日隅一雄

2012年7月22日 (日)

日隅一雄さんを偲ぶ会 /  種村季弘先生 「“外部”がない」

7月22日

日隅一雄さんを偲ぶ会。11時40分頃東京会館に着く。すごい人だった。1000人~1500人超はいたように見えた。

木野龍逸さんのお話。

オーストラリア時代に、ゴーストツアーというのに日隅さんと一緒に行き、樹のくぼみなんかを見て、ほら、あそこに幽霊が見える、と言いながら進むようなゆるいものだったのだが、何年かしてから「木野君、あのゴーストツアーはすごく面白かったねえ。」と日隅さんに言われて、なんであんなものを?と思ったという話や、オーストラリアの編集部内で、誰と誰が付き合ってるという情報をなんで教えてくれなかった、と言っていて、割とスキャンダラスなことにも興味があったという話や、なんにも考えてなさそうだったのに、今度司法試験受けるわ、みたいなことを言って、受かるわけないのに、と思っていたら一回でしっかり受かっていて、この人は頭の出来が違うと思ったこと。夜中によく呼び出されてアントニオ猪木の店という騒がしい飲み屋に連れて行かれたり、英語の勉強になるから、と言われて歌舞伎町の女の人たちがいる店に連れて行かれたり(でもやっぱり英語の勉強にはならなかった)とか。

日隅一雄さんは仕事がすごくできる人、忙しい人なのにひょうひょうとしていて、どこにいても明るく、いろんな場面をすごく楽しむことのできる人だったのだと思う。

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日隅一雄さんに面影が似ている弟さんのお話。話がうまくて人の心をつかむ才能も日隅さんに似ていることに胸を打たれた。

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「兄は小さいころから、母に本を読んでもらうのが好きで、そのとき、本と一緒に必ず水を入れたコップを持って来ていました。それは、母の声が枯れたときに水を飲んで、本を読み続けてもらうためでした。兄は本当に読み物が好きで物心ついた頃には、寒いときは布団にもぐって、本や新聞を読んでいました。兄は動物も好きで、一緒に山に行ってマムシを家に持ち帰ったときは母にひどく怒られました。兄は、家族から見ても、謎の多い人物でした。勉強しているそぶりがまったくないのに、兄が非常に高い学歴だということは、きっとどこかで勉強していたのでしょう。私を喜ばせようと、大きなラジカセを買って、電車で福山まで持ってきてくれたり、将棋のときは何度でも待ってくれたり、本当に優しい兄でした。兄は運動のほうはあまり得意でなく、テニスをやろうと思い立ったこともあり、やってみたのですがまったくラケットに当たらず、二日で諦めました。お気づきのかたもおられると思いますが、趣味は型からはいるタイプです。亡くなったあと、部屋を整理したら、スキューバダイビングのスーツや、サックスなどが出てきて、いったいどのくらい練習できたのでしょうか。」(筆者の記憶で記述しているので、やや不正確です)というようなユーモアあふれる思い出話で、会場に笑いが起きた。

「母は私が十三、兄が十七のときに亡くなってしまい、父も2001年に亡くなり、そして兄も若くして亡くなってしまい、私一人になってしまいました。」という言葉に思わず涙、涙・・・・。周りでも静かにすすり泣く人たちがいた。

この弟さんの口から日隅一雄さんの思い出話を聞けたことは本当にありがたく感じた。

NHKフィル弦楽四重奏の厳かな生演奏の中、献花。
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花の中の日隅一雄さん。黄色い花が控え目にはいっているのに少し慰められる感じがする。白いカーネーションを静かに捧げた。
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献花を終えて、となりの立食会場に移動。日隅一雄さんの思い出展示コーナーに釘づけ。

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依頼人のかたが手作りした「ヤメ蚊」の人形。アイディアも造形も、これを作った人はすごい。
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顔も日隅さんにそっくり。ペンを口にくわえ、ノートを持ち、とてもよくできた人形だ。

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幼少期の日隅一雄さん。らくだの前で。シャツがはみ出している。こういうの、たまらなく愛しく思える。

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産経新聞社会部の記者だった頃、日隅さんが取材に使っていたカメラ。

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オーストラリア時代に日隅さんが編集していた雑誌。

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カラオケではじけ飛ぶ司法修習生 日隅一雄。(なんの曲だろう?)
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新人弁護士 日隅一雄。

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2012年6月。入院中なのに事務所に笑顔で出勤。
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本当にたくさんの人に愛された人だなあ、と感じる。同僚の弁護士さんが言っていたが、日隅さんは「人の悪口を言わない、愚痴を言わない、自分のプライヴェートのことを話さない」人だったという。

最後の日、耐え難い痛みで救急車で病院に行ったときの診断は、がんが腸を突き破って、腸の内容物が外に出て腹膜炎を起こしている、と言われたそうだ。そうなるまで痛みを我慢して仕事を続けられた人間がいた、ということが奇跡だ。

亡くなる直前に入稿したという新刊『国民が本当の主権者になるための5つの方法』を買った。そのあとがきに、海渡さんの言葉で、日隅さんから民主主義の実験に命を賭けたい、次の衆議院選挙に出たいという相談を受けていたと書いてある。杉並区八区で、という具体的なことも。本当にどこまでも意欲的な人であり、まさか12日に亡くなるとは本人も思っていなかったのだろう。本当に日隅さんが選挙に出ていたらすごく盛り上がったろうなあ、と思う。

余人をもっては代えがたい才気煥発、行動力があり、かつ謙虚な人、鮮やかでしなやかで、しかもかわいい人だったと思う。本当に素敵な人だったなあ。

閉会時になり、日隅一雄さん思い出コーナーの写真を去りがたく見ていたら、若い人に声をかけられた。私のブログを読んできょうここに来た、と言われ、『デッサンの基本』(私の書いた本)を見せられて、あまりに驚いて思わず泣いてしまった。

二十歳の学生さんだという。廊下の椅子でしばらく話していた。私のブログを最初から全部読んでくれていると言う。

一般的に平準化されてしまう感覚でなく、いつもなにか身体に触れるもの、異質なものを言語化したくて、それをいつかどこかで誰かが見てくれるかもしれない、という僅かな望みを持って書いているのだが、誰かに届くことはほとんど不可能のようにいつも感じながらやっているので、実際に読んでくれた人に会えたことに心底驚いた。

なんと私の敬愛する師、毛利武彦追悼展まで見に行ってくれたという。アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人』まで読んだとか。言葉にするのが難しい何かが伝わったのだとしたらすごいことだ。

本当に、本当に驚いた。感謝します。

7月21日

治療院で偶然開いた週刊ポストに大好きな種村季弘さんの思い出記事が載っていたので、そこだけコピーしてもらった。

「松田哲夫の愉快痛快人名録 ニッポン元気印時代」というコーナー。種村先生は超長電話好きな人だったという話。

確かに会話はすらすらと続いていたな。まさに「博覧強記」。少しも嫌味がなく、スパッスパッと実名をあげての痛快な批評で、回転が速くて、臨機応変で、すごくチャーミングだった。実名をあげての批判だったからこそ、先生は欺瞞的なところがなくて、真に信用できる人だと思えた。そして種村先生ほど思いやりがあって、こちらをリラックスさせようと気遣ってくださるようなかたもないくらい、繊細であたたかなお人柄だった。頭が良すぎるせいなのか、勘が良くて濃やかで、無神経なところがまったくない人だった。

