悩み

2017年3月19日 (日)

画集の打ち合わせ / 対人ストレス /  最近のちゃび

3月8日

水声社の編集さんと次の画集の打ち合わせ。

新宿3丁目の名曲喫茶らんぶる。広いのに、地下の禁煙席はほぼ満員だった。一階の紫煙が階段を伝ってくるのが難点。

次の本について、私がすごく気にしているのは、紙の質と絵のページ数。希望の紙の見本の本を2冊渡す。こんな触感の紙で、と。B7だけはイヤダ。

紙がすごく高かった場合、絵のページを増やすか、その時点で検討。

とにかくもう一度、絵を増やす方向で全体の構成をやり直してみること。

いろいろわからないことが多くて不安になった。

3月14日

S・YさんとM・Hさんと飲みに行く。

M・Hさんは心理学の専門家で、対人についていろいろアドバイスをもらう。

私が、誰かにものすごく不快な思いをさせられたことをブログに書くと、「絵を描く人は心がきれいって思っている人たちから非難されたりする」と言われたが、別にそんなことはどうだっていい。

その誰かが特定されると、それが事実であっても名誉棄損罪、もしくは侮辱罪に問われるらしい。

そんなことも、まあ私はどうだっていいのだが。

私を道具のように利用して自己愛を充たそうとする人がらされた耐え難く不快な体験をブログに書こうとすると、たいてい危険だと止められる。

私が表現をやる根本のところに関わる問題なので、そこを書かないとなにも表現にならない気がするのだが。

3月15日

高円寺の私の好きな古着屋さんの店主、O・Kさんと話す(私が高円寺を離れられない理由のひとつは素敵な古着屋が多いことだ)。

去年、彼女から購入したビリティスの黒いレースブラウスの釦が、外に着ていく前に取れて無くなってしまったので、適当な釦(私の好きな小さな貝釦)をつけていただいだ。

彼女と話しているとすごく楽て、救われたような感覚があった。

それは、彼女は服をつくって売るクリエイティヴな仕事に携わっているが、アートや絵をやっている人のような異常な自己顕示欲がないからだ。

仕事として望まれたことに対して親切に、ちゃんと応えてくれるだけで、余計な自己主張がない清々しさ。

彼女は背が高くて陶器のような白い肌の、おっとりしてきれいな人だ。

3月16日

久しぶりにGと西永福で食事。

去年、真っ白なユキヤナギで埋もれていた松ノ木グラウンド横を抜け、大宮八幡のへりの暗い道を通って行く。

ハナ動物病院の近くの桜がもう満開だった。

・・・

最近のちゃび。

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朝の自撮り。

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最近のちゃびは、歳をとっているがなんとか元気で、おしゃべりが得意だ。

明け方から朝、何度もトイレに行き、戻って来ては、私のふとんの中にはいりたいとにゃあ、にゃあ。私の耳元でおしゃべり。それでも私が起きないと、私の顔をお手々でぱんぱんと叩く。

朝、私の顔のすぐ前にあるちゃびの顔にちゅっちゅっと口づけると「ぐるにゃあああああ」とゴロゴロ爆裂。
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私の枕にまたがる。
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もうすぐ二十歳。がんばれちゃび。
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2016年8月24日 (水)

花輪和一 子どもの頃に親から受けたストレスと表現

8月22日 台風上陸

台風の激しい嵐が来た。朝、8時に電話のベルがなった。いったい誰だろう?と寝ぼけている私に、書道の先生から「台風が上陸するようなので本日の書道は中止」との連絡だった。

そのあとちゃびを抱いてふとんにくるまって寝た。ごおおお、ざあああという凄く強い雨の音。そのほかの世界の音が静まりきっていた。

雨の冷たさを生々しく感じながらちゃびといた。こんなに激しい雨の音を聞きながら、私はこの世界にちゃびと二匹(ふたり)きりのようだった。

あたたかいちゃびと抱きあって寝ていることをすごく幸せに感じた。激しい嵐の日に、私が必死で守るべきものが生きていること。ちゃびの命の息吹を強く感じながら寝ていた。

・・・

リオオリンピックが終わった。

私が興味があったのは、一番は体操。

私が昔からずっと一貫して興味があるのは、不安と緊張に打ち克つこと、追いつめられたところでの「集中」というもののありかた。

レミオロメンの歌にもあったけれど「目の前の一瞬にすべてを捧げて」ということ、それが実際にはどういうことなのか、いったいどういう境地なのか、どうしたらそうなれるのか(想像することは困難だけれど)、に興味がある。

私が不安と緊張がとても強いほうだからだ。予測する時間を極端に短くして、一瞬ごとに集中することができるのか、どうやればいいのか。

私の一生の大きなテーマのひとつは、不安と緊張と表現、ということなのだな・・・。

世間の評価も、追いつめられた状況も、直前の失敗も、すべて頭から追い出してしまえるほどに、瞬間の、自分のやるべきことに集中する境地。

それと演技のインターバルの、移動などのほんの数分には存分にリラックスする(そうしなければ持たない)。そういう私にはできないことにすごく興味がある。

祝!体操、悲願の団体金メダル。私はナショナリストではない。純粋にすごいもの、一瞬で終わってしまう美しいものへの想像を絶する努力、それと仲間の失敗から負わされる緊張に打ち克つことに魅了されて。

内村航平選手の個人総合金メダル。最終局面までライバルに追いつめられていることがわかっていても、自分の練習どおりの演技に集中できたことの凄みに魅せられた。

ほかにも水泳、卓球、バレーボール、陸上リレーと、非常に見どころが多く、夢中になれたオリンピックだった。

・・・・・

7月26日から5回ほど、断続的に花輪和一と電話で話していた。以下はその5回ほどの会話のほんの一部をかいつまんでまとめた記録。

「夜久弘さんが去年の1月に亡くなっていたこと、知ってた?」と尋ねる。花輪さんは亡くなってだいぶ経ってから聞いた、と言っていた。

私は、つい先日、たまたま、すごく遅ればせながら知って驚いた。マラソンをずっとやってらして、お元気だと思っていたからだ。

夜久さんは物静かで穏やかななかに情熱を秘めたかただった。お会いしたのは、すでに『COMICばく』が休刊していた頃で、夜久さんは、なんの利益もない相手である私にも丁寧に接してくださった。

(その直前に私は、わけ(自分の原稿を見てもらったのではない)あって、何人かのまんがの編集の人に会っていた。当時の有名どころの出版社の年若い編集の態度は、驚くほどに無知で傲慢で、まったく会話が成立しなかった。

夜久さんもそうだが、小学館の山本順也さんのように、すごい人ほど、こちらの気持ちを理解してくださって、それからずっと、信じられないほどよくしてくださった。すごい人ほど私をたすけてくれる、私から見て直観的に無知だと感じる人ほど私をばかにしてかかるという事実は、最初は衝撃だったけれど、そういうものなのだろう。

個人的にたいへんお世話になった、山本順也さんに関しては、あらためて書きたいと思う。)

私を花輪さんに会わせてくださったのは夜久さんだ。夜久さんのおかげがなければ、一生花輪さんと会うことはなかった。

(花輪さんと最初に会った時のことも、いつかちゃんと書こうと思っている。)

花輪さんは、その頃、夜久さんのことを「王貞治に似てるでしょ。」と言っていたのを覚えている。

最初に会った時に、花輪さんは25歳の頃のモノクロ写真を私にくれて、後日、その写真をを夜久さんに見せたら「すごい美男子ですね。」と感心していたことが印象に残っている。

25歳の頃の花輪さんは、長髪で役者のようにはっきりとした甘い顔立ちの美青年だった。誰に似ていたかというと、金城武のような感じだ。

夜久さんの事務所に伺った時、夜久さんの著書の『COMICばくとつげ義春』をくださった。つげ義春さんの奥様、藤原マキさんの本を見せてくださって、マキさんの絵がとても好きだと言ってらした。(私は面識はないが、藤原マキさんも亡くなっていることを最近になって知った。)

一度、夜久さんと花輪さんと3人で会ったことがある。そのあと、電車の中で花輪さんが私に「夜久さんの前で、あんまり、花輪さん、花輪さんって言わないほうがいいよ。夜久さん、さびしそうな顔してたから。」と言ったのを覚えている。

そのことを電話で言うと、「俺、人の気持ちわかるもん。」と花輪さん。「そうかな。でも女性の気持ちはわかんないよね。」と言うと、「まっっった~くわかんない!」と。

「勤めてた時、好きだった同僚の女性たち(姉妹)に雪玉を投げつけてたんだもんね。」と言うと、「あははは・・・そう。」

またその姉妹がいた会社のあと、25歳の頃に働いていた池袋の会社の社長の奥様が、『刑務所の中』の本が話題になり、TVでとりあげられていたのを見て、数十年ぶりに手紙をくれたことなどの話を聞いた。

