悩み 苦しんでいること

2018年1月25日 (木)

鵜飼哲 最終ゼミ 『原理主義とは何か』以後 於一橋大学佐野書院

1月20日(土)

Fと国立で待ち合わせ、鵜飼哲さんの最終ゼミを聞きに、一橋大学佐野書院へ。

会場の佐野書院へと急ぐ道すがら、「(私は)昨年の母とちゃびの死からずっと心が疲弊して頭の回転が悪い状態なのに、3時間も集中して難しい話を聞くことができるのかすごく心配。久しぶりに脳を酷使して、エネルギーを消耗しすぎて、途中でこと切れてこっくりこっくり寝たりしたらどうしよう」とFに尋ねる。

Fは「僕もそこまで長い間、集中力が続くわけではない」と、「あなたの頭はあなたが思っているほどには回転が悪いとは思えない」と言う。

「10月に母が死んで、そのあと11月にちゃびが死んでから、緊張とショックが大きすぎてほんとにずっと頭が回らなくて。いろんなものを失くしたりしてる。認知症になるんじゃないかと思って不安で。」と言ったら、

「20年前に出会ってからずっと、あなたが緊張して思いつめていなかったことはない」と言われた。

・・・

『原理主義とは何か』(1996年、河出書房新社)から20年余りの世界の変容を語る、というテーマ(ちなみに私はその本を読んでない)。

会場は満杯で、前のほうの席しか空いていなかったので前から2番目に座る(集中せざるを得ない、うつらうつらはできない、プレッシャーを感じる状況)。

前半の1時間半を終えてからは、混んでいるのでもっと前に詰めてください、と言われて最前列のほぼ真ん中の席になった。

〈まとまりがないが、私個人のためのメモの抜粋〉(誰の発言だったか、メモが追いつかず、最後の方、特に不確かで、発言主を間違えて書いているところもあると思います。)

1995~1996年以降の世界・・・グローバリゼーション化によって抑圧された復讐が始まった年。

日本では歴史修正主義、日本会議の始まり、沖縄少女暴行などがあった。

西谷修さんの発言:

「西洋的なもの」も概念的でしかない。発案、作用、ディスコース、研究。

港千尋さんのやっていることは論理化、整理することだけではないリプレゼンテーション、そこに介入する、美術の市場に介入する、ここにこういう表現がある、というエクスポジションの場に晒していく、場のディレクターであり、マネージメントできない表出、提示。

描くこと、ラスコー、文字文化以前の世界との関係にかたちを与える、「明かしえぬ共同体」、なにを共有しているのか言うこともできない。

私は言語評論界の松本ヒロのようなもの。(お笑い芸人の名らしい)

鵜飼さんはデリダに波長があったのだと思うが、私が波長が合うのはデリダがバタイユを扱うあたりまで。そこからはレヴィナスでいい。

『構造と力』はチャート式に整理している、ポスト構造主義。思想のモードとしては実存主義対構造主義。

バタイユの「禁止と違反」に直結している。

哲学は普遍性を目指すが、ピエール・ルジャンドルは目指さない。言葉を使う生きものしか扱わない。

言語を使う生きものは、それがうまくいかない(言語という、あるオーダーが破綻してしまう)と狂気にしかならない。法のアルケー、コードの塊、ノーム、ノルマ。

理性とは、「Why」という問いに応えること。

我々の知恵は途上の知恵であり、内部観測でしかない。宇宙船から宇宙を見ているのであって、宇宙から宇宙船を見ているのではない。

アガンベンはラテン語2000年の歴史を肥やしにして生えてきた草。

我々が限定されていることの自覚、「終わりなき目的なき手段」であり、終わりは我々には不可能、今、ここで探索しているのであり、永遠に途上であること。

フランスにとっての他者はアラブ、イスラム世界。

ヨーロッパの知性、中心性。(フランス人一般は自分たちはヨーロッパの知性、中心だと当たり前に思っている。)

港さんの発言:

1992年にストラスブールで世界作家会議があった。

旧ユーゴの内戦やアルジェリアの内戦に知識人たちが反応した。

1995年は不気味なものが世の中に顕われてきた年。どの地名をとっても、地名を通して対話が可能となった。

世界遺産への批判。グローバルな土地の占有と結びついている。

ジオとは与えられた大地としての所与のものであって、そこに宗教、文明が生まれたのだが、今はジオそのものが人間と同等以上の力を持ち、ヒストリーやポリティクスに介入し始めている。

鵜飼哲さんの発言:

9.11事件の後、パレスチナ人に会って話を聞きたいと思った。2014年の事件の後、アルジェリア人に会って話を聞きたいと思った。

暗黒の10年に何があったのか、アルジェリアの内戦について、フランスの教養のある人でも記憶にない。アナロジーの作りようがない。隔絶。

アルジェの戦いの時に子供だった人は、フランスがまた侵攻してくるのではないかと思っている。

朝鮮、沖縄、中国を見なければ日本というものはわからない。

世界遺産に入りたいと思っている人は、サバルタンではない。

1994年、世界遺産奈良コンファレンス、オーセンティシティに関する奈良ドキュメント。

第二次世界大戦の時、奈良と京都だけは爆撃されなかった。

知床・・・アイヌの舞踊が無形文化財に指定されているだけ。

田浪亜央江さんの発言:

広島の学生はシリアなどの難民支援を志す人が多い。

呉世宗さんの発言:

沖縄では地名が人名になっている。旅とはある場所を持ち帰ってくること。

原理主義への対抗はトレランスではなくホスピタイティ。

会場からの質問:今は世界多発原理主義化と言えるのか?

鵜飼哲さんの応答:

トランプや安倍晋三は原理主義とは見えない。原理主義の人たちにはもっと真剣なものがある。ポリティークの中では性格が違う現象。ひとつ間違うと原理主義的傾向になってしまう。

西谷修さんの発言:

資本主義というのはマルクス主義の枠組みの中のことであり、今の経済は資本主義とは言わない。

現在は科学技術開発、技術産業、市場のシステムが破綻し、これが経済を支えられない、国民経済の枠がない状態。

観光が最後の段階。これには資本がいらない。交通と飲み食いが経済になる。

それぞれの国の社会の在り方が壊される、社会が持たなくなる、原理主義でなくネガショニズム。世界戦争まで推し進めた勢力が歴史修正しながら出てくる。

原理主義とは宗教的キャピタルを持っているところ。

鵜飼さんの発言:

第二次大戦について、アジア太平洋で、なんでこんなにつながっていないのか。

トランプはオバマが持っていた解決しようという気を持っていない。

最低限、ろこつに空いているピ-スをはめてからでないと議論にならない。

西谷修さんの発言:

ITテクノロジーの問題。我々の情報、経験の質をどれだけ変えているか。

ハイデガーが「形而上学はサイバネティックスにとってかわられる」と言ったとおりになった。

港千尋さんの発言:

ITテクノロジーの問題は、我々の生命が変わるということ。

かつて、スマホ以前の時、ベルルスコーニのことを問題にしていた。今はトランプがそっくり同じことをやっている。

我々が知的な活動にさける時間は1日に数時間。マーケティング的に、その時間をいかにお金に変えられるかがテクノサイエンス。

ツイッターの情報が数千万人に渡ることは、形而上学的な話どころではない。

あらゆる戦争が民営化していった。敵味方の区別がデジタル化。

政治的なクライテリアがずれてきた。実際に何が起こっているのか簡単な図式では整理できない。

鵜飼哲さんの発言:

鈴木道彦先生と入れ違いに研究室を引き継いだ。

今やフランスが世界で一番ファノンの読まれない国。

『地に呪われたる者』「橋をわがものにする思想」、ファノンが橋。ファノンをわがものにできるか。

トランス・ポジション。翻訳と同時に置き換える。ファノンが他の文脈で読める。自分のポジションの正当化にならないために元の文脈に送り返した時に豊かになるように。

自分を人質の立場におく(レヴィナス)。

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私のような予備知識のない人間には、用語や人名などが聞き取りにくくて、今一つつかみ辛いところの多い討論だった。

帰りに、Fと三鷹で食事。私は「こなき純米」という鳥取のお酒を飲んだ。水木しげるのこなき爺のラベルがとっても素敵なお酒(Fは一滴も飲まない)。

「我々の知恵は途上の知恵であり、内部観測でしかない。宇宙船から宇宙を見ているのであって、宇宙から宇宙船を見ているのではない。」という西谷修さんの発言が印象に残っている。

ジャコメッティは見えないところまで描かない、ということを若林奮先生が言っていたと思う。俯瞰でものごとを見ない、実際には見えてもいないことを、さも見えているように言うべきではないということ。(それが、見えないものを無きものとしないことなのだと思う。)

誰でも自分の立ち位置、身体能力でしかものごとを感じることができない。だから想像力と配慮がいる。

これはものを考える時の基本であると思う。

・・・

「言語という、あるオーダーが破綻してしまうと」という西谷さんの言葉から、自分自身のトラウマともいうべき体験が連想されて、お酒が進んでしまった。

言語というオーダーが完全に破綻すべきところが、盗みによってのみあからさまにとりつくろわれて、自我の優越に開き直る、つまり現実認知がおかしく、手前勝手な妄想でいつも有頂天になっている・・・そういう人間たちに私はずっと苦しめられてきた。

その言語(というオーダー)が隠す「根源」があるとすれば、異様なまでの情動の停滞、感覚の鈍さ、あるいは知能の低さだろう。

とりわけ私を6年苦しめたP(パクリストーカー)は、あらゆる言語やものごとの理解がおかしく、抽象的な言葉がすべて自分中心(Pにだけ都合のいいように)歪んでいる。行動は衝動的、空疎で、「狂気」と呼ぶような豊かさは微塵も引き連れていない。

私を標的にして「見てもらいたいから」「惹かれたから」と言い、勝手に(衝動制御障害的に)侵害行為を続けてけてくるPのことがあまりに苦痛で、Pが怖くてたまらなかった。

彼は他人のものを自分のものと思い込んで「自分はすごい」「自分をほめろ」と強要してくる精神の病だ。

Pには無視が通じないのだ。私が黙っていると自分に都合のいい妄想を自己展開して行動がエスカレートする。私がはっきり「本当のこと」を言うと、Pは上から激昂して来た。

彼はどんなに人(他者)を傷つけても、絶対に自己嫌悪したり、内省したりすることがない。彼は激しすぎる自己愛からの妄想で、現実認識が逆に歪んでいて、本来なら恥を感じる場面で大得意になるのだ。

