心の病

2016年8月24日 (水)

花輪和一 子どもの頃に親から受けたストレスと表現

8月22日 台風上陸

台風の激しい嵐が来た。朝、8時に電話のベルがなった。いったい誰だろう?と寝ぼけている私に、書道の先生から「台風が上陸するようなので本日の書道は中止」との連絡だった。

そのあとちゃびを抱いてふとんにくるまって寝た。ごおおお、ざあああという凄く強い雨の音。そのほかの世界の音が静まりきっていた。

雨の冷たさを生々しく感じながらちゃびといた。こんなに激しい雨の音を聞きながら、私はこの世界にちゃびと二匹(ふたり)きりのようだった。

あたたかいちゃびと抱きあって寝ていることをすごく幸せに感じた。激しい嵐の日に、私が必死で守るべきものが生きていること。ちゃびの命の息吹を強く感じながら寝ていた。

・・・

リオオリンピックが終わった。

私が興味があったのは、一番は体操。

私が昔からずっと一貫して興味があるのは、不安と緊張に打ち克つこと、追いつめられたところでの「集中」というもののありかた。

レミオロメンの歌にもあったけれど「目の前の一瞬にすべてを捧げて」ということ、それが実際にはどういうことなのか、いったいどういう境地なのか、どうしたらそうなれるのか(想像することは困難だけれど)、に興味がある。

私が不安と緊張がとても強いほうだからだ。予測する時間を極端に短くして、一瞬ごとに集中することができるのか、どうやればいいのか。

私の一生の大きなテーマのひとつは、不安と緊張と表現、ということなのだな・・・。

世間の評価も、追いつめられた状況も、直前の失敗も、すべて頭から追い出してしまえるほどに、瞬間の、自分のやるべきことに集中する境地。

それと演技のインターバルの、移動などのほんの数分には存分にリラックスする(そうしなければ持たない)。そういう私にはできないことにすごく興味がある。

祝!体操、悲願の団体金メダル。私はナショナリストではない。純粋にすごいもの、一瞬で終わってしまう美しいものへの想像を絶する努力、それと仲間の失敗から負わされる緊張に打ち克つことに魅了されて。

内村航平選手の個人総合金メダル。最終局面までライバルに追いつめられていることがわかっていても、自分の練習どおりの演技に集中できたことの凄みに魅せられた。

ほかにも水泳、卓球、バレーボール、陸上リレーと、非常に見どころが多く、夢中になれたオリンピックだった。

・・・・・

7月26日から5回ほど、断続的に花輪和一と電話で話していた。以下はその5回ほどの会話のほんの一部をかいつまんでまとめた記録。

「夜久弘さんが去年の1月に亡くなっていたこと、知ってた?」と尋ねる。花輪さんは亡くなってだいぶ経ってから聞いた、と言っていた。

私は、つい先日、たまたま、すごく遅ればせながら知って驚いた。マラソンをずっとやってらして、お元気だと思っていたからだ。

夜久さんは物静かで穏やかななかに情熱を秘めたかただった。お会いしたのは、すでに『COMICばく』が休刊していた頃で、夜久さんは、なんの利益もない相手である私にも丁寧に接してくださった。

(その直前に私は、わけ(自分の原稿を見てもらったのではない)あって、何人かのまんがの編集の人に会っていた。当時の有名どころの出版社の年若い編集の態度は、驚くほどに無知で傲慢で、まったく会話が成立しなかった。

夜久さんもそうだが、小学館の山本順也さんのように、すごい人ほど、こちらの気持ちを理解してくださって、それからずっと、信じられないほどよくしてくださった。すごい人ほど私をたすけてくれる、私から見て直観的に無知だと感じる人ほど私をばかにしてかかるという事実は、最初は衝撃だったけれど、そういうものなのだろう。

個人的にたいへんお世話になった、山本順也さんに関しては、あらためて書きたいと思う。)

私を花輪さんに会わせてくださったのは夜久さんだ。夜久さんのおかげがなければ、一生花輪さんと会うことはなかった。

(花輪さんと最初に会った時のことも、いつかちゃんと書こうと思っている。)

花輪さんは、その頃、夜久さんのことを「王貞治に似てるでしょ。」と言っていたのを覚えている。

最初に会った時に、花輪さんは25歳の頃のモノクロ写真を私にくれて、後日、その写真をを夜久さんに見せたら「すごい美男子ですね。」と感心していたことが印象に残っている。

25歳の頃の花輪さんは、長髪で役者のようにはっきりとした甘い顔立ちの美青年だった。誰に似ていたかというと、金城武のような感じだ。

夜久さんの事務所に伺った時、夜久さんの著書の『COMICばくとつげ義春』をくださった。つげ義春さんの奥様、藤原マキさんの本を見せてくださって、マキさんの絵がとても好きだと言ってらした。(私は面識はないが、藤原マキさんも亡くなっていることを最近になって知った。)

一度、夜久さんと花輪さんと3人で会ったことがある。そのあと、電車の中で花輪さんが私に「夜久さんの前で、あんまり、花輪さん、花輪さんって言わないほうがいいよ。夜久さん、さびしそうな顔してたから。」と言ったのを覚えている。

そのことを電話で言うと、「俺、人の気持ちわかるもん。」と花輪さん。「そうかな。でも女性の気持ちはわかんないよね。」と言うと、「まっっった~くわかんない!」と。

「勤めてた時、好きだった同僚の女性たち(姉妹)に雪玉を投げつけてたんだもんね。」と言うと、「あははは・・・そう。」

またその姉妹がいた会社のあと、25歳の頃に働いていた池袋の会社の社長の奥様が、『刑務所の中』の本が話題になり、TVでとりあげられていたのを見て、数十年ぶりに手紙をくれたことなどの話を聞いた。

「手紙になんて書いてあったの?」と聞くと、「あの頃は変な子だったよねって。」と。

それから、「最近はどう?お母さんに対する恨みは薄れてきた?」と聞くと、「ぜんっぜん、かわらず。」ということだ。

花輪さんに、私がこのような内面の苦しみの話を聞くのは興味本位からではない。私自身も父親に虐待されて育ったため、親から受けたストレスで萎縮してしまった心からどう立ち直るか、そこと、なにかを表現しようとすることや表現されたもの(また、表現されなかったもの)との関連に、常に関心があるからだ。

「ウィキペディアに両親に床下で育てられたとか書いてあったけど、そんなこと、どこかに書いてたっけ?」と言うと、「あはははは、まんがに描いたのかもね~、まあどうでもいいけど。」と笑っていた。

花輪さんから「サイコパスってどういうのを言うの?」と聞かれた。少し言葉に迷ったが「他者の痛みに対する同情心や共感能力がない人。他人や動物の心配とかまったくしなくて、逆に平気で残酷なことをするような無慈悲で冷たい人、かな。」と答えると、「うちの母親、サイコパスかもね。」と言う。

私が「なぐられたりはしてないんでしょ。」と聞くと、「なぐられはしないんだけど、神経が鈍いんだよね~。」と。

花輪さんは、かわいそうなことを見てもなんにも感じないような人、鈍感で濃やかさがない人が嫌いだ。悪気はなくても気持ちが回らない人、情の薄い人が嫌いだ。

田舎に帰った時、飼っていた犬の顔に、血を吸って大豆ほどの大きさになったダニがぼこぼこたかっているのを見て、どうしてこんなにかわいそうなことをして放っておくのか、と呆れたという。そういうところが母親は「粗くて鈍いんだよね~。なんでかわいそうってわかんないのかな~。」と言う。

「実のお母さんも義父も鈍くて、どうして花輪さんは動物に対する愛情が持てるようになったの?鈍い親に育てられた子供は感受性が影響されて、同じように鈍くなることもあるのじゃないの?」と聞くと、「そういうのはあると思うけど、なんでかそうはなんなかった。」と言う。

花輪さんが36歳の時にお母さんは亡くなった。

「15歳で家を出てから、ずっとお母さんを恨んでいた?」と聞くと、「恨むとか、わからなかった。自分がなんか苦しくても、なんで苦しいのかわからなかったから。」と言う。

「なんか、田舎は嫌~な感じなんだけどね。なんだかわかんないんだよね。それが普通だって思ってたから。」

花輪さんは自分がさびしいとか、愛情不足で充たされていないとか全然意識できず、「誰でもみんなこんなもんだろうと思っていた。ほかの人たちの家を知らないから。これが普通って思ってた。」と言う。

花輪さんの母親は花輪さんを抱き締めたり、撫でたりすることはなく「スキンシップはゼロ!」。心配したり、優しい言葉をかけたりすることもなかった。そして花輪さんのほうも、常に母親や義父に対する怯えと遠慮があって、なにひとつ甘えることができなかったそうだ。

「川で泳いで、耳に水がはいって、耳から膿が出るようになって、痛くても、医者に連れて行ってなんて言えなかったもん。」と言う。

「自分の苦しさを友だちには話せなかったの?」と聞くと、「話すような友達もいなかったし、話すという発想がなかった。」と。

「好きな絵を描くのも、義父が親戚の家に泊まりに行ってる日だけ。いたら怖くて描けないからさ~。チラシの裏に描いてた。」と言う。

「学校の先生に見せたらよかったんじゃない?」と言うと、「学校の先生に見せるなんて発想がないから。たいしてうまい絵でもないしさ。」

母親が死んで10年経ってから、やっと少しずつ自分自身の感情がわかってきたのだそうだ。

「すごいストレスを受け続けて、それが当たり前になっていると、自分の感情や状況判断が混乱するって言うよね。」

私がそう言うと、「そう、混乱してて、なにがなんだかわかんなかった。ばかだよね~。」と花輪さん。

また、私が「お母さんが生きているうちに、すごくさびしかった、傷つけられたって本人に言えてたらよかったんだよね。」と言うと、

「そうなんだよね。生きてるうちに恨みをはらしておけばよかったんだけどさ~。」と。

東京に出てきて、池袋からお茶の水のレモン画翠まで歩いて、聖橋の隣の橋(昌平橋?)の上から景色を眺めながら、「こんなに苦しくてさびしいのに、どうしてみんな生きてるんだろう、と思った。」と言う。

花輪さんは東京に出てきてから、自分の家とはまったく違ういろんな育ち方をした人がいることを初めて知ったそうだ。「親に仕送りしてもらって大学に行ってるなんて人がいてさ~、本当にびっくりした!世の中にはそんな人がいるのかっ!?て。」と言う。

「今、思えばね、母親は自分がいることが嫌だった、不安だったと思うんだよね。再婚したのに死んだ前夫の亡霊が近くにいるんだからさ。俺は母親に捨てられてたんだよね。」

「世の中には、何度も再婚して父親が違う兄弟どうしでも、仲良くてうまくいってる家族もあるんだけどね。」と私が言うと、

「それは親が成熟してたんだろうね。親がおかしいと子供は一生引きずるよね。」と花輪さん。

確かに親が歪んでいると子供は犠牲になり、どんなに歳をとっても子供の頃にすりこまれたこと、それでできた性格はなかなか変われないかもしれない。変わるためには意識的な努力がいる。

親からちやほやされていた子供は他人を怖がることなく、自分はほめられて当然と思っている。恥ずかしいという意識が低い。親から否定されて育った子供は自己評価が低くなる。私は父親からなぐる蹴るされていたので、どうしても対人緊張が強い。

