメージ。
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・・・

最近、次の本に載せるために、以前に描いた絵の加筆(再生)をしていた。修理や補修というべきではなく、絵が、日々、刻々と新たに生まれるための命を吹き込む作業というべきだと思うので、的確な言葉を模索している。

薫泥と黒泥を使っての加筆。その上から銀のこれ以上の急激な腐蝕を止めるための保護膜を張る。

<鬱金香――種村季弘に。>(2004)。この絵は、枯れたチューリップを見て、そのまま描いたもの。私は具象、抽象の区別をつけない。

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<Thisle>(2005)
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私とともに、私よりもゆっくり遅れて、あるいは私を待ちかまえているように、絵が朽ちて変化していくのは自然なことで、時間による生きている変化を含めてこそ作品だと思う。

しかし上に重ねていた薄紙が貼りついてしまっていたり、変なふうに目立つ剥落の部分だけ、ほんの少し加筆(再生)をした。

2月11日

宅配便でNTTからルーターが送られて来、本体と電源アダプタとモジュラーケーブルなどを自分ですべて交換し、(認証IDとパスワードが不明でちょっとごたごたしたが)初期登録をやりなおしたら、ネットと電話が復活。

(昨年の10月から何度もNTTやOCNに、通信の具合が悪いことを電話していたのに、もっと早くルーターを送ってくれればよかったのに、と思う。)

自分で全部操作したので、修理料金はただになった。

もし、ルーターを交換して直らなければ、壁の中を工事しなければならないかも、と言われて、すごく不安だったのだが、ほっとした。

ただ、メールの具合はおかしい。画像添付したものが送信できない。

OCNに相談すると、セキュリティソフトが効いているせいだと言われた。

2月9日

冷たい霙。こんな寒い日に母を病院に連れて行っていただくことが心配でたまらなかった。

午後2時。施設から電話があったが、通信の具合がおかしいので、出た瞬間に切れてしまった。すぐ外に出て、公衆電話からかけなおした。

母の熱が下がったこと、S病院に連れて行っていただいた結果、また少し炎症反応はあるが、肺炎でもインフルでもないとのこと。

本当に今度は危険なのではないかと、心配ですごく胸が苦しかったが、とりあえずほっとした。

また施設職員さんたちのおかげで、命拾いをさせていただいた。

2月8日

朝、M・Mさんの熱が平熱まで下がったと言うので、夕方4時頃会う。彼女とは初対面だ。

「運命に逆らって、会えた。」とM・Mさんは喜んでいた。

つくっていた布花を渡す。

M・Mさんは、東京出身で、今、大阪に住んでいる年下の絵の好きな女性だ。

彼女は(私とは部位が違う)がんの手術を経験して、今ちょうど1年。

ブログの暗い印象よりも、実物の彼女はずっと元気そうに見える。

内心の苦しさと見た目の元気さのギャップ、それによって周囲からいたわられないことも彼女の深刻な悩みのようだ。

私もがんを経験している。しかし違う部位のがんを経験したばかりの若い女性に、どういう言葉をかけていいのかわからない。人それぞれにがんの症状やタイプ、闘病の環境も違うので、なんと言っていいのか、非常に悩ましい。

ただ、がんそのものと向きあうより、出来る範囲で自分の本当にやりたいことと向きあったほうが、免疫活性にのためによいのではないか、と私自身の経験からは思う。

・・・

夜、また、母が熱を出したことを知らされる。明日、病院に連れて行ってインフルなのか診てもらうとのこと。

先日、高熱を出したが肺炎でもインフルでもなく、なんとか命拾いさせていただいたのに、また同じ症状。とても不安でいたたまれなくなる。

メールも電話も通信不能の時に、母の具合が悪いことにとても苦しむ。

2月7日

ものすごい北風。とにかく寒い。

朝、今日、会う約束をしていたM・Mさんから電話。なんと早朝から38度の熱を出したと言う。

「這ってでも行って会いたい。」と言われて、なんと答えていいのか非常に困る。私も会いたいが、私はすごく弱くて熱を出しやすい。

今、私が風邪をひいてしまったら施設にいる母にも会いに行けないし、自分の仕事も滞ってしまう。また、私が手伝いをしてもらっている友人にうつったら、友人の仕事関係すべての人に迷惑がかかる。