種村季弘先生からじかにお電話をいただいて、新聞連載の先生のエッセイの挿画をやってほしいと言われたときは、夢のような気がした。本当に幸せだったなあ(涙)。

松田哲夫さんの文章から引用。80年代初頭のある日の長電話。「若い世代の書き手には蓮見重彦の文章の亜流が多くてね、読みにくいったらないね」「ああいう文章には“外部”がないんだよ。“内部”でうごめいているだけなんだな。それは、今の時代、時間的にも空間的にも“外部”がなくなりつつある時代だからなんだよ」「新しい秩序が見えてこない、“内部”が肥大した時代には“秘めたるもの”も意味をなさなくなる。文学にとっても最も不幸な時代なんだと思うね」「“内部”だけで育っていくと、決して大人にならない子どもばかりの世の中になっていくんだろうね・・・・・・」

今は80年代初頭ではないが、不思議なほど自己展開している人、勝手な自己肥大を人に認めろと脅迫的に強要してくる人が多いように思う。肥大した自己イメージでの独善や要求を、打診されることもなく、他人に勝手にずけずけとやられてしまう。自分には非常に価値があるから自分のやることは相手に喜ばれて当然と思っている人に何人もあった。

得意満面だったり、関係ない他人に延々とと自分語りや不満をぶつけてきたり、「他者」がいないのだ。こちらが相手に激しい嫌悪感やストレスを抱くとはまったく想像しない。自分を応援してくれるのが当然と勝手に思っていて、賞賛しろと脅迫してきたり、無償の労働や金を要求してきたり・・・。意見を言ってくれ、というから、正直に言ったら激昂されてしまう。私の体調が悪いとか、今、介護でくたくただと言っても、全く耳を貸してくれず、自分の要求だけを脅迫的にぶつけてくる。絡まれると神経がズタズタになってしまう。もちろん私が相手を好きで尊敬していれば、私が相手の才能や人柄に魅了されたのなら、できる限りのことはしてあげたいが、その反対だからできない。表現としてやってはいけないこと、余計なことや越権行為を一方的にされていると感じてしまうので、気持ち悪さばかりがつのる。このまま行けばどんどんエスカレートして好きなように行動されてしまうという恐怖を感じる。(そういう人たちは熱情精神病というのか、セクハラの感覚に似ている。)

「他者」がいないことは「外部」がないとも言えるのではないか。過去にはものすごい人、ものすごい美しいことをやったり、つくったりしている人がいるのに、その人たちの絵や文章や書を見ても、自分との落差にショックを受けて謙虚になるどころか、妄想的に自己を優れた人物に同一化させて瞬時にやりたがる人、どう見てもただ汚いぐちゃぐちゃとやったものに大そうにに自分のサインを入れて得意気に送りつけて来て、それを喜べと強制してくる人とか、どんな精神構造なのか全く理解できない。(本当に自分の表現が良いものと信じているなら自分のブログに載せてたくさんの人に見せるべきだと思う、その汚いものを私個人に送り付けられることがひどく傷つく。そんなものを喜ぶほど私は眼が節穴な人間、甘い人間だと思われているのだろうか。)まともな自己認識がないのか、不安だから何かを強い力で遮断しているのか――たぶん遮断しているのだと思う。

他者の声に耳をすますどころか、都合の悪いことは聞かないで自画自賛をわめきたてたり、すり替えをしてしまう。人生において最も厳粛な場所、私にとって自分の親より大切な師を亡くした絶望の場面にさえ、まるででしゃばるチャンスとばかりにずかずかと師を知らない赤の他人の一方的な自己顕示欲が土足で上がりこんでくる。厳格で思索的だった師(陳腐さ、一般的な概念を徹底して嫌ったことこそが師の凄絶な生きざまだったわけだが、)に対して勝手に捧げる、献じると言って陳腐極まりない軽薄な言葉、師を貶めるような造形パフォーマンスをやりたがりの他人が無断で割り込ませてくるのは不遜や無礼という言葉を越えている。(親友は、それを見て「かわいそうに。殺してやりたいと思うだろうね。」と私に言った。「脳に欠陥がある人なのかもしれない。」と。)

そこは自分の自己表現欲望が立ち入ってよい(それが許される)場所ではない、そこに他人があがりこむ余地はないということ、もし、何かオマージュのようなものを捧げる立場の人がいたとしても、自分はその立場にある人間ではない、ということがわからないのだろうか。余計な表現をするほうは自己陶酔してどんどん気持ちよくなっていき、されるほうは耐え難い汚い澱のようなものが胸に溜まっていく。(汚らわしいものが入ってくる感覚がぬぐえず、どうしてこんな厭な思いをさせられなければならないのかわからない。こんなことを一方的にされる筋合いはないと思う。)

つまりは他者の美しい行為と自分のやっている醜悪な行為の区別がつかないということは致命的なことだと思う。

自分がやってることが良いことだと自分で勝手に信じて許可なく相手にそれをやってしまう。そこには「懐疑」が無い(自分が傷つくような認識は遮断)。この世には自分の経験や想像力からはとても及ばないような自分の計り知れない「他者」、価値観が違う他者がいるということをわかろうとしない。自分と違う言葉、自分とは違うものに触れている言語を話す人間がいることを認めようとしない。すごい人がいても畏れを感じて静かにするのではなく、敬愛という言葉を軽々に使って自分のわかるレヴェルの範囲に引きずり落としてなんでも自己肯定のツールにしてしまう。すぐ有頂天になったり、べったりしがみついてきたり、異常なほど自分に甘い人。そこには他人との「距離」というものが存在しない。

沈黙して遡行できる能力がなければ。

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2012年6月17日 (日)

日隅一雄 オレンジ革命 / がんセンター

6月17日

今、TBS「報道の魂」「バッヂとペンと~日隅一雄の闘い~」を見終えた。

12日に日隅さんが亡くなったあと、14日のNPJの対談企画「敵は天下りシステムにあり」は予定時間通り、植草一秀さん(元大蔵省勤務)、天木直人さん(元外務官僚)に急遽岩上安身さんを加えて追悼企画として行われた。

それをニコ生で見ていたとき、日隅さんのことは決して忘れない、という声とともに、「革命を起こそう」、日隅さんが東電会見で汚染水の海への放出に一人で立ち向かった4月4日に身に着けていた服の色にちなんで「オレンジ革命」という書き込みが沸き起こった。「オレンジ革命」という名は2004年ウクライナの大統領選挙の結果に対しての抗議運動が有名だが、日隅さんを思う革命の名でもいいと思う。

