悩み 苦しんでいること

2017年6月22日 (木)

母のこと

6月21日(水)

朝から強い雨。午前11時に遠藤さん(西新宿で私の幼少時から母と親しくしてくださっていたかた)宅へ。

道すがら雨でスカートがびしょ濡れになり、ふくらはぎから足が冷えてつりそうになった。

足は冷えているのに自律神経失調で掌や手の甲から汗がふきだし、動悸と肩凝りではあはあ言っている私に、遠藤さんはツボ押しをしてくれた。まったくどちらが高齢者かわからない。

遠藤さんのご両親は若くして亡くなったそうだ。お父さんは終戦の翌年に。遠藤さんは西新宿の家でご主人の両親を自分の親と思って介護したという。

ご主人のお姉さんの介護もお嫁にきてすぐから30年やった。亡くなった時にうちの母がお香典をもって遠藤さん宅に伺った時のことを、感慨深く覚えているそうだ。

遠藤さんは空襲で逃げ惑った経験、焼け野原の東京や、昭和20年代の新宿についても話してくれ、とてもありがたかった。

また、教師になりたかったのに、そのころの教員試験は健康重視で、背が低く痩せていることで合格は諦め、銀行に勤めたこと。その後、九州の炭鉱を経営する親戚に請われてお手伝いさんに行ったこと、お母さんが倒れて東京に戻り、後に務めた出版社でご主人と出会ったことなど。

一緒に昼食をとった(店はサラリーマン男性でいっぱいで、少しうるさくて落ち着かなかった)あと、遠藤さんは区のボランティア活動へと地下鉄で出かけて行った。そのあとには夕方に娘さんのいる病院へ行くそうだ。

3時すぎ、クリニックで星状神経ブロック注射を受ける。暴風雨になったせいか、2、3人しか待合室にいなかった。このクリニックがこんなにすいているところを見たのは初めてだ。

6月20日(火)

朝、遠藤さんから電話があり、明日伺う約束。

午前中に動物病院にちゃびの輸液や薬を買いに行く。

夏至近い真昼間の日射し。私の好きな折れ曲がった細い路地。

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雨を恋しがる紫陽花。
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看板娘のハナちゃんの写真を撮らせていただいた。触れさせてもらうと、非常に力をもらえる。

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私が小学校2年の時に飼っていたスピッツ系のミックスのチロに顔がよく似ていて、感傷的になり、涙・・・。死ぬほど愛していたチロは私が小学校6年の時に死んでしまった。

「母もちゃびも死んだら、私どうなっちゃうんだろう、と思って・・・」と看護師さんに言うと「まだ死んでないですよね!」と言われた。

確かに快作先生の動物病院では、毎日、毎時間、命を救うことと、動物と愛情関係を生きることに集中していて、悲しみにとらわれている暇はない。

私のように喪失の悲しみにばかりとらわれていたら生きていけない。だけれど最近はずっと心がセンシティヴになりすぎていて苦しい。

母のいるY病院のソーシャルワーカーさんから電話。K病院(療養型で費用は高いところ)も受け入れ可だと言われた。

3:30近くの婦人科(初診)へ。いろいろ脅かされて吐きそうになった。

4:37母の入院しているY病院へ。5時過ぎ、主治医のK・S先生と話す。K・S先生は経鼻栄養には否定的だったが、意外にもCV(中心静脈栄養)に関してはやってもいいんじゃないかと思う、と言われた。

ものすごく神経が疲れた一日だった。阿佐ヶ谷の魚のお店で日本酒を飲む。

6月19日(月)

母の入院しているY病院のソーシャルワーカーさんから、母の転院の受け入れ先として、T病院はOK、I病院は現在の末梢点滴ができなくなったらCVへの移行を承諾することが条件と言われる。

・・

私の甲状腺癌の定期健診に鎌ヶ谷の病院へ。12時前に家を出て、2時前に着く。

ここ一週間以上、私がずっと苦しんでいる頭皮神経痛、肩こり、動悸、不安、不眠について話したら、甲状腺ホルモン値が高すぎるのかもしれない、と言われた。

(私は甲状腺を摘出しているので、チラジンという甲状腺ホルモン剤を毎日飲んでいる。)

急遽、血液検査で3本採られた。1時間後、結果は、やはり血中の値が高めだったとのことで、薬の量を少し減らすことになった。甲状腺ホルモンの必要量は夏の暑さも関係していて、暑くて代謝が盛んな時は薬の必要量が低くなるとのこと。

精神安定剤は依存性があるので増やさないほうがいいとのこと。今、朝の動悸の時と入眠時にレキソタンを1mgずつ飲んでいる。

4時過ぎに会計が終わる。最近、夜眠れないせいか、帰りの電車の中でがく、がく、となるのが嫌なのに起きていられず何度も眠りに落ちてしまった。

6月18日(日)

イタリア在住の日本人女性のかた(Cさん)から、以前から私の絵と文章を見ていてくださるというメッセージが届いた。海外からのこのようなメッセージをいただくことはほとんどないので、信じられなくて、最初、なにかのいたずらかと思った。

すごく精神的に苦しく悲しい時なので、とても励まされた。

・・

JR駅近くの自転車集積所に行ったが、私の自転車はなかった。

駅前交番で話を聞くと、20年前の自転車の登録番号はもう警察に保存されてなく、見つかるのは絶望的だそうだ。

水曜に乗って、マンションの駐輪場に入れたことは覚えている。それ以外に、どこに乗り忘れたのか思い出せない。自分の記憶力に不安を覚えた。私が緊張して動揺しているからなのだろうか?

サドルをつけてくれたKサイクルのおじいさんに相談し、中古自転車3台に試乗させてもらった。やはりブリヂストンの緑の自転車を選んで買った。

6月17日(土)

私はよく何かを紛失する。そして、どうしようもなく探し物が不得意だ。

小さいときから、母に「私の欠点てなんだと思う?」と聞くと「整理整頓が不得意。失くしものが多い」と言われていたことを思い出していた。

朝から数時間、新しいPCの設定のためのマイクロソフトの認証番号のカードを捜していて、ごちゃごちゃした机周りに見つからず、疲れて絶望しかかっていた時、PCの入っていた段ボール箱の底から見つかった。

今まで何度も段ボール箱をひっくり返して振っていたのに見えなかった。だが、結局あった。

夕方5時、予約していたほぐし系マッサージに行こうと、マンションの自転車置き場に行くと、自転車がなかった。

14日水曜に遠藤さん宅まで乗って以来、乗った記憶がない。母のことで動揺していて、記憶が飛んでしまっているのだろうか。

日時の記憶があいまいだが、私が自転車で行く可能性のあるスーパーとクリニック、整骨院、動物病院の駐輪場を全部くまなく見て廻ったが、私の自転車はなかった。

(夕刻、青く沈んだ闇の中で街路のクチナシ(梔子)が白く浮き上がって匂っていた。その枝を手折り、流し台のところに生けたら、台所中が甘く湿った香りに満たされた。)

20年以上も乗っているブリヂストンの白い自転車だ。昔、中野にあった「めりけん吉田」というリサイクル屋で買った。

昔、アパートの駐輪場に置いていたのにサドルだけ盗まれてしまったことがあり、母が捨てられていた自転車の引き裂かれたサドルを引き抜いてつけてくれたのを思い出していた。

その後、近所のKサイクルという自転車修理のお店のおじさんが、引き裂かれたサドルを見て「うちにブリヂストンのサドルあるよ。」と1000円でつけてくれた。おじさんは「錆びてもブリヂストンはいい。最近の外国製のはアルミだから、ぶつかったらすぐにつぶれる。」と、その自転車をほめてくれていた。

ぎいぎい言うが私の身体に似合いの昔なじみの自転車だった。

6月16日(金)

朝、昨日母の転院先希望として伝えたM園から、「痰の吸引が多い」という理由で断られたという電話をソーシャルワーカーさんからいただいた。

引き続きK病院、E病院、I病院に面接希望と伝えたが、もう、こちらで選ぶ余裕はなく、どこでも入れてくれるところに行くしかないのかな、と思う。 

4、5日前から頭の耳の上のところの表皮が、ずきずき強く傷んでたまらない。ストレスからくる頭皮の神経痛らしい。

3日前くらいから不正出血がある。生理の時のような、肩がひどく凝って、どうしようもなく眠くて重くてだるい感じがある。もしも子宮癌や卵巣癌だとたいへんなので、とりあえず婦人科の予約をした。