「手紙になんて書いてあったの?」と聞くと、「あの頃は変な子だったよねって。」と。

それから、「最近はどう?お母さんに対する恨みは薄れてきた?」と聞くと、「ぜんっぜん、かわらず。」ということだ。

花輪さんに、私がこのような内面の苦しみの話を聞くのは興味本位からではない。私自身も父親に虐待されて育ったため、親から受けたストレスで萎縮してしまった心からどう立ち直るか、そこと、なにかを表現しようとすることや表現されたもの(また、表現されなかったもの)との関連に、常に関心があるからだ。

「ウィキペディアに両親に床下で育てられたとか書いてあったけど、そんなこと、どこかに書いてたっけ?」と言うと、「あはははは、まんがに描いたのかもね~、まあどうでもいいけど。」と笑っていた。

花輪さんから「サイコパスってどういうのを言うの?」と聞かれた。少し言葉に迷ったが「他者の痛みに対する同情心や共感能力がない人。他人や動物の心配とかまったくしなくて、逆に平気で残酷なことをするような無慈悲で冷たい人、かな。」と答えると、「うちの母親、サイコパスかもね。」と言う。

私が「なぐられたりはしてないんでしょ。」と聞くと、「なぐられはしないんだけど、神経が鈍いんだよね~。」と。

花輪さんは、かわいそうなことを見てもなんにも感じないような人、鈍感で濃やかさがない人が嫌いだ。悪気はなくても気持ちが回らない人、情の薄い人が嫌いだ。

田舎に帰った時、飼っていた犬の顔に、血を吸って大豆ほどの大きさになったダニがぼこぼこたかっているのを見て、どうしてこんなにかわいそうなことをして放っておくのか、と呆れたという。そういうところが母親は「粗くて鈍いんだよね~。なんでかわいそうってわかんないのかな~。」と言う。

「実のお母さんも義父も鈍くて、どうして花輪さんは動物に対する愛情が持てるようになったの?鈍い親に育てられた子供は感受性が影響されて、同じように鈍くなることもあるのじゃないの?」と聞くと、「そういうのはあると思うけど、なんでかそうはなんなかった。」と言う。

花輪さんが36歳の時にお母さんは亡くなった。

「15歳で家を出てから、ずっとお母さんを恨んでいた?」と聞くと、「恨むとか、わからなかった。自分がなんか苦しくても、なんで苦しいのかわからなかったから。」と言う。

「なんか、田舎は嫌~な感じなんだけどね。なんだかわかんないんだよね。それが普通だって思ってたから。」

花輪さんは自分がさびしいとか、愛情不足で充たされていないとか全然意識できず、「誰でもみんなこんなもんだろうと思っていた。ほかの人たちの家を知らないから。これが普通って思ってた。」と言う。

花輪さんの母親は花輪さんを抱き締めたり、撫でたりすることはなく「スキンシップはゼロ!」。心配したり、優しい言葉をかけたりすることもなかった。そして花輪さんのほうも、常に母親や義父に対する怯えと遠慮があって、なにひとつ甘えることができなかったそうだ。

「川で泳いで、耳に水がはいって、耳から膿が出るようになって、痛くても、医者に連れて行ってなんて言えなかったもん。」と言う。

「自分の苦しさを友だちには話せなかったの?」と聞くと、「話すような友達もいなかったし、話すという発想がなかった。」と。

「好きな絵を描くのも、義父が親戚の家に泊まりに行ってる日だけ。いたら怖くて描けないからさ~。チラシの裏に描いてた。」と言う。

「学校の先生に見せたらよかったんじゃない?」と言うと、「学校の先生に見せるなんて発想がないから。たいしてうまい絵でもないしさ。」

母親が死んで10年経ってから、やっと少しずつ自分自身の感情がわかってきたのだそうだ。

「すごいストレスを受け続けて、それが当たり前になっていると、自分の感情や状況判断が混乱するって言うよね。」

私がそう言うと、「そう、混乱してて、なにがなんだかわかんなかった。ばかだよね~。」と花輪さん。

また、私が「お母さんが生きているうちに、すごくさびしかった、傷つけられたって本人に言えてたらよかったんだよね。」と言うと、

「そうなんだよね。生きてるうちに恨みをはらしておけばよかったんだけどさ~。」と。

東京に出てきて、池袋からお茶の水のレモン画翠まで歩いて、聖橋の隣の橋(昌平橋?)の上から景色を眺めながら、「こんなに苦しくてさびしいのに、どうしてみんな生きてるんだろう、と思った。」と言う。

花輪さんは東京に出てきてから、自分の家とはまったく違ういろんな育ち方をした人がいることを初めて知ったそうだ。「親に仕送りしてもらって大学に行ってるなんて人がいてさ~、本当にびっくりした!世の中にはそんな人がいるのかっ!?て。」と言う。

「今、思えばね、母親は自分がいることが嫌だった、不安だったと思うんだよね。再婚したのに死んだ前夫の亡霊が近くにいるんだからさ。俺は母親に捨てられてたんだよね。」

「世の中には、何度も再婚して父親が違う兄弟どうしでも、仲良くてうまくいってる家族もあるんだけどね。」と私が言うと、

「それは親が成熟してたんだろうね。親がおかしいと子供は一生引きずるよね。」と花輪さん。

確かに親が歪んでいると子供は犠牲になり、どんなに歳をとっても子供の頃にすりこまれたこと、それでできた性格はなかなか変われないかもしれない。変わるためには意識的な努力がいる。

親からちやほやされていた子供は他人を怖がることなく、自分はほめられて当然と思っている。恥ずかしいという意識が低い。親から否定されて育った子供は自己評価が低くなる。私は父親からなぐる蹴るされていたので、どうしても対人緊張が強い。

「そういうのは歳とっても一生変われないよね。」と花輪さん。「でも福山さんは対人緊張があるように見えないけど。」と花輪さんは言う。

私は他人が怖いから無理する時がある。私とは逆に、まったく対人緊張がなくえんえん自分のことばかり話してくる人、そうした自分の態度についてわずかにも躊躇がない人がものすごく辛い、ストレスで倒れそうになる、と言ったら、

花輪さんが「そういう長くしゃべる人も異常なんだよねえ。聞くのは30分が限度、いや30分も絶対無理だよね。」と言った。

それから花輪さんの知人のことを聞かせてくれた。その知人は、自分のことばかり長く話す人に対して「お前、自分のことばかり、さっきからいったい何分しゃべってんのかわかってんのか?聞いてるほうはものすごく嫌で苦痛だってわかってんのか?いい加減にしろ!」と激怒して言い放ち、言われた人はその場を去って行ったという。その様子を花輪さんは目の前で見たそうだ。

「そう言えるのはすごいね。だけど私にはそういうのは怖くてできない。」と言ったら、「福山さんは人を見る目はあるのに、はっきり言えないよね。」と言われた。

(そう、私はものすごく嫌なことも、その瞬間には言えない傾向がある。たぶん私がACでHSPだから。そのせいでルサンチマンがたまる。その対応を考えなくては、と思っている。)

花輪さんがいつも言うのは、「鈍い人にはきつく言っても相手は感じない。だから思いっきりはっきり言っていい」ということだ。本当にそうだろうか。自分のふるまいが称賛されて、または許されて当然と思い込んでいる人は、否定されたら怒るのではないか。

「金持ち自慢、グルメ自慢とかする人ね、そういう人は家がよっぽどひどい問題抱えてるとかね、すごい劣等感とかあるんだろうね~、そういうのがないと自慢しないでしょう。そういう人たちもいつかひどい目にあいますよ。」と花輪さんは言う。

「そうかな~、鈍い人は気に病まないから楽しく長生きするんじゃない?他人や動物のこと心配しすぎたり、傷ついたり、優しすぎたりする人は疲れ果てて病気になるんじゃないの?そういうのが世の中の常でしょ。」と言うと、

「それでも、絶対、神経が鈍い人はひどい死に方しますよ!」と言う。花輪さんは因果応報を信じているそうだ。

私は業や輪廻というものをそこまで信じられないのだけど。ただの言葉ではなく、花輪さんの声で、花輪さんに言われると、なぐさめられる感じがする。

昔、私が「がんで死ぬかもしれない。怖い。」と言った時、花輪さんは「でも福山さんてすごく強運でしょう。だからだいじょうぶですよ。」と言ってくれた。花輪さんに「強運」と言われた時、悲観的で気に病みやすい私はその言葉を信じることができた。

「昔、サイン会でファンの人が来ると、怖くて嫌で、「も~お、なんでくるの?!」って思ってたと言ってたのは、最近はなおってきた?」と聞くと「やっぱり嫌だけどね。なんでだかはわからない。」と言う。「なんかお返ししなきゃならないみたいな気がして。」つまり気疲れがひどいということなのだろう。

