介護

2017年4月27日 (木)

クロアゲハ 菫 牡丹  母のこと

4月23日

17日にも、母が夕方から熱を出したと施設から電話があり、心臓がどきどきしたが、座薬により、次の日には熱が下がったとのことで、またもたすけていただいた。

去年と同じように牡丹を見せに、母を近くのお寺に連れていきたいと思い、おとといぐらいから、母の体調を施設に問い合わせていた。

今朝、副施設長から、「最近は痰がらみが多いのと、夕方に熱を出すので、朝10時前に短い時間なら外出可能」という電話をいただいた。

皆が一番恐れていることは、痰がらみ(おそらく、パーキンソンで喉の筋肉がこわばっていることも原因のひとつ)で窒息することで、私もそれが怖かった。

母本人が、外出したいと私に言っているわけではないので、無理して連れ出しても、私の自己満足のために、危険が増すだけかもしれないと思い、車椅子で連れ出すのを諦めた。

夕方に、去年、母と行った寺に寄ってから、母に会いに行った。

去年と同じ場所に咲く、濃い紫の花で尖った葉のスミレ。私も母も大好きな花。

Sdsc00738

Sdsc00740


お寺の牡丹は黄色い花のほかは満開だった。

Sdsc00761

去年も魅せられた珍しい斑の牡丹。
Sdsc00742

ふくよかで甘い薄紫の牡丹。

Sdsc00741

母は、最近、傾眠と喉のこわばりが強くなってきて、食べられる量が減ってきている。

高齢で、パーキンソンで、もうそんなに長く生きられないことは自然なことで、肉親との別離も、たぶん親との別れの経験が幼少期だったりして、思い出せないような人もいるので、誰にでもあることなのだが、母が死ぬのが怖くて、胸が締め付けられ、身体が震えるような感じがする。

私は親しい人の死に、ものすごく苦しむ。そういうことにすごく弱い。

他人の感じ方を私が把握できるわけではないので、私が特に激しいとはいえないのかもしれないが、大切な人の死を知った時や、お葬式などの場面で、私は泣き過ぎて吐いたり、全身が痛くて、苦しすぎて卒倒しそうになったことが何度かある。

悲しみが強い身体的苦痛になり、全身がおかしくなるのだ。

感情の奔流にのまれやすいのだと思う。母もそういうところがあった。母もすごく涙もろかった。

母に認知症が少しずつ出てきて、介護するようになってから、ある日、母をショートステイに送って行くタクシーの中で、母がふとしゃべった。

「親が決めた結婚相手がいたのよ。近所の真面目な大工の人。その人と一緒に東京に出されたの。でも好きな人ができて飛び出したの。夜、鞄一つ持って、新橋の駅で。」と。

情熱的で激しいところが、私は母に似たのだ。

それにしても、田舎育ちで地味で生真面目な母が、駆け落ちまでして惚れた相手が、一見、ものをよく心得た優男だが、実は異常なほどわがままで、ギャンブル依存で浪費家で、母や私を殴る蹴るしていた父だ。

今になっても、父のようなろくでもない男に母が惚れないでくれていたら、と思うこともしばしばだ。

Sdsc00778

東中野から中野まで、線路沿いの道を歩く。去年の立ち枯れの植物が私は好きだ。たくさんのことを思い起こさせてくれる。
Sdsc00780

アスファルトの割れ目から、旺盛なタンポポ。
Sdsc00781

そしてすごく美しいものが静かにそこにいた。

Sdsc00782

クロアゲハ。弱っているのだろう。けれどストローのように伸びた口はしっかりタンポポの花の中に突き刺さっていた。
Sdsc00785


Sdsc00787

ほとんど緑にかわった桜。まだ花びらが舞っていた。

Sdsc00798

夕焼けに向かって錆びた線路が伸びていた。子どもの頃、無性に遠くに行きたかった気持ちがよみがえる。

Sdsc00803

空地へと続くハルジオンの咲く細い道。なにか未知のものがひそんでいそうな片隅の風景。

Sdsc00805

4月22日

西新宿で私の幼少期から母と親しくしてくださっていた遠藤さんの絵手紙の展示を見に、新宿中央公園のギャラリーへ。

遠藤さんの米寿を祝う絵手紙「新宿花の会」のかたたちの作品。

「新宿花の会の頼れるお母さん いくつになっても向上心持ちつづけている貴女のように年を重ねたい」「どなたにも気づかいが半端ではない人」などという言葉が贈られている。

Sdsc00736

遠藤さんの日美絵画受賞作品(於国立新美術館)

Sdsc00735

遠藤さんは、本当に米寿とは信じられないほどお若くて(実年齢より20歳くらい若く見える)、とても頭の回転が速くて、温かくて、聞き上手で、素晴らしい人だ。少しも押し付けがましくなく、相手の心によりそってくださる。私よりずっとエネルギッシュなかただ。

私の母とはもう会話ができない状態なので、遠藤さんを、もうひとりの心の母のように思っている。ずっとお元気でいてほしい。

|

2017年2月17日 (金)

絵の再生 / S・Yさんと会う / M・Mさんと会う / 母また熱 /ネットと電話、どうにか復活

2月16日

以前に絵を買っていただいたS・Yさんに、お借りしていて再生した絵を引き渡す。

〈薔薇の貌〉(2012)

Sdsc00268

以前から気になっていた完全禁煙のヴィーガンカフェに行って一緒にランチを食べた。

天井からたくさんのドライフラワーがぶら下がっているこぎれいな店。

Sdsc00285

この店の中にはとてもドライフラワーが多いのだが、一か所だけ生のチューリップが活けてあることに、とても眼を惹かれた。

Sdsc00284

紅花のドライフラワーの隣に、葉がなくて丈の短い生のチューリップが活けてあった。沈んだ黒紫色の花と、その補色の快活な黄色の花と、八重の華麗な花と。

私にとってチューリップは特別に反応してしまう花。かわいく明るいイメージではなく、妖しく謎めいたイメージ。
Sdsc00286

・・・

最近、次の本に載せるために、以前に描いた絵の加筆(再生)をしていた。修理や補修というべきではなく、絵が、日々、刻々と新たに生まれるための命を吹き込む作業というべきだと思うので、的確な言葉を模索している。

薫泥と黒泥を使っての加筆。その上から銀のこれ以上の急激な腐蝕を止めるための保護膜を張る。

<鬱金香――種村季弘に。>(2004)。この絵は、枯れたチューリップを見て、そのまま描いたもの。私は具象、抽象の区別をつけない。

Sdsc00190

<Thisle>(2005)
Sdsc00194

私とともに、私よりもゆっくり遅れて、あるいは私を待ちかまえているように、絵が朽ちて変化していくのは自然なことで、時間による生きている変化を含めてこそ作品だと思う。

しかし上に重ねていた薄紙が貼りついてしまっていたり、変なふうに目立つ剥落の部分だけ、ほんの少し加筆(再生)をした。

2月11日

宅配便でNTTからルーターが送られて来、本体と電源アダプタとモジュラーケーブルなどを自分ですべて交換し、(認証IDとパスワードが不明でちょっとごたごたしたが)初期登録をやりなおしたら、ネットと電話が復活。

(昨年の10月から何度もNTTやOCNに、通信の具合が悪いことを電話していたのに、もっと早くルーターを送ってくれればよかったのに、と思う。)

