悩み 苦しんでいること

2019年2月 4日 (月)

私をナルシスティックな欲望の道具にする人

2月3日

私に共感してくださるかたは、どうか私の絵を見てください。お願いいたします。

私がずっとどんな仕事(絵、文章など)をしてきたか、知っていてくださるかたがいるということが、私を支えてくれます。

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/japanese-style-paintings-1-膠絵/

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/pencil-drawing-watercolor-painting-1-tulip-anemone/

私は緘黙気質で、自分を強く前面に押し出していける性質ではありません。過敏で緊張が強く、考えすぎ、躊躇、逡巡して悩む性格です。

私の絵や文章は、私の生きづらさから生まれているものだと思っています。

ほとんど孤絶して、苦しみながら生み出されいる絵だからこそ標的にされ、このように「知る人ぞ知る画家」と書かれて道具にされたと思うと、苦しくてたまりません。

「私のものを自分のものと思い込む人」では誤解を生むので、「私をナルシスティックな欲望の道具にする人」と言ったほうが、より正確かもしれません。

もちろん「私のもの」と書いたのは単に枯れ花を描くことではないです。

彼は最後のメールで「福山さんの枯れ花への独占欲のようなものが理解できない。怒りを感じる。」と書いて来ました。

これについては、私が意見を聞いた複数の第三者の誰もが、この世にたくさんある枯れた花を描いた絵の中で、彼の絵だけが著しく、私の描いた絵に似ている、と言ってくれました。

他人との差別化には必死になりながら、私の絵に「似すぎていると自覚している」絵を発表、販売して、自分が私に与えている苦しみは理解しない、という彼の思考の構造が、私には理解できかねます。

「収奪」とは、自分の欲望を満たすことが他者を苦しめることに直結している、それでも平気で自分優先でやる、という意味です。

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今、トラウマが蘇り、苦しんでいる(2010年~16年に苦しめられた)パクリストーカーNも、私を彼のナルシスティックな欲望の道具にしていたという意味では同じです。

Nにも会ったことはありません。2010年に彼から熱烈な長いメールをもらいました。

「画家として、人間として純粋に生きようとされている福山知佐子氏の強さと繊細さ」

「物事に鋭くて、異次元のような、知的な世界をお持ちの方」

「是非ともお会いしたいです!画家として、人間として、真の芸術家の空気に触れてみたいと思います」

「先生の花は狂おしくて、病的な筆致、緻密で繊細、妖しくも格調高く、優雅なエロティシズムに満ちています。なにより、植物への愛情、その純度の高さにただ敬服します。」

「福山さんの誰よりも純粋で、(多分、誰しもが理解、共有しえない)研ぎ澄まされた少女が持つような刃は、稀有だと思います」

けれどNは一度も、メールに書いてきたような言葉を、N自身のブログに私の名前とともに書いて、公にしたことはありません。彼のブログの読者には、私に惹かれていることを隠していました。

そのうちNは、私の書いた単語、言い回し、言葉の癖、好きな画家や愛読する作家、親密にさせていただいている芸術家の名前、好きな植物やものの名前までなにからなにまで真似てブログを書くようになりました。

彼に意味が理解できないだろう言葉や、読めるはずもないだろう作家の名前が目につくや、すぐに跳びついて写していました。

彼はあるがままのNとは似ても似つかない人に、ブログでなりすましているかのようでした。

言葉では語りがたいものをなんとか言葉にしようと、私が苦しんだ残余としての断片や言い回しが、何も考えていない彼に有頂天になる道具にされること、

私が自分に戒めている「自分が実感としてわからないことを、わかったように書かない」という自制の上での言葉が、

逆に、Nが知ったかぶりをして陶酔するために利用されていることが、気持ち悪くてたまりませんでした。

「現在を生き、常に事物(もの)の本質に迫り、また事物の深淵へと眼差しを向ける一人の画家のヴィジョンは、(いつまでも)私のヴィジョンにさえ、波紋のように静かな影響を与え、新たな風景を垣間見せてくれる契機となっていた。」

と、Nが私の名前をふせて書いているのを見て、私はぞっとしてしまいました。(実際の私は一度も本質主義など語ったことがないので、余計に気持ち悪いです。)

彼に、私の書く単語、固有名の後追いや、言い回し、言葉の癖などを真似するのをやめてください、と告げても、Nは私に言われている意味が理解できませんでした。

彼はすべて「無意識」で、ほぼ条件反射のように、夢中で真似ていたらしいのです。

いつのまにかNは、私よりはるかに偉い態度をとるようになっていました。

私は、話がまったく通じない相手にストーカーされている恐怖で心身ともに病みそうになりました。

Nは、自分が私のものを見て真似ている、という事実を認識できていなかった、と2016年に認めました(私への横柄で傲岸な態度は崩しませんでしたが)。

強く惹かれている相手のものをそっくり真似する人は、現実よりも、他人や自分に言い張っている嘘のほうを信じる、と私はNの経験から思いました。

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2019年1月30日 (水)

激しい怒りの長い長いメールをもらった

1月30日

(私はPCしか持っていないのですが、スマホではサイドバーが見えないそうなので、今年から)署名として自分の絵のホームページを載せることにします。

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/pencil-drawing-watercolor-painting-1-tulip-anemone/

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/

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前回のブログに書いた事実について、若い学生画家は私に激怒し、

「返信しないつもりでしたがやっぱりこれを最後にします」という一方的に上から目線の、私に対する激しい怒りを、えんえんとぶつけてくる長い長いメールをよこした。

彼の自己正当化だけを書きまくって、これで終わり!「何を話し合うのか、会う目的がわからない」と言う。

美人画をやっていた彼が、急に私にそっくりな絵を描いているのに気づいて吐き気がするほどショックを受けた私の苦しみには、彼は一切興味がないそうだ。

私の苦しみには興味ないが、私の苦しみから生まれている絵の表面には、ついつい似すぎた絵を描いていまうほど利用しやすい道具として興味があるのか。

「福山さんの考えかたが好きでそれこそ『深層部に至るほど』の衝撃を受けました」と、彼はまた書いて来ているが、

私は、つきあいのある画家に対して相手が不快に思うレヴェルまで似ている絵は発表も販売もしない。

そんな失礼で、恥知らずなことはできない。それが私の「考えかた」であり、私の神経だ。

私は好きな作家に関しては、その人の名前と、作品のどんなところが好きかを、なるべく自分の言葉でブログ(公)に書くようにしている。

言葉に書くのが難しくても、その人の名を出して書くことが、その作品と作家が生き延びるチャンスであると思うからだ。

「他者」とは語り得ないものだが、それでもなお、相手の作家の名を出して、語り尽くせないものに対して言葉を尽くそうと努力することが、「他者」からの「贈り物」に対する「礼」ではないかと私は思う。

彼は私の絵も「考え方」も好きだといいながら、私の気持ち、作品の命を尊重する気はまったくないと言う。そういう感覚が私にはまったく理解できない。

SNSに対して無知でよくわからなかったから私の名前をふせたと彼は言うが、今までいくらでも私にメールで話しかけて相談してくれるチャンスはあったが、彼はやらなかった。

彼はどこまでも「無意識に」利己的で、狡くて、自己正当化しか考えていない。

彼は私とは全く逆の考えかた、感じ方をする人間だ。彼は私だったらとても恥ずかしくて言えない言葉を平気で吐き、私が激しく痛みを感じるところでなんにも感じない。

「枯れ花を描き始めた時点に関しては福山さんの影響ではない」、

「僕は福山さんの絵が好きでしたが、僕の絵とは関係のないことです」、

「悩んでいるといったのは福山さんを心配してではなく今の自分の絵が福山さんの絵に似た雰囲気を醸し出していることについてです。そもそもそういう意味で書いたつもりです」

「福山さんの考えかたが好きでそれこそ『深層部に至るほど』の衝撃を受けましたがそれに己を重ねるつもりはなくその画家としての姿勢を学ぶ気はありません」

「真似と言われる筋合いもありません。これが収奪だとも思えません。」

「ナルシズムへの転換も何もそんなものはありません」

「あれは絵が良かったというよりは「藝大」という学校名とその値段の手軽さで売れたのです」

「無意識に似たとはいえ苦労してつくったものに違和感や恥を感じる意味がわかりません」

「そもそも人物を描くことに自分の何か重要な要素を感じることもありませんし、合わなかったからまた植物に戻っただけのことです」

「福山さんは途中からの要素でありそもそもの『枯れ花を描く』を作ったのは自分です」

「枯れ花は」「僕が一浪の時」、「もう2年以上前のこと」「受験対策用に家でこそこそやっていました。」「ですから枯れ花を描くのをやめる気はありません。」

「時間を掛けて自力で道を切り開いてきました。その程度の努力はできる人間であるつもりです。」

はあ?道理もつじつまも、私にはよく理解できないのですが。

二十歳そこそこで、こんな姑息なやりかたをしながら「人の心に何か少しでも揺さぶりをかけることができたらと思って絵をかいています」と言われても・・・。

確かに私が嫌悪感で激しく動揺するほど、あなたは人の心に揺さぶりをかけることに成功していますよ、としか言えない。

この件について、第3者に判断を委ねるつもりだ。

・・・

この400字詰め原稿用紙何十枚もある長い長い「絶対に自分は悪くない」という激昂メールも、まるで、以前はりつかれたN・Sというパクリストーカーのデジャブだ。

もちろん、今回と前回はあらゆる点が異なるが、しかし「福山さんに言われる筋合いはない」というようなセリフまでそっくり同じだ。

まったく共感能力がない異常性を感じる。

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2019年1月29日 (火)