「そういうのは歳とっても一生変われないよね。」と花輪さん。「でも福山さんは対人緊張があるように見えないけど。」と花輪さんは言う。

私は他人が怖いから無理する時がある。私とは逆に、まったく対人緊張がなくえんえん自分のことばかり話してくる人、そうした自分の態度についてわずかにも躊躇がない人がものすごく辛い、ストレスで倒れそうになる、と言ったら、

花輪さんが「そういう長くしゃべる人も異常なんだよねえ。聞くのは30分が限度、いや30分も絶対無理だよね。」と言った。

それから花輪さんの知人のことを聞かせてくれた。その知人は、自分のことばかり長く話す人に対して「お前、自分のことばかり、さっきからいったい何分しゃべってんのかわかってんのか?聞いてるほうはものすごく嫌で苦痛だってわかってんのか?いい加減にしろ!」と激怒して言い放ち、言われた人はその場を去って行ったという。その様子を花輪さんは目の前で見たそうだ。

「そう言えるのはすごいね。だけど私にはそういうのは怖くてできない。」と言ったら、「福山さんは人を見る目はあるのに、はっきり言えないよね。」と言われた。

(そう、私はものすごく嫌なことも、その瞬間には言えない傾向がある。たぶん私がACでHSPだから。そのせいでルサンチマンがたまる。その対応を考えなくては、と思っている。)

花輪さんがいつも言うのは、「鈍い人にはきつく言っても相手は感じない。だから思いっきりはっきり言っていい」ということだ。本当にそうだろうか。自分のふるまいが称賛されて、または許されて当然と思い込んでいる人は、否定されたら怒るのではないか。

「金持ち自慢、グルメ自慢とかする人ね、そういう人は家がよっぽどひどい問題抱えてるとかね、すごい劣等感とかあるんだろうね~、そういうのがないと自慢しないでしょう。そういう人たちもいつかひどい目にあいますよ。」と花輪さんは言う。

「そうかな~、鈍い人は気に病まないから楽しく長生きするんじゃない?他人や動物のこと心配しすぎたり、傷ついたり、優しすぎたりする人は疲れ果てて病気になるんじゃないの?そういうのが世の中の常でしょ。」と言うと、

「それでも、絶対、神経が鈍い人はひどい死に方しますよ!」と言う。花輪さんは因果応報を信じているそうだ。

私は業や輪廻というものをそこまで信じられないのだけど。ただの言葉ではなく、花輪さんの声で、花輪さんに言われると、なぐさめられる感じがする。

昔、私が「がんで死ぬかもしれない。怖い。」と言った時、花輪さんは「でも福山さんてすごく強運でしょう。だからだいじょうぶですよ。」と言ってくれた。花輪さんに「強運」と言われた時、悲観的で気に病みやすい私はその言葉を信じることができた。

「昔、サイン会でファンの人が来ると、怖くて嫌で、「も~お、なんでくるの?!」って思ってたと言ってたのは、最近はなおってきた?」と聞くと「やっぱり嫌だけどね。なんでだかはわからない。」と言う。「なんかお返ししなきゃならないみたいな気がして。」つまり気疲れがひどいということなのだろう。

「花輪大明神とか、あがめられる感じは?」と聞くと、「すごく嫌。だってありえないでしょ~。普通に花輪さんて言えばいいのにさ、そういうふうに言うのは、ばかにしてるんだよね。まあ、相手にしないけどね。そういうこと言う人とは関わりになりたくないっていうか。」という答えだ。

花輪さんに対して距離感がなく、失礼な態度をとるファンが多いということなのかもしれない。ファンなら作家本人の気持ちを尊重してほしいということだ。

花輪さんは最近は外で声をかけられたりすることもない、「隠れているのでいい」と言っていた。

ちなみに、昔、薄野の銀行に行った直後、「花輪さん!久しぶり!」と声をかけられたという。知らない人だったのに「ラーメン屋で会った」と言われ、ポケットからクリップでとめた札束(100万円くらい)を見せられた。競馬だか競輪だかでアタッチャッタ~!と上機嫌で、情報を教えると言われたので、興味がないから、と断ったそうだ。

「なんでおれの名前知ってたのかな~と思って。銀行で伝票を書いてるところをのぞき見されたんじゃないかな。それ、昔のことね。それから何年も経って、新宿でさ、まったく同じ手口でまた声かけられたんだよね~。」と言っていた。

食べ物の話になって、果物では、冬は林檎、「夏は深紅に熟れたソルダムが最高でしょ!」と言っていた。だいたい毎日タマネギや長ネギは食べているそうだ。「タマネギを薄く切ってさ、サバの缶詰と合わせるとうまいよ。」

そういえば昔、うちに来た時に、花輪さんが駅前の果物屋さんでドリアンを見つけ、好奇心から買って来て、私はその特徴的な香りにまったく食べられなくて、全部花輪さんに食べてもらったことがあったことをふと思い出した。その時も花輪さんは「うまいよ~」と食べていたな。

私の部屋で一緒に絵を描いた時の花輪和一さん。この時、銀箔の貼り方を教えた。2002年1月4日の写真があったので貼ってみました。

Sphoto2

一緒に野川にスケッチに行って、たまたま出会った猫たちをかわいがる花輪和一さん。

Sphoto1

私が「肉を食べないって書くだけで絡んでくる人もいるから怖い。」と言うと、「肉ばかり食うとがんになるよって言ってやれば。」と言われた。

「私が肉食をしないのは動物を殺すのが嫌だからで、健康のためではない、だから病気にならないために、ということは言いたくない。」と言うと「そう思えることがすごいよねえ。」と言われた。

山のほうはなんの花が咲いているの?という質問には「最近、山のほうに行ってないんだよね。ダニがいるから。前に首の後ろが痒いな、と思ったら大きいのがくっついてて腫れてたから。」と。

花輪さんが自分の庭で育てたトマトがもうそろそろ赤く熟れて収穫時だそうだ。

・・・・

花輪さんもそうだが、私が惹かれるのはいつも高い集中力と独自の表現力がありつつ、人間関係において政治的なところがない人だ。

花輪さんは自分の固有の苦しみの体験を生々しく描きこそすれ、他人の苦しみの体験を収奪して自分のお手柄にしようとは決してしない。つまり欺瞞的なところや卑劣さがない。

365日、私の頭を一瞬も離れないことは、ものを見ること、表現されたものの価値、同時にまた表現することの価値についてだ。「自信がない」と言いながら、すごいものをつくる人に興味がある。

私自身、どんなに集中してなにかをつくっても、こんなものではまだ全然足りない、自信がないと思ってしまう。

私がすごく惹かれる人はいつも、みずみずしい感受性、すごい才能を持っていて、それでかつ生き難さに苦しんでいる人、世間一般がお仕着せてくる価値観の暴力に苦しむ人だ。

その逆の、私から見てたいした才能がないのに自己肥大していて鈍い人、自信満々で自分の言動に不安を抱かない人には強い嫌悪感を抱いてしまう。

私が今まで知っている限り、才能を持っているのに自己評価が低く、生き難さに苦しんでいる人は、幼少期に親の愛情が少なかったり、虐待されていた傾向があり、さびしさや悔しさを知っている。

幼少期の不安感は、非常に憂鬱、鋭敏で濃密な感受性と、与えられなかったものを激しく希求するような性格をつくる。そこからいかに自由になるのか、どう闘うのかをいつも考えている。

・・・・

最近、私は毎日、たまたま見つけたGさんとCさんのブログを読んでいる。

ふたりとも私より年下の女性で、共通点は情緒的に未熟な酷い親に育てられ、うつ病になるくらい酷いストレスを受けていたことだ。Gさんはがんになった。Cさんは性暴力を受けた。

二人とも非常に頭がよく、感受性が鋭くてものを見る目がある、私から見てとても魅力のある女性。Gさんは濃い感受性と芸術的才能がある。Cさんは社会的考察が鋭く、批判能力がある。

二人とも正直で気取りがなく(むしろはらはらするほど自己開示していて)、欺瞞的なところがない。

私自身は幼い頃からずっと感受性過敏で悩んでいる。すごく美しいものも、すごく嫌なものも、どちらも強烈に自分の中にはいってきて、その体験が強く鮮明に記憶に残り、嫌なことは強烈なトラウマとなる。嫌なものにだけバリアを張ることは難しい(この性質はGさんとそっくりだ。)。

Gさんと私はほぼまちがいなくHSP( Highly Sensitive Person )だ。かつAC(Adult Children)。Gさんが痛々しくて(性格は似ているけど私の方が強いから)、私は彼女に連絡した。私は他人のブログを読んでメッセージを送ったのは初めてだ。

私の表現はどういう価値を目指すのか、ずっと考え続けている。

|

2015年2月 9日 (月)

ブログについて 「私性」をさらすこと 文学

2月8日

本名と顔をさらしてブログを書くことのリスクと意味を、自分なりに考えている。

最近は、時間が空いた時には、読書と並行して、主に闘病ブログや介護のブログ、猫の介護のブログなどを読んでいる。そこでとても得るものがある。

同時に「文学」の価値について考えている。不特定の他人の目にさらされている、という点において比較可能だ。

こんなにも文章が上手くて、かつ有意義な体験をもとにブログを書き残している人がいるのに、現在の「文学」とは何が違うのか、と。

文芸雑誌をいただくので、最近の若い人の小説を読む機会はあるのだが、面白いと思ったことがない。私が気に入って読んでいる何人かのブログのほうが圧倒的に「面白い」。

何が面白いか。そこには苦しみや困難と向き合うためのヒント、生きるためのヒントと同時に、個人の生き生きとした、時間とともに変動する、また多面性を持って揺れ動く「生」があるからだ。

「公共性」の外延を揺さぶっているのは、もちろん、そうしたブログのほうだ。

ブログを書き、少々だがネットをやることにより、よい出会いもある。

しかし、(本名と顔、曖昧で、ピントがはずれたことしか伝わらないにせよ、なんらかの「私性」をさらすことのリスクからして)当然ながら、嫌なこともある。

私に対して、私の感覚ではあきらかにおかしいとしか思えない人が、私に自分のエゴをぶつけてくることがあとを絶たないので、それが私の一番のストレスになっている。

その人たちに共通する特徴は、自分自身の思い込み、いわば自己愛に没頭していることだ。「心の病」なのかな、と思う。

彼らの中では、意識されていないまでも自分がやっていることが正当化されていて、「正しいこと」「よいこと」「役立つこと」「相手のためにしていること」「素敵な魅力的なこと」「思慮深いこと」になっている。

私に対して、彼らがやってくることは「自分を認めろ」「自分を称賛しろ」「自分を甘えさせろ」ということの強要だ。

彼らは、それを必ず「相手のために」とすり替えてくる。

彼らには相手が真剣に打ち込んでいることがわからない。相手が大切にしているものに、まったく関心がない。自分が相手を軽視して、相手の大切なものを無視し、妨害していることが意識できない。

彼らは相手ではなく、自分の中の葛藤やコンプレックスに関心があるだけで、それを解消する「装置」「道具」として、私をターゲットにしてくる。

相手の気持ちを推し量る能力の「欠落」。または心のどこかではわかっていても、自分のエゴを押さえられないのだろう。それを正直に私が指摘すると、大抵逆上してくるから始末が悪い。

「悪気はない」という人の硬直した頭の鈍さほど恐ろしいものはない。一度や二度、おかしな言動をされたくらいでは、私は相手に指摘することは、まずないから、私が直接はっきり言う時は、そうとう度重なるストレスが積もり積もった時だ。