自分で全部操作したので、修理料金はただになった。

もし、ルーターを交換して直らなければ、壁の中を工事しなければならないかも、と言われて、すごく不安だったのだが、ほっとした。

ただ、メールの具合はおかしい。画像添付したものが送信できない。

OCNに相談すると、セキュリティソフトが効いているせいだと言われた。

2月9日

冷たい霙。こんな寒い日に母を病院に連れて行っていただくことが心配でたまらなかった。

午後2時。施設から電話があったが、通信の具合がおかしいので、出た瞬間に切れてしまった。すぐ外に出て、公衆電話からかけなおした。

母の熱が下がったこと、S病院に連れて行っていただいた結果、また少し炎症反応はあるが、肺炎でもインフルでもないとのこと。

本当に今度は危険なのではないかと、心配ですごく胸が苦しかったが、とりあえずほっとした。

また施設職員さんたちのおかげで、命拾いをさせていただいた。

2月8日

朝、M・Mさんの熱が平熱まで下がったと言うので、夕方4時頃会う。彼女とは初対面だ。

「運命に逆らって、会えた。」とM・Mさんは喜んでいた。

つくっていた布花を渡す。

M・Mさんは、東京出身で、今、大阪に住んでいる年下の絵の好きな女性だ。

彼女は(私とは部位が違う)がんの手術を経験して、今ちょうど1年。

ブログの暗い印象よりも、実物の彼女はずっと元気そうに見える。

内心の苦しさと見た目の元気さのギャップ、それによって周囲からいたわられないことも彼女の深刻な悩みのようだ。

私もがんを経験している。しかし違う部位のがんを経験したばかりの若い女性に、どういう言葉をかけていいのかわからない。人それぞれにがんの症状やタイプ、闘病の環境も違うので、なんと言っていいのか、非常に悩ましい。

ただ、がんそのものと向きあうより、出来る範囲で自分の本当にやりたいことと向きあったほうが、免疫活性にのためによいのではないか、と私自身の経験からは思う。

・・・

夜、また、母が熱を出したことを知らされる。明日、病院に連れて行ってインフルなのか診てもらうとのこと。

先日、高熱を出したが肺炎でもインフルでもなく、なんとか命拾いさせていただいたのに、また同じ症状。とても不安でいたたまれなくなる。

メールも電話も通信不能の時に、母の具合が悪いことにとても苦しむ。

2月7日

ものすごい北風。とにかく寒い。

朝、今日、会う約束をしていたM・Mさんから電話。なんと早朝から38度の熱を出したと言う。

「這ってでも行って会いたい。」と言われて、なんと答えていいのか非常に困る。私も会いたいが、私はすごく弱くて熱を出しやすい。

今、私が風邪をひいてしまったら施設にいる母にも会いに行けないし、自分の仕事も滞ってしまう。また、私が手伝いをしてもらっている友人にうつったら、友人の仕事関係すべての人に迷惑がかかる。

その後、すぐに電話もネット(メール)も不通になる。

ほとんど不通なのだが、ごくたまにメールが送受信できるので、「きょうはすごく冷たい北風だから、とにかく明日以降にしましょう。」と通信。

OCNテクニカルサポートに公衆電話から連絡。なかなか通じなくて長く公衆電話ボックスにいると、道を通行中の人からは奇異な目で見られているようだ。

2月6日

昨年の10月くらいから、ひかり電話が通話中に急に切れて無音になったり、受話器を上げて番号をプッシュしてもかけることができなかったりすることがたまにあり、それがだんだん頻繁になって困っていた。

昨年から何度かOCNテクニカルサポートに電話したが、ルーターの再起動をするくらいで、きょうまでだましだましやってきた。

今日、ついに、電話だけでなく、PCのインターネットまでがほとんど通じなくなる。

(「ほとんど」というのは、たまに一瞬通じる時があるからだ。)

私は携帯を持ってないので、電話もメールも誰とも通信できない状態。

公衆電話からOCNテクニカルサポートに電話。

とりあえず壁からの線を抜いてルーターを再起動してみてくれとのこと。

訪問修理になると、訪問費用7500円を含め、最高で3万円かかるかもしれないと言われた。

|

2017年1月19日 (木)

森島章人さんの第二歌集 / E藤さんと食事 祖母と母のこと

1月16日

昨年末に、森島章人(森島章仁、あるいは蘭精果)さんから、ついに、待ちに待った第二歌集『アネモネ・雨滴』を出すとのお知らせのお手紙と、原稿をいただいた。

第一歌集『月光の揚力』(1999年)からずいぶん経って、長い時が結晶した歌集。

『アネモネ・雨滴』というタイトルには、“衰滅の中の希望”という意をこめたという。

昔からのお約束通り、私の絵を本(扉)に使ってくださるとのこと。

そのことに関して、きょうまた、おはがきが届いた。

私の「風の薔薇 あねもね』(2002)を使用したいとのことだったのだが、この絵が強烈すぎるので、やはり「鬱金香」(1998)を使用したいとのこと。

私としては、どちらを使っていただいても、まったくかまわないのですが・・・。

『アネモネ・雨滴』という歌集には、やはりアネモネの絵のほうが合うのではないかな、と思い、その旨と、一応、私が今まで描いたアネモネの絵を数十点メールで送った。

森島章人さんは静かなかたで、(私は行ったことはないが)空気と水のきれいな、静かなところに住んでいる。

彼の歌は、微妙な光と影が煌めく、なまめかしく妖しいイメージと、冷たく澄んだ空気を感じさせる。

森島章人さんの歌をたくさんの人に読んでほしい。

バレリーナ地に伏せるとき薄幸の世界を許すみだらを許す――『月光の揚力』より

1月18日

朝、まだ眠っていた時、10時20分くらいにE藤さんから電話があった。E藤さんは、今、私の近くに住んでいて、昔の西新宿で母が親しくしていただいていたかた。今は私が親しくしていただいている人生の大先輩だ。

正月に、今も西新宿在住で、私が小1から小2くらいの時に仲良くしていた女友だち、Oさんのお母さんが亡くなられたとのこと。

Oさんのお母さんは70歳をすぎて子宮がんになったという。

Oさんとも、Oさんのお母様とも、私は小学生の頃以来、お会いしていないのだが、E藤さんはずっと親しく交流されていたそうだ。

E藤さんは親しくしていた人が急に亡くなってとてもさみしい、とおっしゃって、私をランチに誘ってくれた。それで私は寝ぼけまなこで即飛び起きて、支度した。

駅前の「すしざんまい」でランチ。母の具合が悪く、今年の正月はおせちどころではなかった私のために、「お正月のごちそうと思って、ランチビールも飲みなさいよ。」と言われて起きたばかりだけど、ビールもいただいた。

E藤さんは、私が幼い頃の母のこと、私の祖母のことを知っている。その話を聞くと胸がいっぱいになってしまう。

E藤さんは、結婚されてすぐ(20歳代の後半)に、小児麻痺だったご主人の妹さんの、たいへんな介護をされていたとのこと。

その妹さんが亡くなった時、私の母がふたりの近所の友人とともにE藤さんのお宅に伺ったそうだ。E藤さんは残り物で悪いけど、と、ちょうど3人分余っていたお寿司を出したのよ、と言う。

「そんな時のことをすごく覚えているのに、もうそんな話をできる人もいなくなっちゃったわねえ。」と言われた。

私の母と祖母について「あなたのお母さんは本当によく働いてたものねえ。おばあさんはすごくきれいな人だった。おばあさんとよく魚屋さんで会ったわ。」と言われると涙が出てしまう。

人は皆、年老いて、記憶はどんどん時の彼方へ消えていってしまうけれど、私の祖母と母の元気な頃のことを覚えていて、私に話してくれる人がいることは、なんて幸せなことなのだろう、と思う。

「あなたはおばあさんによく似てるのかな。」と言われ、「いいえ、私は明るくて包容力のあるおばあちゃんが本当に大好きだったけれど、私と祖母は血がつながってないんですよ。」と応える。

「父はもらいっ子で、生まれてすぐもらわれてきて、本当の両親を知らない。あんなに優しかった祖母に甘やかされておかしくなった。」と。

(実際、祖母は私とは違う鼻筋のとおったはっきりした顔立ちだった。目や眉が似ていると子供の頃は信じていたけれど。大好きな祖母が私とは血のつながりがない、と母から聞いた時、二十歳くらいだった私はショックで泣いた。)

おばあちゃん(福山キョウ)と私。

S00502

S00602

私が好きな写真。西新宿の熊野神社でおばあちゃんと。「ユキちゃんを見つけて嬉しそうにかけていきました。」と写真の裏に母の文字が書いてある。(ユキちゃんは幼なじみ)
S01301_2