その後、すぐに電話もネット(メール)も不通になる。

ほとんど不通なのだが、ごくたまにメールが送受信できるので、「きょうはすごく冷たい北風だから、とにかく明日以降にしましょう。」と通信。

OCNテクニカルサポートに公衆電話から連絡。なかなか通じなくて長く公衆電話ボックスにいると、道を通行中の人からは奇異な目で見られているようだ。

2月6日

昨年の10月くらいから、ひかり電話が通話中に急に切れて無音になったり、受話器を上げて番号をプッシュしてもかけることができなかったりすることがたまにあり、それがだんだん頻繁になって困っていた。

昨年から何度かOCNテクニカルサポートに電話したが、ルーターの再起動をするくらいで、きょうまでだましだましやってきた。

今日、ついに、電話だけでなく、PCのインターネットまでがほとんど通じなくなる。

(「ほとんど」というのは、たまに一瞬通じる時があるからだ。)

私は携帯を持ってないので、電話もメールも誰とも通信できない状態。

公衆電話からOCNテクニカルサポートに電話。

とりあえず壁からの線を抜いてルーターを再起動してみてくれとのこと。

訪問修理になると、訪問費用7500円を含め、最高で3万円かかるかもしれないと言われた。

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2017年1月19日 (木)

森島章人さんの第二歌集 / E藤さんと食事 祖母と母のこと

1月16日

昨年末に、森島章人(森島章仁、あるいは蘭精果)さんから、ついに、待ちに待った第二歌集『アネモネ・雨滴』を出すとのお知らせのお手紙と、原稿をいただいた。

第一歌集『月光の揚力』(1999年)からずいぶん経って、長い時が結晶した歌集。

『アネモネ・雨滴』というタイトルには、“衰滅の中の希望”という意をこめたという。

昔からのお約束通り、私の絵を本(扉)に使ってくださるとのこと。

そのことに関して、きょうまた、おはがきが届いた。

私の「風の薔薇 あねもね』(2002)を使用したいとのことだったのだが、この絵が強烈すぎるので、やはり「鬱金香」(1998)を使用したいとのこと。

私としては、どちらを使っていただいても、まったくかまわないのですが・・・。

『アネモネ・雨滴』という歌集には、やはりアネモネの絵のほうが合うのではないかな、と思い、その旨と、一応、私が今まで描いたアネモネの絵を数十点メールで送った。

森島章人さんは静かなかたで、(私は行ったことはないが)空気と水のきれいな、静かなところに住んでいる。

彼の歌は、微妙な光と影が煌めく、なまめかしく妖しいイメージと、冷たく澄んだ空気を感じさせる。

森島章人さんの歌をたくさんの人に読んでほしい。

バレリーナ地に伏せるとき薄幸の世界を許すみだらを許す――『月光の揚力』より

1月18日

朝、まだ眠っていた時、10時20分くらいにE藤さんから電話があった。E藤さんは、今、私の近くに住んでいて、昔の西新宿で母が親しくしていただいていたかた。今は私が親しくしていただいている人生の大先輩だ。

正月に、今も西新宿在住で、私が小1から小2くらいの時に仲良くしていた女友だち、Oさんのお母さんが亡くなられたとのこと。

Oさんのお母さんは70歳をすぎて子宮がんになったという。

Oさんとも、Oさんのお母様とも、私は小学生の頃以来、お会いしていないのだが、E藤さんはずっと親しく交流されていたそうだ。

E藤さんは親しくしていた人が急に亡くなってとてもさみしい、とおっしゃって、私をランチに誘ってくれた。それで私は寝ぼけまなこで即飛び起きて、支度した。

駅前の「すしざんまい」でランチ。母の具合が悪く、今年の正月はおせちどころではなかった私のために、「お正月のごちそうと思って、ランチビールも飲みなさいよ。」と言われて起きたばかりだけど、ビールもいただいた。

E藤さんは、私が幼い頃の母のこと、私の祖母のことを知っている。その話を聞くと胸がいっぱいになってしまう。

E藤さんは、結婚されてすぐ(20歳代の後半)に、小児麻痺だったご主人の妹さんの、たいへんな介護をされていたとのこと。

その妹さんが亡くなった時、私の母がふたりの近所の友人とともにE藤さんのお宅に伺ったそうだ。E藤さんは残り物で悪いけど、と、ちょうど3人分余っていたお寿司を出したのよ、と言う。

