悩み 苦しんでいること

2017年11月12日 (日)

20年前、ちゃびと最初に出会った場所

11月4日

ちゃびの火葬。

仏教徒でもなく、すべての宗教を特に信じない私は、移動火葬車を選んだ。

遺体を渡す時、ちゃびの亡骸と別れるのがあまりに辛すぎて、号泣してしまった。

未練が果てることなく、ちゃびの顔にちゅっちゅっと吸うように口づけると、けだもののちゃびの匂いがして、私の胸いっぱいに満ちて溢れ、身体に衝撃が走った。

匂いからは死んでいることがわからなかった。このまま、ずっとちゃびの遺体と暮らしていけたらどんなにいいだろうと思った。

「お骨を一緒に拾いますか?それともこちらでやりましょうか?」と聞かれて、吐きそうになって、「考えられない。」と答えてその場(近くの駐車場)にしゃがみこんで泣いた。

40分くらいして、火葬が終わったと電話がはいった時は、かすかに落ち着いていた。と言うより、現実がよくわからなくなっていたのかもしれない。

ちゃびの骨を拾って、骨壺に入れたが、私は泣いていなかった。もちろん悲しくないわけではなく、身体や心の痛みが消えてなくなったわけでもないのだが、一瞬、呆けたような、真っ白な、時間とも空間とも言えないどこかにはまりこんでしまっていた。

ちゃびのお骨をいったん自宅に置いてから、20年前にちゃびと出会った善福寺川のほとりまで自転車を引いて行った。最初の時にちゃびを自転車で連れて来たから、やはりそこへは自転車で行きたかったのだ。

ちゃびが捨てられていた善福寺川沿いの瓢箪池近くの土手の角に着いた時、激しい悲しみで泣き崩れてしまった。

あの時から20年が過ぎたこと、そのあいだにちゃびが人間で言えば100歳近くになっていたことが信じられなかった。その自分のふがいなさも、すべてが酷く悲しかった。

あの時、私は、先に保護した茶トラの赤ちゃん猫の「ちび」が、懸命の治療の甲斐もなく、たった17日で亡くなってしまったばかりで、あまりのショックに物凄くやつれていた。すっかり青ざめて、眼の下に真っ黒な隈をつくって、私はガリガリに痩せた幽霊のようになっていたと思う。

「ちび」は、たった17日で、掌にのるような赤ちゃんから、少し大きく成長していた。

死ぬ前に、私に撫でられて、「ちび」が安心したようにゴロゴロ言っていたのを鮮明に覚えている。どうしたらよかったのだろう、どうしたら救えたのだろう、と私は際限なく苦しんだ。

呑気に、無責任に、野良猫に食べ物をあげたりして満足しているのは、人間の無知とエゴでしかなく、ちっちゃな赤ちゃん猫が、野良猫のまま予防注射もされないでいれば、あっという間にパルボ(伝染性腸炎)などの病気で死んでしまう、という現実を、いやというほど思い知らされたのだ。

その数日後に、私はちゃびに出会った。

私は「ちび」を失った悲しさと苦しさに胸が潰れてしまいそうで、どうしようもなくて、無性に野良猫に会いたくて、自転車で善福寺川沿いに行った。そこで野良猫の世話をしている女性と、ふと言葉を交わしたのだ。

人に怯えていて捕獲するのがたいへんだった赤ちゃん猫を、やっと捕獲して、これから大切に育てようとしたのに、パルボで、入院させただけで死なせてしまった、と言ったら、その女性が教えてくれた。

「ちょうど今、捨てられたばかりの赤ちゃんがいるのよ。」と。

善福寺川沿いの土手の角の隅っこに、誰かが引っ越しの時に粗大ごみを不法投棄し、一緒に段ボールの中に猫の親子を入れて、その上に重しのようにテレビを乗せて捨てて行ったという。

猫たちの鳴き声を聞いて、その近くの植え込みに住んでいたホームレスの人が、段ボールの中から猫を助け出して植え込みの中に移動してくれた、と。

そして、その植え込みに連れて行ってもらって、私はちゃびと出会ったのだ。

お母さんとちゃび(1997年7月21日)。お母さんはいろいろミックスされた柄の子だった。

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ちゃびにはあと2匹の白い男の子と女の子の兄妹がいた。当時、お世話をしていた女性が2、3人いて、そのうちの一人と私とで引き取った。私はちゃびと白い男の子(コナと名づけた)をもらった。

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人を怖がらなくて、白い女の子とおっとりとポーズをとっていたちゃび。

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その植え込みのあったところは現在、駐車場の一部になっている。だからホームレスの人も住めない。

すべてが淋しくて悲しい。

11月5日

ちゃびがいないことが苦しすぎて受け入れられない。

2日で2kg痩せた(現在162cm、44kg)。

泣きすぎて眼の上と下の骨部分と眼窩がずきずきしてすごく痛い。

ドクン、ドクンという胸の真ん中を殴られるような動悸がして眠れない。呼吸が苦しくて「はあ、はあ、」と声に出てしまう。

夜中、幾度も「ちゃび!」と呼びたくなり、だけど呼ぶことでものすごく苦しい現実に塗りこめられてもっと苦しくなるので、声に出して呼びたくない。心の中だけで呼んでいる。

なににも慰められない。なにも欲しくない。

食べたくない。お酒だけは飲める。お酒を飲むと激しい動悸が収まって少しだけ楽になる。

・・

ちゃびのことを大切にしてくれた友人と西荻を歩いた。

ちゃびと出会う前に私は、わずかなあいだだが、西荻に住んでいて、その頃はアンティークに夢中だったので、当時のアンティーク屋が今もあるか気にかけながら歩いた。

アンティーク屋巡りをしても心が浮き立つとはまったく思えなかった。ただ、自宅にいて、ちゃびがいないという耐えがたい痛みと向き合うことから、ほんの一瞬でも逃避したかっただけだ。

当たり前だが、20年以上も時がたてば、街並みはずいぶん変わっている。真新しいものには興味はない。当時、よく目の保養に行っていたアンティーク屋さんは、ほとんど(fujiiya、ベビヰドヲル、ムーンフェイズ、アーバンアンティークスなどなど)なくなっていた。

信愛堂書店さんは小さくなって、新刊の書籍が減り、品ぞろえも変わっていた。

自分が住んでいた住所も正確には思い出せず、近辺を歩いてみたが、どうやらその建物はなくなっているようだった。

「地蔵坂下」という忘れていたバス停の名前。22年くらい前に、このバス停の名を楽しい気分で見たことははっきり覚えている。

日が暮れて風が冷たくなった時、急にちゃびがいないという現実に襲われて、通りを歩きながら激しく嗚咽してしまった。

老舗の酒屋さんで飲みなれている銘柄の日本酒の小瓶を買い、裏路地で一口飲んだ。激しい動悸を抑えるには今のところ、これしかないのだ。

私が住んでいた頃もあったはずの古い酒屋さん。当時はお酒なんて興味もなかったので酒屋があることにも気づかなかった。

当時と変わらず、(意外にも)なくなっていなかった駅前の「天下寿司」という回転寿司で、かつてお気に入りだったカリフォルニア巻(エビとアボカド)を食べた。

なにをしても、どうにもならない悲しみから逃げられなかった。

11月6日

E藤さんから電話。ずっと闘病中だった娘さんが3日に亡くなったと。

言葉が出なかったが、お通夜に伺うと伝える。

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2017年11月 8日 (水)

ちゃびが亡くなりました

11月2日

11月2日(木曜日)、午後12時30分、ちゃびが亡くなりました。

20歳と4か月(推定)でした。

1997年の7月、善福寺川のほとりに捨てられていた生まれたばかりの赤ちゃんちゃびと出会い、一目見て、私は魂全てを奪われてしまい、この子と暮らしたい激しい欲求を抑えることができませんでした。

(その直前に、近所で鳴いていた、ちゃびに似た茶トラの男の子の赤ちゃんをやっと保護したのに、その子がパルボにかかっていて、17日間の入院の甲斐なく看とることになったという、思い出すのも胸が潰れる経験がありました。)

死んでしまった「ちび」と同じ名前をつけて、この子を誰よりも大切にかわいがろうと、自分の部屋に連れて帰って来たのは7月24日でした。

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信じられないような美少女だったちゃび。
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それからちゃびは私の一番の宝もので、ちゃびにまさるものは何ひとつなくて、20年以上一緒に、ものすごく密に生きてきました。

いつでも、ちゃびがいつか先に死んでしまうことを思うと、とてもそんなことは1秒だって考え続けられなくて、頭がおかしくなりそうだった。

ちゃびがいなくなることがあまりにも苦しくて、頭がおかしくなって、今はまだおかしいまま、混乱したままです。

肋骨の真ん中とみぞおちが殴打されるような痛みに、吐きそうになって号泣してしまう。夜も苦しくて眠れない。

まだふっくらしていていつも一緒に寝ていた去年(2016年)のちゃび。

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眠る時、私のあごの下に頭をうずめてはゴロゴロ言っていた。(2016年10月16日)
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夜中に眼を覚ましたら、じっと私の顔を見ていたちゃび。(2016年12月23日)
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とにかくいつも私にべったりくっついて離れなかったちゃび。
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(2016年12月24日)
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私がPCを使っている時、いつも私のひざ(太もも)の上に乗っかってきたちゃび。

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私が仕事すると必ず邪魔したちゃび。本をつくるために整理中のスケッチブックの上に乗って、仕事よりも自分にかまって、とアピール。いつもすごく甘えっ子でご機嫌だったちゃび。
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去年の暮れ(当時19歳)はまだまだすごく元気でした。
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今年の8月くらいから、ちゃびは胃腸の具合が悪くなり、病院でも原因がわからないまま、私はできることはすべてしようと思った。

日々、激変するちゃびの体調を見ながら、必死で介護してきました。

亡くなる日の前日は、それ以前よりずっと調子がよく、快復傾向にあると信じていました。

まだちゃびがいないことをとても受け止められません。

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2017年10月18日 (水)

母と祖母と父と妹のこと

10月10日

親友が以前から言っていた通り、私の家族は、「並外れて自分のことしか考えない人格異常の人間と、並外れて情に厚い人間の組み合わせ」だ。

ギャンブル依存、浪費依存で、いつも無責任で、祖母(父の養母)と母に甘えきり、祖母と母と私を死ぬほど苦しめた父。、私に対しては、おそらくかわいくて、思い通りにならなくてからみながら虐待し続けた父。

その父をどこまでも見捨てなかった愛情深く忍耐強い私の祖母と母。

祖母を最後まで強く愛した母と私。

父に似て甘ったれな性格で、なんらかの不全感によって、現実を逆に歪めてしまった(おそらく現在は依存性の精神疾患)の妹。

私は家族によって、ものすごくきれいだと感じるものや、あったかくて切ないものと、

同時に熔けた鉛を体内に流し込まれたような震えが止まらない怒り、目の前が真っ暗になる感覚、声(言葉)が出ない悔しさ、全身がビリビリと痛む中で死ぬ気で頭を回転させなければならない切羽詰まった状態に幾度も直面させられた。

それら全部を、身体が満タンになっても、さらに否応なく注ぎ込まれ、刻み込まれてきた。

あまりにアンビバレントで、ぐちゃぐちゃだ。

よく精神的におかしくならなかったと思う。

父は自分の実の両親を知らない。

そのことがどれだけ淋しく虚しいことか、(それとも、それほど大きなことではないのか)私には想像できない。その頃の時代の状況、本人の個別の状況、本人の解釈、本人の資質、感性が影響しあっているものだと思う。

当時の状況をよく知らない私が言うのは僭越だが、父よりずっとたいへんな苦労や悲しい思いをした人、たとえば戦争孤児などもたくさんいたのではないかと思う。

明治の頃に生まれた私の祖母(父の養母)はとても情に厚く、人を恨まず羨まず、太陽のように明るい、男気溢れる魅力的な人だった。私からみたら、足を棒にして探してもなかなかいないような、素敵な人だったと思う。

祖母は福島の大きな造り酒屋のお嬢さんだったらしいが、2歳の時に実母が亡くなって、継母に家を追い出され、東京に出て来たらしい。祖母が亡くなった時、母は「おばあちゃんは実のお母さんの愛情を知らずに、たいへんな苦労をして、かわいそうだったと思う。」と激しく泣いていた。