続く写真(ユキちゃんと私)。裏には「枝を得意そうにぽっきん、ぽっきん」という母の文字が書いてある。この頃から私は植物が大好きで、今とちっとも変わっていない。

S01201


E藤さんは今年88歳だが、とても頭の回転が速く、新聞もよく読んでいて、とんとんと話が進む。

「それでね、その子は今、ヒッキーなんですって。」などといった言葉が飛び出す。「ヒッキー?あ、引きこもりのこと?」と言うと「そうよ。私、いろいろ若い人の言葉も知ってるの。」と。

感心するのは、話が回りくどくなくて、要旨が明解なことだ。頭がよく、人の気持ちがわかる人なので、こちらの悩み相談にものってくれる。本当に頼りになる先輩だ。

隙間のないきれいな歯も、全部、29本健在だという。それは本当にすごいことなのではないかと思う。

E藤さんは私なんかよりよっぽど元気だ。私とランチしたあと、荻窪でボランティアをするために電車で出かけていった。それも新聞で見つけて応募したそうだ。以前は新宿の老人福祉施設で絵手紙を教えていたそうだ。

・・・

私は3時過ぎから母の施設へ。小口の預け金が足りなくなったようなので、10万円持って行った。

母は眠っていた。フロアリーダーのFさんがいらしたので、母の様子をきく。気管支炎はだいぶなおり、体調は安定してきて、昨日の夕食、今日の朝食、昼食はほとんど食べた、とのこと。

おやつと夕食の間の時間で、日誌をつけている職員さんたちにも挨拶と御礼。

エレベーターで一緒になった看護師さんに挨拶し、痰の吸引などお世話になっている御礼を言うと、「ああ、福山さん!年末がたいへんでしたね。きょうくらいから熱もちょうど落ち着いて、痰も少なくなりました。」と言われ、とても嬉しかった。

はきはきした小柄の看護師さん。「年末、年始、もうだめかとはらはらしていたのですが、先日、無事誕生日を迎えられて本当にありがとうございました。」と言うと「なぜか誕生日が鬼門なのよ。」と言われた。そんなこともあるのだろうか。

会議が終わって出て来たところの相談員のK島さんと、1階でお会いできた。先日、私が来た時よりも、今日のほうがずっと母の調子がいい、とK島さんも笑顔だった。

何度も何度も頭を下げた。

・・

少し気持ちが楽になったので、そのあと中野の材料店に行き、昔はあったが今は製造中止になった道具についてお話を聞いた。

古本屋さんに読みたかった70年代の本が入荷していたが、800円だったので今日は買うのを止めた(500円だったら買っただろう)。

|

2017年1月 9日 (月)

絵の撮影 / 母のこと(気管支炎)

1月5日

私の次に出す本(画集)のための銀箔の絵を、新たなカメラマンさんに撮影しなおしてもらう。

銀箔を貼った絵が、最初のカメラマンさんの撮影では、私が室内で肉眼で見た自然な感じとかけ離れていたので、本には使えないと判断したためだ。

一回目のカメラマンさんの撮影では、2か所から強い光をあてたのか、銀箔のぎらぎらした存在感は出ていたが、余計な情報過多で、肝心の手描きの線が見えなくなっていた(セオリー通りの撮影ではあるらしいが)。

今日初対面のカメラマンさん、I井さんのご自宅兼スタジオに伺い、撮影を見学させていただく。気さくなかたなのでよかった。

白い紙と黒い紙を使って、照り返しを調節するセットを組んでくださっていた。

けれど結局、白と黒の紙なしの、天井や壁や室内のものが映りこんだ状態で撮った最後の一枚が、一番自然に、銀箔の質感と手描きの線の両方が出た。

Sdsc00084

Sdsc00081

何枚か光をあてる方向を変えて撮影し、その都度パソコンの画面で確認。

Sdsc00083

最初のカメラマンさんは、なにを重要視して撮ってほしいかをこちらから言葉で伝えると、なんの画像確認もなしに自分の判断で、いきなり印刷したカンプを出してきたので、それでは絶対無理だと思った。

I井さんは、何回もやりかたをかえて撮影してくださり、その都度「ここの質感が出てきましたね。」「こちらがちょっと飛び過ぎですね。」「さっきのよりこっちのほうが雰囲気が出てますね。」など、私が絵のどこを見せたがっているのかを理解してくれて、コミュニケーションが成立した。

I井さんの仕事を見て、最新のやりかたはこんな風なのか、と感心した。

たとえ物撮りであっても、カメラマンは、いろんな工夫をして、それぞれに個性的なやりかたがあるのだろう。

ある種の冒険的な精神によって、見る者の主観の中でしか成立しない絵画であればなおさら、その撮影も通り一遍のやりかたでいいはずがない。

プロの現場を見学させていただいて、たいへん勉強になりました。

・・・・・

最近の母のこと(気管支炎)。

1月8日

母に会いに、施設へ。

年末からずっと気管支炎で、痰がらみがあるので、誤嚥による窒息が心配で落ち着かない。

高齢だから、いつなにがあってもおかしくないのだが、きのうの夜からきょうは、熱はなんとか落ち着いてきて、36度8分から37度くらいだそうで、顔色も穏やかだったので、ひとまずはほっとした。

きょうは昼食は食堂で、地方の訛りあるのちゃきちゃきした女性職員さん。やはり3人を同時に介助されていた。

母が今ほど噎せの危険がなく、私が介助して食べさせていた時は、廊下のテーブルでやっていたので、食堂での皆さんの食事風景を見るのはきょうが初めてだ。

母に声かけしながら、口を開けるのを待って、飲み込むのをじっくり待って、噎せないように少しずつ食べさせてくださっている。

うちのちゃび(19歳6か月の雌猫)に私は毎日、強制給餌しているのだが、ごっくんと飲み込むのを待って、次のをシリンジで入れるのとほぼ同じだ。

食堂でほかの皆さんを見ていたら、ひとりでちゃんと食べられる人は少ない。本当に職員さんたちのおかげだ。

ひとりの女性入居者が、立ち上がってスタスタとほかの女性入居者に近づき、びよ~んと下唇を引っ張る事件が起きた!

母を食事介助してくれていた職員さんが慌てて駆けつけ、「こら!なにしてんの。」と止めたら「やわらかいんだも~ん。」と。「まったく油断も隙もないんだから。」と職員さんたちが笑っていた。「下唇がとりわけぷっくりしているかたなので、引っ張ってみたくてやってるんですよ~。」ということ。

ほかにも、食事中になぜか「うわあ~~ん」と大声で泣き出す人(過去の哀しい夢を見ているのか?わからない)、食器をがんがん机に叩きつける人、ジェスチャーを繰り返してなにかしゃべっている人、いろんなかたがいるので、それはそれはたいへんだ。

職員さんに重々御礼を言って帰る。帰りに中野で天婦羅を食べた。

1月4日

K島さんに電話して母の調子を伺う。まあまあ、おだやかに過ごしているそうで、少し安心。引き続き痰の吸引。

1月2日

私はずっと自分が風邪気味で、咽喉の痛みが続いていたので、母にうつすのが怖くて、しばらく施設に行っていなかったのだが、久しぶりに会いに行った。

母の部屋のベッドのそばに痰の吸引器があった。

大柄の目のきれいな女性職員さんに、廊下で昼食介助していただいていた。ひとりで3人を同時に介助。

母はむせやすいので、見ていても窒息するのじゃないか、とはらはらする。本当に職員さんのお仕事はたいへんだ。生かしていただいていることを、実感する。

「39度近い熱が出た夜、(看護師さんがいないので)朝5時まで座薬もできなかったので、すごくかわいそうだったんですよ。」と言われた。

K島さんにくわしいお話をきく。体重は今、激減している感じではないので、肺に食べ物がはいって窒息するリスクを避けるため、無理して食べさせない方針とのこと。おまかせしますのでどうかくれぐれもよろしく、とお願いした。