「そんな時のことをすごく覚えているのに、もうそんな話をできる人もいなくなっちゃったわねえ。」と言われた。

私の母と祖母について「あなたのお母さんは本当によく働いてたものねえ。おばあさんはすごくきれいな人だった。おばあさんとよく魚屋さんで会ったわ。」と言われると涙が出てしまう。

人は皆、年老いて、記憶はどんどん時の彼方へ消えていってしまうけれど、私の祖母と母の元気な頃のことを覚えていて、私に話してくれる人がいることは、なんて幸せなことなのだろう、と思う。

「あなたはおばあさんによく似てるのかな。」と言われ、「いいえ、私は明るくて包容力のあるおばあちゃんが本当に大好きだったけれど、私と祖母は血がつながってないんですよ。」と応える。

「父はもらいっ子で、生まれてすぐもらわれてきて、本当の両親を知らない。あんなに優しかった祖母に甘やかされておかしくなった。」と。

(実際、祖母は私とは違う鼻筋のとおったはっきりした顔立ちだった。目や眉が似ていると子供の頃は信じていたけれど。大好きな祖母が私とは血のつながりがない、と母から聞いた時、二十歳くらいだった私はショックで泣いた。)

おばあちゃん(福山キョウ)と私。

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私が好きな写真。西新宿の熊野神社でおばあちゃんと。「ユキちゃんを見つけて嬉しそうにかけていきました。」と写真の裏に母の文字が書いてある。(ユキちゃんは幼なじみ)
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続く写真(ユキちゃんと私)。裏には「枝を得意そうにぽっきん、ぽっきん」という母の文字が書いてある。この頃から私は植物が大好きで、今とちっとも変わっていない。

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E藤さんは今年88歳だが、とても頭の回転が速く、新聞もよく読んでいて、とんとんと話が進む。

「それでね、その子は今、ヒッキーなんですって。」などといった言葉が飛び出す。「ヒッキー?あ、引きこもりのこと?」と言うと「そうよ。私、いろいろ若い人の言葉も知ってるの。」と。

感心するのは、話が回りくどくなくて、要旨が明解なことだ。頭がよく、人の気持ちがわかる人なので、こちらの悩み相談にものってくれる。本当に頼りになる先輩だ。

隙間のないきれいな歯も、全部、29本健在だという。それは本当にすごいことなのではないかと思う。

E藤さんは私なんかよりよっぽど元気だ。私とランチしたあと、荻窪でボランティアをするために電車で出かけていった。それも新聞で見つけて応募したそうだ。以前は新宿の老人福祉施設で絵手紙を教えていたそうだ。

・・・

私は3時過ぎから母の施設へ。小口の預け金が足りなくなったようなので、10万円持って行った。

母は眠っていた。フロアリーダーのFさんがいらしたので、母の様子をきく。気管支炎はだいぶなおり、体調は安定してきて、昨日の夕食、今日の朝食、昼食はほとんど食べた、とのこと。

おやつと夕食の間の時間で、日誌をつけている職員さんたちにも挨拶と御礼。

エレベーターで一緒になった看護師さんに挨拶し、痰の吸引などお世話になっている御礼を言うと、「ああ、福山さん!年末がたいへんでしたね。きょうくらいから熱もちょうど落ち着いて、痰も少なくなりました。」と言われ、とても嬉しかった。

はきはきした小柄の看護師さん。「年末、年始、もうだめかとはらはらしていたのですが、先日、無事誕生日を迎えられて本当にありがとうございました。」と言うと「なぜか誕生日が鬼門なのよ。」と言われた。そんなこともあるのだろうか。

会議が終わって出て来たところの相談員のK島さんと、1階でお会いできた。先日、私が来た時よりも、今日のほうがずっと母の調子がいい、とK島さんも笑顔だった。

何度も何度も頭を下げた。

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少し気持ちが楽になったので、そのあと中野の材料店に行き、昔はあったが今は製造中止になった道具についてお話を聞いた。

古本屋さんに読みたかった70年代の本が入荷していたが、800円だったので今日は買うのを止めた(500円だったら買っただろう)。

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2017年1月 9日 (月)

絵の撮影 / 母のこと(気管支炎)