「影響」と「真似」の違い、わたしのものを自分のもののように思い込む人

1月28日

(スマホではサイドバーが見えないそうなので、今年から)署名として自分の絵のホームページを載せることにします。

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/pencil-drawing-watercolor-painting-1-tulip-anemone/

https://chisako-fukuyama.jimdo.com/

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新年から酷く苦しんでいる。

最近になって急に、私の名をふせて私の枯れ花の絵に「近すぎている絵」を描いている二十歳くらいの若い画家のことだ。

私は、自分のブログに「ナルシズムのための他者からの収奪ほど、私が嫌悪するものはない」と繰り返し書いてきたつもりだ.。

なのにどうして、私のブログや絵をずっと見ていて、私に共感して「いいね」やリツイートをしてくれている人から、私がもっとも傷つく「収奪」をされなければならないのだろう。

彼は昨年4月の私の絵の展示にも、私が在廊していない時に来て、長いこと見ていたという。

どうして、(数少ない)私の味方かと信じて気を許していた人に、平気で私のもっとも大切なものを侵害されるのだろう。

私に「深く影響を受けた」なら、私の書いている言葉の意が理解できるなら、私から「収奪」だけは絶対やらないはずなのだが。

・・・

2、3年前の彼が浪人中から、お互いフォローしていた。自分と同じ日本画科を目指して頑張っている人と思い、また彼が私と同じに父親のことで苦しんでいるツイートを知って、心情的にとても応援していた。

彼は私の記事を何度も「いいね」やリツイートしている。私もたくさん「いいね」している。

しかし彼がやっていたのは「鍵付き」のツイッターだ。

彼が東京芸大日本画科に入学したと知った時には「おめでとうございます」とDMを送った。その時にメールで話した。

つい最近、とても久しぶりにツイッターにログインし、彼の「鍵つき」ツイッターの中身をふと見たら、

私の枯れ花の絵によく似た(友人、知人に見てもらっても「ちょっと似すぎている」と言われた)彼の絵(私はぎょっとした)と、

「以前は美人画を描くと言ってたのに、今植物ばかり描いている。

あるときふと見かけた存在(画家)に心の深層部に至るほど深く影響を受けて」(1月15日)

という彼の言葉を見つけた。

彼とは昨年5月にメールで会話したきりだ。その時、彼は美人画(人物画)をがんばっていたはずだ。

最後は私から出したメールに、彼が返信をくれなかったのでメールはとだえていた。

今の彼が私に「似すぎている」枯れ花の絵を描いていることに驚きすぎて、さんざん悩んだ末、私は彼に質問のメールを出した。

そのメールの返事で彼は、その「心の深層部に至るほど深く影響を受け」た「画家」とは私のことだと認めた。

彼は、彼の描いた枯れた花の絵を「完全に自分が1から創り出したものとは思えない」とまで言ってきた。

絵の「表面」だけをそっくりに類似させることは「影響」ではなく、もっとも安易な「真似」だ。

たとえば私が「師、毛利武彦の影響を受けた」と言う場合、それは師の生き方の姿勢を、不可能に決まっているが、少しでも真似ていきたいという意思のことであり、毛利先生自身が喜んでくださるような実践だけだ。

私本人がもっとも嫌がることをやりながら「深く影響を受け」などと、私の名前をふせて書かれていることは、気持ち悪い以外のなにものでもない。

いくらモダニズムの批評では「作品」と「作家」は別のものとして考えられる、と言っても、私にとって、私の表現は私の血と肉そのものだ。

「誓って盗作しようとしたわけでは無い」と言うが、描いている途中で、私の作風にあまりに似ていると本人が「自覚している」と言いながら発表、販売しているのはどういうことなのだろう。

私の絵を以前から知っていて、関心を持って見ていて、私の絵の展示も見に来ている以上、結果として著しく類似していることに「偶然の類似」は通らない。「意識」も「無意識」も同義だ。

「パクリをする気ではない証拠」に、彼は周囲の人に私のことを話している、と平気で言うのだが、公(鍵のかかっていないSNSなど)に、私自身が見られるかたちで、私の名前と彼の言葉を書いていないかぎり、私にとっては何の証拠にもならないことだ。

そして彼の作品を見る人、買う人に、いちいち私の名前を出していたわけがあるはずもなく、買った人にとって、彼の絵が私のような無名画家に類似していようがいまいが、興味のないことなのだ。

そこにあるのは「私の絵によく類似した表面」という事実だけだが、その絵は、まるで私の私秘的な苦しみの体験を「悶絶するそぶり」だけで真似られているような、私にとってはぎょっとするものだった。

ずっと「美人画」をやりたくて素朴な人物画を描いていた二十歳そこそこの男子学生の絵には、とても見えない。 その絵は 急に別人のように見える。

私が描いたものだと言っても、私の絵を知っている人に、おそらく通るだろう。

なんともやりきれない。

彼は自分の個性が確立できないことを「悩んでいる」だけで、作家としての私を自分がどれほど傷つけているかわかって、そのことを「悩んでいる」のではない。

私のメールへの返信も「連絡しにくい」からしなかったと言う。それなのに私の絵とそっくりな絵を描いて発表することは「しやすかった」から夢中でやったのか。

「福山さんの絵に似すぎていることをはっきり自覚しており」「いわゆる「パクリ」で絵を描いていくつもりは無い」と彼は言っているが、その絵が売れて、とても喜んでいる。

その事実に私は強い「違和感」を覚える。

本来の自分が描いてきた人物画ではなく、私の「絵に似すぎ」の絵が売れたことに、微塵の「違和感」も恥も感じずに有頂天になるのなら、私の苦しみから生まれ出ているものにそっくりのものが、もう既に自分独自のものと区別がつかなくなっているということではないのか。

「人物を描く中で徐々に違和感を感じ」、「他の方向性を求め、植物を描き始めた」と言うが、彼の言う「違和感」は、本当の批判精神や内省から出ていることばではなく、自分が高く評価されない時に感じる不全感ではないのだろうか。

人の絵に「似すぎていると自覚している絵」でも、他人に高く評価されてしまえば、これこそが自分の生きる道、だと有頂天になってしまうのかもしれない。

彼のやっていることすべてが、ほとんど無意識に、気持ちよくなる方向にずるずる流れていて、自分に都合よく歪んでいる。

認識したくないことを認識しない、楽しいことだけしたい、相手の苦しみは想像しない。

どうして本人から何も言ってきてくれないのだろう、とさんざん悩んでこちらからメールしたのだが、彼は、私がそっくりな絵を描かれることを、酷く嫌がっているということをわかりたくないようだ。

そんなことがわからない彼が、私から「深い影響を受けた」と言い、「弱さ」を主題にしようとしていることは、転倒以外の何ものでもないのではないか。

その「弱さ」は決して「傷つきやすさ」「過敏さ」ではなくて、「鈍さ」「狡さ」ではないのか。

自分の「弱さ」と「不安」に向き合わないで、私のエピゴーネンをやることが作家としての自立を模索する道なのでしょうか?

私が長年、困難に耐えながらやってきたものの真似で、偽りの自己実現をすれば、不安も緊張もなく、自分がすごい個性を持っているような気になり、気分が高揚することでしょう。

こんなことをやるために、苦労して親や教師の反対を押し切ってまで東京芸大に入ったのですか?

芸大に入学したばかりで、二十歳そこそこで、なんでも自由に試せる時期に、もうこんな姑息なことをするのか。

芸大には真似すべき人がたくさんいるでしょうに。私を標的にするなんてやめてほしい。

・・・

私が安易に収奪、侵害の標的にされるのは、私が無名だからだろう。

彼は「“知る人ぞ知る”イメージ。自分の求める緻密さがそこにあっったから。」と私の名前をふせて書いている。ぞっとする。

私がほとんど誰からも知られない「知る人ぞ知る」作家だから、安心して私の絵を自分の特別な秘密のように感じ、私に同一化したように似すぎた絵を描いてしまう。

そして自分が周囲の人とは異なる強烈な世界を持っているように思い込んで、気持ちよくなるのだと思う。

私の苦しみや困難から生まれているものが、相手のナルシズムに転化されるのが気持ち悪くてたまらない。

セクハラの構造と、ものすごくよく似ている。「惹かれる」「興味がある」と言って蹂躙するのは痴漢や強姦と同じだ。

私の絵を「好き」で、作家として認めてくれるならば、余計に相手に触れないように、気をつけて距離を保つべきなのに。

私はMeTooの酷く辛いセクハラ経験が山ほどある。けれど作品に関する蹂躙は、私にとってセクシャルハラスメントよりもずっとずっと辛い。

・・・

自分の実情に「違和感を感じ」、それから「福山さんに深い影響を受け」、この二つ言葉が出てきたらもう、デジャブで、背筋が怖気だつ。

「無意識に」「悪気はない」と言いながら「私の名前をふせて」自分のもののように発表され、勝手に同一化されて侵害された体験、そのトラウマがよみがえり、不安と嫌悪感で心臓がばくばく言い出す。

かつて私はN・Sという年下男性のパクリストーカーに数年はりつかれてなにもかもうっとりとパクられ、まとわりつかれるような嫌悪感で、心身ともに滅茶苦茶になりそうなくらいに悩まされたことがある。