ヘルパーさんひとりひとりに、御礼のご挨拶をしてから帰った。

すごく張りつめていたので、お酒が飲みたくなり、中野の立ち食い寿司で日本酒を飲んだ。私は日本酒を飲むことはなかったのだが、意外にも飲めてしまった。

今年も気持ちが落ち着かず、ゆったりとごちそうは食べられない正月。

12月30日

11:20頃、施設から電話。

また39度近い熱になりYメディカルセンターに連れて行ってくださった。危険な状態なのか、とすごく心臓が苦しくなった。

父が年末に亡くなったことを思い出して、何とも言えない暗く不安な気持ちになる。年末ぎりぎりに母が亡くなるのはすごく辛い。むしょうに怖かった。

午後3時半頃、電話があり、施設に戻ったとのこと。

ここでも、気管支炎と言われ、入院させるほどの状態ではない、とのことで、違う種類の抗生物質が出た。

長い時間をかけて病院に連れて行ってくださったTさんへお礼を言う。

30日と31日の夜、母が死んでしまうことを思いつめてうなされ、あまり眠れなかった。

12月28日

母のいる施設から電話。「病院に連れて行くので、入院になるようだったら来てください。」と言われた。

12月26日くらいから38.6度の熱を出し、抗生剤を投与しているとのこと。

下落合のS病院。結果は、肺はきれい。炎症反応はあるが、おそらく気管支炎だろうということ。抗生物質を出していただいた。入院する状態ではないと言われた。

|

2016年9月25日 (日)

がんの定期検診、 皮膚科(唇と顔のぴりぴり痛み)

9月23日

雨。12時過ぎに家を出て、鎌ヶ谷の病院へ。

東西線で川を3回渡る。電車ががたたん、がたたんと鉄橋の上を通る時、いつも私は窓にはりついて川を見る。一秒でも長く見ていたいと思う。

きょうはイエローオーカーの混じった灰色。鷺は見えなかった。雨なのにたくさんのおもちゃのような舟が浮かんでいた。

西船橋のホームで電車を待つあいだ、雨の中にピーチュルツピッ、ピーチュルツピッ、という一羽の小鳥の声がしていた。どこにいるのか一生懸命電線を眼で追ったが、姿は見えなかった。

野田線の窓から見る土手に彼岸花が咲いていた。ほんのわずかに残された森の上に雨が降るのを電車から見下ろしていた。いつかあの森に行こうと思う。

浅井先生に未分化がんについて聞いてみた。長いこと乳頭がんを持っていると、遺伝子が傷ついて未分化がんになることがある。

未分化がんになったら、治療としてできることはない、と言われた。

未分化がんになる前のがんに対しての抗がん剤は、昔はなかったが、つい数年前にできたそうだ。しかし何度も病院に通って副作用に耐えて抗がん剤をやっても、命は数か月延びるくらいか、よくわからない(まだはっきりしたエビデンスがない)そうだ。

「それより食べることを考えないとね。福山さんは仕事に夢中になると食べないから。」と言われた。

体重はやつれた時(42kg)からは3kgぐらい増えている。自転車で、たまに坂をちょこっと登ることくらいしかやっていないが、なにもやらないよりはいいtだろう。

4時に船橋でN子さんとお会いする。N子さんは初めて会うかただ。

以前一度行ったことがあるシャポーという船橋駅直結のショッピングセンターの中の、ひなびた居酒屋に行こうとしたら、通路ごと工事中で閉店していた。サービスでサラダやらデザートやら出してくれたなんとも昔風のだった。

9月18日

母のいる施設へ12時30分頃に行く。

敬老会は1時45分スタートと言われ、けっこうな時間を待った。買って行ったヨーグルトは、誤嚥の危険があるので家族が食べさせてはいけないと相談員のK島さんに言われ、手持無沙汰になる。

傾眠が強く、会話ができないので、いろいろ話しかけながらマッサージをしたが、精神的に疲れてしまった。私が疲れるのはすごく心配し、いろいろ考えて不安になるからだ。

母は式典でも眠っていた。

式典後に和菓子と抹茶が出て、フロアリーダーのF島さんが食べさせてくれた。

F島さんは走るのが好きで、しょっちゅう高尾山の上まで走っていると聞いて、たいへんな仕事なのにさらに山を走って登り降りする体力があるのだ、とびっくりした。

帰りに中野の南側の裏道を歩いた。小さな古い教会のわきの緩やかな石段を下る。

初めて見つけた古い森のような一角があった。昔、大きなお屋敷だったところの跡を、あまり整備しないで自転車置き場にしたような場所。

葛の蔓が高い枝から垂れていた。隅にシシウドが生えていた。

きょうは氷川神社のお祭りで、東中野から中野のあたり、神輿がいくつも練り歩いていた。

そのあとアンティーク屋と古本屋に行った。古本屋で武井武雄の限定版目録などを見せられ、なにか買わないといけないかと思ったのだが、結局、アンティーク屋で古い陶の小鹿の人形を買った。

私は動物が好きで、動物のアイコンが好きなわけではない。むしろ嫌いだ。

動物のかたちをしたもので、古くて見捨てられたものはとても好きだ。

私は動物は食べ物ではないと思っている。私が肉を食べられないのは、食べ物の好き嫌いではない。

・・・・・

8月18日に、顔のぴりぴりする痛みに耐えきれず皮膚科に行ってから、きょうで一か月。まだ顔は痛いが、なんとか落ち着いてきた。

4月からずっと、唇が荒れて薄くなり真っ赤に腫れて酷く痛み、頬の皮膚がぴりぴりちくちくし、一時(5月24日)は唇のまわりから痒いただれのような湿疹ができて、顔の上部までひろがった。

その時は皮膚科で抗生物質と抗ヒスタミンの飲み薬などをもらって、1日で湿疹はおさまったのだが、唇の痛みと顔のちくちくひりひりは治らず、そのままずっと続いていた。

紫外線にかぶれるので布製の大きな洗えるマスクを買ってしてみたら、マスクのふちが顔にあたるだけで痛くてたまらない。これは無理。

唇にはプロペト(白色ワセリン)だけを塗り、顔には敏感肌用化粧水を塗っていたのだが顔のぴりぴりちくちくする痛みに耐えられなくなって8月18日に皮膚科へ。

初めて会うS井医師は、すごい迫力の先生で驚いた。

精悍な体型、やや焼けた肌。つるっつるのスキンヘッド。眼光鋭く、厳しそう、頭切れそう、こだわりを持っていそう。

「まずは、(以前に処方されて余っている)ロコイド(弱いステロイドの軟膏)を唇と顔に塗っていい。とにかく炎症を一回リセットさせないと。何か月もプロペトを塗っているだけでは治らない」と言われた。

ステロイドを塗って紫外線を浴びるとしみになる、ということに関しては「私は俗説だと思う。」と言われた。

余っているヒルドイドについては、「皮膚がぴりぴりしている時には、ヒルドイド自体が刺激になって痛いはず」ということだ。確かに塗ると痛くて辛かった。

ステロイドのはいっていない炎症を抑える塗薬もあるが、それはすごく沁みる、ということで、まずはロコイドで治すということ。

夜、寝る時に唇の輪郭にべったりロコイド、頬のちくちくする部分に薄くロコイドを塗るのを毎日繰り返していたら、5、6日目で唇の皮が再生してきた。

プロペトしか塗ってなかった時は、いつまで経っても異常に皮膚が薄くなり唇全体が傷のように真っ赤で、口をすぼめることも痛くてできない、歯磨き粉も、お醤油も味噌汁も沁みて常に涙が出るくらい辛かった。

それが、いわゆる冬に唇がカサカサに渇いた時の程度にまで回復してきた。

 

|

2016年7月18日 (月)

多摩の丘のヤマユリ(山百合) / 大妖怪展

7月16日

自然の野山に咲く花で、出会えた時に私の胸がもっとも激しく高鳴る花は、ヤマユリ(山百合)だ。

多摩の丘で撮ってきた写真画像を見て描いたヤマユリの水彩。この大きな花は、強い、素晴らしい匂いがする。(写真はすべてクリックすると大きくなります。)

Sdsc09187

なんと言っても、この濃い赤の斑点と黄色い帯が凄く、胸を締め付けるくらいに魅力がある。花屋で売られている真っ白なカサブランカリリーは去勢されているようで、きれいだが今一つ物足りない。