1月5日

私の次に出す本(画集)のための銀箔の絵を、新たなカメラマンさんに撮影しなおしてもらう。

銀箔を貼った絵が、最初のカメラマンさんの撮影では、私が室内で肉眼で見た自然な感じとかけ離れていたので、本には使えないと判断したためだ。

一回目のカメラマンさんの撮影では、2か所から強い光をあてたのか、銀箔のぎらぎらした存在感は出ていたが、余計な情報過多で、肝心の手描きの線が見えなくなっていた(セオリー通りの撮影ではあるらしいが)。

今日初対面のカメラマンさん、I井さんのご自宅兼スタジオに伺い、撮影を見学させていただく。気さくなかたなのでよかった。

白い紙と黒い紙を使って、照り返しを調節するセットを組んでくださっていた。

けれど結局、白と黒の紙なしの、天井や壁や室内のものが映りこんだ状態で撮った最後の一枚が、一番自然に、銀箔の質感と手描きの線の両方が出た。

Sdsc00084

Sdsc00081

何枚か光をあてる方向を変えて撮影し、その都度パソコンの画面で確認。

Sdsc00083

最初のカメラマンさんは、なにを重要視して撮ってほしいかをこちらから言葉で伝えると、なんの画像確認もなしに自分の判断で、いきなり印刷したカンプを出してきたので、それでは絶対無理だと思った。

I井さんは、何回もやりかたをかえて撮影してくださり、その都度「ここの質感が出てきましたね。」「こちらがちょっと飛び過ぎですね。」「さっきのよりこっちのほうが雰囲気が出てますね。」など、私が絵のどこを見せたがっているのかを理解してくれて、コミュニケーションが成立した。

I井さんの仕事を見て、最新のやりかたはこんな風なのか、と感心した。

たとえ物撮りであっても、カメラマンは、いろんな工夫をして、それぞれに個性的なやりかたがあるのだろう。

ある種の冒険的な精神によって、見る者の主観の中でしか成立しない絵画であればなおさら、その撮影も通り一遍のやりかたでいいはずがない。

プロの現場を見学させていただいて、たいへん勉強になりました。

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最近の母のこと(気管支炎)。

1月8日

母に会いに、施設へ。

年末からずっと気管支炎で、痰がらみがあるので、誤嚥による窒息が心配で落ち着かない。

高齢だから、いつなにがあってもおかしくないのだが、きのうの夜からきょうは、熱はなんとか落ち着いてきて、36度8分から37度くらいだそうで、顔色も穏やかだったので、ひとまずはほっとした。

きょうは昼食は食堂で、地方の訛りあるのちゃきちゃきした女性職員さん。やはり3人を同時に介助されていた。

母が今ほど噎せの危険がなく、私が介助して食べさせていた時は、廊下のテーブルでやっていたので、食堂での皆さんの食事風景を見るのはきょうが初めてだ。

母に声かけしながら、口を開けるのを待って、飲み込むのをじっくり待って、噎せないように少しずつ食べさせてくださっている。

うちのちゃび(19歳6か月の雌猫)に私は毎日、強制給餌しているのだが、ごっくんと飲み込むのを待って、次のをシリンジで入れるのとほぼ同じだ。

食堂でほかの皆さんを見ていたら、ひとりでちゃんと食べられる人は少ない。本当に職員さんたちのおかげだ。

ひとりの女性入居者が、立ち上がってスタスタとほかの女性入居者に近づき、びよ~んと下唇を引っ張る事件が起きた!

母を食事介助してくれていた職員さんが慌てて駆けつけ、「こら!なにしてんの。」と止めたら「やわらかいんだも~ん。」と。「まったく油断も隙もないんだから。」と職員さんたちが笑っていた。「下唇がとりわけぷっくりしているかたなので、引っ張ってみたくてやってるんですよ~。」ということ。

ほかにも、食事中になぜか「うわあ~~ん」と大声で泣き出す人(過去の哀しい夢を見ているのか?わからない)、食器をがんがん机に叩きつける人、ジェスチャーを繰り返してなにかしゃべっている人、いろんなかたがいるので、それはそれはたいへんだ。