鎌ヶ谷の病院から電話をいただいた。今日は(甲状腺癌の定期)診察日だったと教えてくださり、次の予約を月曜にとりますか、と言われた。母のことで頭がいっぱいなので自分の癌の診察に遠くまで行く気になれないのだが、一応、予約を入れていただいた。

新しく購入したPCのメール設定などをやっていたら、6月18日までに認証しないとメールも無効になる、という警告が来ていた。マイクロソフトに電話したら認証番号(が書いてある紙)自体が製品なので、それを失くしたならどうしようもない、と(けっこう冷たく、呆れたように)言われた。認証しなければPCの中には、もともとメールやWordがはいっていないのだと気づいた。

混乱している頭で認証番号が書いてあるカードを捜したが見つからず、ひどく疲れてしまった。

6月15日(木)

11時25分に家を出、11時39分の総武線に駆け乗り、11時55分くらいに母のいるY病院に着いきた。

母のベッドのところに、もうK島さん(母の入所している特養のケアマネさん)はいらしていた。

「お忙しいところをわざわざすみません。」と頭を下げてから、「お聞きしたいことがあるのですが、私の妹と会ったことはありますか?」と尋ねた。

「ありません。」という答えをきいて、ああ、やっぱり妹は母の面会に来たこともないのだな、と思い、その瞬間、自分でも予測しなかったことなのだが、急に激しい悲しみに襲われて、つーっと涙が垂れてきてしまった。

「すみません。まだ泣いたことはなかったんですけど、最近ずっと緊張していたので。」と言いながら涙が溢れて止まらなかった。

「母が、もう最期だ、ということを実の妹にはまだ知らせてないんです。妹は母の介護をやってくれなかったので。妹に会わなければならないと思うと、胸がざわざわして怖いんです。」とK島さんに言った。

12時くらいと言われていたが、担当の先生が来るのが遅かったので、K島さんについ母や父、妹のことを話してしまった。

・・

母は、これまで何度も、もうだめかと思うような時があった。私が通いで自宅介護していた時に、トイレで転倒して脚の付け根を骨折した。H外科病院での手術直後、40度以上の高熱が出て、もう死んでしまうのかと思った。

その時、バタバタとあわただしく担当医と二人の看護師さんが母のところにかけつけて、私は「廊下にいてください」と言われ、ああ、母の最期だと思った。

私の連絡を受けて、妹が病院に来た。久しぶりに会う妹に私が勢い込んで「あ、今ね、すごくたいへんだったのよ!40度の熱が出てね。本当に死ぬかと思った。」と告げると、妹は心配するどころか「なに?ああ!うるさいなあ、もう!」と不機嫌そうに言って帰ってしまったことが忘れられない。そのことがずっと、私のなかで妹を許せない傷として残った。

昔は母と私に甘えきっていた妹だ。妹は過去に、自分が困った時は私にさんざん長電話をして甘えたり、私の家に来て、私に泣きついたりしていた。私は長年、妹のわがままや愚痴を許容してきた。

母がパーキンソンの身体的不自由と認知症に少しずつ侵されていったここ8年くらいと時を同じくして、妹は精神的におかしくなっていた。妹は、母がどんなに必死で働いて私と妹を養ってくれたか、どんなに愛情深かったかも忘れてしまっていた。

ギャンブル依存で母や祖母の金を盗み続け、多額の借金を祖母と母と私に負わせて、私を癌にし、さんざん苦しめ続けたた父を、妹は「子供のときに自分と遊んでくれた」から大好きだと言い、その借金のために必死で働かされた母と私のことを、「子供のときに自分と遊んでくれなかった」から憎んでいると言った。

母を(私が通いで)介護していた時、母に食べさせるために野菜と豆腐の煮物などをつくって実家に行くと、母が寒い部屋に寝かされたままほったらかしにされて震えていて、隣の父の部屋から、(子供連れの)妹の酔っ払った甲高いはしゃぎ声がうるさく響いていたのが忘れられない。

父と妹は、外面はよく、身内に対してだけ際限なく甘え、卑劣なマネをするところがそっくりだ。

・・

担当医が来てK島さんと一緒に病状説明を聞いた。小さな肺の炎症はあるが、肺炎というほどではない。尿路感染だと思われる熱も下がってきた。嚥下反応はあるが呑み込めていないので、口からの栄養は危険。療養型の病院への転院先をさがすこと。

そのあと、デイルームでK島さんとお話しした。転院先が決まったら施設の車で、母の荷物ごと運んでくださるとのこと。ありがたい。

母がK園に入る2か月前に、府中の特養から入所のお声がかかって「現在700人待ちで、これを断ったら最後かもしれないですよ。」と言われ、私はすごく迷って苦しんだが、ケアマネのMさんや新宿のA園のTさんに相談して、K園からお声がかかるまでもう少し待ってみる選択をしたことなどをK島さんに話した。

「そんなことがあったんですね。」とK島さんは聞いてくださった。

最後に母がK園ですごせたこと、K島さんをはじめ、ほかのスタッフの皆さんにお世話になれたことは幸せだ。今まで、たいへんなこともあったが、どこかに必ず親切にしてくれる人と出会えていた。

母がずっと何十年も必死に働いて、祖母が家事をやって一家を支えてくれたこと、祖母と母は信頼しあい支えあっていて、祖母を捨てることはできないと母が言って、父と離婚しなかったことなども話した。

K島さんに(K島さんはお忙しいのにたいへん申し訳なかったのだが、)母のこと、父のこと、私の口から、ついことばが漏れ出てしまい、聞いていただいたら、それまでのやり場のない不安や暗い気持ちが、だんだん落ち着いてくるのがわかった。

今、この状況が私は悲しくてたまらないのだが、過去のことを考えると、理不尽なことに対して私なりには精一杯やってきたような気もして、これ以上どうしようもなかったのだ、過去には確かに母の幸せな瞬間も、充実した瞬間もあったのだ、という気持ちになり、少しだけ落ち着けた。

6月14日(水)

朝、遠藤さんから電話があった。「お母さん、どう?」と言ってくださった。私もずっと(西新宿での母の昔馴染みの)遠藤さんを恋しく思っていた。

遠藤さんも入院中の娘さんのお見舞いに行くので、帰宅してから夕方、私が遠藤さん宅に伺う約束をした。

・・

Y病院の母に会いに行くと、看護師さんから2回のソーシャルワーカー室に行くように言われた。その瞬間、なにを言われるのかわかった。

療養型の病院を3つ提示された。

・・

4時過ぎに帰宅し、5時に自転車で遠藤さん宅に行った。

遠藤さん宅では誰も飲む人がいないというビールを冷蔵庫から出してくださった。

「本当にあなたのお母さんはよく働いたわよねえ。」と言ってくれた。

施設に持っていっていて食事介助しながらよく母に見せていたアルバムを遠藤さんにも見ていただいた。生まれたばかりの私と祖父、祖母、母と一緒に写っている黒塀の場所は、料亭藤本の系列のお店だと教えてくれた。

妹には母を見送ったあとはもう会わないほうがいいね、と言われた。こう言ってもらえるのはほっとする。「家族なんだから仲良くしなきゃ」と他人に言われるほど苦しいことはない。

6月12日(月)

家を出た時は曇り空だった。紫陽花は雨を恋しがって少ししなだれていた。

12時45分に母の病棟着。

看護師さんに、「もしできるなら今日から栄養(食事)って先生から伺ってたんですけど。どうでしょうか。」と尋ねると、今日から車椅子に乗せていただいたそうで、昼は食事を試みるそうだ。

ベッドに寝ている母を車椅子に乗せていただき、ナースステーションの中のテーブルでキャロットゼリーなるものを看護師さんからスプーンで口に入れていただいた。

まずはスプーンを口の中に入れて、頬の内側をスプーンの裏側で刺激。それからひと口。

目は薄く開いているようだが傾眠で、呑み込みが悪い。なんとか2口、3口、飲み込んだが、あんまり反応がない。

「とりあえず食事は止めて、お散歩されますか?」と言われて、母の車椅子を押して、談話室へ。

窓から新宿の高層ビルを見せる。「わかる?新宿のビルだよ。」と言うと「うん。」と返事。その時、目を射るような6月の光が街に射した。陽に輝く空とビルを見せて、話しかけていた。