「花輪大明神とか、あがめられる感じは?」と聞くと、「すごく嫌。だってありえないでしょ~。普通に花輪さんて言えばいいのにさ、そういうふうに言うのは、ばかにしてるんだよね。まあ、相手にしないけどね。そういうこと言う人とは関わりになりたくないっていうか。」という答えだ。

花輪さんに対して距離感がなく、失礼な態度をとるファンが多いということなのかもしれない。ファンなら作家本人の気持ちを尊重してほしいということだ。

花輪さんは最近は外で声をかけられたりすることもない、「隠れているのでいい」と言っていた。

ちなみに、昔、薄野の銀行に行った直後、「花輪さん!久しぶり!」と声をかけられたという。知らない人だったのに「ラーメン屋で会った」と言われ、ポケットからクリップでとめた札束(100万円くらい)を見せられた。競馬だか競輪だかでアタッチャッタ~!と上機嫌で、情報を教えると言われたので、興味がないから、と断ったそうだ。

「なんでおれの名前知ってたのかな~と思って。銀行で伝票を書いてるところをのぞき見されたんじゃないかな。それ、昔のことね。それから何年も経って、新宿でさ、まったく同じ手口でまた声かけられたんだよね~。」と言っていた。

食べ物の話になって、果物では、冬は林檎、「夏は深紅に熟れたソルダムが最高でしょ!」と言っていた。だいたい毎日タマネギや長ネギは食べているそうだ。「タマネギを薄く切ってさ、サバの缶詰と合わせるとうまいよ。」

そういえば昔、うちに来た時に、花輪さんが駅前の果物屋さんでドリアンを見つけ、好奇心から買って来て、私はその特徴的な香りにまったく食べられなくて、全部花輪さんに食べてもらったことがあったことをふと思い出した。その時も花輪さんは「うまいよ~」と食べていたな。

私の部屋で一緒に絵を描いた時の花輪和一さん。この時、銀箔の貼り方を教えた。2002年1月4日の写真があったので貼ってみました。

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一緒に野川にスケッチに行って、たまたま出会った猫たちをかわいがる花輪和一さん。

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私が「肉を食べないって書くだけで絡んでくる人もいるから怖い。」と言うと、「肉ばかり食うとがんになるよって言ってやれば。」と言われた。

「私が肉食をしないのは動物を殺すのが嫌だからで、健康のためではない、だから病気にならないために、ということは言いたくない。」と言うと「そう思えることがすごいよねえ。」と言われた。

山のほうはなんの花が咲いているの?という質問には「最近、山のほうに行ってないんだよね。ダニがいるから。前に首の後ろが痒いな、と思ったら大きいのがくっついてて腫れてたから。」と。

花輪さんが自分の庭で育てたトマトがもうそろそろ赤く熟れて収穫時だそうだ。

・・・・

花輪さんもそうだが、私が惹かれるのはいつも高い集中力と独自の表現力がありつつ、人間関係において政治的なところがない人だ。

花輪さんは自分の固有の苦しみの体験を生々しく描きこそすれ、他人の苦しみの体験を収奪して自分のお手柄にしようとは決してしない。つまり欺瞞的なところや卑劣さがない。

365日、私の頭を一瞬も離れないことは、ものを見ること、表現されたものの価値、同時にまた表現することの価値についてだ。「自信がない」と言いながら、すごいものをつくる人に興味がある。

私自身、どんなに集中してなにかをつくっても、こんなものではまだ全然足りない、自信がないと思ってしまう。

私がすごく惹かれる人はいつも、みずみずしい感受性、すごい才能を持っていて、それでかつ生き難さに苦しんでいる人、世間一般がお仕着せてくる価値観の暴力に苦しむ人だ。

その逆の、私から見てたいした才能がないのに自己肥大していて鈍い人、自信満々で自分の言動に不安を抱かない人には強い嫌悪感を抱いてしまう。

私が今まで知っている限り、才能を持っているのに自己評価が低く、生き難さに苦しんでいる人は、幼少期に親の愛情が少なかったり、虐待されていた傾向があり、さびしさや悔しさを知っている。

幼少期の不安感は、非常に憂鬱、鋭敏で濃密な感受性と、与えられなかったものを激しく希求するような性格をつくる。そこからいかに自由になるのか、どう闘うのかをいつも考えている。

・・・・

最近、私は毎日、たまたま見つけたGさんとCさんのブログを読んでいる。

ふたりとも私より年下の女性で、共通点は情緒的に未熟な酷い親に育てられ、うつ病になるくらい酷いストレスを受けていたことだ。Gさんはがんになった。Cさんは性暴力を受けた。

二人とも非常に頭がよく、感受性が鋭くてものを見る目がある、私から見てとても魅力のある女性。Gさんは濃い感受性と芸術的才能がある。Cさんは社会的考察が鋭く、批判能力がある。

二人とも正直で気取りがなく(むしろはらはらするほど自己開示していて)、欺瞞的なところがない。

私自身は幼い頃からずっと感受性過敏で悩んでいる。すごく美しいものも、すごく嫌なものも、どちらも強烈に自分の中にはいってきて、その体験が強く鮮明に記憶に残り、嫌なことは強烈なトラウマとなる。嫌なものにだけバリアを張ることは難しい(この性質はGさんとそっくりだ。)。

Gさんと私はほぼまちがいなくHSP( Highly Sensitive Person )だ。かつAC(Adult Children)。Gさんが痛々しくて(性格は似ているけど私の方が強いから)、私は彼女に連絡した。私は他人のブログを読んでメッセージを送ったのは初めてだ。

私の表現はどういう価値を目指すのか、ずっと考え続けている。

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2015年5月 9日 (土)

皮膚の荒れ、顔の湿疹、「ものもらい」

最近の体調不良のまとめ。

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もう2か月も前の3月のこと、なぜか唇の皮が薄くなって、赤く腫れあがってしまった。

唇の荒れがひどいが、治らないはずはないと思って、リップクリームを塗って気にしないことにしていた。

ところがそれが1か月経っても、2か月経っても治らなくて、どんどん酷くなり、口の周りの皮膚が荒れてカサカサになり、ヒルドイドを塗ってもピリピリ痛いし、唇は濃い口紅をつけたような真っ赤な色になってしまった。

5月1日に遅ればせながら皮膚科に行った。プロパデルム軟膏とワセリンを処方された。「一か月も治らなければ自力では治らない。我慢しすぎ。こんなになったらヒルドイドも沁みるでしょう。」と言われた。

さらに、その日の夕方から頬に、真っ赤な痒い湿疹が一気に出てきた。

さらにさらに5月3日に、最近違和感があった右目にものもらいができてしまい、ドラッグストアで「アイリス抗菌目薬使い切り」を買ってさしはじめた。

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3月19日から1週間ほど熱が出て(咳はなし)、タイレノールを毎日3回飲んでいたらいったん治った。

4月23日から急に高熱が出、咽喉と頭の痛みと吐き気。その後、咳が止まらなくなり、ドラッグストアで「一番安い総合風邪薬ください」と言って出してもらった「新カンボーエース顆粒」というのを1週間ほど飲んでいた。

これも、今年にはいってから、他人からの考えられないような迷惑行為により過剰にストレスをかけられることがあり、本当に悩んで、ずっとあっちこっちと奔走していたせいだ。人の弱みにつけこんで陥れようとする卑劣な人間にも遭遇し、ストレスはマックスになった。

(ただ、この厄災のせいで、否応なく、私が今まで会ったことのなかった世界の人たちと会う機会が持て、何人かの魅力的な人とも会うことができた。いろんな人と会いながら、頭が良くて問題解決能力があって、相手を穏やかにする対話能力のある人とはどんな人なのか考えていた。)

私の場合、精神的ストレスが顕著に身体に出る。こんなに暖かくなったのに本格的な風邪をひいたのは、ストレスでずっと夜も眠れなかったせいだと思う。

やっと風邪が治って来た、と感じた頃に「ものもらい」もできた。やはり体力も免疫も落ちていたのだろう。

私はもともとアレルギー体質ではないが、皮膚が異様に薄くてかぶれやすく、日光に当たると湿疹が出る。

ずっと解熱剤を飲んでいたところに、短い時間だがすっぴんで日に当たってしまったので、てきめんに薬疹が出てしまったみたいだ。

5月8日

顔の湿疹と「ものもらい」は、ほとんどよくなってきた。久しぶりに治療院へ。

「連休、どこかに行きましたか?」と聞かれ、「昼間はまったく外に出なかった。夜に中野の天婦羅屋さんに行ったくらい。」と応えたら、

「福山さん、油はだいじょうぶ(食べられる)なんですか?」と言われた。

以前にもほかの人に同じことを聞かれたが、私が「動物愛のために肉を一切食べない」と言うと、なぜか植物油まで食べないと思い込む人がいるのが不思議だ。私はダイエットやマクロビに興味ないのだけれど。