最低限のルールやマナーも身につけていないPに、小学生レヴェルのことを一から説明してわかってもらうことはほとんど不可能に近かった。何度注意しても理解されず、私自身が消耗しすぎて、心身ともにおかしくなるほどに追い詰められた。

Pにやられたことは「収奪」という言葉を使っていいと思うか、とFに尋ねたら、「それは収奪そのものなんじゃない?」と。

それにしてもFは心の病や発達障害などについての認識が信じられないほどに薄すぎる。

いつも「言語という、あるオーダー」が前提的に共有されている場所でしか自分を試されないからだと思う。

文学の内には、言語というオーダーがあり、また言語破壊というオーダーがある。いずれにせよ予定調和的に救われ、言語のそとのものが侵害されるわけではないからだ。

Pのことの経緯はいずれ詳しくブログに書こうと思っている。

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2018年1月13日 (土)

年末から新年

1月13日

昨年暮れから今までのこと。

次に出す本の作品撮影のため、12月28日に、カメラマンの糸井さんがスケッチブックをうちに取りに来てくれた。

近くのファミレスで本の概要や撮影についての希望を説明。

前のカメラマンさんの撮影データと合わせるための試作データが30日には送られて来、それから第2回補正、第3回補正と、色味や鉛筆の線の濃さの調整などのやりとりを正月中に、ずっとできていたのは、とてもありがたかった。

この仕事がなければ、なにひとつ充実しない淋しいお正月だった。

色味のニュアンスなど、感覚的なことを言葉で伝えるのはとても難しいのだが、糸井さんは軽妙で勉強熱心でコミュニケーションしやすいか人なので、彼のお人柄に感謝。

1月1日

福山家の菩提寺から年賀状が届いた!「謹んで新春のお慶びを申し上げます」に呆れて笑ってしまった。

昨年10月、母の火葬場まで若いお坊さんがお経を読みにいらしてくださったのに、そういう事実をちゃんと記録していないらしい。

(私が精神的に参っていたために)母の納骨を春頃まで待っていただきたいという電話をこちらからしないで、ずるずると年を越してしまった非礼を申し訳なく思っていたのだが、そんな気持ちも吹っ飛んでしまい、たいへん気が楽になった。

原宿で見たヤマガラ。

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素敵な枝ぶりの冬の樹。
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12月30日

話し合いのため、Y子のアパートへ。

2017年の年末も差し迫ってから、私にとって人生最大のストレスと言ってもいいほどの他人からの迷惑に対して闘わなければならない事件があった。

以前書いた、母の火葬の日に私の怒りが爆発してしまった件・・・知人H子が何十年も昔に私の父に保証人のハンコを押させていたH子の娘Y子の借金の件で、ついにY子に債権者側から裁判の準備段階として召喚される書類が届いたのだ。

(この顛末については詳細を後述する予定。)

世間一般のように仕事納めで解放される年末どころか、心身ともに酷使せずにはいられない年末となった。

疲労しすぎて帰宅前に駅前の居酒屋で休んだら、薬などのはいったポーチを席に忘れて来てしまった。翌日、店に電話したら感じよく対応してくれた。魚民さん、ありがとう。

・・。

2017年の年末は、大掃除も気力と体力の不充分によりできず、正月の準備、花飾りやおせちなどはなにひとつやらず。

マッサージと整骨にだけは通っていた。

新しい年の新鮮なまっさらになった喜びや、心身ともにひきしまる感じはなく・・・。

思えば母がパーキンソンの認知症になってから、おせちや雑煮など、もう10年以上食べたことがない。

私自身はおせちや雑煮に興味はないが、昔、毎年暮れに祖母が大釜で炊いていた煮物や、母の手作りのニシンの昆布巻きがたいそう嬉しかったことを思い出してしんみりした。

「一夜飾りはいけないのよ」と言って、28日までに千両や万両の赤い実に花を組み合わせた正月の生花を買っていた母。かいがいしく働きまわっていた母の姿を思い出す。

母がいなくなってから、私は正月のために花は買わない。

儀式などは関係なく、ただ、純粋に自分が描きたいという衝動が起きる花を見つけた時に買うだけ。

元日の朝、母のタンタンタン!と勢いよく階段を駆け上がって来る音を聞いた。ねぼけまなこの私を「知佐子!早く起きなさい!年賀状が来てるよ!」と起こしに来た母。

母が亡くなり、最愛のちゃびもいなくなった今、気ぜわしい色とりどりの年末や、真っ白に光り輝いて見えた元日の朝の光が、遠く鮮明な記憶の中だけのものになってしまった。

私にかつてそういうことがあったことが信じられないようにも、また同時に、失われてしまったことが信じられないようにも感じる。

まだどこかに強烈にあるのに、それをつかめない、全身で触れられない淋しさ、苦しさ。

初詣の時に、母とちゃびの健康と幸せを一心に願えないことが、どうしようもなく辛かった。

昨年、ちゃびが亡くなった11月の初めから、12月、私は人生で一番の危機に耐えた。動悸と悪夢、不眠が苦しかった。

眼の前は真っ暗、なにも楽しくなかったし、なにもやる気が起きなかった。

でも大切な相手を亡くした人は私だけではないはずだし、淋しい年末年始を過ごしている人も、この世にはたくさんいるだろう。

12月24日

図書館に行く細い道の途中にある寸断された樹。

頭にトタンのようなものがかぶせてあるのが気になる。

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曹洞宗鳳林寺にて。

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江戸時代からここにあるこれらの石仏にこめられた過去の出来事を思う。
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曹洞宗宿鳳山高円寺の白椿とメジロ。
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花の蜜を食べ、鴬色(渋い黄緑色)なのはメジロで、ウグイスではない。ウグイスは虫を食べ、地味な茶色で、花には来ない。
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2017年12月 4日 (月)

ちゃびへの恋しさが止まらない

12月3日(日)

ちゃびが死んでしまったことを、なかなか受け入れることができない。

理性的にはしかたないこととわかっているが、身体が勝手に反応している。

冷たい北風の中から帰宅してドアを開けたとたん、湿った暖かい空気に包まれ、「ちゃび、遅くなってごめんね!」と駆け寄って抱きしめようとすると、ちゃびがいない。

この部屋の湿り気のある柔らかくて暖かい空気はちゃびそのものだ。涙が噴き出てくる。

自分が寝ているふとんをめくったり、あるいはふとんの端が見えたりした瞬間に、そこにいっしょに寝ているちゃびの茶色くて丸いからだが見え、「ああ、ここにいたの。潰しちゃいそうだった。」と思う。

ほっとした2秒後に、ちゃびがいない、という現実に引き戻され、胸の真ん中の骨のあたりがズン!と打擲されたように痛くなる。

それからどくん、どくん、と骨が飛び出してくるような痛みの感覚とともに「嫌だ、嫌だ、耐えられない。」という言葉が繰り返される。

日に何度か聞こえるカサカサッという音に、ちゃびが私のところに近づいてくるいつもの足音だと思い、ふふっと嬉しくなる。

次の瞬間、ちゃびがいないことに目の前がぐにゃりと暗くなる。

夢の中で何度も、「ああ、ここにいたの。」とちゃびに会い、その数秒後には、「やっぱりいない。嘘でしょ?!」とうろたえる。夢の中でさえ泣いている私がいる。

うなされて眼が覚め、「はあ、はあ、」とまるでセリフのように出てしまっている自分の声を聴く。着ている綿シャツはぐっしょり汗で濡れている。

朝、目覚めた時がもっとも緊張が強く、首や肩の凝りからの頭痛や動悸が苦しくて、レキソタンを飲もうかと迷う。

朝一番に精神安定剤を飲んで依存するのが怖くて、とりあえず、ゆっくりお茶を飲んでみる。それからさまざまな用事をかたずけるが、緊張のための頭痛と肩凝りは収まらない。結局タイレノールを1錠飲み、それでも苦しくてたまらない時には、昼くらいにレキソタン1mgを飲む。

ちゃびがいつも水を飲みにきていたお風呂場。黴を落とすのに強力な洗剤を使いながら、「ちゃびに毒だから、ちゃびが入ってくるまでに洗い流さなきゃ。」と思う。その2秒後に、「ちゃびはもういない」という現実に、胸と頭ががん、と打ちのめされる。

ちゃびのトイレを置いていた場所では、足が引っかからないようによけて歩いてから、もうそこにトイレはないのだと気づかされ、「あっ」と驚く。

外出する時には、ちゃびが玄関の土間に出ないように、洗面所のドアを開けっぱなしにして、玄関への道をふさいでおいた。今も、出かけようとするたびに、洗面所のドアを開けっ放しにしようとしてしまう。

週に1、2回は行っていた店の前を通ると、「トイレの砂はまだあったっけ?」と、いつもの習いで店に寄ろうとしてしまう。そしてまたその2秒後に、「もうちゃびはいないんだ、トイレの砂も、K/Dも買う必要がないんだ。」と気づき、真っ暗になる。

二度と関係ない?この疎外感。この虚しさ。

スーパーでマグロのお刺身を見ても、中トロを買ってきて、ナイフで細かくたたき、レンジアレンを混ぜてから、ちゃびにあげていたことを思い出す。今はマグロの刺身を見るのも辛い。

ちゃびにあげたお刺身の余りを私が食べるのが嬉しかった。自分だけのためになら、もう二度とマグロのお刺身は買いたくない。

いたるところでちゃびのために買っていたもの、買おうと思っていたものに出会うたびに涙が止まらない。

ちゃびの医療費はそうとうかかっていたが、数字としてどのくらいなのかまったく考えなかった。自分のためには食費も暖房費もなるべく使いたくないと思う。

ショックで自分を虐めたくなっているということではない。ただ、自分に余計なものを与えること自体がストレスになるので、極力そぎ落としたい。

ちゃびが私に美しい景色を見せていてくれたのだろうか。ちゃびがいないと、すべてのものごとから魅惑が消えていってしまうのだろうか。

幼少期から、生家には犬や猫たちがいた。だから、一緒に暮らしていた最愛の動物との死別は、これが初めてではない。だが、このようなショック時の過ごし方に慣れるということはない。