母が私を生んだ頃から、ずっと見慣れた新宿の高層ビル街だ。自宅から新宿駅に出る時は、いつも中央公園の脇道と、住友ビル、三井ビルの横を通り、地下道を抜けて歩いた。

それから西病棟の端っこの窓まで連れて行って、「見える?」と6月の雲を見せる。やはり母は「うん。」と言う。

数分経ってから、今度は東病棟のどん詰まりまで、ゆっくり車椅子を押して、「わかる?電車が通ってるの。」と。

「うん。」と言ってくれることが幸せ。母の命がまだあることが幸せ。もう、それしかない。

叔父が亡くなっていたことのショックが、私の身体に沁みて、私の神経はそうとうおかしくなりつつある。

私は、元気すぎるくらい口くるさくていろいろ心配してくれる叔父を(離れているからこそ楽だと思いながらも)すごく信頼していて、、今まで意識できなかったけれど、精神的に、叔父の判断力を、すごく頼りにしていたのだな、と今更ながら、涙とともに自覚する。

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2017年6月11日 (日)

母の入院と叔父、叔母の死

6月10日

6日水曜の朝に母が施設から大きな病院に入院した。このところ熱が出ることが多かったが、いよいよ唾の嚥下が悪く、施設では夜間看護できる体制がなく、危険だからだ。

それから母の死のことを考えて、不安と緊張で首と肩と背中が固まって、ずっと胃と心臓が痛い。

ずっと母を心配してくれて、支えてくれた東京にいる叔父(母の弟)にだけはお知らせしようと、昨日の夜、電話をした。

別人のようにすごく疲れてかすれた声で、おばが出た。

「おじさん、もうお休みになっちゃいました?」と聞いたら、「あのねえ、あなたに言わなきゃならないと思ってたんだけど、・・・お父さんね、去年の4月に亡くなったのよ。」と言われて、まったく意味が理解できなかった。

「ええっ!?・・・なんで!?」と、ただ反射的に声が出た。

去年の2月の終わりに膵臓がんが見つかり、4月1日に亡くなったという。「痛くはなかったんだけど、あっというまで・・・」とおばは泣いていた。

おばには私の家の電話番号がわからなかったらしい。「はがきで知らせるべきだったんだけど・・・」と、それもできないほど、おばは心労で疲れていたらしかった。

母と叔父はずっと仲がよくて、叔父は私の父に苦しめられていた母を、ずっと心配して、よくしてくれていた。病的に金遣いが荒い(ギャンブル依存)の父と、堅実な叔父は正反対の性格だった。

母と似て神経が細く、男には珍しいくらいの心配症で、いろんなことが気になる性格の叔父だった。とにかく生真面目で一生懸命な人だった。

私によく「くれぐれも姉の介護を頼んだよ。知佐子なら安心だ。」と言ってくれていた叔父だ。

父の直葬の時も、叔父は母を苦しめた父を許せないから、と火葬場にには来ず、父への香典ではなく母の介護金として私にお金を送ってくれた。

私は叔父が元気でいてくれること、叔父だけはなにがあっても母のことを思っていてくれて、昔の母のこともよく覚えていてくれることがありがたかった。それがずっと母を介護する私の心の支えになっていた。

叔父は、母と私にとって、長年にわたる父からの虐待、借金地獄との壮絶な闘いをわかっていてくれている、この世でただ一人の、信頼できる肉親だったのだ。

たったひとりの頼れる叔父が、もうこの世にいないことが信じがたかった。

ものすごい喪失感と不安で目の前が真っ暗になり、吐き気がした。

おばも「私がもっと早くに気づいてあげていたら。もっとよくしてあげていたら、と思うと苦しくて・・・。」と泣いていた。叔父とおばは、お互いに神経が細くて余計なことを考えてしまうタイプで、よくぶつかって不機嫌になったりしていたのだという。もっと一緒に楽しくすごせばよかった、とおばは悔いていた。

私は必死で動揺を抑え、一生懸命おばを慰めた。

小学生の頃の叔父宅の思い出、自宅付近に咲いていた花、叔父やおばがその頃好きで聴いていたレコードのことなどを話すと、おばは「知佐子ちゃんは本当に記憶力がいいわね。なぐさめてくれてありがとう。」と言っていた。

電話を切ったあと、ものすごいさびしさと苦しさで胸のざわざわが酷かった。胸骨のあたりと胃が激しく痛んだ。

あんなに元気で頭がしっかりしていて、心配性で口うるさかった叔父が母より先に、あっけなく死んでいたことがすごくショックだった。自分がとり乱しておかしくなりそうなのを、ぐっとこらえていた。

そして今日、昼におばから電話があった。

田舎の叔母(母の妹で、叔父の姉)が、今日、亡くなったという。しかも叔父と同じ膵臓がんだったという。

無常ということ。

おばも、叔母から叔父の田舎時代の思い出など、まだ聞けると思っていたのに、それが完全になくなったことがすごい喪失感でたまらないと言っていた。

おばも、今さらながら、叔父がなにを考えていたのか、なにに必死になっていたのか、もっと聞いておけばよかった、話しておけばよかったと悔やんでいるのだ。

誰かがどんなに苦しんで精いっぱい生きてきたのか、それを知っていてくれる人も、また死んでしまう。

もう亡くなってしまった人に対して、もっとああすればよかったのに、と後悔で自分を責めることの際限ない苦しみに陥ることが、私はすごく恐ろしかった。そこにはまり込まないように、どうにか必死で耐えた。

・・・

夕方4時、予定通り、以前に母のケアマネさんだったMさんと新宿で待ち合わせ。

久しぶりに会うMさんはたいへん忙しいお仕事のせいか、少しやせたように見えた。父が死ぬ前に新宿の病院でお会いして以来だ。

Mさんも年月の感覚がないと言っていたが、私も父の病院でMさんと会った時の6月の光と、植物は覚えていても、それが何年前のことだか思い出せない(たぶん3年前だが、もっと昔のような気もする)。

目的の飲み屋に行く道すがら、母が入院したこと、叔父、叔母の死について話した。

Mさんと話すことで、私はしばし落ち着いていることができた。とてもありがたかった。

そういう苦しみがあるということを、ただ知っていてくれる人がいる、信じられる人が知っていてくれる、と思うことは、耐えていくための大きな支えになるものだ。

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2017年6月 4日 (日)

苦しい夢 / 次の本の構成

最近、朝、動悸のせいで連続して苦しい夢を見たが、夕方には正常に戻る。集中力はまあまあ。次の本の構成(特に絵の順番)を完璧にやり遂げたいことだけがプレッシャーだ。折り(16ページ)に順番を合せるのがひどく難しい。

他人にはほとんど理解されないようなところで張りつめて、綱渡りで生きているが、優しい人にも会えている。

6月3日(土)

やはり朝、悪夢を見た。

海で大きな珍しい貝殻をたくさん拾っている(これもよく見る夢)。巻貝や二枚貝の形状や色鮮やかな柄が、細部まですごく鮮明に見えて、私は夢中で水際で採集している。

にわかに空がほとんど漆黒と言っていいほど真っ暗になって、大雨が来る。慌てて屋根のあるところに走り、貝を砂浜において来てしまって、残念で切ない。

そのあと、怒って怒鳴りながら私を追いかけてくる女性から逃げて電車に乗ろうとするが、操車場のような工事現場に迷い込み、巨大なクレーンや鉄材や、掘り起こされて何もない不気味な泥の中を必死で逃げる。危険な機材の間を縫って全速力で走るのがすごく怖くて苦しい。

急に2本の電車が前と後ろから同時に轟音をたてて迫ってくる。その電車に轢かれないように、電車が交差する瞬間に、間一髪のように、なんとか必死で身をよけて、走って逃げる。

先のほうに江ノ電のような小さな駅が見え、電車に飛び乗る。追ってきた人は電車に乗れていなかったらいいのにと願うが、はたして彼女は乗ってきている。

中は寝台車で,、通路の両側に扉があり上下に寝台がある(アガサ・クリスティの映像の記憶)。なんとか空いている寝台を見つけて隠れ、ドアを閉めて息をひそめているのに、壁とドアの隙間が経年劣化して少しあいていたために、(なぜか天井に近い高い位置から覗かれて)見つかってしまう。

また私は必死で走り出してトイレの窓から外へ逃げるが、まだ追ってくる。どこまで走っても追ってくる。あまりに逃走が長い。苦しすぎて息が切れて心臓がばくばくする。

さらにその女性が二人の仲間のような人と私を追いつめてくる。なんでもその女性は詐欺で大金を手にして、分け前をその二人の女性にあげたようだ。二人の女性は完全な手下になっている。

その詐欺の責任を負って謝れ、というようなことを言われ、私は「謝る気はない。私とは関係ない。」とその女性に言うのだが、これからいったいどうなってしまうのか怖くてたまらない。という夢。