日隅さん本人も前のNPJの対談のとき「静かな革命を」という言葉を使っていたように思う。

6月19日が太宰治の「桜桃忌」なら、6月12日は日隅一雄さんの「オレンジ忌」だ。

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15日に首相官邸前に集まる大飯原発再稼働抗議行動がどうなったのか気になっていたのだが、TVではまったく報道されていなかったのに、youtubeには様子がちゃんとあがっていたので感動した。11000人が集まったという。

http://www.youtube.com/watch?v=WCr6rMpvDic

TVで報道されなくても、抗議する人たちは消えないで増えていくだろう。日本中に広がっていくだろう。日本人が怒らない国民性だなんてことはないのだから。

15日は身体が苦しすぎていけなかったが、6月22日の抗議行動には行きたいと思う。できればなにかオレンジ色のものを身に着けて行けたらいいと思う。

http://twitnonukes.blogspot.jp/

6月15日

きのう、日隅一雄さんの追悼番組をニコ生で見たあと、いろいろな思いが押し寄せてきて眠れなくなってしまい、悶々と朝を迎える。悲しい。とても淋しい。なんともいえない苦しい気持ち。

ガンセンターの予約の日なので12時に家を出る。暑い日。日差しが苦しい。

前回の血液検査の結果、腫瘍マーカーはいつもと同じで通常の人とは一桁違うが手術前の半分。しかしなぜか血中のT3がいつもの2倍になっている、と言われてびっくり。つまり甲状腺ホルモンが高すぎる状態で、それが続くと心臓がまいってしまう、と言われた。「どきどきして苦しくありませんか?」と言われて、そういえばそんな感じもあったけれど、春から夏に向かうときの自律神経の乱れだと思い我慢していた。

今の状態を調べるため、また4本血液を採られた。大した量ではないのだろうけれど、気分的に「もったいない」というか、血圧が下がるような感覚があって、少しぐったり。眠っていないせいもあり、外に出ると暑さが苦しい。歌舞伎座の裏の蕎麦屋で冷たいなめこおろし蕎麦を食べた。

味戸ケイコさんにご案内をいただいた展覧会を見に東銀座から銀座みゆき通りへ歩く。

みゆき通りの看板の上にかわいい猫がいて、周りで皆が写真を撮っていた。

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みゆき(御幸?)通りという名前と可愛い猫の組み合わせが人気。

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ギャラリー悠玄。味戸さんの絵は2階にあった。絵本に使われた大きな鉛筆画がよかった。

宇野亜喜良の絵は「どっぺるべんがー」が良かった。あと鳥と魚と薔薇と少女と少年のピンク色の絵。宇野亜喜良は絵の中に巧みに文字を入れていたが、字も抜群にうまく、さすがにお洒落にまとめてあった。

向かいの画廊でたまたまやっていた藤田嗣治とユトリロ展を見た。フジタの猫。蒔絵筆の最高に細いのを使ったような線で油彩で描いてあるもの、むしろ、墨でない鉄線描に惹かれる。

手前に黒い眠り猫、後ろに目をむいた白猫の鉛筆画は、手前の黒猫だけはしっかり見て克明に描いた感じ、後ろの白猫は作品全体の構図のリズムをつくるためにデッサンの記憶のみでささっとあとから描き入れたように見える。

ボッティチェリのプリマヴェーラの本歌取り。後ろ向きのぐちゃっと乱れた細い鹿の子ユリに目が行った。

帰宅してからすごく疲れて眠ってしまった。

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2012年6月14日 (木)

日隅一雄さん逝去

6月14日

きのう、日隅一雄さんが6月12日午後8時28分、がん性腹膜炎で亡くなったことを知る。ものすごいショック。

12日の朝、痛みで救急で運ばれて、その日の夜亡くなったらしい。10日にも講演をされていたというし、ツイッターもブログもずっと変わらず明晰であったので、なんで今?と、まだ信じられない感じである。

6月17日深夜TBS「報道の魂」で日隅一雄さんのドキュメンタリー放送「バッジとペンと~日隅一雄の闘い~」

http://www.tbs.co.jp/houtama/

ニコ生 NPJの日隅一雄連続対談企画 

http://live.nicovideo.jp/watch/lv96637398?ref=grel

ニコ生 今日10時から日隅一雄追悼番組

日隅さんは昨年5月に胆嚢がんステージ4で余命半年の宣告を受けたが、実際講演や対談などで間近で見る日隅さんは非常に生き生きとして、痩せてはいたが顔色もきれいだったので、余命半年宣告の日から1年が過ぎ、まさか今逝ってしまわれるとは予想できなかった。ご本人もそうは思わなかったと思う。腫瘍マーカーのうちのひとつの値が3月末から比較して、4月末には下がっていたことが心強い、とブログに書かれていた。「治る見込みがあって痛みに耐えるのと、治る見込みがほとんどない中で痛みに耐えるのとでは大きな違いがある」と。まだまだがんばれると思っておられたはずだ。

本当に信頼できる人、尊敬できる人が、またがんで死んでしまった。しかし凄絶な闘病のなかであらゆる治療やペインコントロールを試しながらも、最後まで入院せずにこんなにも精力的に行動し続けることができた人はあまり聞いたことがない。それだけ意思と気力の強い人だったということ、限界を超えて行動した人ということなのだろうか。

私が日隅さんを知ったのは最初はtwitterだった。@yamebunというtwitter nameのその人の言葉が端的で的を射ており、その人が地元新宿にいることからフォローを始めた。その後、東電会見での雄姿を見て、この人がyamebunこと「情報流通促進計画」の人か、と思った。問題点を明確にして、相手がこたえをうやむやにして逃げられないように言葉を厳密に選んで質問する態度、抗議すべきときは迫力をもって引き下がらないこと、理不尽なことをなし崩しにされないために情報を精査していくやりかた。日隅さんは本物のジャーナリスト、というより本物のアクティヴィストだと思った。

新聞記者から弁護士になった日隅さんのブログの文章は法的に精確な説明をしているために読みづらい部分もあった。しかし文学的に巧みな文を書きながら言語的達成のみで、身体的にはまったく他人事な人たちを何人も見てきた私にとっては、本当に身体の生きた、意思と行動の人だった。

実際講演や対談などに行ってみると、話している合間に見せるシャイな笑顔が最高にチャーミングな人であった。話のところどころに人を笑わせて、皆が笑うと本当に嬉しそうにしていた。柔和な笑顔と、理不尽なことを追及するときの鋭さや激しさのギャップが魅力で、人をすごく惹きつける人であった。

NPJの連続対談(岩波アネックス)に行った日の、サプライズの49歳のバースデイケーキを前にした日隅さんの顔、海渡雄一さんとの合同出版記念パーティーのときの皆に囲まれた日隅さんの顔、新宿のジュンク堂での木野さんとの対談のときの日隅さんの顔、忘れられない。本当にすごい人、魅力的な人だった。

初めてNPの連続対談に行ったとき、至近距離から日隅さんを見て身体が震えた。弁護士会の人に、「写真撮影はしてもいいでしょうか。」と聞いて、その人が日隅さんに尋ねてくれたとき、「まったくかまいません。まったくOKです。」と言ってくださった仕草が今も眼の中をぐるぐると廻っている。

4月25日に短いけれどメールの返事をいただいた。個人的にはそれが最後になった。

NPJ連続対談のときの日隅一雄さん

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新宿ジュンク堂での木野龍逸さんとの対談のときの日隅一雄さん