祖母は19歳の時、最初の結婚。生まれた(赤ちゃんでもはっきりわかるほどの美少女)喜知子ちゃんは2歳で、夫も時を同じく若くして、二人とも結核で死去。

そのあと(私の祖父と)二度目の結婚。そして私の父を養子にもらった。

私の祖母は、「絶対にこれから先、なにも詮索しないで」という条件で生まれたばかりの父をもらったそうだ。

なんでも父の父親が若くして急死したそうで、それでいいところのお嬢様っだった父の母親が、父を養子に出して実家に戻ったのだそうだ。

それは私が18歳くらいの時に母から聞いた話で、今、思えば、なんで祖母の頭がしっかりしている時に、その話を直接祖母に詳しく聞かなかったのだろう、と悔やまれる。だが、その時の私は大好きな祖母と私の血のつながりがないことが死ぬほどショックで、聞けなかった。

そのことを知らないふりをしていたほうが、祖母を傷つけないだろう、私が聞いたらいけない、とその当時の若い私は躊躇してしまった。

私が大好きだった祖母と生まれたばかりの私。

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十二社(じゅうにそう。今の西新宿)の料亭の黒塀の前で。当時の十二社は、どこもかしこも料亭だらけで、三味線の音が聞こえていた。戦後すぐに建った、今は朽ちてボロボロの木造の私の実家は、私が生まれる前に祖父が買ったもので、料亭Fの離れだったと聞いている。

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十二社熊野神社での祖母と私。

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熊野神社にて。私(向かって左)と幼馴染みのユキちゃん。

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十二社の大きな池のほとりでの私。「十二社池の下(じゅうにそういけのした)」というバス停は今も残っている。

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十二社の料亭の黒塀の前で。幼稚園くらいの私。母が余り布で縫ってくれたワンピース。生まれた時から小学校6年までは頭をバリカンで刈られていた。

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母と祖母が、(世間でよく言われる嫁姑関係のように)諍いをしたり、お互いの悪口を言ったのを私は見たことも聞いたこともない。

母はよく「うちのおばあちゃんは、「当たり」よ。私は幸せ。おばあちゃんみたいないい人はどこにもいない。」と私に言っていた。

母とお祖母ちゃんと生まれたばかりのどん(何代めかの猫)がこたつにいる、私の一番当たり前だった情景(私が18歳くらいの頃?)。今はみんなもうこの世にいないことが信じられない。

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祖母の晩年は、母がすごく情をこめて介護をした。入院中の祖母に、かいがいしく動き回る母を見た病院の関係者が「いいわねえ。娘さん?」と聞いた時、祖母は「いえ、娘じゃなくて嫁なんですよ。とてもいい嫁です。」と言っていた。嬉しそうに目を細めいた祖母の顔を私は忘れない。

そんないい人(私の祖母)に赤の他人にもかかわらず情をかけて育ててもらって、父はものすごい幸運だと思うのだが、どうして父があそこまで芯が弱いのか、私にはわからない。

祖母は人格的に立派過ぎて(たいへん苦労した人だがそれを跳ね返すほど明るく)、私の父はひどく弱くて、強い祖母に対して、だらしなく甘えたい欲求(実際は酷い裏切り)が抑えられなかった、ということだ。

・・

父は17歳くらいから肺結核になり、その数年後に片肺と肋骨を手術で失くした。

結核の薬代をきちんと渡していたのに、そのお金で病院に行かずに本を買いまくっていた、と(私が小学生の頃)祖母から聞いた記憶がある。

最初の夫と愛娘をあっけなく結核で亡くした祖母が、次に養子にもらった子(私の父)が、またも10代で結核になり死にかかった時、どれほど辛い思いをしたのか、想像すると胸が苦しい。どんなことをしてでも父を死なせたくないと必死になっただろう。

父が21歳くらいで手術で片肺を失くしたあと、母が25歳くらい?の時、父と出会ったらしい。、田舎から出て来た母は、ドレメの洋裁学校を出て、神田か御茶ノ水のあたりで働いていたようだ。

(母が最期に入れてもらえたのが御茶ノ水近くの病院だったことを、私はご縁だとありがたく思った。母が死にかかっている時、父と母がかつて一緒に見たであろう美しいニコライ堂を雨の日に私は見に行って、母が苦しくないようにどうかお願いします、とただ祈った。)

ろくでなしの父が、情が厚くて働き者で献身的な母を直観的に見つけてつかまえたのが、すごいな、と思う。

父に欠けているもの、まさにその正反対のものを持っていた母を、よくぞ見つけた。さすがに父は頭がいいだけあって、うまいことやったね、と。

母は田舎から出てくるときに、母の父が勝手に決めた地元の大工さんと一緒に東京に出されたそうだ。その話を、認知症がだいぶ進んで話ができなくなっていた時、ロングステイに送るタクシーの中で、いきなり、ぽろっと母に言われて、私はびっくりした。

そのことを生前の父に確認したら「そう。真夜中、終電の神田のホームだ。かばんひとつ下げて、マサエが来たんだよ。」と言った。

父と一緒になりたいと母が母の父親(私はおそらく会ったことのない祖父)に言った時、ド田舎(柏崎の山奥)のクソ真面目な母の父は、結核で手術したばかりのいつ死ぬかわからない、ろくな仕事にもつけない片肺の男なんて絶対に許さない、と激怒したそうだ。

母は勘当されて、父と祖父(父の養父)と祖母(父の養母)の住む狭いアパートの部屋に転がり込んで、1年後に私が生まれた。私の誕生の1日前に、親は婚姻届けを出した(もちろん式などは無し)。「式も婚姻届けも、忙しくって、そんなことまったく忘れてたのよ。」と母は笑って言っていた。

すごくドラマチックな愛だったのだと思う。

父は頭の回転が速くて、たくさんの本を読んでいた絵も文章も字も、明らかに私より優れていた。そのことは小学生の私にも一瞬でわかった。父の小学生時代の作文は文部大臣賞?関係のなにかを獲って、新聞にも載ったそうだ。

父は高校の成績はひとり抜きん出ていたのに、(養父に)大学にやってもらえなかったことなどを恨みに思っていたみたいだ。

父は、美大時代の私に対して「大学生面しやがって!」と憎しみの眼で言ったことがあった。たぶん、まともな親なら、自分が十分な教育を受けられなかったのをその分、自分の子どもに受けさせてやりたいと思うのが情だと思うが、父は逆なのだ。

父は、実の娘の私を妬んでいた。

私が小学校低学年の頃、父と母が激しい喧嘩をしていた。それこそ、ちゃぶ台の上のものが滅茶苦茶に投げつけられ、ガッチャーンと砕けるような、子供にとっては心臓が縮み上がるような暴力だ。

私も小学生の頃、よく父に殴る蹴るされていた。柔道の技の足払いをかけられて、何度も頭から畳に打ち付けられて脳震盪を起こした。

その繰り返される理不尽な暴力に、胸から腹までビリビリッと激しい電気のような痺れ――直接的な身体感覚としての、激しい痛みのような憎悪が走って、頭がおかしくなりそうだった。その、なんともいいようのない激しい怒りの身体感覚は、私の中に沈殿して固まった。

私は殴る蹴るされていて、母に経済的負担を酷く負わせている父を黙って見つめることがあった。そのたびに父は「なんだ、その反抗的な眼は!」と言って私を殴った。

母に対して、私を指さして「こいつは、おまえの作品だ!おまえの作品そのものだよ!」と怒鳴っていた場面を生々しく覚えている。

父は母や私に邪魔や嫌がらせをしては反応を楽しむようなところがあった。

父は献身的で死ぬほど忍耐強い祖母と母と私を、これでもか、これでもかと酷い目にあわせては、自分を捨てないかを確かめていたのだと思う。

私が幼稚園か小学校の頃、眠っている私の顔をよく父に「逆なで」された。

湿った掌で私のあごから額までべた~と撫でられるのだ。ものすごい生理的不快感、悪寒と怒りで、本当に神経が、頭がおかしくなりそうだった。ぎゃっと飛び起きる私の反応を父は楽しんでいた。

軽く言えばスカートめくりをする幼児と同じ。しかしやられた私の神経はあまりのストレス、あまりの苛々に気が変になりそうだった。

父は私が幼い頃から、なにかと言うと私が真剣に取り組んでいることを嘲笑した。父は私の絵も、文章も、勉強の成績もばかにしてけなした。私を笑って貶めて恥をかかせるようなことばかり言った。

私は、父になにを言われても(傷ついても顔に出さず)ひとことも言い返さずに黙するようになった。黙しながら、いつか父の卑劣さの裏をかく方法を頭をフル回転させて考えていた。

私が父の借金のせいで癌になり、甲状腺と副甲状腺、そのほかたくさんのリンパ節転移を切除した時、父と母は手術室の外で待っていたらしい。私は父が来るとは思っていなかったので驚いた。

シャーレにのった血まみれの腫瘍の塊を主治医に見せられて、その時だけは、父は急に嗚咽して「俺が癌になるならわかるけど、まさか知佐子が・・・。」と言ったらしい。

私はそのことを母に聞いた時「え?(私を癌にした張本人の父が)ほんとに泣いたの?」と聞き返した。

その一瞬だけ、父の胸が痛んだことは本当だと思う。けれど父は私の具合を見に病院に来はしなかったし、私が退院してからも、父のギャンブル依存、浪費依存の精神疾患が治ったわけではない。

私の手術直後もまた、私に対して、ばかみたいな「からかい」しかしてこなかった父だ。

私がはっきり覚えている父が泣いたのは3回だけだと思う。1度目は大きな借金をつくった時、「保険にはいってバイクで死のうと思った(でも死にきれなかった)」と父が言った時。2度目は、(私は見ていないが)摘出された私の癌の腫瘍を見た時。3度目は祖母(父の養母)の棺が家を出る時。

父の虚しさ、自分が甘えたい相手を滅茶苦茶にしなければ気が済まない異常性格の根本は、見捨てられるかもしれない不安だったのか、私にはわからない。

頭もよくて手先も器用なのに、支えてくれるあたたかい家族がいるのに、それをどぶに捨てるクズの生き方をする、父の空虚さが私には理解できない。

・・・

きのう初めて、父の部屋から発掘された、私が今まで知らなかった若い頃(高校生くらい?)の父の写真。(この写真の父以外の人を私は全く知らない)

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私の知らない若い父。

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父がものすごくかわいがっていた犬と父。昔、実家には火事で死んでしまったこの犬の毛皮があった。死んでもこの犬と離れるのが辛すぎて毛皮をとっておいたのだと言っていた。
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どういうシチュエーションなのかまったくわからないが、20歳前後の屈託なく楽しそうな父(後列右から2人目)。この頃、肺結核闘病中?父の肩を抱いているのは外国から来たかたでしょうか。

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柏崎の山奥の野田村で20歳を過ぎた頃の母。集合写真でも一番うしろのほう(最後列右から3人目)に恥ずかしそうに写っている。母の生家のあった場所にいつか行ってみたい。

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たぶん父と出会った頃の母。母は「私は全然美人じゃないから・・」とよく言っていた。母は全然美人ではないが、性格はきれいでした。

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新潟の山奥の村から出て来て、まだ土とススキの丘と花街だった西新宿に住み、たくさんの高層ビルができ、劇的に生まれ変わる新宿を生きて、いい人生だったね。

私が生まれる前の母と父と、私の祖父母(父の養父母)の写真。

晩年の認知症が進んだ母にこの写真を見せて「この人誰だかわかる?」と聞いたら「いい男。一番好きな人。」と言った。

「こいつ悪いやつね~。」と言ったら、母は嬉しそうに(しょうがない人なのよ、とでも言うように)「うふふふ・・・」とすごく久しぶりに笑っていた。私は涙がとめどなく溢れた。
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すごい恋愛して、添い遂げられて幸せだったね。マサエちゃん。

伊勢丹の屋上で綿アメを食べる私の両親。もしかしたら幼稚園くらいの私がシャッターを押したような気がする写真。

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今と変わらずに夢中で野の花を摘んで、ティッシュにくるんで大切に持っている私と、若い頃の父。たぶん私が4、5歳で多摩川に行った帰り。