そのあとに「お肉もおいしいんですけどねえ。」と言われ、ああ、これっぽっちも話が伝わらないんだな、と毎度のことだがちょっとイラっとした。

そう言えば2か月くらい体重を量っていなかったな、と思いTANITAの体重計に乗ってみたらびっくり。

42.8kg。熱があった時だけは小食気味だったが、それでもピザや天婦羅やお寿司やカレーを食べまくっていたのに、体重が落ちていた。そういえばジーパンがゆるい。

とりあえず、栄養補給に、きのうの手作りカレー(私は市販のカレールーはラードや肉エキスがはいっているため食べられないので、カレースパイスパウダーといろいろな野菜で手作りカレーを作っている)の残りと胚芽パンとチーズを食べた。

5月6日

顔の湿疹、まだ赤い部分もあるが、だいぶよくなってきたので、母に会いにKへ。ずっと風邪で、母にうつったら危険なので面会に行けなかったので久しぶり。

夕食とプリン完食。えごま油を持参して少々混ぜて食べさせた。

図書館で借りた古い歌のCDを聞かせた。

施設は生花の持ち込み禁止なので、母に見せるために春の花(ひなぎく、すみれ、しろつめくさ)の手作りコサージュをつけて行った。最近、ストレス解消に布花作りを始め、山ほど布花ができてしまっている。

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連休にはどこにも遠出しなかったが、近所の小さいお店が詰まった細い路地を、夜歩くだけで楽しい。

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5月4日

顔が赤く腫れ、眼は「ものもらい」が痛くて、微熱あり。それでも、きのうよりは少しよくなっている状態。

きのう、抗菌目薬を5回さして、ビタミンBやLシステインを飲んで眠ったら、「ものもらい」は、きのうほどの痛みはなくなってきた。

マスクをすると顔が痛いので、ワセリンでべたべたのすっぴんのまま、夜、買い物に行っている。

5月3日

顔のかぶれがかゆい。使い捨てマスクが皮膚に触れると痛くてたまらないのだが、顔がすごくかぶれているので、マスクなしでは外に出られなくて困った。

治療院に行くが、うっぷして顔をのせる枕の上に敷いてあるポリエステルの紙がピリピリして、痛くてたまらない。

きょうは体調が悪いので、若い治療士に対する院長のいつものパワハラ的な不快な冗談と、それを大袈裟に笑ってみせる声が、いつも以上に辛かった。

5月1日

H皮膚科へ。

皮膚科に行った時点では、口のまわりが真っ赤に荒れているだけで、頬の痒い湿疹は出ていなかった。

この日の夜、顔に痒い湿疹が出て広がり出したので、プロパデム軟膏を塗り、皮膚の乾いた部分にはプロペト(ワセリン)を塗りまくった。

ちゃびが、ここ3日くらい乾いた「ケヘッ、ケヘッ」という長い咳をしているので、動物病院に相談に行く。カメラに録画しておいた咳をしている映像を見せた。

たぶん気管支炎。熱もないし、食欲もある。咳をして呼吸困難になったりはしないが、ただ体力を消耗するということ。しばらく様子を見ることにして、抗生物質の薬はもらわなかった。

咳の時に撫でたり、さすったりしてあげても、「喜ぶけど、それで咳はとまらない」と言われた。この咳が一時的なもので、またおさまってくれるといいのだが。

「何か食べ物を変えませんでしたか?」と言われ、心当たりはないのだが、4月の初めくらいから腎臓サポートからk/dに変えていたのを、一応また腎サポに戻した。

4月30日

陽射しが眩しいが、顔の皮膚が荒れているので日焼け止めは塗らずに、すっぴんのまま、日傘を差して、さらに黒い上着を頭にかけて歩いた。

西新宿駅から、いつも人気のない地下道を歩き、それからヒルトンホテルの中を通る。

ヒルトンの地下階の廊下のギャラリーに、最近、西洋の芸術家と日本の名筆の「筆跡」をテーマにした展示があるのが興味深くて、いつも見ている。

カミーユ・クローデルの書いた手紙の文字が展示されている。「パリの芸術家協会への推薦はたいへんありがたいのですが、私にはその会費を払う余裕がありませんので辞退させていただきます」というような内容の、美しい文字。

狂気や激しさの部分が話題にされがちだが、このカミーユの筆跡の線は静かで、慎ましくて、正直で、詩的だ。写真のカミーユの眼は、求めるような淋しそうな淡い色だが、硬質な知性の光を放っている。白いレースの衿の繊細さが胸に残る。

私の知る絵を描く人たちは、たいてい字もその人の絵に似ていて、とても魅力がある。要は見た目のバランス感覚の問題だからだろう。絵の才能があって悪筆な人をあまり知らない。

ホテルから地上に出たところ。中央公園の新緑がまぶしい。

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新宿から十二社(じゅうにそう)へと下る中央公園の脇の坂。小さい頃からなじんだ大好きな欅並木の道。
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都庁からもすぐの都心なのだが、いつもあまり人がいない静かな木陰。まわりにお店もほとんどなく、この素っ気ない感じが好きだ。
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きょうは家の耐震検査で工務店の人が来てくれた。

一級建築士のI・S。長髪で役者(遠い昔のジュリーみたいな甘~い)顔の、とてもおっとりした人だったので驚いた。

強い日差しではなかったが、玄関の屋根を見る時に私も屋根の上に出たので、少し日に当たってしまった(これが翌日の日光湿疹の原因に)。

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2015年4月13日 (月)

ちゃび(便秘) /  ストレスの日々

4月8日

冷たいみぞれが降る。

ちゃび、朝、元気に「にゃあ!にゃあ!」昨晩のカリカリ、全部食べてあった。

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O・Kさんと会って話す。若くてやせていて、人当たりが柔らかい人。正直で親切。

4月7日

朝、ちゃび、軟便。きのうデキストリンをやりすぎたらしい。

でもその後は元気で腎臓サポート食べる。珍しくウエットを食べずにカリカリばかり食べる。

・・・

今、私の身辺は慌ただしく、あまりにも余計な苦悩が多い。私の生活は全く安穏としていない。

紹介されてYに会う。まったく信頼できる人物ではないと感じた。初対面で、こんなにストレスを与えてくる人と会ったのは初めて。Yには、かすかにも相手の立場や気持ちに寄り添うところがない。

4月3日

S社のA社長に会う。2時間半も話していた。落ち着いた人。

4月2日

朝、トイレに7cm、4cmの太くてよいうんこが!

ちゃび、昼12時頃からドーナツ座布団でぱっつんぱっつん足踏みし、久しぶりにゴロにゃあ!ゴロにゃあ!と上機嫌爆発。

抱きかかえてお腹や胸をさすって「ちゃび!」と呼ぶと、「ぐるにゃあ!」「ちゃび!」「ぐるにゃあ!」とげんきいっぱいに何回もお返事する。

3月23日に「ゴロ爆」してからずっとゴロゴロ言わない日が続き、25日に便秘がちになってからは、「ちゃび!」と呼んでも答えてくれないほど大人しくなってしまっていたので、すごく心配していた。

便秘のせいなのか、いつもよりふらふらしていて、絵の具棚の上にもうまく飛び乗れなくて落ちたりもしていた。

「ちゃび日誌」を確認すると3月19、20、21、22、23日とうんこが小粒のしか出てなく、24日のにど~ん!と10cmの太いうんこが出、25、26、27、28日とまた小粒に。

28日に動物病院に輸液を買い行った時に相談すると、「便秘したら食欲はなくなるし、吐くからまずい。出なかったら連れて来てください。指で出します。」と言われ、それはそうとうちゃびにはストレスだろうと思い、必死になって看病した。

毎日、腎サポのほかに、デキストリン(を通常より多めに)、ミヤリサン、無塩昆布粉、亜麻仁油を少々ウエットに混ぜ、レンジアレンをかけて食べさせた。朝晩アカルディをオブラートにくるんで飲ませる時に、ぬるま湯にガスターとデキストリンを解かして飲ませた。それと優しくおなかのマッサージ。

29日に5cm、4cmの2回、30日に5.5cm、2cm。

そして31日の朝に病院に連れていくべきか迷い悩んでいたが、その日の午後に5cm、夜には7cm(極太)、10cmの3回もうんこをした!