また同じ悪夢のような被害が繰り返されている。

私の絵やブログに惹かれながら、私の名前を、決して自分の記事に書かないことが同じ。

元の作家(私)に対して、真似した「彼」のほうが偉そうに激怒してきているのも同じだ。

以前の時は文章そのほかのパクリ(N・Sには基本的な画力がなかったから、私の絵をそっくり真似ても似ていないものになっていた)、

しかし今回は、私の命の「絵」が真似されているのだ。

私の苦痛とやりきれなさは前回の比ではない。

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2018年1月25日 (木)

鵜飼哲 最終ゼミ 『原理主義とは何か』以後 於一橋大学佐野書院

1月20日(土)

Fと国立で待ち合わせ、鵜飼哲さんの最終ゼミを聞きに、一橋大学佐野書院へ。

会場の佐野書院へと急ぐ道すがら、「(私は)昨年の母とちゃびの死からずっと心が疲弊して頭の回転が悪い状態なのに、3時間も集中して難しい話を聞くことができるのかすごく心配。久しぶりに脳を酷使して、エネルギーを消耗しすぎて、途中でこと切れてこっくりこっくり寝たりしたらどうしよう」とFに尋ねる。

Fは「僕もそこまで長い間、集中力が続くわけではない」と、「あなたの頭はあなたが思っているほどには回転が悪いとは思えない」と言う。

「10月に母が死んで、そのあと11月にちゃびが死んでから、緊張とショックが大きすぎてほんとにずっと頭が回らなくて。いろんなものを失くしたりしてる。認知症になるんじゃないかと思って不安で。」と言ったら、

「20年前に出会ってからずっと、あなたが緊張して思いつめていなかったことはない」と言われた。

・・・

『原理主義とは何か』(1996年、河出書房新社)から20年余りの世界の変容を語る、というテーマ(ちなみに私はその本を読んでない)。

会場は満杯で、前のほうの席しか空いていなかったので前から2番目に座る(集中せざるを得ない、うつらうつらはできない、プレッシャーを感じる状況)。

前半の1時間半を終えてからは、混んでいるのでもっと前に詰めてください、と言われて最前列のほぼ真ん中の席になった。

〈まとまりがないが、私個人のためのメモの抜粋〉(誰の発言だったか、メモが追いつかず、最後の方、特に不確かで、発言主を間違えて書いているところもあると思います。)

1995~1996年以降の世界・・・グローバリゼーション化によって抑圧された復讐が始まった年。

日本では歴史修正主義、日本会議の始まり、沖縄少女暴行などがあった。

西谷修さんの発言:

「西洋的なもの」も概念的でしかない。発案、作用、ディスコース、研究。

港千尋さんのやっていることは論理化、整理することだけではないリプレゼンテーション、そこに介入する、美術の市場に介入する、ここにこういう表現がある、というエクスポジションの場に晒していく、場のディレクターであり、マネージメントできない表出、提示。

描くこと、ラスコー、文字文化以前の世界との関係にかたちを与える、「明かしえぬ共同体」、なにを共有しているのか言うこともできない。

私は言語評論界の松本ヒロのようなもの。(お笑い芸人の名らしい)

鵜飼さんはデリダに波長があったのだと思うが、私が波長が合うのはデリダがバタイユを扱うあたりまで。そこからはレヴィナスでいい。

『構造と力』はチャート式に整理している、ポスト構造主義。思想のモードとしては実存主義対構造主義。

バタイユの「禁止と違反」に直結している。

哲学は普遍性を目指すが、ピエール・ルジャンドルは目指さない。言葉を使う生きものしか扱わない。

言語を使う生きものは、それがうまくいかない(言語という、あるオーダーが破綻してしまう)と狂気にしかならない。法のアルケー、コードの塊、ノーム、ノルマ。

理性とは、「Why」という問いに応えること。

我々の知恵は途上の知恵であり、内部観測でしかない。宇宙船から宇宙を見ているのであって、宇宙から宇宙船を見ているのではない。

アガンベンはラテン語2000年の歴史を肥やしにして生えてきた草。

我々が限定されていることの自覚、「終わりなき目的なき手段」であり、終わりは我々には不可能、今、ここで探索しているのであり、永遠に途上であること。

フランスにとっての他者はアラブ、イスラム世界。

ヨーロッパの知性、中心性。(フランス人一般は自分たちはヨーロッパの知性、中心だと当たり前に思っている。)

港さんの発言:

1992年にストラスブールで世界作家会議があった。

旧ユーゴの内戦やアルジェリアの内戦に知識人たちが反応した。

1995年は不気味なものが世の中に顕われてきた年。どの地名をとっても、地名を通して対話が可能となった。

世界遺産への批判。グローバルな土地の占有と結びついている。

ジオとは与えられた大地としての所与のものであって、そこに宗教、文明が生まれたのだが、今はジオそのものが人間と同等以上の力を持ち、ヒストリーやポリティクスに介入し始めている。

鵜飼哲さんの発言:

9.11事件の後、パレスチナ人に会って話を聞きたいと思った。2014年の事件の後、アルジェリア人に会って話を聞きたいと思った。

暗黒の10年に何があったのか、アルジェリアの内戦について、フランスの教養のある人でも記憶にない。アナロジーの作りようがない。隔絶。

アルジェの戦いの時に子供だった人は、フランスがまた侵攻してくるのではないかと思っている。

朝鮮、沖縄、中国を見なければ日本というものはわからない。

世界遺産に入りたいと思っている人は、サバルタンではない。

1994年、世界遺産奈良コンファレンス、オーセンティシティに関する奈良ドキュメント。

第二次世界大戦の時、奈良と京都だけは爆撃されなかった。

知床・・・アイヌの舞踊が無形文化財に指定されているだけ。

田浪亜央江さんの発言:

広島の学生はシリアなどの難民支援を志す人が多い。

呉世宗さんの発言:

沖縄では地名が人名になっている。旅とはある場所を持ち帰ってくること。

原理主義への対抗はトレランスではなくホスピタイティ。

会場からの質問:今は世界多発原理主義化と言えるのか?

鵜飼哲さんの応答:

トランプや安倍晋三は原理主義とは見えない。原理主義の人たちにはもっと真剣なものがある。ポリティークの中では性格が違う現象。ひとつ間違うと原理主義的傾向になってしまう。

西谷修さんの発言:

資本主義というのはマルクス主義の枠組みの中のことであり、今の経済は資本主義とは言わない。

現在は科学技術開発、技術産業、市場のシステムが破綻し、これが経済を支えられない、国民経済の枠がない状態。

観光が最後の段階。これには資本がいらない。交通と飲み食いが経済になる。

それぞれの国の社会の在り方が壊される、社会が持たなくなる、原理主義でなくネガショニズム。世界戦争まで推し進めた勢力が歴史修正しながら出てくる。

原理主義とは宗教的キャピタルを持っているところ。

鵜飼さんの発言:

第二次大戦について、アジア太平洋で、なんでこんなにつながっていないのか。

トランプはオバマが持っていた解決しようという気を持っていない。

最低限、ろこつに空いているピ-スをはめてからでないと議論にならない。

西谷修さんの発言:

ITテクノロジーの問題。我々の情報、経験の質をどれだけ変えているか。

ハイデガーが「形而上学はサイバネティックスにとってかわられる」と言ったとおりになった。

港千尋さんの発言:

ITテクノロジーの問題は、我々の生命が変わるということ。

かつて、スマホ以前の時、ベルルスコーニのことを問題にしていた。今はトランプがそっくり同じことをやっている。

我々が知的な活動にさける時間は1日に数時間。マーケティング的に、その時間をいかにお金に変えられるかがテクノサイエンス。

ツイッターの情報が数千万人に渡ることは、形而上学的な話どころではない。

あらゆる戦争が民営化していった。敵味方の区別がデジタル化。

政治的なクライテリアがずれてきた。実際に何が起こっているのか簡単な図式では整理できない。

鵜飼哲さんの発言:

鈴木道彦先生と入れ違いに研究室を引き継いだ。

今やフランスが世界で一番ファノンの読まれない国。

『地に呪われたる者』「橋をわがものにする思想」、ファノンが橋。ファノンをわがものにできるか。

トランス・ポジション。翻訳と同時に置き換える。ファノンが他の文脈で読める。自分のポジションの正当化にならないために元の文脈に送り返した時に豊かになるように。

自分を人質の立場におく(レヴィナス)。

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私のような予備知識のない人間には、用語や人名などが聞き取りにくくて、今一つつかみ辛いところの多い討論だった。

帰りに、Fと三鷹で食事。私は「こなき純米」という鳥取のお酒を飲んだ。水木しげるのこなき爺のラベルがとっても素敵なお酒(Fは一滴も飲まない)。

「我々の知恵は途上の知恵であり、内部観測でしかない。宇宙船から宇宙を見ているのであって、宇宙から宇宙船を見ているのではない。」という西谷修さんの発言が印象に残っている。

ジャコメッティは見えないところまで描かない、ということを若林奮先生が言っていたと思う。俯瞰でものごとを見ない、実際には見えてもいないことを、さも見えているように言うべきではないということ。(それが、見えないものを無きものとしないことなのだと思う。)