Sdsc09188

背景を、灰色の中に薄い透明な青を混ぜ込むか、泥っぽい茶や砂色を混ぜ込むか、水彩絵の具の個別の色の材質によるたらしこみ結果の実験。

Sdsc09186

ヤマユリは母が大好きな花だ。

「近所の山には顔よりも大きな花を10個もつけたすごいヤマユリがあったの。子どものころね、わあっと走って行って折りたいと思うんだけど、見つけるのは必ずマムシが出そうな藪の中なのよ。」といつも言っていた。

小さい頃、箱根に連れて行ってもらった時、ロープウェイから真下を見ると巨大なヤマユリが咲いていた。

ヤマユリは子どもの私にとって、人が歩けない道に咲いている手の届かない夢の花であり、思い切り顔を近づけて匂いをかいでみたくてたまらない花だった。

大きくて強く香るヤマユリが恋しくて、自生するヤマユリを間近で見たくて、友人Oと多摩の丘へ。

3時過ぎに新宿。新宿から電車で30分~40分ほどの駅で降り、てくてくと汗を流して丘を上ると・・・ウグイスの声とシャーシャーという蝉のシャワー。

坂道の横に、紫の緻密なグラデーションの葛の花が咲いていた。この花もたいへん風情があり、葡萄のような香りがする。

丘陵の斜面には、あった!なんとなく今日くらいかな、という勘で来たのだが、ちょうどぴったり開花の時期に合わせてヤマユリを見ることができた。まさにユリの王様(女王)。

Sdsc09150

木漏れ日の下のユリの群れに、わあっっっと興奮。

Sdsc09156

人もいなくて、ほんとうに静か。斜面の叢にぽつ、ぽつと気高く咲くヤマユリ。しんと冷たい空気が流れるようだ。
Sdsc09159

なんという素晴らしい匂い。なんという凛として豪奢な輪郭。なんという色あい。なんという野生の、甘い魅惑。

Sdsc09157

町を見下ろす丘の頂上まで上った。日陰にいるのは、まだつぼみのも多かった。今日の私は百合柄のブラウスです。

Sdsc09162

駅を望むとても美しいカーヴの坂道。ガードレールの内側だけ階段になっている。

Sdsc09173

由美かおるのアース渦巻の看板とおミズのハイアースの琺瑯看板(ゴールデンコンビ)がついている無人の野菜販売所。

Sdsc09177

おミズの歌はカムイ外伝のアニメの歌くらいしかよく知らなかったが、夜、youtubeでいろいろ聴いてみた。

水原弘「黒い花びら」「黄昏のビギン」、永六輔の作詞。

すごい。いい!むせび泣くような低音の素晴らしい艶っぽさ。情の深さ。濃さ。暗い絵。これは子どもの時にはわからない味。

破滅型の人だったらしく、42歳で亡くなっている。こういうタイプの歌手はもう二度と出て来ないのかと思う。

「へんな女」という曲、これだけはバカらしいハマクラ(浜口庫之助)のナンセンスソング。なんでこんな曲を出したのだろう。さすがロールオーバーゆらの助(by 早川義夫)。

ついでに私の大好きな織井茂子の「夜がわらっている」を聴いて涙。私は織井茂子のかっこいい「銀座の雀」(元は森シゲの歌)が大好きなのだがyoutubeにはないみたい。

7月13日

紫外線アレルギーなので、小雨に喜んで外出。

傷めた右腕がひどく痛くなり、歩くのも苦しくなってしまったので、とりあえず新宿の龍生堂で湿布を買って貼る。最近の湿布薬の成分は5種類くらいあるらしい。胃の粘膜にも影響があるので長時間貼らない方がいいらしいが、この日は我慢できなかった。

江戸東京博物館の「大妖怪展」を見に行く。

3時頃、並んでいる人はなくすんなり入場。

肉筆の妖怪画の筆づかいに注意しながら見て行く。

「法具変妖の図」が面白い。名前や解説がなかった鮮やかな朱の大きな蚤のような妖怪が気になる。法衣の下から鋭い爪の足だけがのぞいている妖怪も。

私が一番長く見ていたのは南山「姫國山海録」(宝暦十二年 1762年)だ。ここに描かれている妖怪たちはほとんどヘンリー・ダーガーの世界。造型の面白味のすごさと、こなれていない(なかなか出せない)絶妙な筆づかい。

となりに展示してある茨木元行「針聞書」もよかった。人のお腹の中にいる妖怪たち。

一冊の本のたった一か所を見開きで展示しているだけなので、せめてパネルで本の全ページを展示、紹介してほしかった。

「百妖図」の中の「虎にゃんにゃん」や「蝦夷狼」もかわいい。

幽霊画は少ない印象。昔、谷中の全生庵で見たのがすごく迫力があった。

「六道絵」や「十界図」は、花輪和一が描いたらすごく面白いのができそうだな、と思いながら見ていた。

「遮光器土偶」。まさに花輪さんの世界!そう言えば土偶の実物を見たのは初めて。だがこれは妖怪展に出すようなものなのだろうか?

全体としては、展示の量は思ったより少なかった。すっきりしているけれど物足りないような気もする。

最後の妖怪ウォッチの展示はないほうがよかった。水木しげるの妖怪の展示ならよかったのに、と思う。

7月4日

母のいる施設から電話。

最近、むせる傾向にあるので、面会に行っても食事介助は職員さんにまかせてほしいとのこと。今までは、面会に行くなら食事介助しないと職員さんに申し訳ない(なにも手伝わずに、ただ会いには行きづらい)と思っていた。

私が食事介助して肺にはいることがあったら、と心配していたので、少しほっとしたが、同時に母の体調が悪くなってきたことが悲しい。

|

2016年7月 4日 (月)

陽に褪せた紫陽花、西新宿、コスモスの思い出、母のことなど

7月3日

気温35度。夕方になっても息苦しいほどの真夏日。友人Tと高円寺を少し歩く。

陽に痛めつけられて色あせた紫陽花と。植物が雨を恋しがっている。

Sdsc09116_2

昔から好きな一角。木の枠の扉が素敵。

Sdsc09128

高円寺駅の近く、公務員高円寺宿舎の廃屋。失われてしまった懐かしい西新宿の角筈団地や阿佐ヶ谷住宅を想い、切なくなる。

Sdsc09138_2

Sdsc09139

錆びた小さな滑り台と鉄棒。
Sdsc09140

高円寺の高架下にすごくおしゃれな店を発見。古い人形などが飾ってあるのでアンティーク屋さんかと思い、入ろうとしたら、美容院だった。

Sdsc09142

「マッサージ薬――ラブ」と書いてある古い看板のある建物。薬局だったのだろうか。
Sdsc09143

Sdsc09143_2

7月1日

夕方、I工務店の社長さん(ジュリーのお父様)と食事。

社長は新宿駅の駅舎が木でできていた頃を知っているそうだ。

市電はそこら中を走っていたらしい。

社長が高校生の時、淀橋浄水場(今の中央公園や高層ビルのあたり)の周りをよく自転車で走っていたそうだ。

西新宿の今のエルタワーのあたりに精華学園高校があり、そこに吉永小百合がいたので見に行っていたという。

若い頃、同じ飯場に2年も寝泊りしていたことなど、興味深いお話をいろいろしてくださった。

6月30日

明日(7月1日)に、現在の1300円から2300円に値上げになるヘアカットの店で6cmほど髪を切る。

私の髪質だと細すぎてレイヤーはおすすめできないといつも言われ、ほとんどぱっつんとただ切るだけ。

6月28日

朝、雨が降っていた。

午後、雨がやんだのを見はからって雨に濡れた紫陽花を撮りに行く。(画像はすべてクリックすると大きくなります)