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すごく美しい体験と、酷く耐えがたい体験がぐちゃぐちゃに入り混じって、ものすごくしんどいのだが、両極端をすべて強烈に記憶して味わい尽くしているから今の私がある。

10月7日

おば(母の弟の奥さん)に電話番号を聞いて、母の田舎(新潟)にいるおじ(母の妹のだんなさん)に何十年かぶりに電話してみたら、80歳代だが、まだすごくしっかりされていて、お話しできたのですごく嬉しかった。

「東京の福山です。」と言ったら「ああ!ごめんください。」と言われる。「ごめんください」は新潟特有の挨拶らしい。

母のことを知っていてくれる人がこの世にいるって、なんてありがたく、気持ちが温かく嬉しくなることなんだろう。

去年、叔母(母の妹)が膵臓がんで亡くなった時、「最後に22日間、入院したんだけど、私がずっと病室に泊まって付き添ったんだよ。」と言われて、涙・・・。

なんという愛情深いおじさん。母がよく「妹のだんなさんは、すっごくいい人。本当にいい人と結婚してよかった。」と言っていた。母の兄弟姉妹の家族が(私の父だけを除いて)、皆、真面目でよい人たちで、そのことがものすごく嬉しくて、泣けた。

私が10歳の頃、新潟市にある叔母、おじの家に母と行った時、まわりは地平線まで緑の田んぼだけで、おじさんが従妹のノリちゃん(おじの息子)と私を、カエルの卵を採りに連れて行ってくれたんですよ、と話した。

「バケツ一杯、カエルの卵が採れて、ものすごく嬉しかった!」と私が言ったら「ははは、そうだっけねえ。」と笑っていた。今は緑も見えない住宅地だそうだ。

母の妹と母はとても仲がよくて、まったく気兼ねなくぽんぽん言い合っていたのを覚えている。(大人になってもずっと仲のいい兄弟姉妹って、なんていいんだろう。)

おじさんは、若い頃、写真が趣味だった。「弥彦山の夕焼けを撮りに、車で連れて行ってもらったのを覚えてます。」と言ったら「あの頃は大きなカメラ持って、あちこち飛び回ってたなあ。」と。

おじさんは家にある母と母の妹の写真をいくつか送ってくれると言った。ありがたい。すごく楽しみだ。

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2017年10月 6日 (金)

母のこと

10月6日


私が生まれたとき。

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新宿の歌舞伎町の奥の大久保病院で生まれました。
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1歳。生まれて初めての海。「大人のサンダルで歩いてたのよ。」と母が言っていたのを覚えている。たぶん鎌倉の材木座海岸。

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母と私の一番好きな写真。場所はどこかわからないが、旅行先。新宿区の保養施設(箱根つつじ荘?)じゃないかな、と思う。
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私が小学生の頃は、母は自宅で洋裁の仕事をしていた。旅館(たしか上総屋さんと言っていた)の奥様や和菓子屋(たしか虎月堂さんと言っていた)の奥様が仮縫いのためにうちに来ていて、たくさんの待ち針でお客様の体に型紙をとめて、体型に合わせて補正していたのを覚えている。

「私はすごく不器用で、洋裁なんか向いてないんだけど、身体がそんなに強くないし畑仕事が嫌だったから洋裁学校に行かせてもらったの。」と母は言っていた。

「ドレメ学院」という学校(調べたらまだあるのですね)。「ドレスメーキング」という雑誌が何冊もうちにあって、私が幼稚園から小学校低学年の頃、その本の中の布地の柄や服装の写真を夢中で眺めていた。

妹が生まれ、洋裁で食べていけなくなってからは弁当屋、結婚式場(たしか明治記念館)でのアイロンかけの仕事、一番長く何年もやっていたのはデパートの派遣マネキン(たしか大東マネキンという会社だった)の仕事で、小田急や京王や伊勢丹のデパートの売り場仕事をしていた。

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私は幾度も母のデパートの休憩時間に合わせて、母に会いに行った。その頃のデパートの休憩所は、数メートル先がよく見えないほどの紫煙で澱んでいて、目が沁みて咳き込んで涙が出るほどで、母も私もよく苦しいとも言わずにそんな場所で座っていたな、と今は思う。

たぶん明治神宮か新宿御苑で。白い椿に喜んでいる母。母が自分で縫ったスーツ。
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生前、叔父が母の施設に持って来てくれていた少女の頃の母の写真。
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10月5日

おばさん(母の弟の奥さん)に電話して、母の直葬を終えたことを報告した。

おばは、昨年、叔父が癌を告げられてから2か月もないうちにあっけなく亡くなってから、ずっと立ち直れず、ほとんど家で寝ていると言っていた。

もう何年も会っていない(ぼろぼろの福山家に私が認知症の母を介護しているところを見に来た以来)が、昔からおばは頭の回転がよくて「如才ない」という形容がぴったりの人だった。

叔父は膵臓癌の告知からすぐに脳梗塞を多発し、話ができなくなってしまったそうだ。おばは、叔父にどんなに守られていたか、死んでから心底わかって、もっと叔父に付き合っていろんなところに一緒に行けばよかった、叔父がなにを考えていたか知りたかった、と後悔でものすごく苦しんでいた。

私も、いまだに叔父がこの世にいないことが信じられない。母より10歳下で、とても元気で、頭の回転も速い叔父だった。人格的にもしっかりしていて、社会的に信用が厚く、若くして立派な家を建て、堅実に定年まで勤め上げた。

叔父にも私より年少の娘(私の従妹)が二人いて、叔父もおばもきつい性格ではないが細々としたところまで躾に厳しく、きちっと育てられていて、成績優秀だった。

私は遊び好きで無責任な父と、情にすごく厚くて働き者の母に、まったく放任で育てられたので、叔父の家庭に対して、うちがすごく貧乏で汚いこと、自分が社会的な決まり事など、なにひとつ無知のまま育った引け目があったので、私から積極的に叔父の家に連絡したりはまったくしていなかった。(従妹たちが今、どこでどうしているのかは全く知らない。)

ただ、叔父は母をずっと見捨てないで最期まで思いやってくれていたし、母を守ろうとしている私のことを最後まで信頼していてくれた。

母の具合が悪くなってからは、(父も妹もまったく心が通わないので)叔父だけが、私にとってこの世でたったひとりの、まともに話ができる、情の通う、信じられる肉親だった。

昔、父の借金で苦しめられた時も、(金額などはきいていないが)とても母を助けてくれた。母が心底信頼していた真面目な弟だ。

叔父は、3年前、私の父が死んだ時はまだすごく元気だった。私と電話で話して、父の葬儀には来ない、と言われた。私はむしろ、母をすごく苦しめた父のことを死んでも許せない、と叔父が言ってくれたことが嬉しく、そこまで母を思ってくれる叔父がありがたかった。

おそらく母が東京に出て私の父と知り合う前の、新潟の海での写真。左から叔父、母、叔母(母の妹で叔父の姉)。叔父は去年の4月、叔母は今年の6月、同じく膵臓がんで亡くなった。

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おばは、私が実家で母の介護をしているのを見た時のことを、すごく感心した、と言っていた。

「あなたの情の深さには際限がないのよね。」と。

「普通なら、ここまで、というふうに介護するんだけど、あなたは違うの。お義姉さんがしっかりしていたら、もういいよ、知佐子が疲れちゃうでしょ、って言ったと思うわ。」と。

「きっとお義姉さんのあなたに対する情愛が、際限がなかったから、あなたがそう育ったのね。」と言われて、また涙・・・。

「私なんか自分の都合のほうが大事、というふうに娘たちに接してきたから、娘たちも私に対してそうなんだと思うわ。お義姉さんはよくそんなふうにあなたを育てたわね。」

おばに妹のことを聞かれて、とにかく精神的におかしい、認知がおかしい――重要な事実を誤認してまったく違うふうに記憶していたり、こちらがなにも言っていないのに(私からは妹をばかにしたり責めたりする感情はない場面で)、先走ってべらべらと被害妄想的な発言をしたり、反対に感情鈍麻だったり・・・と話した。

妹はもともとは頭もよくて、中学生くらいまでは優等生で、忍耐強くて、クラスの委員長のようなこともやっていた。

高校は私と同程度の学力の都立で、私は妹のことをしっかりした利発な子だと信じていた。

妹と私は仲は悪くなかった。むしろ他人からは「仲いいねえ。」と言われるくらいだった。

少なくとも、妹が妹の夫の転勤で上海に行った頃(妹の息子がまだ5歳くらいだった)、妹は「上海に遊びに来てください」というはがきをくれたし、長い国際電話(1時間以上も妹が話しているので、だいじょうぶ?と言ったら「プリペイドで2000円くらいだからいいの。」と言っていた)をかけて来て、私に甘えて「ねえ、お姉ちゃん、聞いて。」と中国での生活の愚痴を半分笑いながらしゃべっていたくらいだった。

それから5年くらいが経って、母の認知症と震顫が進んだことに気づき、私が母を大学病院に連れて行き、ちょうど日本に帰国する妹に、「母がたいへんです」とメールした時、妹は変貌していた。

妹から来たメールの返事は信じられないものだった。

「私は今、Y(妹の息子)を前に死にたい、死にたいって言ってるくらいなのに、なんなんですか?私をこれ以上利用しないでください。」というような内容(保存してあるが記憶ではこんな内容だ)だった。

急に「死にたい」っていったいなに?「利用」っていつ私が妹を利用したの?とまったく意味不明。その時点から妹は過去を歪めてしまった。

とにかく、その時期に妹が「うつ病」?というのか、精神的におかしく変わってしまったことは確かだ。

妹が、母が認知症になった時に、まったく情を示さなかったこと、若い頃と明らかに性格が変わりすぎるほど変わってしまっていることが、私には目の前が真っ暗になるほどショックだったし、いまだに信じられないのだが・・・。

母は妹のことも分け隔てなく育てたはずなのに、まったく母に対して情がないと、おばに話していて、気がついたことがある。

もしかしたら妹と父は、どんなに歳がいっても、まだまだ母に甘え足りなくて、ずっと私に嫉妬していたんじゃないか、ということだ。

妹はそれをずっと認めなかったが、妹の中では、その思いが鬱積してこじれてしまったのだ。なんらかの強いストレスがかかった時に、その思いばかりが突出して出てきたのかな、と思う。

おそらく母と私の絆が強すぎたのだと思う。それで、私が生まれてから、父は嫉妬で私を虐待したのだと思う。

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2017年10月 4日 (水)

母の火葬(直葬) / 火葬場で腹にたまっていた怒りをぶちまけた話

10月3日

ピコティという花弁のふちだけがピンク色の白い可憐な震えるコスモス。なんという絶妙なしなり。決して正円ではない8枚の花弁の位置。

「愛の告白に」とポップに書いてあった深紅の薔薇。私は胸が張り裂けるほどの愛を告白したいのです。

中が紅色でふちは白いオリエンタルの百合。赤紫のトルコキキョウ。ふちだけが濃いマゼンタの大きなカーネーション。ふちがフーシャの白いスプレーカーネーション。薄紅色と白と黄色のスプレー菊。

母はどんな時も、その季節、たまたま街路で出会った花や実や落ち葉、花屋に並んでいたものの中から、特別な、なにかを見つけては「素敵ねえ。」と言っていたから。

町中の花屋から特に魅力的なものを、いろいろ一輪ずつ、本当に母が「きれいねえ。」と言ってくれるだろうと思う花を厳選して選んだ。

花屋とスーパーを廻って昨日、少しずつ買い集めた花々を氷水につけておいて、きょうまで一日、ずっと眺めていた。どの花もありがとうね、母をよろしくね、と。

花で母をうずめる時、ひどく泣いてしまった。「ありがとうね、生まれてからずっと、育ててくれて、ものすごくよく働いてくれて、すべて、すべて、たくさん私にくれて、本当にありがとうね・・・」と。

火葬のみの直葬なので、喪服は着ないで、私らしい黒のジョーゼットのワンピースにスニーカー。そのほうが母は喜んでくれるから。

母は、ごく一般的な慣習にとらわれず自分の考えで行動する私の性格、その時の心の精一杯を尽くす私の気質をとても好いて、尊重していてくれていたから。

(勝手な自己満足で他者を傷つけない限り、)思い切り自由に、形式にとらわれず、虚飾を排して自分らしいことをやるのが一番だ、という私の性質を理解していてくれたから。

母はすごく正直で、余計なこと――虚栄心とか、嘘とか、他人への媚とか、へつらうとか、他人を自己利益のために利用するとか、自分だけ楽をするとか、卑劣で厚かましいことが大嫌いな人でした。