誰でも自分の立ち位置、身体能力でしかものごとを感じることができない。だから想像力と配慮がいる。

これはものを考える時の基本であると思う。

・・・

「言語という、あるオーダーが破綻してしまうと」という西谷さんの言葉から、自分自身のトラウマともいうべき体験が連想されて、お酒が進んでしまった。

言語というオーダーが完全に破綻すべきところが、盗みによってのみあからさまにとりつくろわれて、自我の優越に開き直る、つまり現実認知がおかしく、手前勝手な妄想でいつも有頂天になっている・・・そういう人間たちに私はずっと苦しめられてきた。

その言語(というオーダー)が隠す「根源」があるとすれば、異様なまでの情動の停滞、感覚の鈍さ、あるいは知能の低さだろう。

とりわけ私を6年苦しめたP(パクリストーカー)は、あらゆる言語やものごとの理解がおかしく、抽象的な言葉がすべて自分中心(Pにだけ都合のいいように)歪んでいる。行動は衝動的、空疎で、「狂気」と呼ぶような豊かさは微塵も引き連れていない。

私を標的にして「見てもらいたいから」「惹かれたから」と言い、勝手に(衝動制御障害的に)侵害行為を続けてけてくるPのことがあまりに苦痛で、Pが怖くてたまらなかった。

彼は他人のものを自分のものと思い込んで「自分はすごい」「自分をほめろ」と強要してくる精神の病だ。

Pには無視が通じないのだ。私が黙っていると自分に都合のいい妄想を自己展開して行動がエスカレートする。私がはっきり「本当のこと」を言うと、Pは上から激昂して来た。

彼はどんなに人(他者)を傷つけても、絶対に自己嫌悪したり、内省したりすることがない。彼は激しすぎる自己愛からの妄想で、現実認識が逆に歪んでいて、本来なら恥を感じる場面で大得意になるのだ。

最低限のルールやマナーも身につけていないPに、小学生レヴェルのことを一から説明してわかってもらうことはほとんど不可能に近かった。何度注意しても理解されず、私自身が消耗しすぎて、心身ともにおかしくなるほどに追い詰められた。

Pにやられたことは「収奪」という言葉を使っていいと思うか、とFに尋ねたら、「それは収奪そのものなんじゃない?」と。

それにしてもFは心の病や発達障害などについての認識が信じられないほどに薄すぎる。

いつも「言語という、あるオーダー」が前提的に共有されている場所でしか自分を試されないからだと思う。

文学の内には、言語というオーダーがあり、また言語破壊というオーダーがある。いずれにせよ予定調和的に救われ、言語のそとのものが侵害されるわけではないからだ。

Pのことの経緯はいずれ詳しくブログに書こうと思っている。

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2018年1月13日 (土)

年末から新年

1月13日

昨年暮れから今までのこと。

次に出す本の作品撮影のため、12月28日に、カメラマンの糸井さんがスケッチブックをうちに取りに来てくれた。

近くのファミレスで本の概要や撮影についての希望を説明。

前のカメラマンさんの撮影データと合わせるための試作データが30日には送られて来、それから第2回補正、第3回補正と、色味や鉛筆の線の濃さの調整などのやりとりを正月中に、ずっとできていたのは、とてもありがたかった。

この仕事がなければ、なにひとつ充実しない淋しいお正月だった。

色味のニュアンスなど、感覚的なことを言葉で伝えるのはとても難しいのだが、糸井さんは軽妙で勉強熱心でコミュニケーションしやすいか人なので、彼のお人柄に感謝。

1月1日

福山家の菩提寺から年賀状が届いた!「謹んで新春のお慶びを申し上げます」に呆れて笑ってしまった。

昨年10月、母の火葬場まで若いお坊さんがお経を読みにいらしてくださったのに、そういう事実をちゃんと記録していないらしい。

(私が精神的に参っていたために)母の納骨を春頃まで待っていただきたいという電話をこちらからしないで、ずるずると年を越してしまった非礼を申し訳なく思っていたのだが、そんな気持ちも吹っ飛んでしまい、たいへん気が楽になった。

原宿で見たヤマガラ。

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素敵な枝ぶりの冬の樹。
Sdsc02424

12月30日

話し合いのため、Y子のアパートへ。

2017年の年末も差し迫ってから、私にとって人生最大のストレスと言ってもいいほどの他人からの迷惑に対して闘わなければならない事件があった。

以前書いた、母の火葬の日に私の怒りが爆発してしまった件・・・知人H子が何十年も昔に私の父に保証人のハンコを押させていたH子の娘Y子の借金の件で、ついにY子に債権者側から裁判の準備段階として召喚される書類が届いたのだ。

(この顛末については詳細を後述する予定。)

世間一般のように仕事納めで解放される年末どころか、心身ともに酷使せずにはいられない年末となった。

疲労しすぎて帰宅前に駅前の居酒屋で休んだら、薬などのはいったポーチを席に忘れて来てしまった。翌日、店に電話したら感じよく対応してくれた。魚民さん、ありがとう。

・・。

2017年の年末は、大掃除も気力と体力の不充分によりできず、正月の準備、花飾りやおせちなどはなにひとつやらず。

マッサージと整骨にだけは通っていた。

新しい年の新鮮なまっさらになった喜びや、心身ともにひきしまる感じはなく・・・。

思えば母がパーキンソンの認知症になってから、おせちや雑煮など、もう10年以上食べたことがない。

私自身はおせちや雑煮に興味はないが、昔、毎年暮れに祖母が大釜で炊いていた煮物や、母の手作りのニシンの昆布巻きがたいそう嬉しかったことを思い出してしんみりした。

「一夜飾りはいけないのよ」と言って、28日までに千両や万両の赤い実に花を組み合わせた正月の生花を買っていた母。かいがいしく働きまわっていた母の姿を思い出す。

母がいなくなってから、私は正月のために花は買わない。

儀式などは関係なく、ただ、純粋に自分が描きたいという衝動が起きる花を見つけた時に買うだけ。

元日の朝、母のタンタンタン!と勢いよく階段を駆け上がって来る音を聞いた。ねぼけまなこの私を「知佐子!早く起きなさい!年賀状が来てるよ!」と起こしに来た母。

母が亡くなり、最愛のちゃびもいなくなった今、気ぜわしい色とりどりの年末や、真っ白に光り輝いて見えた元日の朝の光が、遠く鮮明な記憶の中だけのものになってしまった。

私にかつてそういうことがあったことが信じられないようにも、また同時に、失われてしまったことが信じられないようにも感じる。

まだどこかに強烈にあるのに、それをつかめない、全身で触れられない淋しさ、苦しさ。

初詣の時に、母とちゃびの健康と幸せを一心に願えないことが、どうしようもなく辛かった。

昨年、ちゃびが亡くなった11月の初めから、12月、私は人生で一番の危機に耐えた。動悸と悪夢、不眠が苦しかった。

眼の前は真っ暗、なにも楽しくなかったし、なにもやる気が起きなかった。

でも大切な相手を亡くした人は私だけではないはずだし、淋しい年末年始を過ごしている人も、この世にはたくさんいるだろう。

12月24日

図書館に行く細い道の途中にある寸断された樹。

頭にトタンのようなものがかぶせてあるのが気になる。

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曹洞宗鳳林寺にて。

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江戸時代からここにあるこれらの石仏にこめられた過去の出来事を思う。
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曹洞宗宿鳳山高円寺の白椿とメジロ。
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花の蜜を食べ、鴬色(渋い黄緑色)なのはメジロで、ウグイスではない。ウグイスは虫を食べ、地味な茶色で、花には来ない。
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2017年12月 4日 (月)

ちゃびへの恋しさが止まらない

12月3日(日)

ちゃびが死んでしまったことを、なかなか受け入れることができない。

理性的にはしかたないこととわかっているが、身体が勝手に反応している。

冷たい北風の中から帰宅してドアを開けたとたん、湿った暖かい空気に包まれ、「ちゃび、遅くなってごめんね!」と駆け寄って抱きしめようとすると、ちゃびがいない。

この部屋の湿り気のある柔らかくて暖かい空気はちゃびそのものだ。涙が噴き出てくる。

自分が寝ているふとんをめくったり、あるいはふとんの端が見えたりした瞬間に、そこにいっしょに寝ているちゃびの茶色くて丸いからだが見え、「ああ、ここにいたの。潰しちゃいそうだった。」と思う。

ほっとした2秒後に、ちゃびがいない、という現実に引き戻され、胸の真ん中の骨のあたりがズン!と打擲されたように痛くなる。

それからどくん、どくん、と骨が飛び出してくるような痛みの感覚とともに「嫌だ、嫌だ、耐えられない。」という言葉が繰り返される。

日に何度か聞こえるカサカサッという音に、ちゃびが私のところに近づいてくるいつもの足音だと思い、ふふっと嬉しくなる。

次の瞬間、ちゃびがいないことに目の前がぐにゃりと暗くなる。

夢の中で何度も、「ああ、ここにいたの。」とちゃびに会い、その数秒後には、「やっぱりいない。嘘でしょ?!」とうろたえる。夢の中でさえ泣いている私がいる。

うなされて眼が覚め、「はあ、はあ、」とまるでセリフのように出てしまっている自分の声を聴く。着ている綿シャツはぐっしょり汗で濡れている。

朝、目覚めた時がもっとも緊張が強く、首や肩の凝りからの頭痛や動悸が苦しくて、レキソタンを飲もうかと迷う。

朝一番に精神安定剤を飲んで依存するのが怖くて、とりあえず、ゆっくりお茶を飲んでみる。それからさまざまな用事をかたずけるが、緊張のための頭痛と肩凝りは収まらない。結局タイレノールを1錠飲み、それでも苦しくてたまらない時には、昼くらいにレキソタン1mgを飲む。