最愛の犬、チロとの死別で、私は初めて心身ともにおかしくなった。小学校6年の時。それから何度も悲しい別れを体験し、そのたびに死ぬほど泣いた。

もう一度ちゃびに会えること、強い愛情関係が見つかることしか欲しいものはない。

2007年。10歳の時のちゃびと私(自撮り)。

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私の絵の具箱(高さ110cmくらいのクリアケース引き出し)の上がお気に入りだった。

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いつも私をじっと見ていて、眼が合っただけでゴロゴロいっていたちゃび。Sdh000031

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どんな接写も嫌がらずに私にカメラ目線をくれていたちゃび。
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11月30日(木)

静かな雨。乾いた北風でなかったせいか、それほど寒さは感じなかった。

週に2回、保険外のほぐしマッサージに通っている。通りいっぺんの保険内治療より、一番苦しいところを重点的にほぐしてもらえて効果があると感じる。

11月29日(水)

池袋の公園で猫たちを眺めた。

サラリーマンの男性が食べ物をあげていた。そのあと、その男性が猫を膝にのせながら煙草を吸っていたのが気になった。

どこにもちゃびに似た子はいなかった。

そのあと大塚駅まで歩く。

桜の紅葉はほとんど地面の上。柿色、檜扇色、紅玉色、葉脈の際は山吹色で、山吹色と山吹色に挟まれた部分が朱色の葉など。

大塚駅で都電を見た。線路際に揺れていた黄花コスモスの淡い色。この花がなければ殺風景な線路だ。

今度、この都電に乗って、母がまだ元気だった頃、父と一緒に行ったと言っていた都電荒川遊園に行ってみたいと思う。

11月28日(火)

午前中、E藤さんより電話。「今、すぐ近くに来ているので昼食を一緒にとらない?。」と誘われる。

高円寺の名代そば茶屋で昼間から熱燗。

E藤さんはまったく飲まない人だったが、娘さんの通夜から、お酒をほんの少しずつ飲むようになったという。

蕎麦は、私には汁の醤油が濃すぎて出汁のうまみが感じられず、まずかった。

E藤さんが私の母に会った最後は10年くらい前、西新宿の旧駒ケ峰病院の前で、父と一緒に歩いている母が「これから食事に行くの。」と嬉しそうに言っていたそうだ。

母が病気で外出できなくなる前、父と都内のいろんなところに食べ歩きに行っていたらしい。その当時、母はとても幸せだったと思いたい。

そのあと、E藤さんを送って、E藤さんの家まで行き、娘さんの祭壇にお線香をあげた。

娘さんがかわいがっていたという2匹の猫(外猫)が、ベランダから家の中をのぞいていた。とてもガタイのいい猫だ。ベランダの戸を開けたら、ぱっと逃げてしまった。

誰にも触らせない、と聞いて驚いた。昔、何度か野良猫の世話をしたことがあるが、たいてい1、2か月で慣れて、向こうからすり寄ってきて、ゴロゴロ言いながら私に抱かれるようになっていた。

触らせない猫だったことにがっかりした。撫でるのを楽しみにしていたのに。

E藤さんから「家にいるのがよくない。旅行にでも行ったほうがいい。」としきりに勧められた。夜にネットで、一応、東京から近い島の宿などを調べ、そこに行った自分を想像してみたが、気持ちははずまない。

やはり今、寒い中で遠出すること、時間とお金と体力を使うことを想像すると、さらに疲弊する気がする。

なにかやるべきこと、大切なことの本筋からずれてしまうような焦燥感がある。自分の仕事が遅れていることに対する自己嫌悪。

結局、自分が思うところのやるべき仕事が進むことでしか自分を支えることはできない。

今は、遅々とした歩みでも、仕事と家の中の整理をしていたほうが精神的にいいように思う。

ちゃびが亡くなってから、部屋の中にいるのが怖くて、無理やりにでも電車に乗って出かけたりしていたが、陽のある時間は近所を歩き、あとは家の中にいたほうが心身の回復のためにいいのかもしれない。

外に出て余計なストレスを受けることを避けるほうがいいと今は思う。

11月27日(月)

書道の日。「呈祥献瑞」。淡々とお手本を見ながら忠実に書いたが、正月のおめでたい言葉。

今は書くのが虚しい。

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2017年12月 2日 (土)

死別の苦しみ おばのこと

11月27日(月)

おばさん(母の弟の奥さん)から夜9時前に電話。(私が昼からずっと出かけていたので)「夜分遅くごめんなさい」と何度も言われる。(全然遅くないのに。)

私の送ったお花と手紙が着いたという。昨年亡くなった叔父(母の弟)と、それ以来ずっとふさぎこみがちなおばのために、私が送ったものだ。

お花について、「箱を開ける前からバラの香りがして、とても素敵だった。色合いもあなたが選んでくれたっていう感じがしたわ。」と言ってもらえた。

手紙についても、「あなたはすごい、本当の教養があるわ。胸がいっぱいになった。お義姉さんはよくあなたをここまで育て上げたわね。」と言ってくれた。

「ええっ?そんな。おばさんちの娘さん二人のほうがずっと優秀じゃないですか。」と返すと、おばは「あなたは謙遜するところも含めてすごいわ。」と言うのだった。

「そんなわけないですよ。おばさんちはどこから見ても理想の家庭だったじゃないですか。うちなんてすっごく雑で、酷い父親で。ほったらかし。」

それは正直な気持ちだった。でもおばは、「そんなことない。うちは・・・裏表があったんじゃない。」と言った。

「裏表」とまで言うということは、おばは、私にお世辞などではなく、本音を言っているのだ。

叔父が亡くなってからというもの、おばはよく、自分のことを「傲慢だった」と言う。そうまで言えるのはすごいと思う。昔のおばなら、感じはいいが、物事の上っ面をかすめるだけの中身のない会話に終始していたと思う。

おばは相当教育熱心だった。叔父もそうだったが、おばもまた、すごく細かいところまでしつけに厳しかった。

小学生だった頃、私は、叔父とおばの家に、母や妹といっしょによく遊びに行かせてもらっていた。ピアノや大きなステレオやソファーのあるハイクラスの家。

本棚には私が知らない外国作家の絵本などがあり、うらやましく思った。

それらと並んで、「やさしい女の子に育てる方法」といったタイトルの本があるのに私は驚いた。当時、いわゆる子育てのハウツー本のようなものは、それほど出まわってはいなかったと思う。こんな本まで読んでおばさんはがんばっているのか、と子どもながらに感心したのを覚えている。

田舎育ちで、食べていくために必死で働いていた私の母は、私に勉強やしつけに関して特になにも言わなかった。

私が育ったその頃の西新宿では、私のうちだけでなくまわりの家庭の多くが、やはり、食べていくのに精いっぱいで、子どもの教育などにそんなにかまっていられなかったように思う。私は子ども心にも、叔父の家は全然違う、と感じていた。

おばが今、苦しんでいるのは、元気でしっかりしていた叔父が急に亡くなったショックと同時に、(急なことで私は葬儀にもよばれなかったので、具体的な様子を見て知っているというわけではないが、)おばひとりが悲嘆にくれていて、娘二人が(冷淡とまでは言わないが、)悲しみに対して淡白だということもあるらしいのだ。

二人の娘にはそれぞれ家庭があり、子どももいて忙しく、おばはひとり取り残されたような気持になっているようだ。

「私が人に尽くすより自分のことが一番だったから、子供たちもそれを見ていて、人のことより自分が一番になった。でもお義姉さんは違う。だからあなたもお義姉さんに似て愛情が深い。」とおばは言う。

おばから見れば、私からずっと介護されていて、亡くなってからも恋慕われている私の母が、とても幸せに思えるのかもしれない。

しかし、違う観点から見れば、父親を亡くしても平常心を失わずマイペースで生きていく私の従妹たちのほうが、私よりずっとしっかりしていて頼もしいと言えるのではないか。

私は母の介護から解放されて自由になった、という気にまったくなれず、呆然とするくらい厭世的になっている。

元気な時の母の姿ばかりが思い出され、母の生命がこの世から消えたこと、激しくて一生懸命だった母と過ごした時間が過去になることが淋しくてたまらない。

母は必死で忙しく働いていたので、過保護だったとは思わないが、母の私に対する愛情が、私の心を弱くするほど、深すぎたのだろうか?

元気だった頃の母に、情熱的で、献身的で、働き者だった母に、子供の私が甘えすぎていたために、私はいまだ、精神的に自立できないのだろうか?

11月26日(日)

母とちゃびの喪失の悲しみが深すぎて、自分の感受性や認知力が衰えてしまうのではないか、それが怖くて、とにかく陽が暖かそうな日中は歩くようにしている。

色づいた樹々の下、東京国際フォーラムの大江戸骨董市を散歩。

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物を所有したいという欲望が無くなっている。ただ、古びた色、ところどころに欠損さえある、わずかにくずれかけた輪郭を見つけて、市の雰囲気を味わう。

Ooloo(私の大好きなGeorge StuddyのキャラクターBonzoの恋人猫)の人形に出会った。すごく珍しいもので48000円。

(BonzoとOolooのキャラクターに出会ったのは、もう20年以上も前、吉祥寺のLivesにあったアンティーク屋でだ。それから私はこの強烈で愛嬌のあるキャラクターに魅せられ、BonzoのSalt&Pepperを集めたり、ロンドンに行った時にはBonzo Annualの古本を買ったりした。

それもちゃびと出会う前の話だ。Bonzoの愛くるしさもちゃびの愛くるしさにはかなわない。)

そことは違う店だが、きれいな手編みレースや、陶器や、私の好きなシュタイフのぬいぐるみの隣に、本物の動物の骨(店によっては鳥の剥製まで)が置いてあるのに、すごく違和感がある。

以前行った多摩の骨董市で、「この骨、かわい~い。こういうちっちゃいの探してたんですよ!」と言っている若い女がいた。店員が「これ、かわいいですよね~。なかなかこういう小さいのはないんですよ~。」と応じているのを聞いて、ぞっとしたのを思い出した。

彼女たちには、動物の死体からとられた骨も、自分たちのための、おしゃれな飾り物としか見えない。

小さい骨は動物が幼くして死んだ、その亡き骸だという意識、はかなく短いその命を憐れむ感覚がない。

もしかしたら自然死ではなく、人間のおしゃれに利用するために殺されたかもしれない。たとえ自然死だったとしても、死体からとった骨を「かわいい~」という感覚に、私は激しい嫌悪しか持てない。