・・・

母の火葬の日に私が激昂した話。

私はもともと緘黙気質で忍耐強いが、母を守るためなら強くなれる。

火葬の斎場で、私は爆裂してしまった。

母が骨になる、きょう、この時に、今まで積もり積もっていた母から私が受け継いでいる思いを、絶対に、私が口にしなければ許せないと思ったからだ。

その経緯を記述しておきたい。

私の父と母を「お兄さん、お姉さん」と呼んで、私が子供の頃、しょっちゅううちに入り浸っていたK・H子を、母の火葬によんだ。K・H子の母親(故人)と私の祖母(故人)は親友で、麻布のお寺にお墓を隣同士に買っていたほど親しかった。K・H子は父より10歳くらい下だ。

今から25年くらい前、K・H子は娘の保証人のハンコを父に押させた。そのあと、母は、私に「知佐子、聞いて!ひどいのよ。悔しい!悔しい!」と言って、流し台で茶碗を叩き割って泣いていた。

「おにいさああ~ん、ここにハンコ押してえ~。」とK・H子が甘ったるい声ですり寄ってきて、父は簡単に「ああ、いいよ。」とハンコを押してしまったと。私もそれを聞いた時ははらわたが煮えくりかえった。

それは母と祖母と私に、ギャンブル依存の父が一千数百万円の借金を負わせた、地獄の苦しみの数年あとだったから、その母と祖母と私の借金地獄のことを知っているK・H子が、いけしゃあしゃあと父に保証人のハンコを押させるなんて、母にとって、絶対に信じられない光景だった。

父の大きな借金が発覚した時、私は美大卒業前だった。私は卒業式以前に就職し、9時から夕方5時30分まの正勤務(1年間は友禅デザイナー。そのあとは友禅の会社が倒産したため、専門学校の事務職員)のあと高級喫茶で11時までの勤務、そのあと帰宅してから午前3時までジュエリーデザイン(原稿買取)をやって働いていた。

ギャンブル依存(精神疾患)で、多額の負債を平気で家族に負わせる父への激しい憎悪と反発心から、私は死ぬほど働いて(その頃は若くて、父への当てつけのために本当に倒れて死んでもいいと思っていた)、稼いだお金は一円も残さず、そのまま母に渡した。

私は本当に、自分のためには缶ジュースひとつ買わなかったのだ。

過労とストレスで私は、すぐに腎臓結石になり、背中からの激痛の発作で卒倒して胃液と緑の胆汁を吐いて転げ廻り、何度も救急車で運ばれるはめになった。さらに私は甲状腺がんになった。

私は専門学校の職にかわってからも毎月の積立のほかは全額、母に渡していた。

のちに、なんで(父の借金から)逃げなかったの?と幾人もの人に言われた。私も母に、なんで父と離婚しないの?と当時、当然尋ねていた。

母の答えは、私の祖母(父の養母で、私とは血のつながりがないが、私がものすごく大好きな祖母で、母とは本当に実の親子以上にいたわり合い、助け合っていた)を自分が捨てることはできないから、

そして父を捨てたら、何年か経って浮浪者のようになって死ぬだろう、そんな父を私と妹が悲しむだろうから、という答えだった。

その母の答えを聞いた時、私はは非常に頼りなく力不足ではあるが、自分でできる極限まで、母と祖母を守ろうと思ったのです。

私は、父が生きている時から、実家の父宛にK・H子の娘と(その連帯保証人の)K・H子が、その30年近く前の借金を返さずに逃げ回っていて、利息が膨れ上がって数百万円になっているというはがきが来ているのを、知っていた。

あんなに週に何度も福山家に入り浸っていたK・H子が、まったく来なくなって、電話をしても出てくれない、と晩年の父は淋しがって嘆いていた。借金のことを言われたくなくて父を利用だけして捨てたのだ。

3年前の父の納骨の時にも私はK・H子を呼んだ。どういう態度をとるか見たかったからだ。

その時、K・H子が「私がね、いつもいつもお墓をきれいにして、福山のお祖母ちゃんのお墓にもちゃんとお花をあげてるのよ。」と得意げに、恩着せがましく言うのに、私は内心煮えくり返っていた。

父に数百万円の借金のハンコを押させて、母を苦しめて、それから家に何年も来もしなかったくせに、なにが墓をきれいに、だ。

私は、火葬場に来たK・H子が、きょうの母のための読経にきてくださった菩提寺の若いお坊さんに、さっそくべったりくっついて馴れ馴れしく話しているのを見て虫唾がはしった。

私が小学生の昔から、私は、自分と正反対の、かすかな遠慮も恥の感覚ももなく、まるでいつも自分が主人公のように、人に馴れ馴れしいK・H子の性格が好きではなかった。つまらない俗な話しかできないのに、どうしていつも自信たっぷりで、「ねえ、聞いてよ、お姉さあ~ん。知佐子ちゃんたらね~え、おかしいのよ~。」と人をばかにしたようなことを言うのだろう、と不思議に思っていた。

私は母の火葬の前に、K・H子に「きょうはどうもありがとうございます。」と頭を下げてから、「父が亡くなる前に、最後に会ったのはいつですか?と尋ねた。

「父はずっとH子さんにすごく会いたがっていました。何度も電話したけど出てくれないと苦しんでいたんで。」と私がストレートに言うと、

K・Hは「私はね、着信が残っていたら絶対にかけなおすのよ。だから電話なんて来てないわ。それに福山家に電話しても誰もいなくて通じなかったから。お兄さんはいつも留守だったから、鍵がかけてある家には入りたくても入れないでしょ。」といけしゃあしゃあと言う。

「そんなはずありません。父は何年もほとんど外に出ず、ずっと家にいましたから。」と私が言うと、予想通りK・H子は、父と新宿のバス停ですれ違ったんだけど、父が気づかなかったから、元気そうだったから声はかけなかったとか、べらべらと長い嘘話を繰り出してきた。

私にしゃべらせないように、一方的にしゃべり続けようとする猿芝居だ。「父はずっと具合が悪くて元気そうではなかったので、父ではないと思います。」と私は言った。

母の死因はパーキンソンだが、K・H子が「私の友達もパーキンソンでねえ。その人は、もう25年もねえ・・・」と、母とまったく関係ない、心ない話をだらだらと始めた時、私がかっと眼を見開いて睨んだら、H子の顔色が変わった。

「そういう話は関係ないんですよ。借金に逃げ回っているから、うちに来なくなったんじゃないんですか?」と言ったら「なによ!逃げてなんかいないわよ!」と。

「今から25年くらい前、母が、すごく悔しいと怒って泣いていました。ずかずか家に入ってきて、おにいさああ~ん。ここにハンコ押してえ~~ん。とH子さんが言ったと。」

「私はね!そんな言い方しません!ちゃんとタダヨシさんて言うわよ!」

「言い方はどうでもいいんですよ。私が言ってるのはお金の話です。母はすごく悔しがって恨んでいました。そのことを絶対に伝えたかったんです。」

「あ~らお兄さんは快く押してくれたわよ!」

「父は私と母を死ぬほど苦しめるような無責任でだらしない人間だから、さぞかし利用しやすかったでしょうね。父は誰にも相手にされないで淋しいから、こびてくる相手には甘いから。」

(ものごとをきちんと考えないで、誰にも相手にされないどうしで甘やかし合うのは父と妹も同じだ。父は人に相手にされたいために表面的ないいかっこだけをする。まったく思いやりや責任感はない。)

私は保証人という重要な話を、実際に死ぬほど苦労して金を稼いでいた母を無視して、卑劣な父に直接取り入った同じく卑劣なH子を許せないのだ。

「あら、私はお兄さんになかなか返せなくてすみませんて言いに行ったわよ!」

(父からそんな話は聞いたこともない。)

「そんなことは知りません。なぜそんなに私に偉そうなんですか?なぜ私に、母に謝らないんですか?父が死んで、その借金が今、私と妹のふたりに相続されてるんですよ。私は、あなたのような他人の借金から、私自身とかわいい妹を守らなきゃいけないんです。」と私が言った時のH子の鬼の首でもとったようなヒステリックな声は面白かった。

「かわいい妹ですって?!!!なにがかわいい妹よ!!あんたはブログに妹のことをなんて書いてるのよ!!M子ちゃん、この人になにを書かれてるか知ってるの?」と妹を味方につけようとするH子。

私が本当のこと(醜悪な現実)を書いたからなんだってんだ?!ふざけんな!!

妹が母を心底いたわらなかったという点では私はすごく頭に来ているが、それは母を精一杯いつくしんだ私の権限だ。

それでも赤の他人の借金を妹が負わされそうになったら、そんな理不尽なことからは私は妹を絶対に守る。

「私は作家なので。誰がなんと言おうと、書きたいことを書きます。」

「なんで今、そんな話するのよ!場所を改めたらいいんじゃないの!?」

「いいえ、きょう、今、母と別れる時に、母を焼く前に言いたかったんです。母を最期まで守るために、母の思いを伝えたかったんです。」

「私はいつもあなたのお祖母ちゃんとお父さんのお墓を大切にしてるのよ。」

隣にうちの菩提寺から派遣されてきた若くてきれいなお坊様が困った顔で座っているのを見ながら、私はことさら大きな声で言ってやった。

「お寺もお墓も、関係ないんですよ!!生きている時に母や私をこれだけ苦しめておいて、いけしゃあしゃあとしていることが許せないんですよ!」

それから母とのお別れ。私は持ってきた花々、一輪一輪、ちゃんと配置を考えながら母に手向けた。甘く優しいコスモスやかぐわしい匂いの百合を顔の近くに置いた。

そして号泣。親友に抱えられて激しく狂ったように私は大泣き。

確かに焼くのが怖いので、焼いている間にお坊様が読経してくださる。私は焼香の香を、火にくべないで、もう一度香のはいっている壺に戻してしまうほど、母の死に取り乱していた。

だけども、こんな(慌てて変な失敗ばかりする)私を母は笑って見ていてくれる気がした。

形式なんてどうでもいいのだ。心底、生きている時の母がなにを今、苦しんでいるのか、なにを欲しているのか、それに対して自分が少しでもなにをできるか、とフル回転の頭で考えあぐね、こうしようか?ああしようか?と母に問うてきました。

痛いとこない?食べたいものはなに?今、どこか苦しくない?これとこれなら、どっちが好き?ここ押したら気持ちいい?ストレッチしようか?見える?あれ、きれいじゃない?もう尋ねることができないことが悲しいのです。

焼くのを待つ間の40分ほどに、妹と私と、ほかに二人(私の親友)がいるテーブルで、私は、頭の回転するままに全部言葉に出した。

「なぜ、人から借りた金を返さずに、そんなに居丈高なんですか?本当なら母にすみません、と泣いて謝っても当然だと思いますが。自分が人間としておかしいと思わないんですか?」

「ああ、なんとでも言いたいようにどうぞ。どうせなにを言っても信じてくれないんでしょうから。逃げる気ならこうしてくるわけないじゃないねえ?」と私の親友にすり寄るH子。

私の親友たちにはずっと何年もH子の話をしているし、信頼するケアマネのMさんや、K島さんも彼女を「もっっのすごく図々しい人ですね。信じられない。」と評している。

私は父の借金のせいで癌になった、という話をしても

「癌になったことは知ってるわよ。」といけしゃあしゃあ。

H子は、父が死んだあとに妹に聞いて母のいる特養に行ったらしい。寝たきりでなにも会話できなくなった母を見に行かれたことが、汚らわしくて悔しかった。

汚い、汚らわしいことをやって母を苦しめておきながら、決して免罪符になるわけもない自己満足、自己欺瞞のために私のきれいな母を利用しないでほしい。

私の母はあなたとは違って、まったく汚らわしいところがない人だったから。

「母は一生、身を粉にして働きました。私も妹も、中高とも公立なんですよ。私は美大の学費は自分で働いて返しました。H子さんは人に借金して返さないくせに娘姉妹とも私立の高校に行かせて、さらにその上の私立の学校にやって、うちみたいな貧乏人を保証人に利用して、おかしいと思いませんか?」

「うちが私立の学校に入れたからなんだっていうの!関係ないじゃないの!!」

「贅沢なんじゃないんですか?すごいですね。他人を利用して生きてきた人は、さすがに態度が違いますね。」

「失礼なんじゃない!!!」

「そういう話し方、態度は、あなたの生きざまそのものですから。」

「なんでお兄さんの葬儀の時に言わないのよ!!!」

「父が死ぬずっと前から、私はあなたが借金を返さずに逃げ回っていることを知ってたんですよ。ずっと恨んでいました。へたに言うと、もっとばかなことをされると思ったから黙ってたんです。」

「Y子(借金の名義人、H子の長女)に言えばいいでしょ!」

「Y子さんはきょう、来てないじゃないですか。それに父にハンコを押させたのはあなたでしょう。あなたは、自分がY子の連帯保証人だという意味がわからないんですか?あなたは私の父や母にかわいがられていたんじゃないんですか?少しも申し訳ないと思わないんですか?」

H子は最初から一円も返す気がなくて、父にハンコを押させたのだ。そして自分が母や私を苦しめているという自覚がまったくないのだ。

汚らわしい。

「私がお墓やご先祖をすごく大切にするのはねえ・・・。」

「それはあなたが勝手にどうぞ。私は私で人を大事にします。母は人を傷つけること、図々しいこと、卑劣なことが大嫌いでしたから。」

どんなに神仏神仏、墓掃除とわめいて信心深いふりしても、あなたは極楽浄土にはいけないと思いますけどね。

母には、母から直接、愛情のなんたるか、思いやりのなんたるかを教えてもらった私という強い娘がついていました。

だから、母は死ぬまで、私と、私を信頼して助けてくださる人たちに支えられ、守られて生き抜きました。

あなたのふたりの娘さんは、あなたを大事に介護するでしょうかね?