ちゃびがいつも水を飲みにきていたお風呂場。黴を落とすのに強力な洗剤を使いながら、「ちゃびに毒だから、ちゃびが入ってくるまでに洗い流さなきゃ。」と思う。その2秒後に、「ちゃびはもういない」という現実に、胸と頭ががん、と打ちのめされる。

ちゃびのトイレを置いていた場所では、足が引っかからないようによけて歩いてから、もうそこにトイレはないのだと気づかされ、「あっ」と驚く。

外出する時には、ちゃびが玄関の土間に出ないように、洗面所のドアを開けっぱなしにして、玄関への道をふさいでおいた。今も、出かけようとするたびに、洗面所のドアを開けっ放しにしようとしてしまう。

週に1、2回は行っていた店の前を通ると、「トイレの砂はまだあったっけ?」と、いつもの習いで店に寄ろうとしてしまう。そしてまたその2秒後に、「もうちゃびはいないんだ、トイレの砂も、K/Dも買う必要がないんだ。」と気づき、真っ暗になる。

二度と関係ない?この疎外感。この虚しさ。

スーパーでマグロのお刺身を見ても、中トロを買ってきて、ナイフで細かくたたき、レンジアレンを混ぜてから、ちゃびにあげていたことを思い出す。今はマグロの刺身を見るのも辛い。

ちゃびにあげたお刺身の余りを私が食べるのが嬉しかった。自分だけのためになら、もう二度とマグロのお刺身は買いたくない。

いたるところでちゃびのために買っていたもの、買おうと思っていたものに出会うたびに涙が止まらない。

ちゃびの医療費はそうとうかかっていたが、数字としてどのくらいなのかまったく考えなかった。自分のためには食費も暖房費もなるべく使いたくないと思う。

ショックで自分を虐めたくなっているということではない。ただ、自分に余計なものを与えること自体がストレスになるので、極力そぎ落としたい。

ちゃびが私に美しい景色を見せていてくれたのだろうか。ちゃびがいないと、すべてのものごとから魅惑が消えていってしまうのだろうか。

幼少期から、生家には犬や猫たちがいた。だから、一緒に暮らしていた最愛の動物との死別は、これが初めてではない。だが、このようなショック時の過ごし方に慣れるということはない。

最愛の犬、チロとの死別で、私は初めて心身ともにおかしくなった。小学校6年の時。それから何度も悲しい別れを体験し、そのたびに死ぬほど泣いた。

もう一度ちゃびに会えること、強い愛情関係が見つかることしか欲しいものはない。

2007年。10歳の時のちゃびと私(自撮り)。

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私の絵の具箱(高さ110cmくらいのクリアケース引き出し)の上がお気に入りだった。

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いつも私をじっと見ていて、眼が合っただけでゴロゴロいっていたちゃび。Sdh000031

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どんな接写も嫌がらずに私にカメラ目線をくれていたちゃび。
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11月30日(木)

静かな雨。乾いた北風でなかったせいか、それほど寒さは感じなかった。

週に2回、保険外のほぐしマッサージに通っている。通りいっぺんの保険内治療より、一番苦しいところを重点的にほぐしてもらえて効果があると感じる。

11月29日(水)

池袋の公園で猫たちを眺めた。

サラリーマンの男性が食べ物をあげていた。そのあと、その男性が猫を膝にのせながら煙草を吸っていたのが気になった。

どこにもちゃびに似た子はいなかった。

そのあと大塚駅まで歩く。

桜の紅葉はほとんど地面の上。柿色、檜扇色、紅玉色、葉脈の際は山吹色で、山吹色と山吹色に挟まれた部分が朱色の葉など。

大塚駅で都電を見た。線路際に揺れていた黄花コスモスの淡い色。この花がなければ殺風景な線路だ。

今度、この都電に乗って、母がまだ元気だった頃、父と一緒に行ったと言っていた都電荒川遊園に行ってみたいと思う。

11月28日(火)

午前中、E藤さんより電話。「今、すぐ近くに来ているので昼食を一緒にとらない?。」と誘われる。

高円寺の名代そば茶屋で昼間から熱燗。

E藤さんはまったく飲まない人だったが、娘さんの通夜から、お酒をほんの少しずつ飲むようになったという。

蕎麦は、私には汁の醤油が濃すぎて出汁のうまみが感じられず、まずかった。

E藤さんが私の母に会った最後は10年くらい前、西新宿の旧駒ケ峰病院の前で、父と一緒に歩いている母が「これから食事に行くの。」と嬉しそうに言っていたそうだ。

母が病気で外出できなくなる前、父と都内のいろんなところに食べ歩きに行っていたらしい。その当時、母はとても幸せだったと思いたい。

そのあと、E藤さんを送って、E藤さんの家まで行き、娘さんの祭壇にお線香をあげた。

娘さんがかわいがっていたという2匹の猫(外猫)が、ベランダから家の中をのぞいていた。とてもガタイのいい猫だ。ベランダの戸を開けたら、ぱっと逃げてしまった。

誰にも触らせない、と聞いて驚いた。昔、何度か野良猫の世話をしたことがあるが、たいてい1、2か月で慣れて、向こうからすり寄ってきて、ゴロゴロ言いながら私に抱かれるようになっていた。

触らせない猫だったことにがっかりした。撫でるのを楽しみにしていたのに。

E藤さんから「家にいるのがよくない。旅行にでも行ったほうがいい。」としきりに勧められた。夜にネットで、一応、東京から近い島の宿などを調べ、そこに行った自分を想像してみたが、気持ちははずまない。

やはり今、寒い中で遠出すること、時間とお金と体力を使うことを想像すると、さらに疲弊する気がする。

なにかやるべきこと、大切なことの本筋からずれてしまうような焦燥感がある。自分の仕事が遅れていることに対する自己嫌悪。

結局、自分が思うところのやるべき仕事が進むことでしか自分を支えることはできない。

今は、遅々とした歩みでも、仕事と家の中の整理をしていたほうが精神的にいいように思う。

ちゃびが亡くなってから、部屋の中にいるのが怖くて、無理やりにでも電車に乗って出かけたりしていたが、陽のある時間は近所を歩き、あとは家の中にいたほうが心身の回復のためにいいのかもしれない。

外に出て余計なストレスを受けることを避けるほうがいいと今は思う。

11月27日(月)

書道の日。「呈祥献瑞」。淡々とお手本を見ながら忠実に書いたが、正月のおめでたい言葉。

今は書くのが虚しい。

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2017年12月 2日 (土)

死別の苦しみ おばのこと

11月27日(月)

おばさん(母の弟の奥さん)から夜9時前に電話。(私が昼からずっと出かけていたので)「夜分遅くごめんなさい」と何度も言われる。(全然遅くないのに。)

私の送ったお花と手紙が着いたという。昨年亡くなった叔父(母の弟)と、それ以来ずっとふさぎこみがちなおばのために、私が送ったものだ。

お花について、「箱を開ける前からバラの香りがして、とても素敵だった。色合いもあなたが選んでくれたっていう感じがしたわ。」と言ってもらえた。

手紙についても、「あなたはすごい、本当の教養があるわ。胸がいっぱいになった。お義姉さんはよくあなたをここまで育て上げたわね。」と言ってくれた。

「ええっ?そんな。おばさんちの娘さん二人のほうがずっと優秀じゃないですか。」と返すと、おばは「あなたは謙遜するところも含めてすごいわ。」と言うのだった。

「そんなわけないですよ。おばさんちはどこから見ても理想の家庭だったじゃないですか。うちなんてすっごく雑で、酷い父親で。ほったらかし。」

それは正直な気持ちだった。でもおばは、「そんなことない。うちは・・・裏表があったんじゃない。」と言った。

「裏表」とまで言うということは、おばは、私にお世辞などではなく、本音を言っているのだ。

叔父が亡くなってからというもの、おばはよく、自分のことを「傲慢だった」と言う。そうまで言えるのはすごいと思う。昔のおばなら、感じはいいが、物事の上っ面をかすめるだけの中身のない会話に終始していたと思う。

おばは相当教育熱心だった。叔父もそうだったが、おばもまた、すごく細かいところまでしつけに厳しかった。

小学生だった頃、私は、叔父とおばの家に、母や妹といっしょによく遊びに行かせてもらっていた。ピアノや大きなステレオやソファーのあるハイクラスの家。

本棚には私が知らない外国作家の絵本などがあり、うらやましく思った。

それらと並んで、「やさしい女の子に育てる方法」といったタイトルの本があるのに私は驚いた。当時、いわゆる子育てのハウツー本のようなものは、それほど出まわってはいなかったと思う。こんな本まで読んでおばさんはがんばっているのか、と子どもながらに感心したのを覚えている。

田舎育ちで、食べていくために必死で働いていた私の母は、私に勉強やしつけに関して特になにも言わなかった。

私が育ったその頃の西新宿では、私のうちだけでなくまわりの家庭の多くが、やはり、食べていくのに精いっぱいで、子どもの教育などにそんなにかまっていられなかったように思う。私は子ども心にも、叔父の家は全然違う、と感じていた。

おばが今、苦しんでいるのは、元気でしっかりしていた叔父が急に亡くなったショックと同時に、(急なことで私は葬儀にもよばれなかったので、具体的な様子を見て知っているというわけではないが、)おばひとりが悲嘆にくれていて、娘二人が(冷淡とまでは言わないが、)悲しみに対して淡白だということもあるらしいのだ。

二人の娘にはそれぞれ家庭があり、子どももいて忙しく、おばはひとり取り残されたような気持になっているようだ。

「私が人に尽くすより自分のことが一番だったから、子供たちもそれを見ていて、人のことより自分が一番になった。でもお義姉さんは違う。だからあなたもお義姉さんに似て愛情が深い。」とおばは言う。

おばから見れば、私からずっと介護されていて、亡くなってからも恋慕われている私の母が、とても幸せに思えるのかもしれない。

しかし、違う観点から見れば、父親を亡くしても平常心を失わずマイペースで生きていく私の従妹たちのほうが、私よりずっとしっかりしていて頼もしいと言えるのではないか。

私は母の介護から解放されて自由になった、という気にまったくなれず、呆然とするくらい厭世的になっている。

元気な時の母の姿ばかりが思い出され、母の生命がこの世から消えたこと、激しくて一生懸命だった母と過ごした時間が過去になることが淋しくてたまらない。

母は必死で忙しく働いていたので、過保護だったとは思わないが、母の私に対する愛情が、私の心を弱くするほど、深すぎたのだろうか?