(肉食しないことはもちろん、私は普段の生活から革製品もなるべく遠ざけているが)、これはリアルファーとフェイクファーの区別が(感覚的に)つかない人と一緒なのだろう。

そのあと、ブリックスクエアを通り、丸の内のKITTEに入った。JPタワーで偶然、『植物画の黄金時代――英国キュー王立植物園の精華から』のポスターが目にとまり、これは私が見るべき展覧会だと思い、入った。

入場無料。

植物画と植物の標本(押し花のようなもの)が同時に展示してあり、興味深かった。

Franz Andreas Bauer(フランツ・アンドレアス・バウアー)の「ゴクラクチョウカ科ゴクラクチョウ属オーガスタ」(18世紀後半~19世紀前半)の、特に黄色ではなく白地に赤紫色がさしてあった絵に立ち止まる。

とても妖しくて胸がざわついた。

鬱に近い今の私でも、絵のよしあしははっきりわかった(少しほっとする)。

ポスターになっていたのはGeorg Dionysius Ehret(ゲオルク・デゥオニシウス・エーレト)のチューリップ。

植物画の特別展示のほかにも、学術文化総合ミュージアムの展示が並んでいたが、やはりそこでもたくさんの動物の骨を見るのが辛かったので、立ち止まることはなかった。

動物を愛することについてなにを、どう書くことができるか、今もちゃびに話しかけている。

11月25日(土)

晴れていたので、とにかく少しでも歩こうと吉祥寺に行ってみた。

中道通りを散歩。20年くらい前にコサージュを買った「カサギ」というお店がまだあった。笠置都さんというオーナーさんがコサージュをつくっているらしい。

中道通りの奥の蔦が絡まる古い「潤アパート」。

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三鷹まで歩く。

線路沿いに生産緑地があり、扇形に広がる雲がよく見えた。

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11月24日(金)

叔父を亡くしたショックでふさぎこんでいるおばを慰めるために、便箋3枚の手紙を書いた。

元気で真面目でしっかりしていて、男にしては心配性で、細かいところまで口うるさかった叔父。

「正江(私の母のこと。なぜか母の兄弟は互いを名前で呼び捨てにしていた。)のことをよろしく頼むよ。」といつも私に言っていた叔父。

(私は詳しいことは聞いていないけれど、おそらく)父の借金の時も援助してくれた叔父。

生前、母がたいへんお世話になったことは、叔父に対して、言葉に言い表せないほど感謝の気持ちでいっぱいであること。

いつまでも元気と思っていた叔父が急に亡くなったと聞いて、私も目の前が暗くなるほどショックだったこと、おばのショックは計り知れないだろうということ。

私の父は私を不安に追い込むことばかりをやる人だったが、しっかり者の叔父がいてくれて、叔父が母を思いやってくれていることが、ものすごく私の心の支えになっていたことを、思い知ったこと。

それらを手紙にして伝え、月曜に届くように花を送った。

花は薔薇を中心にクリーム色とアプリコット色のアレンジ。お供えにはとげのある薔薇はいけないそうだが、叔父が亡くなってからすでに1年半が経っており、目的はおばを慰めるためなので、あえて薔薇にした。

白っぽい花よりも温かみのある優しい色を選んだ。

11月21日(火)

詩人の阿部弘一先生に送る香典返しの品をさがしに、新宿のデパートへ。

高島屋、伊勢丹の贈答品売り場でお茶の銘柄を見てまわり、高級なお茶はどちらも同じ会社のものだった。「愛国製茶」という名前は嫌いな人は嫌いだろう、と思うのでやめた。

最後に小田急の地下に行ったら、阿部先生のお好きな椿の花の絵の意匠を凝らした箱入りのお茶があったので、それにした。

月曜(11月27日)に届くように指定して頼んだ。

新宿南口では、バスタの前のデッキをはじめ、そこここでイルミネーションがきらきらしていた。

クリスマスに向けた飾りつけを見ても、すごく淋しくて辛くなる。もともと人工的な華やかさをあまり楽しめない性質だが、今年はたまらなく淋しい。

かと言って、都会に灯りが乏しくなったら余計淋しく感じるのかもしれない。

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2017年11月26日 (日)

ちゃびのこと、猫(動物)の看取り、動物を愛するということ

11月22日(水)

お世話になった動物病院に未使用の輸液や薬を返却しに行く。

ちゃびが亡くなる前日に、まだ、すぐ亡くなるとは思っていなくて購入したものだ。

(亡くなると思っていなかった、ということを思い出すと、苦しくて発狂しそうになる。)

これから一生、猫と触れ合えない人生が考えられない、すごく苦しい、と快作先生に言ったら、今、病院のケージの中にいる治る見込みのない猫の看取りをやらないかとすすめられた。

野良猫で、悪性リンパ腫で、おそらく余命半年くらいで、絶えず下痢をしているキャラメルちゃん。外猫として世話をしていた人たちからも、誰の自宅でも飼えなくて、お金を払うから引き取ってほしい、と言われたという。

顔はちゃびとはまったく違うけれど、同じ茶トラなので、快作先生は私に引き取ってもらいたくて、「ね~、ちゃび。」とキャラメルちゃんに話しかけて見せたりしていた。

「温かい部屋にいて、近くに人がいて、テレビがついているような安心できる暮らしを死ぬ前に味あわせてやりたい」「看取りをしてくれる人がいたら、なによりも助かる」「預かってくれる人がいない」と快作先生に言われて、苦しすぎて、ただ涙が出た。

外猫(地域猫)で、食餌の世話をしていた人はいるが、病気までは面倒みきれなくて、ほっておかれて死んでしまっていたかもしれない猫で、とりあえず病院に連れて来てもらえて、病院のケージに入れられて、命拾いだけはした猫。

引き取って看取りをしてあげたいとは思う。しかし、今の私には、愛情を注ぐものがやせ衰えて死んでいく現実を受け止めて、全力で介護する覚悟とエネルギーがない。

心身共に、今の私の力では足りる気がしない。

やるからには全力で介護しないわけにはいかない。同時に、誰もそれをやりたがらないなら力不足でも誰かがやらないと、という気持ちもある。

それをやったら、私自身が精神崩壊しかねないのではないか、という懸念がある(実際はどうなるかはわからない。私は私自身が予測するより強いのか、弱いのかわからない)。

どうしたらいいのかわからない。ただ苦しくて涙が止まらない。

ちゃびと死別して、正直、自分の精神崩壊、うつやパニック障害になるのは嫌だ、とすごくおそれている。

私が愛情や思いやりを注げる相手が喪失した、その欠落に苦しんでいるのだ。

自堕落になる気もなく、サプリ(アスタキサンチン、ブルーベリー、タウリン、レシチンなど)を飲んだり、日がさしている時間帯にはとりあえず無理やりでも歩くようにしている。

街を歩いていても勝手に涙がこぼれる。酷く疲れた顔なので極力、人に会いたくない。

11月20日(月)

人生で一番悲しい時、自分自身がどういうふうに過ごして(生きて)いったらいいのか、また、人生で一番悲しい時の相手に、自分はどのように接していったらいいのか、どんな言葉をかけたらいいのか、そんなことばかりを考える毎日。

・・・

午前中、おばさん(私の母の弟の奥さん)に電話。数十年ぶりにA子ちゃん(母の妹の娘。つまり、私の従妹、おばさんにとってはやはり姪)と連絡がついたことを報告。

おばさんは叔父さんを亡くして1年と半年。まだなにもやる気が起きない、誰にも会いたくない、と言う。体重は40kgもないそうだ。月命日は毎回、おじさんのお参りに行っているという。

おばさんはうつだと言うが、話し方に快活で頭のよかった昔の感じはそのまま残っている。ただ、かすれて低い声の色が苦痛をものがたっている。話す内容が、もっと叔父にこうしてあげればよかった、という後悔ばかりになっている。

おばさんは私に「お義姉さんは、お義兄さんのことですごくたいへんなことがたくさんあっても、家族っていうものをつくっていく力があったと思う。」と言われ、「母があんなどうしようもない父に惚れたせいで、私にばっかりしわ寄せが来てますけどね。」と言ったら、

「知佐子ちゃんはものすごく苦しい時でも、それにうまく対応する能力がある。そういう大物感があるのよね。だって声から笑顔が浮かぶもの。」と言われた。

私は自分が心身ともに強いとはまったく思えないし、実際、心拍がおかしくなっているし、ほとんどうつの一歩手前だが、おばさんを慰めたいという気持ちだけはとてもある。

おばさんは叔父と本音をぶつけ合わなかったことを後悔していた。いろんなことを話さないうちに、「まるで交通事故のように」、すい臓がんの告知からすぐに別れになってしまったことをとても悔やんでいた。

癌性の脳梗塞が多発し、癌の治療が始まる前に会話できなくなってしまったことがものすごくショックだったのだ。

子どもに対して口うるさく言い過ぎたことも子育てに失敗した、とおばさんは言っていたが、同じように愛情を注がれても私と妹は全然違う性格になったのだから、親の育て方のせいとばかりは言い切れない。もともとの資質とか、わからないことは多い。

母は自分の感情を押し殺すタイプではなく、私にはヒステリックに言いたいことをぶつけてくることも多かった。母は働き者で忍耐強くもあったが、笑ったり、泣いたり、怒ったり、感情回路はストレートで激しかった。

母が元気で私が若い頃は激しく衝突することもあったが、思いっきりぶつかり合える関係は幸せだったのかな、と今は思う。

母は世間がうらやましがるような贅沢には興味がなくて、どんな環境でもその場で面白いことをさがして楽しめる人だったから、それだけは私にとって、すごくよかったのかな、と思う。

ちゃびが亡くなって、私もすごく精神的に辛すぎておかしい、とおばさんに話したら、「ペットロス」という言葉を使われ、すごく違和感があった。

ちゃびを「ペット」だと思ったことが一度もない。「子ども」「恋人」…、どういう言葉を使っていいのかわからない。ただ、狭い部屋にずっと一緒に暮らしていて、心身ともに激しく求めあう関係、お互いに相手のことはわかっている、理解していると思える存在だった。