私は、「良い仕事をしたい」ということしか望みはない。体力も時間もないので、極力やることを選んで、好きな人たちと交流して、出来る限り仕事をしたい。

私の本を買ってくれたり、絵を見てくれる人、私が仕事をすることを応援してくれる人に心から感謝しています。

私が望んでいないことを勝手にやってきて、私の神経をズタズタにする人に仕事を邪魔されることが一番苦痛です。

父が死んでから、これまでの人生が、父に滅茶苦茶にされるがままだったことについて、後悔の念に激しく責め苛まれ、これからは極力自分の人生を大切にしようと思った。

そのためには、自分が理不尽だと思うことをされたら、もう黙って我慢はしたくない、たとえ相手には私の気持ちが理解されなくても、「あなたが私にしてくることは、あなたに悪気はなくても、私には、そういうことは耐え難いストレスです」ということを正直に伝えよう、と決心した。

私はたいてい大人しく見られる。父のような「異常性格者」の暴力に耐えて我慢してきたことが、「長女の忍耐強い性格」をかたちづくってしまい、それが雰囲気に出ているのかと思う。

私は、嫌なことをされ、それが過大なストレスになっても、今まで、すぐにそのことを相手に言葉にすることはなかなかできなかった。

(悪い意味で)理解不能なこと、あまりにも不快なことをされても、むしろ私は相手が何をしたいと思っているのか、その疑問を考えるくせがついている。

しかしその結果、、私のストレスは相手には一向に伝わらない。私が素っ気ない態度をとっても、相手は自分が嫌がられているとは夢にも思わないでエスカレートする、ということの繰り返しだった。

もうこれ以上ストレスをため込んで自分の心身が痛まないように、これは変えるべきだと思う。たとえ相手が逆上しようとも淡々と自分の気持ちを述べたいと思う。

今度、私に大きなストレスを与えた、あきらかにおかしい、としか思えない人たちの例を具体的に書いて行こうと思う。

|

2015年1月29日 (木)

父のこと、妹のこと、心境の変化

1月29日

父が死んでからもうひと月が過ぎ、自分自身、多分に心境の変化もあった。

父が死ぬ前と死んだ直後、私の神経は相当まいっていた。

昨年の9月後半に、ちゃびがそれまで普通に食べていた食事を急に食べなくなり、そのときからずっと、あれやこれやと必死で調べて試行錯誤して、いつちゃびが死ぬかもしれない緊張状態が続いてすごく疲れていたせいか、少し鬱気味になっていたのかもしれない。

毎日一緒にいて当たり前だったちゃび、私にとってかわいすぎて、冷静に認識できないほど大きな存在のちゃびが急に死んでしまう、という緊迫感は想像を絶する苦しみだった。

そして父(その時点では父が死ぬまで家族に酷いことをしていたと私は知らなかったので)と母(まだ存命)ももうすぐ死んでしまうという恐怖。

この恐怖はうまく言い表せない。私が彼らに依存しているからではない。そうではなくて、私がまだ物心つかない昔、どういうふうに彼らが生きていて、何を考えていたのか、聞いておくべきだったという苦い後悔に襲われてものすごく苦しんだ。

私の本性として、自分が生まれる前の時代のこと、自分が小さかった時代のこと、人々がどんな暮らしをして何を切望していたのかを知りたい、それを書き留めたいという欲求が激しくあり、それにしては結局日々をなんとなく無駄にしていた自分を責めていた。

日々がものすごい速さで過ぎて行っているし、人はどんどん年老いていっているのに、それをちゃんと受け止めずに無駄に過ごしていた自分に後悔していた。

私の『反絵、触れる、けだもののフラボン』に関して、私が尊敬する兄様姉様方の書いてくださった書評を友人が送ってくれたのだが、私自身の神経が疲弊しきっていたせいか、不思議なことに、本当に全然嬉しさが湧いてこなくて、ただただ申し訳なくて、自分が恥ずかしくて、消え入りたいような気持ちだけが切実だった。

こういうのが「鬱」というのだろうか?

私が尊敬していて信頼している私の好きな人たちが私の本について書いてくださっている、それは恐ろしくありがたいことだ、と頭では理解しているし、事実こんなにありがたいことは今喜んでおかなければ私の一生でこの先はもうないような気がする、と頭ではしっかり認識できているのだが、なぜか自分の心が浮き立つことがなかった。

なぜか自分が書いたものを自分が書いたと認めることができなくて、それに自分が価値を認めることができなかった。

心が浮き立たないこと自体が失礼ではないか、とさらに自分を責める状態。

私がずっとまともに絵を描けていない、全然よい仕事ができていないという自責の念があり、こんな私に対して、よい仕事をしている方々が何かを書いてくれるということの申し訳なさ、恥ずかしさが一気に押し寄せてきたような感じだった。

そして父の死の直後、(父が異常なことは昔からわかっていたが、さらに)父が隠していた異常な悪事の証拠を発見し、強烈な自責の念でうなされるようになってしまった。

それから二週間くらいは、毎晩、苦しい夢を見て、汗びっしょりで眼が覚めた。私がしっかりしていないせいで母を守りきれなかったという後悔で、身体ががちがちになって、首、肩、腰が痛んだ。

・・・

そして今はどうかというと、その時の自分の感情(脳の状態?)とは明らかに違う。

首、肩、腰が痛いのは相変わらずで、タイレノールを(一日に1錠から2錠)飲んでいるが・・・。

今は自分が、非常に乏しく貧しいものではあるが仕事をしてきて、それに対して何かを書いてくださる人がいるということがとても嬉しく、ありがたく、それだけで生きていけるように思えるように変化してきた。

抑うつ状態の時は、頭で理解していても実感として幸福感がわいてこなくて、どうしようもなく苦しかったのだが、今の私の感覚では、素晴らしい魅力的な人たちと知り合えている、そしてどんな状況に陥っても助けてくれる親友がいる、そのことは本当に幸せなことだと強く感じられるようになってきている。

どうして気持ちが落ち着いてきたのか記憶をたどってみると・・・

12月29日、鈴木創士さんがお優しいメールをくださったのに、素直に感受できなかった(すみません<(_ _)><(_ _)><(_  _)>)。父の非道さに動揺していて、父への憎悪と母への申し訳なさで心が滅茶苦茶に収集つかなくなっていた。

1月3日に水沢勉さんからお優しいメールをいただいたのに、父の悪事を阻止できなかった自分に責任があると思い、まだ混乱していた<(_  _)>。

そして教育者のT先生からのメールにあった 「そういう、虚言癖や盗癖、自分をかばったりよく見せる嘘、他人のせいにする癖など、」「 これらはある種の障害なのではないかという思いが強くなりました。」という言葉に、救われたような気がした(これに関してはあくまで私と私の家族に関して、あてはまると私が思ったので、私の家族以外のかたたちについてもそうだとは思いません)。

つまり 私がどんなに真面目に尽くしたり、苦しんだりしても家族の異常さが治るわけではないということ。その酷さは「性格」がおかしいと考えるべきではなく、「病理」「障害」「中毒」と考えるべきだと今は思う。

1月8日に詩人の斎藤恵子さんがくださったメールの中の「これまでお母様も貴女も暴力、金銭的苦労によく耐えてこられたと思います。どれほど我慢されたことか!でも自分がバカだったとは思わないでください。」「「死んでくれてよかった」このことばをどうぞ繰り返してください。」という言葉(この部分だけだと語弊があるが、長い文の中からの一部引用です)が身にしみてありがたかった。

精神疾患と思われる妹について、「心の病は本当に難しく、ただ貴女が巻き込まれることもなく」「貴女自身の無事を祈るばかりです」という言葉に、少し気持ちが楽になった。

父が依存症(中毒)で、家族をどんなに地獄に落としても、私をがんにしようと家族の金を盗むのをやめられない極悪人だったとしても、父が死んでくれた今は、もう私が父のせいで滅茶苦茶になるほど苦しむべきではない、ということ。

そして妹が父のように依存的な性格で、自分のだらしなさからきている不幸を母や私のせいにしようとも、私が妹に巻き込まれるべきではないということ。

・・・

過去を振り返ってみると、妹は、買ったばかりの私の服をよく盗んだりしていた。買ったばかりなのにどうして?どこにいったの?と私がたんすの中や、ありとあらゆるところを捜しまわっていても知らないふりで、「ほんとに知らない?」と聞くと、「知らない」の一点張り。

そして、子供を産んだばかりの妹の家に行くと、アルバムに、私の捜していた服を着て子供と笑っている妹の姿の写真があったこともある。「何、これ?」と私が血相を変えても、妹は{あはははは。」とへらへら笑っていて返してくれない。結局、私が泣く泣く諦めるしかない、そういうことの繰り返しだ。

妹が結婚したがっていた人に捨てられた時も、次に付き合った人とトラブルになった時も、電話をかけてきては泣きわめいていた。私がどんなアドバイスをしても聞くわけではなく、ただ延々何時間も同じことを言って、私に甘えたいだけなのだ。

妹はさんざん相手の悪口を言って、いかに自分が被害者かを訴えてくる。それでいて、私が「そんな人と付き合っても未来がないでしょう。もう別れたら。」と言うと、「それは理屈でしょう!心は理屈じゃないでしょう!」とぎゃあ~っと泣きわめく。じゃあ、勝手にしたら、としか言えない。毎日、同じことを繰り返し、こちらはすごいストレスだけがたまる。

今、思えばあの時も妹はアルコールがはいっていたのだと思う。

そうやって問題解決に向けてなんの決断もしないで、うるさく泣きわめいてばかりの人間と誰も付き合いたくないし、だから結局男の人も逃げていく、その繰り返しだ。

そういえば、妹が二十歳すぎで銀行に勤めていた時、酔っぱらって山手線の線路に落ちて、額をかち割って何針か縫ったことがあった(と母から聞いた)。

また、酔っぱらって終電で眠りこけて、高尾駅からうちに電話してきて、両親を高尾までタクシーで迎えに来させたことがあった(これも妹は私には内緒にしていたが母から聞いた)。

(自分ひとりでタクシーで帰ってきて、運転手さんをうちに連れてきて親にお金を払ってもらえばいいのに、なぜわざわざ両親を高尾までタクシーで迎えに行かせるのかわからない。私だったら、そんなお金がもったいないことをするのは耐えられないので、駅員さんに頭を下げて始発まで駅のどこかにいさせてもらうだろう。)

2003年から2010年くらいまで、妹は夫の転勤で海外(アジア)に行っていた。それまでは、私が我慢していたところは大いにあるが、妹とは普通に仲のよい姉妹だった。海外に行って2か月くらいの時には、妹から国際電話があり、いつものようにえんえん愚痴を聞かされた。

妹の帰国がまじかになった頃、母の具合が悪くなってきていたので、妹にメールをした。その時に、母に対して少しの思いやりもない返事がきたので愕然とした。

自分のことについて、「手が震える」とか「子どもの前でいつも、死にたい死にたいと言っている」というような信じられない言葉が書いてあった。今考えると、もしかしたらそれもアルコールの離脱症状なのかもしれないと思う。

海外に行く前は母や私に対する恨み言など言っていなかったのだから、海外暮らしのストレスがきっかけで何か変化があったのだろう、と思うのだが。

アルコール依存症の特徴である「否認」「被害妄想」「振戦」などぴったり妹にあてはまる。まさに病的だ。妹が海外から帰国した時、セラピストに通っていたらしいが、妹は酒を飲んでいることを隠してセラピーを受けていると思う。