・・・

5時に母に会いに行く。

そのあと、外は北風が強く、寒いくらいだった。

東中野の高台から早稲田通りのほうまで歩き、落合から中野へ。夕陽が灰色の雲を照らして、劇的な色の対比をつくっていた。

東中野から中野は、奇妙な(やる気がないような)リサイクル屋さんが多い。

紫陽花の色が濃くなってきていた。ホタルブクロ(カンパニューラ・プンクタータ)の釣鐘の中をのぞいて斑点を確認した。タチアオイのガラス質の紅、赤紫。くすんだピンクの小さな蔓薔薇。

早稲田通りで古い蔵がお店になっている不思議な酒屋さんを発見。ベルギーのハチミツ入りビールやストロベリーチョコレートのビールなど、珍しいお酒を売っていた。タモリ倶楽部でも訪問されたらしく、記事が貼ってあった。

6月2日(金)

やはり朝方、苦しい夢を見た。

懐かしい幼なじみのユキちゃんの家に、何人かの仲間(?)と訪問に来ているらしい。会食のための買い物で、チーズとサラダの材料などを吟味しながら買いそろえている。いつのまにかここは、ある教授がつくった、ブリュージュにある日本人村、と店の人に言われる(ブリュージュには行ったことがないのでなぜ出てくるのかわからない)。

そのあと、みんなが先に帰ってしまい、私は何十年も行っていないユキちゃんの家に戻ることができない。まったく知らない土地で道に迷い、どうしたらいいのかわからなくてすごく不安になる。

いろんな人に道をたずね、なんとか近くまで行くのだが、どうしてもその家にたどり着くことができない。細い路地の奥の、白い玄関の家だとわかっていても、まるで化野のようにそこにたどり着けない。という夢。

・・・

以前、母のケアマネをしてくださっていてたいへんお世話になったMさんからデートのお誘い。お茶に誘っていただいたが、私はお酒を希望した。

・・・

整骨院に行ったら、またチーフが担当してくれた。

「私の担当、私が言ったせいで、ずっとOさんになったの?なんか気まずくて胸がざわざわして、来づらいんだけど・・・」と言ったら、最初「偶然です。」と彼は言ったが、

「嘘。だって私が来たときにカーテンから出てきたでしょ。私の時間に合わせてたんでしょ。私、そういうのすぐに気づくのよ。」と言ったら、「体調を崩したのが心配だったんで、この一週間は僕がやるって言ったんです。」と言われた。

「上からそう言われたの?それとも皆がそうしてほしいって言ったの?」と言ったら

「上からも皆からもなにも言われてません。僕がそうするって言ったんです。」と言われたので、少しほっとした。

・・・

新しい本の図版の順番のページ合わせを、深夜2時過ぎまで考えていた。

なにがたいへんかというと、時系列で並ぶ絵の一連の塊と、本の16ページ(あるいは8ページ)単位の「折り」を合わせるのが難しいのだ。

カラーページをどこにはさむかを、折りに合わせ、しかも時系列の流れに合わせることがほぼ不可能なのだ。

頭と感覚を最大限使おうとして疲れる。

6月1日(木)

朝方、苦しい悪夢を見た。朝だけは動悸が強くなるからだろう。

美大生たちの前でかばんを落として、中の絵の具や筆など、もろもろの道具や描きかけの絵を道いっぱいにばらまいてしまう。そういうものひとつひとつを他人に見られるのが酷く恥ずかしくて屈辱的な感じがする。なかなか収集がつかなくて、ひとりでいつまでもあたふたと拾っている。

そのあと、大きな建物の中に閉じ込められて、外に出ようと扉を開けると、そこは横幅1.5m、奥行き60cmくらい(灯りがなく)暗く狭く四角い場所で、すぐ目の前にまた扉がある酷く逼塞した空間。

扉はノブつきの金属のドアだったり、観音開きだったり、横開きだったり、それぞれ形状は違うが、扉を開けてもそこにはまた扉、という状態は繰り返される。やっと扉を開けて出た場所は、また扉を開けて次の空間に出られるほどのスペースしかない。

私は何度でも扉を開ける。扉が重くて、肩が痛くて、狭くて暗くて何もない空間の圧迫感と、永遠に続く恐怖に、もう耐えられないと思うのだが、必死で扉を開けて前に進み続けるしかない。という夢。

この手の、どんなに努力しても建物から外に出られない夢は、精神的に苦しい時によく見る。

・・・

肩と背中の緊張が酷かったので、午後2時すぎにほぐし系のマッサージ屋さんに行った。

店長のOさんにいつもお願いしているのだが、Oさんは6月は土日しか来られないそうで、Oさんにメールで土日のどちらかの3時か4時くらいからもしできれば予約を、とお願いした。

2時過ぎに担当していただいたのはMさん(女性)。彼女は田舎の自然の中で、浪曲師のお父さんと三味線師のお母さんに自由に育てられたので、緊張やストレスがないそうだ。Mさんはすごくおっとりしている。うらやましい限り。

マッサージが終わってから、Oさんの予約を確認していただいたら。土日とももう3時半の分がうまっていて、Mさんに「土日は混むんですよ~」と言われた。

それでは4時半から、と予約して帰宅したが、名前が記入してなかったけど、土日の3時半から埋まってたのは、もしかしたら私の?と思い、Oさんにメールしたらやはり私のために押さえていてくださったのだった。

Oさん、Mさん、私の身体をたすけてくれている人たちに感謝。

Mさんの息子さんはふたりとも音楽をやっている。帰宅してyoutubeを見たら、けっこう知られたバンドのようだ。

・・・

今日から6月だ。もう春ではなく、初夏だ。

カルメン・マキ&OZの「六月の詩」を聴きつつ、『スプリット―存在をめぐるまなざし 歌手と武術化と精神科医の出会い)を読む。カルメン・マキと甲野善紀と名越康文の、今から20年位前の鼎談の本だ。

1974年くらいのOZの時のカルメン・マキが美しすぎて、かっこよすぎて、彼女の生い立ちや、どんなことを話すのか知りたかったのでこの本を図書館で借りた。

内容は難しくなくて一気に読める。ちょっと「存在」とか「リアリティ」とかの言葉の解釈がゆるすぎて、「え?こんなおしゃべりで本になるの?」と思った。今よりも出版界がゆるかった時代なのかもしれない。私にとってはマキだけのインタビューのほうがよかった。

・・・

夕方5時半。白い綿シャツとセルリアンブルーのベロアのパンツに、素足にサンダルを引っかけて外を歩いたら、風が涼やかでとても気持ちがよかった。青い空気の中を歩いていた。

スーパーに血圧計があったので計ってみたら上113、下63、脈拍78だった。私は落ち着いているな、だいじょうぶだな、と思った。

5月31日(水)

やはり朝、苦しい夢を見た。

昔、同僚だったYさんに明日から1か月間、海外旅行に行くと言われ、「仕事、たったひとりでいったいどうしたらいいの?」とすごく不安になるが、そんなことはひとことも言えない夢。

Yさんは旅行の準備で楽しそうにはしゃいでいる。なぜか大きなぬいぐるみまで持って行くのだと言う。私はそれを見ながら心細さとさびしさでいっぱいになっていた。という夢。

・・・

手続きをしてあったのに、手違いで荷物が別のところに届いた件で、きのう電話した城南信用金庫さんの副支店長Tさんから、昼1時に電話をいただいた。

丁重過ぎて、すみません、とこちらが謝りたくなるような知的で親切な大人の対応。3日前に私が電話した時に出た若い職員の対応が間違っていた、と簡潔に2つの要点を言明して謝罪された。

「原発反対してらっしゃるので、応援させていただいてます。これからもがんばってください。」と言うと「わたくしTと申します。いらした時はどうぞお声をかけて顔を見てやってください。」と言われた。

・・・

頸と肩の緊張が酷いのでSクリニックで神経ブロック注射を受ける。頸の前の筋肉ががちがちなので、針が刺さる時にびりびりっと痺れて痛い。

「ちょっと緊張する事件があって、・・・過緊張は酷いんですけど、・・・私の本、また、ちょこっとだけ売れたんですよ。」と院長先生に言ったら、

「すごいじゃん!すごいじゃん!その、本が売れることと酷く緊張することは、まったく同じことなのよ!ここまで緊張して根詰める性格だからこそできるのよ!。楽にいい大学はいって、楽に仕事してうまくやろうなんて考えてるやつはろくなことになんないんだから。」と言われた。

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2017年5月30日 (火)