おばさんは動物と一緒に暮らしたことがないそうなので、それ以上のことは言ってもしかたないと思った。

・・・

午後、ほぐし屋さんで、凝り固まった背中の筋肉をほぐしてもらう。

僧帽筋、脊柱起立筋も酷いが、菱形筋が特に凝り固まっている。

リンパの激しい痛みは治まったが、まだ乾いた咳があり、血の混じった痰が出る。洗える布製の抗ウイルスマスクをしている。

・・・

夕方5時に、生まれて初めて保護猫カフェに行ってみた。

正直、ちゃびと同じ「猫」という生きものとは思えない子たちばかりだった。「猫」ってこんなだっけ?と思うくらい、私が知っている「猫」とは違った。

成猫が皆、ちゃびの数倍もガタイがよくて、頭の大きさに対して体幹が大きすぎるのだ。

そして顔のバランスがものすごく違う。皆、顔がクサビ形で、鼻の筋が太くて長く、直線的だ。ピューマとかチータとかに近い雰囲気の子ばかりだった。

たまたま同じ兄弟の子が集まっているのかもしれないが、私にとっては「猫」というものが「ちゃび」とあまりに違うことに驚愕しかなかった。

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ちゃびのおでこから鼻にかけての柔らかな曲線が恋しくてたまらない。

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蠱惑的で甘えっ子だったちゃび。
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11月19日(日)

保護猫譲渡会に行ってみた。

眼に障害がある子、四肢欠損の子、どの子もかわいく、愛情を感じた。

けれど、当たり前だが、「ちゃび」はいなかった。

夜、すごく苦しい感情が堰を切って溢れだし、爆発してしまった。

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2017年11月21日 (火)

阿部弘一先生/ 悼むということについて

11月18日

冷たいセメントのような灰色の曇り時々雨の日。冬の気配が濃くなってきている。

朝、書留が届いたのでなにかと思ったら、阿部弘一先生からのお香典だったのでとても驚いた。

気安くお話しできるような間柄ではないのだが、3日前に私が出した年賀欠礼状が届いてすぐに、私などにお香典をくださるとは、本当に恐縮するばかりだ。

手紙に「お母様のご逝去を心よりお悼み申し上げます。また、“ちゃび”まで・・・・・、ご心痛の程、ただただお察し申し上げるばかりです。どうぞお体を大切にされますよう・・・・・。」とあった。

「ちゃび」のことまで書いてくださっていることが嬉しく、ありがたすぎて、涙。

目上のかたに出す年賀欠礼状に、ちゃびのことを書いていいのか少し躊躇いがあったのに、一番書くことを懸念した阿部先生が、真っ先にちゃびのことまで悼んでくださったことに痛み入る。

阿部弘一先生は、私の師、故毛利武彦先生のご親友で、とても尊敬する詩人だ。

私が美大を卒業して2、3年の頃、父の借金を負い、疲弊して、もう絵を続ける気力も失いかけ真っ暗な闇の中で迷っていた頃、毛利先生のお宅に伺った時のことだ。

「ポンジュって知ってる?僕の友人が訳しているんだけど…。」最初、そんなふうに、毛利先生は阿部先生のことを教えてくださった。

そして毛利先生のお宅で私は阿部先生と初めて出会った。その時に阿部先生は私が持参したスケッチブックの中の椿の絵を気に入ってくださった。

2001年に祖母が亡くなった時にも、阿部先生からクリーム色のチューベローズ(月華香)や青と白のアネモネが美しく盛られたお花が届いて、あまりにも驚いたことがあった。

阿部先生が私のような者をこのように気にかけてくださることは、大きな喪失の淵にある時、とても信じられないほどありがたい。

阿部弘一先生。1978年4月、ヴァレリーの眠る海辺の墓地(フランス、セート)で。

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私の最初の個展の時の阿部先生と私。

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11月17日

ちゃびのことをとてもかわいがってくれて、私が家を留守にするときに、ちゃびと一緒に留守番していてくれた友人Nちゃんから長距離電話。

ちゃびが亡くなった直後から2回目の電話だ。Nちゃんも「あんなかわいい子はどこにもいないよね。」と言って泣いてくれた。

Nちゃんはかつて近くに住んでいて、ちゃびのことを長年、すごく愛してかわいがっていてくれた。わかりすぎるので、あまり言葉もなく、ただ電話口で一緒に泣いた。

ちゃびはよくNちゃんを踏み台にして、高い棚のてっぺんに駆け上がったりしていたこと、なんにでもよくじゃれて、疲れを知らずに遊びまわっていたこと。元気で、暴れん坊で、愛嬌たっぷりだったちゃびのことを覚えていてくれて嬉しい。

Nちゃんが一緒に留守番していてくれた時、私の帰宅する気配を待って、ちゃびはいつも落ち着かなかった、と言っていた。

・・

母が亡くなってすぐ、私が寝込んでいる時に、クール宅急便(冷凍ではなく冷蔵)を送ってきた人がいた。段ボール箱を開けたら、ジップロックに煮物などの手料理がいくつか入っていて、おまけに肉を使ったものあったので、すごく困惑した、という話をNちゃんにしてみた。

私は(動物を愛するために)肉食だけは(反射的に吐いてしまうくらい)どうしてもできない、と何度もはっきり伝えているのに、「友達だから手料理を送ったのに…」と言われた、という話をして、「どう思う?」と聞いてみた。

Nちゃんは「異常に気持ち悪い。肉食できないことって、本人にとってものすごく重要なここだよね。」と言った。

私は「もちろん、私の人生で最も重要なことのひとつ。」と応えた。

「友達なら、相手が肉が食べられないことを覚えていてくれるはずでしょう。それに肉が入っていなかったとしても、手作り料理をジップロックに入れて送るなんて不潔で気持ち悪すぎる。そんなの食べられるわけないのに。」と言ってくれた。

私にとって、肉料理は動物たちを殺すことに変わりない。、

私はもともと肉食をしないが、よりによって母が亡くなったばかりの時に、肉の手料理を送り付けられることは耐えがたかった。どうしてこんなに余計なことをするのだろうと思った。

さらに「いらないならクール便で実家に転送してほしい」と言われたんだけど・・、と伝えると、「その人は完全におかしい。」とNちゃんは言った。

過去にも何度かあったが、大切な人が亡くなって、私が心身ともに一番弱っているような時にかぎって、「福山さんのために」と言って、エゴの塊の自己承認欲求をぶつけて、ずかずか踏み込んでくる人たちがいる。

私にとって異常なストレスでしかない。

たとえば、恩師である毛利武彦先生が亡くなって、私が泣くのと吐くのをくり返している時に、面識もない他人であるにもかかわらず、自分が私と毛利先生の重要な関係者だという勝手な妄想で、「師の死に捧げるオマージュ」なる安い創作物を送りつけてきたN・S。

彼は一方的に憧れる相手に同一化して自分が「芸術家」になった妄想で有頂天になる精神の病だ。(彼から受けた耐えがたいストレスの経験について、いずれブログに書くつもりだ。)

あるいはまた、父が亡くなった時に、よく知りもしない他人の親について自分の意見を書いて送りつけてきて、私が「私はあなたの意見を必要としていません」と返答しても、何度も「自分の意見を聞け」と強要してきたI・S。彼女は私よりひと回り以上も年下だ。

相手を理解する気がなく、ただ一方的に自分がやりたいことをやって「ほめろ」「ありがたがれ」と押しつけて、私に甘えようとしてくる他人が、ものすごく気持ち悪い。

彼らは自己愛が強すぎ、現実の解釈が歪んでいる。

私は相手を拒絶しないように見えるらしく、そういう人たちからターゲットにされる経験がとても多い。そういう人たちは自分の言動が相手に嫌がられるということを認めない。彼らは私とすごく親しくて、自分のやることはすべて私が喜ぶ、と思い込んでいる。

そういう人たちを無視しても通じなくて被害が甚大になるので、最近は、端的に「そういうことをやられるのは私は苦痛です」ということだけはしっかり伝えるようにしている(伝えても理解しない人がいるので困るが)。

Nちゃんは過去にそういう人たちから私が受けた被害をよく知っているので、とても心配していてくれた。

Nちゃんに話せてちょっと楽になった。

11月16日

実家にあった古い電話番号簿が見つかったので、新潟市に住む従妹(母の妹の子)のA子ちゃんに電話してみた。

私が大学生の頃、母と新潟に遊びに行った時のこと、また、そのあと新宿の私のうちにA子ちゃんのほうから遊びに来てくれた時のことなどをよく覚えていて、話してくれた。

とりわけ母のことをよく覚えていてくれたことが嬉しかった。母は、弟である叔父とともに、新潟にいる叔母とも、とても仲がよかった。

A子ちゃんが一時、東京で暮らしていた時、母がA子ちゃんの様子を見に行ったそうだ。近くの中華屋で一緒にチャーハンを食べ、母が「これ、ラードがはいってるから嫌い。」と言っていた、と。そんな些細なエピソードを話してもらえることが今は嬉しい。

A子ちゃんのお母さん(私の母の妹)は神経質で、子どもに少しうるさく文句を言いすぎる性格だったようで、A子ちゃんは「おばさんが自分の母親だったら、うまくいったと思う。」と言った。

A子ちゃんが「正江おばさんには安心して母の愚痴を言えてました。」と言ってくれたことがとても嬉しかった。

母は私には感情を激しくぶつけてくることも多くあったが、母は私にはなにを言ってもだいじょうぶと思っていたから、それくらい私を信頼していたのだと思う。

母の死亡後の手続きに区役所に行って書類をもらった時、母の戸籍に「四女」と書いてあったのに驚いた。

母の兄妹は全部で9人か10人あったらしい。

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2017年11月18日 (土)

ちゃびのこと

11月17日

母とちゃびを相次いで亡くし、今は私にとって人生で最大の喪失感に苦しむ時だ。

私にとって、ただ存在するだけで無条件に激しく暴力的に愛し愛された相手、私の命をかけて守りたいと必死になっていた相手が、この世からいなくなってしまったのだから。

このことを「乗り越える」ことは決してないだろう。大切な命が失われてしまった体験に対して、本来、「乗り越える」という言葉を使うべきでないと思う。

時が、ほんの少しずつ、心身の酷い痛みと動揺を和らげ、薄くしていってくれるのかもしれないとは思う。でも、それにしたって実際どうなるかは、この先経験してみないとわからない。