きのう4月1日にはデキストリンの量が多すぎてやや下痢気味になってしまったのだが、きょうはよいうんこをして食欲もお返事も復活!デキストリンとミヤリサンの量を調整することによって、お腹の調子がよくなったようだ。

ちなみに、以前に真夜中から夜明けに走り回ったり、私の紙類をやたらに噛み千切ってうるさくしていて、快作先生に「認知症かも」と言われていた症状は、3月10日くらいからなぜかすっとおさまった。

4月1日

飯田橋へ。筑土八幡神社の石段に桜が散っていて、石段の途中にしなやかな黒猫がいた。

帰りにもその前を通ったので石段を上ってみた。強い風がさわ~っと吹いてきて、長い時間、地面に着かないような、すごい花吹雪が舞った。

3月31日

ちゃびを病院に連れて行くか迷っていたが、午後からいっぱいうんこをしてくれたので苦しかった胸が少しほっとした。

3月30日

「サラ秋田白神のパン」という白神山地の秋田側で発見された野生の酵母「白神こだま酵母」で発酵して、しかも小麦、砂糖、塩も国産、レーズンは有機栽培の材料を使っているパンがある。

「白神こだま酵母」は強力な発酵力を持つので、内麦でもしっとりと弾力のあるパンができるそうだ。

私が、なるべく国内産小麦のパンを食べたいと思う理由は、昔、見た危険な食品に関するVTRで、輸入小麦に大量の殺虫剤の粉を混ぜている映像を見たからだ(内麦以外は必ず殺虫剤は混ぜているとのこと)。

(ちなみに葡萄は最も農薬を使う果物のひとつだから、それを干したレーズンの農薬含有量はすごいと思う。)

数年前にブログにも書いたが、以前、吉祥寺の駅ビルの中に「ピーターラビットベーカリー」という名の、サラのパンのお店がはいっていて、白いはちみつパンや、ビアトリクス・ポターの絵のかわいい缶にはいったクッキーなどを売っていた。たまに吉祥寺に行った帰りには、ちょうど夕方パンが割引になる時間で、よく買って帰っていた。

その、ちょっと童話っぽいお店に、絵本に出てくる妖精そのままの小さくてかわいい男の子の店員さんがいたのが印象に残っていた。

あのお店がなくなって残念、と思っていたのだが・・・

今週、食べ物のチラシを見ていて、びっくり!

「サラ秋田白神のパン」特集ページに、あの妖精の人がパンを持った写真が載っていた!

「(株)秋田白神のサンダース成(じょう)さん」と書いてある。10年も前にサラのパンを売っていた人が、しっかり今も売っていた。名前から、やはりハーフの人らしい・・・・。

八王子にサラのパン工場があり、袋に詰め放題で販売しているらしいので、機会があったら行ってみたい。

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2015年2月15日 (日)

介護施設への苦情

2月14日

駅に着いてから線路の反対側へ階段を降りて少し歩いた。いつもホームから見ていたセイタカアワダチソウの小さな群れの枯れた状態を見たかったからだ。

母の施設へ。

夕食を介助。傾眠が強かったが、夕食と「極みプリン」完食。

先日、施設に苦情の電話を入れてから初めての訪問。5時半頃に着いたので、とくに相談員さんたちと会うことはなかった。

・・・・・・

2月8日に母のいる施設に電話。ケアマネのKさんに、施設から私への電話連絡の際に、相談員Tさんからはしないでほしい、と伝えた。

理由は、Tの話し方が、思いやりや配慮が欠落していて、私には耐え難いからだ。「他の利用者の家族は何も不快感を感じないのかもしれないが、私は傷つく」ということ、「Tさんの話し方はなおらないと思うので、私への電話連絡は他の人にかえてほしい」とはっきり伝えた。

こういう苦情は、利用者本人(母)がいじめられるかもしれない、などの不安から、家族は言いたいことがあっても飲み込んでしまうことが多いと思う。

それと、私の感覚が少数派すぎるのかもしれない、我慢すべきレベルのことなのかもしれない、と悩んで、在宅ケアマネだったMさんにも前に相談してあった。Mさんは「利用者が言いたいことを言うのはあたりまえ」「言いたいことは言ったほうがいい」とアドバイスをくれたので感謝している。

「もうTさんとは話したくないです」と施設に伝えよう、と決めたのは、つい先日、Tから私に電話があり、母のベッドの下についているセンサーをはずしたいが、いいか、という問い合わせがあったのがきっかけだ。

「センサーの数が足りないんですか?」と尋ねたら、「そうじゃなくて、もう(母が)動かなくなっちゃったからあ。必要ないものをやってても仕方ないんで。」と言われた。

母がもう死にそうで動かないからセンサーは無駄、ということなのだろうか?

Tには、具合が悪い私の母に対するいたわりの感情もないし、家族(私)が母を心配しているという感情にも関心がないのか、と思う。

私は母と一緒に住んでいないのでセンサーが必要なのかは判断できないのだが、なぜ、老いて具合が悪い利用者(母)に対してまったく尊重しない言い方で、利用者の家族(私)に、わざわざ電話できいてくるのだろうか。

今回に限らず、この1年半、Tの態度はずっと私には耐えがたかった。

Tと最初に話したのは、2013年の8月、まだ母が今の施設にはいれる前、先行きの不安で押し潰されそうになりながら母がはいれるところを捜して必死に動いていた時だ。

施設にお願いの電話を入れた時に、「規則なのでお答えできません。わかりません。」という答えを4回繰り返し言われた時から、私は失望と落胆とともにTに嫌悪感を抱いた。Tはマニュアル通りの言動をしているつもりなのだろうが、苦境にいる家族に対して、もう少し言い方がありそうなものだ。

その時は、このTがいる施設は怖いな、と施設全体に不信感を抱いた(実際、今お世話になっていて、現場のヘルパーさんたちはとてもよくやってくれているので、感謝しているが)。

区内のほかの施設に面接に行った時は、そこの相談員さんの対応は非常に温かかった。「もちろん規則による順番になるが、どうなるかはわからない、4年、5年待つと言うことはないと思う、そんなには待ちませんよ」と言われた。

この相談員さんの言葉で、私はたいへん助けられ、諦めて母を遠くの施設に入れるという決断をしないですんだ。とても感謝している。

今まで、母が都心の施設にはいれたことはものすごい幸運なのだから我慢しようと思っていて、私の気の持ちようだと思おうと努力していた。が、Tの態度と、それに対する私の感受性は、この1年半ずっと変わらなかった。

以前、母の夕食の介助に行っていた時、廊下の椅子で利用者の高齢の女性が具合が悪そうになっていて、まわりの職員がばたばたと動いていた時があった。「救急車を呼んで!」「家族が来れないと言っている」とかの会話が飛び交っていた。 その時、母に食事をとらせながら心配そうに見ていた私に、Tは満面の笑顔で「お騒がせしてすみませんね~っ」と大きく元気に言った。

そういうのが私には、すごく無神経だと思えるのだ。別に騒がしくて迷惑だなんて思っていないのに、人が死にそうな時に満面の笑顔を向けてくれなくていいから、と思う。

Tは「いつも元気で満面のつくり笑顔」をすることが感じいいと思っているらしい。人が死にそうなことには一切何も感じない。

電話したら、ケアマネのKさんからは「言ってくださってありがとうございます。」と言われた。

2時間後、副施設長のIさんから謝罪の電話があった。私の気持ちを理解しての謝罪ではない感じを受けた。

もう何年も前のことだが、ショートステイで母がお世話になっていた時にも、ある職員の言動について、一度副施設長のIさんとお話ししたことがあった。「毎度毎度すみません。」と言われた。

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2015年2月 9日 (月)

ブログについて 「私性」をさらすこと 文学

2月8日

本名と顔をさらしてブログを書くことのリスクと意味を、自分なりに考えている。

最近は、時間が空いた時には、読書と並行して、主に闘病ブログや介護のブログ、猫の介護のブログなどを読んでいる。そこでとても得るものがある。

同時に「文学」の価値について考えている。不特定の他人の目にさらされている、という点において比較可能だ。

こんなにも文章が上手くて、かつ有意義な体験をもとにブログを書き残している人がいるのに、現在の「文学」とは何が違うのか、と。

文芸雑誌をいただくので、最近の若い人の小説を読む機会はあるのだが、面白いと思ったことがない。私が気に入って読んでいる何人かのブログのほうが圧倒的に「面白い」。

何が面白いか。そこには苦しみや困難と向き合うためのヒント、生きるためのヒントと同時に、個人の生き生きとした、時間とともに変動する、また多面性を持って揺れ動く「生」があるからだ。

「公共性」の外延を揺さぶっているのは、もちろん、そうしたブログのほうだ。

ブログを書き、少々だがネットをやることにより、よい出会いもある。

しかし、(本名と顔、曖昧で、ピントがはずれたことしか伝わらないにせよ、なんらかの「私性」をさらすことのリスクからして)当然ながら、嫌なこともある。

私に対して、私の感覚ではあきらかにおかしいとしか思えない人が、私に自分のエゴをぶつけてくることがあとを絶たないので、それが私の一番のストレスになっている。

その人たちに共通する特徴は、自分自身の思い込み、いわば自己愛に没頭していることだ。「心の病」なのかな、と思う。

彼らの中では、意識されていないまでも自分がやっていることが正当化されていて、「正しいこと」「よいこと」「役立つこと」「相手のためにしていること」「素敵な魅力的なこと」「思慮深いこと」になっている。