整骨院で逆に自律神経失調(不安と過緊張)が酷くなることをされた話(2) / 元場面緘黙

5月30日

前回の続きです。

月曜に変な手紙をもらってから、一度不安を掻き立てられてしまった脳と神経が、うまくブレーキが効かなくなって平静に戻らなくなり、火曜、水曜、木曜と、胸が痛いほどの動悸と過緊張がおさまらなかった。

同時に強い不安感で、脳がすごい速さで回転して余計なネガティブなことを考えてしまい、まったく仕事に集中できなかった。顔がほてって腕から手が冷たく痺れ、指が震えて力がはいらない。

私は、怒りが収まらなかったので、(直接の若いスタッフたちではなく)会社の上部に苦情を入れようと思った。

「○ンキューグループ 整骨院」で検索すると、1ページ目の一番上にリジョブ(求人)のサイト、2番目に「○○○○ア○ド○ンキュー株式会社」のサイトが出てくる。

それで、この2番目の会社の患者のアンケート窓口に苦情を書いてしまったのだが、ここは○ンキューグループとはまったく関係ない別物、というお返事をいただき、「勘違いをして大変失礼いたしました。こちらが○ンキューグループとは全く無関係とわかったことだけでもよかったです。ご丁寧にお返事をありがとうございました。 」 と謝罪の返事を出した。

ちなみに、○○○○ア○ド○ンキュー株式会社は、たびたび○ンキューグループへの苦情がきて、困っておられるようだ。

次にリジョブのサイトに電話して、おおもとの会社の連絡先を訪ねると「教えられない」とのこと。

何度検索しても○ンキューグループのおおもとの会社の所在地と電話番号がないのだ。このことに私はたいへん不信感を抱き、イライラした。

それでしかたなく、まず私が通っている整骨院のチーフに電話した。チーフによると、私がもらった手紙に関して、そういうやりかたをすることにはなっているが、いつ誰が直接書いたかはわからないと言う(私は誰が書いたかは問題にしていない)。チーフは、普段とても怒りそうにない大人しそうな私の強い口調に驚いているようだった。

この電話で私は、おおまかな経緯をチーフに話したあと、その日の午後に「××整骨院スタッフ一同様」という手紙を書いて持って行った。その一部を引用すると、こんな感じだ。

。。。。。

××整骨院スタッフ一同様

「5月22日に「××整骨院スタッフ一同より」と書いた封筒をいただきました。

その中に「お困りの際は何でも相談くださいね!!」と書いてありましたので、率直に書かせていただきます。

どのようなつもりで、そのような手紙をくれたのかは、まったく××整骨院スタッフ一同の発案ではなく、M越K一が考えたマニュアルを、スタッフは何も考えずに、ただこなしているだけだと思いますが、私には、このようなやりかたはたいへん苦痛ですので、二度とやらないようにお願いします。

受付でではなく、ベッドに呼ばれた時に、こそこそと糊で封緘した封筒を渡されたため、私はたいへん驚き、何事か、と思いました。

糊で封緘した手書きの手紙というのは、常識的に考えて、それなりの重い用件の時にしかしないものです。
さらに、それについて「いったい何?」と私が聞いた時に、「サンキューレターです」と正直に答えてくれなかったことは、あまりに客への対応として無神経、不適切だと思います。
「スタッフ全員からです。」と真顔で言われたために、私はなにか私への抗議の手紙なのか、と完全に思ってしまいました。
それで、ものすごい不快な緊張、ストレスに襲われ、治療に来ているというのに、リラックスどころか逆に心拍数が酷くあがり、動悸と頭痛と吐き気がして気持ち悪くなりました。
 
本当に過緊張で体調を崩し、帰宅して封を開けて手紙を読んでからも、酷く具合が悪くなったので、
行きつけのクリニックに行ってリラックスのための神経ブロック注射を打たざるを得ませんでした。
 
正直、この封書の件で、もう二度とこちらには来たくないと思いました。
私(患者)は仕事をやっていて、仕事にエネルギーを最大限に使い、いつも頭を使って、張りつめて疲れています。
また、私はもともと幼い頃からHSP(もし、皆さんがよりよい治療師になる気があって勉強する気があるなら、HSPという言葉の意味をネットで調べてください)で過緊張な性質です。
それで、少しでも緊張をやわらげたくて、高いお金を使ってでも、整骨院に来ています。
その整骨院で、逆に、酷くストレスを与えるようなことは絶対にやめていただきたいです。
 
若いスタッフの皆さんには、患者の気質は千差万別であること、世の中には自分より遥かに過敏でいろんなことを考えている人間もいることを想像できないのかもしれませんが、
目の前にいる人間を実際にちゃんと見て、感じて、どういう対応をしたら相手が嫌がるか、想像していただけたら、と思います。
余計なことをやらないで、相手の治療、相手のリラックスのためになることだけをしてほしいのです。
 
サンキューレターのようなものが、売上げ向上に役立つ、と、M越K一は、客一般の公約数でくくって、おおざっぱにマニュアルをつくっているようですが、私には、このような無神経で不適切なやりかたは耐えられません。
M越K一は、相手の客の感じかたをくみとれ、と口(講演)では言いながら、こういう勘違いの押しつけ、こういう相手をばかにしたやり方に、ひどくストレスを感じる人間(客、患者)がいることを想像することすらできないのでしょう。
または、いたとしても、そういう人間(客、患者)は特殊で少数なので、無視すればいいと考えているのでしょう。
手紙の内容も「○○さんは性格がものすごく明るいです」とか、「これからもそのままの○○さんでいてくださいね」とか、あまりに現実感覚と乖離していて、白々しくて不快です。
はっきり言って、仕事をして疲れ切っているいい大人に対してばかみたいで失礼です。
まるで子どもか老人に向けてつくられたマニュアル文章を、宛名だけをかえてそのまま書いて来ただけの感じです。
あなたたちは、年上の大人相手に、こどもか老人をあやすようなばかにした直筆の手紙を手渡して、本当に自分たちのやっていることがおかしくない、失礼ではない、と思っているのですか?
このような手紙をもらってしまった以上、私が黙っていたら、私がこのような猿芝居を喜んだことになってしまうことに耐えられないので、こうしてはっきり書くことにしました。
 
(中略)
 
会社としての上部からのマニュアルがあったとしても、現場で患者(私)が実際に嫌がることは止めていただきたいです。

余計な(不快な、不安にさせる)ことはやらないでください。
これでは本末転倒です。同調圧力は迷惑です。

もし、どうしても押しつけがましいことをやりたいなら、受付で「2017年3月13日が、〇〇さんが初めて来た日です。これからもよろしくお願いします。」と書いた小さなカードを(封はせずにオープンで)渡すくらいのさりげなさが、もっとも適切だと思います。

(中略)

また、相手を大人の社会人として認めていないような発言や言葉づかいは避けていただけたらと思います。

私は雑談が悪いとはまったく思っていませんし、しゃべりたくないのではありません。相手(私)が嫌がるような内容の話題は強要しないでいただきたい、というだけです。

私がどういう話題を嫌がるかわからない場合は、私本人にはっきり聞いてください。私ははっきりお答えします。

(中略)

最後に、若い皆様のこれからの発展を心よりお祈り申し上げます。

患者個人の性質を感覚的に察知する能力と、通り一遍ではなく臨機応変に対処する能力を伸ばしていただけたら、と思います。

2017年5月23日  

。。。。。

この手紙を持って私は整骨院に行った。チーフが出迎えてくれて謝ってくれた。チーフもまだ27歳だそうで、なんだか責めて申し訳ない、とかわいそうな気持ちになった。

私は、普通の人ならこんなことくらいで不安にならないのかもしれないが、私は幼い頃に父から虐待を受けていること、そのせいで(自分では望んでいるはずもないが)極度の緊張と不安がくせになってしまい、過緊張と不安になりやすい気質であること、幼稚園や学校ではほとんど言葉を発することができなかった(場面緘黙だった)ことなどを簡単に話した。

チーフも幼い頃にご両親をなくしているそうで、患者の不安、気疲れ、傷つきやすさ、過敏さのような気質については、なんとなくは察しがつくようだった(彼の場合、問題をうやむやにしたいという身を守るために身についた「ことなかれ主義」が根深いような印象を直観的に私は受けたが)。

私が書いてきた手紙を「スタッフ全員に見せて下さい。なんなら掲示板に貼っていただいてもかまいません。」と言ったら、チーフは、私のことを「すごいですね。勇気がありますね」「だいじょうぶですか?」と気にしてくれた。「はっきり言おうと覚悟してきたんで、だいじょうぶです。」と私は答えた。