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49歳のお誕生日の日隅一雄さん

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13日にショックで動揺しながら寝て14日の明け方夢を見た。海辺で、日隅さんと彼の親しい弁護士仲間さんたちと一緒に砂浜を歩いていた。波がキラキラ光って、眩しいけれど灼熱の陽光ではなく、気持ちのよい天気だった。日隅さんのニュースを見てとても心配したのだけれど、やっぱりだいじょうぶだったんですね、と思いながら無言で後について歩いていた。日隅さんは元気そうに「だいじょうぶです。」とにこっとしていつもの柔和な調子で言った。誰かの弾くピアノの音が聞こえ、その音に合わせて波間に虹色の光がひとつずつ力強く光っていた。目が醒めてからもやはり亡くなったことが信じがたかった。

6時30分からNPJの連続対談を予定通りのテーマでやったのを見た。

10時からのニコ生の追悼番組で、きょう火葬になったことを知った。肉親が弟さんだけらしいこと、親族の希望で広島県福山市で親族のみでお葬式をすること。福島瑞穂さんのお話で社民党から立候補する気があったようなことも知った。まだまだやるべきことがたくさんあり、痛みはきつくても意欲満々で、本人も病気が今急変するとは思っていなかったこと・・・。

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2012年5月 8日 (火)

日隅一雄 連続対談第六回 宮台真司 模擬コンセンサス会議

5月8日

日隅一雄 連続対談第六回 ゲスト宮台真司 模擬コンセンサス会議「原発存廃」。

前回行けなかったので今回は岩波アネックスに行こうと思っていたが、PMSの頭痛、腰痛で行けなかったのでニコ生で見る。

http://www.ustream.tv/recorded/22442403

今回は日隅さんと宮台真司氏の対談ではなく、特別企画、模擬コンセンサス会議であったが、模擬の原発存続の専門家役(パネラー)の江藤貴紀氏がちょっとたどたどしく、途中で笑い出したりしたのでニコ生のコメントが騒然となったりした。

江藤貴紀氏は、調べてみると、実は事故後いち早く行政訴訟を起こしたすごい人らしい。昨年3月に東京大学法科大学院を卒業し、4月7日には訴状を提出したとある。

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1106/09/news014.html

途中で笑いが抑えられなかったのは自分の信条と逆のことを訴える演技をしているのが気恥ずかしくなってしまったのだろうか。

宮台真司氏は市民パネルのいくつかの設問の会議の後で意見を述べた。専門家パネルの言う残余(未規定)のリスク、ブラックアウトと原発災害では、どちらが制御可能か。日本以外の国ではどの電力、どの電源を買うのか選べる、ピーク時をずらすと割引があるなどの供給メカニズムがある。すぐにでも発送電分離しないと、ほかの発電事業者が参入できない。短期的にこの夏を乗り切るかについても、ピークをずらすインセンティブメカニズムによってかなりやれる。経産省の出してくる計算ベースは現在の産業構造を完全に維持する場合の計算であり、ナンセンス。発送電分離をし、皆がディマンド・リスポンス型の行動をするようになれば産業構造も変わる。社会がどう変わるかを考えて損得を考えるべき。というような話。

梓澤さんの話。原発をどうしても廃止したいという気持ちは、福島の人たちの犠牲の上に自分たちの生活が成り立っていることが許せない、という良心のありかたである。原発は犠牲を織り込み済みのシステムである。

模擬コンセンサス会議の結論。

「原発存廃については廃止すべきである。その理由は、電力供給量、不足量のデータの信用性を判断することは難しい。そもそも電力が足りるか否かの議論は、原発存廃に直結する論点ではない。足らす努力を社会全体ですべきである。

代替エネルギー確保は実績がなく、省エネ社会への産業構造の転換も容易ではないが、エネルギー構造を変えれば、産業構造も変わらざるを得ず、原発を廃止すれば経済成長も止まるという鵜呑みにはできない。

再稼働の是非については、技術的、科学的側面だけでなく、倫理的、感情的な側面を検討して判断すべきである。その際、私たちは福島の現実のことを忘れてはならない。」

8時40分くらいに日隅さんと宮台氏の感想。日隅さんは、腸の狭窄の痛みがひどく、あまり一般には知られていないリリカという疼痛に効く薬を始めたそうだ。副作用の眠気がきついと書いていたが、きょうは声が元気そうでよかった。

宮台氏の話。コンセンサス会議の基本目的は科学の民主化である。専門家にまかせないこと。有識者会議はどういうメンバーを選んだかで役人たちの計画したシナリオどおり99パーセント決まる。未規定なリスクに対しては「センティメント」が決めるのでよい。原発の未規定なリスクについてゴーというのは無責任すぎる。

5月7日

飯田橋の警視庁遺失物センターへ。失くしものは見つからなかった。

そのあと神楽坂を散歩。映画館飯田橋ギンレイホールは、入場料が高くなっていたがまだあった。学生のころ一人で2本立て映画を見に来た。寺山修司の映画を見ていて痴漢にあって一瞬ぞーっとしてトラウマになったり。ギンレイホールの裏にはくららというポルノ映画館。「女囚さそり」のポスターが貼ってあった。

神楽坂に横に走る細い細い脇道。

うねる階段の途中の塀の上にいた可愛い猫。神楽坂にふさわしいしゃれた着物の布の紐を首に巻いている。

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人なつっこく、撫でるとすりすりしてくる。

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赤城神社の近くから牛込のほうまでずっと真っ直ぐ伸びる坂道。

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若葉、若草が匂う横道。後ろに見晴湯の煙突。

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坂が終わり、大通りに出るまで歩いた。大通りは情緒のない広い道。新潮社の横を回り。飯田橋の駅まで戻った。昭和40年代から残っていた古い家並は破壊されてマンションになっている。
帰宅してから私が外出すると淋しがって大騒ぎするちゃびをたっぷり抱きしめた。

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2012年4月16日 (月)

日隅一雄 連像対談企画 第五回 「バトルロワイヤル原発とメディア」/徹底分析 弁護士 日隅一雄 

4月14日

日隅一雄連続対談の特別企画第五回 「バトルロワイヤル原発とメディア」を見に行く予定だったが、自分の体調が悪く、4時間も持たないと思ったので、家でニコ生で見ることにした。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/10898

雨だったのと時間が長いせいか、いつもより開場に人が少ないようだった。

後半の始め、弁護士梓澤和幸さんが、メディアの問題点とは、どこかに陰謀本部があるのか、それともお互い同士の抑え込み(談合)なのか、という問い。

それについて岩上安身さんは「官僚は記者クラブに「鳩の豆まき」(官僚によるメディアコントロール)をやっている。収益構造、大資本が支えるメディア。韓国では今すごいメディアストライキが行われているが日本では全く報道されていない。彼らは公正報道を求めて新聞を批判している。韓国には国民株主の新聞がある。国民主体のメディアがない日本の悪弊を勉強して韓国が国民をコントロールしやすくしようとしたクロスオーナーシップにも韓国国民は反対している。」とのこと。