職員さんに重々御礼を言って帰る。帰りに中野で天婦羅を食べた。

1月4日

K島さんに電話して母の調子を伺う。まあまあ、おだやかに過ごしているそうで、少し安心。引き続き痰の吸引。

1月2日

私はずっと自分が風邪気味で、咽喉の痛みが続いていたので、母にうつすのが怖くて、しばらく施設に行っていなかったのだが、久しぶりに会いに行った。

母の部屋のベッドのそばに痰の吸引器があった。

大柄の目のきれいな女性職員さんに、廊下で昼食介助していただいていた。ひとりで3人を同時に介助。

母はむせやすいので、見ていても窒息するのじゃないか、とはらはらする。本当に職員さんのお仕事はたいへんだ。生かしていただいていることを、実感する。

「39度近い熱が出た夜、(看護師さんがいないので)朝5時まで座薬もできなかったので、すごくかわいそうだったんですよ。」と言われた。

K島さんにくわしいお話をきく。体重は今、激減している感じではないので、肺に食べ物がはいって窒息するリスクを避けるため、無理して食べさせない方針とのこと。おまかせしますのでどうかくれぐれもよろしく、とお願いした。

ヘルパーさんひとりひとりに、御礼のご挨拶をしてから帰った。

すごく張りつめていたので、お酒が飲みたくなり、中野の立ち食い寿司で日本酒を飲んだ。私は日本酒を飲むことはなかったのだが、意外にも飲めてしまった。

今年も気持ちが落ち着かず、ゆったりとごちそうは食べられない正月。

12月30日

11:20頃、施設から電話。

また39度近い熱になりYメディカルセンターに連れて行ってくださった。危険な状態なのか、とすごく心臓が苦しくなった。

父が年末に亡くなったことを思い出して、何とも言えない暗く不安な気持ちになる。年末ぎりぎりに母が亡くなるのはすごく辛い。むしょうに怖かった。

午後3時半頃、電話があり、施設に戻ったとのこと。

ここでも、気管支炎と言われ、入院させるほどの状態ではない、とのことで、違う種類の抗生物質が出た。

長い時間をかけて病院に連れて行ってくださったTさんへお礼を言う。

30日と31日の夜、母が死んでしまうことを思いつめてうなされ、あまり眠れなかった。

12月28日

母のいる施設から電話。「病院に連れて行くので、入院になるようだったら来てください。」と言われた。

12月26日くらいから38.6度の熱を出し、抗生剤を投与しているとのこと。

下落合のS病院。結果は、肺はきれい。炎症反応はあるが、おそらく気管支炎だろうということ。抗生物質を出していただいた。入院する状態ではないと言われた。

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2016年9月25日 (日)

がんの定期検診、 皮膚科(唇と顔のぴりぴり痛み)

9月23日

雨。12時過ぎに家を出て、鎌ヶ谷の病院へ。

東西線で川を3回渡る。電車ががたたん、がたたんと鉄橋の上を通る時、いつも私は窓にはりついて川を見る。一秒でも長く見ていたいと思う。

きょうはイエローオーカーの混じった灰色。鷺は見えなかった。雨なのにたくさんのおもちゃのような舟が浮かんでいた。

西船橋のホームで電車を待つあいだ、雨の中にピーチュルツピッ、ピーチュルツピッ、という一羽の小鳥の声がしていた。どこにいるのか一生懸命電線を眼で追ったが、姿は見えなかった。

野田線の窓から見る土手に彼岸花が咲いていた。ほんのわずかに残された森の上に雨が降るのを電車から見下ろしていた。いつかあの森に行こうと思う。

浅井先生に未分化がんについて聞いてみた。長いこと乳頭がんを持っていると、遺伝子が傷ついて未分化がんになることがある。

未分化がんになったら、治療としてできることはない、と言われた。

未分化がんになる前のがんに対しての抗がん剤は、昔はなかったが、つい数年前にできたそうだ。しかし何度も病院に通って副作用に耐えて抗がん剤をやっても、命は数か月延びるくらいか、よくわからない(まだはっきりしたエビデンスがない)そうだ。

「それより食べることを考えないとね。福山さんは仕事に夢中になると食べないから。」と言われた。

体重はやつれた時(42kg)からは3kgぐらい増えている。自転車で、たまに坂をちょこっと登ることくらいしかやっていないが、なにもやらないよりはいいtだろう。

4時に船橋でN子さんとお会いする。N子さんは初めて会うかただ。

以前一度行ったことがあるシャポーという船橋駅直結のショッピングセンターの中の、ひなびた居酒屋に行こうとしたら、通路ごと工事中で閉店していた。サービスでサラダやらデザートやら出してくれたなんとも昔風のだった。