ついでに若いスタッフのことばづかいで、私が嫌だったことを具体的に聞きたい、と電話の時に言われていたので、それをメモ用紙に箇条書きしたものもチーフに渡した。

たとえば、

「右肩を怪我してから右腕が上がらないので、ここまでしか上がらない、と腕を上げて見せたら「ヒットラーくらいは上がるじゃないですか」と言われた。私はヒットラーに例えられることが不快で耐えられません。ヒットラーが何をした人かわかって言っているのですか?」

「「ブイブイ言わしてる」などという言葉は東京の人間からするとガラが悪い言葉です。いわゆるオラオラ系の言葉は、中学、高校の時のノリで言っているのだと思いますが、社会人になったら客に対しては失礼なので使わないでほしいです。威嚇されているのかな?と思います。」

「タレントなどの趣味は合わないので、タレントのことを話されても困る。患者側(私)がスタッフの趣味に合わせさせられるのがストレスになる。」

「基本的には、今日の体調、どこが痛いか、それについてのアドバイス中心でいいです。雑談が嫌なわけではないが社会人として感じがよい範囲でお願いします」というようなことを書いて渡した。

(これについても、心理学として、客にしゃべらせるだけではなく自分たちのことをしゃべった方が患者をリラックスさせられると、上部から指導を受けているそうで、私は、その的外れで大雑把なマニュアルにぐったりした。)

チーフは、手紙を皆で読んだあとに、彼が直接接客の指導を受けたという上部の人間にも送ってくれると言った。私はその上部の人とメールが電話で話したいとお願いした。

・・・

金曜の夜、会社のトップM越K一の右腕だというH田K太さんから電話をいただいた。2時間近く話した。

まずは、会社のおおもとの電話、患者が直接、苦情や要望を言える窓口がないことへの抗議をした。(これについては、「事務所がない」と言われた。)

「各整骨院のメールに書いてもらえたら、会社の上部に行く」と言われたので、「それならそのように各整骨院メールの上に○ンキューグループ本社へのご意見、ご要望はこちらまで、と入れてください」と言ったら、「ホームページ制作会社とのつきあいがあるので・・・」と言われた。

「ホームページ制作会社と、実際にお金を払っている客である患者と、どっちがだいじなんですか?そんなにお金を稼いでいるのに、患者に対して気持をくみとる誠実な対応と組織化ができないのですか?」と私が言い、こんな調子の会話で、私の真意がうまく伝わらなくて2時間もかかった。

「M越K一で検索したら、どこを読んでも成功者インタビューしかなく、いかに時短、効率、単価を上げて金を儲けるかのハウツウマニュアルしか出てない。いかに患者の声に耳を傾けるか、がひとことも出て来ない。そういうふうに患者の苦情の声をふさぐのもマニュアルなんですよね?」と私は何度も問いただした。

「M越も、ああ見えて苦労人で、いろいろ試行錯誤して・・・」と言われても「それは経営の効率化についてであって、私(患者側)の気持ちとは関係ない。お友達どうしで苦労を共にした話は私とは無関係です。」と私は言った。

H田K太さんは38歳だそうだが、大きな会社の経営者と言っても、患者は身体の苦痛があるからこそ治療院(整骨院)にお金を払って通うのであり、患者(他人)個人個人が多様であること、単純(で軽薄)なマニュアルで画一的に作業されたら苦痛を強いられる患者もいるということ、を彼は考えられない、彼は非常に考えかたが単純で幼い感じを受けた。

その次の日、M越グループの経営マニュアルを販売しているやりかたと、そのハウツウと、それをとくとくと講演しているH田K太さんの写真画像を見て怒りが再燃したので、もう一度H田K太さんにメールをした。

下記のようなメールです。

。。。

 
H田さんの講演するお姿をネットで拝見しました。
やはりもう一度書かせていただきます。
今回、私を激怒させている件は、若いスタッフのせいではなく、経営側の気質と人格の程度のせいだと確信しています。
3種のマニュアルを5万円で売っているようですが、
そのマニュアルの宣伝文句は「患者に、整骨院で自分のことを気にかけてくれた」と「思わせる」
こと、
意味としては、
実際は「そう思わせる」だけで、まったく何も考えないで治療師が楽をするマニュアル、とうたっていますよね。
「ひな形を基本にアレンジすればいいだけなので考えなくていい」「患者さんが感動し、一瞬で治療院のファンになる」マニュアルだと、はっきり書いていますよね。
 

ものすごく患者をばかにした、たかをくくった、傲慢な経営者だと思います。

こういうふうに、個々の患者の苦しみや性質を見ないようにしろ、
(考えると頭が疲れて治療師の時間と労力が無駄になるから、)
なにも考えずにどんどんやれ、いかに効率と単価を上げるかが大事、
とトップが若い子たちに教えているのであれば、
若い子たちは、一番重要な「思いやり」をなくしていくのは当然ですよね。

こういうものをトップが売りにしていて、若い子を健全な考える力と配慮する力のあるスタッフに育て上げるのは無理だと思います。

患者の苦しみ、患者の気質、感じ方はそれぞれ違います。
これは、厳然とした事実です。

そもそも、思いやること自体が治療なのです。

思いやりをなくすように指導しておいて、
今さら、私(患者)に指摘されて言葉づかいの教育に気をつけると言われても、
知的レヴェルというより、人間的に品がない経営者だと思います。

以下にもう一度、私が書いた手紙のテキストデータをコピペしますので、このメールをM越K一氏に送ってください。

。。。。。

上記のようなメールを送ったあとも、不安と過緊張による体調不良はおさまらなかった。抗議したこと自体がひどい不安を起こし、相手が大きな会社でお金を持っているのだから、ブログに書いたら訴えられるのではないか、という不安も大きかった。

(その不安は今もあります。なにかクレームをもらったら、ブログを削除せざるを得ないのか、と思っています)

今日(5月30日)、H田K太さんから下記のメールをいただいた。

。。。。。

メールをいただきましてありがとうございます。

M越にはメールを送り、読ませました。

仰られることをしっかりと受け止めて

スタッフを含めて社内全員で患者様に対応をしていけるようにしなければいけないと

言っておりました。

○○様のように貴重な意見を直接言っていただけることは少ないと思います。

○○様が勇気を出して言ってくださったことを

真摯に受け止め改善に努めていく次第です。

この度は私たちのことで不快な思いをさせてしまい

申し訳ございませんでした。

お仕事も大変お忙しいとも聞いておりますので

どうぞお体だけはご自愛ください

H田K太

。。。。。

本日(5月30日)、またこの整骨院に行ったのだが、チーフの話によると、客(患者)への言葉づかいなどに関しては、H田K太さんから指導がはいったようだ。
私の真意である「ちょっとしたことでも不安や緊張を感じやすく、嫌なことがあってもそれに対して嫌と言うことができないで酷いストレスで苦しむ人もいる。そういう人に対して配慮してほしい」ということを、どれだけ理解してくれたのかは疑問だ。
不安症、恐怖症、緘黙気質の人に対して配慮してほしい、ということに関しては、もう一度くらいは言ってみようと思う。
・・・

 

 

 

緘黙気質の人たち、不安症、恐怖症傾向の、緊張しやすい気質のかたたちへ。

緘黙気質の人たち、元場面緘黙や、今現在緘黙で苦しんでいる人たち、他人に対する恐怖や不安で押し潰されそうになっている人たちには、私のように面と向かってはっきりと抗議するようなことはおすすめできません(それができないからこそ苦しんでおられることも、自分自身の経験から、嫌というほどわかっています)。

(たとえどのような社会的関係の立場からであっても)はっきりと自分の意思
を表明して抗議すること自体が、その次に起きることに対しての、ものすごい恐怖と不安を引き起こし、頭がおかしくなり身体が滅茶苦茶になるほどの緊張を引き起こすのですよね。

私も、まったく平静で、今回のような、たったひとりの抗議をしたわけではありません。心臓が破裂するのではないか、と思うくらい苦しみました。こんなことを抗議すること自体がおかしい、と言われることを覚悟で臨みました。

ただ、私も過緊張と対人恐怖症に苦しむ元場面緘黙少女であり、自分の勇気をふりしぼって自分の言いたいことを何とか言うように努力する経験を、何千回、何万回と繰り返してきて、やっとこさ生きてきて、今現在、このような生き方に至る、ということを知っていただけたら、と思います。

今、緘黙で悩んでいるかたたちも、ご自分のペースで、ご自分にできるやさしいこと、小さなことから始めて、だんだんと勇気を強く持っていけば、いつか必ず自分の意志表示ができるようになり、自分が本当に好きなこと、楽しいことなどについて気軽にしゃべることや、理不尽なことに対する批判もできるようになります。