元気だった頃の母に、情熱的で、献身的で、働き者だった母に、子供の私が甘えすぎていたために、私はいまだ、精神的に自立できないのだろうか?

11月26日(日)

母とちゃびの喪失の悲しみが深すぎて、自分の感受性や認知力が衰えてしまうのではないか、それが怖くて、とにかく陽が暖かそうな日中は歩くようにしている。

色づいた樹々の下、東京国際フォーラムの大江戸骨董市を散歩。

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物を所有したいという欲望が無くなっている。ただ、古びた色、ところどころに欠損さえある、わずかにくずれかけた輪郭を見つけて、市の雰囲気を味わう。

Ooloo(私の大好きなGeorge StuddyのキャラクターBonzoの恋人猫)の人形に出会った。すごく珍しいもので48000円。

(BonzoとOolooのキャラクターに出会ったのは、もう20年以上も前、吉祥寺のLivesにあったアンティーク屋でだ。それから私はこの強烈で愛嬌のあるキャラクターに魅せられ、BonzoのSalt&Pepperを集めたり、ロンドンに行った時にはBonzo Annualの古本を買ったりした。

それもちゃびと出会う前の話だ。Bonzoの愛くるしさもちゃびの愛くるしさにはかなわない。)

そことは違う店だが、きれいな手編みレースや、陶器や、私の好きなシュタイフのぬいぐるみの隣に、本物の動物の骨(店によっては鳥の剥製まで)が置いてあるのに、すごく違和感がある。

以前行った多摩の骨董市で、「この骨、かわい~い。こういうちっちゃいの探してたんですよ!」と言っている若い女がいた。店員が「これ、かわいいですよね~。なかなかこういう小さいのはないんですよ~。」と応じているのを聞いて、ぞっとしたのを思い出した。

彼女たちには、動物の死体からとられた骨も、自分たちのための、おしゃれな飾り物としか見えない。

小さい骨は動物が幼くして死んだ、その亡き骸だという意識、はかなく短いその命を憐れむ感覚がない。

もしかしたら自然死ではなく、人間のおしゃれに利用するために殺されたかもしれない。たとえ自然死だったとしても、死体からとった骨を「かわいい~」という感覚に、私は激しい嫌悪しか持てない。

(肉食しないことはもちろん、私は普段の生活から革製品もなるべく遠ざけているが)、これはリアルファーとフェイクファーの区別が(感覚的に)つかない人と一緒なのだろう。

そのあと、ブリックスクエアを通り、丸の内のKITTEに入った。JPタワーで偶然、『植物画の黄金時代――英国キュー王立植物園の精華から』のポスターが目にとまり、これは私が見るべき展覧会だと思い、入った。

入場無料。

植物画と植物の標本(押し花のようなもの)が同時に展示してあり、興味深かった。

Franz Andreas Bauer(フランツ・アンドレアス・バウアー)の「ゴクラクチョウカ科ゴクラクチョウ属オーガスタ」(18世紀後半~19世紀前半)の、特に黄色ではなく白地に赤紫色がさしてあった絵に立ち止まる。

とても妖しくて胸がざわついた。

鬱に近い今の私でも、絵のよしあしははっきりわかった(少しほっとする)。

ポスターになっていたのはGeorg Dionysius Ehret(ゲオルク・デゥオニシウス・エーレト)のチューリップ。

植物画の特別展示のほかにも、学術文化総合ミュージアムの展示が並んでいたが、やはりそこでもたくさんの動物の骨を見るのが辛かったので、立ち止まることはなかった。

動物を愛することについてなにを、どう書くことができるか、今もちゃびに話しかけている。

11月25日(土)

晴れていたので、とにかく少しでも歩こうと吉祥寺に行ってみた。

中道通りを散歩。20年くらい前にコサージュを買った「カサギ」というお店がまだあった。笠置都さんというオーナーさんがコサージュをつくっているらしい。

中道通りの奥の蔦が絡まる古い「潤アパート」。

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三鷹まで歩く。

線路沿いに生産緑地があり、扇形に広がる雲がよく見えた。

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11月24日(金)

叔父を亡くしたショックでふさぎこんでいるおばを慰めるために、便箋3枚の手紙を書いた。

元気で真面目でしっかりしていて、男にしては心配性で、細かいところまで口うるさかった叔父。

「正江(私の母のこと。なぜか母の兄弟は互いを名前で呼び捨てにしていた。)のことをよろしく頼むよ。」といつも私に言っていた叔父。

(私は詳しいことは聞いていないけれど、おそらく)父の借金の時も援助してくれた叔父。

生前、母がたいへんお世話になったことは、叔父に対して、言葉に言い表せないほど感謝の気持ちでいっぱいであること。

いつまでも元気と思っていた叔父が急に亡くなったと聞いて、私も目の前が暗くなるほどショックだったこと、おばのショックは計り知れないだろうということ。

私の父は私を不安に追い込むことばかりをやる人だったが、しっかり者の叔父がいてくれて、叔父が母を思いやってくれていることが、ものすごく私の心の支えになっていたことを、思い知ったこと。

それらを手紙にして伝え、月曜に届くように花を送った。

花は薔薇を中心にクリーム色とアプリコット色のアレンジ。お供えにはとげのある薔薇はいけないそうだが、叔父が亡くなってからすでに1年半が経っており、目的はおばを慰めるためなので、あえて薔薇にした。

白っぽい花よりも温かみのある優しい色を選んだ。

11月21日(火)

詩人の阿部弘一先生に送る香典返しの品をさがしに、新宿のデパートへ。

高島屋、伊勢丹の贈答品売り場でお茶の銘柄を見てまわり、高級なお茶はどちらも同じ会社のものだった。「愛国製茶」という名前は嫌いな人は嫌いだろう、と思うのでやめた。

最後に小田急の地下に行ったら、阿部先生のお好きな椿の花の絵の意匠を凝らした箱入りのお茶があったので、それにした。

月曜(11月27日)に届くように指定して頼んだ。

新宿南口では、バスタの前のデッキをはじめ、そこここでイルミネーションがきらきらしていた。

クリスマスに向けた飾りつけを見ても、すごく淋しくて辛くなる。もともと人工的な華やかさをあまり楽しめない性質だが、今年はたまらなく淋しい。

かと言って、都会に灯りが乏しくなったら余計淋しく感じるのかもしれない。

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2017年11月26日 (日)

ちゃびのこと、猫(動物)の看取り、動物を愛するということ

11月22日(水)

お世話になった動物病院に未使用の輸液や薬を返却しに行く。

ちゃびが亡くなる前日に、まだ、すぐ亡くなるとは思っていなくて購入したものだ。

(亡くなると思っていなかった、ということを思い出すと、苦しくて発狂しそうになる。)

これから一生、猫と触れ合えない人生が考えられない、すごく苦しい、と快作先生に言ったら、今、病院のケージの中にいる治る見込みのない猫の看取りをやらないかとすすめられた。

野良猫で、悪性リンパ腫で、おそらく余命半年くらいで、絶えず下痢をしているキャラメルちゃん。外猫として世話をしていた人たちからも、誰の自宅でも飼えなくて、お金を払うから引き取ってほしい、と言われたという。

顔はちゃびとはまったく違うけれど、同じ茶トラなので、快作先生は私に引き取ってもらいたくて、「ね~、ちゃび。」とキャラメルちゃんに話しかけて見せたりしていた。

「温かい部屋にいて、近くに人がいて、テレビがついているような安心できる暮らしを死ぬ前に味あわせてやりたい」「看取りをしてくれる人がいたら、なによりも助かる」「預かってくれる人がいない」と快作先生に言われて、苦しすぎて、ただ涙が出た。

外猫(地域猫)で、食餌の世話をしていた人はいるが、病気までは面倒みきれなくて、ほっておかれて死んでしまっていたかもしれない猫で、とりあえず病院に連れて来てもらえて、病院のケージに入れられて、命拾いだけはした猫。