たいへんな「喪」の作業(世間一般の四十九日とか、読経とか、納骨とかとはまったく関係ない、私個人の)がいるだろう。

「喪」と名づけるべきでもない、私個人の喪失の体験の処し方、これこそがなにかを「表現する」ことそのものになっていないのであれば、私が生きていて表現する意味もないと思う。

毎日、ちゃびの写真をさがして整理している。

本にまとめるために過去の素描(デッサン)を整理した時と同じように、私自身にとって大切な発見がある。

20数年の記憶は、忘れていることも多く、断片的な記録や写真によって蘇り、リアルに追体験できたりもする。

私が絵を描いている時、ちゃびが、花瓶とスケッチブックを支えているちゃぶ台の上にどん、と乗っかって、絵を描くのを邪魔している写真。この絵を描いている時にも、ちゃびは私に絡みついてそばにいた。

(2000年のちゃび。この写真の時に描いた枯れたドクダミの素描(デッサン)がスケッチブックに残っている。当時、私はある小さな雑誌の表紙画を描いていた。)

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絵を描いている私の肩の上に乗っかって離れなかったり、私が絵に集中すると、自分のほうをかまえ、とことさらに激しく全身の力を込めて私の背中を蹴って、傷だらけにしたり…。

私が植物を持って帰るとすぐにちゃびは何の草かチェックしていた。薔薇やパンジーは買って来たら一瞬の隙にかじられていたので、かなり描くのがたいへんだった。

植物を氷水につけて流し台の中においても、必ずかじられるので、コップに生けて冷蔵庫の中にしまうしかなかった。

私の植物の絵を見ただけでは、ちゃびがそこにいることはわからないが、ちゃびは私と一体化するように、あまりに近くにいた。

私はちゃびと一緒に生きながら、蠱惑的な生命の秘密の世界で、植物の絵をたくさん描いた。

ちゃびが私に植物の絵を描かせてくれていたのだと思う。

私が誰かに会いに出かける時も、ちゃびは元気で留守番していてくれた(時には友人が、私の外出中はずっとちゃびを見ていてくれた)。

若林奮先生、種村季弘先生、毛利武彦先生、大野一雄先生、中川幸夫先生…私が心底慕った大切な先生たちがひとり、またひとりと亡くなって、私が激しく嗚咽してぼろぼろになっていた時も、いつもちゃびは元気で、私のそばにくっついていてくれた。

帰宅するとき、ちゃびが、私の階段を上る足音に飛び起きて、もう玄関に走って来ていて、ドアを開けた瞬間、嬉しそうにわあっと私にまとわりついてくる、そのことを、私はどれほどの奇跡だと自覚し、全身で味わうことができていたのだろうか?

幸せのさなかで、命が有限だと言うことをどれだけ意識できただろうか。

あまりに一心同体で、互いの身体の中に出入りするような関係だったから、ちゃびが生きているうちは、まるでナルシスティックな話にとられそうで、ちゃびのことを語ることが憚られた。

今、私は身体にちゃびを思い切り刻み付け、瘢痕を残したいと思う。

(2011年。13~14歳のちゃび。)

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常に私のことを眼で追い、私に甘えようとしていたちゃび
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私の絵の具箱(高さ110cmくらいのプラスチックの引きだし)の上がお気に入りだったたちゃび。この上から私の上にどーんとジャンプしてきた。

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とにかく元気で暴れまわっていた。

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(2012年。14~15歳のちゃび。)
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枕で私を待っているちゃび。

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私になでられるのが大好きだったちゃび。
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乾燥したカラスウリにじゃれているちゃび。
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11月15日

鼻の奥の炎症と頸部リンパの腫れを抑えるためにサワシリンを1日3回服用。毎日、少しずつだが頸のリンパの腫れは治まってき、きょうはずきずきしない。

そのかわりに、なぜか乾いた咳が出てきて苦しい。アステラス製薬に確認したが、抗生物質で細菌を抑制したから風邪のウイルスが優位になる、ということはない、と言われた。

また、サワシリンに関してはカルシウムとキレートをつくることはない(牛乳などの食べ合わせは気にしなくていい)、と。

このところずっと昼は温かい蕎麦にネギと卵を加えたもの、夜は日本酒とつまみ、という食事。それと毎日、スチューベン(野性的な酸っぱい葡萄)を食べている。

それ以外のものを食べる気になれない。

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2017年11月12日 (日)

20年前、ちゃびと最初に出会った場所

11月4日

ちゃびの火葬。

仏教徒でもなく、すべての宗教を特に信じない私は、移動火葬車を選んだ。

遺体を渡す時、ちゃびの亡骸と別れるのがあまりに辛すぎて、号泣してしまった。

未練が果てることなく、ちゃびの顔にちゅっちゅっと吸うように口づけると、けだもののちゃびの匂いがして、私の胸いっぱいに満ちて溢れ、身体に衝撃が走った。

匂いからは死んでいることがわからなかった。このまま、ずっとちゃびの遺体と暮らしていけたらどんなにいいだろうと思った。

「お骨を一緒に拾いますか?それともこちらでやりましょうか?」と聞かれて、吐きそうになって、「考えられない。」と答えてその場(近くの駐車場)にしゃがみこんで泣いた。

40分くらいして、火葬が終わったと電話がはいった時は、かすかに落ち着いていた。と言うより、現実がよくわからなくなっていたのかもしれない。

ちゃびの骨を拾って、骨壺に入れたが、私は泣いていなかった。もちろん悲しくないわけではなく、身体や心の痛みが消えてなくなったわけでもないのだが、一瞬、呆けたような、真っ白な、時間とも空間とも言えないどこかにはまりこんでしまっていた。

ちゃびのお骨をいったん自宅に置いてから、20年前にちゃびと出会った善福寺川のほとりまで自転車を引いて行った。最初の時にちゃびを自転車で連れて来たから、やはりそこへは自転車で行きたかったのだ。

ちゃびが捨てられていた善福寺川沿いの瓢箪池近くの土手の角に着いた時、激しい悲しみで泣き崩れてしまった。

あの時から20年が過ぎたこと、そのあいだにちゃびが人間で言えば100歳近くになっていたことが信じられなかった。その自分のふがいなさも、すべてが酷く悲しかった。

あの時、私は、先に保護した茶トラの赤ちゃん猫の「ちび」が、懸命の治療の甲斐もなく、たった17日で亡くなってしまったばかりで、あまりのショックに物凄くやつれていた。すっかり青ざめて、眼の下に真っ黒な隈をつくって、私はガリガリに痩せた幽霊のようになっていたと思う。

「ちび」は、たった17日で、掌にのるような赤ちゃんから、少し大きく成長していた。

死ぬ前に、私に撫でられて、「ちび」が安心したようにゴロゴロ言っていたのを鮮明に覚えている。どうしたらよかったのだろう、どうしたら救えたのだろう、と私は際限なく苦しんだ。

呑気に、無責任に、野良猫に食べ物をあげたりして満足しているのは、人間の無知とエゴでしかなく、ちっちゃな赤ちゃん猫が、野良猫のまま予防注射もされないでいれば、あっという間にパルボ(伝染性腸炎)などの病気で死んでしまう、という現実を、いやというほど思い知らされたのだ。

その数日後に、私はちゃびに出会った。

私は「ちび」を失った悲しさと苦しさに胸が潰れてしまいそうで、どうしようもなくて、無性に野良猫に会いたくて、自転車で善福寺川沿いに行った。そこで野良猫の世話をしている女性と、ふと言葉を交わしたのだ。

人に怯えていて捕獲するのがたいへんだった赤ちゃん猫を、やっと捕獲して、これから大切に育てようとしたのに、パルボで、入院させただけで死なせてしまった、と言ったら、その女性が教えてくれた。

「ちょうど今、捨てられたばかりの赤ちゃんがいるのよ。」と。

善福寺川沿いの土手の角の隅っこに、誰かが引っ越しの時に粗大ごみを不法投棄し、一緒に段ボールの中に猫の親子を入れて、その上に重しのようにテレビを乗せて捨てて行ったという。

猫たちの鳴き声を聞いて、その近くの植え込みに住んでいたホームレスの人が、段ボールの中から猫を助け出して植え込みの中に移動してくれた、と。

そして、その植え込みに連れて行ってもらって、私はちゃびと出会ったのだ。

お母さんとちゃび(1997年7月21日)。お母さんはいろいろミックスされた柄の子だった。

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ちゃびにはあと2匹の白い男の子と女の子の兄妹がいた。当時、お世話をしていた女性が2、3人いて、そのうちの一人と私とで引き取った。私はちゃびと白い男の子(コナと名づけた)をもらった。

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人を怖がらなくて、白い女の子とおっとりとポーズをとっていたちゃび。

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その植え込みのあったところは現在、駐車場の一部になっている。だからホームレスの人も住めない。

すべてが淋しくて悲しい。

11月5日

ちゃびがいないことが苦しすぎて受け入れられない。

2日で2kg痩せた(現在162cm、44kg)。

泣きすぎて眼の上と下の骨部分と眼窩がずきずきしてすごく痛い。

ドクン、ドクンという胸の真ん中を殴られるような動悸がして眠れない。呼吸が苦しくて「はあ、はあ、」と声に出てしまう。

夜中、幾度も「ちゃび!」と呼びたくなり、だけど呼ぶことでものすごく苦しい現実に塗りこめられてもっと苦しくなるので、声に出して呼びたくない。心の中だけで呼んでいる。

なににも慰められない。なにも欲しくない。

食べたくない。お酒だけは飲める。お酒を飲むと激しい動悸が収まって少しだけ楽になる。

・・

ちゃびのことを大切にしてくれた友人と西荻を歩いた。

ちゃびと出会う前に私は、わずかなあいだだが、西荻に住んでいて、その頃はアンティークに夢中だったので、当時のアンティーク屋が今もあるか気にかけながら歩いた。

アンティーク屋巡りをしても心が浮き立つとはまったく思えなかった。ただ、自宅にいて、ちゃびがいないという耐えがたい痛みと向き合うことから、ほんの一瞬でも逃避したかっただけだ。

当たり前だが、20年以上も時がたてば、街並みはずいぶん変わっている。真新しいものには興味はない。当時、よく目の保養に行っていたアンティーク屋さんは、ほとんど(fujiiya、ベビヰドヲル、ムーンフェイズ、アーバンアンティークスなどなど)なくなっていた。