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2017年10月 2日 (月)

母の死

10月1日

昨日の深夜(命日はきょう10月1日)、母が亡くなった。

きのう9月30日の夜、11時過ぎに電話が鳴った時は、えっ?という感じで、あんなに毎日、毎日、24時間、恐れていたはずなのに、なぜかその瞬間は母の危篤の電話だと思わなかった。

そのときちょうど、具合の悪いちゃびに給餌していた最中で、そこに集中していたからだと思う。

 

母の脈が少なくなってきていると聞いて、いよいよ、と思い、その場で号泣してしまった。

 

各駅停車とタクシーで深夜12時少し前に病院に着いた時は、亡くなったばかりだった。


私が母の手を握って話しかけると、まだ生きているようにモニターの真ん中の青い波線が反応していた。

 

「ありがとうね。私が生まれてから今までずっと、一生、本当にありがとう。」と泣きながら何度も言った。

12時過ぎに検死があったので、死亡時刻は検死の時刻10月1日となる。

1時過ぎに妹が子ども一緒にと来た。母の顔に白い布がかかっていたのを見て「えっ?!」と妹は驚いていた。危篤と聞いてもまだ、自分が着くまでは生きていると思ったのだろうか。

 

妹は母に顔を近づけて、ごにょごにょと小声(妹と母にしか聞こえない声)でたくさん話していが、泣いていて、「ごめんね!」と言っていたようだ。

そのあと「顔に皺がない~!」とか「髪の毛がさらさら!シャンプーしてくれたんだ!」と(私を無視して)子どもに言う妹。それから「私、ひとりも親がいなくなっちゃった!誰もいなくなっちゃった!」「たった一時間前に死んだのに、なんでこんなに冷たいの?」と子どもに向かって泣いたり。(やはり精神がおかしい)

なんで母がまだ生きている時に介護もしないで、見舞いにも来ないで、死んでから謝るの?と私が思っているのを妹は当然わかっている。私は黙って泣いていてなにも言わなかった。

私は、帰りの電車がもうないのでタクシーで帰宅(5370円だった)。2時半くらいに家に着き、またちゃびに給餌し、今朝は6時半に起きて、8時前に病院に行く。

きょうは澄んだ秋晴れの日だった。

8時に母の棺を迎えに来てくれたF葬儀社の人の車に同乗して斎場に行った。御茶ノ水、飯田橋、早稲田、新宿、東中野、思い出がいっぱい。

母を安置室に入れて、外で待っている時、庭で白い小さなアベリアが匂った。(大野一雄先生の自宅前にこの花が咲いていて、雨の中、大野先生が生命がはじけるように、楽しそうに踊ってくださったのを思い出していた。 )陽は強かったが日陰は寒いくらいだった。

斎場の喫茶部でF葬儀社の人と打ち合わせをした。いろいろ細かく段取りや明細を説明してくれて誠実な人だった。ネットで新宿近辺で直葬も慣れている葬儀社で良心的そうなところを直感で選んだのだが、この人に決めてよかったと思う。

3年前の父の時のH社さんには、どうして今回も頼まなかったのですか?と聞かれ、私は父と仲良くなかったので、父の時のことを思い出したくなかったので葬儀社も斎場も変えたかったのです、と答える。今回のF社さんはH社さんと(同じくらい良心的な値段で)親しいそうだ。

2001年に、祖母が亡くなった時、父が(現実逃避、かつ面倒くさがって)なにも考えず電話帳の一番上にのっていたA葬儀社に決めてしまい、そのA社は酷かった。高い金(30万円か35万円くらいだったとおもう)だけとって、なんの説明もなかった。

口のききかたもまともじゃないような人が(自宅に)3人来て、菊の生花の代金を2万円(3万円?忘れた)くらいとっていたのに、その花を一輪もお棺にも入れさせずそのまま(使いまわすために)持って帰った、と母が悔しがって泣いていた、とF葬儀社さんに言ったら、「当時はそんな葬儀社も多かったですね。」と。今のネット時代では透明化が進んで、そんな酷いことはあまりないが、それでも見積もりにない金額を本番で要求するところもあるそうだ。

その場でF葬儀社さんのスマホで菩提寺に電話して、火葬の時に来て短いお経をいただけるか確認。Fさんから母のデータを菩提寺にファクシミリするという。徹底してわかりやすく親切。

 

今更ながら、母が6月の始めに入院して経口摂取不能になってから水分だけで4か月近くも生きてくれたことが信じられない。

 

最初に入れてもらったY病院で2か月。

8月3日に転院したT病院では、もう静脈に点滴できず、お腹の皮下点滴に移り、皮下点滴なら1週間、長くて2週くらいでで亡くなると言われていたので、私は毎日、きょうか、きょうかと怯えていたが、それから2か月も、たぶん私のために母は生きていてくれた。

 

苦しみすぎる私に時間の猶予をくれるために、母は本当によく静かに生き続けてがんばってくれたのだと思う。

まさに地から切り取られた花のように、母は奇跡的に穏やかに衰微する死を迎えることができた。

 

最初のY病院も、転院先の病院も、本当に親切で、清潔で、よくしてくださって最高に恵まれていました。T病院では検査のために個室と言われ、病院側の判断なので個室代はとられなかった。

 

6月にすぐに逝かれたら私はすごく苦しんだろうし、じりじりと焼かれるような猛暑の時期に逝かれるのも怖かった・・・

 

勝手な話だが、今年の日本の9月は台風の暗い雨がずっとぐずぐずしていて、そんな嵐の日に逝かれたら、それはそれで私の気持ちもさらに暗くなって泣いていたと思う。

 

きょうは降水確率0%の26度。これ以上ない素晴らしい透明な秋晴れの美しい日だった。母が、すごく考えて、この日を選んでくれたのだと思う。

 

土曜の深夜に亡くなって、明日の月曜は友引なので火葬場はお休みで、私が母の好きな花をいろいろ集める時間も一日くれて、お別れは火曜日。

 

最期の最期まで、母は私をものすごくかわいがってくれたのだと思います。

 

F葬儀社の人が言っていたが、深夜に亡くなった場合、朝まで預かってくれない病院がほとんど(9割)で、そうするとさらにいったんよそに預けなくてはならず、手間もお金もかさんだのに、親切な病院で、すごく恵まれていると。

 

父の時とは別の斎場(近場で同じく公立)にすんなり予約できたのも、すべて幸運だった。私は今回の斎場は初めて行ったのだが、華やかな明るい雰囲気で、ここで母を送れるのがよかったと思う。

きょうと明日は、母のために、母が好きだったいろんな花を集めようと思っています。(母はまったく物欲がない人だったので、好きな植物を入れてあげるしか思い浮かばない。)

昼に帰宅してから、スーパーや花屋を6軒回った。紺や青紫、赤紫の竜胆、ワックスフラワー、白い百合、小さな向日葵、オレンジベージュの薔薇、白いカスミソウ・・・きょうは下見で、明日買い集めようと思う。

非常に疲れているが眠れず、母の少女の頃の写真、田舎の成年式の集合写真などを見て泣いていた。

これらの写真は田舎の実家から叔父が持ち帰っていて、私に送ってくれたものだ。私がこれを手に入れた時、母にはもう認知症があったから、一緒に写真を見てあれこれ話すことはできなかった。

 

 

 

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2017年9月27日 (水)

近況 母のこととちゃびのこと

9月27日

最近、ずっとブログを書くエネルギーがありませんでした。

というのは、母が6月7日にもう経口摂取できないと告げられてから、今日、今すぐに母が死んでしまう、という恐怖と哀しみ(もっと私が大切にしてあげていたら、という自責の念)で、私は身体ががちがちになってしまい、どうにもうまく書く言葉が見つからなかったせいです。

苦しすぎて、なにを書いても嘘になってしまう、

こんな中途半端な言葉では読んでくれた人に私のリアルな現状が伝わらない、それならば書かないほうがいい、という思いがありました。

6月、7月、8月と、私は母が今の私の年齢で、私がまだ若い頃の夢を見て毎日うなされていました。

母はまだすごく元気で、よく笑っていて、私に対しては遠慮なくぽんぽんものを言って、二人とも元気がありあまっていて、よく口喧嘩をしていた。夢から覚めると母が今、死にそうなのだと気づいて胸がずんとして、どきどきと痛んだ。

さらに、私にとって私の分身とも思えるちゃび(雌猫20歳)が今日、今すぐに死んでしまう、という恐怖と自責と焦燥で、毎日、母とちゃびの夢を見てはうなされ、おかしくなっていました。

普段低いはずの血圧が上180、下100くらいまで上がってしまった。なにをしていても心臓をどんと叩かれるような苦しさがあった。(お酒を飲んだ時だけ上96~126、下49~60くらいまで下降)

今現在、恐怖と自責と焦燥がなくなったわけではないのですが、

母は6月7日に口からものを食べることができなくなり、もうあと3,4日で亡くなる、と思って私が倒れそうになってから、なんと・・・・本当にわずかな、たまに一滴、またずいぶんしてから一滴、というごく少量の水分の点滴だけで、3か月と20日、信じられない長い時間を生き、まだ存命です。

本当になにも栄養をとらないで、母がこれだけ生きていてくれることが信じられないのですが、

最初に入れていただいたY病院から転院先をさがす時に、(私が無知のために)もう長くても一週間くらいしか生きられないと思いこんでいて、母にしてあげられる最後のことだから高い費用(月22~23万円以上)がかかる療養型病院に入れようか、CVをやっても一週間くらいしか生き延びないなら、心の準備のためにCVをお願いしようか、など心が迷った。

今は母に余計な手術の負担をかけずに、なにも特別なことはせずに、普通の病院に転院できてよかったと思っています。

実際的に母が死ぬ一番の危険は、痰が肺につまることと感染症で、療養型病院は一般の病院よりも痰の吸引などの看護の回数は低い。

私の直感では、絶対に療養型よりも一般の病院がよいと思った。しかし転院先として提示された病院の中で、一般の病院はひとつ(非常に近場の小さくて古い病院)しかなかった。

見学に行く前は、私はたぶんその病院にするしかない、と決めていたが、いざ見学したら病室から廊下の臭い(たぶん簡易便器の)、と、いよいよ亡くなった時にも、個室に移すことができない(4人部屋のまま)と言われ、母が死んでも同室の人たちに遠慮して泣くこともできない環境は嫌だと思った。