冷静に考えて、妹が「自分の不幸が姉(私)のせいだ」というような態度をとっても、そんな理不尽な言動にいちいち耳を傾ける必要はない。本当に関係ないのだ。

・・・

今、私が考えていることは、自分のやるべき仕事に、誰にも邪魔されずに集中したいということだけだ。

鬱になりかかったのも、ここしばらく仕事に集中できていないからだし、父に対する水に流せない恨みも、私の二十歳代の、一番体力も充実して仕事に打ち込みたかった時を父のギャンブルの借金返済のために滅茶苦茶にされ、そのことを父が少しも悪いと思っていなかったからだ。

今は余計なつまらないことで時間を無駄にしたくない、と心底思う。

それと、ずっと私を支え続けてくれる親友のうちのひとりの「あなたは表現者になるしかない運命なんだ」という言葉を思い出していた。

「表現者になる」ということはどういうことか、もちろんはっきりとわかっているわけではない。「運命」というものが絶対だと信じているわけでもない。

ただ、私はこの言葉を、「どんな過酷な運命にたたきのめされても、それでもなにかを表現する行為しか私には残らない」というふうに読み返している。

それは「反時代的」な考え方かもしれないが、表現が鏡面反射のようにそれ自体で自動的に増幅していくのではなく、引き留める傷、その痕跡の奥に、たしかに苦悩し格闘した生があったと感じとらせてくれるものしか、「表現されたもの」としての価値を認めたくはない。このパラドックスが、私と、私の親友たちがともに持っている価値感だと思う。

この理屈で言えば、私自身が心身ともに潰されない限り、不幸は私のハンディにならない。

1月25日

母の施設に行く。

松の内が開けた頃が母の誕生日だったのだが、ちょうどインフルエンザの人が出たということで面会に来ないでほしいとの連絡があり、その日に行けなくて残念だった。

母には父が死んだことを言っていない。

今、母の頭の中には最初に出会った頃の、母曰く「きれいで優しい」父のイメージがあるのが救いだ。

帰りに中野ブロードウエイで古本を買う。いつも60年代~70年代のまんがを買うのだが、この日は探している本がなかった。妹のアルコール依存症が気になっているので、吾妻ひでおの『アル中病棟』と『うつうつひでお日記』を買った。

上村一夫の遺作で大好きな作品『一葉裏日誌』の文庫版があったので買おうとしたが、(廊下の本棚の奥のほうでとりだせなくなっているが)単行本は持っているので、(ものが増えるので)買うのをやめた。後で調べたら、実の娘さんの解説などが興味深そうでやはり買えばよかった。

それから天婦羅屋さんで食事。昭和な感じの飾らないお店で、話したことはないけれど私はここの白髪の店主さん(おじい様)が好きだ。

Ssdsc04854

ここの天婦羅屋さんのつゆには生姜のすりおろしが少々入っているだけで、大根おろしがはいっていない。私は天婦羅には大根おろしがたっぷりほしいので、必ず「しらすおろし」をたのんで、それでビールを飲みながら天婦羅があがってくるのを待つのが最高です。

下は大好きなめごちの天婦羅(2、3尾で380円!)。淡白ですごくおいしい。

Sdsc04862

|

2015年1月11日 (日)

西新宿 四谷

1月10日

西新宿の家の写真を撮りに行き、そのあと四谷で食事。

花町の名残り、「ホテルニュー寿」のあったところに咲いていた去年の枯れ紫陽花。レースのようにすかすかになっていて、ところどころ鮮やかに残る赤紫だ美しかった。

Sdsc04696

四谷で天婦羅を食べた後、鈴蘭の灯りに誘われて「杉大門通り」を散歩した。
Sdsc04704

ここにも花町の名残り、料亭のあった狭い坂。
Sdsc04710


Sdsc04712

「ねこと薔薇の日々」という店の上に「喝采」という店がある。
Sdsc04715

Sdsc04724

罅割れから植物がはえている古い石段に座ると、とても落ち着く。

Sdsc04725

Sdsc04728

いろいろ悩みの多い毎日だが、最近年上の方たちに励まされることが多い。

T・Jさん、S・Sさん、 S・Kさん、S・T さん、H・Kさん、T・Tさん、M・Tさん、U・Sさん、Y・Fさん、S・Kさん・・・・・・人生の先輩方に支えられている。

私は人見知りで、まったく人付き合いが多い方ではないのだが、それでもこれだけ信頼できる人たちに言葉をかけてもらえている、ということに驚いた。

本当に助けられている、と感じるのは、通り一遍のなぐさめやきれいごとでなく、非常に具体的で経験に基づいたリアルな助言だ。

たとえば「心の病」の場合、治ることは難しい、相手が身内であっても巻き込まれないように逃げたほうがいいということ。たいがいのかたが「自分の身を守ることが一番大事」と言ってくれたことは大きい。

肉親だと嫌なのになんだかんだとずるずる巻き込まれてしまい、自分が誠実に正直に行動すればするほど、相手は甘えてきて暴挙に出る傾向にある。

だから尊敬する人たちが「身内でも捨てていいのだ」と言ってくれてほっとした。

|

父のこと 妹のこと (心の病)

1月9日

父がこの10年以上の母の毎月の年金と、母が必死でつましく貯めた預金を盗んで全部ギャンブルで使い果たしていた証拠のファクシミリを妹に送る。

金額は胸が痛すぎて書けない。それだけあれば何年も暮らせるような額と書けばいいのだろうか。

妹は父が大好きなので信じたくないようだ。どうしても事実をねじまげたいようで、なぜか父の本性にショックを受けたのではなく「コロの件で誰も信じられなくなった(まるで私が妹を騙したというような)」という意味不明のメールが来る。

私が学生のころに父がギャンブルで多額の借金をつくった時、母と私が凄絶な苦労をして父の借金を返したこと、それで妹だけはなんの苦労もせずに短大にも行け、妹は就職してからも家に一円も入れていないことが、妹の記憶からはいつのまにか削除されている。

母と私は父に殴る蹴るされていたし、もろに借金を背負わされたので、父に対して敬愛の情を持てるわけもなく、父も自分の本性を知っている私のことはすごく警戒していた。

だから父は妹を甘やかして操った。

父の思惑通り、妹は父にべったりで、妹をかわいがっていた母と私のことはなぜか恨んでいる。

1月6日

暮れも押し迫る12月26日に父が死に、その時は、父は酷い人間だったがかわいそうな人なのだと、感傷的になったりもしていた。

そのあと、家のこたつの下から、そんな感傷など吹っ飛び、ただ吐き気がするようなペラっとした紙が見つかったのが12月29日のことだ。

きょう、新宿の区役所に行き、もろもろ手続きした後で、そのペラの事実を確認に某所へ向かった。

高層ビル群を歩きながら、横殴りの雨にずぶ濡れになった。

西新宿のタワーのひとつの地下で、メリル・デイヴィスに似た細面の、てきぱきとしたUさんの親切により、10年以上前から、徐々に認知症になりかかってきていた母のお金を父が盗んで、賭け事などで使い果たしてしまった証拠を確認した。

29日にペラを見た時の私のショックは、こんなにも一生懸命やって来たのに、父の汚い盗癖を阻止できなかった自分の生ぬるさへの後悔と嫌悪感で、本当に頭がおかしくなりそうだった。

親友は皆、「騙す方が悪いんだ。騙されたほうは悪くない。」と言うが、母を必死で守りたかった自分は、そんな言葉で納得できるものではない。自分の責任だと思う。

そしてきょう、昔から、結局死ぬまで治っていなかった父の病理の、さらに大きな金額の明細を見て、もっと唖然とした。

夕方、心身ともにくたくたになって帰宅。きょうだけで1・5kgやせて、また43kgに戻っていた。

5時すぎに、今までずっとお世話になっている父と母のケアマネさんに電話した。その時に新たな事実を聞いてさらに呆れてしまった。

妹が暮れに酔っぱらって泣きながらケアマネさんに電話して来て「姉はお金のことばかり言う。父はいい人ですよね。父を悪くいうような姉は父の法要になんかきてほしくない。息子と二人だけで法要したい。」と言ったというのだ。

つまり、妹にとっては、あんなにも差額ベッドのことなどで妹をかばって病院と闘った私が「金のことばかり言う人」で、私をがんにして、母の預金を死ぬまで盗んで使い込んでいた父は「いい人」なのだ。もう妹のことを心配することが、ほとほと嫌になった。

・・・

最近、教育関係の人と知り合えて、いろいろメールで会話させていただいているが、その先生の経験からの話で、たいへん説得力のある言葉があった。

要約すると、こういうことだ。

「トラブルや盗み(万引き)、問題行動はどの生徒でも起こりうることだが、問題は繰り返すパターンである。 経験上、このパターンは指導が全く通らない。 また、繰り返すので何度も指導をしないといけないので、その度に指導に対する耐性というか、 自分の防御のスキルがついてしまい、「こう(あやまれば)すれば大丈夫」 「この言葉で許してもらえる」という良くない学習をしてしまうようである。」

「職業柄、たくさんの人を見ているが、教育ではどうにもならない例がある。本人の心の弱さもあるが、それを許してしまう環境要因が改善を妨げてしまう。」

「「悪いことをしても、謝れば許してもらえる」「この人にこう言えばなんとかなる」「悪いことをしても、いいことをすればそれがなかったことになる」「自分は~な人だから、仕方がないのに周りがそれを理解してくれない。なんてひどい奴らだ」生徒指導をしていて、話の中からそういう匂いがしたら、保護者と話さなければと思うのだが、なかなか難しい。」

これらの言葉が、あまりにも納得がいった。つまり盗みの常習とギャンブル依存症には、人を傷つけているという認識すらない。悪いなんて思っていないのだ。ただどういうふうにごまかせばいいか、卑劣な騙しの手口だけを必死に考えているのだ。家族内であれば、それが警察沙汰にならないのなら、なおることなく、えんえん続くのだ。

・・・

そして、私と母はさんざん苦しめられてきた。私は父を許せなくて、小中学生の頃は、よく父に「眼が反抗的だ」と言われて、殴る、蹴るされていた。

廊下に頭を叩きつけられて、本当に眼の奥の暗闇に火花が見えた。

私が21歳の時、父が大きな借金をつくった。その時に母が離婚すればよかったのだが、母が私に言ったのは、「おばあちゃん(父の育ての親)を捨てることはできない」ということ、それと、「父を捨てれば父は野垂れ死にするような人生だろうが、それでは(まだ高1くらいだった)妹がかわいそうだから、離婚しないでがんばる」という言葉だった。

あの時、「私には貫きたい道があるから、これ以上私の人生を父に目茶苦茶にされたくない」と言って、家を出て行けば違った人生があったのだが。

私はそうはできない雰囲気に流されてしまった。家を出ることも許されず、大卒で就職した会社に5時半まで勤め、6時からは原宿の高級喫茶で11時まで働き、帰宅してからは買い取り用のジュエリーデザインを明け方まで書いて、その給料の全額を家に入れた。

まだ元気だった祖母も、そうとうな苦労をして親戚中からお金を借りていたと思う。私と母はそれこそ死に物狂いで働かざるを得なかった。

私が最初に入った会社は手描き友禅を描く工房だった。短大を出た二十歳前の女の子ばかりで、話題と言えば成人式の晴れ着の話や、自分が稼いだお金で海外旅行へ行く話ばかりだった。

華やかでふわふわした女の子たちと同じ仕事部屋の中にいて一緒に仕事をしながら、自分ひとりがまったく別の真っ暗な世界にいる感覚だった。

あの時、家族の中で私しか正社員だった者がいなかったので、私が父のためにサラ金に連れて行かれて判子を押させられたりもした。嫌で嫌でたまらないものをずっしりと負わせられるほとんど息ができなくなる感覚。