だから、絶望しないで、少しずつ、時には楽な方に逃避しながらでも、諦めずにやっていってほしいと願うばかりです。

今、近くには誰も理解してくれる人がいなかったとしても、長い人生のなかで、必ず理解してくれる人、懐の深い人、思いやりのある人、あなたと気が合う人に出会えます。それは確かなのでくじけないでください。

そういう思いをこめて、なににつけても泣き寝入りだけは嫌なので、今回も、辛いけれど闘ってみました。

 

 

 

 

 

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2017年5月29日 (月)

整骨院で逆に自律神経失調(不安と過緊張)が酷くなることをされた話 (1) / 元場面緘黙

5月24日

私は過緊張で不安を感じやすく、、何事も悲観的に考えやすい性格(少女時代は場面緘黙症)だ。(もともとの原因は、生まれつきHSPであることと、幼年期からの父からの虐待だと思っている。)

過緊張の苦しみと疲労で常にがちがちに凝り固まった首から肩、背中の筋肉をほぐすために通っている整骨院で、最近、逆に、体調を大幅に崩すほど酷く苦しめられる事件があった。

私にとっては、ものすごくストレスと怒りを感じる事件だったので、ここに書いておこうと思う。

事件から一週間経ったが、いまだに特に朝から昼にかけて動悸とのぼせで呼吸が苦しく、手が冷たくなり、背中と肩が酷く痛い。一度不安をかきたてられた脳や神経が勝手に暴走してしまったようで、平静に戻らずに苦しんでいる。

5月22日に、行きつけの整骨院で、その事件は起きた。

そこは、最寄りの駅でエキテンのトップに出てくる(つまり経営側が、なによりも宣伝効率を高めることに力を入れていて、実際に社長が経営戦略マニュアルを販売しているようなやり手の)整骨院だ。

順番に呼ばれて、中に入って、ベッドに横になる時に、だしぬけに、「これ、スッタフ一同からです。」と手書きの文字で書かれてある、糊で封緘した無地の封筒を渡されたのだ。

私はすごく驚いて「いったいなに?」と聞いた。

私に封筒を渡してきたスタッフは、最近入って来たばかりで私がまだあまり慣れていない大柄で低い声の男性(この整骨院のスタッフは全員男性だ)で、その人に「スタッフ皆からです。」とにこりもせずに真顔で言われたために、私はものすごく不安になってしまった。

受付でなく、ベッドに行った時にこそこそ渡され、しかもわざわざ糊で封緘してあってその場で中を読めないようにしてあるために、私はそうとうな重要な要件を書かれたのに違いないと思った。

ここまでするのはいったいなんなの?とひどく気持ち悪くて、すっかり不安になり、なにか私へのスタッフ全員からの抗議なのか(なにか私はスタッフに対してひどい態度をとったっけ?)、と思ってしまったのだ。それで一気に動悸が上がって吐き気するほど具合が悪くなってしまった。

その後は痛いほど動悸が激しくなり、頭はほてり、めまいと頭痛と吐き気がして全身のふしぶしが痛んできた。私を治療しているスタッフが「だいじょうぶですか?唇が紫色になってますよ。手が冷たい。」と言ってきた。

そんなネガティヴな手紙をスタッフ全員から渡されたなら、私が具合悪くなって当然でしょう?と内心思い、実際、なにか言葉を発する力ももう残されていなかった。

帰宅するまで、胸のざわざわが苦しくて、心拍数が上がって、おかしくなりそうだった。なにかすごく理不尽なことを書かれていたら、弁護士に相談しよう、とまで思い詰めながら帰路を急いだ。

帰宅して封筒をちぎるように開けたら、「2015年7月10日に××整骨院は開院しました!それからいくつかの偶然が重なって○○さんと私たちは出会うことができました!」という、いわゆる顧客を逃がさないための「手書きの」サンキューレターだった。

「2017年3月13日 この日がなんの日かおわかりですか?この日は初めて××整骨院に来られた日です。言いかえるとこの日は○○さんと私たちの出会いの記念日です。私達スタッフ一同は、この出会いがいつまでも続いていたらなあと思っています!また○○さんがお困りの際は何でもご相談くださいね!!」

さらに、その手書きの手紙には“笑顔”、“明るい”と、わざわざ小タイトルがつけてあり、下のように書いてあった。

“笑顔”

「私たちは○○さんが来られたら逆に元気をもらえます!いつも○○さんが来られるのを楽しみにしています!明るい表情でお話をしてくれるので、私達も本当に嬉しい気持ちでいっぱいになります!これからもそのままの○○さんでいて下さい!」

“明るい”

「○○さんは性格が物凄く明るいです。私たちは○○さんが来られるのを楽しみにしています。治療中も楽しそうにお話ししてくれますので私たちも本当に嬉しい気持ちでいっぱいになります^^これからもそのままの○○さんでいてくださいね!そして私たちにずっとパワーを下さいね!」

手書きの汚い文字で、こんな白々しくも的外れなことを書いて渡すために、私を自律神経失調の酷い状態にさせたのか、と思うと怒りでいっぱいになってしまった。

こんな押し付けの欺瞞的なものをどうしても渡したいのなら、せめてその場で読めるように封緘しないで渡すべきだし、封筒はかわいい柄のものにするなどの気遣いがあるべきなのに、あまりに非常識と思う。

(のちに、この、わざと糊で封緘すること、受付でなくベッドで渡すこと、「何?」と患者が効いてもそれには答えないこと、すべてが、上部からの「患者を驚かせ感激させて治療院の大ファンにさせるため」のマニュアル通りにスタッフがやったことだと知って、私の怒りは頂点に達した。)

すごく困ったことに、手紙がばからしい内容でしかなかったと理解したあとも、一度拍車がかかってしまった動悸が治まらなくて、具合の悪さがどうしても治らなかった。

しかたなく近所のクリニックに行って星状神経ブロック注射を打ってもらった。

次の日の朝も動悸が激しくなり、悪夢で眼が覚めた後に胸のざわざわが治まらなくて、手が冷たいのに汗がにじんできて、頭と顔はほてり、全身がびりびり痛いような苦しい不安感が続くようになってしまった。

酷い動悸とともに、幼い頃に父に脅かされたりからかわれたりした時や、殴る蹴るされた時の怯えと不安と恐怖のフラッシュバックや、父に借金を負わされた時の耐えられないほどの経験がよみがえってきてしまい、苦しすぎて泣いたりもした。

。。。

その整骨院は○ンキューグループという大きな会社が経営していて、社長はM越K一という「次世代○療院革命」という治療院経営のノウハウを売るサイトをやっている1981年生まれの人だ。

彼は、20歳代で京都に治療院をつくってから、わずか4年で20店舗の治療院グループをつくりあげ、それからも拡大中(現在は京都に6店舗、大阪に13店舗、兵庫に4店舗、愛媛に1店舗、東京に6店舗の計30店舗)だそうだ。

ネットでこの人の名前を検索すると、「M越グループの急成長の原動力になっている内部資料をそっくりそのまま手に入れませんか?」という過去記事があった。

それは経営ノウハウのDVDを3種セット5万円で販売している宣伝の記事なのだが、その中のひとつに、まさに私が不安神経症を発症しそうにさせられた、この封をした手書きのサンキューレターのマニュアルがあった。

そのうたい文句に「患者さんが涙を流して喜び、一瞬で熱い熱いファンに変えてしまう実証された感動の手紙の事例集をお届けします。」と書いてあり、

さらに、「手紙をもらった患者さんの中にはうれしくて泣いてしまう方もいらっしゃいます。患者さんとしては整骨院で自分のことを気にかけてくれた手紙などもらうとは夢にも思っていません。」

「こういった感動体験があなたとあなたと患者さんの距離を一気に縮めます。そうして、患者さんはあなたのファンになり、あなたの治療院に通い続けてくれるようになるのです。」

「この手紙が○越グループのファン患者さんの育成の核となっているともいえます。」

「患者さんはスタッフの強烈なファンになり」

「自動的にあなたの治療院の営業マン・宣伝マンが出来てしまう」

「スタッフへの指導に割いていた時間が大幅に短縮できてしまう」

「ひな型を基本にアレンジすればいいだけなので考えなくても手紙をつくれます。」

○越グループでは「マクドナルドのようにスッタフの教育課程がシステム化されています。」

などと、あまりにも患者をばかにした傲慢なやり口が書いてあった。

私は、過緊張で体調が悪いのを少しでも治してほしくて行く整骨院で、このように患者の個々の苦しみ、痛み、気質、性格を無視して、スタッフの思いやりをなくさせて無感覚にさせるマニュアルを売りにしていることに、はらわたが煮えくり返ったので、抗議の手紙を書くことにした。