信愛堂書店さんは小さくなって、新刊の書籍が減り、品ぞろえも変わっていた。

自分が住んでいた住所も正確には思い出せず、近辺を歩いてみたが、どうやらその建物はなくなっているようだった。

「地蔵坂下」という忘れていたバス停の名前。22年くらい前に、このバス停の名を楽しい気分で見たことははっきり覚えている。

日が暮れて風が冷たくなった時、急にちゃびがいないという現実に襲われて、通りを歩きながら激しく嗚咽してしまった。

老舗の酒屋さんで飲みなれている銘柄の日本酒の小瓶を買い、裏路地で一口飲んだ。激しい動悸を抑えるには今のところ、これしかないのだ。

私が住んでいた頃もあったはずの古い酒屋さん。当時はお酒なんて興味もなかったので酒屋があることにも気づかなかった。

当時と変わらず、(意外にも)なくなっていなかった駅前の「天下寿司」という回転寿司で、かつてお気に入りだったカリフォルニア巻(エビとアボカド)を食べた。

なにをしても、どうにもならない悲しみから逃げられなかった。

11月6日

E藤さんから電話。ずっと闘病中だった娘さんが3日に亡くなったと。

言葉が出なかったが、お通夜に伺うと伝える。

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2017年11月 8日 (水)

ちゃびが亡くなりました

11月2日

11月2日(木曜日)、午後12時30分、ちゃびが亡くなりました。

20歳と4か月(推定)でした。

1997年の7月、善福寺川のほとりに捨てられていた生まれたばかりの赤ちゃんちゃびと出会い、一目見て、私は魂全てを奪われてしまい、この子と暮らしたい激しい欲求を抑えることができませんでした。

(その直前に、近所で鳴いていた、ちゃびに似た茶トラの男の子の赤ちゃんをやっと保護したのに、その子がパルボにかかっていて、17日間の入院の甲斐なく看とることになったという、思い出すのも胸が潰れる経験がありました。)

死んでしまった「ちび」と同じ名前をつけて、この子を誰よりも大切にかわいがろうと、自分の部屋に連れて帰って来たのは7月24日でした。

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信じられないような美少女だったちゃび。
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それからちゃびは私の一番の宝もので、ちゃびにまさるものは何ひとつなくて、20年以上一緒に、ものすごく密に生きてきました。

いつでも、ちゃびがいつか先に死んでしまうことを思うと、とてもそんなことは1秒だって考え続けられなくて、頭がおかしくなりそうだった。

ちゃびがいなくなることがあまりにも苦しくて、頭がおかしくなって、今はまだおかしいまま、混乱したままです。

肋骨の真ん中とみぞおちが殴打されるような痛みに、吐きそうになって号泣してしまう。夜も苦しくて眠れない。

まだふっくらしていていつも一緒に寝ていた去年(2016年)のちゃび。

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眠る時、私のあごの下に頭をうずめてはゴロゴロ言っていた。(2016年10月16日)
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夜中に眼を覚ましたら、じっと私の顔を見ていたちゃび。(2016年12月23日)
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とにかくいつも私にべったりくっついて離れなかったちゃび。
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(2016年12月24日)
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私がPCを使っている時、いつも私のひざ(太もも)の上に乗っかってきたちゃび。

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私が仕事すると必ず邪魔したちゃび。本をつくるために整理中のスケッチブックの上に乗って、仕事よりも自分にかまって、とアピール。いつもすごく甘えっ子でご機嫌だったちゃび。
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去年の暮れ(当時19歳)はまだまだすごく元気でした。
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今年の8月くらいから、ちゃびは胃腸の具合が悪くなり、病院でも原因がわからないまま、私はできることはすべてしようと思った。

日々、激変するちゃびの体調を見ながら、必死で介護してきました。

亡くなる日の前日は、それ以前よりずっと調子がよく、快復傾向にあると信じていました。

まだちゃびがいないことをとても受け止められません。

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2017年10月18日 (水)

母と祖母と父と妹のこと

10月10日

親友が以前から言っていた通り、私の家族は、「並外れて自分のことしか考えない人格異常の人間と、並外れて情に厚い人間の組み合わせ」だ。

ギャンブル依存、浪費依存で、いつも無責任で、祖母(父の養母)と母に甘えきり、祖母と母と私を死ぬほど苦しめた父。、私に対しては、おそらくかわいくて、思い通りにならなくてからみながら虐待し続けた父。

その父をどこまでも見捨てなかった愛情深く忍耐強い私の祖母と母。

祖母を最後まで強く愛した母と私。

父に似て甘ったれな性格で、なんらかの不全感によって、現実を逆に歪めてしまった(おそらく現在は依存性の精神疾患)の妹。

私は家族によって、ものすごくきれいだと感じるものや、あったかくて切ないものと、

同時に熔けた鉛を体内に流し込まれたような震えが止まらない怒り、目の前が真っ暗になる感覚、声(言葉)が出ない悔しさ、全身がビリビリと痛む中で死ぬ気で頭を回転させなければならない切羽詰まった状態に幾度も直面させられた。

それら全部を、身体が満タンになっても、さらに否応なく注ぎ込まれ、刻み込まれてきた。

あまりにアンビバレントで、ぐちゃぐちゃだ。

よく精神的におかしくならなかったと思う。

父は自分の実の両親を知らない。

そのことがどれだけ淋しく虚しいことか、(それとも、それほど大きなことではないのか)私には想像できない。その頃の時代の状況、本人の個別の状況、本人の解釈、本人の資質、感性が影響しあっているものだと思う。

当時の状況をよく知らない私が言うのは僭越だが、父よりずっとたいへんな苦労や悲しい思いをした人、たとえば戦争孤児などもたくさんいたのではないかと思う。

明治の頃に生まれた私の祖母(父の養母)はとても情に厚く、人を恨まず羨まず、太陽のように明るい、男気溢れる魅力的な人だった。私からみたら、足を棒にして探してもなかなかいないような、素敵な人だったと思う。

祖母は福島の大きな造り酒屋のお嬢さんだったらしいが、2歳の時に実母が亡くなって、継母に家を追い出され、東京に出て来たらしい。祖母が亡くなった時、母は「おばあちゃんは実のお母さんの愛情を知らずに、たいへんな苦労をして、かわいそうだったと思う。」と激しく泣いていた。

祖母は19歳の時、最初の結婚。生まれた(赤ちゃんでもはっきりわかるほどの美少女)喜知子ちゃんは2歳で、夫も時を同じく若くして、二人とも結核で死去。

そのあと(私の祖父と)二度目の結婚。そして私の父を養子にもらった。

私の祖母は、「絶対にこれから先、なにも詮索しないで」という条件で生まれたばかりの父をもらったそうだ。

なんでも父の父親が若くして急死したそうで、それでいいところのお嬢様っだった父の母親が、父を養子に出して実家に戻ったのだそうだ。

それは私が18歳くらいの時に母から聞いた話で、今、思えば、なんで祖母の頭がしっかりしている時に、その話を直接祖母に詳しく聞かなかったのだろう、と悔やまれる。だが、その時の私は大好きな祖母と私の血のつながりがないことが死ぬほどショックで、聞けなかった。

そのことを知らないふりをしていたほうが、祖母を傷つけないだろう、私が聞いたらいけない、とその当時の若い私は躊躇してしまった。

私が大好きだった祖母と生まれたばかりの私。

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十二社(じゅうにそう。今の西新宿)の料亭の黒塀の前で。当時の十二社は、どこもかしこも料亭だらけで、三味線の音が聞こえていた。戦後すぐに建った、今は朽ちてボロボロの木造の私の実家は、私が生まれる前に祖父が買ったもので、料亭Fの離れだったと聞いている。

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十二社熊野神社での祖母と私。

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熊野神社にて。私(向かって左)と幼馴染みのユキちゃん。

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十二社の大きな池のほとりでの私。「十二社池の下(じゅうにそういけのした)」というバス停は今も残っている。

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十二社の料亭の黒塀の前で。幼稚園くらいの私。母が余り布で縫ってくれたワンピース。生まれた時から小学校6年までは頭をバリカンで刈られていた。

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母と祖母が、(世間でよく言われる嫁姑関係のように)諍いをしたり、お互いの悪口を言ったのを私は見たことも聞いたこともない。

母はよく「うちのおばあちゃんは、「当たり」よ。私は幸せ。おばあちゃんみたいないい人はどこにもいない。」と私に言っていた。

母とお祖母ちゃんと生まれたばかりのどん(何代めかの猫)がこたつにいる、私の一番当たり前だった情景(私が18歳くらいの頃?)。今はみんなもうこの世にいないことが信じられない。

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祖母の晩年は、母がすごく情をこめて介護をした。入院中の祖母に、かいがいしく動き回る母を見た病院の関係者が「いいわねえ。娘さん?」と聞いた時、祖母は「いえ、娘じゃなくて嫁なんですよ。とてもいい嫁です。」と言っていた。嬉しそうに目を細めいた祖母の顔を私は忘れない。

そんないい人(私の祖母)に赤の他人にもかかわらず情をかけて育ててもらって、父はものすごい幸運だと思うのだが、どうして父があそこまで芯が弱いのか、私にはわからない。

祖母は人格的に立派過ぎて(たいへん苦労した人だがそれを跳ね返すほど明るく)、私の父はひどく弱くて、強い祖母に対して、だらしなく甘えたい欲求(実際は酷い裏切り)が抑えられなかった、ということだ。

・・

父は17歳くらいから肺結核になり、その数年後に片肺と肋骨を手術で失くした。

結核の薬代をきちんと渡していたのに、そのお金で病院に行かずに本を買いまくっていた、と(私が小学生の頃)祖母から聞いた記憶がある。

最初の夫と愛娘をあっけなく結核で亡くした祖母が、次に養子にもらった子(私の父)が、またも10代で結核になり死にかかった時、どれほど辛い思いをしたのか、想像すると胸が苦しい。どんなことをしてでも父を死なせたくないと必死になっただろう。

父が21歳くらいで手術で片肺を失くしたあと、母が25歳くらい?の時、父と出会ったらしい。、田舎から出て来た母は、ドレメの洋裁学校を出て、神田か御茶ノ水のあたりで働いていたようだ。

(母が最期に入れてもらえたのが御茶ノ水近くの病院だったことを、私はご縁だとありがたく思った。母が死にかかっている時、父と母がかつて一緒に見たであろう美しいニコライ堂を雨の日に私は見に行って、母が苦しくないようにどうかお願いします、とただ祈った。)