岩上さんが原発内部取材に行った翌々日から高熱、下痢などが続き、病院に行ったら「それはストレスのせいで被曝とは関係ない。被曝なら影響が出るのは甲状腺。」と断定されたとのこと。念のため腸と甲状腺の検査をしたら、腸に良性のステージⅢのポリープ、そして甲状腺のサイクロブリンに異常(通常より高い)があったので、医者はそれについて黙ってしまった、という話。

被曝がどの程度で身体に影響が出るかは、不可知論で語られるべきではない。人によっては感受性が強く、悪い影響が出るかもしれない、それはあくまで「わからない」のだから。

「検証報道は大事。しかしそれが今の仕組みを変えることに繋がらなければ何の意味もない。マスコミなんかに国民が知る権利を委託した覚えは一切ない。」と岩上さん。

「私たちの不十分さゆえにこの事故を招いてしまったというセンス・オブ・ギルティ、罪悪感は非常に大事なことだと思う。日本に住む人々こそ、チェルノブイリの人たちの苦しみを受けて今日明日をどう生きるかを問われている、そのことを肝に銘じて。」と梓澤さん。

「中曽根さんに対してきちんと責任を問う記事を書いているのか、」という女性の質問が印象に残った。

この日の日隅さんは前半おなかが痛そうだったが、後半は元気そうだった。「社会全体の仕組みとしての視点が必要。マスメディアが「忘れないようにしましょう。体質改善しましょう、と言っても抽象的でむなしい。次の時代のための政治教育、マスメディア教育が欠けている。」とラストは力強い声だった。

この動画に続き3月30日に行われた「徹底分析 弁護士 日隅一雄」を見た。日隅さんが今まで関わってきた重要な裁判、映画「靖国」妨害事件、グリーンピース事件、NHK番組改変事件、沖縄密約情報公開事件のことが要約として紹介され、非常に面白かった。

http://www.news-pj.net/npj/mv/index.html このページの下のほう。

日隅さんの裏話エピソードを木野龍逸さんや、同僚の弁護士さんが暴露し、日隅さんの人となりが語られ、周りの人たちにいかに愛されているかがわかる動画だった。

20年以上前、シドニーの編集部で偶然出会った日隅さんと木野さんは、そのころ、あまり何も考えてないような若者だったが、日隅さんに「弁護士になる。」と言われ、木野さんはそんなに簡単になれるのか、と思ったが一年で日隅さんは弁護士になったそう。

弁護士時代は多忙すぎて朝も夜も事務所にいて、自宅には布団も冷蔵庫もない生活だったそうだ。同僚の弁護士さんたちも日隅さんが癌になって退院する時まで自宅住所を明かさなかったという。ファッションに興味がなく、サスペンダーが嫌いなのでスーツのズボンがいつもヒップハングになっていた、とか、頭の切れと実行力抜群の人だからこそ、ギャップのかわいさが際立つんだなあ、と思う。

最初にかかった外科のお医者さんに、最近「余命宣告したの俺だっけ?あのときから変わってないなあ。」と言われたそう。

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2012年3月17日 (土)

日隅一雄 三木由起子対談 「こんなに遅れている日本の情報公開制度」

3月16日

国立がんセンターへ。3月5日の予約をすっかり忘れていて薬がなくなっているのにきのう気づき、A先生じきじきに予約を入れてもらった。

血液4本、レントゲン2枚。大量出血のあとにまた血を抜かれたので(気のせいか)すごくだるい。

会計待ちでロビーの長椅子に座っていたとき、奇跡ではないかと思った。3か月前に会計待ちのときに目を奪われた今は亡き種村季弘先生によく似た佇まいの人が、また斜め左側の長椅子に座った。椅子の位置関係もこの前と同じ。中折れの茶の帽子、こぎれいな黒のコート、知的で静かな雰囲気。文庫本を読んでいる。背格好も目と唇のかたちもそっくり。私が予約通り3月5日に来ていたら会えなかったと思う。

1時予約で会計がすんだのが2時30分。6時開場の岩波アネックスの日隅さんの対談まで、築地でゆっくり食事でもしていればいいのだけれど、少しでも休みたくて、地下鉄で家に戻った。3時過ぎに帰宅。ちゃびをもふもふ抱きしめてお茶を飲んで休憩。

Yに電話。久しぶりにつながった。またすぐ仙台に行くと言う。私が日隅さんの病気のことで苦しむことが心配だと言われた。

5時に家を出た。岩波についたのは5時45分。開場後、席について資料を見ていたら日隅さんに話しかけているご婦人がいて、「きょう退院されたの?」という問いに「いえ、退院はしてません。」という日隅さんの声が聞こえた。

3月10日のブログで、「ついに動くと痛みが出るタイプの癌痛が始まってしまいました。」と書いておられたので

http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/d/20120310

ものすごく心配だった。あれから入院中で、きょうはこのイベントのために病院を抜けて来られているようだ。

「遅れていた岩波のブックレットがついに4月初めに出ます。」とゲラを持って嬉しそうな日隅さん。思ったよりはお元気そうでよかった。

三木由希子さんは「情報公開クリアリングハウス」理事長。このNPO法人は、1980年創立の「情報公開を求める市民運動」が情報公開法の制定を受けて祖ぢ機械編をした結果、1999年12月に生まれたものだという。(「クリアリングハウス」という言葉はもともと「通行手形」を意味し、そこから現在では「情報センター」という意味でつかわれているとのこと。

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福島県から公開された、県に最初に届いたモニタリング結果とSPEEDIの結果。福島県が知っていたならなぜ県民に知らされなかったのか。3月12日、13日は水の支給を求めて子供連れで公園に並んだ人たちもいたという。

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9時近くなった最後のほう、日隅さんがやはり痛そうにしていたので心配だった。

次は4月14日に長時間やるという。

私自身も病院と血液検査で疲れたせいか、途中で一瞬くら~っとしてしまい頭が前のほうに傾いたりしたのだが、とにかく行けてよかった。

3月15日

母を東新宿のMに送る。ベッドに座っている母を立ち上がらせようと両手を脇からまわして持ち上げたら、今までにない激しさで左腰の神経痛。Mの帰り、地下鉄副都心線の階段を3段降りたとき、これはやばい、という痛みが走り、階段を戻ってエレベーターを使う。

ずっと電話もファクシミリもつながらなかったYは、被災した仙台の弟さん(家は半壊、弟さんは大けが)に代わって、家を修理するお金を集めるために仙台と生家を奔走していると聞く。

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2012年2月28日 (火)

日隅一雄 高田昌幸対談 最後の切り札 内部告発をいかに保護するか / 秘密保全法

2月27日

日隅一雄連続対談企画~無制限10本勝負の第3回目 高田昌幸氏(元北海道新聞記者)との対談「最後の切り札 内部告発をいかに保護するか」を見に岩波セミナーホールへ。

朝から母を施設に送る準備で忙しかった。薬、食事、トイレの世話をして荷物をつくってタクシーで下落合へ。15分遅刻して注意されてしまった。新宿で銀行などの用事に時間がかかった。家に4時ころ帰り、疲れて30分くらい横になってから着替えて出かけた。