それで「××整骨院スタッフ一同様」という、もらった手紙への返事を書いて持って行った。

このような抗議をはっきりとすることは、私のような過緊張で不安が強い人間にとって、ものすごい負担であり、緊張、不安で、さらに心臓ばくばくで頭痛がするようなたいへんなことなのだが・・・

・・

そしてどうなったか、長くなるので、この続きは(2)で書きます。

 

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2017年5月 1日 (月)

入江紗代さんと会う 場面緘黙(かんもく)

4月20日に、入江紗代さんと会って話した。それは不思議なご縁での出会いだ。

先日、「遠藤さんという私の尊敬する人生の大先輩の女性が、荻窪の施設でボランティアをしているので、声をかけてあげてください。」と、その施設で働いていたIさんに久しぶりにメールしたのだが、Iさんはもうその施設をやめて故郷に帰っていた。

Iさんとは、12年前に私が早稲田大学で講演した時に知り合った。彼は当時の学生さんだ。

そのIさんが結婚されたのが、同じ大学で知り合った入江さんだ。入江さんとIさんは今、「かんもくの声」という「緘黙」の理解と認知を広めるための活動をされている。

入江さんは、幼稚園から大学くらいまで、人前で言葉や声を発することのできない症状(「場面緘黙症」)でたいへん苦しみ、今年の3月に「世界仰天ニュース」というテレビ番組の取材を受け、出演された。

私はIさんのFBを見て、ごく最近、そういう状態を「場面緘黙」(かんもく)というのだと知ったのだ。

幼稚園から高校くらいまで、人前で緊張しすぎて、うまく言葉を発することができなかったことは、私もそっくり同じだ。極度の人見知りというよりも、さらに重篤な不安症や恐怖症の一種、という感じだろうか。

そしてとても驚いたことに、入江さんは、私が12年前に早稲田大学で講演した時のことを強く覚えていて、私と話してみたいと思ってくださっていたという。

私が早稲田大学で話している姿を見て、入江さんは、

「震えながら話していて、こんなにも激しく情熱的で、逆に傷つくのも激しい、振り幅の大きい人を初めて見た」「あの頃の私は、今の何倍も苦しんでいて、(講演を聴いて)救われた気がした」

といったようなことを言ってくれた。

それが私にはすごく嬉しかった。

私は悲観的で、なにかを表現しても、それが誰にも届かず、徒労に終わってしまう、というさびしさや焦燥が強い。

けれど、私が気づかないところで、私の拙い話の向こうに痛みとして在る私自身を見つけてくれた人、スムーズに流通しない言葉の滞りや破れ目からでも共感してくれる人がいたこと、その人と12年も経て直接出会えたことが、奇跡のように思え、ありがたかった。

その後のメールでも入江さんは、

「幼い頃から、生きてること自体が葛藤みたいなことを感じてきたのですが、早稲田での福山さんの姿に、勝手ながら初めてそのような人に出会った!と感じ入った気がします。 」

「福山さんの持つ緊張感さえも魅力的で、はり裂けそうな人だという印象で憧れておりました。」

という、なんとも素敵な言葉使いで、私にとっては最高のほめ言葉をくださった。

入江さんは、頭がよくて謙虚で、私からはすごく話しやすい誠実なかただ。それなのに入江さんは「自己を肯定できるという感覚が分からない」という。それは痛ましいことだ。

入江さんの場合は、虐待やいじめにあったわけではなく、どうして幼稚園から外では話せなくなってしまったかは、わからないという(原因は、家庭環境と関係ない人も多いらしいが、日本では研究や調査があまりにもなされていないために、よくわかっていないそうだ。)。

私も、人前ではっきり意思表示ができないために、幼稚園から小学校、中学校は地獄だった。さらに私は肉食ができない(肉がはいっているおかずが苦痛で食べられない)ために、給食時間も地獄。

私の場合、さらに悪いことに、都会の真ん中、新宿駅にほど近い公立の幼、小、中で、特に中学は、教師も御せないほど荒れていて、滅茶苦茶な暴力にさらされた。(しかし私の場合、不登校になったことは一度もない)。

大人になってから対人緊張はだいぶ治ってきたが、私は今も、人に話しかける時に、相手やまわりの反応を考え過ぎ、心配しすぎ、逡巡しすぎて、くたくたになる傾向がある。

そうなった原因は、私の場合に限って言えば、最初は父親からの虐待だと思っている。実際に父は、私を脅かしたり、からかったり、ばかにしたりして、私が怯えるのを面白がるようなことがあった。

小学校低学年で、一緒に外出した時、父は人混みでわざと、どんどん先に行って、私が迷子になって恐怖するのを面白がったりした。そういうどうしようもない不安や恐怖を、父は幼かった私に毎日、植えつけた。

殴られて、本当に頭の中に火花のようなものが見えたことも何度もある。一方的に床に叩きつけられ、その痛みと同時に、激しい怒りと憎しみが湧き上がってきて、胸や首のあたりがびりびりした感覚を覚えている。

小学校、中学校時代、とても集中して描いてほめられた絵を学校から持ち帰っても、父は「グロテスクな絵だな。」とばかにした。「お前程度のやつは、掃いて捨てるほどいるんだ。」などと言われたり、作文も笑われたような記憶がある。

私はすっかり萎縮していた。人前で自分を表現することが怖くて、手を上げて自分の意見を言ったりするのが極端にいやだった。そうしていつも、ただ無防備に他人の目にさらされ、頬を紅潮させながら、「素の自分」を痛みとして思い知らされるのだ。

「緘黙」傾向のある人たちは、人それぞれ、話せない場面や程度、その発症要因も違うが、想像するに、いろいろ気疲れしすぎる性格の傾向は似ているような気がする。

けれど私は、それと同時に、自分は周りの子が気づいていないものに気づいていたり、まったく違う感じ方をしていることがある、そのため、周りの子たちに発言や振る舞いを合わせることに強い反感を持っている、という意識が、幼い頃からしばしばあった。

周りへの違和や、自分だけに見えているもの、激しく感じることを表現したいという欲求も、抑圧されてはいたが、強くあったのだ。

幼稚園の頃から、早く大人になりたいと思わざるを得なかった。少なくとも理不尽な暴力や画一的な強制からは、大人になればもっと自由になれると思うほかなかった。

(大人になってみれば、子どもならではの残虐さやむき出しの暴力によって傷つけられることはなくなったが、自我の欲望を満たすための搾取や収奪はむしろ日常となる。)

大人になるにつれてわかってきたことは、恥ずかしがらずにぺらぺらとしゃべる人は、会話によって本当にその人の生存のあり方が問われているのだ、と本人が意識していないので、平気でしゃべることができる、ということだ。

自分の個別の体験、自分の身体を通してしゃべっているわけではなく、まわり(地域社会や職場での関係、交友関係など)のレヴェルに合わせた習慣や、反射でしゃべっている、ということだ。

皆、役割演技をしていて、それに慣れてしまっているから、そんなに緊張もせず、恥ずかしくも感じていないのだと思う。

飾らない真の苦しみから出ることば、人と理解し合いたいという希求から出てくる言葉は、ぺらぺらと軽くなるわけがなく、思いが強すぎるからこそ、裸でさらされているようで、うまく話せないのだと思う。

言葉が真実であることが必然になってしまっているからこそ、話せない。

入江さんは、「福山さんがとてもお話しやすい方で驚きました。不思議と、普段はあまり言わないことや言えないことも自然と話していました。お話しながら福山さんのことをとても率直に感じ、そのせいか私も率直な面を出せたのだと思います。」と(メールで)おっしゃっていた。

そういえば、昔の早稲田での講演のあと、当時の図書新聞の編集、佐藤美奈子さんに

「私はそこに、本当に、はだかの、裸形の人を見ました。」と、すごく驚いたように言われたことを思い出す。

私の心にはすごく嫌なことも強烈に刻まれるが、美しいものも強烈に刻まれる。その過剰さを制御できない。

美しく儚いもの――動物たちや植物が、ずっと、私が生きることをたすけていてくれたと思う。

デッサンは「光の声」だと言ったのは詩人のアポリネールだが、入江さんにお会いして今、私も、私の仕事を通して、なにか「緘黙」に閉ざされた人たちの力になれたら、そんなふうに願っている。

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