私に対して、彼らがやってくることは「自分を認めろ」「自分を称賛しろ」「自分を甘えさせろ」ということの強要だ。

彼らは、それを必ず「相手のために」とすり替えてくる。

彼らには相手が真剣に打ち込んでいることがわからない。相手が大切にしているものに、まったく関心がない。自分が相手を軽視して、相手の大切なものを無視し、妨害していることが意識できない。

彼らは相手ではなく、自分の中の葛藤やコンプレックスに関心があるだけで、それを解消する「装置」「道具」として、私をターゲットにしてくる。

相手の気持ちを推し量る能力の「欠落」。または心のどこかではわかっていても、自分のエゴを押さえられないのだろう。それを正直に私が指摘すると、大抵逆上してくるから始末が悪い。

「悪気はない」という人の硬直した頭の鈍さほど恐ろしいものはない。一度や二度、おかしな言動をされたくらいでは、私は相手に指摘することは、まずないから、私が直接はっきり言う時は、そうとう度重なるストレスが積もり積もった時だ。

私は、「良い仕事をしたい」ということしか望みはない。体力も時間もないので、極力やることを選んで、好きな人たちと交流して、出来る限り仕事をしたい。

私の本を買ってくれたり、絵を見てくれる人、私が仕事をすることを応援してくれる人に心から感謝しています。

私が望んでいないことを勝手にやってきて、私の神経をズタズタにする人に仕事を邪魔されることが一番苦痛です。

父が死んでから、これまでの人生が、父に滅茶苦茶にされるがままだったことについて、後悔の念に激しく責め苛まれ、これからは極力自分の人生を大切にしようと思った。

そのためには、自分が理不尽だと思うことをされたら、もう黙って我慢はしたくない、たとえ相手には私の気持ちが理解されなくても、「あなたが私にしてくることは、あなたに悪気はなくても、私には、そういうことは耐え難いストレスです」ということを正直に伝えよう、と決心した。

私はたいてい大人しく見られる。父のような「異常性格者」の暴力に耐えて我慢してきたことが、「長女の忍耐強い性格」をかたちづくってしまい、それが雰囲気に出ているのかと思う。

私は、嫌なことをされ、それが過大なストレスになっても、今まで、すぐにそのことを相手に言葉にすることはなかなかできなかった。

(悪い意味で)理解不能なこと、あまりにも不快なことをされても、むしろ私は相手が何をしたいと思っているのか、その疑問を考えるくせがついている。

しかしその結果、、私のストレスは相手には一向に伝わらない。私が素っ気ない態度をとっても、相手は自分が嫌がられているとは夢にも思わないでエスカレートする、ということの繰り返しだった。

もうこれ以上ストレスをため込んで自分の心身が痛まないように、これは変えるべきだと思う。たとえ相手が逆上しようとも淡々と自分の気持ちを述べたいと思う。

今度、私に大きなストレスを与えた、あきらかにおかしい、としか思えない人たちの例を具体的に書いて行こうと思う。

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2015年1月29日 (木)

父のこと、妹のこと、心境の変化

1月29日

父が死んでからもうひと月が過ぎ、自分自身、多分に心境の変化もあった。

父が死ぬ前と死んだ直後、私の神経は相当まいっていた。

昨年の9月後半に、ちゃびがそれまで普通に食べていた食事を急に食べなくなり、そのときからずっと、あれやこれやと必死で調べて試行錯誤して、いつちゃびが死ぬかもしれない緊張状態が続いてすごく疲れていたせいか、少し鬱気味になっていたのかもしれない。

毎日一緒にいて当たり前だったちゃび、私にとってかわいすぎて、冷静に認識できないほど大きな存在のちゃびが急に死んでしまう、という緊迫感は想像を絶する苦しみだった。

そして父(その時点では父が死ぬまで家族に酷いことをしていたと私は知らなかったので)と母(まだ存命)ももうすぐ死んでしまうという恐怖。

この恐怖はうまく言い表せない。私が彼らに依存しているからではない。そうではなくて、私がまだ物心つかない昔、どういうふうに彼らが生きていて、何を考えていたのか、聞いておくべきだったという苦い後悔に襲われてものすごく苦しんだ。

私の本性として、自分が生まれる前の時代のこと、自分が小さかった時代のこと、人々がどんな暮らしをして何を切望していたのかを知りたい、それを書き留めたいという欲求が激しくあり、それにしては結局日々をなんとなく無駄にしていた自分を責めていた。

日々がものすごい速さで過ぎて行っているし、人はどんどん年老いていっているのに、それをちゃんと受け止めずに無駄に過ごしていた自分に後悔していた。

私の『反絵、触れる、けだもののフラボン』に関して、私が尊敬する兄様姉様方の書いてくださった書評を友人が送ってくれたのだが、私自身の神経が疲弊しきっていたせいか、不思議なことに、本当に全然嬉しさが湧いてこなくて、ただただ申し訳なくて、自分が恥ずかしくて、消え入りたいような気持ちだけが切実だった。

こういうのが「鬱」というのだろうか?

私が尊敬していて信頼している私の好きな人たちが私の本について書いてくださっている、それは恐ろしくありがたいことだ、と頭では理解しているし、事実こんなにありがたいことは今喜んでおかなければ私の一生でこの先はもうないような気がする、と頭ではしっかり認識できているのだが、なぜか自分の心が浮き立つことがなかった。

なぜか自分が書いたものを自分が書いたと認めることができなくて、それに自分が価値を認めることができなかった。

心が浮き立たないこと自体が失礼ではないか、とさらに自分を責める状態。

私がずっとまともに絵を描けていない、全然よい仕事ができていないという自責の念があり、こんな私に対して、よい仕事をしている方々が何かを書いてくれるということの申し訳なさ、恥ずかしさが一気に押し寄せてきたような感じだった。

そして父の死の直後、(父が異常なことは昔からわかっていたが、さらに)父が隠していた異常な悪事の証拠を発見し、強烈な自責の念でうなされるようになってしまった。

それから二週間くらいは、毎晩、苦しい夢を見て、汗びっしょりで眼が覚めた。私がしっかりしていないせいで母を守りきれなかったという後悔で、身体ががちがちになって、首、肩、腰が痛んだ。

・・・

そして今はどうかというと、その時の自分の感情(脳の状態?)とは明らかに違う。

首、肩、腰が痛いのは相変わらずで、タイレノールを(一日に1錠から2錠)飲んでいるが・・・。

今は自分が、非常に乏しく貧しいものではあるが仕事をしてきて、それに対して何かを書いてくださる人がいるということがとても嬉しく、ありがたく、それだけで生きていけるように思えるように変化してきた。

抑うつ状態の時は、頭で理解していても実感として幸福感がわいてこなくて、どうしようもなく苦しかったのだが、今の私の感覚では、素晴らしい魅力的な人たちと知り合えている、そしてどんな状況に陥っても助けてくれる親友がいる、そのことは本当に幸せなことだと強く感じられるようになってきている。

どうして気持ちが落ち着いてきたのか記憶をたどってみると・・・

12月29日、鈴木創士さんがお優しいメールをくださったのに、素直に感受できなかった(すみません<(_ _)><(_ _)><(_  _)>)。父の非道さに動揺していて、父への憎悪と母への申し訳なさで心が滅茶苦茶に収集つかなくなっていた。

1月3日に水沢勉さんからお優しいメールをいただいたのに、父の悪事を阻止できなかった自分に責任があると思い、まだ混乱していた<(_  _)>。

そして教育者のT先生からのメールにあった 「そういう、虚言癖や盗癖、自分をかばったりよく見せる嘘、他人のせいにする癖など、」「 これらはある種の障害なのではないかという思いが強くなりました。」という言葉に、救われたような気がした(これに関してはあくまで私と私の家族に関して、あてはまると私が思ったので、私の家族以外のかたたちについてもそうだとは思いません)。

つまり 私がどんなに真面目に尽くしたり、苦しんだりしても家族の異常さが治るわけではないということ。その酷さは「性格」がおかしいと考えるべきではなく、「病理」「障害」「中毒」と考えるべきだと今は思う。

1月8日に詩人の斎藤恵子さんがくださったメールの中の「これまでお母様も貴女も暴力、金銭的苦労によく耐えてこられたと思います。どれほど我慢されたことか!でも自分がバカだったとは思わないでください。」「「死んでくれてよかった」このことばをどうぞ繰り返してください。」という言葉(この部分だけだと語弊があるが、長い文の中からの一部引用です)が身にしみてありがたかった。

精神疾患と思われる妹について、「心の病は本当に難しく、ただ貴女が巻き込まれることもなく」「貴女自身の無事を祈るばかりです」という言葉に、少し気持ちが楽になった。

父が依存症(中毒)で、家族をどんなに地獄に落としても、私をがんにしようと家族の金を盗むのをやめられない極悪人だったとしても、父が死んでくれた今は、もう私が父のせいで滅茶苦茶になるほど苦しむべきではない、ということ。