・・・

あの時のいつ終わるかわからない悪夢の感覚が、私の「もののみかた」をつくったのは確かだ。

直覚というのか、その時の苦しみと切羽詰った記憶が核になって、自分が夢中になれるものと、まったく良さを感じないもの、むしろ嫌悪するものとがほぼ瞬間的な判断でわかれている。

・・・

父の借金を背負わされたことの多大なストレスによって、私は即、腎臓結石で倒れ、がんにもなったし、とにかく何があっても父の根本的な性格、家族への愛情のなさは変わらなかったので、その後も父とは打ち解けることはできなかったし、表面上は何もなかったように振る舞われても、どう接していいかわからなかった。

母が具合が悪くなってきた時には私がいくら言っても無視して母の介護をしなかった妹が、父が入院した時には、かいがいしく父のために介護をし出したので私は本当にびっくりした。

妹は父が大好きだと言うのだ。父がそうだったように、妹は、いつのまにか完全に心の病になっていた。父がギャンブル依存症なら妹はアルコール依存症だ。

妹は、父の借金のために必死に働いていた母が、子供の時に自分と遊んでくれなかったから恨んでいる、と、いい中年になった今になってから、まったく気が狂ったようなことを言う。

その母に過酷な労働を強いた、まさに元凶の父が失業して家にいて、妹をさんざん甘やかしていたことにコントロールされて、父は遊んでくれたからいい人だと言う。

そして、私が妹を可愛がらなかったから妹は自分自身を愛せない性格になってしまったという。妹は昔、順調だった時には言わなかったような歪んだストーリーを今になって作り上げて私をののしっている。

(昔、妹が短大を出て大手銀行に就職したときは「家族の中で有名企業に就職できたのは自分しかいない」と偉そうに発言していた。母が「あの子はとんでもないことを言う。歪んでる。」と呆れていたのを覚えている。その銀行も2年くらいで離職したのだが、妹は昔から姉である私に対抗意識を持っていて、美大なんか出た姉とは違って自分は優秀なんだと常に言いたがっていた。)

実際は、(アルコールを飲んで際限なくわめき散らす妹に耐えられず)妹の夫が出て行ったので、その不安やさびしさを絶対に認めたくないから、しょっちゅうアルコールを飲んで前後不覚になって、なぜか関係ない私をののしっているのだが。

愛されない理由が自分の性格にあることを認めず、自分の都合のいいように過去を「合理化」すれば、自分が愛されない不安をごまかせるものなのだろうか?

母が施設にはいる前、私が通いで介護している時、少しでも身体に良いものをと、つみれと根菜や芋の煮物をつくって持って行って食べさせたり、風呂をわかして母を入れて身体を洗ったり、手足をマッサージしたりしていた。

その時、少し母の認知症は進んでいたが、時々「なんでこんなに優しくしてくれるの?」と私に言うことがあって、涙がこぼれた。「私は幸せね。M子(妹の名前)ならこんなことしてくれないもの。」とも言っていた。認知にムラがあったが、時折正気になっている時の言葉だった。

その時期、妹は母が寝たきりになっている部屋を無視して、子供を連れて隣の父の部屋に行って、長時間酒を飲んでへべれけになって笑い転げていた。父はまともなことなど一切言わない人間なので、そういう思いやりのないがさつな妹の態度を注意するどころか(父は下戸だが、ほかに相手にしてくれる人がいないので)一緒にTVを見たりしてだらしなく楽しくやっていた。

私は、母がかわいそうだ、母の介護を手伝ってくれ、と何度妹に言ったかしれない。そのたびに妹の態度は異常だった。「私をこれ以上利用する気なら無理だから。」というようなことを言って私に対して怒鳴り散らしてくることが何回もあった。

妹は、ただ自分を甘やかしてくれる人間になつこうとして、それで自己肯定しようとしている。でも妹の歪んだだらしなさをそのまま許容してくれる人間は同じく歪んだ人間しかいない。

私の今の一番の悩みは、妹が私のやることすべてにねたみのような感情を持っていて、異常行動に出ることだ。

|

2014年12月29日 (月)

父が亡くなった / 心の病 / 差額ベッド

12月29日

きょう、また新たに父が生前にやった悪行が判明して、ショックと同時に、吐き気をともなう怒りが湧いてきた。

父が死んだ時、というより父が何度めかの痰がつまり、もうただ眠っているような、会話できない状態になった時は、すごい後悔に襲われた。

もっといろいろしてあげたかった、という後悔ではない。

父は、異常に自分勝手で、家族のお金を平気で盗むような人で、私は小さい頃から数限りなくひどい目に遭わされてきたから、正直、進んで父の介護をしたいとは思えなかった。

ただ、私が生まれる前のこと、父の子どもの頃のこと、肺結核になった17歳から片肺をとった25歳までに父が何を考えていたのか、結核で死にかかる前は何になりたかったのか、聞いておけばよかったと思ったのだ。

父の子どもの頃、青年の頃のことを聞いておかないと、私の知っている記憶、母や私がどれほど父に辛酸をなめさせられてきたのか、それが無駄に消えてしまうような気がした。

どういう風に育ったらあんな人間になるのか、理解することは不可能だが、それでも、もっと聞いておくべきだったと思う。そして私は、出来うる限り、すべてを書きたかったのだ。

父は祖母と祖父の本当の子ではない。

祖母は、父とは正反対。おおらかでおとこぎがあって明るくて美人で、とても人に好かれる人だった。私の大好きな太陽のような祖母が、私とまったく血がつながっていないことを母から聞いたときはすごくショックだった。

私は、祖母の素晴らしい遺伝子を持っていない。祖母は99歳近くまで生きた。

父はギャンブル依存症で、母や子供の頃の私をよく殴っていた。私にとって父は私に対して何かを与えてくれたり、保護してくれる人ではなく、私を不安の底に突き落として目茶苦茶にするような人だった。

幾度も父の異常性格のしりぬぐいをさせられた。怒りと吐き気で頭がおかしくなりそうな体験が山ほどあった。晩年まで、父の自分勝手さと異常性格はなおらなかった。

ただ、そのことが私の「もののみかた」をつくったのは確かだ。

このことは、また詳しく書きたいと思う。

12月28日

代々幡斎場にて、午後二時、父を火葬する。

ル・レーヴ(夢見る)という名のピンクの百合、ブルーなんとかという名の紫の蘭、ベージュのガーベラ、薄荷色のカーネーション、黄色と白のスプレー菊。スイートピー。

きのう、高円寺中の花屋やスーパーを廻って買い集めた花を棺に入れた。正月用の花束ばかりで、自分が買いたい花を探すのもひと苦労だった。

地方のお葬式で、火葬したあと、骨が人体のかたちのまま出されてきて、その骨を拾うのも、何回もさせられた経験があり、それがショックで怖くて吐きそうだったで、今回も心配だったのだが、

骨はざっくり混ぜられた状態で、四角いかねでできたものに入っていて、「弔事ですので、お骨は一回のみで。」という火夫さんのご指導のもと、二人一組で、あっさり一回つまんで終わったのでよかった。

「仏様が手を合わせているようなかたちなので喉仏といいます。」という説明。

おばあちゃんの時も代々幡だったような気がする。きょうと同じような感じだったのだろうか、あの時よりも、もっとあっさりとすんだような感じだった。

・・・・

今回の直葬で、都内にある代々幡、堀之内、落合などの火葬場は全部「東京博善」という会社の直営であり、火葬だけで一律59000円かかることを知った。

そのほかに骨壺約13000円、このふたつは絶対にかかる。その他保管料一日につき約8000円、火夫や事務、運転手さんへの心付け。

上記の斎場への支払いのほかに、葬儀社に頼まなければならないものは、棺、寝台車、納棺料、ドライアイス、案内の人件費などで、これが80000円くらい。

で、役所への手続きも自分でやり、棺に入れる花も自分で買って持って行き、写真もなしで、合計170000円くらいだったと思う(妹が明細を持って行ったので私の手元にないが、だいたいそのくらい)。

都内で直葬を考えている人の参考までに書きました。

12月26日

父が危ないと連絡を受け、I病院へ。

午後3時2分死亡。

泣き崩れる妹の背中をさすってやって、もう(妹は)十分介護したよ、という言葉を何回もかける。

妹はちょっとおかしいのだ。嘘つきで酷い人間だった父にべったりだったのだ。なぜかというと、妹は私のように、父の借金返済のために青春を滅茶苦茶にされた過去がない。妹はその時、まだ中学生だった。

しかし父の借金返済の時に母と私がどれだけ過酷な労働をしていたか、家族が心身ともに追い詰められておかしくなっている、その異様な事態に気づいていないはずはなく、妹がその原因である父にべったりになって母や私に少しもいたわりの気持ちがないことが異常なのだ。

妹は父と似ている。自己中心的で自分のだらしなさをすべて他人のせいにするところ。依存症で、ちょっとでも優しい言葉をかけると際限なくだら~っと甘えてくるところ。社会性や公平性がなく、自分に甘い人間にだけべったりくっつこうとするところ。

妹はアルコール依存症だと思う。酒が入ると完全におかしい。普通の酔い方ではない。まったく話が通じなくなり、一方的にへらへら笑ったり、激情的に怒ったり泣き出したり。

それだけでなく、アルコール依存症になってから、過去の記憶がいいように勝手に歪められている。 アルコール依存症について調べると「他罰的になる」という特徴があるので、もともとの性格がアルコールによって助長されているらしい。

私は、父から与えらえてきた精神的、肉体的外傷や、嫌悪感や、いろいろあるのだが、若い頃の母が(だまされて)すごく好きになった人だし、とにかく母がかわいそうで、激しく嗚咽してしまった。

・・・・

そのあと、泣きはらした顔で差額ベッドのことについて、病院側に言わなければならなかった。くたくたに疲れていたが、やはり、おかしいと思ったからだ。

「福祉保健局の人に話を聞いて、決まりでは家族が望んだのでない差額ベッド代、病院の方の都合でいれられた個室代は家族に請求してはいけないはずです。」という内容のことを言ったら、I院長は、

「あなたは決まりって言うけど、これは決まりの問題じゃなくて、公序良俗の問題だ。」

と言った。その「公序良俗」という言葉が、疲れた頭に、すごく印象に強く残っている。

つまり、「公序良俗」に反しているのは、私のほうだとと言いたかったのだろうか?