(同室の人たちも、すぐ横に死体があって、その家族が泣いているなんて嫌でしょう・・・)臭いと、お別れが心置きなくできないことの2点が、どうしても許容できなくて、ほかにどこか紹介していただけませんか、とごねた結果、提示していただいたのが、今母のいる御茶ノ水のT病院だ。

9月21日に、母がお世話になっていた特養K苑のK島さんからお電話があり、母がまだ存命と言ったら、(当然だが、すごく)驚いていらした。えっ、と一瞬間があってから、母が今いるT病院がとてもよくしてくださっていること、T病院に転院することができて本当に良かったと私が言うことに対して「それは・・・おだやかにお過ごしで、よかったですね!たしかに、普通ならもうたいへんぎりぎりの状態だと思いますよね。しかし、すごくがんばっておられるのですね。」とたいへん喜んででくださっていた。

私としては、母に依存しきってていた弱い私の、心の準備のために、母がまだ逝かないでくれているとしか思えない。

ちゃびも、簡単には記録にまとめられないほどの死線を乗り越え、毎日ジェットコースターの体調変化、人間なら100歳近い高齢なのに、私が思い悩んだ末の手術も乗り越え、私が1分ごとの体調を見ながら、つきっきりの治療によって、今も生きています。

私は愛する者のために、心身共におかしくなってしまうほど、尽くさずにはいられない、

たとえばちゃびの介護に関して、人語をしゃべらない相手に、今、この死にそうな状況をどう判断(解釈)して、それについてどう対応することを選択するのか、暗闇の中を手探りで歩くようで、不安で心臓がばくばくして、しかも有限な時間のメリットに急かされて、心身共に滅茶苦茶になってしまう、

しかし、私はそこにすべてを集中せざる負えない、こういう性格なのだと自覚しました。

今はちゃびと母のために生きたい。ほとんど必要最低限の用事のほかは外出したくない。余計な人づきあいをしたくない。

(同時に、私は今まで、まったく大切だと思えないむしろ嫌悪感を抱く相手から、私なら自分を拒否しないと勝手に思いこまれて、いいように利用されたり、酷いストーカー行為をされたりがすごく多かった、もう絶対にそういう目には逢いたくない、と自覚する今日この頃です。)

今は、母が死ぬ現実をつきつけられた最初の頃よりは少し落ち着いています。

自分があたふたしてもしかたがない、私には(パジャマの洗濯のほか)なにもできることがないと思うからです。

そしてネットで肉親との死別についていろんな記事を読んで、どんな別れ方でも、愛情がある限り、自責の念や心残りは当たり前のことなんだな、とわかり、少し落ち着きました。

ちゃびに関しては、毎日一緒にいる私がつきっきりで見ていて対処しないと死んでしまうので、相変わらず愛情と責任で濃く、重たい日々。

けれど刻一刻と変化する体調の急上昇と急降下の中で、ちゃびがゴロゴロ言って嬉しそうに甘えてくる瞬間、私も法悦のかなたに急上昇して涙が出ます。

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2017年6月22日 (木)

母のこと

6月21日(水)

朝から強い雨。午前11時に遠藤さん(西新宿で私の幼少時から母と親しくしてくださっていたかた)宅へ。

道すがら雨でスカートがびしょ濡れになり、ふくらはぎから足が冷えてつりそうになった。

足は冷えているのに自律神経失調で掌や手の甲から汗がふきだし、動悸と肩凝りではあはあ言っている私に、遠藤さんはツボ押しをしてくれた。まったくどちらが高齢者かわからない。

遠藤さんのご両親は若くして亡くなったそうだ。お父さんは終戦の翌年に。遠藤さんは西新宿の家でご主人の両親を自分の親と思って介護したという。

ご主人のお姉さんの介護もお嫁にきてすぐから30年やった。亡くなった時にうちの母がお香典をもって遠藤さん宅に伺った時のことを、感慨深く覚えているそうだ。

遠藤さんは空襲で逃げ惑った経験、焼け野原の東京や、昭和20年代の新宿についても話してくれ、とてもありがたかった。

また、教師になりたかったのに、そのころの教員試験は健康重視で、背が低く痩せていることで合格は諦め、銀行に勤めたこと。その後、九州の炭鉱を経営する親戚に請われてお手伝いさんに行ったこと、お母さんが倒れて東京に戻り、後に務めた出版社でご主人と出会ったことなど。

一緒に昼食をとった(店はサラリーマン男性でいっぱいで、少しうるさくて落ち着かなかった)あと、遠藤さんは区のボランティア活動へと地下鉄で出かけて行った。そのあとには夕方に娘さんのいる病院へ行くそうだ。

3時すぎ、クリニックで星状神経ブロック注射を受ける。暴風雨になったせいか、2、3人しか待合室にいなかった。このクリニックがこんなにすいているところを見たのは初めてだ。

6月20日(火)

朝、遠藤さんから電話があり、明日伺う約束。

午前中に動物病院にちゃびの輸液や薬を買いに行く。

夏至近い真昼間の日射し。私の好きな折れ曲がった細い路地。

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雨を恋しがる紫陽花。
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看板娘のハナちゃんの写真を撮らせていただいた。触れさせてもらうと、非常に力をもらえる。

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私が小学校2年の時に飼っていたスピッツ系のミックスのチロに顔がよく似ていて、感傷的になり、涙・・・。死ぬほど愛していたチロは私が小学校6年の時に死んでしまった。

「母もちゃびも死んだら、私どうなっちゃうんだろう、と思って・・・」と看護師さんに言うと「まだ死んでないですよね!」と言われた。

確かに快作先生の動物病院では、毎日、毎時間、命を救うことと、動物と愛情関係を生きることに集中していて、悲しみにとらわれている暇はない。

私のように喪失の悲しみにばかりとらわれていたら生きていけない。だけれど最近はずっと心がセンシティヴになりすぎていて苦しい。

母のいるY病院のソーシャルワーカーさんから電話。K病院(療養型で費用は高いところ)も受け入れ可だと言われた。

3:30近くの婦人科(初診)へ。いろいろ子宮体癌のリスクについて脅かされて吐きそうになった。

4:37母の入院しているY病院へ。5時過ぎ、主治医のK・S先生と話す。K・S先生は経鼻栄養には否定的だったが、意外にもCV(中心静脈栄養)に関してはやってもいいんじゃないかと思う、と言われた。

ものすごく神経が疲れた一日だった。阿佐ヶ谷の魚のお店で日本酒を飲む。

6月19日(月)

母の入院しているY病院のソーシャルワーカーさんから、母の転院の受け入れ先として、T病院はOK、I病院は現在の末梢点滴ができなくなったらCVへの移行を承諾することが条件と言われる。

どちらも気持ち的には受け入れがたい。

・・

私の甲状腺癌の定期健診に鎌ヶ谷の病院へ。12時前に家を出て、2時前に着く。

ここ一週間以上、私がずっと苦しんでいる頭皮神経痛、肩こり、動悸、不安、不眠について話したら、甲状腺ホルモン値が高すぎるのかもしれない、と言われた。

(私は甲状腺を摘出しているので、チラジンという甲状腺ホルモン剤を毎日飲んでいる。)

急遽、血液検査で3本採られた。1時間後、結果は、やはり血中の値が高めだったとのことで、薬の量を少し減らすことになった。甲状腺ホルモンの必要量は夏の暑さも関係していて、暑くて代謝が盛んな時は薬の必要量が低くなるとのこと。

精神安定剤は依存性があるので増やさないほうがいいとのこと。今、朝の動悸の時と入眠時にレキソタンを1mgずつ飲んでいる。

4時過ぎに会計が終わる。最近、夜眠れないせいか、帰りの電車の中でがく、がく、となるのが嫌なのに起きていられず何度も「がく」、と眠りに落ちてしまった。

6月18日(日)

イタリア在住の日本人女性のかた(Cさん)から、以前から私の絵と文章を見ていてくださるというメッセージが届いた。海外からのこのようなメッセージをいただくことはほとんどないので、信じられなくて、最初、なにかのいたずらかと思った。

すごく精神的に苦しく悲しい時なので、とても励まされた。

・・

JR駅近くの自転車集積所に行ったが、私の自転車はなかった。

駅前交番で話を聞くと、20年前の自転車の登録番号はもう警察に保存されてなく、見つかるのは絶望的だそうだ。

水曜に乗って、マンションの駐輪場に入れたことは覚えている。それ以外に、どこに乗り忘れたのか思い出せない。自分の記憶力に不安を覚えた。私が緊張して動揺しているからなのだろうか?

サドルをつけてくれたKサイクルのおじいさんに相談し、中古自転車3台に試乗させてもらった。やはりブリヂストンの緑の自転車を選んで買った。

6月17日(土)

私はよく何かを紛失する。そして、どうしようもなく探し物が不得意だ。

小さいときから、母に「私の欠点てなんだと思う?」と聞くと「整理整頓が不得意。失くしものが多い」と言われていたことを思い出していた。

朝から数時間、新しいPCの設定のためのマイクロソフトの認証番号のカードを捜していて、ごちゃごちゃした机周りに見つからず、疲れて絶望しかかっていた時、PCの入っていた段ボール箱の底から見つかった。

今まで何度も段ボール箱をひっくり返して振っていたのに見えなかった。だが、結局あった。

夕方5時、予約していたほぐし系マッサージに行こうと、マンションの自転車置き場に行くと、自転車がなかった。

14日水曜に遠藤さん宅まで乗って以来、乗った記憶がない。母のことで動揺していて、記憶が飛んでしまっているのだろうか。

日時の記憶があいまいだが、私が自転車で行く可能性のあるスーパーとクリニック、整骨院、動物病院の駐輪場を全部くまなく見て廻ったが、私の自転車はなかった。

(夕刻、青く沈んだ闇の中で街路のクチナシ(梔子)が白く浮き上がって匂っていた。その枝を手折り、流し台のところに生けたら、台所中が甘く湿った香りに満たされた。)

20年以上も乗っているブリヂストンの白い自転車だ。昔、中野にあった「めりけん吉田」というリサイクル屋で買った。

昔、アパートの駐輪場に置いていたのにサドルだけ盗まれてしまったことがあり、母が捨てられていた自転車の引き裂かれたサドルを引き抜いてつけてくれたのを思い出していた。

その後、近所のKサイクルという自転車修理のお店のおじさんが、引き裂かれたサドルを見て「うちにブリヂストンのサドルあるよ。」と1000円でつけてくれた。おじさんは「錆びてもブリヂストンはいい。最近の外国製のはアルミだから、ぶつかったらすぐにつぶれる。」と、その自転車をほめてくれていた。

ぎいぎい言うが私の身体に似合いの昔なじみの自転車だった。

6月16日(金)

朝、昨日母の転院先希望として伝えたM園から、「痰の吸引が多い」という理由で断られたという電話をソーシャルワーカーさんからいただいた。

引き続きK病院、E病院、I病院に面接希望と伝えたが、もう、こちらで選ぶ余裕はなく、どこでも入れてくれるところに行くしかないのかな、と思う。 

4、5日前から頭の耳の上のところの表皮が、ずきずき強く傷んでたまらない。ストレスからくる頭皮の神経痛らしい。

3日前くらいから不正出血がある。生理の時のような、肩がひどく凝って、どうしようもなく眠くて重くてだるい感じがある。もしも子宮癌や卵巣癌だとたいへんなので、とりあえず婦人科の予約をした。

鎌ヶ谷の病院から電話をいただいた。今日は(甲状腺癌の定期)診察日だったと教えてくださり、次の予約を月曜にとりますか、と言われた。母のことで頭がいっぱいなので自分の癌の診察に遠くまで行く気になれないのだが、一応、予約を入れていただいた。

新しく購入したPCのメール設定などをやっていたら、6月18日までに認証しないとメールも無効になる、という警告が来ていた。マイクロソフトに電話したら認証番号(が書いてある紙)自体が製品なので、それを失くしたならどうしようもない、と(けっこう冷たく、呆れたように)言われた。認証しなければPCの中には、もともとメールやWordがはいっていないのだと気づいた。

混乱している頭で認証番号が書いてあるカードを捜したが見つからず、ひどく疲れてしまった。

6月15日(木)