9月18日

母のいる施設へ12時30分頃に行く。

敬老会は1時45分スタートと言われ、けっこうな時間を待った。買って行ったヨーグルトは、誤嚥の危険があるので家族が食べさせてはいけないと相談員のK島さんに言われ、手持無沙汰になる。

傾眠が強く、会話ができないので、いろいろ話しかけながらマッサージをしたが、精神的に疲れてしまった。私が疲れるのはすごく心配し、いろいろ考えて不安になるからだ。

母は式典でも眠っていた。

式典後に和菓子と抹茶が出て、フロアリーダーのF島さんが食べさせてくれた。

F島さんは走るのが好きで、しょっちゅう高尾山の上まで走っていると聞いて、たいへんな仕事なのにさらに山を走って登り降りする体力があるのだ、とびっくりした。

帰りに中野の南側の裏道を歩いた。小さな古い教会のわきの緩やかな石段を下る。

初めて見つけた古い森のような一角があった。昔、大きなお屋敷だったところの跡を、あまり整備しないで自転車置き場にしたような場所。

葛の蔓が高い枝から垂れていた。隅にシシウドが生えていた。

きょうは氷川神社のお祭りで、東中野から中野のあたり、神輿がいくつも練り歩いていた。

そのあとアンティーク屋と古本屋に行った。古本屋で武井武雄の限定版目録などを見せられ、なにか買わないといけないかと思ったのだが、結局、アンティーク屋で古い陶の小鹿の人形を買った。

私は動物が好きで、動物のアイコンが好きなわけではない。むしろ嫌いだ。

動物のかたちをしたもので、古くて見捨てられたものはとても好きだ。

私は動物は食べ物ではないと思っている。私が肉を食べられないのは、食べ物の好き嫌いではない。

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8月18日に、顔のぴりぴりする痛みに耐えきれず皮膚科に行ってから、きょうで一か月。まだ顔は痛いが、なんとか落ち着いてきた。

4月からずっと、唇が荒れて薄くなり真っ赤に腫れて酷く痛み、頬の皮膚がぴりぴりちくちくし、一時(5月24日)は唇のまわりから痒いただれのような湿疹ができて、顔の上部までひろがった。

その時は皮膚科で抗生物質と抗ヒスタミンの飲み薬などをもらって、1日で湿疹はおさまったのだが、唇の痛みと顔のちくちくひりひりは治らず、そのままずっと続いていた。

紫外線にかぶれるので布製の大きな洗えるマスクを買ってしてみたら、マスクのふちが顔にあたるだけで痛くてたまらない。これは無理。

唇にはプロペト(白色ワセリン)だけを塗り、顔には敏感肌用化粧水を塗っていたのだが顔のぴりぴりちくちくする痛みに耐えられなくなって8月18日に皮膚科へ。

初めて会うS井医師は、すごい迫力の先生で驚いた。

精悍な体型、やや焼けた肌。つるっつるのスキンヘッド。眼光鋭く、厳しそう、頭切れそう、こだわりを持っていそう。

「まずは、(以前に処方されて余っている)ロコイド(弱いステロイドの軟膏)を唇と顔に塗っていい。とにかく炎症を一回リセットさせないと。何か月もプロペトを塗っているだけでは治らない」と言われた。

ステロイドを塗って紫外線を浴びるとしみになる、ということに関しては「私は俗説だと思う。」と言われた。

余っているヒルドイドについては、「皮膚がぴりぴりしている時には、ヒルドイド自体が刺激になって痛いはず」ということだ。確かに塗ると痛くて辛かった。

ステロイドのはいっていない炎症を抑える塗薬もあるが、それはすごく沁みる、ということで、まずはロコイドで治すということ。

夜、寝る時に唇の輪郭にべったりロコイド、頬のちくちくする部分に薄くロコイドを塗るのを毎日繰り返していたら、5、6日目で唇の皮が再生してきた。

プロペトしか塗ってなかった時は、いつまで経っても異常に皮膚が薄くなり唇全体が傷のように真っ赤で、口をすぼめることも痛くてできない、歯磨き粉も、お醤油も味噌汁も沁みて常に涙が出るくらい辛かった。

それが、いわゆる冬に唇がカサカサに渇いた時の程度にまで回復してきた。

 

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