そして妹が父のように依存的な性格で、自分のだらしなさからきている不幸を母や私のせいにしようとも、私が妹に巻き込まれるべきではないということ。

・・・

過去を振り返ってみると、妹は、買ったばかりの私の服をよく盗んだりしていた。買ったばかりなのにどうして?どこにいったの?と私がたんすの中や、ありとあらゆるところを捜しまわっていても知らないふりで、「ほんとに知らない?」と聞くと、「知らない」の一点張り。

そして、子供を産んだばかりの妹の家に行くと、アルバムに、私の捜していた服を着て子供と笑っている妹の姿の写真があったこともある。「何、これ?」と私が血相を変えても、妹は{あはははは。」とへらへら笑っていて返してくれない。結局、私が泣く泣く諦めるしかない、そういうことの繰り返しだ。

妹が結婚したがっていた人に捨てられた時も、次に付き合った人とトラブルになった時も、電話をかけてきては泣きわめいていた。私がどんなアドバイスをしても聞くわけではなく、ただ延々何時間も同じことを言って、私に甘えたいだけなのだ。

妹はさんざん相手の悪口を言って、いかに自分が被害者かを訴えてくる。それでいて、私が「そんな人と付き合っても未来がないでしょう。もう別れたら。」と言うと、「それは理屈でしょう!心は理屈じゃないでしょう!」とぎゃあ~っと泣きわめく。じゃあ、勝手にしたら、としか言えない。毎日、同じことを繰り返し、こちらはすごいストレスだけがたまる。

今、思えばあの時も妹はアルコールがはいっていたのだと思う。

そうやって問題解決に向けてなんの決断もしないで、うるさく泣きわめいてばかりの人間と誰も付き合いたくないし、だから結局男の人も逃げていく、その繰り返しだ。

そういえば、妹が二十歳すぎで銀行に勤めていた時、酔っぱらって山手線の線路に落ちて、額をかち割って何針か縫ったことがあった(と母から聞いた)。

また、酔っぱらって終電で眠りこけて、高尾駅からうちに電話してきて、両親を高尾までタクシーで迎えに来させたことがあった(これも妹は私には内緒にしていたが母から聞いた)。

(自分ひとりでタクシーで帰ってきて、運転手さんをうちに連れてきて親にお金を払ってもらえばいいのに、なぜわざわざ両親を高尾までタクシーで迎えに行かせるのかわからない。私だったら、そんなお金がもったいないことをするのは耐えられないので、駅員さんに頭を下げて始発まで駅のどこかにいさせてもらうだろう。)

2003年から2010年くらいまで、妹は夫の転勤で海外(アジア)に行っていた。それまでは、私が我慢していたところは大いにあるが、妹とは普通に仲のよい姉妹だった。海外に行って2か月くらいの時には、妹から国際電話があり、いつものようにえんえん愚痴を聞かされた。

妹の帰国がまじかになった頃、母の具合が悪くなってきていたので、妹にメールをした。その時に、母に対して少しの思いやりもない返事がきたので愕然とした。

自分のことについて、「手が震える」とか「子どもの前でいつも、死にたい死にたいと言っている」というような信じられない言葉が書いてあった。今考えると、もしかしたらそれもアルコールの離脱症状なのかもしれないと思う。

海外に行く前は母や私に対する恨み言など言っていなかったのだから、海外暮らしのストレスがきっかけで何か変化があったのだろう、と思うのだが。

アルコール依存症の特徴である「否認」「被害妄想」「振戦」などぴったり妹にあてはまる。まさに病的だ。妹が海外から帰国した時、セラピストに通っていたらしいが、妹は酒を飲んでいることを隠してセラピーを受けていると思う。

冷静に考えて、妹が「自分の不幸が姉(私)のせいだ」というような態度をとっても、そんな理不尽な言動にいちいち耳を傾ける必要はない。本当に関係ないのだ。

・・・

今、私が考えていることは、自分のやるべき仕事に、誰にも邪魔されずに集中したいということだけだ。

鬱になりかかったのも、ここしばらく仕事に集中できていないからだし、父に対する水に流せない恨みも、私の二十歳代の、一番体力も充実して仕事に打ち込みたかった時を父のギャンブルの借金返済のために滅茶苦茶にされ、そのことを父が少しも悪いと思っていなかったからだ。

今は余計なつまらないことで時間を無駄にしたくない、と心底思う。

それと、ずっと私を支え続けてくれる親友のうちのひとりの「あなたは表現者になるしかない運命なんだ」という言葉を思い出していた。

「表現者になる」ということはどういうことか、もちろんはっきりとわかっているわけではない。「運命」というものが絶対だと信じているわけでもない。

ただ、私はこの言葉を、「どんな過酷な運命にたたきのめされても、それでもなにかを表現する行為しか私には残らない」というふうに読み返している。

それは「反時代的」な考え方かもしれないが、表現が鏡面反射のようにそれ自体で自動的に増幅していくのではなく、引き留める傷、その痕跡の奥に、たしかに苦悩し格闘した生があったと感じとらせてくれるものしか、「表現されたもの」としての価値を認めたくはない。このパラドックスが、私と、私の親友たちがともに持っている価値感だと思う。

この理屈で言えば、私自身が心身ともに潰されない限り、不幸は私のハンディにならない。

1月25日

母の施設に行く。

松の内が開けた頃が母の誕生日だったのだが、ちょうどインフルエンザの人が出たということで面会に来ないでほしいとの連絡があり、その日に行けなくて残念だった。

母には父が死んだことを言っていない。

今、母の頭の中には最初に出会った頃の、母曰く「きれいで優しい」父のイメージがあるのが救いだ。

帰りに中野ブロードウエイで古本を買う。いつも60年代~70年代のまんがを買うのだが、この日は探している本がなかった。妹のアルコール依存症が気になっているので、吾妻ひでおの『アル中病棟』と『うつうつひでお日記』を買った。

上村一夫の遺作で大好きな作品『一葉裏日誌』の文庫版があったので買おうとしたが、(廊下の本棚の奥のほうでとりだせなくなっているが)単行本は持っているので、(ものが増えるので)買うのをやめた。後で調べたら、実の娘さんの解説などが興味深そうでやはり買えばよかった。

それから天婦羅屋さんで食事。昭和な感じの飾らないお店で、話したことはないけれど私はここの白髪の店主さん(おじい様)が好きだ。

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ここの天婦羅屋さんのつゆには生姜のすりおろしが少々入っているだけで、大根おろしがはいっていない。私は天婦羅には大根おろしがたっぷりほしいので、必ず「しらすおろし」をたのんで、それでビールを飲みながら天婦羅があがってくるのを待つのが最高です。

下は大好きなめごちの天婦羅(2、3尾で380円!)。淡白ですごくおいしい。

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2015年1月11日 (日)

父のこと 妹のこと (心の病)

1月9日

父がこの10年以上の母の毎月の年金と、母が必死でつましく貯めた預金を盗んで全部ギャンブルで使い果たしていた証拠のファクシミリを妹に送る。

金額は胸が痛すぎて書けない。それだけあれば何年も暮らせるような額と書けばいいのだろうか。

妹は父が大好きなので信じたくないようだ。どうしても事実をねじまげたいようで、なぜか父の本性にショックを受けたのではなく「コロの件で誰も信じられなくなった(まるで私が妹を騙したというような)」という意味不明のメールが来る。

私が学生のころに父がギャンブルで多額の借金をつくった時、母と私が凄絶な苦労をして父の借金を返したこと、それで妹だけはなんの苦労もせずに短大にも行け、妹は就職してからも家に一円も入れていないことが、妹の記憶からはいつのまにか削除されている。

母と私は父に殴る蹴るされていたし、もろに借金を背負わされたので、父に対して敬愛の情を持てるわけもなく、父も自分の本性を知っている私のことはすごく警戒していた。

だから父は妹を甘やかして操った。

父の思惑通り、妹は父にべったりで、妹をかわいがっていた母と私のことはなぜか恨んでいる。

1月6日

暮れも押し迫る12月26日に父が死に、その時は、父は酷い人間だったがかわいそうな人なのだと、感傷的になったりもしていた。

そのあと、家のこたつの下から、そんな感傷など吹っ飛び、ただ吐き気がするようなペラっとした紙が見つかったのが12月29日のことだ。

きょう、新宿の区役所に行き、もろもろ手続きした後で、そのペラの事実を確認に某所へ向かった。

高層ビル群を歩きながら、横殴りの雨にずぶ濡れになった。

西新宿のタワーのひとつの地下で、メリル・デイヴィスに似た細面の、てきぱきとしたUさんの親切により、10年以上前から、徐々に認知症になりかかってきていた母のお金を父が盗んで、賭け事などで使い果たしてしまった証拠を確認した。