Sdsc09089

紫陽花は陽に色あせて柔らかくぼけて、美しくなっていた。

Sdsc09091

桔梗紫、藤紫、白群青、紅玉末、紫鼠。

Sdsc09093

黒曜石、銀鼠。

Sdsc09094

灰色にけぶる桔梗紫、岩桃、砂色、灰鼠。ところどころに赤茶色。

Sdsc09097

こんな色の絵を描こうか、それとも布をこんな古色に染めて花をつくってみようか・・・と思う。
Sdsc09098

藤紫、紅藤紫、岩桃、黄土、胡粉。

Sdsc09100

Sdsc09101

夕方、母の施設へ。

食事介助の時、口に食べ物を含んだまま、うとうとすることがよくあり、どうにも困ってしまって職員のかたを呼んだ。

スプーンを、私がいつもやっているよりずっと奥まで入れて、抜くときにスプーンの腹で舌をこすって刺激するようにするといい、とのこと。

その後、ナツメロのCDをかけながら私も母の耳のそばで小声で熱唱しながら、全身で食事介助。

曲は「りんごの歌」、「青い山脈」、「水色のワルツ」、「芸者ワルツ」など。

口に食べ物を入れたまま眠ってしまって、誤嚥性肺炎になったらどうしよう、と必死で刺激を与えながら2時間かけて食べさせる。

右腕をひねってしまい、筋を負傷。

6月27日

書道の日。

「安心立命」。人力のすべてを尽くして、心を安らかにして身を天命にまかせ、どんなときにも動揺しないこと。

そうなれたらいい、と思う言葉。

ウ冠ではなく、ワ冠を書いたあとに下の女という字まで続けて書く。女という字がすごく難しい。いつかかっこよく書いてみたいと思う字。

Sdsc09104

小学生以来、数十年ぶりに書道を習っているが、とても楽しい。たった1時間半だが、私は集中しすぎて、終わったあと倒れそうになるくらいお腹が減る。

この頃やっと、とめ、はね、はらい、仰勢、覆勢などが、以前より楽しくできるようになってきた。

Sdsc09105

ひとりでぐちゃぐちゃと悩むのでなく、先生に細かくだめなところを指摘していただけることがありがたくて、書道が面白くてたまらない。

6月24日

がんの定期健診で鎌ヶ谷の病院へ。

調子はどうですか、と聞かれて、がんとは直接関係ないけれど、毎年5月に顔の皮膚がひりひりして炎症を起こしてしまい、今年は特にひどく、まだ痛いまま、と伝える。

(顔が痛くて、ずっと日焼け止めもぬれない状態。顔を洗うと痛いので、極力洗わないで保湿用化粧水だけつけている。)

唇の皮がむけて真っ赤に腫れて痛くてたまらないのでプロペト(白色ワセリン)を出してください、と浅井先生にお願いしたのに、先生はヒルドイド軟膏を処方しくださっていた(笑)。

それと、筋肉が落ちてしまい、一生懸命食べても体重が増えないこと。区の健診の時の42kgよりは増えたが、現在43kg。陽が落ちたあとに自転車で坂道を上がったりしているが筋肉がつかない。

「この年齢になると、やせたくてもやせないですぐ太るはずなのにねえ。」と言われる。筋肉に負荷をかけたあとにプロテインを飲むといいと言われた。

6月20日

私と同じ頃に近所(西新宿)で生まれたユキちゃん(幼なじみ)のお母さんから、とても久しぶりに電話があった。母の具合を聞かれた。

ユキちゃんの家は、十二社(じゅうにそう)の交差点近く、昔スタジオゼロがはいっていた市川ビルの裏にあった。それから道路拡張で、ユキちゃん一家は板橋区に引っ越し、小学生の頃、よく遊びに行った。

その頃の板橋はまだ、いなかだった。低い土の丘や原っぱがあった。

近くに一面のコスモス畑があって、子どもだったので胸のあたりまであるコスモスの花に埋もれて、ずっと飽きずに花を摘んでいた素晴らしい思い出がある。

茎を手折った時、キク科の苦い香気が胸いっぱいにはいってきた。

触手のように細くなびく葉と、薄い昆虫の羽のような花びらの感覚と同時に、その香りが強烈に胸に焼き付いて、たまらないほどコスモスが好きになった。

子どもの頃にかいだ匂いで、一生、その花を好きになるのだろう。

両手に抱えられないほどのコスモスの花を、ユキちゃんのお母さんが新聞紙にくるんでくれて、家に持ち帰って花瓶に生けると、コスモスの葉にそっくりな細い青虫が何匹もついていたのにびっくりした。

電話口で、その一面のコスモス畑のことをユキちゃんのお母さんに話すと、「そう、よく覚えてたわね。あなたのお母さんもコスモス畑のこと、何度も言ってたわ。」と言われた。

私にとって強烈な思い出が、やはり母にとっても素晴らしい思い出だったと聞いて嬉しかった。

母はいなか育ちで、本当に植物が好きで、散歩の時に、これは何の花、と花の名と特徴を幼い私に話していて、私は母の感受性をそのままもらって育った。

庭のある木の平屋に住みたい、そしたら実の生る樹を植えるのが素敵、と言っていた母の願いを叶えてあげられなかったのが残念だ。

母の具合がだんだん悪くなってからも、一緒によく新宿中央公園を散歩した。スズカケ(プラタナス)の実を拾ったり、木陰のシャガの花を見たり、都会の何でもない公園だが、草刈りをされていないところには面白い草が生えていて虫もいた。

6月9日

ウズアジサイとアジサイのキメイラ。

Sdsc08992

まだ若く、みずみすしくて、くすみのないアジサイ。中心の乳白色のぼかしの部分に惹かれる。

Sdsc08996

|

2016年4月28日 (木)

牡丹 菫

4月19日

暖かな日に母に春の花を見せてあげたくて、朝から母の車椅子を押して施設近くのお寺へ。

このお寺の庭に素晴らしい牡丹が咲いていることを、つい一昨日発見していた。

門を入ると中門までの道にまるで植物園のように何種もの牡丹。

Sdsc08485
牡丹は直射日光にあたると萎れてしまうので簾の屋根で日除けがしてある。

Sdsc08483

「百花の王」とも言われる牡丹。さすがに花が大きい。

ジャコメッティがライオンを「百獣の王」と呼ぶヒエラルキーに疑問を呈したように、牡丹が最も魅惑的な花とは私は思わないけれど、豪奢でありながら脆いところに妖しい魅力がある。

Sdsc08487

火炎のような花びらの白い牡丹。近藤弘明が涅槃のような景色として描いていた海一面に燃える牡丹を思い出す。

Sdsc08488

庭にはいると、庭の真ん中に大きなしだれ桜(今は葉桜)、庭の周囲は全部色とりどりの牡丹。

素晴らしく丹精された庭なのに、ほとんど見に来ている人はいない。鳥の声と葉擦れの音ばかり。

しだれ桜の樹とスダジイの樹を鳥が快活に往復していた。

庭師の人が3、4人もいて、丁寧に牡丹の世話をしていた。ひとり女性の庭師の人がいらして、「いい匂いがするでしょう?」と声をかけてくださった。

母はいつも傾眠なので、いっしょうけんめい話しかけて眼を開けてもらおうとするのがたいへん。車椅子を動かして精一杯母の顔を牡丹に近づけて、私が指で母の瞼を持ち上げて「ほら、見える?」と言うと「うん。」「牡丹祭りだね。」と言うと「牡丹祭り。」と。

母は本当に植物が好きで、母が元気だった頃はよく一緒に花を見に、いろんなところに行ったものだ。

母は田舎育ちでたくさんの草木をよく知っていた。私が幼い頃、一緒に歩くと母はいつも土手の雑草や小さな樹の実の枝を摘んでいた。

私は母に似て、4、5歳の時にはもう草花に夢中で、地面にしゃがみこんで飽きもせず一日中雑草を摘んでいたりした。

Sdsc08445

薔薇のようにも見える白い牡丹の花。
Sdsc08449

私は斑の花が大好きなのだが、斑の牡丹は初めて見た。

Sdsc08452

Sdsc08454


珍しい台咲き(蕊の上から花弁が出ている)の牡丹を発見。

Sdsc08458


Sdsc08474

庭の隅には散りかけの八重桜(関山)と、咲きかけの藤棚。風が吹くたび、藤の匂いと牡丹の匂いが帯のように空中を彩って流れるのが見えるようだった。

上も下も春の花盛り。幼い頃に持っていた絵本の中の春の庭の絵のようだ。中国の物語で、主人公が不思議な館に連れられてきて、東、南、西、北それぞれの窓を開けると、春、夏、秋、冬の庭があるという話。