11時25分に家を出、11時39分の総武線に駆け乗り、11時55分くらいに母のいるY病院に着いきた。

母のベッドのところに、もうK島さん(母の入所している特養のケアマネさん)はいらしていた。

「お忙しいところをわざわざすみません。」と頭を下げてから、「お聞きしたいことがあるのですが、私の妹と会ったことはありますか?」と尋ねた。

「ありません。」という答えをきいて、ああ、やっぱり妹は母の面会に来たこともないのだな、と思い、その瞬間、自分でも予測しなかったことなのだが、急に激しい悲しみに襲われて、つーっと涙が垂れてきてしまった。

「すみません。まだ泣いたことはなかったんですけど、最近ずっと緊張していたので。」と言いながら涙が溢れて止まらなかった。

「母が、もう最期だ、ということを実の妹にはまだ知らせてないんです。妹は母の介護をやってくれなかったので。妹に会わなければならないと思うと、胸がざわざわして怖いんです。」とK島さんに言った。

12時くらいと言われていたが、担当の先生が来るのが遅かったので、K島さんについ母や父、妹のことを話してしまった。

・・

母は、これまで何度も、もうだめかと思うような時があった。私が通いで自宅介護していた時に、トイレで転倒して脚の付け根を骨折した。H外科病院での手術直後、40度以上の高熱が出て、もう死んでしまうのかと思った。

その時、バタバタとあわただしく担当医と二人の看護師さんが母のところにかけつけて、私は「廊下にいてください」と言われ、ああ、母の最期だと思った。

私の連絡を受けて、妹が病院に来た。久しぶりに会う妹に私が勢い込んで「あ、今ね、すごくたいへんだったのよ!40度の熱が出てね。本当に死ぬかと思った。」と告げると、妹は心配するどころか「なに?ああ!うるさいなあ、もう!」と不機嫌そうに言って帰ってしまったことが忘れられない。そのことがずっと、私のなかで妹を許せない傷として残った。

昔は母と私に甘えきっていた妹だ。妹は過去に、自分が困った時は私にさんざん長電話をして甘えたり、私の家に来て、私に泣きついたりしていた。私は長年、妹のわがままや愚痴を許容してきた。

母がパーキンソンの身体的不自由と認知症に少しずつ侵されていったここ8年くらいと時を同じくして、妹は精神的におかしくなっていた。妹は、母がどんなに必死で働いて私と妹を養ってくれたか、どんなに愛情深かったかも忘れてしまっていた。

ギャンブル依存で母や祖母の金を盗み続け、多額の借金を祖母と母と私に負わせて、私を癌にし、さんざん苦しめ続けたた父を、妹は「子供のときに自分と遊んでくれた」から大好きだと言い、その借金のために必死で働かされた母と私のことを、「子供のときに自分と遊んでくれなかった」から憎んでいると言った。

母を(私が通いで)介護していた時、母に食べさせるために野菜と豆腐の煮物などをつくって実家に行くと、母が寒い部屋に寝かされたままほったらかしにされて震えていて、隣の父の部屋から、(子供連れの)妹の酔っ払った甲高いはしゃぎ声がうるさく響いていたのが忘れられない。

父と妹は、外面はよく、身内に対してだけ際限なく甘え、卑劣なマネをするところがそっくりだ。

・・

担当医が来てK島さんと一緒に病状説明を聞いた。小さな肺の炎症はあるが、肺炎というほどではない。尿路感染だと思われる熱も下がってきた。嚥下反応はあるが呑み込めていないので、口からの栄養は危険。療養型の病院への転院先をさがすこと。

そのあと、デイルームでK島さんとお話しした。転院先が決まったら施設の車で、母の荷物ごと運んでくださるとのこと。ありがたい。

母がK園に入る2か月前に、府中の特養から入所のお声がかかって「現在700人待ちで、これを断ったら最後かもしれないですよ。」と言われ、私はすごく迷って苦しんだが、ケアマネのMさんや新宿の特養A園のTさんに相談して、K園(私と母の住まいに一番近い新宿区の特養)からお声がかかるまでもう少し待ってみる選択をしたことなどをK島さんに話した。

「そんなことがあったんですね。」とK島さんは聞いてくださった。

最後に母がK園ですごせたこと、K島さんをはじめ、ほかのスタッフの皆さんにお世話になれたことは幸せだ。今まで、たいへんなこともあったが、どこかに必ず親切にしてくれる人と出会えていた。

母がずっと何十年も必死に働いて、祖母が家事をやって一家を支えてくれたこと、祖母と母は信頼しあい支えあっていて、あんなにいいおばあちゃんを捨てることだけはできないと母が言って、(父がだらしない性格のせいで大きな借金を背負った時も)父と離婚しなかったことなども話した。

K島さんに(K島さんはお忙しいのにたいへん申し訳なかったのだが、)母のこと、父のこと、私の口から、ついことばが漏れ出てしまい、聞いていただいたら、それまでのやり場のない不安や暗い気持ちが、だんだん落ち着いてくるのがわかった。

今、この状況が私は悲しくてたまらないのだが、過去のことを考えると、理不尽なことに対して私なりには精一杯やってきたような気もして、これ以上どうしようもなかったのだ、過去には確かに母の幸せな瞬間も、充実した瞬間もあったのだ、という気持ちになり、少しだけ落ち着けた。

6月14日(水)

朝、遠藤さんから電話があった。「お母さん、どう?」と言ってくださった。私もずっと(西新宿での母の昔馴染みの)遠藤さんを恋しく思っていた。

遠藤さんも入院中の娘さんのお見舞いに行くので、帰宅してから夕方、私が遠藤さん宅に伺う約束をした。

・・

Y病院の母に会いに行くと、看護師さんから2回のソーシャルワーカー室に行くように言われた。その瞬間、なにを言われるのかわかった。(早く転院してほしいということだ)

療養型の病院を3つ提示された。

・・

4時過ぎに帰宅し、5時に自転車で遠藤さん宅に行った。

遠藤さん宅では誰も飲む人がいないというビールを冷蔵庫から出してくださった。

「本当にあなたのお母さんはよく働いたわよねえ。」と言ってくれた。

施設に持っていっていて食事介助しながらよく母に見せていたアルバムを遠藤さんにも見ていただいた。生まれたばかりの私と祖父、祖母、母と一緒に写っている黒塀の場所は、料亭藤本の系列のお店だと教えてくれた。

妹には母を見送ったあとはもう会わないほうがいいね、と言われた。こう言ってもらえるのはほっとする。「家族なんだから仲良くしなきゃ」と他人に言われるほど苦しいことはない。

6月12日(月)

家を出た時は曇り空だった。紫陽花は雨を恋しがって少ししなだれていた。

12時45分に母の病棟着。

看護師さんに、「もしできるなら今日から栄養(食事)って先生から伺ってたんですけど。どうでしょうか。」と尋ねると、今日から車椅子に乗せていただいたそうで、昼は食事を試みるそうだ。

ベッドに寝ている母を車椅子に乗せていただき、ナースステーションの中のテーブルでキャロットゼリーなるものを看護師さんからスプーンで口に入れていただいた。

まずはスプーンを口の中に入れて、頬の内側をスプーンの裏側で刺激。それからひと口。

目は薄く開いているようだが傾眠で、呑み込みが悪い。なんとか2口、3口、飲み込んだが、あんまり反応がない。

「とりあえず食事は止めて、お散歩されますか?」と言われて、母の車椅子を押して、談話室へ。

窓から新宿の高層ビルを見せる。「わかる?新宿のビルだよ。」と言うと「うん。」と返事。その時、目を射るような6月の光が街に射した。陽に輝く空とビルを見せて、母に話しかけていた。

母が私を生んだ頃から、ずっと見慣れた新宿の高層ビル街だ。自宅から新宿駅に出る時は、いつも中央公園の脇道と、住友ビル、三井ビルの横を通り、地下道を抜けて歩いた。

それから西病棟の端っこの窓まで連れて行って、「見える?」と6月の雲を見せる。やはり母は「うん。」と言う。

数分経ってから、今度は東病棟のどん詰まりまで、ゆっくり車椅子を押して、「わかる?電車が通ってるの。」と。

「うん。」と言ってくれることが幸せ。母の命がまだあることが幸せ。もう、それしかない。

叔父が亡くなっていたことのショックが、私の身体に沁みて、私の神経はそうとうおかしくなりつつある。

私は、元気すぎるくらい口くるさくていろいろ心配してくれる叔父を(離れているからこそ楽だと思いながらも)すごく信頼していて、、今まで意識できなかったけれど、精神的に、叔父の判断力を、すごく頼りにしていたのだな、と今更ながら、涙とともに自覚する。

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2017年6月11日 (日)

母の入院と叔父、叔母の死

6月10日

6日水曜の朝に母が施設から大きな病院に入院した。このところ熱が出ることが多かったが、いよいよ唾の嚥下が悪く、施設では夜間看護できる体制がなく、危険だからだ。

それから母の死のことを考えて、不安と緊張で首と肩と背中が固まって、ずっと胃と心臓が痛い。

ずっと母を心配してくれて、支えてくれた東京にいる叔父(母の弟)にだけはお知らせしようと、昨日の夜、電話をした。

別人のようにすごく疲れてかすれた声で、おばが出た。

「おじさん、もうお休みになっちゃいました?」と聞いたら、「あのねえ、あなたに言わなきゃならないと思ってたんだけど、・・・お父さんね、去年の4月に亡くなったのよ。」と言われて、まったく意味が理解できなかった。

「ええっ!?・・・なんで!?」と、ただ反射的に声が出た。

去年の2月の終わりに膵臓がんが見つかり、4月1日に亡くなったという。「痛くはなかったんだけど、あっというまで・・・」とおばは泣いていた。

おばには私の家の電話番号がわからなかったらしい。「はがきで知らせるべきだったんだけど・・・」と、それもできないほど、おばは心労で疲れていたらしかった。

母と叔父はずっと仲がよくて、叔父は私の父に苦しめられていた母を、ずっと心配して、よくしてくれていた。病的に金遣いが荒い(ギャンブル依存)の父と、堅実な叔父は正反対の性格だった。

母と似て神経が細く、男には珍しいくらいの心配症で、いろんなことが気になる性格の叔父だった。とにかく生真面目で一生懸命な人だった。

私によく「くれぐれも姉の介護を頼んだよ。知佐子なら安心だ。」と言ってくれていた叔父だ。

父の直葬の時も、叔父は母を苦しめた父を許せないから、と火葬場にには来ず、父への香典ではなく母の介護金として私にお金を送ってくれた。

私は叔父が元気でいてくれること、叔父だけはなにがあっても母のことを思っていてくれて、昔の母のこともよく覚えていてくれることがありがたかった。それがずっと母を介護する私の心の支えになっていた。

叔父は、母と私にとって、長年にわたる父からの虐待、借金地獄との壮絶な闘いをわかっていてくれている、この世でただ一人の、信頼できる肉親だったのだ。

たったひとりの頼れる叔父が、もうこの世にいないことが信じがたかった。

ものすごい喪失感と不安で目の前が真っ暗になり、吐き気がした。

おばも「私がもっと早くに気づいてあげていたら。もっとよくしてあげていたら、と思うと苦しくて・・・。」と泣いていた。叔父とおばは、お互いに神経が細くて余計なことを考えてしまうタイプで、よくぶつかって不機嫌になったりしていたのだという。もっと一緒に楽しくすごせばよかった、とおばは悔いていた。

私は必死で動揺を抑え、一生懸命おばを慰めた。

小学生の頃の叔父宅の思い出、自宅付近に咲いていた花、叔父やおばがその頃好きで聴いていたレコードのことなどを話すと、おばは「知佐子ちゃんは本当に記憶力がいいわね。なぐさめてくれてありがとう。」と言っていた。

電話を切ったあと、ものすごいさびしさと苦しさで胸のざわざわが酷かった。胸骨のあたりと胃が激しく痛んだ。

あんなに元気で頭がしっかりしていて、心配性で口うるさかった叔父が母より先に、あっけなく死んでいたことがすごくショックだった。自分がとり乱しておかしくなりそうなのを、ぐっとこらえていた。