岩波のセミナーホールに着いたのは5時45分くらいだったが、少し早めに入れてくれた。きょうは日隅さんの真前の席。

日隅さんは珍しく黒のポリエステルのパンピングウォームアップパンツのようなのを穿いていた。中は汗ばむほどだったが、日隅さんはきょうはベージュのダウンコートを脱がなかったので、体調が悪くて少し寒いのかな、と思った。

高田昌幸氏(北海道警察の裏金をスクープした元北海道新聞記者)から、告発しようとするとどうなるかなどの話。

日本のマスメディアは当局とぐる(権力の手先)なのではないか(もちろん例外もあり、よいスクープが出ることもあるが、大きな流れとしてはそうだ)、内部告発の受け皿としての新聞記者はいるのか、と言う話。

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「私の経験としては、私自身もとってきたネタがある。小さいネタですけど。」と日隅さん。

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また、告発する人は正義のためというより私怨があり組織の中の不満分子である(そうであるほうがむしろ正義のため、と言う人よりリアリティがある)、と高田さん。

日本では内部告発した人は精神的、経済的に酷い目に遭うことが多いが、諸外国では法律によって告発した人がいかに守られているかの例を日隅さんが解説。

「映画やTVでは捜査機関がいかにかっこいいいかを描いたものばかりだが、内部告発した人が主人公の映画やドラマをつくったらいいと思う。」と日隅さん。

マスコミも警察も信用できないのであれば、どこに告発すればよいのか、という質問には「東京に三つある弁護士会の告発を受ける部門へ。」と日隅さんの応え。

そしてきょう非常に衝撃的だったのが「秘密保全法」が国会にかけられようとしている、という話であった。

この法は「背筋が震えるような思い」だと高田さん。

「秘密保全法」は「特別秘密」とされる情報を漏えいした場合、令状なしに緊急逮捕できるという法であり、これの恐ろしいところは、何をもって「特別秘密」とするのかが市民からはわからないこと、「特別秘密」は行政官庁が決める。(原発事故、TPP、沖縄密約などに関する情報、なんでも「特別機密」に成り得る)

内部告発も漏えい、取材・アクセスも漏えいの教唆、特定取得行為として処罰される。報道・公表も漏えい共犯として処罰される。

裏金も捜査上の秘密と言われれば告発した人が緊急逮捕される。デモをやる人間も酒を飲むか、病気はあるか、親しい交友関係など細かく思想調査されるようになる。原発事故での日本各地の放射能汚染状況を本当は政府は持っているのではないか?持っていたとしたらそれは国家の「特別秘密」に指定され、それを暴こうとしたら逮捕される。

「多喜二来て地獄さえぐんだ 秘密法」と梓澤弁護士が書いた川柳。

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「治安維持法のときに命をかけて闘って死んだ人の志を無駄にしないように!」 と熱く語る梓澤さん。

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治安維持法のときのように、法律には担当者ができ、思想検事ができ、事務官ができ、予算がつき、やがて大弾圧が起きる、という高田さんの話。

「冷戦が終わり、今「秘密保全法」が必要な理由がない。インターネットが発達した今、「秘密保全法」を成立させようとするのは権力側の最後のあがきかもしれない。」と日隅さん。

この「秘密保全法」について、マスコミはどのくらい報道しているのか、という質問に対し、「この1月中、新聞などの41媒体中、秘密保全法に触れたのは6件のみ、うち3件は読者の声、1件は寄稿文だった。」と高田さん。

私もこの「秘密保全法」についてよく知らなかったひとりだが、この対談がネットメディアで放送されることで、この事実が広まり、皆の関心が少しでも高まっていってくれたらいいと思う。

きょうも梓澤さんの熱いエールで、末期癌闘病中の日隅さんへの大きな拍手が皆から送られた。そのときの日隅さんの静かに頭を下げる表情に何とも言えず胸が痛くなった。

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梓澤さんの暑苦しさも名物になっている、と言われたときの梓澤さんの笑顔。

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そして最後に日隅さんの「きょうは、実はきのう痛み止めを替えたせいで、お腹が痛くて・・・高田さんがたくさんしゃべってくれたんで良かったです。」という言葉に、胸が痛い。苦しい。

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終わってからアンケートを書いて、そのあと木野さんと立ち話する日隅さんを離れたところから眺めていた。その後エレベーターを待っていたらちょうど日隅さんと木野さんが乗り合わせて来たのでどきどきした。表通りに出て、お二人はタクシーで帰って行った。

終わったあとも声をかけられるわけもなく、痛みのことが心配すぎて、私もおなかが痛くなったのだが、きょうのブログの最後は日隅さんの笑顔のアップで終わろうと思う。

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思想調査でまず携帯電話は完全に調べられる、という話の流れで「これから行く場所を先に言われちゃったことがあって、目くらましに キャバクラの御姉ちゃんに電話したりしたことがあって。」と言ったときの笑顔だったかもしれない。それに対して梓澤さんは「えー、なんとコメントしていいかわからない話で・・・」と言っていた。

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2012年2月15日 (水)

日隅一雄 木野龍逸 トークセッション ジュンク堂 / 風邪

2月18日

朝起きたら喉の痛みもひき食欲も戻っていた。

明日はいよいよ杉並デモ!!のどぬーるぬれマスクとのど飴と大きなマフラーでがんばろう!

http://uzomuzo.com/

2月17日

日隅一雄さんと木野龍逸さんのジュンク堂でのトークセッション「東電・政府は何を隠したのか。そして今、私たちが考えなければいけないこと」を予約していたが、日隅さんにうつす危険があるのならやめようと思っていた。午前中クリニックに行って、院長に、もう外出しても人にうつさないかと聞いたらマスクをすること、咳がないのならだいじょうぶと言われた。念のためツロブテロールテープという気管支拡張のためのテープを出された。鼻水を止める点滴を勧められ、受けたらものすごく眠くなったが、今寝たら夕方過ぎまで起きられないと思い寝ないようがんばった。

のどぬーるぬれマスクをしてのど飴をなめながら出発。5時20分頃家を出て5時45分頃新宿ジュンク堂に着く。8階のカフェ前には6人くらい並んでいた。6時開場。咳をしたりしたらたいへんなので中央の一番後列に座った。

日隅一雄さんは風邪をひいていないかと、ものすごく心配だったのだが元気そうで、きょうは声もよく通っていたので嬉しかった。「きょうもここに来る前まではノートパソコンが重く感じて、持ち上げようとすると筋肉が引っ張られるのにつれてお腹がひっぱられる感じだったけれど、ここに来たら元気になった。」と言っていた。

日隅一雄さんと木野龍逸さんは、20年前シドニーで法人向けフリーペーパーをつくっていたときに知り合ったという。この偶然の出会いで二人が知り合い、その20年後、東電会見に毎日行ってくれなかったら全ての疑問点も一般には開かれなかったと思うと、何とも言えない気持ちになる。あの東電会見の雰囲気の中で自分ひとりではどうにもならなかった、と日隅さんは言った。

「3月から4月は裁判官の移動で(弁護士の)仕事が楽になるから会見に出られた、そのあとは木野さんにまかせようと思った。」と日隅さん。午前の会見が終わって帰ろうとすると、「次の会見がいつ始まるのかわからないからロビーにいなきゃだめ。」と日隅さんが言い、「弁護士だからお金持っててお昼をおごってくれたりした。」と木野さん。