一時間ほどお寺の庭にいた。

そのあと昼食の介助。きょうはめずらしく母はよくむせた。ゴホッとむせた時に私が「あっ!」と声をあげて背中を叩いたりさすったりすると職員のかたが飛んできてくれる。

きょうは職員のF馬さんがとても親切にしてくれた。

一階でケアマネのK島さんと久しぶりに会った。

きょうは7、8回もむせたので、私の介助のせいでむせて食べ物が肺にはいったら危険じゃないか心配、と言うと、むしろ咳こんでいるようならだいじょうぶ、と言われた。

施設から駅への帰り道で、大好きな濃い紫のスミレの花が咲いているのを見つけた。

スミレにはたくさんの種類があり、葉がハート型のタチツボスミレや丈の低いノジスミレはよく見かけるのだが、この、葉がパレットナイフのような形で丈が高めのすっとしたスミレにはたまにしか会うことがない。

Sdsc08490

そういえば昔、母が近所に咲く丸葉のスミレではなくて、葉の尖っている濃い紫のスミレが見たい、とよく言っていた。

母が田舎で大好きだった花で、母の感情がうつってしまったように私が特に大好きになった花は、この濃い紫のスミレとヤマユリだ。

ちなみに西洋には、この尖った葉のスミレはないらしい。スミレの描かれ方に興味があり、西洋のスミレを描いた絵をたくさん見たが、全部、大きな丸葉のスミレ(ニオイスミレ)だ。

|

2015年10月 2日 (金)

9月の終わり、近所の探検

9月26日

写真家の高橋亜希ちゃんが函館から上京して久しぶりに会う。

曇りで24度。歩くにはちょうどいい日だった。

いつも私が散歩している、なんでもない町の中に隠れているちょっとしたお気に入りの場所を案内して一緒に歩く。

亜希ちゃんと初めて会ったのは、もう10年くらいも前だ。真冬の寒い日、高円寺駅前の八百屋の、ほんとに狭い裏道で声をかけられた。

私は黒いだぶだぶの不恰好な裏フリースカーゴパンツをはいていた。北風に耳が切れるように痛かったのを覚えている。

亜希ちゃんは大きくて重そうな中型カメラと露出計を持って撮影していた。

ちゃんと露出を計って、中型カメラで撮って自分で現像するなんて、本当にすごいなあと感心した。

あれから、カメラ事情はここ10年で恐ろしく変わってしまった。今は35ミリフィルムを売っているところは少ないし、まして自分で現像している人はとても少ないだろう。

亜希ちゃんも最近は現像していないそうだ。しかし35ミリフィルムの古いエスピオ(以前、沢渡朔さんに私が撮っていただいた時に沢渡さんが使っていたカメラ。シャッタースピードが速い)で撮っていた。

下は私のデジカメ(ミラーレス一眼)で亜希ちゃんに撮ってもらったもの。

Sdsc06996

Sdsc06998

とても不思議なかたちの建物。

Sdsc06999


Sdsc07000_2

町中、どこに行っても木犀が満開だった。特にお寺にはたくさんの木犀の樹が植えてあるようだ。

お寺の裏の細い道に、草ぼうぼうのところがあって、大きな女郎蜘蛛が三匹、華麗な巣をつくっていた。亜希ちゃんに「虫、怖くないんですか?」ときかれた。相当危険なのでないかぎり、怖くない。マクロレンズで撮るのが大好きだ。

(日本にひとつしかない)「気象神社」の裏の大きな銀杏の樹の黄土色の実が、まだ季節は早いのに下にびっしり落ちて、道の隅に掃き集められて山になっていた。まだ葉は青々としているのに、ここ何日かの寒さでやられたのかもしれない。

あの建物の入り口はどこにあるのかしら、と、ひとつの建物の周りの小道を歩き廻ってみる。子供の頃から同じ仕草で。

なんでもない道の一番隅っこにあるものに気づく。行き先が見えない細い小道の薄暗い闇に入っていく時のどきどきする気持ち。

カメラひとつ持っての小さな探検。

9月23日

世間ではシルバーウィーク。

風と光が透明で、旅行には最高の季節なのだが、私が長く家を空けるとちゃびが淋しがるので遠出をする気になれない。

秋になって、ちゃびがやたら膝に乗ってくるようになった。下は仰向けに寝ている私の上のちゃび。

Sdsc06933


最近になって私は、過去の素描の見返しと整理をしている。これがなかなかたいへんで、終わらない。

それと画材の研究。

自分が強烈に惹かれる絵と惹かれない絵との決定的な違いとはなにか。

過去の偉大な画家たちが、何を見、何に惹かれ、何に憑りつかれていたのか考えること。

・・・

夕方、ふらりと近所の裏通りを散歩。

ごちゃごちゃっとしたたくさんの植木に囲まれた古い建物が好きだ。この家に沿ってあるダチュラ(チョウセンアサガオ)の花には白いのと、肌色っぽいのがある。

Sdsc06940

植木が好きでどんどん増えてしまったのだな、道行く人にたくさんの植物を見せてくれる人、たくさんの草木の世話をしてくれている人は本当にありがたいな、と思う。

Sdsc06944

ぬいぐるみのようなわんこ。

Sdsc06963

おもちゃ箱そのままのジャンクのお店。

Sdsc06964

9月21日

母の施設の敬老会。行事食(ちょっと豪華な食事)なので、昼食の介助に行く。

きれいな箸袋にきれいな盛り付け。おかずもいろいろ高級だった(ムース状だが)。

それなのに、食事を始めるとウトウトしだし、なかなか起きてくれなかったので、食事介助がとても大変だった。

途中で自動販売機の冷たい缶コーヒーを買ってきて、少しおでこにあててみたが、目が開かない。

なんとかおかずだけは完食。せっかくの松茸ご飯なのに、ごはんは残した。

結局2時間、ほかの全員が食器を片づけて行事会場に移動したあとも、居残って、がんばって介助したが、だめだった。いつもは1時間弱で完食させるので残念だった。

1時半に一階の会場に移動。式とクラリネット演奏の余興があった。奏者は76歳だそうだ。

ジャズアレンジのしゃれた曲をやっても、ほとんどの人が眠ってしまう。「私はデキシー(Dixie)の出じゃないんですよ」なんて言っていたが、誰にも通じない。

いつも思うことだが、皆が覚えている昔の昭和歌謡のヒット曲をやって、全員で歌えるようにすればいいのに、と思う。母のの昔の記憶に訴える曲目(「りんごの歌」「青い山脈」など)を希望する。

なぜか一階に移動してからは、母は起きていた。今度傾眠が強い時は、車椅子で移動させてみよう。

・・・

そのあと、中野で友だちと古いおもちゃや古本を熱心に見て歩いた。

この日、私の古い記憶のなかに強烈に刻まれていて、何十年も捜していた、幼い頃に読んでいた本が偶然見つかったのでびっくり。

ネットにも一切情報が出てこなかった、だからほとんど私のほかにはこの本にこだわっている人がいない古いまんがの本・・・。

作者の名前も初めて知った。「原やすお」という人。それともうひとつ、私が夢中になって読んでいた「青い鳥」の本(この本もずっと捜している)の絵を描いていた人の名前がやっとわかった。「早見利一」だ。これについては、後日書こうと思う。

町は透明な光と風の中、秋祭りの神輿が楽しそうだった。

Sdsc06936
裏通りを散歩中、こんなところにキューピーがいるよ、と言ってるところ。

Sdsc06934

9月17日

雨。

友だちはきょうまで3日連続で、夕方から国会議事堂前に安保法案反対のデモに行っている。

私も行きたいのだが、冷えたせいか、このところ、人生初めての足の神経痛に悩まされている。

治療院での診断によると、腰の神経から来るものだそうだ。腰も痛いが、足の内側の踝の下と親指にけっこう辛い痛みが走る。

世の中がどんどん恐ろしい方向に進んでいく。

どのような(たとえば絵画)表現をするにしても、それが自分にとって耐えがたいことに対しての抵抗となりうるようなものでありたいと思う。

闘い続けるために、何か勇気を与えてくれる言葉を求めて、ネットの記事を読み続けていた。

意識して眼の疲労に注意しているのだが、この日は息苦しくて長いことPCを見てしまった。

|

2015年8月15日 (土)