それとも「公序良俗」という語を出してきたわけは、病院側が家族に圧力をかけても、それは法的には規制されるようなことではない、やってもいいことなんだ、と言いたかったのか。

たぶん後のほうだろう。

「福祉保健局の誰がそう言ったの?メモしたいから名前教えて。」とも言われた。

I院長は「この件について僕に決定権はない。看護部長に聞かないとわからない。」と言い(嘘だと思う)、廊下で看護部長を待っていたら「会計に言ってくれ」と言われ、会計に行ったらソーシャルワーカーが出てきて、「でも妹さんは了解したんですよね。ちょっと確認してきます。」と言われ、

「妹は精神的に参っています。患者に何をされるかわからないと思ったので、怖くて了承したと言っています。それでも電話で了承しただけで差額ベッド代の金額を明示した紙に家族がサインしてない限り、家族に支払い義務はないと福祉保健局に聞いています。」とこたえた。

家族が死んだ直後で、ただでさえ胸がざわざわしている時に、病院総出でプレッシャーをかけられたけど、言うべきことは言わないといけないのでがんばった。

それで一応の解決をみた後、死者を囲んでぐったりしている家族のところへ、がちゃっと個室の扉を開けてI院長が入って来た。(はぁ~~・・・まだ、何か?・・・と私は下を向いていた。)

「お父さんは片肺だけでよく頑張ったと思います。いや、皆さんが随分、落ち込んでいるようだからね、私もこう見えて学生時代は鬱だったんですよ。」などから始まる演説があった。「鬱にならない秘訣はね。少しずつがんばること。」とか「皆さんの連携がうまくとれていないところがあるからね。」とか・・・

(残念ながら私は鬱病じゃない。依存症でもない。脅しやすかしでコントロールされるような人間じゃない。ぐったり疲れているように見えるのは差額ベッドの件で病院側に不当な支払いを要求された心労のせいなんですよ、と言いたかった。)

補足すると、この病院は看護師さんは親切だった。

とにかく老衰で亡くなりそうな患者を個室に移された場合、それは治療上の都合であるから、家族に支払い義務はない。

病人を介護している人、「差額ベッド代」で検索してみてください。

|

2014年12月22日 (月)

父のこと お墓のこと コロのこと

12月21日

日曜の朝。ずっと気になっていたが怖くて後回しになっていたことについて菩提寺に電話した。それは「うちのお墓はまだありますか?」という質問だ。

うちのお墓は都心の真ん中、東京タワーのすぐ下にある。祖父が60年くらい前に、麻布に住んでいた時に買ったものだ。

祖母が亡くなったのが2001年で、その時、住職さん(先代のご住職の息子さん)がうちにお経を読みに来てくれてた。祖母がお墓に入ったあと、介護疲れか、母の具合が悪くなってきてからはずっとお墓参りに行っていなかった。

年会費のこともきいたことがなく、うちのお骨は、もしかしたら今頃、無縁仏のほうに入れられていて、お墓がなくなっているのじゃないかと不安だったのだ。

私自身に関しては、自分が死んだあとのことにまったくこだわりがなく、どこかに散骨で終わりでかまわない。

ただ、祖父と祖母が昔ご近所でお寺さんと懇意にしていたので、そういう関係性の中で買ったお墓が、私の代でなくなったら祖母に申し訳ないような気持ちがある。

うちはもともとまったく裕福な家庭ではない。祖父は呉服屋かなんかやっていたようだが、横浜と麻布を反物を積んだ自転車で往復していたとか聞いたような記憶がある。

律儀で堅物だった祖父が、必死で稼いだお金で、麻布の家の近所のお墓を買い、昭和34年には西新宿の木造の家(その頃、西新宿は温泉と芸者の花町で、その中のある料亭旅館の離れの部分がうちである。その料亭旅館は私が小さい頃にはあったが、もうない)を買った。

うちのお墓はなんとか残っていた!西新宿の実家も朽ちつつあるが倒れてはいない。私が幼稚園の時に家で亡くなった祖父の記憶は、具合悪そうで怖かったのだが、貧乏なのにお墓と家を残してくれた祖父はすごいと思う。

それと、何より妹が不安定なので、6月に父が死にかかった時も「父の骨は直葬にして壺を家に置いておくのでいいね。」と言った時に、お経がないと成仏できないとか、本当に情けないくらい妹がぐちゃぐちゃしていたのを見て、お寺で法要してもらったほうが妹が落ち着く気がするからだ。

電話したら、ご住職本人が出た。「たいへんご無沙汰しております。新宿の福山です。」と言ったら「ああ、福山さん。」と覚えていてくれた。「あの西新宿のおうちはまだありますか。」と言われた。

お経と戒名と初七日までのお布施の額をはっきり聞いた。まとまった額ではある。でも年会費(維持費?)のようなものがないと言われたので、父はあそこのお墓にはいるのがいいような気がする。

小さい頃、毎年家族で行っていた、東京タワーの真下の、蝉の声がうるさい小さなこんもりした山と、古びた墓石の立ち並ぶお墓参りの風景の記憶、祖母の匂いを思い出した。

私は古いかけた墓石や、罅割れた石の階段が大好きだった。ぴょんぴょんとはねて歩いていた。

お墓の裏にいつも犬が繋がれていた。私はその犬が大好きで、抱きついたり、ノミをとったりした。白い犬、薄茶の犬、三代くらいかわったが、いつも同じようにおっとりしてかわいくて人なつっこい優しい犬だった。その頃の私と同じくらいの大きさだった。祖母がご住職とお堂の中で話しているあいだ、私はずっと夢中で犬と遊んでいた。

お墓の中の椿の樹には蝉の抜け殻がびっしりついていた。先代のご住職の奥様は、ふくよかな笑顔で、子供だった私と妹にいつも必ずチョコボールをくれた。

もうないかもと思っていたお墓が維持されていたことと、お経の金額がはっきりわかったことで、少し気が楽になった。もやもやと心配するのが一番よくないのだ。

直葬についてもネットでいろいろな葬儀社のプランを調べて検討した。24時間電話で相談できるので、いくつかの葬儀社の人と話してみた。こちらにとって助かる情報を正直に教えてくれる人のところに決めようと思う。

・・・・

夕方、H動物病院にちゃびの輸液をもらいに行き、コロの話をする。

コロは一週間前にH動物病院で3種混合ワクチンを受け、血液検査をした。その結果、抗体があるとのことで、先生の紹介してくれた八幡山の動物病院でシャンプーして、とりあえずH動物病院経由でどこか信頼できる行き先をさがしてもらうことになった。

遠いが動物病院のプロにシャンプーしてもらわないといけない理由は、身体についているかもしれない病原菌を洗い落とすのに、コロも腎不全があるので麻酔を使いたくないこと、それで専門家にやってもらったほうがいいとのこと。

困ったことに1月5日までシャンプーの予約がいっぱいだった。それまでコロが風邪をひきませんように。

シャンプーは6000円くらいかかるらしい。そのあとタクシーで連れてこないといけない。ちなみにワクチンと血液検査は9800円(保護猫価格)だった。このところ、本当に貧乏なのにどんどんお金が出て行っている。でも、コロに関しても希望が見えてきた。

父がもう危ないので、コロには絶対幸せになってほしい。

「きょう、うちのお墓がまだあるのか、お寺に電話で訊きましたよ。」と言ったら、「辛いですね。そういう話は。」と先生が言った。

ちゃびは、この前、シリンジが壊れたので濃い乳酸菌溶液をシリンジで飲ませなかったら2、3日で吐き気がして食べなくなった、と伝えたら「普通は乳酸菌とか、そんなにはやく影響が出るはずないんですけど、ちゃびの場合はわからない。あの子は特殊だから、そうなのかもですね。」と言われた。

「だってまた新しいシリンジにして、濃いめの酪酸菌とガスター飲ませたらまとまったうんこが出て、ゴロゴロが復活したんですよ。」と言ったら、「じゃあ、確かにちゃびはそうなのかもしれない。」と先生は笑っていた。

12月20日

昼過ぎ、親友と電話で話した。

父がもう危ないこと、妹が、前からおかしかったが、最近、特に不安定で、私にあたり散らしていること。妹は不安すぎて心の病になったのだと思うが、こんなふうに私だけにあたられると、私も真っ暗な気持ちになり、鬱になりそうだと話した。

友人は、「でも、こうして電話で話していても、あなたは全然心の病っぽくない。あなたの心は健康だ。」と言った。

でも、ここ最近、父母もちゃびも死んでしまうかもしれないという緊張の中で、毎日、張りつめているので、生きる喜びの感覚が抑圧されているのがわかる。

本来なら、ここで喜ぶべきだと思えることがあっても、心がふわっと軽くならない。

たとえば尊敬する人に作品をほめられること、それが最も私が嬉しいはずのことなのに、心が燃え立たない。涙が出るほどありがたいのだが、申し訳なくて恐れ多くて怖いような感じのほうがとても強く襲ってきて、心が委縮している。

申し訳なくて恥ずかしくて胸が痛くなるような・・・これって鬱じゃないのだろうか。ここで喜ばなければ、ほかに喜ぶ時なんて来ないと頭では理解しているのに。

緊張が続いたからだと思う。いろいろなことが苦しい。

今好きな画家のこと、これからやりたい仕事のことを話して、友人が「その話はすごく面白い、聞いていてもぞくぞくする。」と言ってくれたので、私の頭はまだ回転しているのかなあ、と少し落ち着いた。友人は頭が良くてフラット(偏見のない)で信頼できる人間だ。

土曜日だが、夕方5時頃、父のケアマネのMさんに電話したら、事務所にいらした。Mさんと話していたら少し楽になった。Mさんも当然だが妹の心の病に気づいているそうだ。妹が酒を飲んでいる時に言われたことは目茶苦茶なので真に受けないでいい、私が何かを言うと余計おかしくなりそうなので他人に言ってもらったほうがいい、と言われた。

12月19日

父がもう危ない状態なので、会いに来てくれという電話があり、代々木八幡のI病院へ。

先日電話した時は、だいぶ良くなって食事(ミキサー)もとれるようになり、20分ほどだが車椅子に乗った、と看護師さんから言われた。しかし今日は急変。

3時40分頃、病院に着くと父は酸素マスクをつけて薄目と口を開けたまま眠っていて、肩を触って起こしても起きず、話が通じない状態だった。点滴はすごくゆっくり、一滴、また一滴、という間隔で落ちていた。

6月に国立医療センターに救急車で運ばれた時も、誤嚥性肺炎と心不全で、もうたぶん助からないと言われた。酸素レヴェルがとても落ちていて、普通なら意識もない状態だと。あの時は大病院で、いろいろ本当に渾身の治療を尽くしてくれたので助かったが、今回はもうだめかもしれない。

なにしろ国立医療センターで奇跡的に救ってもらった恩も無視して、今度は絶対に煙草も甘いものもだめ、という条件で家に帰してもらった翌日から煙草も甘いお菓子も好きにやっていたのだから。

それでまた父は、10月に倒れて救急車で国立医療センターに運ばれて、緊急治療を施してもらってから代々木八幡のI病院に11月に転院した。

父の主治医が外来の診療中ということで、6時半くらいまで待って、主治医のお話を聞いてから帰ることにした。

主治医の0先生のお話によると、きのうまでは会話もできていたが、今朝、痰が詰まって呼吸レヴェルが80パーセントくらいまで落ちた、痰を吸引して、今は酸素レヴェルは94くらいまであがり安定しているとのこと。

深夜零時20分くらいに、妹から電話があった。父が亡くなったのかと思い、心臓がどきーんとしたが、そうではなくて、妹が異常に不安定になって(酒を飲んでいるらしく)、私に対して意味の通じないような言葉を吐いてを罵倒してきた。

普通の酔いかたではない。たぶんアルコール依存症というやつだと思う。妹本人は酒をやめたと私に言っていたが、実際はやめられないのだろう。それで彼女の大切な人も去っていったのだから。

深夜に突然電話が鳴って怒鳴られたりわめかれたりしたので、朝6時頃まで胸がざわざわして、全然眠れなかった。

|

2014年5月 8日 (木)

高円寺 / 父 /  表現者の心の病 

5月7日

朝の3時51分、部屋の電話がなった。親友のGからだった。「もう寝てた?まだ、起きてた?」と。

(以前、会ったこともないNという人から朝の4時過ぎに電話が来て、ふいをつかれて我慢して話に応じてしまったその時の自分への自己嫌悪と、自分勝手に喜んでいる相手への怒りで、あとからすごくイライラしてしまったことがあったが、あれ以来の明け方の電話だ。)