引き取って看取りをしてあげたいとは思う。しかし、今の私には、愛情を注ぐものがやせ衰えて死んでいく現実を受け止めて、全力で介護する覚悟とエネルギーがない。

心身共に、今の私の力では足りる気がしない。

やるからには全力で介護しないわけにはいかない。同時に、誰もそれをやりたがらないなら力不足でも誰かがやらないと、という気持ちもある。

それをやったら、私自身が精神崩壊しかねないのではないか、という懸念がある(実際はどうなるかはわからない。私は私自身が予測するより強いのか、弱いのかわからない)。

どうしたらいいのかわからない。ただ苦しくて涙が止まらない。

ちゃびと死別して、正直、自分の精神崩壊、うつやパニック障害になるのは嫌だ、とすごくおそれている。

私が愛情や思いやりを注げる相手が喪失した、その欠落に苦しんでいるのだ。

自堕落になる気もなく、サプリ(アスタキサンチン、ブルーベリー、タウリン、レシチンなど)を飲んだり、日がさしている時間帯にはとりあえず無理やりでも歩くようにしている。

街を歩いていても勝手に涙がこぼれる。酷く疲れた顔なので極力、人に会いたくない。

11月20日(月)

人生で一番悲しい時、自分自身がどういうふうに過ごして(生きて)いったらいいのか、また、人生で一番悲しい時の相手に、自分はどのように接していったらいいのか、どんな言葉をかけたらいいのか、そんなことばかりを考える毎日。

・・・

午前中、おばさん(私の母の弟の奥さん)に電話。数十年ぶりにA子ちゃん(母の妹の娘。つまり、私の従妹、おばさんにとってはやはり姪)と連絡がついたことを報告。

おばさんは叔父さんを亡くして1年と半年。まだなにもやる気が起きない、誰にも会いたくない、と言う。体重は40kgもないそうだ。月命日は毎回、おじさんのお参りに行っているという。

おばさんはうつだと言うが、話し方に快活で頭のよかった昔の感じはそのまま残っている。ただ、かすれて低い声の色が苦痛をものがたっている。話す内容が、もっと叔父にこうしてあげればよかった、という後悔ばかりになっている。

おばさんは私に「お義姉さんは、お義兄さんのことですごくたいへんなことがたくさんあっても、家族っていうものをつくっていく力があったと思う。」と言われ、「母があんなどうしようもない父に惚れたせいで、私にばっかりしわ寄せが来てますけどね。」と言ったら、

「知佐子ちゃんはものすごく苦しい時でも、それにうまく対応する能力がある。そういう大物感があるのよね。だって声から笑顔が浮かぶもの。」と言われた。

私は自分が心身ともに強いとはまったく思えないし、実際、心拍がおかしくなっているし、ほとんどうつの一歩手前だが、おばさんを慰めたいという気持ちだけはとてもある。

おばさんは叔父と本音をぶつけ合わなかったことを後悔していた。いろんなことを話さないうちに、「まるで交通事故のように」、すい臓がんの告知からすぐに別れになってしまったことをとても悔やんでいた。

癌性の脳梗塞が多発し、癌の治療が始まる前に会話できなくなってしまったことがものすごくショックだったのだ。

子どもに対して口うるさく言い過ぎたことも子育てに失敗した、とおばさんは言っていたが、同じように愛情を注がれても私と妹は全然違う性格になったのだから、親の育て方のせいとばかりは言い切れない。もともとの資質とか、わからないことは多い。

母は自分の感情を押し殺すタイプではなく、私にはヒステリックに言いたいことをぶつけてくることも多かった。母は働き者で忍耐強くもあったが、笑ったり、泣いたり、怒ったり、感情回路はストレートで激しかった。

母が元気で私が若い頃は激しく衝突することもあったが、思いっきりぶつかり合える関係は幸せだったのかな、と今は思う。

母は世間がうらやましがるような贅沢には興味がなくて、どんな環境でもその場で面白いことをさがして楽しめる人だったから、それだけは私にとって、すごくよかったのかな、と思う。

ちゃびが亡くなって、私もすごく精神的に辛すぎておかしい、とおばさんに話したら、「ペットロス」という言葉を使われ、すごく違和感があった。

ちゃびを「ペット」だと思ったことが一度もない。「子ども」「恋人」…、どういう言葉を使っていいのかわからない。ただ、狭い部屋にずっと一緒に暮らしていて、心身ともに激しく求めあう関係、お互いに相手のことはわかっている、理解していると思える存在だった。

おばさんは動物と一緒に暮らしたことがないそうなので、それ以上のことは言ってもしかたないと思った。

・・・

午後、ほぐし屋さんで、凝り固まった背中の筋肉をほぐしてもらう。

僧帽筋、脊柱起立筋も酷いが、菱形筋が特に凝り固まっている。

リンパの激しい痛みは治まったが、まだ乾いた咳があり、血の混じった痰が出る。洗える布製の抗ウイルスマスクをしている。

・・・

夕方5時に、生まれて初めて保護猫カフェに行ってみた。

正直、ちゃびと同じ「猫」という生きものとは思えない子たちばかりだった。「猫」ってこんなだっけ?と思うくらい、私が知っている「猫」とは違った。

成猫が皆、ちゃびの数倍もガタイがよくて、頭の大きさに対して体幹が大きすぎるのだ。

そして顔のバランスがものすごく違う。皆、顔がクサビ形で、鼻の筋が太くて長く、直線的だ。ピューマとかチータとかに近い雰囲気の子ばかりだった。

たまたま同じ兄弟の子が集まっているのかもしれないが、私にとっては「猫」というものが「ちゃび」とあまりに違うことに驚愕しかなかった。

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ちゃびのおでこから鼻にかけての柔らかな曲線が恋しくてたまらない。

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蠱惑的で甘えっ子だったちゃび。
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11月19日(日)

保護猫譲渡会に行ってみた。

眼に障害がある子、四肢欠損の子、どの子もかわいく、愛情を感じた。

けれど、当たり前だが、「ちゃび」はいなかった。

夜、すごく苦しい感情が堰を切って溢れだし、爆発してしまった。

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2017年11月21日 (火)

阿部弘一先生/ 悼むということについて

11月18日

冷たいセメントのような灰色の曇り時々雨の日。冬の気配が濃くなってきている。

朝、書留が届いたのでなにかと思ったら、阿部弘一先生からのお香典だったのでとても驚いた。

気安くお話しできるような間柄ではないのだが、3日前に私が出した年賀欠礼状が届いてすぐに、私などにお香典をくださるとは、本当に恐縮するばかりだ。

手紙に「お母様のご逝去を心よりお悼み申し上げます。また、“ちゃび”まで・・・・・、ご心痛の程、ただただお察し申し上げるばかりです。どうぞお体を大切にされますよう・・・・・。」とあった。

「ちゃび」のことまで書いてくださっていることが嬉しく、ありがたすぎて、涙。

目上のかたに出す年賀欠礼状に、ちゃびのことを書いていいのか少し躊躇いがあったのに、一番書くことを懸念した阿部先生が、真っ先にちゃびのことまで悼んでくださったことに痛み入る。

阿部弘一先生は、私の師、故毛利武彦先生のご親友で、とても尊敬する詩人だ。

私が美大を卒業して2、3年の頃、父の借金を負い、疲弊して、もう絵を続ける気力も失いかけ真っ暗な闇の中で迷っていた頃、毛利先生のお宅に伺った時のことだ。

「ポンジュって知ってる?僕の友人が訳しているんだけど…。」最初、そんなふうに、毛利先生は阿部先生のことを教えてくださった。

そして毛利先生のお宅で私は阿部先生と初めて出会った。その時に阿部先生は私が持参したスケッチブックの中の椿の絵を気に入ってくださった。

2001年に祖母が亡くなった時にも、阿部先生からクリーム色のチューベローズ(月華香)や青と白のアネモネが美しく盛られたお花が届いて、あまりにも驚いたことがあった。

阿部先生が私のような者をこのように気にかけてくださることは、大きな喪失の淵にある時、とても信じられないほどありがたい。

阿部弘一先生。1978年4月、ヴァレリーの眠る海辺の墓地(フランス、セート)で。

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私の最初の個展の時の阿部先生と私。

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11月17日

ちゃびのことをとてもかわいがってくれて、私が家を留守にするときに、ちゃびと一緒に留守番していてくれた友人Nちゃんから長距離電話。

ちゃびが亡くなった直後から2回目の電話だ。Nちゃんも「あんなかわいい子はどこにもいないよね。」と言って泣いてくれた。

Nちゃんはかつて近くに住んでいて、ちゃびのことを長年、すごく愛してかわいがっていてくれた。わかりすぎるので、あまり言葉もなく、ただ電話口で一緒に泣いた。

ちゃびはよくNちゃんを踏み台にして、高い棚のてっぺんに駆け上がったりしていたこと、なんにでもよくじゃれて、疲れを知らずに遊びまわっていたこと。元気で、暴れん坊で、愛嬌たっぷりだったちゃびのことを覚えていてくれて嬉しい。

Nちゃんが一緒に留守番していてくれた時、私の帰宅する気配を待って、ちゃびはいつも落ち着かなかった、と言っていた。

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母が亡くなってすぐ、私が寝込んでいる時に、クール宅急便(冷凍ではなく冷蔵)を送ってきた人がいた。段ボール箱を開けたら、ジップロックに煮物などの手料理がいくつか入っていて、おまけに肉を使ったものあったので、すごく困惑した、という話をNちゃんにしてみた。

私は(動物を愛するために)肉食だけは(反射的に吐いてしまうくらい)どうしてもできない、と何度もはっきり伝えているのに、「友達だから手料理を送ったのに…」と言われた、という話をして、「どう思う?」と聞いてみた。