猛暑、朝顔、花輪和一

8月13日

少し前に、大輪朝顔、変化朝顔展に行った思い出の水彩素描。

Sdsc06618

きのうほどの痛みはないが、治療院に行き、右足の内側のくるぶしの下の神経痛の相談をすると、右の腰の張りから来ているということ。確かに右の腰と背中がすごく硬くなっいて痛い。

この時期、思いのほか、ぎっくり腰の人がとても多いと聞く。暑いので冷房の部屋にいて動かないせいもあるとか。絶対に急に重いものを持ち上げたりしないように、と言われる。

昔からのスケッチブックを全部引っ張り出して、素描の整理をしている。これがけっこう時間がかかる。この作業に打ち込んだせいで腰が硬くなったのかもしれない。

8月にはいってからは夏の花の記憶、夏草の記憶の素描をやっている。それとちゃびの連続素描。

カモジグサ(髪文字草)、イヌビエ(犬稗)など、どこにでも生えているイネ科の雑草を描こうと思って摘みに行くと、信じられないほどどこにも生えていないのに驚く。

近所に一番多いイネ科の雑草はエノコログサ(狗尾草)とメヒシバ(女日芝)、オヒシバ(雄日芝)。オヒシバとメヒシバは広い原っぱでないと共存していない。小さな路地の端っこの群れには、どちらかしか生えていない。

初夏にも、昼顔に絡み取られた春女苑を描きたかったのに、いざ捜してみるとめぐり会えなかった。

・・・

今読んでいる小説の第三巻が、きのうまで古本屋のどこにもなかったのに、今日は安売りのコーナーにはいっていた。店員さんが私が二巻まで連日買っているのに合わせて在庫の引き出しから出してくれたのかなと思う。

8月12日

なぜか朝早くから右足の内側のくるぶしの下の酷い神経痛で、悪夢にうなされて眼が覚める(その箇所が切れて出血している夢)。それから深夜寝るまでずっと数分置きに、ずきっとくる痛みが断続的に続く。

昼に熱めのお風呂にはいって、その箇所をさすったが、痛みは無くならなかった。生まれて初めての変な神経痛に落ち着かない一日。

・・・

今読んでいる小説の第二巻が、きのうまでなかったのに古本屋の安売りコーナーにはいっていた。

それと一緒に読み終えたのはメーテルリンクの「青い鳥」。

観念的なもの(たとえば「大きな喜びたち」とか)にメーテルリンクは細かい指示と注意書きのある具体的な衣装を与えたのがすごい。

ごくごく幼い頃に「青い鳥」の漫画絵本を持っていた。この絵本の記憶は強烈なものだ(これについてはまた書こうと思う)。

8月11日

メーテルリンクと同時に、ある評論を読んでいる。

高度な批評文を書く人は何人もいる。

よくよく注意して読んでいることは、どんなに論旨が正しくても、実際のところ、その人が具体的にはどのようなものを生かそうとして、どのようなものの息の根を止めようとしているかだ。

8月7日

きょうで東京は8日連続猛暑日。1875年以来の最長記録だという。

夕方5時に治療院に行った。曇ってはいたが、気温は体温くらい高い感触。あとで記録を見たら、きょうの東京は38度とある。きのうは36度。外に出ると朦朧とする。

雨が来るらしいときいてほっとしていたのに、夜になっても雨が来ない。肺が焼けるくらいに暑苦しい。

治療院の院長が生まれて初めて国会前のデモに行ってみたという。先週の火曜日の夕方5時頃。

「人、たくさんいた?」と訊いたら「いたなんてもんじゃない。ものすごい人だった。」と院長。

「原発反対デモの時はもっといた感じがする。歩道が開放されて、人が溢れかえってたもん。」と私。

とりあえず今の私は、この猛暑で自分がダウンしないように保つのが精いっぱいで、デモに行く余力がない。毎日胃酸があがってきて吐きそうになるのを押さえるため制酸薬を飲んでいる。

夜、近所の散歩コースに、夏草を(描くために)摘みに行った。カヤツリグサ(蚊屋吊草)、メヒシバ(女日芝)、エノコログサ(狗尾草)・・・カモジグサ(髪文字草)やイヌビエ(犬稗)やコバンソウ(小判草)は今度、もっと遠い場所から摘んで来ようと思う。

今年、5、6回目の開花となる金柑の花が咲いている。4、5日咲いて散ってしまい、1、2週間花が咲かないのを5月から繰り返している。たしか5月に2回くらい開花して、6月は咲かず、7月に2回開花した気がする。それから8月4日くらいにまた開花した。

蜜柑や柚子や晩白柚など、ほかの柑橘の花はみな5月の中頃に1週間くらい咲いて、初夏の風景の記憶とともに散ってしまったので、この猛暑にもめげず白い小さな花を開いて、見覚えのある甘い匂いを放つ金柑の花を愛おしく嗅いでいる。

・・・

夜10時すぎ、やっと帰宅された阿部弘一先生より電話。

毛利武彦先生画稿などの保存の件。

8月6日

花輪和一に電話で「『ビッグコミックオリジナル増刊号』の「戦後70年特集」のまんが、すごくよかった!」と言ったら、

「ええ?そう?そうかなあ・・・」

「巻末で特別扱いじゃない。一番面白かった。」

「つまんないから最後にやられたんですよ~。」

7月半ばに、「戦後70年特集」のまんがを描いたときいて、「どんなの描いたの?」と心配して尋ねた時は

「むふふふふ・・・すごいの描いたよ~!もう福山さんが見たら、なにこれ!って怒り狂って本をびりびりに破いちゃうようなやつ。イケイケどんどんみたいなね~っ」

と言っていたので、この、安保法案が問題になっている微妙な時期に、いったいどんなの描いたんだろ、まさか・・・?とほんとに心配していたのだが、さすが花輪さん、鬼才たるゆえんの、素晴らしい発想の作品だった。

「なんで私が怒るって思ったの?」と訊くと

「だって、戦争反対のこと描いてないから。」

「ああいう描き方は面白くて、充分戦争反対になってると思うけど・・・。」

「安保法案って、ただアメリカに気を遣ってるだけでしょ~。だから俺も反対だよね~。アメリカにそんなに気を遣うくらいなら中国と仲良くした方がいいよね~。」と花輪さん。

次の「みずほ草紙」の原稿は「もう出したけど、暑くて本当にきつかった。」と言っていた。今年は北海道も暑いそうだが、花輪さんはエアコンはもちろん扇風機も持っていない。もちろん買えないのではなくて、欲しくないから買わないのだ。

今年はようやく冷蔵庫を買ったそうだが、今まで何十年も冷蔵庫を持っていなかったはずだ。

「冷蔵庫あっても冷たいビールとか一切飲まないよね。俺、夏でも毎日熱いお茶飲んでる。パセリは冷蔵庫に入れるとすごく持つね。あんまり野菜とか買い置きはしない。」と言っていた。

「ごはんは麦飯?」

「いや、100パーセント玄米。」

「私もそう。白米は入れないで、ほんの少し古代米を入れるの。」

「古代米はうまいよね~。田んぼアートで古代米をつくってるんだよね。田んぼアートはほんとすごいよ~。」

8月2日

母の施設で夕涼み会があった。

4時すぎに行くと、庭に盆踊りのやぐらができていて、玄関に屋台が出ていた。職員さんたちは忙しそうでたいへんそうだった。

きょうは一階の食堂で食事介助した。あらかじめ出席のはがきを出した家族だけ名札が出ていて、席が設けられているようだった。

メロン(スプーンでつぶすのがたいへんだった)とアイスクリーム(メイバランス)付きのごちそう。ゆっくりだが完食。

6時から車椅子を外に出して、皆と一緒に盆踊りを見た。母は傾眠で残念だったが、高円寺からつつじ連の皆さんが来て阿波踊りを見せてくれた。

至近距離(踊りながら1m以内まで近づいてきた)で見る阿波踊りに感激。

暑い中、きちんとした衣装を着けて、踊り手さんたちは終始はじけるような笑顔で元気いっぱいに演技している。額から滝のように汗が流れて光っていた。

|

より以前の記事一覧