ろくでなしの父が、情が厚くて働き者で献身的な母を直観的に見つけてつかまえたのが、すごいな、と思う。

父に欠けているもの、まさにその正反対のものを持っていた母を、よくぞ見つけた。さすがに父は頭がいいだけあって、うまいことやったね、と。

母は田舎から出てくるときに、母の父が勝手に決めた地元の大工さんと一緒に東京に出されたそうだ。その話を、認知症がだいぶ進んで話ができなくなっていた時、ロングステイに送るタクシーの中で、いきなり、ぽろっと母に言われて、私はびっくりした。

そのことを生前の父に確認したら「そう。真夜中、終電の神田のホームだ。かばんひとつ下げて、マサエが来たんだよ。」と言った。

父と一緒になりたいと母が母の父親(私はおそらく会ったことのない祖父)に言った時、ド田舎(柏崎の山奥)のクソ真面目な母の父は、結核で手術したばかりのいつ死ぬかわからない、ろくな仕事にもつけない片肺の男なんて絶対に許さない、と激怒したそうだ。

母は勘当されて、父と祖父(父の養父)と祖母(父の養母)の住む狭いアパートの部屋に転がり込んで、1年後に私が生まれた。私の誕生の1日前に、親は婚姻届けを出した(もちろん式などは無し)。「式も婚姻届けも、忙しくって、そんなことまったく忘れてたのよ。」と母は笑って言っていた。

すごくドラマチックな愛だったのだと思う。

父は頭の回転が速くて、たくさんの本を読んでいた絵も文章も字も、明らかに私より優れていた。そのことは小学生の私にも一瞬でわかった。父の小学生時代の作文は文部大臣賞?関係のなにかを獲って、新聞にも載ったそうだ。

父は高校の成績はひとり抜きん出ていたのに、(養父に)大学にやってもらえなかったことなどを恨みに思っていたみたいだ。

父は、美大時代の私に対して「大学生面しやがって!」と憎しみの眼で言ったことがあった。たぶん、まともな親なら、自分が十分な教育を受けられなかったのをその分、自分の子どもに受けさせてやりたいと思うのが情だと思うが、父は逆なのだ。

父は、実の娘の私を妬んでいた。

私が小学校低学年の頃、父と母が激しい喧嘩をしていた。それこそ、ちゃぶ台の上のものが滅茶苦茶に投げつけられ、ガッチャーンと砕けるような、子供にとっては心臓が縮み上がるような暴力だ。

私も小学生の頃、よく父に殴る蹴るされていた。柔道の技の足払いをかけられて、何度も頭から畳に打ち付けられて脳震盪を起こした。

その繰り返される理不尽な暴力に、胸から腹までビリビリッと激しい電気のような痺れ――直接的な身体感覚としての、激しい痛みのような憎悪が走って、頭がおかしくなりそうだった。その、なんともいいようのない激しい怒りの身体感覚は、私の中に沈殿して固まった。

私は殴る蹴るされていて、母に経済的負担を酷く負わせている父を黙って見つめることがあった。そのたびに父は「なんだ、その反抗的な眼は!」と言って私を殴った。

母に対して、私を指さして「こいつは、おまえの作品だ!おまえの作品そのものだよ!」と怒鳴っていた場面を生々しく覚えている。

父は母や私に邪魔や嫌がらせをしては反応を楽しむようなところがあった。

父は献身的で死ぬほど忍耐強い祖母と母と私を、これでもか、これでもかと酷い目にあわせては、自分を捨てないかを確かめていたのだと思う。

私が幼稚園か小学校の頃、眠っている私の顔をよく父に「逆なで」された。

湿った掌で私のあごから額までべた~と撫でられるのだ。ものすごい生理的不快感、悪寒と怒りで、本当に神経が、頭がおかしくなりそうだった。ぎゃっと飛び起きる私の反応を父は楽しんでいた。

軽く言えばスカートめくりをする幼児と同じ。しかしやられた私の神経はあまりのストレス、あまりの苛々に気が変になりそうだった。

父は私が幼い頃から、なにかと言うと私が真剣に取り組んでいることを嘲笑した。父は私の絵も、文章も、勉強の成績もばかにしてけなした。私を笑って貶めて恥をかかせるようなことばかり言った。

私は、父になにを言われても(傷ついても顔に出さず)ひとことも言い返さずに黙するようになった。黙しながら、いつか父の卑劣さの裏をかく方法を頭をフル回転させて考えていた。

私が父の借金のせいで癌になり、甲状腺と副甲状腺、そのほかたくさんのリンパ節転移を切除した時、父と母は手術室の外で待っていたらしい。私は父が来るとは思っていなかったので驚いた。

シャーレにのった血まみれの腫瘍の塊を主治医に見せられて、その時だけは、父は急に嗚咽して「俺が癌になるならわかるけど、まさか知佐子が・・・。」と言ったらしい。

私はそのことを母に聞いた時「え?(私を癌にした張本人の父が)ほんとに泣いたの?」と聞き返した。

その一瞬だけ、父の胸が痛んだことは本当だと思う。けれど父は私の具合を見に病院に来はしなかったし、私が退院してからも、父のギャンブル依存、浪費依存の精神疾患が治ったわけではない。

私の手術直後もまた、私に対して、ばかみたいな「からかい」しかしてこなかった父だ。

私がはっきり覚えている父が泣いたのは3回だけだと思う。1度目は大きな借金をつくった時、「保険にはいってバイクで死のうと思った(でも死にきれなかった)」と父が言った時。2度目は、(私は見ていないが)摘出された私の癌の腫瘍を見た時。3度目は祖母(父の養母)の棺が家を出る時。

父の虚しさ、自分が甘えたい相手を滅茶苦茶にしなければ気が済まない異常性格の根本は、見捨てられるかもしれない不安だったのか、私にはわからない。

頭もよくて手先も器用なのに、支えてくれるあたたかい家族がいるのに、それをどぶに捨てるクズの生き方をする、父の空虚さが私には理解できない。

・・・

きのう初めて、父の部屋から発掘された、私が今まで知らなかった若い頃(高校生くらい?)の父の写真。(この写真の父以外の人を私は全く知らない)

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私の知らない若い父。

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父がものすごくかわいがっていた犬と父。昔、実家には火事で死んでしまったこの犬の毛皮があった。死んでもこの犬と離れるのが辛すぎて毛皮をとっておいたのだと言っていた。
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どういうシチュエーションなのかまったくわからないが、20歳前後の屈託なく楽しそうな父(後列右から2人目)。この頃、肺結核闘病中?父の肩を抱いているのは外国から来たかたでしょうか。

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柏崎の山奥の野田村で20歳を過ぎた頃の母。集合写真でも一番うしろのほう(最後列右から3人目)に恥ずかしそうに写っている。母の生家のあった場所にいつか行ってみたい。

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たぶん父と出会った頃の母。母は「私は全然美人じゃないから・・」とよく言っていた。母は全然美人ではないが、性格はきれいでした。

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新潟の山奥の村から出て来て、まだ土とススキの丘と花街だった西新宿に住み、たくさんの高層ビルができ、劇的に生まれ変わる新宿を生きて、いい人生だったね。

私が生まれる前の母と父と、私の祖父母(父の養父母)の写真。

晩年の認知症が進んだ母にこの写真を見せて「この人誰だかわかる?」と聞いたら「いい男。一番好きな人。」と言った。

「こいつ悪いやつね~。」と言ったら、母は嬉しそうに(しょうがない人なのよ、とでも言うように)「うふふふ・・・」とすごく久しぶりに笑っていた。私は涙がとめどなく溢れた。
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すごい恋愛して、添い遂げられて幸せだったね。マサエちゃん。

伊勢丹の屋上で綿アメを食べる私の両親。もしかしたら幼稚園くらいの私がシャッターを押したような気がする写真。

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今と変わらずに夢中で野の花を摘んで、ティッシュにくるんで大切に持っている私と、若い頃の父。たぶん私が4、5歳で多摩川に行った帰り。

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すごく美しい体験と、酷く耐えがたい体験がぐちゃぐちゃに入り混じって、ものすごくしんどいのだが、両極端をすべて強烈に記憶して味わい尽くしているから今の私がある。

10月7日

おば(母の弟の奥さん)に電話番号を聞いて、母の田舎(新潟)にいるおじ(母の妹のだんなさん)に何十年かぶりに電話してみたら、80歳代だが、まだすごくしっかりされていて、お話しできたのですごく嬉しかった。

「東京の福山です。」と言ったら「ああ!ごめんください。」と言われる。「ごめんください」は新潟特有の挨拶らしい。

母のことを知っていてくれる人がこの世にいるって、なんてありがたく、気持ちが温かく嬉しくなることなんだろう。

去年、叔母(母の妹)が膵臓がんで亡くなった時、「最後に22日間、入院したんだけど、私がずっと病室に泊まって付き添ったんだよ。」と言われて、涙・・・。

なんという愛情深いおじさん。母がよく「妹のだんなさんは、すっごくいい人。本当にいい人と結婚してよかった。」と言っていた。母の兄弟姉妹の家族が(私の父だけを除いて)、皆、真面目でよい人たちで、そのことがものすごく嬉しくて、泣けた。

私が10歳の頃、新潟市にある叔母、おじの家に母と行った時、まわりは地平線まで緑の田んぼだけで、おじさんが従妹のノリちゃん(おじの息子)と私を、カエルの卵を採りに連れて行ってくれたんですよ、と話した。

「バケツ一杯、カエルの卵が採れて、ものすごく嬉しかった!」と私が言ったら「ははは、そうだっけねえ。」と笑っていた。今は緑も見えない住宅地だそうだ。

母の妹と母はとても仲がよくて、まったく気兼ねなくぽんぽん言い合っていたのを覚えている。(大人になってもずっと仲のいい兄弟姉妹って、なんていいんだろう。)

おじさんは、若い頃、写真が趣味だった。「弥彦山の夕焼けを撮りに、車で連れて行ってもらったのを覚えてます。」と言ったら「あの頃は大きなカメラ持って、あちこち飛び回ってたなあ。」と。

おじさんは家にある母と母の妹の写真をいくつか送ってくれると言った。ありがたい。すごく楽しみだ。

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