「一回記者が勝たなきゃだめ。一回無理やりにでも勝てばあとはうまくいく。記者が勝たないとこれですむと思われちゃうから。」と日隅さん。

「第二次大戦が終わったとき、きちんと見直せなかった、主権在民にできなかったのは、新聞とテレビしかなかったこと、天皇制の問題があった、けれど今はインターネットがある。」と日隅さん。

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木野龍逸さんは生で見ると特にいい男なんだな、と思った。謙虚で、温和で、ちゃらついたところがなくて精確に言葉を選んでしゃべる人だと思った。日隅さんへの思いやりがとても感じられる。

「僕はジャーナリストじゃなくてただのライターだし」と言ったこと、「東電解体を望むのは過激ではなく、ごく当たり前のこと」という発言、どう闘えばいいのか、というお客さんの質問に対して「個人が政治的な闘いをするのは実際には無理だと思う。それよりも、誰かが声をあげて、それが少ずつ大きな動きになるときに一緒に声をあげたり、政治家がそういう(東電国有化などの)発言をしたときにそれに賛同したり」というようなことを言われて、日隅さんが目を閉じてそれに大きく幾度も頷いていたのが印象に残った。

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「僕はよく言われるんですけど、左翼よりなのにどうして産経新聞だったのかって。でも社会部はね、違うんですよね。」と日隅さんが言った。同じ組織のなかでも人によって意識が違うということ。当時はバイクで事件現場に駆けつけてパトカーより早く着いていたそうだ。

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西山審議官のスキャンダルの東電報告書だけが、やけにリアルに書かれていたので驚いた、という日隅さんの発言に会場が爆笑した。日隅さんは自分に厳しく明晰でいつも闘っている人なのに人を笑わせるのが好きだ。

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途中、すぐ後ろのマスクをしていない男性が咳こんで、げっと思った瞬間むせそうになったが、なんとか咳になるのをこらえた。ほかにもマスクをしないで乾いた咳をする人がいたので日隅さんにうつったらどうする、とはらはらどきどきしていた。

トーク終了後、20人以上がサインに並んでいた。私はずっと待っていて最後に日隅さんにネットで見つけた蟾酥の軟膏を渡して帰った。日隅さんの元気な笑顔を見られて本当に嬉しかった。

帰りの地下鉄の中でも咳は出ず、身体に力が戻ってくる感じがした。 予約したあと風邪になったので行けないかと心配していたが無事聞きに行けて嬉しかった。

2月16日

朝はご飯としらす干しとおかかと海苔。その後、薬のせいか再び食欲がない。胃が痛いのではなく、なんとなく具合が悪い感じ。薬のせいか雨雪が降る中買い物に行っても寒さを感じない。熱はないがお風呂に入ると少しどきどきする。

ツイッターをたどっていって福島の動物の話をいくつか読んで泣いてしまった。

2月15日

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以前がんセンターのA先生が出してくれていたアズノールうがい薬。まさに若冲の使ったベルリン・ブラウ(プロイセンの青)。

熱は昨日と同じ36.5度。レボフラキサシンの副作用なのか昨夜眠れず、気がついたら6時になっていたのでトマトスープを飲んで朝の薬を飲んでまた寝た。

2時頃起き、作業をして夕方鱈と白子とキャベツのスープを食べた。夜8時頃眠気に襲われ12時頃起きて仕事しようと思ったのに朝8時まで寝てしまった。

2月14日

午前中37.4度。クリニックに行く。インフルエンザ検査は陰性。風邪薬と胃の薬をもらう。

レボフラキサシン(感染症)、アストマリ(咳)、カルジール(発熱、痛み)、チムケント(アレルギー、鼻水)、タイプロトン(制酸)、リタロクス(制酸)。

薬の副作用を調べるため検索していたら面白いことを書いているかたがいた。「アストマリ」ってなんできょう止まらないのか・・・。

夜には咳もおさまり食欲も少しもどる。鼻水だけ増えてきた。

2月13日

3日前くらいから少し喉がイガイガしていたが、朝、目が覚めたとき背中の筋肉が痛かった。食欲なく、お好み焼きを一日かかって一枚食べる。夕方7時頃から発熱。体温計を口にくわえたら37.9度だった喉が渇くのでお茶を普段より多く飲んでいる。

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2012年2月14日 (火)

表現

2月12日

四大陸フィギュアを見る。

蟾酥(せんそ)について調べる。

2月11日

日隅一雄さんの市民ジャーナリスト学校のustを見る。

http://www.ustream.tv/recorded/20363302

取材するときの注意点は、事前に著書を読み調べること、質問する優先順位、質問リストとチャートをつくる、いかに具体的にシュミレーションできるか。自分が話すのでなく、相手から聞き出す。発信段階では、身近な人にチェックしてもらうこと。ニュースソースと具体名、文献を出すことで信憑性が得られる。ニュースヴァリューを超えてセンセーショナルに書くとまずい。記事の評論を書くときに気をつけるべきことは、記事に足りないものは何かを読むこと。誰が得をして誰は虐げられているのかを読みとる。

自分はジャーナリスト志望ではないが、どんな表現をやる人間にも、何かを発信するかぎり必要なことではないかと思う。

2月10日

日隅一雄さんの自由報道協会賞授与式における発言の真意に関する記者会見を見る。ネット上で騒ぎになったらしいのだが、日隅さんの発言を批判した人達は出席せず。

http://live.nicovideo.jp/watch/lv80629434

(このニコビデオは1:36:32からのこれまでの日隅一雄の活動をまとめた特集部分がすごい↑)

日隅一雄ドキュメンタリー部分のyoutube↓

http://www.youtube.com/watch?v=Wkkk7RwG5uU

http://togetter.com/li/255511 (会見に関するツイッターなどのまとめ)

1月31日のブログで日隅一雄さんは自由報道協会賞授与式での発言について説明している。

http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/m/201201

私はこの文章を読んで非常に明晰だと思った。

ここで重要なのは、その場での文脈の流れで読むことと、それまでの背景、発言者がそれまでチベット問題についてどのようなことを発言していたのか、どのような立ち位置で、どのようなアクティヴィストであったのかを知る必要があるということだ。背景や文脈を読まずに言葉の外形だけを取りざたしてここぞとばかりに非難している人の中には、チベットの抑圧された人達のことなど考えてもいない人、ほかになんらかの意図があって非難している人もたくさんいそうだ。

また、自由報道協会が政治家に賞をあげたことなどが多くの人の違和感をかったのも要因ではあるのだろうが、個々の問題を一緒にするべきではないと思う。

とにかく「謝罪、訂正は本来発言されたメディアでなされるべき」という考えを日隅さんは体現したのだ。

   *

稲垣知雄(大正から昭和の版画家)の時計をもらう。秒針が猫になっているのがみそ。ちょっとベルトが固いのでバッグに付けて持ち歩くことにした。

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2012年2月 9日 (木)