しかしGからの電話は、私がこのところずっと、ものすごく悩んでいたことへの、(一応の)解決のための電話だった。その電話をもらっったことで、理不尽に思っていたこと、理解できなかったことへの情報を得て、(一応は)楽になった。

夕方、ひどく凝り固まった首をほぐすため、星状神経ブロック注射を打ちに行く。前回ほどではないが、また気道が詰まって呼吸が苦しくなった。気道が狭くなると、吸う時にクウーと音が鳴り、吐くときはエヘンと咳になり、涙が止まらないの繰り返し。

そのあとカメラを持って高円寺をうろついた。ブロック塀にむせかえるような甘い香りの羽衣ジャスミン。

Sdsc03149

その小さな階段を上ると

Sdsc03145

商店街のすぐ裏に、人気のない細い路地があり

Sdsc03139

近所なのに、いつも通る道の陰にかくれていた初めて通る道だった。

Sdsc03143_2

空き地の隅に帆立や牡蠣の貝殻が残っていた。

Sdsc03142

最近あまり見かけないカステラ色の壁のアパート。

Sdsc03136

大通りを渡って、図書館の方へ行く道。お寺の隣の古い医院。

Sdsc03152

お寺の墓と墓のあいだの狭い道。

Sdsc03158

昔からあるナカムラパン、ロッテチョコレートの古い看板。

Sdsc03165

その奥は古い木のベンチのあるしゃれた店。

Sdsc03170

通りを渡ると、かつて窓ガラスにびっしりと古いLPレコードのジャケットが飾られていた店。

Sdsc03172

ここにもむせかえるほど甘いジャスミンと、猫が通る狭い暗がりの道。

Sdsc03174

昔からある私が好きな篠崎商店の建物は、まだ壊されていなかった。

Sdsc03175

南公園の近くの古着屋さん。最近は外に靴をたくさん並べている店が多い。

Sdsc03178

壁にきれいなビー玉やタイルをびっしり埋め込んだレコード屋さん。

Sdsc03179

夕方の空気が藍色がかってくると店の灯りが美しく見えてくる。

Sdsc03180

全国でも珍しい気象神社の近く、ガ―リーな古着屋さん。

Sdsc03181

ひとつ奥まったデッドエンドにある花園は昔と変わらない。人の家の庭だが大好きな場所。

Sdsc03182

以前はいったことのある妖しい雑貨を売っていたCLUB SKULLの看板はまだあった。

Sdsc03186

駅近くの裏道。

Sdsc03187

緑青の色が美しい西村屋書店の建物。

Sdsc03189

昔からずっと惹かれていたこのフヂヤ薬局の建物は大正時代からのものだそうだ。

Sdsc03192

以前は2階の壁に「實母散」の看板がくっついていたのが素敵だった。 かわいいみいちゃんという名の三毛猫がいたのを覚えている。

Sdsc03194

おしゃれな珈琲店、七つ森。

Sdsc03195

2階がハーブガーデンのようになっている雑貨屋さん。

Sdsc03196

5月3日

記録では26度だったが、日差しが強く、もっと暑い日に感じられた。

母の介助に行く。

整理してまとめた古い写真のアルバム(重い)を持って行った。

私が生まれる前の父の昔の写真を見せて、「これ誰?わかる?」と言ったら、「ああ、きれい。」「いい男。」という言葉が返ってきて唖然、慄然。

「ええ?!じゃあもし時間が巻き戻されたら、やっぱりこんな悪い男にひっかかって、やっぱり私たち家族はひどい目に遭う運命ってこと?!」と驚いて見せたら、意味が通じたのかわからないが、久しぶりに母がすごくおかしくてたまらないように笑った。

久しぶりに身体中から湧き出るような満面の笑顔を見られたので嬉しかった。

父は家族を守るとか養うといった意識が欠落していて、あまり働かず好き勝手にわがままをやって家族にさんざん苦労をかけた人だ。父のせいで重労働をした過労とストレスで私はがんになったし、良くも悪くも父は私の一生涯の性格を形成した要因だと思う。

父は心の弱い逃避型の人間なのだろう。先日も、わざわざ付き添いの人を頼んで、タクシーで往復3000円かけて母の面会に行きながら、母がベッドで眠っていたのを見たら、5分も待たずに、もういい、と言ってすぐ帰宅したという。

父は、私のようにベッドの脇に座って母の手や肩をさすり30分でも寄り添うということができない。母の目が覚めるのを待って食事介助したり、通じるかわからなくても、とにかく話しかけたり、昔の写真を見せたり、そういうことに耐えることができない。衰弱していく母を見ることが怖いのかもしれないが、父の心の弱さが、私からすれば本当に耐えがたい。

家族のために真面目に働く父親のもとに生まれた子どもは、ルサンチマンがなく、のびのび、おっとりとした余裕のある性格になり、うらやましいと、私は子どもの頃からずっと思っていた。

しかし大人になるにつれて不思議なことに気づいた。私から見たら明らかに裕福な家庭に生まれ、存分な教育機会に恵まれ、他者のために必死に働かなくてもいい特権を持っていながら、非常に空虚な、いわば心の病になる人が多くいる、ということだ。

表現をして自己承認を得ようとする人の集まりには、恐ろしいほど感覚や神経が欠落している人、異様にナルシスティックな人、現代の心の病のサンプル一覧ともいえる人たちがいる。

彼らを見ていると、私とはまったく切迫する現実(現実性?)が違い、生きている感覚が違い、価値の感覚が違う、としか思えない。

|

2013年7月30日 (火)

アート、 芸術、 自己愛性人格障害 / 介護

7月29日

最近、介護している人のブログなどをよく見ている。この矛盾した介護保険制度の中で、皆がどんなに苦しんでやっていっているのか。

それと同時に、芸術とはなにか、アートとはなにか、をよく考えている。なにか、というのは世間的な状況や定義ではなく、私にとって芸術とはどういうことか、芸術家とはどういう人か、ということである。

世に溢れるアート、アーティストという言葉になんの魅力も感じない。また旧態依然の権威主義の絵も苦痛なだけだ。

海外の人と英語で話すときは、自己紹介はアーティスト、ペインター、オーサーではあるが、これは日本語で言うのとはニュアンスが違う。

なにかと言えばアート、芸術、と言いまくっている人で魅力的な人に会ったことがない。今までの経験で、「私は絵に生きるのが宿命だから。」とか「私は厳しい芸術の道を行くしかない。」と言う人に限って、私の感覚では本当になんの魅力も才能も感じない人だった。

そういう人は自分の作家活動の重要性に対して誇大な妄想を持っている。過去にどんなにすごいことをやった人たちが累々といるのか、美術史の中で自分はどこにいるのか、見ようとしない。

自分がやりたくてたまらないから、つくるのが好きでたまらないから、というのは、作品行為の価値となんら関係がない。

身近な人が死にそうだから、必死で介護をしているので忙しい、と言った時に、「あ、そう。そんなことより僕の表現を見て。ほめて。認めて。」と言ったり、「それは個人的なことでしょ。そんなことより僕のアートプロジェクトを手伝って。僕に奉仕して。僕の奴隷になって。」と私に言った人間を、私は死ぬほど嫌いだ。

私はあなたのやっていることが大嫌いだし、興味がないので、押し付けないでほしい、と思う。私は本当に大切だと思うことに私の人生を使っているので、くだらないことにストレスを受けたくない。

私ががんで、体調が不安定だ、と言った時も、同じことをやられた。「あ、そう。そんなことより私のオン・ステージの下働きをして。」とか、「あ、そう。どんなに苦しいのかぜひ取材させて。それをネタにして感動的な作品をつくって僕のお手柄にしたいから。」ということを実際にやられた。

彼らは他者の苦痛や死など、まったく関心がないのだ。それより自分のくだらない思いつきをお手柄にして、人に承認させることに必死なのだ。実際は何も感じないが、「他者の苦痛」や「死」は「芸術」のテーマにはかかせないので、なにか考えているふりをして題材にしたがる。

無感覚なくせに、やたら「身体」と言ってみたり、まったく他人の言葉を聞かないで自分を認めろ、とわめきたてているだけなのに「他者の声をきく」と言ってみたり・・・・。

他人の不幸は、自分の作品のためのエサになればいいと思っている。自分のお手柄のために、効果的な題材を捜して他者を目茶苦茶に侵害する。自分だけは傷つかないように、何の危険もないところにいて、他者から収奪する。

目的はただ一つ、自分が芸術家、アーティストと呼ばれ、称賛されることのみ。自分が羨望される存在になること。自分が承認されること。それしか頭にない。

作品上は倫理的な見せかけをし、実際の生きかたは微塵も他者への共感能力(尊重)なく、自分が注目を集めることしか考えない人間を何人も見て来た。

(そういう人たちは、簡単に「わかります、わかります。」と言って近づいてくる。そして次の一瞬には「自分は特別。自分をわかって。自分を保護して。」にすり替わる。それからは会話が成り立たず、彼らは一方的に延々自分のことだけを話し続ける。)

そういう人たちの異常さは、「自己愛性人格障害」というやつらしい。

「自己愛性人格障害」は、まさに「芸術家」気どり、「アーティスト」気どりの人の病だ。自分だけは特別だと思いこみ、自分の表現は重要で、人に称賛されて当然と思い込んでいる。

たぶん劣等感や、不安を隠そうと(抑圧)して、異常なほどのナルシシズムになるのだろう(欺瞞的な防衛機制)。言動のすべてに、その醜悪さが迸り出る。

「お母さんの介護が作品に花開くように祈っています」としゃあしゃあと言う人間は、自分の母親が倒れても、ろく介護しないで、「母に捧ぐ」と言ってまたナルシスティックに自己表現するのだろう。どこまで行っても深いもの、シリアスなものに触れることがない。ただ自己陶酔のみ。重い荷物を背負った人がいても、荷物を持ってあげるのではなく、望まれてもいない自分のサイン入り色紙を差し出すような人間。自分はつねにスター芸術家であるという妄想。

では、どんな人が私にとって真の「芸術家」だったか、と言うと、少なくとも、自分がでしゃばりたいために他者を侵害するようなことのない人だ。何が重要で、なにに価値があるか、何をしたらいけないか、他者を尊重するとはどういうことか、何が美しくて何が醜悪か、ちゃんとものごとが見えている人だ。

そして、生きていく上のあらゆる局面において、時代がどんなに変わろうと、その人の判断力は信頼できる、その人の考えや感覚を聞いてみたい、その人についていきたい、と思える人である。

私が実際に会った「芸術家」は、今現在の「問題」を作品表現によって「外」「他者」に向けて提起しているような押し付けがましい人間ではなく、

むしろ逆に、「外」「他者」のために否応なく今現在の「自分」(自分の内)が「問題」「問い」となってしまう人である。

(当たり前だが自分の趣味や感性を「見て、見て。」と言っているような幼稚な人間ではない)。

そもそも「外」「他者」のために思考が困難になる経験もないくせに(「思考」は、いつも「他者」のために困難になるのであり、自分の勝手な「言葉遊び」ではない)、

「芸術家」の雰囲気だけに憧れて、作品や言葉の外面だけを剽窃して気持ちよくなっている「自己愛性人格障害」が、最近、周りに溢れてきている。

見かけの意匠をどう変えようと、様々なこじつけをしようと、生きていく上での他者との関わりにおいて繊細で鋭敏な感覚のない人の表現を見たいとはまったく思えない。自己愛だけで、根本の神経が死んでいる人と関わりになりたくない。