29日にペラを見た時の私のショックは、こんなにも一生懸命やって来たのに、父の汚い盗癖を阻止できなかった自分の生ぬるさへの後悔と嫌悪感で、本当に頭がおかしくなりそうだった。

親友は皆、「騙す方が悪いんだ。騙されたほうは悪くない。」と言うが、母を必死で守りたかった自分は、そんな言葉で納得できるものではない。自分の責任だと思う。

そしてきょう、昔から、結局死ぬまで治っていなかった父の病理の、さらに大きな金額の明細を見て、もっと唖然とした。

夕方、心身ともにくたくたになって帰宅。きょうだけで1・5kgやせて、また43kgに戻っていた。

5時すぎに、今までずっとお世話になっている父と母のケアマネさんに電話した。その時に新たな事実を聞いてさらに呆れてしまった。

妹が暮れに酔っぱらって泣きながらケアマネさんに電話して来て「姉はお金のことばかり言う。父はいい人ですよね。父を悪くいうような姉は父の法要になんかきてほしくない。息子と二人だけで法要したい。」と言ったというのだ。

つまり、妹にとっては、あんなにも差額ベッドのことなどで妹をかばって病院と闘った私が「金のことばかり言う人」で、私をがんにして、母の預金を死ぬまで盗んで使い込んでいた父は「いい人」なのだ。もう妹のことを心配することが、ほとほと嫌になった。

・・・

最近、教育関係の人と知り合えて、いろいろメールで会話させていただいているが、その先生の経験からの話で、たいへん説得力のある言葉があった。

要約すると、こういうことだ。

「トラブルや盗み(万引き)、問題行動はどの生徒でも起こりうることだが、問題は繰り返すパターンである。 経験上、このパターンは指導が全く通らない。 また、繰り返すので何度も指導をしないといけないので、その度に指導に対する耐性というか、 自分の防御のスキルがついてしまい、「こう(あやまれば)すれば大丈夫」 「この言葉で許してもらえる」という良くない学習をしてしまうようである。」

「職業柄、たくさんの人を見ているが、教育ではどうにもならない例がある。本人の心の弱さもあるが、それを許してしまう環境要因が改善を妨げてしまう。」

「「悪いことをしても、謝れば許してもらえる」「この人にこう言えばなんとかなる」「悪いことをしても、いいことをすればそれがなかったことになる」「自分は~な人だから、仕方がないのに周りがそれを理解してくれない。なんてひどい奴らだ」生徒指導をしていて、話の中からそういう匂いがしたら、保護者と話さなければと思うのだが、なかなか難しい。」

これらの言葉が、あまりにも納得がいった。つまり盗みの常習とギャンブル依存症には、人を傷つけているという認識すらない。悪いなんて思っていないのだ。ただどういうふうにごまかせばいいか、卑劣な騙しの手口だけを必死に考えているのだ。家族内であれば、それが警察沙汰にならないのなら、なおることなく、えんえん続くのだ。

・・・

そして、私と母はさんざん苦しめられてきた。私は父を許せなくて、小中学生の頃は、よく父に「眼が反抗的だ」と言われて、殴る、蹴るされていた。

廊下に頭を叩きつけられて、本当に眼の奥の暗闇に火花が見えた。

私が21歳の時、父が大きな借金をつくった。その時に母が離婚すればよかったのだが、母が私に言ったのは、「おばあちゃん(父の育ての親)を捨てることはできない」ということ、それと、「父を捨てれば父は野垂れ死にするような人生だろうが、それでは(まだ高1くらいだった)妹がかわいそうだから、離婚しないでがんばる」という言葉だった。

あの時、「私には貫きたい道があるから、これ以上私の人生を父に目茶苦茶にされたくない」と言って、家を出て行けば違った人生があったのだが。

私はそうはできない雰囲気に流されてしまった。家を出ることも許されず、大卒で就職した会社に5時半まで勤め、6時からは原宿の高級喫茶で11時まで働き、帰宅してからは買い取り用のジュエリーデザインを明け方まで書いて、その給料の全額を家に入れた。

まだ元気だった祖母も、そうとうな苦労をして親戚中からお金を借りていたと思う。私と母はそれこそ死に物狂いで働かざるを得なかった。

私が最初に入った会社は手描き友禅を描く工房だった。短大を出た二十歳前の女の子ばかりで、話題と言えば成人式の晴れ着の話や、自分が稼いだお金で海外旅行へ行く話ばかりだった。

華やかでふわふわした女の子たちと同じ仕事部屋の中にいて一緒に仕事をしながら、自分ひとりがまったく別の真っ暗な世界にいる感覚だった。

あの時、家族の中で私しか正社員だった者がいなかったので、私が父のためにサラ金に連れて行かれて判子を押させられたりもした。嫌で嫌でたまらないものをずっしりと負わせられるほとんど息ができなくなる感覚。

・・・

あの時のいつ終わるかわからない悪夢の感覚が、私の「もののみかた」をつくったのは確かだ。

直覚というのか、その時の苦しみと切羽詰った記憶が核になって、自分が夢中になれるものと、まったく良さを感じないもの、むしろ嫌悪するものとがほぼ瞬間的な判断でわかれている。

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父の借金を背負わされたことの多大なストレスによって、私は即、腎臓結石で倒れ、がんにもなったし、とにかく何があっても父の根本的な性格、家族への愛情のなさは変わらなかったので、その後も父とは打ち解けることはできなかったし、表面上は何もなかったように振る舞われても、どう接していいかわからなかった。

母が具合が悪くなってきた時には私がいくら言っても無視して母の介護をしなかった妹が、父が入院した時には、かいがいしく父のために介護をし出したので私は本当にびっくりした。

妹は父が大好きだと言うのだ。父がそうだったように、妹は、いつのまにか完全に心の病になっていた。父がギャンブル依存症なら妹はアルコール依存症だ。

妹は、父の借金のために必死に働いていた母が、子供の時に自分と遊んでくれなかったから恨んでいる、と、いい中年になった今になってから、まったく気が狂ったようなことを言う。

その母に過酷な労働を強いた、まさに元凶の父が失業して家にいて、妹をさんざん甘やかしていたことにコントロールされて、父は遊んでくれたからいい人だと言う。

そして、私が妹を可愛がらなかったから妹は自分自身を愛せない性格になってしまったという。妹は昔、順調だった時には言わなかったような歪んだストーリーを今になって作り上げて私をののしっている。

(昔、妹が短大を出て大手銀行に就職したときは「家族の中で有名企業に就職できたのは自分しかいない」と偉そうに発言していた。母が「あの子はとんでもないことを言う。歪んでる。」と呆れていたのを覚えている。その銀行も2年くらいで離職したのだが、妹は昔から姉である私に対抗意識を持っていて、美大なんか出た姉とは違って自分は優秀なんだと常に言いたがっていた。)

実際は、(アルコールを飲んで際限なくわめき散らす妹に耐えられず)妹の夫が出て行ったので、その不安やさびしさを絶対に認めたくないから、しょっちゅうアルコールを飲んで前後不覚になって、なぜか関係ない私をののしっているのだが。

愛されない理由が自分の性格にあることを認めず、自分の都合のいいように過去を「合理化」すれば、自分が愛されない不安をごまかせるものなのだろうか?

母が施設にはいる前、私が通いで介護している時、少しでも身体に良いものをと、つみれと根菜や芋の煮物をつくって持って行って食べさせたり、風呂をわかして母を入れて身体を洗ったり、手足をマッサージしたりしていた。

その時、少し母の認知症は進んでいたが、時々「なんでこんなに優しくしてくれるの?」と私に言うことがあって、涙がこぼれた。「私は幸せね。M子(妹の名前)ならこんなことしてくれないもの。」とも言っていた。認知にムラがあったが、時折正気になっている時の言葉だった。

その時期、妹は母が寝たきりになっている部屋を無視して、子供を連れて隣の父の部屋に行って、長時間酒を飲んでへべれけになって笑い転げていた。父はまともなことなど一切言わない人間なので、そういう思いやりのないがさつな妹の態度を注意するどころか(父は下戸だが、ほかに相手にしてくれる人がいないので)一緒にTVを見たりしてだらしなく楽しくやっていた。

私は、母がかわいそうだ、母の介護を手伝ってくれ、と何度妹に言ったかしれない。そのたびに妹の態度は異常だった。「私をこれ以上利用する気なら無理だから。」というようなことを言って私に対して怒鳴り散らしてくることが何回もあった。

妹は、ただ自分を甘やかしてくれる人間になつこうとして、それで自己肯定しようとしている。でも妹の歪んだだらしなさをそのまま許容してくれる人間は同じく歪んだ人間しかいない。

私の今の一番の悩みは、妹が私のやることすべてにねたみのような感情を持っていて、異常行動に出ることだ。

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