海渡雄一 日隅一雄 合同出版記念パーティー

2月8日

母を北新宿のKに迎えに、3時20分ごろ家を出る。そのあと日隅さんのパーティーに出るため、紺のベルベットのワンピースに菫色の上着を着て行った。タクシーで実家に母を送り、薬と食事の世話をして5時ごろ実家を出、地下鉄で竹橋へ。

この出版記念パーティーの御招待状は年賀状の返事としていただいたものである。

ホテルの会場の受付に着いたら、ものすごい人でごった返していて、パーティーの開始時間が遅れるほどだった。海渡雄一さんの「原発訴訟」という本と日隅さんが一面に載っている東京新聞などをいただいた。(日隅さんの岩波ブックレット『「主権者」は誰か 原発事故から考える』は後日郵送してくださるそう。)

会場の中ほどは人垣で演壇の上の人が見えないほどだった(出席のファクシミリを返送したのが360人くらいと言っていたから、主催者側の人達やスタッフも含めると400人くらい?)ので、左横の3台の報道カメラの三脚の後ろにくっついて、正面左隅のテーブルに座る日隅さんの顔を見ていた。

海渡雄一さんという弁護士を存じ上げなかったが、日隅さんと同じ事務所で、福島瑞穂さんの旦那さんであった。原発訴訟で30年間も闘ってきたかただそう。

海渡雄一さんの挨拶は原発訴訟体験のレクチャー的要素もあり、興味深かった。

日隅一雄さんの挨拶はいつにも増してすごかった。

http://www.ustream.tv/recorded/20301569

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ジャーナリスト志望の学生が、ある討論会の中で、「これだけの大事故を起こしておいて、東電が嘘をつくわけがない。」と発言したそうで(唖然とするが、ありそうな話と思う)、そんな人間がジャーナリストになるのでは困るから、事実を書き残す義務がある、と思ったそうだ。

「新刊岩波ブックレットは500円なので、一食抜いて買ってください。一食抜いて買って良かったなあ、と思ったら7食抜いて廻りに配ってください。」と笑いながら言った時、みんなが笑った。インターネットメディアやNPJ、彼らも食事をしなければ生きていけませんから、支援してくれるようにお願いします、とのこと。

「この場を借りてこのような機会を設定してくれた事務所の諸先輩、仲間達にお礼を述べたいと思います。事務所にはいるときにいろいろ調べていくうちに、第一線でがんばっている先輩方だとわかって、私がこの事務所を引っ張っていく世代になった頃には、なんだ、あいつの世代になったらもう全然だめじゃないかと言われると思っていたんですが、幸いと言いますか、私はそのプレッシャーからは解放されていますので、ちょっと肩の荷が下りたと思ってるんですけど。今回病気になって、経済的な面も含めて、(聞き取り不明)支えていただきまして、感謝の言葉もありません。さらにきょうここに来てくださった皆さん、ネットで聞いてくれている皆さんにも、本当にありがたい、と思っています。」

「昨年5月に余命半年と告知され、今は云わばおまけのおまけの状況です。主治医の先生、免疫療法の先生、いわゆる代替療法の先生、鍼灸師の先生・・・(幾人かのお名前はよく聞き取れなかった)、そういう人かたがたに支えられています。」

「病状についての報告をして、3つのお願いをして私の話を終わりたいと思います。」

「病状につきましては、そこで得た貴重な情報は同じような病気にくるしんでいるかたに参考にしていただきたいと思い、詳細なかたちでブログのほうに説明させていただきたいので、もしよければ読んでいただければと思います。宣告の段階で手術とX線は不可で、化学療法は、胆のうがんの症例はあまりありませんから、効くのは3つしかなく、それをひと通りやって、腫瘍マーカーの数値は上がったり下がったりしましたが、そろそろその効力は、癌は耐性を持ってしまうので、今はいわゆる奇跡というものですね、私は奇跡ではなくて何がしかの科学的な理由があると思っていますが、奇跡というものが求められる段階に入ってきたのかな、と思います。」

「1つめのお願いは、日隅を思い出していただけるのなら、ぜひ気を送っていただいて、皆さんの気を受けて、私はがんばります。

2つめは、そういう日隅が言ってたですね、マスメディアを改善するであるとか、国民主権というものをより実現することについて、今いったいどのように動いているのかなと考えていただいて、何かできることはないかな、ということで、ひとつでもできることがあったらやっていただきたいと思います。

3つめは、そういうシステムがあるがゆえに、声が上げられない人、声をあげてもそれが届かないかたがたは、国内だけでなく、世界中にいます。沖縄のかたがたは非常に(聞き取り不明)、中近の問題もあれば、アフリカの問題もあります。アフガン、それからイランイラクの問題もですね、はたして一方的にマスメディアが発している情報だけのようなテロリストって決めつけられる(不明)のでしょうか、アジアに眼を向ければ、北朝鮮には今だに(不明)抑圧されたかたがたがいますし、中国には少数民族のかたがたが今厳しい状況に置かれています。そういう人たちの声に耳を傾けてほしい、きょうは耳を傾けてみようかな、きょうはソマリヤデーだとか、きょうはエジプトデーだとか、そういうふうにして、声が届かない人たちの声に耳を傾けていただきたいと思います。

客観的には、これが皆さんにお会いできる最後かもしれませんが、主観的には、まだ、私は、このシステムがどのように改善されたかということについて、検討できる機会を持ちたいと思っています。NPJの編集長として、対談企画を月に一回ずつ十番勝負というかたちで今やっています。

さらには絵本をですね、ちょっと描きたいなと思って・・・ストーリーはできてるんですけども・・・

まだまだ私はやりたいと思っています。

今日という日が、民主主義を充実させるシステムを採用させるための、静かな革命、主権在官から主権在民への、静かな革命のための一里塚のひとつ、となるような機会になれば、とてもうれしいと思います。ありがとうございました。」

3つめのお願いのとき、声に詰まりながら話しておられ、これはまさにアガンベンの『アルシ―ヴの証人』に書かれているような話だと感じ、私も泣きそうになった。しかもよくいる学者のように本の中の言葉を解読して解説しているのではなく、日隅さんは実際に生命を懸けて、身体から出た言葉で話しているのだ。

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海渡雄一さん福島瑞穂さんご夫妻と日隅さん。お話の途中で日隅さんが窓ガラスの縁に腰かけたのが心配だった。立っているのが辛いのだろう。

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フリージャーナリストの木野龍逸さんと畠山理仁さんの挨拶。木野さんの「日隅さんはジャーナリストというよりもアクティヴィストだと思う。」という言葉が印象的だった。

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乾杯のあと、日隅さんのテーブルには長蛇の列ができていた。IWJのカメラの斜め後ろから床に足をついて、知り合いの人たちの挨拶を受ける日隅さんの笑顔をずっと撮っていた。

九時近くなって閉会のころ、最後に列に並んでいた数人のご婦人がたが、「きょうはお会いできてよかったです。」と控えめに挨拶しているのが印象的だった。そのあと、最後にIWJの機材スタッフの人に勇気を出してお願いして、日隅さんと一緒に一枚撮ってもらった。日隅さんは顔を覚えていてくださったようで、「いつもありがとうございます。」と言われた。

帰りに受付で薔薇とトルコキキョウ(盛り花)の包みをくれた。

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