結局その人の普段の言動と作品が見せるものが一致する人しか私は好きになれない。また、作品を見ただけで、どんな性格で、どの程度の思慮深さか、問題提起能力があるのか、その作家像も、その人本人を知る前にわかるのである。

大昔の人であれ、最近の人であれ、私にとって本当の芸術家の残した作品や、覚書が、辛い状況の時も支えてくれる。

「介護」は「矛盾」のただ中で考えることであり、一寸先が見えない中で、合理性を要求されながらも、なおかつ臨機応変に「他者」に対して「応答」」(response)し、たえず身を持って実践しなければならないことであり、

何かオブジェをつくって、それに「response」という題をつければアートになるというような、安易で陳腐な自己表現とは逆のベクトルの、本当に「思考」が否応なく「危機」にさらされる状態なのである。

・・・・・・・・・・・・・

7月27日金曜に区役所から母の医療の減額認定省が届き、過去12か月に90日を超える入院をした場合は、食費が一食につき210円から160円になるので申請してください、と書いてある緑の紙が同封してあったので、きょう、区役所に申請に行く。

蒸し暑い中、はあはあ言いながら区役所の4階で申請すると、

なんと・・・・・・これから食費が一食160円になるのだと言われて唖然。母は昨年12月11日から今年の5月8日まで入院していたので、入院の90日目の直後(3月11日月曜)に申請していれば、次から退院の5月8日までは160円になったと言う(もう遅いと言うこと)。どっと疲れが・・・・。まあ、9000円くらい損した。。。

「私の説明が悪かったですけど・・・」と区役所の職員に言われて、なんだかな~、と思う。母が入院してから何度も区役所の医療制度部門にきているが、まともな説明を受けていない(パンフの説明もわかりにくい)ので、てっきり療養後の還付になるのだと思っていた。。

区役所から余計な情報を郵便で送ってくることは多いのだが、利用者のためになる情報はなぜか知らせて来ない。

7月28日(日)

施設Tに断りの電話を入れる。

相談員のHさんもTさんも不在で、宿直の人しかいなかった。伝言してください、とお願いする。

終の棲家について、私が断ると言う決断をして、母のために果たして良い方向に向いているのだろうか、と考えると全身が痛くなるくらい苦しかったが、断った瞬間、すごくすっきりした。

7月27日(土)

朝一番に、郊外の施設Tの相談員Hさんから電話が来る。

すごい早口で、8月1日に母が今いる老健Eに母の面談に行きたいので、家族が同席してほしい(施設Tを母の終の棲家にするか、即、返答しろということ)とのこと。

なんと答えていいのか詰まる。8月1日は個人的には生理の体調最悪の日(吐き気と腹痛で寝込む予定)とわかっていたので、とりあえず次の週にしていただけませんか、とだけお願いする。

その直後、ケアマネさんに電話するが、きょうはお休み。留守電に、申し訳ないのですがお電話ください、と入れる。

一度見学しに行った新宿区の施設Aの相談員Tさんに電話。すごく正直で親身な答えをいただく。なにか気が進まないのであれば理由をつけて婉曲に断ってもいい、というようなこと。その言い方のヒントまで教えてくれた。

やはり、Tさんが相談員をしている施設Aは、Tさんの人柄により施設全体のイメージがアップし、安心感があり、いきいきして見える。それに較べて、施設Tは、確信があるわけではないが、なにか不安なのだ。

過去において私の直観はあたることは多いが、当たり前だが100パーセントではない。心配し過ぎて見誤ることもある。ひとつをパスして、次に縁があったものが前にパスしたものよりもいいとは限らない。

どうしたらいいのか、私が母の最期の生活の質、幸福感を決定すると思うと、すごく苦しい。

さらにショートでずっとお世話になっていた新宿のKに電話で様子を聞いてみる。ショートのときの相談員のKさんはすごく優しい人だったが、特養のほうの相談員のTさんは、このとき初めて話したが、取りつく島もない冷たさ。順番についてはいっさいわからない、の一点張り。

夕方、ケアマネのMさんから電話をいただく。正直に経過と気持ちを話す。

Mさんは、ピンとこないのであれば、見送るのもいいんじゃないか、その際、Tさんの言ったように、うまく感じよく断った方がいい、と言われた。Mさんがきょうはお休みなのにも関わらず、長い時間を割いてくれ、ちゃんと思いを聞いてくれたおかげで、だいぶ気持ちが楽になった。

7月26日(金)

次の母の移動先の候補、恵比寿の老健Gの家族面談に行く。

華やかなガーデンプレイスを抜け、蒸し暑い街路を歩く。サッポロビールの会社の庭にオレンジ色のカンナと、大好きな夏水仙が咲いていた。日仏会館を過ぎ、坂を下ると急にさびれた住宅街にはいる。

相談員Mさんはしっかりしていて親切。

施設Tから声がかかったと言うと、狭き門だから、とりあえず申し込んで、今回はいれるかわからないのだからGの申込書も早めに出してください、と言われる。

帰りに休憩しようと恵比寿の駅前に降りると、駅前広場は盆踊りで盛り上がっていた。

7月25日(木)

郊外の施設Tに見学に行く。新宿から私鉄で35分くらいだろうか。それから徒歩。駅前には何もない感じだったが、施設の周辺には緑地もあり、悪くないと思った。

だいぶ迷ってやっと到着。違和感は施設にはいってからだった。なんとなく、暗い・・・・・。

きょうは今にもゲリラ豪雨が来そうな暗い灰色の空なので、建物の中に日が差さないというのもあるのかもしれない。けれど、なんとなく静かで、生気がない・・・・。

ほかに多くの施設を見学していないので比較しようがないのだが、明らかに新宿区内の施設Aより暗い感じがする。対応してくれた年配の女性相談員Tさんが、明るい表情をしないでなんとなく困ったような表情なせいなのもある(Tさんのもともとの性格で、それがこの施設と関係ないのか、関係あるのかもわからない)。「F市では700人待ちで狭き門です。」と言われたが・・・。

もちろん老健とは違うのだが、入居者のお習字や絵が貼っていないいないことや生花が活けられていないことなど、なんとなく楽しそうな感じがしないのだ。

来たときと違う私鉄の駅まで歩いた。満開のオシロイバナ(白粉花)。栗や玉蜀黍の畑。周りの景色は好きだ。けれども・・・・。

帰宅してから特養について調べていたら、やはり特養は要介護度が進んだ人ばかりなので、介護職員さんはやるべき仕事をこなすだけで精いっぱいで、流れ作業みたいになる、入居者との会話などないような話も多々あるようだ。施設によって雰囲気は違うと思いたいけれど。

何か決断できない。ここを終の棲家とさせることが怖い。もう薬のことを心配しないでも済むし、通院も職員さんがやってくれるから家族は楽になるというのに、不安でたまらない。

7月21日

郊外の特養Tから電話。10人の希望者に声をかけていると言う。こんなに早く声がかかると思っていなかったので少し不安。

急遽、25日に見学にいくことになった。

7月18日

母が今いる老健Eから電話があり、3か月延長してもいい、と言われる。

薬はメネシットだけは出してもらえるそうだ。ドネペジルと抑肝散を止めても、8月に追い出されるよりはずっといいと思う。

次に移る老健に面接に行け、と矢も楯もたまらない催促だったが、こちらもやむを得ない事情で行けないでいるうちに延長許可が出た。

今Eにいるほかの入居者さんが何人外に移るか、E入所待ちの人の状態などの兼ね合いだと想像するが・・・。とりあえずほっとした。

介護制度は本当に矛盾している。

今、母がいる老健という施設は、薬代が込みで、薬代を料金に上乗せできない。しかし実際は経営上の理由で薬代を出せないから、入所時に3か月分持参してくれと言われる。

老健は中に医師がいるため、「医療施設」扱いであり、そのため、薬が切れた時は、外の病院で薬を処方してもらうために病院を受診する際には、ダブル医療保険にならないために、一度二泊三日で退所するといった方法をとらねばならない。しかしこうなると何のために老健の中に医師がいるのか、ほとんど意味が分からない。

特養は医療施設ではなく、福祉施設なので、入所していながら外の医療機関に受診が可能である。薬代も受診代も込みではなく、別料金になる。家にいるのと同じなので「薬は出せない」ということにはならない。

|

2012年12月 5日 (水)

unnderstand(下に立つ)という言葉

12月3日

佐藤亨先生に絵を渡しに青山学院大学へ。青梅街道より早く、青学の公孫樹並木は黄色い葉が3割くらい散っていた。授業と授業の合間に3時間ほどお茶を飲んで話した。

佐藤先生は非常に知的で温和で、人の気持ちを理解できる人であり、芸術感覚もある人だ。

understandという単語は、下に立つ、という意味なのだけれど、下に立っていないで他者のことを理解したつもりになる人間が多すぎる、という言葉。

相手を理解する(下に立つ)のではなく、ただ相手を自分の理解者だと勝手に見なして、自分をわかってくれ、認めてくれ、肯定してくれ、とずけずけと強制してくる人が怖くてたまらない。そういう人たちは相手を尊重する最低限のルールを持たない。最初から、相手(私のこと)が自分を助けるのが当然と思っていて、初対面から指図してくる。タイミングも場所も無視して、一方的に自分のことばかり話したり、こちらが真面目に正直にアドバイスしても、全く聞く耳持たなかったり(自分に都合の良いことしか聞こうとしない)。つまりは自己肥大、自己中心、自己愛過剰。心の病気と言えばそれまでだが、いい年をして異常な甘えかたをしてくる人にぞっとする。

狭い世界で許されていて「さらされて」いないから、その外の世界の「他者」から自分がどう見られているのかがわからない。本人の自覚次第、努力次第の低レヴェルな話で、同情の余地がないのに、他人にしつこく語ろうとする。

本人の責任ではなく負わされてしまった大変な重みの話なら聞く価値があるのだが、そういう人は敢えて語らないものだし、たとえば下村康臣さんのように、すごい才能として作品に結実したりする。

どうしても共感できないこと、同意できないことに一方的に巻き込まれ、まったく意に反することに同意していると見なされることが私にとって最悪のストレスになる。

ものをつくるためには、また常にフラットにあり、冷静に考え、よく感じるためには、神経が汚れないこと、好きでないことに巻き込まれないことが一番重要だ。

たとえば自分の身体の不調や病気は、苦しいけれど誰もせいでもないし、耐えるべきこととして受け入れている。母の介護は私が望んでやっているのでイライラするようなことではない。母は私に介護されていることなど5分もたてば忘れてしまうが、私が母に対して胸が痛むということが愛情ということなのだろう。

「福山さんの今現在の、介護にあたる苦労や生活そのものが、強い花を咲かせる事を、切に願っています。」とか年下の病気の苦しみもなく、介護経験のない人間に言われると、一体何様のつもりで(上に立って)そんな口をきいてくるのか、と開いた口がふさがらない。私は自分が花咲くために介護をしているのではなく、愛情があるからしているだけだし、自分が花咲くために苦労をしているのではない。無償の行為ということがわからない人間、神経の鈍い人間には芸術を語る資格(素養)がないと思う。自分が花開きたい、ということだけしか考えていないからそんな言葉が出てくるのだと思うが。

ずかずかと入り込んでくる他人のエゴは、まったく私の耐えるべき領分ではなく、そんなことに自分の神経を損傷されるのは最悪のこととしか言いようがない。

表参道駅までを裏道を通って、佐藤先生が送ってくださった。12月の宵の青山通りの裏道は小物の店などがきらきらしていて、ヨーロッパの小道のようだった。

|