Nちゃんは「異常に気持ち悪い。肉食できないことって、本人にとってものすごく重要なここだよね。」と言った。

私は「もちろん、私の人生で最も重要なことのひとつ。」と応えた。

「友達なら、相手が肉が食べられないことを覚えていてくれるはずでしょう。それに肉が入っていなかったとしても、手作り料理をジップロックに入れて送るなんて不潔で気持ち悪すぎる。そんなの食べられるわけないのに。」と言ってくれた。

私にとって、肉料理は動物たちを殺すことに変わりない。、

私はもともと肉食をしないが、よりによって母が亡くなったばかりの時に、肉の手料理を送り付けられることは耐えがたかった。どうしてこんなに余計なことをするのだろうと思った。

さらに「いらないならクール便で実家に転送してほしい」と言われたんだけど・・、と伝えると、「その人は完全におかしい。」とNちゃんは言った。

過去にも何度かあったが、大切な人が亡くなって、私が心身ともに一番弱っているような時にかぎって、「福山さんのために」と言って、エゴの塊の自己承認欲求をぶつけて、ずかずか踏み込んでくる人たちがいる。

私にとって異常なストレスでしかない。

たとえば、恩師である毛利武彦先生が亡くなって、私が泣くのと吐くのをくり返している時に、面識もない他人であるにもかかわらず、自分が私と毛利先生の重要な関係者だという勝手な妄想で、「師の死に捧げるオマージュ」なる安い創作物を送りつけてきたN・S。

彼は一方的に憧れる相手に同一化して自分が「芸術家」になった妄想で有頂天になる精神の病だ。(彼から受けた耐えがたいストレスの経験について、いずれブログに書くつもりだ。)

あるいはまた、父が亡くなった時に、よく知りもしない他人の親について自分の意見を書いて送りつけてきて、私が「私はあなたの意見を必要としていません」と返答しても、何度も「自分の意見を聞け」と強要してきたI・S。彼女は私よりひと回り以上も年下だ。

相手を理解する気がなく、ただ一方的に自分がやりたいことをやって「ほめろ」「ありがたがれ」と押しつけて、私に甘えようとしてくる他人が、ものすごく気持ち悪い。

彼らは自己愛が強すぎ、現実の解釈が歪んでいる。

私は相手を拒絶しないように見えるらしく、そういう人たちからターゲットにされる経験がとても多い。そういう人たちは自分の言動が相手に嫌がられるということを認めない。彼らは私とすごく親しくて、自分のやることはすべて私が喜ぶ、と思い込んでいる。

そういう人たちを無視しても通じなくて被害が甚大になるので、最近は、端的に「そういうことをやられるのは私は苦痛です」ということだけはしっかり伝えるようにしている(伝えても理解しない人がいるので困るが)。

Nちゃんは過去にそういう人たちから私が受けた被害をよく知っているので、とても心配していてくれた。

Nちゃんに話せてちょっと楽になった。

11月16日

実家にあった古い電話番号簿が見つかったので、新潟市に住む従妹(母の妹の子)のA子ちゃんに電話してみた。

私が大学生の頃、母と新潟に遊びに行った時のこと、また、そのあと新宿の私のうちにA子ちゃんのほうから遊びに来てくれた時のことなどをよく覚えていて、話してくれた。

とりわけ母のことをよく覚えていてくれたことが嬉しかった。母は、弟である叔父とともに、新潟にいる叔母とも、とても仲がよかった。

A子ちゃんが一時、東京で暮らしていた時、母がA子ちゃんの様子を見に行ったそうだ。近くの中華屋で一緒にチャーハンを食べ、母が「これ、ラードがはいってるから嫌い。」と言っていた、と。そんな些細なエピソードを話してもらえることが今は嬉しい。

A子ちゃんのお母さん(私の母の妹)は神経質で、子どもに少しうるさく文句を言いすぎる性格だったようで、A子ちゃんは「おばさんが自分の母親だったら、うまくいったと思う。」と言った。

A子ちゃんが「正江おばさんには安心して母の愚痴を言えてました。」と言ってくれたことがとても嬉しかった。

母は私には感情を激しくぶつけてくることも多くあったが、母は私にはなにを言ってもだいじょうぶと思っていたから、それくらい私を信頼していたのだと思う。

母の死亡後の手続きに区役所に行って書類をもらった時、母の戸籍に「四女」と書いてあったのに驚いた。

母の兄妹は全部で9人か10人あったらしい。

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2017年11月18日 (土)

ちゃびのこと

11月17日

母とちゃびを相次いで亡くし、今は私にとって人生で最大の喪失感に苦しむ時だ。

私にとって、ただ存在するだけで無条件に激しく暴力的に愛し愛された相手、私の命をかけて守りたいと必死になっていた相手が、この世からいなくなってしまったのだから。

このことを「乗り越える」ことは決してないだろう。大切な命が失われてしまった体験に対して、本来、「乗り越える」という言葉を使うべきでないと思う。

時が、ほんの少しずつ、心身の酷い痛みと動揺を和らげ、薄くしていってくれるのかもしれないとは思う。でも、それにしたって実際どうなるかは、この先経験してみないとわからない。

たいへんな「喪」の作業(世間一般の四十九日とか、読経とか、納骨とかとはまったく関係ない、私個人の)がいるだろう。

「喪」と名づけるべきでもない、私個人の喪失の体験の処し方、これこそがなにかを「表現する」ことそのものになっていないのであれば、私が生きていて表現する意味もないと思う。

毎日、ちゃびの写真をさがして整理している。

本にまとめるために過去の素描(デッサン)を整理した時と同じように、私自身にとって大切な発見がある。

20数年の記憶は、忘れていることも多く、断片的な記録や写真によって蘇り、リアルに追体験できたりもする。

私が絵を描いている時、ちゃびが、花瓶とスケッチブックを支えているちゃぶ台の上にどん、と乗っかって、絵を描くのを邪魔している写真。この絵を描いている時にも、ちゃびは私に絡みついてそばにいた。

(2000年のちゃび。この写真の時に描いた枯れたドクダミの素描(デッサン)がスケッチブックに残っている。当時、私はある小さな雑誌の表紙画を描いていた。)

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絵を描いている私の肩の上に乗っかって離れなかったり、私が絵に集中すると、自分のほうをかまえ、とことさらに激しく全身の力を込めて私の背中を蹴って、傷だらけにしたり…。

私が植物を持って帰るとすぐにちゃびは何の草かチェックしていた。薔薇やパンジーは買って来たら一瞬の隙にかじられていたので、かなり描くのがたいへんだった。

植物を氷水につけて流し台の中においても、必ずかじられるので、コップに生けて冷蔵庫の中にしまうしかなかった。

私の植物の絵を見ただけでは、ちゃびがそこにいることはわからないが、ちゃびは私と一体化するように、あまりに近くにいた。

私はちゃびと一緒に生きながら、蠱惑的な生命の秘密の世界で、植物の絵をたくさん描いた。

ちゃびが私に植物の絵を描かせてくれていたのだと思う。

私が誰かに会いに出かける時も、ちゃびは元気で留守番していてくれた(時には友人が、私の外出中はずっとちゃびを見ていてくれた)。

若林奮先生、種村季弘先生、毛利武彦先生、大野一雄先生、中川幸夫先生…私が心底慕った大切な先生たちがひとり、またひとりと亡くなって、私が激しく嗚咽してぼろぼろになっていた時も、いつもちゃびは元気で、私のそばにくっついていてくれた。

帰宅するとき、ちゃびが、私の階段を上る足音に飛び起きて、もう玄関に走って来ていて、ドアを開けた瞬間、嬉しそうにわあっと私にまとわりついてくる、そのことを、私はどれほどの奇跡だと自覚し、全身で味わうことができていたのだろうか?

幸せのさなかで、命が有限だと言うことをどれだけ意識できただろうか。

あまりに一心同体で、互いの身体の中に出入りするような関係だったから、ちゃびが生きているうちは、まるでナルシスティックな話にとられそうで、ちゃびのことを語ることが憚られた。

今、私は身体にちゃびを思い切り刻み付け、瘢痕を残したいと思う。

(2011年。13~14歳のちゃび。)

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常に私のことを眼で追い、私に甘えようとしていたちゃび
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私の絵の具箱(高さ110cmくらいのプラスチックの引きだし)の上がお気に入りだったたちゃび。この上から私の上にどーんとジャンプしてきた。

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とにかく元気で暴れまわっていた。

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(2012年。14~15歳のちゃび。)
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枕で私を待っているちゃび。

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私になでられるのが大好きだったちゃび。
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乾燥したカラスウリにじゃれているちゃび。
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11月15日

鼻の奥の炎症と頸部リンパの腫れを抑えるためにサワシリンを1日3回服用。毎日、少しずつだが頸のリンパの腫れは治まってき、きょうはずきずきしない。

そのかわりに、なぜか乾いた咳が出てきて苦しい。アステラス製薬に確認したが、抗生物質で細菌を抑制したから風邪のウイルスが優位になる、ということはない、と言われた。

また、サワシリンに関してはカルシウムとキレートをつくることはない(牛乳などの食べ合わせは気にしなくていい)、と。

このところずっと昼は温かい蕎麦にネギと卵を加えたもの、夜は日本酒とつまみ、という食事。それと毎日、スチューベン(野性的な酸っぱい葡萄)を食べている。

それ以外のものを食べる気になれない。

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