そして今日、昼におばから電話があった。

田舎の叔母(母の妹で、叔父の姉)が、今日、亡くなったという。しかも叔父と同じ膵臓がんだったという。

無常ということ。

おばも、叔母から叔父の田舎時代の思い出など、まだ聞けると思っていたのに、それが完全になくなったことがすごい喪失感でたまらないと言っていた。

おばも、今さらながら、叔父がなにを考えていたのか、なにに必死になっていたのか、もっと聞いておけばよかった、話しておけばよかったと悔やんでいるのだ。

誰かがどんなに苦しんで精いっぱい生きてきたのか、それを知っていてくれる人も、また死んでしまう。

もう亡くなってしまった人に対して、もっとああすればよかったのに、と後悔で自分を責めることの際限ない苦しみに陥ることが、私はすごく恐ろしかった。そこにはまり込まないように、どうにか必死で耐えた。

・・・

夕方4時、予定通り、以前に母のケアマネさんだったMさんと新宿で待ち合わせ。

久しぶりに会うMさんはたいへん忙しいお仕事のせいか、少しやせたように見えた。父が死ぬ前に新宿の病院でお会いして以来だ。

Mさんも年月の感覚がないと言っていたが、私も父の病院でMさんと会った時の6月の光と、植物は覚えていても、それが何年前のことだか思い出せない(たぶん3年前だが、もっと昔のような気もする)。

目的の飲み屋に行く道すがら、母が入院したこと、叔父、叔母の死について話した。

Mさんと話すことで、私はしばし落ち着いていることができた。とてもありがたかった。

そういう苦しみがあるということを、ただ知っていてくれる人がいる、信じられる人が知っていてくれる、と思うことは、耐えていくための大きな支えになるものだ。

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2017年6月 4日 (日)

苦しい夢 / 次の本の構成

最近、朝、動悸のせいで連続して苦しい夢を見たが、夕方には正常に戻る。集中力はまあまあ。次の本の構成(特に絵の順番)を完璧にやり遂げたいことだけがプレッシャーだ。折り(16ページ)に順番を合せるのがひどく難しい。

他人にはほとんど理解されないようなところで張りつめて、綱渡りで生きているが、優しい人にも会えている。

6月3日(土)

やはり朝、悪夢を見た。

海で大きな珍しい貝殻をたくさん拾っている(これもよく見る夢)。巻貝や二枚貝の形状や色鮮やかな柄が、細部まですごく鮮明に見えて、私は夢中で水際で採集している。

にわかに空がほとんど漆黒と言っていいほど真っ暗になって、大雨が来る。慌てて屋根のあるところに走り、貝を砂浜において来てしまって、残念で切ない。

そのあと、怒って怒鳴りながら私を追いかけてくる女性から逃げて電車に乗ろうとするが、操車場のような工事現場に迷い込み、巨大なクレーンや鉄材や、掘り起こされて何もない不気味な泥の中を必死で逃げる。危険な機材の間を縫って全速力で走るのがすごく怖くて苦しい。

急に2本の電車が前と後ろから同時に轟音をたてて迫ってくる。その電車に轢かれないように、電車が交差する瞬間に、間一髪のように、なんとか必死で身をよけて、走って逃げる。

先のほうに江ノ電のような小さな駅が見え、電車に飛び乗る。追ってきた人は電車に乗れていなかったらいいのにと願うが、はたして彼女は乗ってきている。

中は寝台車で,、通路の両側に扉があり上下に寝台がある(アガサ・クリスティの映像の記憶)。なんとか空いている寝台を見つけて隠れ、ドアを閉めて息をひそめているのに、壁とドアの隙間が経年劣化して少しあいていたために、(なぜか天井に近い高い位置から覗かれて)見つかってしまう。

また私は必死で走り出してトイレの窓から外へ逃げるが、まだ追ってくる。どこまで走っても追ってくる。あまりに逃走が長い。苦しすぎて息が切れて心臓がばくばくする。

さらにその女性が二人の仲間のような人と私を追いつめてくる。なんでもその女性は詐欺で大金を手にして、分け前をその二人の女性にあげたようだ。二人の女性は完全な手下になっている。

その詐欺の責任を負って謝れ、というようなことを言われ、私は「謝る気はない。私とは関係ない。」とその女性に言うのだが、これからいったいどうなってしまうのか怖くてたまらない。という夢。

・・・

5時に母に会いに行く。

そのあと、外は北風が強く、寒いくらいだった。

東中野の高台から早稲田通りのほうまで歩き、落合から中野へ。夕陽が灰色の雲を照らして、劇的な色の対比をつくっていた。

東中野から中野は、奇妙な(やる気がないような)リサイクル屋さんが多い。

紫陽花の色が濃くなってきていた。ホタルブクロ(カンパニューラ・プンクタータ)の釣鐘の中をのぞいて斑点を確認した。タチアオイのガラス質の紅、赤紫。くすんだピンクの小さな蔓薔薇。

早稲田通りで古い蔵がお店になっている不思議な酒屋さんを発見。ベルギーのハチミツ入りビールやストロベリーチョコレートのビールなど、珍しいお酒を売っていた。タモリ倶楽部でも訪問されたらしく、記事が貼ってあった。

6月2日(金)

やはり朝方、苦しい夢を見た。

懐かしい幼なじみのユキちゃんの家に、何人かの仲間(?)と訪問に来ているらしい。会食のための買い物で、チーズとサラダの材料などを吟味しながら買いそろえている。いつのまにかここは、ある教授がつくった、ブリュージュにある日本人村、と店の人に言われる(ブリュージュには行ったことがないのでなぜ出てくるのかわからない)。

そのあと、みんなが先に帰ってしまい、私は何十年も行っていないユキちゃんの家に戻ることができない。まったく知らない土地で道に迷い、どうしたらいいのかわからなくてすごく不安になる。

いろんな人に道をたずね、なんとか近くまで行くのだが、どうしてもその家にたどり着くことができない。細い路地の奥の、白い玄関の家だとわかっていても、まるで化野のようにそこにたどり着けない。という夢。

・・・

以前、母のケアマネをしてくださっていてたいへんお世話になったMさんからデートのお誘い。お茶に誘っていただいたが、私はお酒を希望した。

・・・

整骨院に行ったら、またチーフが担当してくれた。

「私の担当、私が言ったせいで、ずっとOさんになったの?なんか気まずくて胸がざわざわして、来づらいんだけど・・・」と言ったら、最初「偶然です。」と彼は言ったが、

「嘘。だって私が来たときにカーテンから出てきたでしょ。私の時間に合わせてたんでしょ。私、そういうのすぐに気づくのよ。」と言ったら、「体調を崩したのが心配だったんで、この一週間は僕がやるって言ったんです。」と言われた。

「上からそう言われたの?それとも皆がそうしてほしいって言ったの?」と言ったら

「上からも皆からもなにも言われてません。僕がそうするって言ったんです。」と言われたので、少しほっとした。

・・・

新しい本の図版の順番のページ合わせを、深夜2時過ぎまで考えていた。

なにがたいへんかというと、時系列で並ぶ絵の一連の塊と、本の16ページ(あるいは8ページ)単位の「折り」を合わせるのが難しいのだ。

カラーページをどこにはさむかを、折りに合わせ、しかも時系列の流れに合わせることがほぼ不可能なのだ。

頭と感覚を最大限使おうとして疲れる。

6月1日(木)

朝方、苦しい悪夢を見た。朝だけは動悸が強くなるからだろう。

美大生たちの前でかばんを落として、中の絵の具や筆など、もろもろの道具や描きかけの絵を道いっぱいにばらまいてしまう。そういうものひとつひとつを他人に見られるのが酷く恥ずかしくて屈辱的な感じがする。なかなか収集がつかなくて、ひとりでいつまでもあたふたと拾っている。

そのあと、大きな建物の中に閉じ込められて、外に出ようと扉を開けると、そこは横幅1.5m、奥行き60cmくらい(灯りがなく)暗く狭く四角い場所で、すぐ目の前にまた扉がある酷く逼塞した空間。

扉はノブつきの金属のドアだったり、観音開きだったり、横開きだったり、それぞれ形状は違うが、扉を開けてもそこにはまた扉、という状態は繰り返される。やっと扉を開けて出た場所は、また扉を開けて次の空間に出られるほどのスペースしかない。

私は何度でも扉を開ける。扉が重くて、肩が痛くて、狭くて暗くて何もない空間の圧迫感と、永遠に続く恐怖に、もう耐えられないと思うのだが、必死で扉を開けて前に進み続けるしかない。という夢。

この手の、どんなに努力しても建物から外に出られない夢は、精神的に苦しい時によく見る。

・・・

肩と背中の緊張が酷かったので、午後2時すぎにほぐし系のマッサージ屋さんに行った。

店長のOさんにいつもお願いしているのだが、Oさんは6月は土日しか来られないそうで、Oさんにメールで土日のどちらかの3時か4時くらいからもしできれば予約を、とお願いした。

2時過ぎに担当していただいたのはMさん(女性)。彼女は田舎の自然の中で、浪曲師のお父さんと三味線師のお母さんに自由に育てられたので、緊張やストレスがないそうだ。Mさんはすごくおっとりしている。うらやましい限り。

マッサージが終わってから、Oさんの予約を確認していただいたら。土日とももう3時半の分がうまっていて、Mさんに「土日は混むんですよ~」と言われた。

それでは4時半から、と予約して帰宅したが、名前が記入してなかったけど、土日の3時半から埋まってたのは、もしかしたら私の?と思い、Oさんにメールしたらやはり私のために押さえていてくださったのだった。

Oさん、Mさん、私の身体をたすけてくれている人たちに感謝。

Mさんの息子さんはふたりとも音楽をやっている。帰宅してyoutubeを見たら、けっこう知られたバンドのようだ。

・・・

今日から6月だ。もう春ではなく、初夏だ。

カルメン・マキ&OZの「六月の詩」を聴きつつ、『スプリット―存在をめぐるまなざし 歌手と武術化と精神科医の出会い)を読む。カルメン・マキと甲野善紀と名越康文の、今から20年位前の鼎談の本だ。

1974年くらいのOZの時のカルメン・マキが美しすぎて、かっこよすぎて、彼女の生い立ちや、どんなことを話すのか知りたかったのでこの本を図書館で借りた。

内容は難しくなくて一気に読める。ちょっと「存在」とか「リアリティ」とかの言葉の解釈がゆるすぎて、「え?こんなおしゃべりで本になるの?」と思った。今よりも出版界がゆるかった時代なのかもしれない。私にとってはマキだけのインタビューのほうがよかった。

・・・

夕方5時半。白い綿シャツとセルリアンブルーのベロアのパンツに、素足にサンダルを引っかけて外を歩いたら、風が涼やかでとても気持ちがよかった。青い空気の中を歩いていた。

スーパーに血圧計があったので計ってみたら上113、下63、脈拍78だった。私は落ち着いているな、だいじょうぶだな、と思った。

5月31日(水)

やはり朝、苦しい夢を見た。

昔、同僚だったYさんに明日から1か月間、海外旅行に行くと言われ、「仕事、たったひとりでいったいどうしたらいいの?」とすごく不安になるが、そんなことはひとことも言えない夢。

Yさんは旅行の準備で楽しそうにはしゃいでいる。なぜか大きなぬいぐるみまで持って行くのだと言う。私はそれを見ながら心細さとさびしさでいっぱいになっていた。という夢。

・・・

手続きをしてあったのに、手違いで荷物が別のところに届いた件で、きのう電話した城南信用金庫さんの副支店長Tさんから、昼1時に電話をいただいた。

丁重過ぎて、すみません、とこちらが謝りたくなるような知的で親切な大人の対応。3日前に私が電話した時に出た若い職員の対応が間違っていた、と簡潔に2つの要点を言明して謝罪された。

「原発反対してらっしゃるので、応援させていただいてます。これからもがんばってください。」と言うと「わたくしTと申します。いらした時はどうぞお声をかけて顔を見てやってください。」と言われた。

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頸と肩の緊張が酷いのでSクリニックで神経ブロック注射を受ける。頸の前の筋肉ががちがちなので、針が刺さる時にびりびりっと痺れて痛い。

「ちょっと緊張する事件があって、・・・過緊張は酷いんですけど、・・・私の本、また、ちょこっとだけ売れたんですよ。」と院長先生に言ったら、

「すごいじゃん!すごいじゃん!その、本が売れることと酷く緊張することは、まったく同じことなのよ!ここまで緊張して根詰める性格だからこそできるのよ!。楽にいい大学はいって、楽に仕事してうまくやろうなんて考えてるやつはろくなことになんないんだから。」と言われた。

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